坊城通りを南に下ると、途中「日本たばこ産業」の敷地で通行できないため迂回して五条通りに出る。五条通りを横断し、元の坊城通りのあたりに来ると、中堂寺坊城郵便局がある。そこを右に折れると「新選組資料館」の看板と土方歳三ポスターが貼ってある町家が見える。 ここは新選組ファンの青木氏が個人で資料を集め開放している新選組の資料館である。是非とも拝見したかったのだが「事故のためアキレス腱を切断。2月末まで休館」の張り紙。残念。ちなみにこの写真に写っている方はNHKの取材陣らしい。 |
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島原 島原の花街(歌舞音曲の遊宴の町)は、天正17年(1589)豊臣秀吉が京都を再興するにあたり、二条柳馬場に花街を公許し、柳町または新屋敷といわれたのが始まりである。その後、慶長7年(1602)に至り、六条柳町に移され、通称六条三筋町と呼ばれ大いに繁盛した。寛永18年(1641)朱雀野(現島原の地)に移され、西新屋敷町と呼ばれたが、その移転命令があまりにも急であったため、住人の狼狽がひどく、その様子がも九州「島原の乱」の直後と似ていたため、島原と呼ばれるようになったという。 |
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西門跡を入り右に折れると、正面に由緒ありそうな塀が見える。石標があり、「長州藩士久坂玄瑞の密議の角屋」とある。石標の裏には「久坂玄瑞は 吉田松陰死後塾徒を率い 尊攘に挺身 文久政変に山口へ七卿落ちを斡旋するも 元治元甲子年七月 蛤御門(はまぐりごもん)の変に遭い 壮烈な死を遂げた 享年二十五 角屋は玄端が屡々暗殺の難を避け潜行密議した場所である」の文。 ここが角屋か・・・。それにしても、壬生と目と鼻の先、新選組隊士がうろうろしていたここで密議とは・・・。 |
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島原には、揚屋と置屋があり、揚屋は太夫、芸妓等を一切かかえず、置屋から太夫等を呼んで宴会を催す場である。この角屋は島原開基以来連綿と家督を維持してきた揚屋である。 角屋の建物は、揚屋建築唯一の遺構として昭和27年に国の重要文化財に指定されている。 芹沢鴨が角屋で宴会中に大酔し、店のもてなしが悪いと難癖をつけ、手にした鉄扇で器や調度品を叩き割るなどの大暴れをしたことはあまりにも有名。暗殺された日も、ここで大酔していた。 |
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角屋もてなしの文化美術館として公開 3月1日〜 7月31日 9月1日〜12月15日 今回は見られなかった。 次回のお楽しみ・・・! |
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輪違屋は、太夫や芸妓をかかえていた元禄年間の創業と伝えられる由緒ある置屋である。 現在の建物は、安政4年(1857)に再建されたといわれるが、その後増改築がなされて、明治4年(1871)には、ほぼ現在の姿になっている。近藤勇直筆の屏風を所蔵しているが非公開 輪違屋は、建築的には質が高く、また古い置屋の遺構として貴重であり、京都市指定有形文化財に指定されている。 現在も茶屋として営業中のため内部は非公開。客として入れば入れるが「一見さんお断り」。 |
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東辺の門は、享保14年(1729)には冠木門(かぶきもん)であったと考えられ、その後塀重門、さらに腕木門(うできもん)へと変更された。嘉永7年(1854)8月の大火では、島原の東側は大半が類焼しており、この時門も焼失したと考えられる。大火後、門は再建されたが、慶応3年(1967)5月には再び建て替えられた。これが現在の大門である。 この門は、本柱上の屋根の他に後方の控柱(ひかえばしら)上にも小屋根をのせた高麗門で、前には「出口柳」が植えられ、「さらば垣」がめぐらされて今日も当時の趣を伝えており、島原の由緒を伝える地域の文化財として貴重である。 =京都市・案内板= |
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