水喰い鳥



      
   
   4

 煌々とランプの明かりがともる下で、ガレノスは、三人の錬金術師の少女たちに説明をしてい
た。
「つまり……、星座盤を使って再度計測したが、やはり、星の動きから言って、間違いないのだ
よ。今年は百年に一度、いにしえの伝承にあるアペニアウティスモスの雛が孵る年に違いない。
この鳥の呼び名は多数ある。別名の一つは、"追放鳥"とも言う。百年の間、卵の姿で眠り、夏の
盛りに孵化し、南に去っていく。この鳥は、面白いことに、成鳥は暑い場所を好むくせに、卵の
間は、とくに、孵化する一ヶ月前は、それほど暑くはない場所の、しかも日の光が差さない場所
に安置されなければならないのだよ。私の計算が確かならば……、このザールブルグは、この鳥
が孵化する気候の、南端ぎりぎりに位置している。この一ヶ月の期間を、いにしえの言葉で、
"アペニアウティスモス"、つまり、"清祓をともなう追放"と呼び、古代では宗教の儀式として信
奉している民族もいたはずだ。現在ではどうか分からないが……、その民族の儀式とは、こうだ。
カッコウの托卵ように、あえて他宗教・他民族の者のところに、事情を知らせずに預けておく。
無事に孵化したら、その鳥は、神の使いとして彼らのもとに帰ってきて、彼らにさらなる百年の
平安を与える、と信じられている。もし、卵が孵らないか、あるいは卵を預かった者によって破
壊でもされたときには……」
 イングリドは、ごくりと唾を飲んで、ガレノスに聞いた。
「どうなっちゃうんですか?」
 ヘルミーナは、イングリドをにらんで言った。
「ちょっと黙っててよ、ヘルミーナ! あなた、黙って人の話を聞けないの?」
 リリーは二人を制して言った。
「ほらほら、二人とも、静かに先生のお話を聞きましょう」
 ガレノスは咳払いをして、きっぱりと言った。
「滅びる」
 今度はヘルミーナが、たまらず聞いた。
「誰がですか?」
 イングリドはヘルミーナをにらみつけた。
「もう! 自分だって!」
 リリーは困り顔で再び二人を制した。
「ほらほら、喧嘩しないの!」
 二人の少女は、お互いの顔をにらみあい、やがて同時に、ふん! と言ってそっぽを向いた。
 ガレノスは困ったように笑うと、口を開いた。
「滅びるのは、その鳥を神の使いと信奉している民族が、だ。そう、彼らに信じられている」
 イングリドが、ぽつりと言った。
「かわいそうですね……」
 ガレノスは苦笑しながら言った。
「まあ、卵が預けられるのは、一カ所ではない。一度に孵る卵は六つか七つほどあるので、全滅
することはないようだ。もっとも、預けた卵がすべて孵らないと、どのみち大いなる災いが起き
ると信じられてはいるようなのだが。しかし、他方この鳥は……、民族によっては、凶鳥として
疎まれてもいるのだよ。やっかいなことに、孵化する前の一ヶ月、この鳥は、まるで百年分の栄
養を取り返そうとするかのように、周囲の養分や水分を吸収するのだ。そう。非常に奇妙なこと
なのだが、この鳥の卵が孵化するとき、かならず周囲の土地の水が干上がってしまう。また、若
くて健康な者には害はないのだが……、病人や老人など、生命力が低下している者も、この鳥の
及ぼす力によって、健康を害してしまうらしい。このため、この鳥を疎んじる人々は、こう呼ん
でいる。"悪魔の卵"、または"水喰い鳥"と」
 リリーは目を丸くして言った。
「それって……!」
 ガレノスはうなずいた。
「そう……。今、ザールブルグ中の井戸が枯れ、原因不明の病に倒れる人々が増えている。患者
の症状も……、まさしくこの卵のせいで起きるものだ。もしこの卵が、この街のどこかに托卵さ
れているとしたら……、この現象に、説明もつくだろう。私の計算では、この鳥は次の満月の夜
に孵化するはずだ。無事に孵化すれば、井戸の水も元に戻るだろう。しかし、その前に、割れた
り、壊れたりてしまったら……、奪われた水は、容易には戻ってこないらしい。そうならぬよう、
丁重に保管せねばならぬ。どこにあるか分かればよいのだが」
 リリーは、スケッチブックと画材を取り出すと、ガレノスに手渡した。
「あの、ガレノス先生、よろしければ、その卵の絵を、描いてみていただけませんか?」
 ガレノスは、微笑んでスケッチブックを受け取った。
「いいとも。その卵は……、こんな、こういう、形を、しているのだよ」
 ガレノスは、さらさらとスケッチブックに絵を描き出した。それを見て、リリーは思った。
 ……変な形……。ハチの巣を、踏みつぶして重ねて、積み上げたみたい。色も……、お鍋にこ
びりついた焦げみたいに汚いし。

