1
午後のまぶしい日の光が、さんさんと降り注いでいた。それは、街の通りの乾燥した石畳を
まぶしく輝かせた。職人通りを歩いていたリリーは、思わず目を細めた。
「ザールブルグの気候って、ケントニスとあんまり変わらないような気がするけど……、でも、
なんだか夏の日差しの色は、こっちの方が白っぽい気がするわ。太陽の色が……、違うのよね。
向こうは海に近かったから、かしら」
リリーたちがザールブルグにやって来てから、四度目の夏の初めのことだった。リリーは、
少しためらってから、窓のない雑貨屋の扉を開けた。
「あんまり来たくなかったけど、ランドーを切らしてるし、ゲルプワインの納入期日は迫って
るし、イルマは最近中央広場にいないし……、仕方、ないわよね……」
店主は、今日も退屈そうに、本を読んでいた。
*
「帰るのかよ」
ヴェルナーは、さっきリリーが商品を購入したときの笑顔からうって変わって、急に、不機
嫌そうに言った。
「うん。そろそろお夕飯の支度にかからなくちゃいけないし。それに、今、ドルニエ先生はカ
スターニェまでケントニスから来るお友達を迎えに行っているから、あんまり長いこと外出し
ていられないのよ。あたしがいないと、あの子たちが何するか分からないし」
ヴェルナーは、目の前のカウンターに左手を置くと、よっ、と小さく言って立ち上がった。
「じゃあ……、俺も、外に出るか」
リリーは、睫毛のびっしり生えた美しい目を心なしか大きく開いて言った。
「何よ、ヴェルナー、あなたも外に用事があるの? めずらし……んっ!?」
ヴェルナーは立ち上がった瞬間に、空いていた右手でカウンター越しにリリーの肩を抱き寄
せると、そのまま唇を重ねた。
何の、躊躇もなく。
「……ちょ、ちょっと、もう……、いつも、何で、急に、こういうこと、するのよ、あなたっ
て、人は!」
自分に絡みついてくる腕を、必死で引き離しながら、リリーはやっとのことでこれだけの文
句を言うと、彼の顔をにらみつけた。一方ヴェルナーは、そんなリリーの様子をにやにやしな
がら見ていたが、ふっ、と小さく息をつくと、言った。
「何だよ……、先に許可を取ればいいのかよ」
「ば、馬鹿、ちがっ……、その……、もう、知らない!」
リリーはくるりとヴェルナーに背中を向けると、乱暴に階段を一段一段、踏みつけるように
して駆け下りていった。リリーがヴェルナー雑貨屋を出て、十数歩歩いたところで、再度、店
の扉が開いた。
「おい、忘れ物だぞ」
扉の影から、身体を半分だけのぞかせたヴェルナーは、リリーに、さっき彼女が購入したラ
ンドーが詰まった袋を投げてよこすと、
「じゃあな」
と言って、すぐさま、バタンと扉を閉めてしまった。
その素早さと、投げる動作の鮮やかさにしばらく呆気にとられていたリリーは、はっと我に
返ると、ぶつぶつ文句を言い始めた。
「……な、何なのよ、仮にも一応お客に向かって商品を投げてよこすなんて……! 本当に商
売やってる自覚、あるのかしら?」
リリーは、さらにかき乱された頭の中を落ち着かせるように、目の前にいない彼についての
文句を言い続けた。
「もう、最近は他にお客がいないと、いつもあんなだし、でも、お店の外で会うと、そっけな
いし、無愛想だし。……何考えてるのか、全然分からないし」
リリーはため息をついた。
「だいたい性格はひねくれてるし、口は悪いし、目つきも悪いし、気まぐれだし、気分屋だし、
人のことをサル呼ばわりまでするし」
夕方の日差しに、道行く人の影がだんだん長くなってきていた。リリーは、この間のヴェル
ナー雑貨屋での出来事を思い出していた。
とっておきの宝を見せてやる。
そう言って、ヴェルナーは、棚から小さな宝石箱を取り出した。中に入っていたのは……、
ため息が出るほどきれいな、赤い色の石のついた、指輪。
最愛の人ができたら、その相手に渡そうと思っている指輪だ。彼は、そう言った。
それから……、今にして思うと無性に腹が立って来るのだが、さらに彼はこう言ったのだ。
