1.予兆
歯切れの悪い、緊張感が、夜のザールブルグの周囲を覆っていた。
月明かりは青白い炎を掲げるように、煌々と凶暴に照り輝き、夜に目覚める森の動物たちは、
その異様な雰囲気に怯え、身を寄せ合って震えていた。
一方。
地上では、形のない、漆黒の闇よりもなお暗い霧のような「何か」が、ひたひたと近づいて来
ていた。「それ」に気づく街の住人は、まだ、誰もいなかった。秋の夜、街は石畳の一つ一つに
秘やかなざわめきをたくわえ、ゆっくりと眠りについていた。
酒場の喧噪も最早消え失せ、通りには人影もなく、ときおり思い出したかのように、夜風が街
並みを撫でて行った。その夜の甘い吐息の中、誰もが安らかに心地よい夢を見ていた。そう。た
だ一人を除いては。
静寂を破り、今日も錬金術工房に爆発音は響くのである。
「……あああああ、もう! これが最後の素材だったっていうのに! どうしよう……。ねえ、
パレット、銀のペンダントを作って! 至急よ。お願い!」
青い上着を身につけ、榛色の美しい長い髪を無造作に引っ詰め、フードで覆った錬金術師の少
女は、傍らにいた紺妖精さんに向かって叫んだ。名指しをされた妖精さんは、研磨剤をがりがり
とこする手を止め、少女の顔を見た。それから彼女の大きな琥珀色の瞳の下に出来た、どす黒い
クマを見ると、ため息混じりに言った。
「お姉さん……、夜中にそんな大きな声を出すと、イングリドちゃんも、ヘルミーナちゃんも、
目を覚ましちゃうよ?」
少女は肩で大きく息をつくと、パレットに言った。
「大丈夫よ。爆発音でも起きないような子たちなんだから!」
パレットは、やれやれ、といった顔で言った。
「それに、銀のペンダントったって、今は銀がないからすぐには作れないよ?」
少女は、睫毛のびっしりと生えた目の上を乱雑にこすると、また大きくため息をつい
て、言った。
「じゃあ、まずは銀を作って。お願い!」
パレットは、しかしそんな少女の様子を意に介さず、淡々と現状を述べた。
「井戸水を切らしてるよ。それに……、日影石もね?」
少女は、遠くなりそうな意識を必死につかまえると、弱々しく口を開いた。
「じゃあ、もう調合はいいから、レッテン廃坑に採集に行ってちょうだい」
パレットは言った。
「分かったよ。でも、あとほんの五分も磨けば、研磨剤がもう一つ完成するから、その後でいい?」
少女はフードを取ると、髪の毛のほつれを軽く直し、また、それを被った。
「いいわよ……。私は井戸水を汲んでくるから」
*
少女が表に出ると、月が妙に明るかった。
「……おかしいわねえ。今日は新月なのに?」
少女は上空を仰ぎ見た。針のような細い月が、夜空に辛うじて引っかかっている、といった風
情だ。
しかし。
ほとんど満月、いや、それ以上の明るい煌々とした光が、通りの石畳を照らし出しているのだ。
「ま、道が見やすいから、いっか!」
基本的に暢気な少女は、あまりそのことについて深く考えず、歩いて行った。夜風が心地よく
頬を撫でて行く。久しぶりに味わう外の空気が、彼女の胸に染み渡って行った。
目的地の井戸は、いつも彼女が日常雑貨を買い物に来る、ヨーゼフ雑貨屋の隣にある。
澄んだ水をこんこんと沸き出させるその井戸は、この辺り一帯の職人や商店主の生活には欠かせ
ない。共有であるため、決まりで一人一日に一回しか汲めないのだが、少女は優に十日以上、こ
の水を汲んではいなかった。
「たくさん汲んどいたほうがいいかしら? でも……、この前は汲みすぎて持てなくなって、ゲ
ルハルトに工房まで運ぶのを、手伝ってもらうことになっちゃったし。やっぱり、ほどほどにし
とこうっと!」
独り言を言いながら、少女が井戸のところまでやってくると、なんと先客がいた。
煌々と明るい月明かりの下、その男は汲み上げた井戸水で顔を洗っているところであった。予
想外の事態に、少女は思わず立ち止まった。一方、男は洗い終えた顔を上げると少女に気がつき、
驚いたように言った。
「リリーか? ……何やってるんだ、こんな時間に?」
リリー、と呼ばれた少女は慌てて答えた。
「ヴェルナーこそ……、何やってるのよ、こんな時間に」
ヴェルナー、と呼ばれた赤茶色の髪の男は、ひじまでまくり上げていた黒いシャツの袖を直す