 こんな変な形の卵、見たこともないわ。

*


 ガレノスが、ケントニスに帰る日がやって来た。カスターニェ行きの夜馬車が出るのを待ちな
がら、工房でドルニエは、ケントニスの元老院に送るための書状を整理していた。
 満月が、ザールブルグの夜を、明々と照らしていた。
「元老院に渡して欲しいのは、この資料とこの資料と……、それからこれもだ。荷物になってす
まない。向こうについたらくれぐれも、ザールブブルグの錬金術師たちは元気でいると、伝えて
欲しい」
 ドルニエが言うと、ガレノスは言った。
「なんの、これくらいの荷物、君たちのここでの苦労に比べたら、鳥の羽根一枚ほどの重さもな
い。それに、私のこの旅の目的は、表向きはザールブルグの君たちの働きぶりの視察、というこ
とになっているのだからね」
 ドルニエは、それを聞いて、ガレノスの肩を親しみを込めてたたき、こう言った。
「道中の、無事を祈る。本当は港町カスターニェまで送りたいところだが、今、王宮との交渉事
項が多々あって、どうしても時間がとれないのだ」
 ガレノスは、首を横に振った。
「いや、その気遣いだけで十分だ。君は、十二分な働きをしているよ、ドルニエ。友として、兄
として、君を誇りたい。良い弟子にも恵まれているようではないか」
 ドルニエは強くうなずいた。
「ああ。私は幸せ者だ。ザールブルグにもアカデミーが建ったら、また、必ず遊びに来てくれ」
 ガレノスは、言った。
「うむ、ぜひそうしたい。しかし、ただ一点、心残りなのは、水涸れの原因をつかめなかったこ
とだ。あれは、例の幻の鳥の卵の仕業に違いないと思っていたのだが……。リリーたちにも、
私の絵を手がかりに、街中を調べてまわってもらったのだが、結局見つからなかった。あの卵が
街にたくされているのが見つかれば、いにしえの時代に、エル・バドール大陸とストウ大陸との
間に、文化的にも深いつながりがあったことを実証する、大きな証拠となるのに……」
 それを聞いて、ドルニエの顔色が変わった。
「何だって……! 君の絵……! リリー、ガレノスの描いた絵を、ちょっと見せてくれないか
……?」
「これです、先生」
 リリーがスケッチブックを手渡すと、ドルニエはガレノスの描いた絵を見て、目を大きく見開
いくと、しばらくの間絶句した。
「ガレノス、まさか、これが……?」
 ガレノスは、笑顔でうなずいた。
「ああ、いかにも、アペニアウティスモスの卵だ」
 ドルニエは、無言でスケッチブックをめくると、次の頁にさらさらと、美しい青い石の絵を描
き上げた。
「もしや、君が描きたかったのは、これではないのか?」
 ドルニエが尋ねると、ガレノスは感嘆の声をあげた。
「そうだ。まさしくそれがアペニアウティスモスの卵だ! やはり君は相変わらず図画を描くの
が上手いなあ!」
 ドルニエは、大きくため息をつくと言った。
「……わが友、ガレノス。君は他に類をみない素晴らしい錬金術師だが……、図鑑の絵を自分で
描くのだけは、やめたほうがいい」
 ガレノスは、うむ、と言ってうなずいた。
「やれやれ。また、言われてしまったな。ドルニエ、実は君がケントニスを去ってから、私の絵
を理解してくれる者が一人もいなくなってしまい、不自由していたのだ。私もまだまだ、精進が
足らぬようだ。はっはっは……」
「そのようだな、ははははは……」
 二人の師は、朗らかに笑い合いながら、町はずれの馬車止め場まで歩いて行った。リリーはそ
れを見送ると、ほっと息をついて、飲みかけのミスティカティのカップに手を伸ばした。机の上
にはスケッチブックが置きっぱなしになっており、ドルニエの描いた、アペニアウティスモスの
卵の絵が、無造作に広げられたままになっていた。
「どれどれ……。本当、ガレノス先生と、ドルニエ先生の絵、全然違うわねえ。……うん? 何
だかこれ、どこかで見たことがあるような……? ああっ!」

