地の線、空の色



      
   
   1


 夏の夕方。昼から夜へと光が変わる直前のこの時間、この場所。
 ザールブルグの街外れにある小さな池を目印に、大きな楡の木と、沈みかけた太陽の前をまっ
すぐに横切って緑の丘を登りきると、その景色は開けてくる。
 最初にこの街に来たときに、真っ先に気に入ったのが、この場所だった。
 何でだろう、としばらく考えて、気がついた。似てるんだ、少しだけだけど。オレが育ったヴ
ァイツェン村の外れにあった丘の上から、羊たちの放牧地を見下ろすと、ちょうどこんな風景が
見えた。
 足元には、草の波がざわざわと青臭く揺れ、頭上には……、夜の闇に染まりかけた夕焼け空が
広がっている。息を吸い込むと、街の喧噪が胸に広がっていく。それは仕事を終えて家路につく
人たちや、一日の労をねぎらうために酒場に出向く人たちの入り混じった気配だ。
 でも、そんなにぎやかさとは一線を画して、この場所は静かだ。こんな夕方には誰も来ない。
遊び回っていた子どもたちは、母親に呼ばれて慌てて帰って行ったばかり。壁を点検して回って
いる職人たちも、もちろんいない。オレは草の上に寝っ転がると、軽く目を閉じた。
 ふいに、頭の上から声が響いた。
「ルーウェンじゃない、何寝てるのよ?」
 俺は驚いて起き上がった。目の前には……、丘の下から吹き上がってくる夕風に長い金色の髪
をなびかせて、彼女が立っていた。
「あんたこそ、何やってるんだ、マリー?」
 オレが彼女の名前を呼ぶと、彼女……マルローネは、いきなりオレの隣に、すとん、と腰を下
ろした。
「……探してたのよ、あんたを。ルーウェン」
「何だ? また、護衛の依頼か?」
 オレが尋ねると、彼女は、こくん、とうなずいた。
「ちょっと遠出しなくっちゃならないんだけど、お金がないのよね〜。はぁ〜……。安い賃金で
護衛してくれるのって、あんたくらいしかいないじゃない? ま、この際、少々頼りないのは目
をつぶるわ! ね、暇なんでしょ? あたしと一緒に東の方面まで行ってくれない?」
 オレは言った。
「何だかいろいろ引っかかる言い方だけど……ま、他にすることもないからいいか……。でも、
具体的な目的地って、どこなんだ? いつ出て、何日くらいかかる?」
 マリーは、ふぅっとため息をついた。
「出発は、明後日よ。 場所はね〜……。それが、わっかんないのよね〜……」
 オレは、半ば呆れながら言った。
「何だよ、それ……?」
 マリーはオレの顔を見た。
「細かいことはゴハンでも食べながら、どう? この間、い〜いお店見つけたのよ! ね、
おごってあげるから!」
「何だよ、金がないって言ってたじゃないか?」
 オレが訝しがりながら聞くと、彼女はにっと笑って片目をつぶってみせた。
「ま、あたしにまかせて!」

