エンピツ賞

●● エンピツ賞について

 ビックリハウスの芥川賞を合い言葉に'76年 にスタート。 文学賞の最たる権威“ 芥川賞”の名をお借りし、かつ“ 万年筆賞”ではなく「エンピツ一本あれば 文学できる」というノリで『エンピツ賞 』と題する。「権威」に「エンピツ」のイージー感覚をシンクロさせたという、つまりは冗談なのであった。しかし、そんなひとつの冗談が10年間、20回も続き2冊の単行本を出してしまい31033作もの作品を全国の若き天才達に書 かせてしまった現状は、もはや冗談では なくなってしまった。当初の冗談はどういい訳すればよいのだろうか。
(『驚愕大全』NTT出版より)

●●窪田僚君のこと


 

↑ 窪田氏の作品ネタ帳、コクヨのバインダ
ー。 自筆のイラストや、思いついた事柄や
、文 章を、走り書きでノートに書き留めた
もの。 イラストもあり、ボロボロだが秘蔵
品だ。

↑その中にファイルされてた受賞作「しづ
こちゃん」の元原稿。1975年脱稿と記し
てある。

 

 第1回のエンピツ賞発表は、1976年1 月号だった。応募作品は121編。1年後に は1200 作品 を上回る応募になったから すごい。 そして初物はやっぱりえらいわけで、その中でも、一等賞であるエンピツ賞を受賞したのが3人いた。窪田僚と、里田直久と、戸沼裕史だ。えらいえらい。

 私はまだ、当時学生でBHの存在に気づ いていなかったが、窪田君は北大建築科 出て、もう一度受験するんで、うだうだ と浪人してた時にBH を 発見して、わーって飛びついてしまったんだと。 札幌から出たことなかった青年にとっては、渋谷の香りがとても魅力的だったそうだ。
それで、その年の北大の経済学部に合格 できたけど、B H にはまり、功労賞まで とってしまい、その甘いマスクから一躍 有名ハウサーになってしまった。編集部 はなんどもエンピツ賞作家として安い原稿料で 原稿を依頼。そうこうしてるうちに「こっち来れば?」などと無責任なみ んなに言われ、その気に なって結局 3 年で中退。エンジンルームに社員として加わったのだった。僚君は 田舎から出てきましたってかんじで、 おどおどしてたから、年上って印象なくてずっと私はタメ 口してた。ごめんね。

 スーパーアートの方を手伝っていたみたいだけど、怒られてばかりの編集さんが向いていなかったみたいで、一年足らずで退社。その後は、作家となってB Hやその周 辺で活躍。さらに、少女漫画の原作となった彼の作品は、その後映画にまでなったという。よい売れっ子時代もあったんだね。詳しいことは僚君のファンサイト?をご覧 あれ。 http://yes.ouchi.to/ryo/

 今は、細々と文筆業を営んでるとのこと。
「仕事下さい」って爽やかに笑って言ってたけど、いい年なんだよねー。写 真撮ったら、郵便局とかJ R にいそうなおじさんだった。だから、見せない。くぼりょーファンの人ごめんね。
 

↑20年以上前の窪田僚氏

●●57人のブラッドベリアン

 1977年11月、BHの初の単行本。第1回 と第2回の中の入賞者達57人の作品集。原 田治さんの 装幀で新書館から出版された。
 窪田、里田、戸沼をはじめ、赤野田忍、 はなおかあさこ、太田次雄、森信隆夫、白 鳥真木子、内夕次、原孝之、渡辺民夫、吉 岡宏、山田邦子、蠍佳、沼田吉弘、田山英 世、とみたしん、小林一夫、内藤大士、工 藤恵津子、中島弘人等の名前が 見られる。
 途中からエンジンルームに入社した大和 田佳子、しょっちゅう編集部に出入りして 、お手伝いもよく頼んだ山田耕一も57人 のメンバーのひとりだった。
 思ったほど売れなくて、編集部に山積み されていたのを覚えている。でも、今手に 入れるのは難しいのでは?

 

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