 飲みかけのお茶を残して、リリーは表に飛び出して行った。



   5


 雑貨屋の若き店主は、居間のソファに身を横たえ、ぼんやり考え事をしていた。
「退屈だな……」
 イライラする。その原因はただ一つ。最近、錬金術師の琥珀色の瞳の少女が、自分の店にあま
り来ないのだ。来ても用が済むとそそくさと帰ってしまうし、話もろくにしない。先日は、しば
らくぶりに顔を見せたかと思ったら、おもむろにスケッチブックを取り出して、妙な絵を見せる
と、尋ねて来た。

「ねえ、こんな形の、石みたいなもの、どこかで見なかった?」
「……知らねぇな。何だ、その、マンドラコラを消し炭にして、大量に積み重ねたみたいなもん
は……?」
 彼が聞くと、彼女は言った。
「やっぱり知らないわよねぇ。ここなら、もしかしたらこのがらくたに混じって、あるかもしれ
ないと思ったんだけど……」
「……がらくたじゃねえって、何回言わせたら気が済むんだ?」
「お邪魔したわね! それじゃ!」

 そう言った瞬間には、彼女はすでに彼の店の階段を、駆け下りていた。

「……よく、思い出せなく、なっちまったな」
 自嘲気味に、彼はつぶやいた。彼は思い出そうとしていた。自分が、彼女と出会う前に、どの
ような気持ちで、どのようなことを考え、どんな風に日々を送っていたのか、ということを。し
かしそれは……、もはや、不可能なことだった。
 彼女が自分の前に現れると、その瞬間、世界に明かりが灯ったような気がする。しかし去って
行ってしまった後は……。
 
 暗闇の中に、一人、取り残されてしまったような気がする。
 
 「ったく、……かなわねぇよな」
 彼女には、勝てない。
 なぜならば、一途に夢に向かって邁進するような「何か」が、自分には、ないからだ。
 彼は、昔からそうだった。何かを始めようとすると、いつも始める前に結果があらかた分かり
切ってしまい、うんざりしてしまうのだ。それは、彼の頭の回転の速さの証明でもあったのだが、
彼自身にとって、それはある種のコンプレックスになっていた。

 なんだって、街の連中は、みんな、やり甲斐だの、夢だのがありそうな顔をして、歩いていや
がるんだ……?

 うちを世界一の製鉄工房にしてみせる! と意気込む幼なじみの職人のカリンも、ただただ武
器を触っているだけで幸せだ、という武器屋のゲルハルトも、彼にとっては遠い世界の住人だっ
た。いや、嫉妬と侮蔑の入り交じった感情で、彼は、こういう種類の人間を、鼻先で笑っている
ところがあった。そう。彼女に出会う前までは。

 最初にその瞬間が訪れたのは、彼が錬金術工房を初めて訪れた日のことだった。
 とてもよく晴れた、午後。
 工房の窓が開いていた。風に揺れるカーテンの向こうで、彼女は天秤に何やら素材を乗せ、口
を真一文字に結んで、真剣な眼差しでそれを見ていた。何度か素材の量を加減した後、琥珀色の
瞳が、突然きらりと輝いた。彼女は嬉しそうに微笑むと、これね、これだわ! と独り言を言っ
て、急いで傍らに置いてあったノートに何やら書きつけた。
 
 ……まいったな。

 彼は、そう思った。
 何かに真剣に取り組んでいる人の顔を、これほど美しいと思ったのは、生まれて初めてだった。
 気取られないように、努めて平静な顔で工房の扉をノックして、中に入ると、さっきの真剣な
表情とはうって変わって、彼女は、雑貨屋の階段を昇って来るときのようないつもの笑顔で、彼
を迎えた。