……リリー、おまえにやるよ、と。
放り投げられた指輪は、リリーの手に……、渡る前に再度彼の手の中に収まってしまった。
そして彼は言ったのだ。
嘘に決まってるだろ、と。
私を何だと思ってるのかしら。からかって面白がってるのよね、きっと。
「……意地悪。もう、頭に来る!」
思わず大きな声でリリーが言うと、目の前にいた背の高い人物は、少し驚いた顔でリリーを
見た。
「……どうしたのだ、リリー?」
「ウ、ウルリッヒ、様……」
リリーは思わずザールブルグ中の女性の憧れの的、王室騎士隊の副騎士隊長、ウルリッヒ・
モルゲンその人の目の前で悪態をついてしまったことに気がつき、思わず顔を赤らめた。
「な、何でもないんです、ウルリッヒ様! 頭に来るっていうのは、その、もちろんウルリッ
ヒ様のことじゃなくて、えっと、その、あの……」
ウルリッヒは、その端正な顔に静かな笑みを浮かべると、優しい声色で、リリーに言った。
「…店暑い日が続いているからな。少し、休養したほうがいいのではないか?」
ウルリッヒ様に……、同情されちゃったわ。もしかして、暑さで頭をやられた、とか、思わ
れちゃったのかしら……?
やだ。
「ウルリッヒ様こそ、こんなところに、何かご用があったんですか?」
リリーが慌てて尋ねると、ウルリッヒは言った。
「いや何、また、そこの職人通りの井戸が枯れ始めている、という情報が入ったので確認しに
来たのだ」
リリーは目を丸くした。
「また、ですか? 以前、コジョが地下に穴を掘ったせいで水が出なくなってしまったことは
ありましたけど、でも、今度はいったいどんな原因で……?」
ウルリッヒは涼やかな声で言った。
「それは……、調べてみなければ何ともいえない。その節には……、ご苦労であったな」
ウルリッヒは、リリーの顔を見ながら、ゆっくりと微笑んだ。リリーは緊張でますます顔が
赤らむのを感じた。それをごまかすように、彼女は言った。
「えっと、でも、こんな調査なんて、わざわざ副騎士隊長様が直接いらっしゃらなくっても、
よろしいのでは……?」
ありませんか、と聞く前に、ウルリッヒは機先を制するように言った。
「本当は、先におまえのところに依頼に来ていたのだ。井戸の調査は、そのついでに立ち寄っ
たまでのこと。調べが終わったら、錬金術工房に寄らせてもらうが……、かまわないだろう
か?」
「あ、はい! それじゃ、詳しい話は、また後ほどに……」
リリーは、ランドーの入った袋を持ち直すと、笑顔でそう言って、職人通りを小走りに駆け
て行った。ウルリッヒの姿が見えなくなると、リリーは、ようやく速度をゆるめた。歩みの速
度をゆるめると、ため息が出た。
ふと見ると、夕方の日向に落ちた、自分の長い影が目に入った。
だらだらと路上に伸びて、所在なく揺れて、自分の気持ちも、溶かし込まれている。
……ような、気がした。
何でこんなに、腹が立ったり、気になったり、するのかしら……? きっと、ああやってい
つも、人のことをからかうだけからかっても、好きだなんて言ってくれたこと、一回もないか
らよね……。それだけ、あたし、どうしようもなく、ヴェルナーのこと、
「好き、なのかなあ……?」
ぼんやり考えると、足が止まった。
そう考えたら、後が、考えられなくなった。
2
その年の夏は、シグザール王国建国以来と言われるほどの猛暑だった。
熱は腐臭をはらみ、腐臭は空気中に不快な音を充満させた。町中の井戸は、あるものは水量
を極度に減らし、またあるものは、完全に枯れ果ててしまっていた。
錬金術工房は、ゲヌークの壺や、暑気あたりで倒れた人たちの薬の依頼で、てんてこまいに
なっていた。
「姉さん、頼んだものはできたかい? って……うわあっ!」
錬金術工房に足を踏み入れたテオは、部屋の中の有様に絶句した。
「……なぁにい、テオ?」
普段は首の周りをかっちりと巻いているカラーを外し、青い長い上着を脱ぎ去って、半袖の