と、横に置いてあったリストバンドを袖口に巻き、その革ひもを器用な手つきで締めながら、こ
う言った。
「何って……、商談が長びいちまってな。今、ザールブルグに帰って来たところだ。店に寄って、
品物を置いて来たんだが……。おまえこそ、どうしたんだ?」
この男は、ヨーゼフ雑貨屋の二階に、同じく雑貨屋を開いている。同じく、というには少々無
理があるかもしれない。日常生活に必要なものばかり、手堅く揃えているヨーゼフ雑貨屋と違い、
ヴェルナーの雑貨屋は、およそ生活に必要のなさそうな珍品、名品、いや迷品であふれかえって
いる。その上、店主の気まぐれな性格を反映してか、商品の顔ぶれは常に変動する上、買いつけ
その他で外出する際には、予告なく休業してしまう。もっとも、リリーが頻繁にこの店を訪れる
ようになってからは、休業が少なくなった、と同じく職人通りで製鉄工房の職人をしているカリ
ンは言っていたのだが……。
「えっとね、えっと……、井戸水を材料にね、銀のね、って言っても、銀のペンダントで、えっ
とそれをフレイアの髪飾りにね、シスカさんの依頼品で……」
「おまえ……、ちゃんと言葉をしゃべれよ。……疲れた顔してるな。また無理してるのか?」
ヴェルナーは、あきれた顔でリリーをにらみつけた。もっともこの若き雑貨屋の店主は、常に
人を威嚇するような目つきをしている、と評判である。しかし、そんな彼の様子にたじろぐ様子
も見せず、リリーは言った。
「……無理なんか、してないわよ。それにこの井戸水、ヴェルナーの依頼した小さな台車に使う、
青銅を作るのにも必要なんだからね!」
ヴェルナーは、軽くため息をついた。
「だったら、そういうことは、もっと明るい時間に済ましておけよ? 何だってこう、常に切羽
詰まった仕事の仕方しかできねぇんだ、おまえ?」
リリーはむっとした顔で言い返した。
「分かってるわよ! でも、このくらいやらないと、アカデミーの建設がどんどん遠のいて行っ
ちゃうのよ! どこかの誰かさんみたいに、気まぐれで休業している暇なんか、ないんだから!」
錬金術アカデミーの建設。
それは、リリーや彼女の恩師のドルニエ、それにリリーの弟子の少女たちの悲願である。リリ
ーたちは、錬金術をこのストウ大陸に広めるために、はるばる海を渡ってエル・バドール大陸の
ケントニスからやって来たのだから。
リリーの言葉を聞いて、ヴェルナーは一瞬眉をつり上げた。そして何か言い返そうと口を開い
たが、次の瞬間には思いとどまるようにため息をつくと、こう言った。
「……いいから、水を汲んだらとっとと帰って、少し休め。ひでえ顔してるぞ、おまえ」
「ひどい顔って……、何よ、それ。ヴェルナーみたいに目つきの悪い、悪人面した人に言われた
くないわよ!」
「なっ……、おまえ、なあ……」
あきれ顔のヴェルナーが、それでも水を汲むのを手伝ってやろうと手を伸ばしたその瞬間、
「それ」は井戸の中から突如として、沸き上がって来た。
「それ」は……、形のない、透明な闇であった。
二人が瞬きをする間もなく、「それ」は、むくむくと膨れあがり、あっという間に井戸を飲み
尽くし、さらに周囲の石畳を浸食して行った。
「な、何だ、こいつは……!」
ヴェルナーは、井戸の釣瓶を放り投げて後退りした。リリーは声にならない悲鳴を上げた。
その間隙。
「それ」は一瞬にして上方に吹き上がり、あっという間にザールブルグの上空を覆いつくすと
同時に、今度は下方に向けて無数の触手を伸ばして来た。
「リ、リリー、逃げろ!」
ヴェルナーは怒鳴ったが、「それ」の触手は、計ったようにリリーをめがけて絡みついて来た。
触手は、瞬く間にすさまじい数の触手をリリーの身体に巻きつけ、さっきまで井戸があった場所
のさらに奥に、彼女を引きずり込もうとした。
「きゃあっ! ヴェ、ヴェルナー……!」
リリーは叫んだが、「それ」につかみとられた身体は、すでに半分以上「それ」に覆われ、見
えなくなっていた。
「チッ……、 リリー!」
叫んだヴェルナーは、それから引き離そうと、懸命にリリーの腕を取り、引っ張った。しかし
「それ」の勢いは留まることを知らず、貪欲に二人を飲み込んでいった。
「て、手を放して、ヴェルナー!」