 まったく、まいったな……。


 そう考えつつ、彼は、彼女から視線を外すと、工房の中を見回した。

 彼女には、負け続けている。
 彼は、そう考えている。だから、つい、仕返しをしたくなる。仕返しに、からかってみる。彼
女は……、分かっているのだろうか? 
 気持ちは、通じ合っているはずだ、と彼はいつも考える。だが、そう考えた瞬間に、確信が持
てなくなる。その上、彼女のことを憎からず思っている男は、大勢いる。
 この間は、あまりにも店に訪れない彼女に痺れを切らして、工房に依頼品を受け取りに行くと、
先客がいた。彼女と仲の良い、いつも犬ころが尻尾を振るみたいにして彼女にまとわりついてい
る、駆け出しの、小僧冒険者だった。いや、やつはまだいい。一番腹が立つのは……、明らかに
尊敬と憧れの感情が入り混じった目で、例の、副騎士隊長を見ているときの、彼女の顔。
 こっそり、店の扉の隙間から、彼女が自分に悪態をつきながら帰って行くのを見送っていたあ
の日。その男は端正な顔立ちに優しい笑みを浮かべて、彼女を見ていた。彼女の顔はこちらから
は見えなかったが、どうせ例のぼうっとした顔で、赤くなりながらしゃべっていたのだろう。
 いつもそうだ。
 ザールブルグの住民たちの憧れと尊敬を一身に集める、ウルリッヒ・モルゲン副騎士隊長は、
最近、表情が優しくなったと評判だ。この間、町はずれの城壁の前を通りかかったら……、彼女
がいた。あの男に話しかけていた。公務以外の場で、人と親しそうに話しているウルリッヒを見
かけるのは初めてだった。驚いて見ていると、ウルリッヒは、ひどく愛おしいものを見るような
目で、彼女を見ていた。こんな風景は見たくはなかったが、目が離せなかった。彼にできたのは、
彼女に、そんな自分を見られないように祈ることだけだった。

「もう少し、優しくした方が、いいのかもしれねぇな」
 彼はつぶやいた。しかし、それができれば苦労はない。
 窓の外を見上げると、満月が、煌々と輝いていた。彼はため息をついた。その瞬間、静寂を破
って、表の呼び鈴が、からん、からん、と二回鳴った。
「誰だ、こんな時間に……?」
 彼が扉を開けると、今さっきまで彼の頭を占拠していた琥珀色の瞳が、息を弾ませながら、彼
の名を呼んだ。

「ヴェルナー! こんな時間にごめんなさい。急用なの!」
 ヴェルナーは、ぎょっとしてリリーの顔を見た。
「な、何だ、一体?」
「あなたに、っていうか、あなたのお店に用があるのよ! 今、すぐ!」
 リリーは、ふうっと息を大きくつくと、額の汗を軽くぬぐった。
「店、だあ? 何か、急に入り用なもんでも、あるのかよ?」
 ヴェルナーが聞くと、リリーは首を横に振った。
「違うの! ごめんなさい、時間がないのよ。詳しいことは、後から話すわ。ねえ、お願い、お
店に入れてちょうだい! ヴェルナーが今忙しいんだったら、お店の鍵を少しの間、貸してく
れるだけでもいいわ」
 ヴェルナーは、壁にかけてあった雑貨屋の鍵を手に取った。
 気取られぬように。
 動揺を、気取られぬように。
「……一緒に行ってやるよ。勝手に店に入られて、うちの大事な商品を、壊されでもしたら、困
るからな」
 そう言って、彼は、薄く笑った。

*


 通りの石畳は、満月に照らし出されて滑らかに輝いていた。ヴェルナーは、長い上着の裾を翻
して走っていくリリーの後を追いかけた。
「おい、待て。何も、そんなに急ぐことはないだろう? ……店は逃げないぜ?」
 ヴェルナーが背後から言うのを聞いて、リリーは言った。
「逃げるのよ! っていうか、無事に逃がさないと! もしそうだったら、今日中に、できるだ
け早く、外気に当ててあげないと!」
「おまえ、何意味の分からないこと、言ってるんだ?」
「説明は、後よ!」
 二人の走る足音が、夜更けのザールブルグの職人通りに響いていった。

 ……しかし、満月とはいえ、妙な明るさだな。

 走りながら、ヴェルナーは考えた。
 周囲の村に比べれば、街の灯りは明るい。とはいえ、酒場が軒を並べる中央広場の周りの目抜
き通りに比べれば、職人通りの夜はひっそりとしている。ここの住人たちの夜は早いのだ。
 しかし。石畳は、まるで水を浴びせたばかりのように、艶やかに、幻想的に輝いていた。
 ヴェルナーの目の前に、突然、薄く銀色に輝く水色の羽根が一枚、降ってきた。

 ……何だ?

 ヴェルナーは足を止めてそれを拾った。

 ……羽根? でもこんな色の鳥なんて、この辺にいたか……?