シャツと短いスカートだけになったリリーは、半ば溶けかけたように、机に突っ伏していた。
扉を開けてくれたイングリドも、リリーの傍らでたたずむヘルミーナも、みな、薄手のシャ
ツ姿で髪をひっつめ、厚手の紙で顔をばたばたとあおいでいた。
「……だ、大丈夫か、姉さん?」
リリーは力無く微笑みながら言った。
「大丈夫、大丈夫。テオが頼んでた星砂糖は、……あ、ここかあ〜。はい、これ」
そのだらしない有様は、とても色気とは無縁のものではあったが……、しかしテオは、憧れ
の人のしどけない姿に、少し顔を赤らめながら言った。
「……ありがとう、姉さん。はい、これ、お礼。……そ、それにしても、みんな、死にそうだ
な……?」
イングリドは、自分の椅子に戻るとぐったりとした顔で言った。
「もう、ダメ〜、暑い〜……」
ヘルミーナは、普段は青白い陶器のような顔を、赤く火照らせて言った。
「何だか、気分が悪いです……」
リリーは言った。
「本当に暑いわね……。いつもよりは軽装だけど、暑いのはどんなに脱いでも暑いからどうし
ようもないわね……」
テオは言った。
「そ、そうかあ? このくらい、別になんてことないと思うけどなあ」
リリーは、ややあきれたような顔で言った。
「テオは、この暑いのに、平気なの? 元気よね?」
テオは、やや得意げに頬を紅潮させながら言った。
「まあな。俺、いくら暑い日だろうが、夏は炎天下の下、毎日畑仕事してたからな。姉さんた
ちとは、鍛え方が違うよ。へへっ」
そうして胸を貼るテオの背後で、敵意を含んだ視線が白く光った。テオは思わずぎょっとし
て後ろを振り返ると、仏頂面を引っさげた若き雑貨屋の店主が立っていた。
「おい、俺の頼んだものはできたか?」
そう言ってヴェルナーは、テオを無言のまま目で威嚇した。テオは……、背筋にアポステル
の大群に囲まれたとき以上の悪寒を覚えた。慌ててリリーたちの方に向き直ったテオは、
「じゃ、俺はこれで! 姉さん、またな!」
と言って、踵を返すと、工房から走り去って行った。
「何よ〜? ヴェルナーの依頼したフォルメル織布なら、期限までまだ十日以上あるじゃない
……?」
不満そうにリリーが言うと、ヴェルナーは言った。
「事情が変わってな。期限を早めて欲しい。あと四日以内で頼む」
リリーは口をとがらせた。
「え、ええ〜! 急ぐんなら、もっと早く言ってくれればよかったのに〜! それにちょうど
今、材料のアードラの羽根を切らしちゃってるから、後でヴェルナーのお店に買いに行こうと
思ってたのよ。ねえ、今日は入荷してる?」
ヴェルナーは薄い笑みを浮かべると言った。
「ああ。あるぜ……、若干、な」
リリーはほっとしたように言った。
「よかったあ〜! じゃあ、この作業が終わったら後で買いに行くから、六、七枚ほど取り置
きしておいてもらえないかしら?」
ヴェルナーは、にやり、と笑って言った。
「さあな……。今店にある在庫は稀少だからな。悪いが、先に買いに来る客がいたら……、売
り切れ御免だな」
リリーは頬をふくらませながら言った。
「な、何よ、それ。お得意様に対する態度なの?」
「何だよ。おまえが買わなくたって、俺は別に困りゃしないんだぜ」
涼しい顔で、ヴェルナーは言った。
「ひどいわ。ヴェルナーの依頼品の素材じゃないのよ!」
リリーが怒って言うと、ヴェルナーは、喉の奥の方でかみ殺すように小さく笑った。
「今すぐ来るなら……、確実に売ってやるぜ。もし必要なら、さっさと支度して来い」
「分かった……、わよ。少し待って」
リリーはだるそうに立ち上がった。ヴェルナーは、リリーをまじまじと見ると、ため息混じ
りに言った。
「それにしても……、その格好は何だ。いくら暑いからって、ここは仮にも一応店で、客も来
るんだろう? ……ったく、だらしねぇな」
「うっるさいわねえ! 店の経営について、ヴェルナーにあれこれ言われる筋合いはないわ
よ!」
リリーが言うと、簡抜入れずにヴェルナーは言った。
