評論するページ

しなやかに、そしてさりげなく。



読まなければならない書物、資料の類。それよりは増える「読みたい本」が書棚に
積み上げられている。講義録というものは、作れば作るほど、あれもこれもという
ことになり、限られた時間の中で伝えられることは限られていて、たかだか数時間
の集中講義で示せることは、結論などというものであるはずもなく、おそらくはいく
つかの方向のひとつを示せるかどうかで精一杯。とはいえ、私の講義を選択する
であろう、まだみぬ学生たちに、退屈はさせたくない。教えるなどという不遜なこと
もできはしないのだけれど。

義理で断ることのできないものが年相応に増えていく。頼まれるということは嫌い
ではないが、時折、ネットで対話などしたこともない、見知らぬ人から、問い合わ
せというか、相談ごとが持ち込まれたりもする。「花田さんのような方にメールを出
すことは、凄く勇気を必要としました」と書いてある。そうだろうなと自分自身、思う
から、返信を書くことになる。見ず知らぬ方に、返信を書くというのは、正直に言
えば疲れる面もあるということを否定しない。

もちろん、頼みごとをしたことが一度もないとはいわないが、ネットにおいては、極
力、それをしない。私はおそらく無意識にそういうことを課してきた。人を安易に頼
るべきではないとか、そういう単純なことではなく、義理とかしがらみのようなもの
をネット上の交流に必要以上に持ち込みたくはない。そういう意識は強かった。

そういう意味では「頼まれて」引き受けたことなど、私は絶無に等しいものがある。
引き受けたのではなく、自分があくまでも主体的に取り組んだ、私が選びとったと
いうふうにしか考えない。そういう思考のタイプということだろうか。

例えばBUNTEN氏の「ネットに対する評価」もちろん、私とて「奇妙な幻想」など抱
いたことはないが、それでも便利に感じる面はある。「古書探し」おそらく古書検索
サイトに出会うことがなければ、私は生涯出会うことのなかった何冊かの本があ
る。地方都市に住んだ時代、古書店の数など限られているし、目録の数とてしれて
いる。東京から目録が届き注文したときには、売却済ということも珍しいことではな
い。

もうひとつは、少なくとも「仕事」周辺から全く離れた多くの人々と議論し、交流し、
時には会い、酒を呑む機会を得たことである。会社勤めをしていると、どうしても
交際範囲というものが、仕事の延長線上に絞られてくる。私は5番会議室の発言
をきっかけに、解放同盟の方々と話をする機会に恵まれた。少なくとも私が幼い
頃の「全解連と解放同盟」の対立など、活字の世界だけではわからない。わから
ないことは、知らないことを、知りたいと思う。そういう好奇心を触発させてもらっ
たことは一度や二度ではなかった。

川上徹氏、宮崎学氏、西村博之氏、ふくやん、こういった方々とも、ネットがなけれ
ば、お会いすることもなかった方々である。こういう人々と酒を呑むというのは楽し
いことだ。おそらくは、今のFSHISOでオフ会を通して、実在の人々に最も多く会う
機会に恵まれたのは、私かもしれない。

その中には、おそらくは今後も、交際が続く方がいる。そして、二度とお会いすること
がない方もいる。理由はそれぞれ、それでいい。ただ、幸い、そのことで相手を恨む
とか、掌を返すような感情を私は誰一人として持ったことがない。つまりはある関係を
維持するための「無理なことはしない」ということである。理解を強要するようなことは
時に「あざとさ」につながるからだ。無理をしなかったから妙な感情を抱くこともなかっ
たという気がする。

あとは、私なりのFSHISOにおける「総仕上げ」をどうするか、ということである。
現代思想掲示板で「手塚−宮崎」論(というか何というか)をみて、私は苦笑してしまっ
たが、ちょうどいい機会である。これも買い求めて読んでいない「漫画大全集」のDV
D−ROMでも楽しむことにしよう。宮崎駿の「10歳の少女が特殊な浴場で働く物語」
(笑)は、今時、あんな法外な値段をつけることに腹が立って、予約しようかどうか決め
かねているのだが。





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