評論するページ

うるさいえふしその私。



苺ちゃんねるの「どうでもいいスレッド」というものが出来て、今日、それを読んでみたら
その内容たるや「不思議な」花田スレッドに変容していた。今回は、いちいち引用はしな
いけれど、表題のようなテーマを課してみようと思う。

しかし、その前に。

苺ちゃんねるの「えふしそ板」の中には「花田は議論が壊れようが論理が破綻しようがど
れだけぶっ叩かれようが、ぴんぴんしている」という発言をみることがある。そのとおりと
いいたいところだが、実はそんなことはない。私だって「萎える」ということはある。

例えば「『資本論』など何セット求めたかわからない」と書きながら、そのことを問われると
「あれはカマシですよ」などと、いけしゃあしゃあと書いている会員の発言に突き当たる。
萎えてしまうのである。「(花田と)ふたまわりも年齢の違う者に対して、無礼だ非礼だ」と
言わんばかりの発言を残しておきながら、蔵書の量(そんなものは実際に、たいした自慢
になどならない)を欺く。そんなものを「カマシ」の道具に使う。もちろん江合氏のことを指す
のだが、この人の「カマシ」というのは「場」に対して甚だ無礼であり、非礼である。
あんな恥ずかしい発言を読んでしまうと、私の思考は麻痺し、言葉を失ってしまう。

それとか、わっと氏の2番会議室における「知ったことじゃない」発言。こういう発言も私を
萎えさせるには、充分な効果を有する。これはFSHISOで、ご本人に直接RESをさせてい
ただいたので、ここでは触れない。SYSOPから「敵」と言われるよりは、こういう発言の方
が、私には遥かに堪える。

議論のフォーラムで5年間以上も、ある程度、コンスタントに発言を続けていけば、それは
「不快だった」ことなど、思い出していけば、きりがない。しかし、そんなものを「不快だ不快
だ」と言ったところで、そんな発言は何か意味があるのかというと、何もない。「そんなに不
快ならとっとと退会してしまえ」ということで終りである。

書いても仕方のないこと、書くことによって不快感から解放されるというならともかく、そんな
ことをああいうフォーラムで書けば、書いたことによる「自己嫌悪」に襲われることは目にみ
えている。そんな不健康なことは、私はしない。

不快なことばかりということでも、もちろんない。ただ、そういうものは、別に私が「快であっ
た」などと書くわけでもないから、わかりにくいのかもしれない。しかし、こんなものもまた、
発言者が一人勝手にそう思っていればいい、という程度のものであろう。

実は「どうでもいいスレッド」を読みながら、私は前にも書いたことを思い出した。時々、私に
対して「花田さんは“癒しの人”である」などと、こっちが仰天するようなことを伝えてくる方が
いるということ。

「自らの言論によって窮地に陥った者を救うことなどしない」というのは、WAKEIさんのひとつ
の考え方にある。最初、FSHISOのどこかで、そういう発言に接したとき、私は「凄いとこだな、
ここは」と思った。私がSYSOPに頼ってはいけない、ということをはっきり自覚したのは、この
発言を読んでからである。

ところが、実際は、WAKEIさんは、そんな非情な方ではない。特に氏のSYSOP時代、私から
みれば「どう考えてもスタッフに非がある」と考えられるものでも、WAKEIさんは、頑張って「庇
う」ということをする。とても私はそれは「理」とは思えず「情において忍びないから庇っている」
ようにしかみえないのだが、ご本人は、そんな素振りもみせずに押し切ってしまう。

「ええかっこしいだなぁ」と思ったことがあった。しかし、そう思っただけで、別に「悪い」などと
思ったことはない。

以前、tty氏がFSHISOの会議室で「できるものなら私は機械になりたい」という趣旨の発言を
書かれたことがある。できるだけ感情を排し、公平な運営を目指したいということであったの
だろうと思う。機械が壊れなければいいのだけれど。

と、書いたあと、もう一度「どうでもいいスレッド」を覗きにいったら、青春のフォークソング氏
の「作品」に遭遇し、私は爆笑してしまった。これでは書くという緊張感が持続しない。肝心な
問題は、改めることにしよう。まだ笑いが止まらない。







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