「三分だ。それ以上は、待たねぇからな」
*
やっぱり、外は暑いわ……。
リリーは、自分の数歩前を歩いていくヴェルナーの背中を見ながら考えていた。
それにしても、何で一緒に歩いているっていうのに、隣に並んで歩調を合わせてくれるって
ことをしないのかしら? いつも、自分しかこの世にいないみたいに、一人で先にすたすた歩
いて行っちゃって……。私がいてもいなくても、関係ないみたい。これじゃ、まるで、人間と
歩いているっていうよりは、大型犬を散歩させているみたいよ、ねえ……。
ふと横を見ると、恋人同士が仲睦まじく、寄り添いあうようにして歩いて行く。リリーはた
め息をついた。
そうよねえ。普通、恋人なら、ああいう感じよね……。ヴェルナー、やっぱり、私のこと、
恋人だなんて、思ってないんだわ、きっと……。
リリーが横を向いて、ぼんやりそんなことを考えていると、突然、ヴェルナーの腕がリリー
の行く手をさえぎった。
「おい! リリー!」
ヴェルナーに引き寄せられたリリーが驚いて前を見ると、自分のすぐ鼻先を、馬に乗った騎
士が早足で駆け抜けて行った。
「……ったく、町中で、下手くそな乗り方しやがって……」
騎士の後ろ姿を見ながら、ヴェルナーはぶつぶつ言って、リリーの顔を見た。
「それにしても、蹄の音くらい、聞こえなかったのか? 注意力の足りねぇやつだな、おまえ
は。もっとしゃんとして歩けよ、いいな!」
リリーは、ヴェルナーの顔を見上げた。
*
「ねえ、お店の中だけ、外に比べて妙に涼しくない?」
リリーが言うと、ヴェルナーは、そうかあ? と、事も無げに言った。
「日が差さないせいだろ」
そう言ってヴェルナーは、棚の中から、アードラの羽根が詰まった箱を取り出した。しかし
リリーは、ひんやりとした店の中の空気に驚いて目を大きく見開いたまま、さらに言った。
「ううん。やっぱり、全然違うわ。空気が、軽いっていうか、さわやかっていうか……、変よ
ねえ? 窓がなくて、薄暗くて、換気が悪くて、埃っぽくて、妖しい店なのに……」
ヴェルナーは、だん、と手にした箱をカウンターの上に少々荒っぽく置くと、不機嫌そうに
言った。
「おまえ……、ケンカ売ってるのか?」
「本当のことじゃない」
あっさりとリリーが言うと、ヴェルナーは、やれやれ、というふうに首を小さく左右に振っ
て箱を開けた。
「あっ、結構、たくさんあるじゃない、アードラの羽根! 何よ、在庫稀少だなんて言って、
人を急かしておいて……」
リリーが言うと、ヴェルナーは唇の片端を少しだけ持ち上げて、静かに笑いながら言った。
「まあ、これくらいの数……、ときどき‘お得意様’が、全部買い占めて行きやがるからな。
多いとは言えないだろ。別に無理に来てもらわなくったって、かまわなかったんだぜ? おま
えが、これを必要だから勝手に来たんだろ」
リリーは何か言い返そうと口を開いたが、ため息をつくと、次の瞬間にはあきらめたような
口調で言った。
「……分かったわ。十枚、下さい」
*
銀貨を払って、そそくさと立ち去ろうとするリリーに、ヴェルナーは言った。
「おい、もう、帰るのか?」
リリーは羽根の数を確認すると、顔を上げた。
「そうよ。だって、‘お得意様’に、依頼品の納入期限を早められて、急いでいるんだもの」
「ああ、その件なら……、どうやら事情が変わったみたいだぜ。当初の予定通り、あと十日で、
いいそうだ」
ヴェルナーは、目を細めながらさらに言った。
「……ま、せっかく来たんだ。掘り出し物でも、見て行けよ」
「嘘つき」
ぽつん、とリリーが言うと、ヴェルナーは聞き返した。
「何だ?」
「何でもないわ」
「そうかよ」
ヴェルナーは、相変わらず、薄い笑みを浮かべたままリリーを見ている。今なら、聞けるか
もしれない、そう思ってリリーは口を開いた。
「ねえ、ヴェルナー?」
「何だよ、さっきから?」
何でそうやって、嘘ついたり、意地悪したり、からかったりばかりするのよ?
