先の『動物ジャーナル65』に下関市の新致死処分施設検証の記事を掲載したが、県議会議事録(要約)をつぶさに読まれた一読者から「どうして殺す事にこんなに熱心なのか。見当違いに張り切っている。」という厳しい言葉が届いた。ほとんどの読者が同様に感じられたと思う。
殺すのなら勿論苦痛のない死が望ましい。「殺すのなら」である。その前段に「殺す」か「殺さない」かの選択がある。
殺すか殺さないかの選択
すでに明確なように、自治体は「殺す」を既定のこととしている。その状況の中で、愛護団体はどう活動してゆくべきか。
近ごろ流行の政権選択ではないが、動物愛護団体が「殺す」「殺さない」のどちらを選択しているか、これは活動のあり方に波及する。
「殺す」を選択した場合、次に「どのように殺すか」その方法の選択となる。愛護・福祉を標榜している以上「苦痛のない死」は当然選ばれる。
「下関市ケース」に関った愛護団体が好例である。
「殺さない」を選択した場合、「殺す」方法の論議はナンセンスそのものである。
「殺さない」を至上と掲げる当会の同志が、殺し方追求に溺れる下関市を「見当違いに張り切っている」と揶揄的に酷評するのも、十分納得できることである。
当会は「殺さない」を選択
当会は「下関ケース」の考察を機に、「殺す」上での方法?探求?など容認しない。この立場を確認する。
このように異を立てた以上、つまり「殺すな」と求める以上、どのように「殺さぬ」を実現するか、案を提出する義務が生じるであろう。
今回は、その提案をしたいと思う。
当会の主張
「行政は殺処分をやめてください」という主張は『動物ジャーナル』創刊当時より繰返し述べてきた。
1998年の「動物の保護及び管理に関する法律」改正論議の際も強く主張した。
具体的には「緊急アピール[法律改正の落し穴]」において
◇改正はどうしても必要か
◇〈改正〉は改悪になることがある
◇動物実験の規制は容認につながる
◇罰則は軽犯罪法のレベルにもどせ
◇意志表示は慎重に等を訴えた後、
◇では、どうしたらよいのか─動物虐待防止会の立場
という項目下で、殺処分については、次のように書いた。
◎自治体による殺処分撤廃を
殺すことは悪いことである、こんな単純な事が現在おろそかにされ過ぎています。自治体が日常的に続けてきた殺処分が、それを助長させてきたと言っても過言ではありません。人心荒廃の基盤を作ってしまった自治体の殺処分を即刻止めさせましょう。「殺すこと」のメリットは何もありません。
殺処分撤廃を
このアピールは『動物ジャーナル23』(98秋)にも掲載した。その中で、この項目(◎自治体による殺処分撤廃を)についても補足説明をしたので、少し長くなるが、引用する。
…改正しなくても運用で保護法の目的・原則は達成できる、運用を担当する諸機関に対し、しっかり要求しようというのが当会の立場です。
そしてその第一の具体的提案が、自治体による殺処分撤廃です。
殺すことが当り前になっている現在の状況は異常としか言いようがありません。保護法には「引取らなければならない」とありますが、それを殺してよいとは書いてなく、自治体の条例レベルになって「処分・殺処分(東京都の場合)」の語が現れます。(中略)
殺処分を撤廃したらどうなるかを考えてみたいと思います。
今まで気楽に持ち込んでいた人は、自治体職員から厳重に説得されて、終生飼養に転ずるかもしれません。
子犬子猫の持ち込み常習者は、同じく不妊手術を勧められて応ぜざるを得なくなるでしょう。
保護施設は、それでも、見放された犬や猫で満員になることでしょう。それを減らすには、自治体が積極的にもらい手探しをしなければなりません。それに付随して、不妊手術も徹底されてゆくでしょう。自治体によるもらい手宅での動物のアフターケアは、虐待や新たな遺棄を防止できるでしょう。これは保護法の理念実現ではありませんか?
このように転換したあかつき、自治体職員は変化した内容の仕事を拒絶するでしょうか。自民党公聴会で、現場の職員の「引取らなければならないを引取ることができるに変更してほしい」と言う声が伝えられました。折しも『週刊文春』十月一日号(98年)では、殺処分に従事する職員のジレンマが報告されていました。
動物の世話をし、もらい手候補者と会話し、よき飼い主を育成してゆく仕事は、いわゆる愛護センターを真の愛護センターに変質させることになります。明るく、豊かな感性をはぐくむ空間を、早く実現させましょう。
又、殺処分撤廃はヒトを悩ませ続けている捨犬捨猫をなくすことになります。
捨てる人は、殺されるのが嫌で、仕方なく投げ出すのです。もし愛護センターが食住保証付きと判明すれば、そこへ預けに行き、再び迎えに来るかもしれません。
それから、これまで捨犬捨猫の世話をしていた人々には余裕が生じ、保護施設でボランティアとして働くことも希望するようになるでしょう。
「殺すこと」のメリットは何もありません。「殺さないこと」を実行して、現代人が見失っている「人間の心」をとりもどそうではありませんか。(一部語句を修正しました。)
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十年以上前に書いた事柄に、今つけ足すものもないと思われる、そのことに絶望しそうである。
しかし、現実が停滞している以上、このときの主張をそのまま繰り返すしかない。
今回の提案として、上記の全文をさし出したいと思う。
殺処分撤廃のために
この度、「下関ケース」掲載をきっかけにして、さまざまなご意見をいただいた。
本稿冒頭の「見当違いのはりきり方」と同様の発言が多かったが、電話で「時代遅れではないか」と言われた方もあった。それは、巻頭・天野氏のご主張「以前は数が多すぎて殺さざるを得ない事情があったかも知れない。しかし現在は数が減った。事情が変ったのである。殺すことをやめるべき時が来ている。」とも重なる。
天野氏の「皆様 起ちあがりましょう」との力強い呼びかけ、また、読者諸氏の激励や示唆に呼応し、行動を起す必要を感じさせられた。
当会は今後「殺処分撤廃」を実現するための方策を立ててゆく予定である。
このような方策について、お知恵をたくさんお寄せいただきたく、併せて、行動を共にしていただければ幸いである。
付録──愛護団体運動さようなら
現在、当会に寄せられているご提案の一つに、署名活動があります。
いろいろな団体の運動方式として、古典的といってもよい方法で、一定の効果も見られますので、提出先をどこにするかを含め、内々検討を始めました。
ただし、「動物愛護団体の活動」とはしたくないと考えています。「殺さないで」という思いは「愛護団体」だけのものではないからです。
世間一般の、普通の人々の普通の感情として、普遍に在るもの。それを素直に丁寧にあつめたいと思います。
「愛護団体」はともすれば声高に「動物のため!」と叫び、「こうすべき、こうあるべき」と説教します。一般人から奇異の目で見られる所以です。
「殺さないで」との思いは、この種の人たちに占有されてよいものではありません。
日本古来の考え方・感じ方を思い起し、現代人の心をうかがえば、「殺さないで」はほんとうに自然な感情でした。
それを阻害するような、現行の殺処分は、指弾されてしかるべきでありましょう。
殺処分を撤廃させる「時」を創りましょう。
署名活動を始めるときは、集約場所として、当会のおどろおどろしい名称を使わざるを得ないかもしれませんが、決して「愛護団体の活動」ではない、一般的なモラルからの要請活動であると、理解していただかなければなりません。
先ずは、読者諸賢にご理解いただき、この趣旨を判ってもらう工夫についてもお教えいただければと存じます。
再び、殺処分撤廃の「時」を、一刻も早く創りましょう。
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