*


 マリーは、変わった女の子だ。
 黙っていればかなりの美人だと思うのだが、でも黙っていたら、マリーじゃないのは確かだ。
 最初彼女にあったのは、飛翔亭という酒場だった。ここには、オレのような冒険者たちが、護
衛の仕事を探して毎日たむろしている。当然、堅気の若い女の子なんて珍しいから、オレは彼女
が店に入ってきたときから、注目していた。いや、たぶん店中の人間が注目していたような気が
する。しかし、彼女はそんな視線をまったく気にせず、大きな目をくるくる動かしながら、物珍
しそうに店内を見ていた。そうして……オレにぶつかった。
 彼女は、鼻を押さえながら言った。
「ぅあっと、ゴメンナサイ!」
 オレはその様子が面白くて、思わず笑いながらこう言った。
「大丈夫かい、お姉さん? よそ見してるとぶつかるよ。この店狭いから」
 彼女は、慌てたように言った。
「ごめんなさい、こういうところは来たことがなくて。でも恐そうな人じゃなくてよかったわ」
 ……正直な人だな、とオレは思った。しかし、恐そうに見えないっていうか、凄みがないっ
ていうのは、冒険者としては致命的なんだよな。どうしてかっていうと、雇い主はやっぱり、ぱ
っと見で強そうな冒険者を雇いたがるものだから。おかげで、オレはかなり遅くまで店で粘って
いても、一向にお呼びがかからないなんてことは、ざらだった。まいったな、と思いながらオレ
は言った。
「あはは。…オレはルーウェン。ただの冒険者さ」
 彼女は、きょとん、とした顔をした。
「冒険者……?」
 オレは言った。
「そう。宝探しとか怪物退治とか誰かの護衛とかして一攫千金を狙ってる連中のことさ。この酒
場はね、冒険者が親父から仕事をもらうか、街の外に同行してくれる奴を見つけるか、壁の張り
紙を見るとかして情報を得るところなんだ。ただの酒飲みもいるけどさ」
 彼女は、神妙な顔をしてオレの顔を見ている。オレは、さらに言った。
「あんたも街の外に行くことがあったらつき合ってやるぜ。もっとも金次第だけどな。オレ以外
にも冒険者はたくさんいるけど…オレほど護衛費が安い奴は他にいないぜ!」
 彼女はうなずいた。
「今は街の外に行くことはないからいいわ。また今度ね」