あたしのこと、本当はどう思ってるの?
そう聞こうと思って、口を開いた瞬間……、リリーの頭の中で、何かが、すとん、と落ちた。
とたんに、何も言えなくなった。慌てて視線をヴェルナーの背後にやったリリーの目に、風変わ
りな青い石が目に入って来た。それは、カウンターの上に置いてある地球儀の球と同じくらいの
大きさだが、小さな多面体の石をいくつもつなぎ合わせて一つの物体にしたような、不思議な形
をしていた。平らな面の一つ一つは、よく見ると微妙に色味が違っていて、薄暗い店内の中で、
わずかばかりの光を反射させ、静かに青く光っていた。
「あ、あれ! あそこの棚の真ん中にある、青い面白い形をしたきれいな石! あれ、前からあ
ったかしら……?」
石を指さしながらリリーが尋ねると、ヴェルナーは言葉にほんの少し、棘を混ぜながら答えた。
「二週間前から、そこに置いてあるぜ。……おまえが、怒ってどたどた帰っちまった次の日に、
見慣れない行商人が来てな、置いていったんだ」
「置いていったって……、買ったんじゃ、ないの?」
「ああ。風変わりな行商人だったがな。結構いい品物を持って来たんで、色々と買い上げたんだ
が……。そいつが、商談が終わってから店の中を見回して、この店が気に入ったから、ぜひこれ
をもらって欲しい、そう言ってな。まあ、俺も得体の知れないものを引き取るのはいつものこと
だし、面白そうだから、もらっておいた」
ヴェルナーは、椅子の上で軽く伸びをすると、さらに言った。
「ただし、条件があるそうだ。一ヶ月は売らないで、この店に置いておくこと。そしたら後は、
好きにしていいって、言ってたぜ」
3
ひさしぶりに帰ってきたドルニエ先生は、上機嫌でリリーたちに自分の友人を紹介した。
「こちらはガレノス。私の古い友人で、学兄だ。このたび、ケントニスの元老院から、わざわザ
ールブルグのアカデミーの建設状況を視察しにいらしたのだ。ガレノスは、元老院では私の次に
若いが……、すでに重鎮の役にあり、ケントニスのアカデミーの次期の学長に推挙された方だ。
私などはとても及びもつかないような高度な研究報告も、いくつも発表している。リリーたちも、
良い機会だから、いろいろと話を聞いて参考にするといい」
薄い水色の髪と同色の髭を品良く伸ばしたその人は、知性に輝く左右違う色の双眸を巡らせる
と、リリーたちに向かって静かに微笑んだ。
「よろしく。ドルニエの弟子ならば、私の弟子も同様だ。何か研究について知りたいことがあれ
ば、何でも聞いて欲しい」
うっ……、いかにも、切れそうで、出来そうで、威厳のあるおじさんよね……。
緊張の面もちでリリーが挨拶すると、イングリドとヘルミーナは、我先にとガレノスに話しか
けた。
「あ、あの、後であたしの研究ノート、見てください! それと、お聞きしたい理論が……」
イングリドが興奮した様子で言うと、ヘルミーナも言った。
「あ、あたしがオリジナルで作った、この薬液の調合理論なんですけど、二、三質問したいこと
が……」
「ちょっと、何よ、ヘルミーナ! あたしが話しているのに、横から割って入らないでよ!」
「何よ、イングリドこそ、あたしが聞こうとしていたら、勝手に大声で話し始めて……、あんた
って、何でそう、はしたないのよ!」
ヘルミーナのその言葉に、イングリドは怒りで顔を真っ赤にした。
「なんですってぇ!」
リリーはいつものように二人の間に割って入った。
「こらこら、二人とも! お客さんの前よ! ケンカはやめなさ〜いっ!」
三人の様子を見て、ガレノスは笑い出した。
*