リリーが叫ぶのと、
「いいから手をかせ!」
と、ヴェルナーが叫ぶのと同時に、辺り一面に、白い閃光が走った。
*
ヴェルナーが意識を取り戻すと、そこは、白い大理石が敷き詰められた大広間だった。天井は
非常に高く、天蓋の形をとっていた。目を開けたヴェルナーの視界には、天井にびっしりと描か
れた、星座の絵が飛び込んできた。
「ここは……? そうだ、リリーは……! う、痛っ!」
ヴェルナーが飛び起きると同時に、後頭部に鈍い痛みが走った。彼が頭を押さえてしかめ面を
しながら周りを見回していると、背後から穏やかな声が響いた。
「お気づきですか?」
ヴェルナーがぎょっとして振り返ると、そこには白地に銀糸の縁取りが施されたローブをまと
った、金髪の男が微笑んでいた。
「ア、 アイオロス……?」
ヴェルナーが言うと、男は少し驚いたような顔をした。
「私は……、そのような名前ではありません。さきほど、お連れの錬金術師の女性にも同じ名
前を呼ばれましたが……。失礼は何とぞお許しください。私の名前はパルメニデス。錬金術師
です」
そう言って、パルメニデスは穏やかに微笑んだ。
*
「ヴェルナー、気がついたのね!」
リリーは、ヴェルナーを見て嬉しそうに微笑んだ。
「リリー……、一体全体どうなってるんだ、これは?」
ヴェルナーが狐につままれたような顔で言うと、リリーは、おもむろに傍らにあったティー
カップにお茶をそそぎ、差し出した。
「はい、これ。飲んでみて。おいしいのよ、ここのミスティカティ」
「どうぞお飲みになって下さい、ヴェルナーさん。転送されたばかりで、身体が冷えていらっ
しゃるはずですから」
ここまでヴェルナーを案内して来たパルメニデスも、微笑みながらそう言った。
ここは……、さきほどの大広間から長い廊下を下ったところにある、小さな部屋である。滑
らかな白い壁には、深い青色で、見たこともないような不思議な模様が、まるで意志をもって
蠢いているかのように、生き生きと刻まれている。
「本当においしいんですよ、このお茶」
「飲んでみてください!」
リリーの横で、口々に弟子の少女たちが言った。
たしか、イングリドとヘルミーナだったっけ。ヴェルナーがそんなことを考えながらティーカ
ップを受け取ると、背後から落ち着いた声が響いて来た。
「やあ、ヴェルナー。すまないね。こんなことに巻き込んでしまって」
ヴェルナーが、その声の主の方に向き直ると、リリーの師、ドルニエが静かな微笑みを浮か
べていた。
ヴェルナーは、ドルニエに向かってぎこちなくうなずくと、大きくため息をつき、再びリリ
ーの顔をにらんで言った。
「……おい、リリー。どういうことなのか、何でもいいから、はやく分かるように説明しろ!」
その目つきの悪さは、リリーの弟子の二人の少女をその場に凍りつかせるには、十分であっ
た。しかしリリーは平然とお茶をすすりながら、ヴェルナーに微笑みかけて、こう言った。
「あたしたちも、まだ知らないのよ。ヴェルナーが起きたら説明してくれるって、パルメニデ
スさんが言ったから、こうして待っていたのよ?」
パルメニデスは、そのリリーの言葉を聞いて、にっこりと微笑むと、こう言った。
「そうですね。みなさんがお揃いになったので、これからご説明いたしましょう」
*
「まず、旅の人が、みなさんの世界の時間軸において、今を遡ること18年前に、錬金術をケン
トニスに広めた。錬金術は、約200年ほど昔の古代文明において盛んであったが、旅の人が訪
れた時点までは、失われていた。このことは、ご存じですよね」
パルメニデスがそう言うと、ドルニエは静かにうなずいた。
「そうです。私たちの故郷、ケントニスでは、それ以後、錬金術が大流行しました。元老院では、
この学問の研究と同時に、普及が至上命令であるとの決議がなされました。それによってわれわ
れは、ストウ大陸まで錬金術を広めるため、やって来たのです」
ドルニエが答えると、パルメニデスは満足そうにうなずいた。
「それがあなた方の歴史ですか……。よかった。やはり、間違っていなかった」
微笑むパルメニデスを、ヴェルナーは不愉快そうに見ながら、やおら口を開いた。
「何だよ、持って回ったような言い方はやめてくれ。さっさと、この場所に俺たちが引っ張り込
