島原大門を抜け、花屋町通りを東に進むと大宮通りに出る。その向こうに、大きな塀に囲まれているのが「西本願寺」である。大宮通りを渡り、塀に沿って堀川通りに出ると右側に「太鼓楼」が見える。 | |||
京都には二つの本願寺がある。東は佐幕・西は勤皇寄りと言われるように、西本願寺は元治元年(1864)の蛤御門の変では、境内に逃げ込んだ長州藩士を落ち延びさせるなどしたため、幕府側から睨まれていた。翌年の慶応元年(1865)2月には、壬生屯所が手狭になったため、西本願寺監視の意味も込めて新選組がここに屯所を移した。新選組は本陣の札を掲げ、本堂との間に竹矢来を組み、牢屋から首切りのための土壇場までこしらえ、境内で剣術や銃砲の訓練を行ったという。また、食用に豚まで飼っていたということであるから、大いに迷惑したことであろう。その屯所があったのが、この西本願寺東北の端にある太鼓楼あたりにあった「北集会所」だという。 (姫路市の本徳寺本堂として現存 |
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慶応3年11月15日坂本竜馬、中岡慎太郎両名が暗殺されたが、海援隊の陸奥陽之助(宗光)は「いろは丸事件」で多額の賠償金を払わせられた紀州藩の仕業と考えていた。紀州藩士三浦休太郎は身の危険を感じて会津藩に三浦の宿泊する天満屋での身辺警護を要請し、会津藩はそれを新撰組に命じた。新撰組からは、斎藤、大石他 計10名が派遣されていた。 慶応3年12月7日、陸奥は津川藩の中井庄五郎ら海援隊数十名と共に天満屋を急襲。三浦他、紀州藩士3名、新撰組10名と大乱戦になる。乱戦の最中、機転を利かせた新撰組隊士の誰かが『三浦討ち取ったり』と叫び、それを聞いた襲撃隊は引き上げた。 この戦闘による被害は、海援隊側は中井庄五郎が斎藤一に斬られたのを始め、重傷3名。新撰組が死者1名、重症 後死亡1名。 現在はお稲荷さんの祠と「勤王之士贈従五位中井正五郎殉難地」の石碑が残るだけである。 |
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天満屋事件の報を聞きつけ、不動堂村屯所から駆けつけた新選組と、西本願寺からも駆けつけた紀州藩士が鉢合わせし、お互い敵と勘違いし、油小路北小路で斬り合いになってしまったという。これを北小路の変という。幸い死者は出なかったが、本物の敵には逃げられてしまったということである。 写真:左右に通っているのが油小路、交差するのが北小路 北小路正面に西本願寺が見える。 天満屋跡へは油小路を右に。 不動堂村屯所は左へ。 |
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慶応3年11月18日(1867)夜、醒ケ井通の近藤勇の妾宅で歓待された伊東甲子太郎は、酩酊して帰営中、妾宅から目と鼻の先の木津屋橋近くで、待ち伏せの新選組隊士数名に襲われた。物陰から突然、槍で刺された伊東は、深手のまま、刀を抜いて応戦し、一名を斬捨てると油小路通りへ逃れたものの、北に数メートル行った本光寺門前の門派石に腰を降ろし絶命した。新選組は伊東の亡骸を駕籠に乗せ油小路七条の辻に放置した。 |
本光寺山門と「伊東甲子太郎殉難碑」 門派石は現在寺内に移してある |
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近藤妾宅 写真中央が「安寧小学校」。その向こうのガソリンスタンドとの間の通りが「木津屋橋通り」。 大きな通りは「堀川通り」。 近藤妾宅は丁度バスのいるあたりだろうか。 ここから出た伊東は木津屋橋通りで襲われたのである。 |
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ここから京都駅まで歩いて、「新選組を歩く」第1弾の「新選組誕生」が終わった。四条大宮から歩き始めたのが11時30分頃。丸福さんで昼食が13時30分だった。 雪・霙交じりの悪天候。あまりの寒さに「リーガロイヤル京都」で20分ほどお茶。京都駅に着いたのは16時頃だったろうか。ブラブラ歩くには丁度よい距離だろう。 |
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