教会は、病人たちで溢れていた。奥の治療室だけではまかないきれず、ついには礼拝所の片隅
にも簡易ベッドが並べられ、苦痛を訴える患者たちの低いうめき声が、この由緒あるフローベル
教会の中にこだましていた。
「クルトさん……、依頼された薬、お持ちしました」
リリーが言うと、クルト神父は、やや面やつれした顔で、リリーに言った。
「わざわざお持ちいただいて、ありがとうございます。こちらから伺おうと思っていたのですが
……、無理を言って、こんなにたくさん、本当にありがとうございます」
リリーはその琥珀色の瞳でクルト神父をまっすぐに見据えると、きっぱりとした口調で言った。
「何言ってるんですか! 今、教会は病人の看病で大変なんですから、これくらい、やらせてい
ただいて当然ですよ。クルトさんこそ…点、顔色が良くないですよ? ちゃんと休んでいるんで
すか?」
クルトは、リリーの言葉に微笑んでみせると、こう言った。
「私は大丈夫です。それに、できるだけ多くの方に、アルテナ様のお恵みをお授けするのが私の
仕事ですから……、こんなときに、休んではいられません」
クルトは、リリーの後ろで、腕組みをして教会の中の様子を眺めていたガレノスに気がつき、
尋ねた。
「おや……、そちらのお方は? ……見たところ、ドルニエさんと同じ、ケントニスの方のよう
ですが?」
ガレノスは、笑顔でクルトに会釈した。
「ガレノスと言います。お察しの通り、ケントニスからやって来ました。私はドルニエの古い友
人です。ドルニエが今、王宮との用事で忙しいというので、今日は、リリーにいろいろとザール
ブルグの街を案内してもらっているところなのですが……、それにしても、これは……、大変な
状況ですね。少し、患者さんの様子を見せていただいても、よろしいですか? 私は、錬金術の
うちでも、特に医学を専門としているのです」
ガレノスが言うと、クルトは微笑んだ。
「もちろんです。病人の回復を願う気持ちに、信仰も錬金術も変わりはありません」
はあ〜。変われば、変わるものよね。
私たちが最初にこの街にやって来たときには、「錬金術は自然の摂理をねじ曲げるものだから
感心できない」、なんて、あからさまに嫌ってたクルトさんが……。
でも、それって、やっぱり、錬金術がそれだけ認められて来たってことなのよね。
一人ほくそ笑むリリーの横で、患者の様子を見ていたガレノスは、深刻な顔をして低く唸った。
「ううむ、これは、ひょっとすると……、いや、まさか、そんな……?」
どうしたんだろう、ガレノス先生? それにしても、さすがはドルニエ先生のお友達よね。考
え込み方が、ドルニエ先生そっくりだわ……。
妙なことに感心する、リリーであった。
*
「今日は一日色々と案内してくれて、どうもありがとう」
大分完成に近づいてきたアカデミーの建物を見上げながら、ガレノスはリリーに言った。もう日
は落ちかけており、大工たちはすでにいなくなっていた。夕暮れの斜めに当たる茶色の光の中、建
築中の建物は、その堂々とした骨格を静かに示していた。
「いえ、とんでもないです。ご案内させていただいて……、あたしも楽しかったです。ケントニス
の元老院の先生方にも、ザールブルグのこと、よく、知ってもらいたかったですし」
リリーが微笑みながら言うと、ガレノスは言った。
「良い建物だ。とても、良い建物だ。草案は、ドルニエが作ったんだね。……彼らしい、優しい作
りだ。ここでこれから学ぶことのできる生徒たちは、幸せだね」
リリーはそれを聞いて嬉しそうに笑った。
「ええ。良い建物です。これが……、私たちの夢ですから!」
