管理人、ふくやんの閉鎖告知から、もうすぐ24時間。
閉鎖それ自体については、前回述べたとおり、私にとっては「あってもなくてもどちらでも
いい」板であり、読むことはあっても「書き込む」ことはなかったので、喩えていうならば、
「花田てんこ盛り」の日刊紙(??)が、休刊するのだな、という程度のものでしかない。
それよりも、今回の閉鎖については、それ自体が管理人に対する不当な圧力や実力行
使的なことにつながる気配は今のところなく、それぞれの板で雑感のようなものが語ら
れている程度。ある種の「無血革命」をみるような思いが、私にはある。
キャプテン氏の「行動」とか、それについての是非について、私はここで何かを語るつも
りもない。私とキャプテン氏が「同じ考え」であるはずもなく、同じ考えを抱かなければな
らないということでもないからだ。まぁ、この人が今まで事あるごとに語ってきた「自由」と
か「愛」とか「大衆化」とか、あれは一体何だったのだろうかと思わなくもないが、彼は今
回の「閉鎖」によって、自ら望むものを獲得したということである。その得たものを今度は
後生大事に抱きしめていけばいいのではないだろうか。それを抱きしめるがために彼が
失ったものの大きさなど、人が詮索して、ああだのこうだの述べるべきではないし、今度
は自分が閉鎖した、彼にとってはその「おもちゃ」を誰にもさわらせることなく、みせびら
かすこともなく、毎日磨いていればいい。しかし、もうその「おもちゃ」は彼の手の中で、
動くことも、笑うことも、むずがることもない。コードをひきちぎったのだから。
無表情な、哀しそうな「おもちゃ」の視線に晒されて、目を合わせることなく抱きしめてい
けばいいということである。彼が得たものは、私には生涯、縁はない。
もう随分前のことである。
毎日新聞紙上で「ドキュメント同時進行連載 毎日新聞」というルポが同紙に連載された
ことがあった。毎日新聞紙上で「毎日新聞の問題点を抉る」というものである。編集体制
労働組合、制作局の問題。果ては賃金に至るまで、ベールに包まれていたものが次々と
明らかにされていく。当時の経営陣も批判の対象である。彼らからみれば決して好ましい
内容ではなかっただろう。「こんなことまで書くのは露悪趣味だ」社内でも問題になった。
その著者は内藤国夫氏。現在はフリーライターである。
実は、私も毎週、読んでいて、これはやりすぎではないかと、感じたことも少なくなかった。
これを世に発表することによって毎日新聞はよくなるのか。正直、疑問にも思った。
しかし、私は、そのことを許した時の経営陣を高く評価している。その経営手腕は別にして
も、彼らとて元は言論人である。もし、経営者が「俺が誹謗中傷されている。こんな新聞で
は駄目だ。もう明日から休刊。輪転機停止」そんな話は無論、通らない。
匿名掲示板の設置を申請した者がいる。そして、そこを本人は思う存分利用する。今まで
とは違ったコミュニケーションが生まれる。何人もの名無しさんが集まってくる。申請者の
知らなかった情報(それが誤ったものにまみれてはいても)も掲示される。何より場は賑や
かになる。場の提供者である者は、それをみて楽しむ。そしてまた書く。
ところが、コミュニケーションというのは、そう自分の思い通りになるわけでもなければ、
他者に囲まれた無数の手繰り寄せられない糸が、わっと放たれてしまうものである以上
自由にもならない。そこから暗雲がたちこめてくる。申請者にとっては、おもちゃが突然
暴走するようなものだ。手におえなくなってくる。
こういうときに、手におえないものは「手放す」という考え方も実はあるのだ。うまく利用で
きる人たちに「差し上げる」のである。自分はもうその「おもちゃ」をあきらめる、つまりは
巡回しないということ。そうすれば、それをもらった者は、当初は、最初の持ち主のことを
ああだこうだということはあっても、所有者面をせず、離れていけば、やがては忘れる。
ところが所有者は所有者で未練が残る。これは俺のものだ、お前たちの勝手にはさせな
いということになってくる。これは俺のものだ、俺が作ったのだから俺が壊す。好きにはさ
せない。そういうことになる。しかし、そういう所有できるものではないのだ。場というもの
は。
躾そこなった玩具は、俺が処分する。これは最初から最後まで俺のものだ。それがこの
「おもちゃ」を最初に強請ったものの責任なのだ。そういう考え方に私はついていけない。
それは傲慢というだけである。
そのおもちゃを前に集まってくる人々に「壊そうと思うがどうか」それはいい。
しかし、そのために都合のいい賛意など別の場で求めるべきでもない。壊したければ、
自分で壊せ、壊すことの許可など求めるな、ということである。壊すためにどんどん準備
を進める持ち主を前に、言葉をかけるなど、さぞバカバカしいことであったろう。
さんざん自分が遊んで思いどおりにならなくなって取り上げて壊す。身勝手の見本という
他はない。
私は遠くからその「おもちゃ」をみていた。もちろん「お気に入り」ではなかった面はあるに
しても、そこに集う人々の目線をみることは苦痛ではなかった。こういうおもちゃの遊び方
もある、人々の笑い声、いつまでたっても帰ろうとしない人々が、そのおもちゃを動かし続
けていた。そのエネルギーは少々のものではなかった。
時々、私はそこからひとつふたつをとりあけて、油を射すことを覚えた。借りてきて、さわっ
てみて、また元の場に返した。動かなくなったものもあれば、元気に飛び回るものもそこに
はみえた。
明後日の23時。おもちゃは動かなくなる。そして私の前からも消える。そのときに、私はお
そらく何ともいえない「軋み」を聞くことになる。おもちゃそれ自体は、人々の求めに応じて
それをわからず誠実に、不平不満ひとついうことなく、ただただ動いてきただけだというの
に。ひきちぎられる。涙を流した者の高笑いと共に。
その軋みや、くすぶる煙や、もうその瞬間には物言わぬ「板」の、廃品すらそこには残るこ
とはない。
軋みと共に崩れる音を私は聞きたいと思う。その背景にある何かなど探したところで、つま
らぬ涙が消し去っていくことは、わかっているにしても。
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