 ヴェルナーが思わず上を見上げると、目の前を走っていたリリーもいつの間にか立ち止まり、
上空を指差していた。
「ヴェルナー! あ、あれ、見て!」
 街の屋根の上、ぎりぎりの低いところを、ゆっくり、優雅に飛んでいたのは……。
「……何だ、あの鳥は?」
 ヴェルナーは、息を飲んでその鳥を見つめた。そのとき、静かな優しい音が二人の耳に入って
きた。音は、柔らかな風に流されていく春の霧雨のような気配を伴って、二人をそっと包み込ん
だ。

 ひらひらひらひら、ひ、ひ、ひらひらひ……。

「ヴェ、ヴェルナー、これ、何の音かしら……?」
「……まさか、あの鳥が、鳴いているのか?」
 ヴェルナーは鳥を凝視しながら言った。リリーは、今度はさらに北の方の空を指さした。
「あっ、あっちからも、もう一羽飛んできたわ!」
「おい、こっちからもだ!」
 ヴェルナーも東の空を指さした。銀の粉を薄くまぶしたように輝く、薄い青い色の羽根の鳥た
ちは、静かな羽音をたてながら、つぎつぎと職人通りを目指して飛んで来た。鳥たちの進行方向
は……。
「……お店に、急ぎましょう!」
 リリーはそう言って、再び走り出した。

*


 夏の夜は、穏やかに、優しい風情を蓄えていた。リリーは走りながら、昨日、ガレノスに言わ
れたことを思い出していた。
「リリー、君は、錬金術師に一番必要なものは、何だと思うかな?」
 そう聞かれて、リリーは答えた。
「さあ……、あたし、まだまだ半人前ですから、技術や知識が、もっと必要だなって、思うこと
は、よくあります」
 ふむ、と言って、ガレノスはうなずいた。
「じゃあ君は……、錬金術で、何が一番やりたいと思っているかね?」
 リリーは答えた。
「具体的にこれが作りたいっていうようなものは……、そりゃあ、たくさんありますけど、でも
私、何がやりたいかって言えば、……その、人が幸せになるようなものが、作りたいと思います」
 ガレノスは微笑んだ。
「それは、とても大切な視点だ。錬金術師にとって、一番必要な考えかもしれないね。でも、覚
えておいて欲しい。そうした、他人を幸せにしたいと願う気持ちも、正しく形にできなければ、
何の意味もない。人の幸せには、いろいろな形がある。それらをすべて理解することは不可能か
もしれないが、想像することは大切だ。君たちは、まったく知らない土地で、まったく考え方の
違う人たちの幸せについて想像しなければできないような、とても大変な任務を遂行している。
君は、……これは私の単なる当て推量なのだが、もしかして、また別の都市に錬金術を広めに行
くことがあるかもしれない。だから、言っておこう。人を幸せにするには、多くの勇気と、それ
から少しの技術とが必要だ。それは、豊かな想像力によって、裏打ちされていなければならない」
 ガレノスは、リリーの目をのぞき込んで言葉を続けた。
「例の鳥なんだが……、今年は気温が例年になく高いので、もしかしたら、孵らないかもしれな
いね。それに、あの鳥は、もし閉め切った室内で孵ったならば、すぐに外気に当ててやらないと、
死んでしまうこともあるそうだ。いや、もし原因が、本当に卵のせいだとすれば、水涸れは、時
間はかかるが、必ず元にはもどるだろう。しかし、鳥が孵らないと、それを神の使いとして大事
にしている人たちが……、気の毒でね。ケントニスに、宗教はない。私も、神を信仰したことは
ない。だから、私は彼らの気持ちは理解できないが、しかし、想像することはできる。鳥が孵ら
なかったら、彼らは本当に滅んでしまうかも、しれないね。そんな、見も知らない、自分とはま
ったく考えの違う人たちの幸福や不幸について、君は、思いを巡らせることができるかな?」
 そう言って、ガレノスは、左右色の違う目をゆっくりと細めて、微笑んだ。

*


「リリー、あれ見ろ!」
 いつの間にか、リリーの横を並んで走っていたヴェルナーが指さした方向には……、雑貨屋の
建物。その上には、水色に輝く鳥が三羽、とまっていた。さらに一羽、また一羽と鳥たちは雑貨
屋の屋根の上に集まって来た。屋根の上に止まった鳥は、全部で六羽。ふいに、一番右端にいた
鳥が、嘴を開いた。

 ……ひらひらひらひら、ひ、ひら、ひらひらひらひ……。

 先ほどと同じ、柔らかな風のような音をたて、鳥が鳴いた。それにつられて、他の鳥も鳴き出
した。

 ……ひらひらひら、ひらひらひ、ひ、ひひらひらひらひら、ひ、ひら……。
 ひひらひらひらひら、ひひらひらひらひらひひらひらひらひら、ひ、ひ、……。
 …ひらひらひらひらひひらひらひらひら、ひ、ひひらひらひらひらひら、ひ、ひらひら……。