   2

                    
 マリーが連れてきたのは、街の通りの外れにある、こじんまりした店だった。
「へ〜、こんなところにこんな店があったのか……?」
 オレが言うと、マリーは何か含んだように笑うと、カウンターの向こうに座っていたおばあさ
んに言った。
「おばあちゃん、ほうれんそうのパイと、オニワライタケとベルグラドいものシチュー、それか
らうにの冷製と、あと黒パンにシャリオチーズとツヴィーベルヴルストつけて……、あっ! そ
の大鍋に入ってるの、アイスバインじゃない! 一本丸ごとちょうだい、一番大きい奴ねッ! 
それから、こっちのゲルプワイン、もらってくわよ!」
 そう言って、マリーはカウンターの脇に積んであったワインを一本手にすると、慣れた手つき
で、陶製のワイングラスを二つ、ひょい、と持ち上げた。
 オレは慌てて言った。
「おいおい……、そんなに頼んで大丈夫なのか、マリー?」
 マリーはケロッとした顔で、たん、たん、とグラスをテーブルの上に置くと言った。
「平気平気! 全部食べられるから!」
 オレは、半ばあきれながら言った。
「いや、そうじゃなくって、金が足りなくならないか?」
 マリーはまた、何やら不敵な笑みを浮かべた。
「いーのいーの! さ、座って、ルーウェン!」
 オレは首をひねりながら、丸いテーブルの横にあった椅子を引くと、腰を下ろした。
「おい、マリー……、あのおばあさん、何だか手つきが怪しくないか……?」
 オレはマリーに言った。カウンターの向こうで料理を皿に盛りつけているおばあさんの手元は、
何だかぶるぶる震えている。マリーはまた、……くすっと笑った。
「んっふっふ……。まあ、大丈夫よ。比較的作り置きのもので出せる料理ばっかり、頼んだしね…
…。このお店はね、あんまり火を使わないで、ささ〜っと、盛りつけだけで出来るものを頼むのが
コツなのよ〜」
 オレは嫌な予感がして、おそるおそるマリーに言った。
「……な、何だよそれ……?」
 マリーはにこにこしながら、すでにワインの瓶を一人で半分開けていた。
「ま、細かいことは気にしない、気にしない! ね、それより、あんたって、遠くから流れて来た
んでしょ?」
 オレはため息をついて、マリーがなみなみとついでくれたグラスを口にした。久しぶりに飲むワ
インは美味かった。急に、腹がきゅぅ、と情けない音をたてた。……考えたらまともに食ったのは、
昨日の昼、飛翔亭のフレアさんに、パンとチーズをごちそうしてもらって以来だ。井戸の水を汲ん
で来てもらったお礼よ、とフレアさんは言っていたが……、たぶん、ここ数日、仕事も無しに、ヴ
ァイスビアー一杯で昼から夜まで延々と粘っているオレを見て、哀れになったんだろう……。
「まあな……。オレは、ここからずいぶんと南に行った、ドムハイト王国との国境沿いの、ヴァイ
ツェン村から来たんだ」
 店のおばあさんが、分厚く切った黒パンとチーズにツヴィーベルヴルスト(挽肉に、タマネギと
塩こしょうを混ぜて味付けをしたやつ。パンに塗るとうまい)、それにシチューを運んできた。手
元が……やっぱり、心許なく震えている。オレは思わず言った。
「だ、大丈夫か、おばあさん……。料理だったら、カウンターのところに置いておいてくれたら、
オレたちで勝手に運ぶぜ?」
 しかし、おばあさんは無言で、よろよろとカウンターの向こうに帰っていってしまった。それを
見ていたマリーは、笑い転げた。
「無駄よ、ルーウェン! そのおばあちゃん、耳が悪いの! 顔を近づけて、口をおっきく動かし
て言ってあげなくっちゃ駄目! あ、おばあちゃん、ゲルプワイン、もう一本もらうわね〜!」
「おい、もう一本空けちまったのか、マリー?」