ガレノスはリリーの顔を見て微笑みながら言った。
「これからも、ドルニエをよろしく頼むよ。彼は……、どちらかというと、少し浮世離れした理想
主義者的なところがあるから、君のような、しっかりした弟子が一緒にいてくれると、私も心強い。
彼は……、どちらかというと、実践よりは理論の構築に向いているタイプでね。昔から、そうだっ
た。私は、実験と失敗を大量に繰り返しながら身体で覚えていくタイプで……。どちら
かというと、君は私のようなタイプの研究者のようだね」
リリーは、ぱっと顔を明るくすると、言った。
「じゃあ、私も頑張れば、ガレノス先生のように、立派な錬金術師になれるでしょうか? お噂は、
いつもドルニエ先生から、お聞きしているんですよ」
ガレノスは、困ったように笑いながら首をゆっくり横に振った。
「いやいや……、君がドルニエから何を聞いているかは知らないが……、彼の方が、よほど優れた
錬金術師だ。私は若い頃は、ずっと、彼に勝ちたいと思っていた。そのため、ずいぶんと無茶な研
究もした。これを……、見て欲しい」
ガレノスは、自分の着ているたっぷりとしたローブの、右腕の袖をまくって、リリーに見せた。
そこには、青黒い色で、文字が刻まれていた。
aquae et ignis interdicio
「これは……、もしかして……!」
驚きの声をあげたリリーに、ガレノスは、静かに言った。
「そう。‘水火の禁’。一般の市民であれば、ケントニスの街からの追放ということだが……、錬
金術師にとっては、それだけではなく、文字通り、研究の差し止めを意味する」
リリーは言葉を失ってガレノスの顔を見た。ガレノスは穏やかに、言葉を続けた。
「私は幼くして両親をなくしてね、ドルニエの家族に引き取られたのだ。ドルニエと私は、本当の
兄弟のように仲良く育った。ドルニエの両親も、私と彼を分け隔てなく、愛情を持って育ててくれ
た。しかし……、私は常にドルニエに引け目を感じていた。彼は生まれながらにして、人から信頼
され、愛される種類の人間でね。若くしてこのストウ大陸に派遣されたのも、彼ならば、見知らぬ
土地でも、周囲の人たちと上手くやって行ける。そう、元老院に判断されたからだ」
ガレノスは、わずかに下を向いた。
「……残念ながら、私には、そういう人望のようなものがなくてね。若い頃は、そんな彼がとても
妬ましかった。錬金術がケントニスで流行しだした当初、せめて、この学術の技法だけは彼に負け
まい、と、毎日死にものぐるいで勉強した。しかし、それがいつの間にか、己の力の慢心へとつな
がってしまったのた。あるとき、私は誘惑に負け、元老院が封印していた危険な術の実験を行って
追放処分を受けてしまった……。この刻印は、そのときに刻まれたものだ。私は……、絶望したよ。
しかし、そんなときに、ただ一人、私の立場を慮り、必死に弁明してくれたのが、ドルニエだった。
ドルニエのあのときの元老院への説得と取りなしがなかったら……、現在の私は、どうなっていた
か、分からない」
ガレノスは、リリーの方に向き直ると、にっこりと笑って、こう言った。
「ケントニスのアカデミーに復帰してから、私は、危険な術の研究を一切とりやめてね。代わりに
人を救うような、医学を中心とした錬金術の研究にいそしむようになったのだ。ところで、今、こ
の街は次々と井戸水が枯れ、病人が続出し、大変なことになっているようだが……、少し気になる
ことがあるのだ。工房に戻ったら、説明しよう」
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