TOP | ■ アピール | ■ 活動報告 | ■ GPCA-FAQ | ■ トピックス | ■ 出版案内 |
mook 動物ジャーナル | ■ Links | ■ 通信販売 | ■
ご連絡窓口 |

TOP mook 動物ジャーナル バックナンバー 動物ジャーナル69・作品紹介「求塚」

■ 動物ジャーナル69 2010 春

  「求塚」

(もとめづか)

 ──恋から修羅へ


 まだ雪も消えつくさない春。西国の僧が都を目指し、海山かけてはるばると長い旅路を続けてきたが、ようやく摂津の国に至り、ここは伝説のある生田の里。
 折よく数人の女性が若菜を摘もうとあらわれた。
 僧は、ここはもう生田の里かと尋ね、有名な求塚はどの辺りか教えてと言う。
 女たちは、生田とおっしゃる以上はもうお尋ねにも及びますまい。このあたりの有様でお解りでしょう。この所々の林を生田の森といい、今渡って来られたのが生田川。草がわずかなので小野ともいうのでしょう。歌人たちならば諸国の名所をご存じでしょうが、
ここに住むからといって、私たちは何も知りません。求塚? 名は聞きますが何も知りません。私たちは若菜を摘む暇が惜しい。あなたもお急ぎの旅でしょうに、どうしてここにこだわっていらっしゃる。そうそう、こんな歌がありました。
旅人の道さまたげに摘むものは 生田の小野の若菜なりけり
 都へお急ぎになってはいかが。と言い捨てて、若菜摘みにかかる。
雪にまぎれては 摘みかぬるまで春寒き 小野の朝風 また森の下枝(しづえ)松垂れて 
いづれを春と白波の 河風までも冴えかへり 吹かるる袂(たもと)も猶(なお)さむし 
摘み残して帰らん 若菜摘み残し帰らん

 若菜摘みも寒いので中止。女性たちは連れ立って帰ってゆく中に、一人たたずみ、僧に、求塚を教えましょうと、案内に立った。
 塚の前に至ると、女は僧の求めに応じて、求塚のいわれを語り始めた。その物語とは…

 昔この所に菟名日乙女(うないおとめ)が住んでいた。その頃小竹田男(ささだおとこ)・血沼の益荒男(ちぬのますらお))二人の青年が乙女に心をかけ、同じ日同じ時に思いのたけを綴った手紙を贈った。
少女は、片方になびけば片方の恨みも深いことであろうと、応ずることもなかったが、「あの生田川の鴛鴦(おしどり)を射あてた方へなびきましょう」と申し出た。二本の矢はもろともに一つの翅(つばさ)に中(あた)った。

 他人事(ひとごと)のように求塚のいわれを語っていた女性は、語るにつれて、私は…と、調子が変ってゆく。

その時わらは思ふやう むざんやな さしも契りは深緑の 水鳥までもわれ故にさこそ命はをし鳥の つがひ去りにし哀れさよ 
思ひ侘び 我が身捨ててん 津の国の 生田の川は 名のみなりけり 
と これを最期の言葉にて この川波に沈みしを 取り上げて此の塚の 土中に籠(こ)め納めしに 二人の男は此の塚に求め来りつつ いつまで生田川 流るる水に夕汐(いうしお)の 刺し違へて空しくなれば それさへ我が科(とが)になる身を助け給へとて 塚の中に入りにけり 塚のうちにぞ入りにける

〈意訳〉 二人の矢が鴛鴦の片方を射てしまったとき、私は思った、契りの深い水鳥まで、どんなに命を惜しいと思ったことか、私ゆえに伴侶を失わせてしまった。二人のどちらと決められない以上、「もう生きる気力もない。身を捨てよう。生きるという意をもつ生田川はその名の甲斐もないことだ」との歌を残し、私は身を投げた。その身はここに葬られたが、二人の男はこの塚を訪ねあて、刺し違えて亡くなった。そのことさえ私の罪となり、いまだに責められている。この私をどうか助けてと言って、塚の中に入った。