 あきれながらオレが言うと、マリーは口を尖らせた。
「あんただって、半分飲んだでしょ?」
「まだ一杯しかついでもらってないぜ? ……それもまだ全部飲んでないってのに」
 マリーはにこにこしながら、慣れた手つきで二本目のゲルプワインを空けた。
「ま、いーからいーから、さ、飲んで飲んで、でねっ、ルーウェン!」
 オレは慌ててグラスを差し出すと、マリーに言った。
「な、何だよ……?」
 マリーは、オレのグラスにワインをつぐと、自分のグラスを一気に飲み干し、すぐさまどくどく
と次の分を継ぎ足した。
「サジエスの大樹って、知ってる?」
 オレは、パンにチーズをのせて頬張りながら聞き返した。
「ふぇ(え)?」
 マリーは目の前のほうれんそうのパイを大きくフォークで切り分けると、美味しそうに頬張った。
「……う〜ん、おいしいっ! やっぱり、仕事の後のゴハンは、明日の活力の元よね〜! ルーウ
ェンもこれ、食べてみて! おいしいから〜!」
 オレは無言でふた切れ目のパンをワインで流し込むと、マリーの切り分けてくれたパイを一口頬
張った。……う、うまい。まともに食事をするのが久しぶりなもんだから、体中が総力を挙げて食
べ物を吸収しようと頑張っているのが、自分でも分かる。オレが夢中になって料理をパクついてい
ると、マリーは言った。
「で、知ってるの、知らないの?」
 オレは、またワインで料理を流し込むと、マリーに言った。
「エルフ族の大樹だろ? ……たしか、村の物知りなじいさんが、そんな話をしてたことがあった
っけ……。それが、どうかしたのか?」
 マリーは、その大きな目をキラキラと……正確には、獲物を見つけたときの猟師みたいにギラギ
ラとさせた。
「きゃ〜! やっぱり、本当にあったのね〜! ね、それってどこ? どこどこ? 知ってる、ル
ーウェン?」
 オレはその勢いに気圧されながら、また、パンを流し込んだ。
「……そんなに詳しく知ってるわけじゃないさ。ただ……大ベルグラド平原の奥にある、黒い森の
そのまた奥だって話だぜ。それが……どうかしたのか、マリー?」
 オレが聞くと、マリーは……口元に不敵な笑みを浮かべていた。
「ふっふっふ……。や〜っぱり! あたしがドルニエ先生の書庫で見つけた、あの本の記載は正し
かったんだわ〜。ね、ルーウェン! あたしね、その、サジエスの大樹を見つけたいのよ!」
 オレは驚いて言った。
「何だって!? だって、あれは単なる伝説だろ?」
 マリーは、どん、とテーブルをこぶしでたたいた。
「ち・が・う・わ! いい? ドルニエ先生は、学際都市、ケントニスから来た人なの! で、ケ
ントニスには、神話や伝承はおろか、神様も信仰されていないのよ! も〜、おっそろしく実利的
なことしか信じられていないような場所なの。その、ドルニエ先生が持っていた本に、サジエスの
大樹のことが書かれていたのよ! しかも、同じような伝承がルーウェンの村にもあるなんて〜! 
ねぇ、これって信憑性が高いと思わない?」
 オレは、う〜ん、と言いながら、また、パンを飲み下した。
「ま、いいけどさ。で、マリーは、その大樹を探して、どうするつもりなんだ?」
 マリーは、にっ、と笑って、またワインを飲み干した。
「本よ、本! そのサジエスの大樹の中にはね、エルフの大賢人、サジエスの残した書物が、たっ
っっくさん、詰まっているんですって! それさえ読めば、もう、この世の中の叡智はすべて手に
入れたも同然だって話よ〜! ふっふっふ……、これで、あたしの卒業試験は、もらったも同然よ
ね〜ッ!」
 そう言って、マリーは上機嫌で立ち上がると、またワインを一本、ひょい、とつまみ上げ、おば
あさんに言った。
「おばあちゃ〜ん! またゲルプワイン、もらうわよ〜!」

