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TOP mook 動物ジャーナル バックナンバー 動物ジャーナル64・「チロの死」殺人に想う

■ 動物ジャーナル 64 2008 冬

   「チロの死殺人に想う 」補足説明

青島 啓子


 『動物ジャーナル63』掲載の[「チロの死」殺人に想う]後半に述べた
愛護団体のこの手法はここ数年のいわば流行である。[1]
残酷な殺し方を喧伝することも容認しない。[2]

ということについて、補足の要があると考えたので、ここにスペースをいただいた。

[1]について
 容疑者が埼玉県の愛護団体に所属していたとテレビでは言っていたが、どういう団体か現在もよく判らない。が、関東・東北などで、いわゆるパネル展が盛んに行われていること、収容所の犬のポートレイト集が出版されていることなどは、新聞やタウン誌などの紹介で知り得るところである。
 この種のパネル展がなぜ盛んに行われるかというと、人を寄せ、納得してもらい、会員になってもらう、または寄附してもらう、つまり、集金手段として効率のよいものだから。そして展示の中味が過激であるほど効率はよくなる。その例証として以前にも紹介した投稿を再掲する。

戦前の大阪で有名となった有田ドラッグの商法と類似するように思えました。店頭に、誰しも目を背けるようなひどい病気の写真が多数展示されていて、それを見ると自然に恐怖感に誘われ、不思議に薬が売れたそうです。(『動物ジャーナル4』)(『同37』にも引用した。)

 こういう手法は卑怯ではないかというのが私の認識である。その上、中で活動する人々の感性を麻痺させる。ひどい写真に慣れてしまって初心を忘れる。運動家が運動屋に転落することになる。
 また「被写体の尊厳は?」(『動物ジャーナル58』)で述べたように、死にゆく対象の基本的権利を蹂躙して晒しものにするようなことは、動物愛護の立場からならば許されないであろう。動物愛護家は動物を愛していないの?と言われても仕方ない。
 したがって、パネル展等の流行は動物愛護活動ないし活動家の品位をさげるものであり、一般の人からは奇異の目で見られ、引いては動物をも貶めるものになってしまう。そのことを私は懸念する。

[2]について
 この主張の基になったのは『動物ジャーナル37』の「残酷写真を拒否します」である。その末尾部分を再掲する。

動物虐待防止会は、残酷写真によって善良な人々にゆさぶりをかけることを自ら禁じ、その種の写真が冷酷人種に情報を与えることになる危惧を深く考え、(動物ジャーナルに)おぞましい写真を載せることを拒否します。 

写真だけではなく、「殺処分は安楽死ではない」記述が飛び交っている。どぎつい内容に衝撃を受けてこの運動に身を投じる人も出てくるであろう。勢力の増大はありがたいことである。
 しかし、この種の実情を知ることに耐え続けなければならないとなると…と立ち止まり、後へ引いてしまう人もある。折角の「未来の味方」をみすみす失ってしまう。いわば同志に門前払いをくわせるようなもの、浅慮・軽卒の至りと言わざるを得ない。こういう普通の人が、頑強な活動家より掛け離れて多数であるというのに。
 「殺処分の喧伝」は主催者のサディスティックな性向を露呈するもの、愛護思想の普及・啓発にはなんの役にも立たない。役に立たないどころか、これが引金となって暴走したかとの可能性まで考えさせられることになった。

 以上で補足を終り、あらためて「殺処分をやめてください」と訴えることにしたい。
 そもそも私どもは「殺すことに何のメリットもない」と言ってきた。もう十年も前、「動物保護法」が「動物愛護法」に変る時の提言である(『動物ジャーナル23』)。繰返しになるが要約する。
 もし殺処分が撤廃されたら…行政の保護施設はたちまち満員になる。それを減らすには職員が必死に貰い手を探さなければならない。並行して、不妊手術も徹底される。職員による貰い手さん宅での動物のアフターケアは、虐待や遺棄を防止できる。そして職員は、殺す作業から解放され、建設的な職務に専念できる。同時に、殺されるのを嫌って町や野に捨てていた人は、施設に安心して預ける。捨犬捨猫に献身していた人々には余裕が生じ、施設で動物の世話に従事するかもしれない。
 たやすいことではないが「成せば成る」。これを目標として明るい将来を描き、地道な動物救済を通して周囲に影響を及ぼしてゆくことが今最重要であろう。(あおしま けいこ・動物虐待防止会代表)