 塚の中に消えた女性がこの伝説の主であったと気付き、僧は亡魂を弔おうと経を読誦(どくじゅ)する。やがてその女性は現れいでて、わが身の苦患(くげん)を語る。

 この塚に葬られながら、埋もれも果てず、火宅を栖(すみか)として身を焼き続けています。御僧の御経の声に触れて、大焦熱の煙の中に少し晴れ間の見える心地、有難いこと。…や、誰か? 小竹田男の亡魂か。またこちらは血沼の益荒男。二人が左右の手をつかみ、こちらへ来いと責めかかる。が、どうしてこの火宅を出られよう。二人の亡魂は去り、代って目の前に現れたのを見ると鴛鴦が鉄の鳥となり、嘴(くちばし)は鋼鉄、足は剣(つるぎ)の如き武器となって、頭をつつき、脳髄を喰う。これはそもそも私の犯した罪だったのでしょうか。助けていただけますか…
と訴えるうち、また苦しみの時が…と嘆くのを見ると、塚の上を火焔が覆い、光は空中に鬼となって、女を杖で追い立てる。進もうとすると前は海、後は火焔、左も右も、水火の責めに押詰められ、詮方(せんかた)なく火宅の柱にとり付くと、柱はたちまち火の柱となって身を焼きつくす。

 女は八大地獄の数々を語り、鬼も去り、火焔も消えると、僧に救いを求めねがって、暗闇の中をあなたこなたと塚を求め、やがてたどり着き、求塚の中へ、消え消えと、亡者の形は失せたのであった。

[蛇足]
 「生田川伝説」「乙女塚」などの名で知られる物語です。万葉集では長歌のかたちで詠まれ、平安時代の「大和物語」にストーリーが具体化されて語られました。
 そこには、二人の男の求婚の様子、乙女の親の発案で水鳥を射ることになったこと、乙女の入水後、二人が後追い入水したこと、二つの塚の築き方、死後の決闘などなどが細かく書かれています。
 能「求塚」はこの伝説の枝葉を伐り落し、主眼を地獄の責苦に移しました。
 なぜこの乙女が責められなければならないか。本文では、二人の男を死ぬ羽目にさせてしまったこと、及び、鴛鴦を死なせてしまったこと。となるようです。
 いずれも乙女本人の行動でなく、相争う二人が恋を得ようと勝手につっ走って「やってしまった」ことです。水鳥を射当てたらと言ったのは乙女ですが、手を下してはいません。乙女の死後二人が刺し違えて亡くなったのは、二人の自由意志でしょう。
 けれども、これだけの責苦が与えられる。これは乙女の存在、ひいては「女という存在そのもの」が糾弾されていると理解すべきなのでしょうか。中世という仏教色の強い時代を思えば、納得できますが、今は深入りしません。

 さて、実際の能舞台で演じられるとき、前半の抒情的な若菜摘みから一転して、後半、後シテ・菟名日乙女が修羅の責苦にあう描写となります。
 その中で最も強く印象づけられるのが鴛鴦のくだりです。詞章では、ほんの数句であるにかかわらず、シテが両手を上げて頭を覆い、攻撃を避けようとするかたちなどがあるからでしょう。また文句も生々しいものです。
 そういう演じ方、感じ方も一先ず置き、鴛鴦について考えてみたいと思います。
 オシドリは東北地方を中心に繁殖し、主として西日本で越冬するカモ類の水鳥、と説明されます。生田川に飛来し、春を迎え、まもなく故郷へ帰ろうとしていた番(つがい)の片方が、予測もしない暴力によって突如命を落す。現代の通り魔殺人の被害者と同様です。
 逝ったものも残されたものも、実行犯に対する怨みは深い。のみならず、そのように実行させた者へも怨みは向うはず。
 実行させたのは誰か。「女が、水鳥を射当てた方に」と提案したのですから、実行させたのは乙女。それ故、鴛鴦の亡霊からすれば乙女を責め苛(さいな)むのは当然のことです。
 けれども乙女にその自覚はないようです。かぐや姫の要求という伝統がありますから、ごく当り前と思っていたのかもしれません。無邪気な遊び、思いつきだったかも。が、鳥はたった一つの命を奪われたのですから、理由の如何を問題にしません。強烈な報復はそれを示します。
 「殺させたことも罪科(つみとが)となる」との自覚と悔い改めがないかぎり、救済されることはありません。舞台で、乙女が塚に戻ろうと暗闇の中を求め求めするさまは、それを表現していると考えられます。

 「殺させることも罪」。戦争責任、肉食問題、愛護センターに持込むこと…等は、どう考えましょうか。

 (青島)