*


 支払いの時、さすがにオレは青くなった。床にはワインの瓶がごろごろと転がり(八割以上は、
マリーが飲んだものだけど)、空になった皿も山と積まれている。オレは、マリーを肘でかるくこ
づいた。
「……お、おい、マリー! 大丈夫なのか、金は……?」
 マリーは軽くウィンクした。
「大丈夫大丈夫! ね、おばあさん、お代はいくら〜?」
 カウンターの向こう側に座り、居眠りをしていたおばあさんは、ぼんやりと目を開け、こう言っ
た。
「……ありがとうございます……お代は……銀貨五枚でございます……」
 オレは仰天した。
「おい、マリー! ぎ、銀貨五枚って……何かの間違いじゃないのか……ムグッ!?」
 マリーは、オレの口をふさぐと、し〜っ! と言った。それから笑顔でおばあさんに向き直った。
「はいは〜い、おばあちゃん! 銀貨五枚、ねっ、と!」
 その瞬間、おばあさんの後ろの勝手口が、ぎいっと音を立てて開き、中年の男の人が入ってきた。
マリーは顔色を変えた。
「ぅわっ! やっば! 息子さんが来ちゃった! ルーウェン、走るわよ!」
 そう言った瞬間、マリーは踵に火がついたように走り出していた。オレも、慌てて店を走り出た。
         