 その声は、何かを訴えるように、高く上空に湧き上がって行った。

「ヴェルナー、お店の鍵を開けて!」
 リリーが言うと、ヴェルナーはうなずいた。

*


 扉を開けると、薄暗い店内の中は、暗くてよく見えなかった。
 リリーとヴェルナーは、慎重に階段を昇っていった。
 ようやく最上部にたどりついて、カウンターの後ろの棚を見たリリーは、息を飲んだ。
「割れてるわ……! ヴェルナー、この石、あなたが昼間、お店にいたときは、どうだったの?」
 ヴェルナーはリリーの背後から棚をのぞき込んだ。
「いや……、別に、普通だったぜ」
 リリーは青ざめた。
「どうしよう……。あなた、もしかして、椅子に座って伸びでもしたときに、ぶつからなかった
?」
 ヴェルナーは、あきれ顔で言った。
「俺が、仮にも一応商品に対して、そんな乱暴なことするかよ……!」
 そのとき、二人の耳に、いくぶん高めの鳴き声が聞こえてきた。
 
 ひ、ひらひらひらひら、ひ、ひら……。

「ああっ! いた! ヴェルナー、こっち、いたわ!」
 声のする方を頼りに、カウンターの上に身を乗り出して椅子の下をのぞき込んだリリーは、嬉
しそうに言った。
「……何だって? 何がいたんだ!?」
「……恐くないからね……。こっちに、いらっしゃい……!」
 つぶやくように言ったリリーの手に、水色の鳥はゆっくりと近づいて来ると、やがて、ぴょん、
と飛び乗った。

*


「で、結局、どういうことだったんだ?」
 ヴェルナーは職人通りの井戸の前で、腕組みをしながらリリーに聞いた。先ほどから井戸は噴
水のように水を湧き上がらせている。七羽の鳥が飛び立って行った後に、急に吹き上がって来た
のだ。
 鳥たちが去っていく様は、この世のものとは思えないほど美しかった。満月の明るい光に、水
色の優美な羽根は、銀色に輝いていた。鳥たちは、ザールブルグの街の上を、一列になって、名
残を惜しむように何度か旋回すると、急に方向を変え、南の空へと去って行った。
 例の霧雨の降る音のような声は次第に遠ざかり、風の音に紛れ、やがて、消えた。
 二人は呆然としてそれを見送っていた。すると今度は、低い地響きの音が聞こえだした。地響
きはやがて轟音となり、水の形を伴って一気に井戸の中から吹き上がって来た。それは一瞬、雑
貨屋の二階の高さまで吹き上がり、次第にごぼごぼと音を立てながらゆっくり、ゆっくりと高さ
を下げて行った。

「おい、リリー。この事態を、全部、最初から、分かるように説明しろよな」
 ヴェルナーが言うと、リリーは困ったような顔をした。
「えっとね、事情は少し込み入っているのよ。長くなるんだけど、つまり、ね……」
 ヴェルナーは、リリーの言葉を遮って言った。
「長くなるのか? じゃあ、続きは俺の家で聞こうか。……まあ、茶ぐらいは、淹れてやらない
こともないが、な」
 月明かりの下で、リリーは微笑んだ。
「……うん!」
 ヴェルナーはその顔を見て頭を掻くと、リリーの横に並び、彼女に歩調を合わせて歩き出した。

                                      
                                     〜fin〜

 
 後書き
 
 ヴェルナーの手が妙に早いですね……(笑)。これは、ペンダント渡し済みということでお許し
ください。リリーサイドの描写は、オンナノコオンナノコした感じを目指したのですが、後から読
み返すとかなり赤面ものでした。いや、書いているときは「憑依」状態ですので、とくに何とも思
わなかったのですが(^^;
 はっきり言って、ふと我に返ると、乙女の一人称語りのほうが、ラブシーンよりよほど照れます
ね、私……。なぜなのでしょうか、もう、終わってますか(涙)?
 さて。ガレノスの名前は、帝政ローマ期の著名な医者からもらいました。腕に刻まれた文章はラ
テン語です。私が書くときには、ケントニスを勝手に古代ローマみたいな場所に見立てているので
……、解釈が違って、違和感があるという方には、どうもすみません(^^; (2002年8月)。



 


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