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「お仲間」とは何か。



私が出版推進室にいた頃の、そして「出版」についての打ち合わせをそこで行っていたとき
に、掲示板では「WAKEI・tty・花田お仲間云々」などという発言が満ち溢れていた。

心底「苦笑」したものである。少なくとも私は、無原則・無批判に従属されるような立場では、
全くなかったし、どこであっても「おかしなことはおかしい」と主張していたし、推進室でもここ
で紹介したように、激烈な衝突の経験もあるわけで、間違っても「仲間」などという粘着的な
関係を求めたこともなければ、他者に甘えたということもない。

正しく言えば「支援者として一時期を過ごしたことがある」というだけの関係である。それはお
そらく、他のメンバーも私に対して同様であったことと思う。どこであろうが、誰であろうが、理
不尽なことは理不尽なのである。そういう最低限の緊張感が「あった時代」には、それは私に
とっても心地よい場所であった。

出版に関われば「お仲間」といわれオフの幹事を行えば「お仲間」といわれる。不思議なフォー
ラムだなぁと思っていた。

別に「オフには出ない」と考える、或いはそう決めている会員がいても、それは全く構わない。
そんな自由はもちろんあるのである。ただ、ネットというのは、コミュニケーションの場という一
面を有していて、それが重ねられれば、会ってみたいと思うことがあっても、それは全然おかし
なことではない。そんなことに禁欲的であるという必要は全く感じなかった。

ただし、一フォーラムでの「議論」が縁で、せっかく会うのだから、できるだけ楽しく、ゆっくりと、
酒を呑もう、食事をしようということだけは考えた。

大体、酒を呑んで議論すると、ただでさえ対立するのに、更に拍車がかかるような事態になっ
てしまう。オフの参加者が、全てその当事者の議論をみているというわけでもない。そういうも
のは、不毛である。幹事をしていると、自分が酔うわけにはいかないということぐらいだろうか。

ただ、こういうことは思っている。

私があのフォーラムで発言するようになって、五年が経過した。で、五年間活動して、誰ひと
り、自分が本当に信頼できる人間、その会員には、多少は自分のプライベートなことも語れ
ば、時々に、自分の趣味だとか、関心事だとか、人生観だとか、そういうことについて、双方
のタイミングが会えば、食事をする。酒を呑む、そういう胸襟を本当に開ける人間に全く出会
うことができなかったとすれば、それもまた寂しいことだし、いかにも甲斐のない話である。

幸い、私は、FSHISOで、自分で言うのも何だが、遠慮会釈なく、多くの議論に参加する機会
に恵まれた。それらの過程で、何人かの本当に信頼できる友人に出会うことができた。
学生時代の「親友」のような関係、それは「迷惑を迷惑と思わない許容量の大きさ」であり、
「理屈抜きと正直」が同居する世界だと私は思っているが、実は、ネットでそういう関係など
永劫、できはしないと私は考えていた。

ところが、そうでもなかった。これは私にとっては驚きにも似た発見であった。

もちろん、私は彼らとFSHISOの議論を巡っての処理だとか、出処進退などを協議したこと
は一度もない。「来週大阪に行くけど、飯食べようか」「この日ならいいよ」「じゃ、そのとき、
頼まれていた○○○○の資料もっていくね」「ありがとう。じゃ食事はここで」「この前の○○
は味が今ひとつだった(笑)」「馬鹿野郎(笑)この味音痴め」そんな話である。

例えば、このフォーラムに、私が参加しなければ、絶対に出会うことのなかった人々という方
がいる。そのときに「相手をわかったような気になって、間違ったことも」あれば「こういう会員
が実は、こんなことを考えていた」とか「結果的にみれば、私が訴訟支援に参画したことは、
間違いであった。そのことに、もう少し早く気がつくべきであった」とか、そういう経験はいくつ
もある。

間違ったことも、それによって失った時間も、そのことによってしか「みえなかったもの」も、
みえていながら「甘かった」ことも、そして私がそういう場で「得た」ものも、今、考えれば、 
それでも得たものの方が私は圧倒的に多かった。それは、幸せなことである。

他者を見極めるという訓練には、このフォーラムはうってつけである。





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