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TOP mook 動物ジャーナル バックナンバー 動物ジャーナル62・動物愛護とメディアリテラシー

■ 動物ジャーナル 62 2008 秋

  動物愛護とメディアリテラシー

飯田 あきら


本題に入る前に

 「メディア・リテラシーについて書け」と青島さんから指令、もとい、依頼が来た。
 小生はメディア論の専門家ではないのだが、印刷物の編集やコピーライト(雑文執筆)を生業としているから、その意味では情報を発信する側にいる人間ということになる。雑文執筆のためには対象となる人や事案に直接取材する以外にも、殆どの場合は付帯する情報を各所から仕入れなければならないから、その意味では真剣に(切羽詰まってともいう)情報を探す──情報を受け取る側の(比較的)前の方にいるということもできる。そういう仕事だから「メディア・リテラシーについて」記事を書くにあたってはあいつでよかろうと青島さんは判断したのだろう─そんなことを考えるより早く返事をしてしまった。「あ、はいはい、やりますやります」──フリーランスの性である。 で、この最近ちまたで散見されるようになった「メディア・リテラシー」なる言葉について、簡単にご説明しておく必要があったりなかったりするが、これがなかかなひと筋縄ではいかんのです。さらに先述したとおり小生は専門家ではないので、現実に使われている「メディア・リテラシー」の意味合いについて説明するということになります。
 メディアとは、情報の媒体のことですが、新聞・テレビ・ラジオ・雑誌・書籍などのマス・メディア(広告を含む)を単にメディアと呼ぶことも多かったですよね最近までは。最近までは、と但し書きをつけたのは、インターネット&携帯電話というものが「突如出現的新媒体 普及是爆発的」したせいであります。(このへんのことはのちほど)
 リテラシーを直訳すれば「読み書きの能力」のこと。ゆえに「メディア・リテラシー」とは、日々受け取る情報を(報道であれ、口コミ・噂話であれ)その信頼性、発信者の意図・背景などについて受け手側が的確に判断する能力、そしてこちらから発信する能力─という意味で使われることが多いです。 このムックの読者のように動物との共生という理想を持ち、現状に深い憂慮を抱えている人は、問題意識が高いゆえに、動物への愛情が深いゆえに、動物愛護にかかわる情報に接した場合、無警戒にその情報を受け入れる傾向があるのではないか…「助けなければ」「応援しなければ」等々の感情が先に立ち、つい情報の吟味がおろそかになる。その結果「動物愛護と言われると簡単に欺される」ことになる。そんな動物を愛する仲間たちに対する焦燥感のようなものが青島さんの中にあって、この原稿依頼が小生のところに来たと、そんな構図をつらつら想像するわけです。クライアントの要望にきちんと応えることは、商業作文業者に必須の条件でありますから、今回はまず先に、リテラシー(読み書き能力)の読む=受信・受容の側面について、考えていきたいと思います。 受け取った情報を的確に判断する能力、左翼チックにいえば「権力側の情報操作に惑わされない力」をつけること。これは比較的理解されやすいでしょう。今や古典的な問題提起です。少しだけ人間長くやっている方なら?大本営発表という国家お墨付きの虚偽情報で万歳しちゃったり提灯持っちゃったなんて経験があるかもしれません。あれはファシズム体制で情報統制があった時代のことで今とは違うと思ったあなたそれは違いますよ。すべての情報は発信された段階で、必ずなんらかのバイアス(偏り)がかかります。客観報道を掲げる新聞であれテレビであれ、また口コミであれ、報道する(話す)事案を取捨選択し、要約し、どの切り口で報道する(話す)かは必ず決めなくてはなりません。これを編集といいます。編集なしには報道はおろか、他人とのコミュニケーションは成り立たないのです。試しに編集を一切しないで、隣の人に話しかけてみてください。「ねぇ」って呼び掛けたきり話が続かないはずです。何を話すのか、どういう順番で話すのか、どこまでその話題を互いが知っているという前提で話すのか、そんなことを誰もが瞬時に判断してから話をしていることに気づかれると思います。
 報道が中立性を保とうとすること、不偏不党であろうとすることは、報道それ自体が必ず一定の方向性を持たざるを得ないという宿命を持つことに対する自覚ともいえます。
「だけどね。ここまでの話ってさ、今さらの話なんじゃない?」ヤブ先生のところのムクくんあたりがツッコミを入れたくなるような展開になってきました。だけど、もう少し固い話につきあってください。

そもそも、なぜ今「メディア・リテラシー」なのか

 マス・メディアを批判的に読み解くといった概念は、1930年代すでに登場しています。テレビの普及時に日本でも「一億総白痴化」と名付けた評論家がいました。ベトナム戦争当時の60年代、メディアによって歪められた真実に迫れという動きが、アメリカで急速に高まります。
 そして1980年代に入り、カナダでメディア・リテラシーが教育に取り入れられたことで俄然、世界はこの用語に注目することになりました。隣国アメリカからの圧倒的な情報の流入により、自分たちの文化が絶滅させられるという危機感が、学校教育導入への契機になったとされています。
 読み書き能力の育成は、国語教育としての基本であり、これまで教科書というテキストによって行われてきました。その一方で、高度に情報化された社会で、情報がよりビジュアル的(映像重視)・イメージ先行(感性重視)になっている現状に対し、テキストによる論理的な「読み書き」を教えているだけでは対抗できないと考えたわけです。つまり今日的なメディア・リテラシーは、古典的な政治の問題ではなく、文化の問題として提起されたのでした。
 90年代に入ると、インターネットがメディアとして台頭してきます。電話のように大規模な中継地点を持った通信網では、そこを攻撃された場合に通信手段を絶たれることから、各施設を中継地点無しのネットワークで連結しようというアメリカの軍事研究に起源を持つインターネットは、その後大学同士が学術研究資料の共有化に利用し、改良が加えられ、電話線を使ったたネットワークとして爆発的に普及します。考えてみれば、たった十五年前の話です。
 インターネットという情報媒体が革命的とされるのは、(1)その媒体を実質的に管理統括する組織がないこと (2)個人が世界中のネットワークと連絡されたこと そして(3)個人が不特定多数に向けて情報発信する手段を手に入れたことです。
 この新しいメディアの登場は「情報革命」と呼ばれ、産業革命に匹敵するとすら言われます。(マス・メディア業界にいて、まだ気づいていないヤツもいるようですが、彼らは情報発信をするという特権を奪われてしまったんですね)
 しかし「革命」に混乱はつきもので、その弊害は枚挙にいとまがありません。今も続いています。 とうとう本論に入れずに与えられた紙面の末尾に来てしまいました。次回は「情報はどのように分析する必要があるのか」具体例を挙げて述べ、さらには情報発信の必要性について考察します。