まれた理由を説明してくれ。……だいたい、ここはどこなんだ?」
パルメニデスは少し悲しげに微笑むと、言った。
「この場所は……、地上に存在してはおりません」
「……おい、たちの悪い冗談はやめとけよ。存在しない場所だあ?」
ヴェルナーがいよいよもって怒りを露わにしながら言うと、パルメニデスは急に、ひどく真面
目な顔をして、こう続けた。
「申し訳ないのですが、あなた方の住んでいたザールブルグは、もはやこの世には存在しないも
のになりつつあります。われわれは多大なる犠牲を払い、歴史の時空間におけるさまざまな可能
性の中から導きの糸をたぐりよせ、あなた方を呼び寄せました。しかし……、われわれのいた世
界が正史として決定づけられてしまったならば、その時点から、あなた方の世界は架空の物語に
なってしまうのです……」
そう言って、パルメニデスは、悲しげに目を伏せた。ドルニエは言った。
「ホリツォントフェルシュメルツング。なるほど……、あの封じられた術を、お使いになられた
のですね?」
パルメニデスはゆっくりとうなずいた。
「そうです……。真の名は違いますが、そのように呼び慣わされている、いにしえの技法です」
ドルニエは、真剣な眼差しでパルメニデスを見た。
「すると、あなたは……」
「はい。この術を身に受けた者。もはやこの時空の狭間の部屋から二度と生きては出られること
のない者。この場所の主にして奴隷、時の番人の役目を負った者です」
パルメニデスは、おごそかに言った。
「何ですか、先生。その、ホリツォント、……なんとかっていうのは?」
リリーが目を大きく見開きながら尋ねると、ドルニエは言った。
「地平の融合、とでも言っておこうか。われわれは通常、歴史的な時間を単一の線上に連なるも
のとして、認識している。しかし、それは、ほんの偶然の集積にすぎない。木の葉が一枚落ちた
だけでも、世界の歴史が変わってしまうことすら、あるのだからね。われわれが生きている時空
間は、実際には、非常に巧妙にしつらえられた歴史の産物なんだ。しかし、通常、人はその一方
向に向かって展開していく自分たちの歴史時間から、離れることはできない。一人の人間が、多
数の歴史的可能性を同時に生きることは不可能だからね。こうした一人一人の歴史時間は、それ
ぞれが確固たる時空間の軸や固有の意味、すなわち地平をもっている。しかし……」
パルメニデスは、ドルニエに続けて言った。
「そうです。現在は過去の過程を引き受けつつ、未来へ向けて創造されていく。個々の歴史的時
間は、それぞれ固有の地平を有しています。しかし今、これが意図的に攪乱されつつあるのです。
したがって、これを誤った因果律のくびきから放ち、適正な方角へと導くために、われわれの歴
史の地平とあなた方の歴史の地平を融合させること、それが、私の使命であり、われわれの同志
たちの悲願なのです」
ドルニエは顔に驚愕の色を浮かべた。
「それでは……、もしや……?」
パルメニデスは、決然と言葉を続けた。
「はい。われわれは、あなた方の歴史が、もっとも適正で、多くの人々にとって幸福である、と
判断いたしました。錬金術は……、私たちの世界では、歪んだ欲望により、エル・バドール大陸
全土を焦土と化してしまったのです。われわれの敵は、さらにみなさま方のストウ大陸に魔手を
伸ばしています。元老院から破門された、ガレノスのことは、ご存じですか、ドルニエさん?」
「彼は……、たしかに一時期元老院の方針に背く研究を行って破門を宣告されたが……。しかし、
その後元老院の評議会において、彼のような優秀な人物を放逐することは非常に惜しまれるとの
判断から懐柔策が採られ、私も及ばずながら説得に協力した結果、ほどなく和解することができ
たのだ。今でも私の良き学兄、よき友だが……。まさか、彼が?」
パルメニデスは、口を大きく横に結ぶと、厳しい目つきでこう言った。
「われわれの世界での彼は、賢者の石を、時空を操ることに利用しました。旅の人がみなさんの
世界のケントニスを訪れるより、さらに遡ること三年前に現れ、もてる邪悪な力で政権を奪取し
てしまったのです。以来、大がかりな錬金術による戦争が頻繁に繰り返され、もはやエル・バド