*


 職人通りまで走ってくると、通りにはもう、人影もなかった。飲食店が建ち並ぶ大通りとは違っ
て、ここいらの住人の夜は早く、ほとんどの家の明かりは消えていた。マリーは職人通りの井戸端
の上に、どたん、と座った。
「ふぇ〜……。あ〜、びっくりした〜……。れも、ここまで来れば、大丈夫らわ〜……」
 オレも立ち止まって、マリーに言った。
「マリー、何なんだよ、さっきの店……。あんた、何かやばいことでもしたのか?」
 マリーはにこにこしながら顔を上げた。
「らんにも〜。た〜だね〜ぇ、あのお店のおばあちゃん、ちょ〜っと、ボケが来ちゃっててね〜。
な〜にをどんらけ、食べても、飲んでも、銀貨五枚って言うろよ〜……」
「後から来た旦那は、誰なんだ?」
 オレが聞くと、マリーは両足をぶらぶらさせながら言った。
「あ〜、あの人〜? あれはね〜ぇ、あのおばあちゃんの息子さんらのよ〜ぉ。あのおじちゃんは
〜ぁ、もう一件、も〜っと大きなお店をやってて〜、主にそっちの店に行ってるんだけど〜、とき
どき、こっちの店の様子も見に来るってわけ〜。もっとも、今日は来るのがいつもよりちょろ〜っ
と早かったから、おっどろいちゃったわ〜」
 そう言って、マリーは、ヒック、としゃっくりをした。
「……おい、マリー……あんた、かなり酔ってるな?」
 オレが言うと、マリーはまた、足をぶらぶらさせながらオレの顔を見た。
「おっかし〜わね〜。いつもじゃこれしき、ぜ〜んぜん、平気らのに〜……。飲んですぐに走った
から、酔っちゃっらかな〜ぁ?」
 そう言って、マリーは、う〜ん、と伸びをした。そのとき、ぐらり、と重心のバランスを崩して、
マリーの身体は、井戸の中に落ちそうになった。
「おっと!」
 慌ててオレが、マリーの上半身を抱きかかえるようにして止めた、そのときだった。
「マルローネさん……!」
 オレの背後で、きつい声が響いた。マリーは、オレの肩越しにその声の主をひょい、と見ると、
口をひん曲げた。
「げ。クライスぅ〜!? あんら、何でここにいるのよ〜?」
 クライス、と呼ばれた青いマントを羽織った男は、ふん、と言ってかけていた眼鏡の位置を直し
た。
「……イングリド先生からの言づけをいただいて、あなたの工房に出向いたのですが……不在のよ
うでしたので。……しかし、まあ、特別試験を目前にして逢い引きとは……さすがはアカデミー史
上最低の問題児の方は、素行も問題児でいらっしゃるようですね?」
 オレは慌てて言った。
「あ、ちょ、ちょっと待ってくれ! オレは別にそんな……今、マリーが酔っぱらって井戸に落ち
そうになったから、助けただけだぜ?」
 クライスは……オレのことをちらりと、しかし一瞬にして頭の天辺からつま先まで、まるで何か
の値踏みをするかのような鋭い目で見た。
「……冒険者、ですか。なるほど……」
 そう言って、口元になにやら含み笑いを浮かべたクライスに、マリーは怒鳴った。
「ら〜に〜よ、クライス! あんた、あたしの友達に何か文句でもあるの!?」
 クライスは、フッ、と笑った。
「いえいえ。いかにも、あなたのような低レベルの方がつるんでいるのに、ふさわしいお友達です
ね?」
 マリーは井戸端から、たん、と立ち上がると、つかつかとクライスに歩み寄った。
「も〜ぉっ! あったまきたわ! あんた、あたしに嫌味言うだけじゃ足りなくて、あたしの友達
まで馬鹿にする気!?」
 そう言って、マリーはクライスに平手打ちをくらわせようとした、瞬間に、クライスはその手を
ひょい、とよけ、マリーはつんのめって石畳の上に転倒した。
「い、いった〜い! もう、馬鹿! よけんじゃらいわよ! この嫌味メガネッ!」
 クライスは、淡々と言った。
「……大分、お酔いになっていらっしゃるようですね、マルローネさん……。やれやれ。明朝一番
に、イングリド先生が研究室にあなたをお呼びになっているというのに……来られますか?」
 マリーは口をへの字に結んだまま、立ち上がった。
「わ〜かったわよ! 話はそれだけ? じゃ、さようなら、クライス!」
 そう言って、マリーはよろよろと歩き出したが、がくん、と膝を落としかけ、今度はクライスの
胸に鼻からぶつかった。クライスはそのマリーの肩をつかむと、大きくため息をついた。
「……帰れますか? 何だったらお送りしますよ? あなたに万が一のことがあったら、私の飛び
級もフイになりますしね……?」
 マリーは、クライスの手を振りほどいた。
「か・え・れ・る・わ・よッ! いいから、放っておいて!」
 オレは、慌てて二人の間に割って入った。
「……クライス、とかいったっけ? ま、今日のところは、マリーはオレが工房まで送って行くか
らさ、心配しなくても大丈夫だよ?」
 マリーはクライスの顔をにらみつけて、こう言った。
「とにかく! あんたの手なんか借りらくないのぉ〜! いいから帰って、クライス!」
 クライスは、大きくため息をつくと、オレの顔を見た。
「……そう、ですか。それでは、マルローネさんを頼みましたよ、えっと……あなたのお名前は?」
 オレはクライスに言った。
「オレはルーウェン。ま、見ての通り、冒険者だ。マリーには、ちょくちょく雇ってもらっててね」
 クライスは……心なしか肩を落とすようにしてうなずくと、踵を返してアカデミーの方角に帰っ
て行った。その後ろ姿に向かって、マリーは、思いっきりあかんべえをした。



   3


 翌日もいい天気だった。オレは午前中に武器の手入れを済ませると、ぶらぶらとザールブルグの
街中を散歩した。足は、いつの間にか、例の街はずれの丘のところに向いていた。草の上に寝っ転
がると、目の前には、よく澄んだ夏の青空が広がっていた。

