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人間の貴賎という問題(3)



FSHISO5番会議室の3,000発言目(これは既に発言者によって削除されている)からの
七十余発言。おそらくは、そこに参加した者、ROMしていた者、場はともかく何らかの
意見を表明した者、それぞれに問題の捉え方が微妙に異なっているように、私にはみ
えた。今回の場合、当初の発言者が、この問題を「人権会議室」で展開するということ
になり、それに私が対応するという形で、議論が始まった。そのテーマが純粋に「人権
問題」である以上、それをFSHISOの5番会議室で議論することに、峻別を持ち込む理
由など、もちろん私にはない。

持ち込んだ発言者が、この問題をどうFSHISOで論じるのか。自身の主張を展開する
ことにより、どうツリーを育てていくのか。5番会議室のテーマとして、そこにFSHISOの
会員の声をどれだけ反映していけるのか。ひそかに私はそういうことを考えていた。
ツリーを育てる、そこに多くの意見を集めるというのは、提起者の手腕にかかっている
という面がある。

この場合、誰が花田の理解者であるかないかなどという、問題そのものの本質とは違
う方向に話が進んだこともあり、私自身もpolo氏との議論に、意義のあるものを殆ど見
出すことはできなくなっていった。かってのFSHISOでは、なかった現象でもある。
そもそも、そんなことは発言者にとっては、とりたてて問題にすべきようなことでもない。
例えばBW氏や紫野氏は「花田の理解者であるか」どうかが、議論の主題になったわ
けでもない。個人として、この問題について、自身の見解を述べているだけのことであ
る。私とて、とりたててこの問題でBW氏や紫野氏と、双方が「理解者」と呼べるほどの
意見、見解の一致をみているかどうかなどということは、わからない。そういう議論をし
たこともなく、そんなことを確認したこともない。ただ、polo氏だけが、何を感じたか、そ
のように「思った」という事実が、FSHISOには残されたということである。

5番会議室での議論よりは、私はこの問題と関連するかのように、夢案氏が2番会議
室で「差別のメカニズム」という発言を立ち上げたこと。その内容について、やりとりが
できたことが非常に有意義であった。氏からみれば、この問題を、FSHISOの5番会議
室で再び取り上げられたことについては、やはり重たいものを感じられただろうと思う
からである。おそらく氏は5番会議室の進行をご覧になっていたはずである。
その上で、氏は2番会議室で前述した表題の発言を残された。そのことを私は喜んだ
ことも事実である。そして何より、氏が「被差別部落の問題」「差別問題」について、自
身の思うところをはっきりと示された。この問題を考える何かのきっかけになったとす
れば、それは立派な意味を持つ。

そういう発言を残されたことは、おそらく夢案氏の記憶に残られるだろうし、氏がネット
や実社会の様々な関係性の日常において、反差別というスタンスを思いおこしてくだ
されば、それは、最初は個人のささやかなものであっても、必ず「ちから」となる。
そのことが、何より私には嬉しい出来事であった。

「きんさん」がSYSOPであった時代−FSHISOというのは、そこにひとつの理念に支え
られた運動体としての機能を有するフォーラム、そのようなものがあったと、誰からだ
ったか聞かされたことがある。これはWAKEI氏との方針とは異なるようでもあった。
「運動体としてのフォーラム、共通の理念を打ち立てる」という意識はWAKEIさんには
いやSYSOPとしては「なかった」ということであろう。

もちろん、これはどちらがいいとか悪いという問題ではない。私はどう考えていたかと
いえば、例えば様々な議論の中から、自然発生的に、ある問題に共有できる価値観
を抱いた人々が、それを具体的な運動へと昇華させていくというのであれば、そうい
うものは「あり」だろうと思っていた。

ただ、FSHISOでは、そういうものは非常に生まれにくいだろうとも思っている。
しかし、それだからどうこうということでも、勿論ない。

私はこのフォーラムに「様々な分野の様々な問題を、人々はどう考えるか」という、
意見の開示。衝突の中で、かいまみえる「本質」に触れてみたい。そういうスタンス
で参加してきた。そして議論をどう膨らませていくか。例えば私からみて、突拍子も
ない発言とか、思わず目を疑う発言というものもある。しかし「差異」「違い」というこ
とそれ自体は、悪いことでも何でもない。そういう発言だからといって排除されるわ
けでもなく、削除されるわけでもないのだから、そもそもFSHISOに「全体主義」など
というものが存在するはずもない。将棋でいうなら、これはもう「一目」に近いものが
ある。

「人間の貴賤」という問題を考えたときに、実は次に考えるべき提起というものが、
既に私の中にはある。それは改めて、そう遠くない時期に、FSHISOで展開してみ
ることにしよう。





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