ールは死の大地と化してしまいました。人々は絶望と恐怖に打ち震えていたのですが……、そこ
に、みなさんが旅の人と呼ぶ、錬金術師が現れました。彼は、言ったのです。“私は時空の狭間
を生きる者である。因果法則をねじ曲げる力がこの歴史の地平に働きかけられている。それを感
受して現れた。私は、最悪の可能性の地平であるこの場所と、至高の可能性の地平である別の場
所の二つに、同時に現れる者である。力を畏れず、力に溺れず、力に抗わず、力により堕落せず、
力に絶望せずにあるものは、私に従え”と。こうして、われわれの世界では、少数の同志たちが、
錬金術の修行を始めました。私も、兄と一緒に錬金術を修めたのです。仲間たちの努力によって、
ようやくガレノスが因果法則をうち破り、ねじ曲げた時空間の様相が明らかになって来ました。
私たちは、これをうち砕き、歴史の地平をもとの最適なものへと融合するために、このいにしえ
に封印された術を用いることを決定したのです」
ヴェルナーは、黙って腕組みをしてドルニエとパルメニデスのやりとりを聞いていたが、突如
として口を開いた。
「ちょっと待ってくれ。おまえのその話は、あまりにも奇想天外で、いきなり言われても信じる
わけにはいかないが……、しかし、実際に俺はここにいるし、あの奇妙な闇のお化けみたいなや
つも見た。あれがその、おまえの魔術だって言うのなら、他に選択肢はない。俺はおまえを信じ
よう。でも、まだちょっと腑に落ちねぇ。おまえたちの魔術は時空を越えられるんだろう? だ
ったら、俺たちを呼び出すような、こんな回りくどいことはせずに、とっととその、ガレノスと
かいうやつが現れるよりさらに昔に行って、そいつを倒せばいいだけじゃないのか?」
パルメニデスはその言葉を聞いて、悲しげに目を伏せた。
「たしかに、おっしゃることはよく分かります。しかし……、この術でもって、それを行うこと
は、不可能ではありませんが、非常に難しいことなのです。端的に申し上げると、時空を横軸に、
つまり平行する可能性の地平を横断することは、強い思念さえあれば可能なのですが……、そう
ではなく、時間軸を縦に、過去に遡って因果法則を断ち切り、歴史を書き換えるためには、多く
の人間の生け贄の血と、憎悪と絶望の念が必要なのです。ガレノスは、過去へ、錬金術が盛んで
あった二百年前のいにしえの文明の世界に行くつもりです。彼の望みは、錬金術の至高の技術を
すべてその手中に納めること。そのためにはどのような手段も講じるつもりでいます。ケントニ
スの街をすべて廃墟へと変えてしまったのも、そのためなのです」
パルメニデスは顔を上げ、ヴェルナーの顔をまっすぐに見ると、きっぱりとした口調でさらに
言った。
「もうすぐ彼の率いる軍勢は、私の世界のザールブルグにも攻め入ることでしょう。私の世界で
は、錬金術はストウ大陸には伝播してはおらず、したがって、ザールブルグにも錬金術は普及し
てはいません。このままでは彼の用いる術に、ザールブルグはなすすべもなく敗北し、壊滅させ
られることでしょう。そうなると、完全にあなた方の歴史も塗り替えられてしまうことになりま
す。あなた方は、因果法則をくつがえすだけの経験則の集積によって、辛うじて存在することが
できています。あなた方は海を渡った。これは歴史の因果法則を大きく変更いたしました。しか
し、私の世界のザールブルグが彼らに飲み込まれてしまったならば……」
ヴェルナーは言った。
「おしまい、か。勝算は……、あるんだろうな? 多勢に無勢じゃ話にならねえ。だいたい、こ
こにおまえ以外の錬金術師の仲間はいねえのか?」
パルメニデスは、ゆっくりと首を横に振った。
「私がこの時空の狭間の場の術を身に負う役割を引き受けた時点で、ケントニスの仲間の錬金術
師は、私と兄の二人だけになってしまっていました。この術には……、二人の人間が必要なので
す。この場を切り開く呪文を唱える者と、その呪文を身に刻み、この場に永遠に埋め込まれ、こ
の場を守る者とが。この場を開く呪文を唱えた者は、その代償として自らの命を捧げねばなりま
せん。その呪文を詠唱したのが……、私の兄でした」
パルメニデスは、静かに言った。
|