 ……空の色は……どこでも同じだな。

 そう思いながら、目を閉じた。目を閉じると……感じるのは草の匂い、城壁に反射する太陽の匂
い、風の感触、顔に映る雲の、涼しげな影。
 でも、違う。目を開けて見回して、ふと、そう思った。ヴァイツェン村の風景と一番違うのは、
草の色合いだ。山間の、オレの村の周りの草花は、もっとずっと、淡い色をしていた。
 たぶん、そのせいだ。
 草の色が夕陽に染まり出す時間しか、懐かしさを覚えない。
 ぼんやり、そんなことを考えていると、故郷の村はずれの風景が、やけにはっきりと脳裏によみ
がえってきた。丘の下にある「国境線」といったって、そんなにはっきりしたものじゃなく、仰々
しいものでもなかった。村の羊飼いの連中は、いつもそんなものは関係なく、そこいらを横断して
いた。「向こう側」の村とも行き来はあったし、だいたい、自分の村がシグザール王国領で、隣の
村がドムハイト王国領だなんて、普段意識したこともなかった(もっとも、村にいたころは、まだ
ほんのガキだったから、余計そうだったのかもしれないけど)。せいぜい、「辺境地の見回り」と
いうことで、聖騎士が数名、ときどき見回りに来るくらいで、それだって半ば観光に来ているみた
いだった。
 でも、オレが生まれる前は、村は辺境の要所ということで、もっと物々しい警備がしかれていた、
と親父はよく言っていた。
「村に端ある塔はな、あれは今じゃ小麦粉の倉庫になっているが、昔は聖騎士がいつも詰めていて、
隣の領土を見張っていた。この村は、シグザール王国領内で、一番ドムハイトに近い。何かあった
ら、真っ先に向こうの軍が攻めてくるのはここだからな。ま、そうなったら、開けた道を下って隣
の村に逃げるよりも、いったん山の中に避難したほうがいい。騎士の連中は、馬で来るからな? 
馬で進軍できる進路を確保したがるもんだ。もし攻めて来たにしたって、連中は、俺たちみたいな
村の人間にはさしたる用事はない。要は、場所が欲しいだけだ。だから、そうなったらはやく逃げ
ろ。騎士は戦って死ぬのが仕事だが、俺たちは生き残るのが仕事だ。生き残って、畑を耕したり、
金物を鍛えたり、道具をこしらえたりするのが仕事だ。分かったな、ルーウェン?」
 親父が言ったとおり、シグザール王国とドムハイト王国が戦争になって、一番最初に交戦の場に
なったのは、オレたちの村だった。親父は、ちょうど出かけていたお袋を探しに行き、オレはいつ
も親父に言われていたとおり、山に逃げた。
「無事に逃げたら、山の反対側にある、炭焼き小屋で落ち合おう! ……しっかり走れよ、ルーウ
ェン!」
 親父にそう怒鳴られて、オレは一人で山道を駆け上った。
 必死に走って山頂について、そこからふと振り返ると、真っ黒い煙が村のほうぼうから上がって
いた。それから、村の端にあった塔の上には、高々と旗が掲げられていた。その旗は……ドムハイ
ト王国の旗だった。

 もう二度と、村には帰れないかもしれない。

 ひどく鮮明に、そう思った。ぼろぼろ涙が出てきたけど、オレは真っ直ぐに炭焼き小屋まで走っ
た。途中何度か転んで、泥だらけになった。いつのまにか、膝も肘も、あっちこっち擦りむけてい
た。それでも、躊躇している暇はなかった。
 炭焼き小屋には、村の人間も何人か避難してきていた。でも、誰もオレの親父やお袋がどうなっ
たのか、知っている人はいなかった。オレはそこで、しばらく木こりの旦那の仕事を手伝いながら
両親が来るのを待ったが、やはり二人は現れなかった。
 一冬が過ぎ、オレは一人でこっそりと村の様子を見に帰った。村は……人っ子一人おらず、ひど
く荒れ果てていた。うちで飼っていた鶏が、やせこけながらミミズをつついているだけで、親父も
お袋も、生活しているような形跡もなかった。
 それからまたしばらくたって、村の知り合いが小屋にやって来た。あのとき、オレたちが山に逃
げ込んですぐ、ドムハイトの騎士たちが、山に向かう道を封鎖してしまったらしい(念のため、背
後からシグザールの聖騎士隊に襲われるのを防ぐ目的だったようだ)。残りの連中は、やむなく山
裾をぐるっと回って、北の方に避難して行ったという。その一団の中には、

「たしか、あんたのご両親もいたはずだよ、ルーウェン?」

 それを聞いて、オレはいてもたってもいられなくなってしまった。木こりの旦那には止められた
けれど、オレはある晩、こっそりと小屋を出た。
 北へ。とにかく北へ。村から村へと渡り歩いたが、両親の消息はつかめなかった。あるとき、護
衛をした年寄りの商人が教えてくれた。
「あんた、村から村へ、しらみつぶしに回るよりは、いっそ王都のザールブルグに行っちゃどうか
ね? あそこには、シグザール王国中の商人や冒険者が集まって来るからね。 あんたのご両親の
ことを知っている人も、見つかるかもしれないし……いずれにしても、冒険者稼業をするにも、腕
を磨くにも、ちょうどいいはずだ」

 こうして、オレはこの街にやって来た。親父たちが死んだとは、どうしても思えなかった。何せ、
オレたちは「生き残るのが仕事」なんだから。



   4


 翌朝、出発の時間にマリーを迎えに工房に行った。工房の前にはマリーがいたが、もう一人……
よく見ると、一昨日の晩、マリーと口喧嘩になったクライスがいた。クライスはマリーの腕を掴ん
だまま、何やらくどくどと言っているらしかった。マリーは、その長い髪を振り乱して、首をぶん
ぶん横に振った。
「だ〜か〜ら〜! 何度言ったら分かるの、クライス! あたしは、別に勉強をサボるわけでも、
特別試験から逃げるわけでもなんでもないの! 錬金術の研究のために、必要な情報を入手する目
的で、出かけてくるだけだって、言ってるでしょう!? ちょっと、もう! いい加減に、その手
を放してよ!」
 クライスは、厳しい口調で言った。
「駄目です! きのう、あれだけイングリド先生に厳重注意されたのを忘れたのですか、マルロー
ネさん! あなたが研究そっちのけで街の外に出かけてばかりで、ろくに試験の準備をしていない
ことについて、先生はずいぶんと心を痛めていらっしゃるのですよ! それでなくても、あなたの
生活態度には問題がありすぎなのですから。……だいたい武闘大会で優勝するとは、何事ですか!
あなたは、騎士でも、賞金稼ぎでも、冒険者でもないんです、知恵と叡智の結集である、アカデミ
ーの在校生で、錬金術師なのですよ! 当分の間、工房に籠もって真面目に研究に勤しむようにと、
あれほど言われたばかりだというのに! あなただって、先生に約束したではないですか! それ
が! その舌の根も乾かないうちに! 外出するとは何事ですか! 今度こそ、放校処分になって
しまいますよ!?」
 マリーは、大声で言い返した。
「もう、いい加減にしてよ、クライス! あんた、性格悪いだけじゃなくって、飲み込みまで悪い
のね!? 何度も言ったでしょう! あたしは、研究に必要だから、外出するの! そんっなに、
自分の飛び級が大事なわけ!? だったら、イングリド先生には、適当に言っておいたらいいだけ
じゃない! そのくらい、朝飯前でしょう! あ〜もう! ルーウェンと約束してる時間になっち
ゃっ……あっ! ルーウェン!」
 マリーはオレに気がついて、クライスに掴まれていない方の手をばたばた振った。
「……や、やあ、マリー……」
 オレが言うと、マリーはクライスの顔をにらんだ。
「ほらっ! 放しなさいよ、クライス! 迎えが来ちゃったじゃないの!」
 クライスは、大きくため息をついた。
「……いい加減、あきらめて下さい、マルローネさん。書物だったら、図書室にもふんだんにある
ではありませんか?」
 マリーは急に、あさっての方角を指さして、素っ頓狂な声をあげた。
「あっ! クライス! あれ見て!」
 クライスは、口元に涼しげな笑みを浮かべた。
「フッ、そのような子どもだましに、このアカデミー首席の私が引っかかるとでも思っているので
すか、マルローネさん……。あなたという人は、どうしてこう、うわああああああっ!」
 オレはクライスの叫び声に驚いて振り返ると、そこには……。
「よう、元気か!」
 ……キノコの傘が思いっきり開いたみたいな頭に、全身白づくめの、腕にひらひらした飾りのつ
いた奇天烈な服を着込み、妙な黒めがねをかけた不振な男が、満面の笑顔を浮かべてそこに立って
いた。男は、ひどく機嫌が良さそうに、マリーに片手を上げて挨拶した。さすがのマリーも、額に
脂汗を流しながら男に尋ねた。
「……誰でしたっけ……?」
 男は、にかっ、と口を開いた。
「俺だよ俺! 武器屋の……。前と髪型が違うんで、別人に見えるだろうけどな」
 えぇっ! これが、あの武器屋の親父なのか!? オレは驚愕したが、マリーも青ざめながら親
父の顔を見た。しかし親父は、すこぶる上機嫌そうにこう言った。
「いやあ、やっぱりこの気分は最高だ。思わず服もしゃれ込んじまったぜ。どうだ、似合うか?」
 マリーは、硬直したまま言った。
「え……。ええ、まあ……」
 親父は、これ以上ないほどの満面の笑みを浮かべた。
「そうか! 似合ってるか! おお、そうだ、お礼を持ってきたんだ。受け取ってくれ」
 親父は、そう言って、マリーにじゃらじゃらと銀貨を渡した。
「んじゃ! そういうことだ。ありがとよ!」
 そう言って、歩きかけた親父に、マリーは言った。
「あ、ちょっと待って親父さん! この人が! 親父さんの歌をものすご〜く、聴きたがってるん
ですけど!」
 マリーに思い切り指をさされたクライスは、ぎょっとした顔でマリーを見た。
「マ、マルローネさん!? 私は、そんなことは……」
 武器屋の親父は振り返ると、とても嬉しそうに言った。
「そうかい! 若いの、おまえ、俺様のファンなのか! くぅ〜っ! そうまで言われちゃあ、期
待に答えてやらねぇとな! さ、一緒に来い! リュートの伴奏つきで、日が暮れるまで俺様の喉
を聴かせてやるからよ!」
 クライスは、後退りしながら言った。
「あ、い、いいえっ! けけけ結構です! お忙しいでしょうし……うわあっ!」
 しかし武器屋の親父は、有無を言わせずクライスのマントの襟首をつかみ、歩きだした。
「遠慮すんなって! 特別に曲のリクエストも受けつけるからよ! 何でも言ってくれ!」
 マリーはオレの顔を見た。
「さ、今のうち! 行くわよ、ルーウェン!」
 そう言うがはやいか、マリーは走り出していた。
「あ、マルローネさん! 駄目です! マルローネさ〜ん!」
 クライスが叫ぶ声が響いてきたが、マリーはおかまいなしだった。オレは必死で、そのマリーの
後を追いかけた。錬金術師のくせに……そこいら辺の冒険者より、ずっと走るのが速いんだよな、
マリーは。
 夏の朝は、とくにこういう晴れた朝は、まだ太陽が熱気をおびていなくて、とてもすがすがしい。
これから何かが起きそうな感じで、いつもがやがやと騒いでいるみたいだ。

 城壁の外に出た。ようやく、マリーは止まった。オレは、息を切らせながら、マリーに言った。
「あんたといると、走らされてばっかりだな、オレ……」
 マリーが、振り返った。
 風が……少しだけ、強く吹いた。
 長い金色の髪が膨らみ、風を孕んだ帆布みたいに広がった。
 それと同時に、世界が一瞬、ぐるん、と回転した、ような気がした。
「なぁに? 何か言った、ルーウェン?」
 マリーは、そう言って、オレの顔を見た。
「……何でもない」
 オレが言うと、マリーは笑顔で言った。
「そ? じゃあ、行くわよ!」
 再びマリーは踵を返し、東の方向に向かって早足で歩き出した。 


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