なぜ暴力団員を「組員」と呼ぶのか(2)

 前回のなぜ暴力団員を「組員」と呼ぶのか(1)では、大正10年、警視総監丸山鶴吉説については問題がある旨書きました。
 今回は、まず「暴力団」、「暴力団員」の定義をはっきりさせておこうと思います。
 平成3年に制定された暴力団対策法(「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」)により、法律上始めて暴力団、暴力団員の定義が行なわれました。
 暴力団対策法第2条は次のように定義しています。

二 暴力団 その団体の構成員(その団体の構成団体の構成員を含む。)が集団的に又は常習的に暴力的不法行為等を行うことを助長するおそれがある団体をいう。(三~五略)
六 暴力団員 暴力団の構成員をいう。

 括弧内の「その団体の構成団体の構成員を含む。」というのは、二次以下の傘下組織の構成員を含むということです。六代目山口組であれば、愛知県の弘道会、福岡県の伊豆組などの直系組織が二次組織です。多くの場合、二次組織はその傘下に三次、四次の組織を有しています。それら全てを含めて、一個の団体、暴力団と見なすということです。
 暴力団について定義したのは、この暴力団対策法が初めてですが、既に大正15年(1926年)には、暴力団対策のため法律が制定されています。それは「暴力行為等処罰ニ関スル法律」です。同法は現在も暴力団取締り等で活用されています。

 戦前の「暴力団」

 前回、大正10年8月、警視庁が「暴力団」の一斉取締りを行ったと書きました。
 警視庁以外の全国警察でも度々暴力団の取締りを行っているようです。しかしその後も「暴力団の跋扈」は続き、新たな法規制が必要とされ、大正15年、第51回帝国議会で制定されたのが暴力行為等処罰ニ関スル法律です。
 同法制定については、警視庁のみならず、東京弁護士会からの要請も行われています。国会には同弁護士会提出による暴力団の被害実態集である「暴力団弊害実例類纂」(※1)が提出されています。
 また同法案を提出した司法省から提出された「暴力団取締に関する一班」という暴力団の沿革、発生原因、現行法令の欠陥等に関する資料に、次のように暴力団の定義が行われています。

近時社会の各階級より蛇蝎視せられつつある所謂暴力団は之を大別すれば
一 壮士と称する政治ゴロ
一 左傾若くは右傾的思想臭味を有する不良者の集団
一 三百及び其の輩下に属するもの
一 博徒及び侠客
と為すべく、大体に於て大都市を抱擁する府県に多きを見るは、暴力団員の生活費を獲得するには、大都市を以てするを最も便宜とするによるものなるべし(※1)。


 この「一班」では、暴力団と呼ばれる団体の発生時期について、博徒及び侠客は徳川時代に端を発するとしています。この博徒が現在の暴力団が自称として使う「ヤクザ」の源流です。侠客は現在暴力団が標榜する仁侠道を表看板とする「仁侠の徒」のことです。
 そして、その他の団体については、主に第一次世界大戦終了後の大正8、9年頃、戦争の影響を受けた財界の不況、急進あるいは反動思想の台頭その他の社会問題の発生にともない、暴力的直接行動により問題を解決しようとする風潮の下、勢力を拡大してきた旨説明しています。
 当時の「暴力団」は、現在、警察が使っている「暴力団」よりも、総会屋等、社会運動等標ぼうゴロなどを含んだ「暴力団等」に近い存在だったようです。
 「壮士」は、本来、明治時代に自由民権思想を訴えていた者たちですが、その後、社会正義を振りかざし、脅迫まがいの行動をする者を指すようになりました。また、このころ活発化し始めた主要政党は、院外団と呼ばれる暴力的な警備団を有しており、彼らも時に壮士と呼ばれ、その一部は、政治ゴロ化していきました。
 「三百」というのは、三百代言(さんびゃくだいげん)のことです。
 三百は、三百文の略、わずかな金額のことで価値の低いものという意味です。代言人は明治時代に弁護士を指した言葉です。
 他人の民事紛争等を食い物にする者を三百代言と呼び、その中には不誠実な弁護士もいたようですが、多くは弁護士資格も持たなかったようです。彼らは昭和50年代以降問題となった民事介入暴力と似たようなことをやっていたようです。

 東京弁護士会提出の「暴力団弊害実例類纂」には、

上記の暴行脅迫を加うる者の多くは単独の場合と雖も常に何々団又は何會等と称し、背後に多数の暴力団体あることを示し勢威を張るを例とす


とあり、これら三百代言も◯◯団、◯◯会を名乗るものが多かったようです。
「左傾若くは右傾的思想臭味を有する不良者の集団」つまり、左翼思想、右翼思想を標榜する不良者集団というのもありますが、一方で、過激思想に対抗するように「皇室中心主義的反動思想を標榜する団体」も次々と登場しました。
 その代表が大正8年10月に設立された大日本国粋会です。なおこの大日本国粋会は現在、山口組傘下の国粋会とは直接の関係はありません。
 そしてこの大日本国粋会構成メンバーの多くは博徒、つまりヤクザの親分や幹部、あるいは土木建設業者等でした。

 主要府県の「暴力団」

 「暴力団取締に関する一班」には、主要府県における「暴力団の種類及び跋扈の状況」が簡単に記載されており、それは次のとおりです。
 警視庁管内では、「反動団体たる右傾的のもの、侠客部類の者多く、政治ゴロ之に次ぐ」でした。
 京都府下では「侠客、博徒等のもの第一位を占め、差別撤廃を標榜するもの之に次ぐ」。
 大阪府下は「博徒、侠客第一位を占め思想的色彩を帯える者之に次ぐ」。
 神奈川県下は「反動団体大部分を占め、他部に属するもの極めて少なし」。
 愛知県下は「反動団体、博徒、侠客の類多く政治ゴロなるもの少なし」。
 兵庫県下は「土木建築請負業者の下に糾合せられたる無頼漢多数を占める状態なり」。
 福岡県下は「差別撤廃を標榜するもの及び反動団体たる侠客、博徒多数を占む」でした。
 京都、福岡の「差別撤廃を標榜するもの」とあるのは、大正11年以降活発化した水平運動など部落解放運動を指しているようです。
 反動団体は大日本国粋会などのことで、彼らは時に、北九州の八幡製鉄所などの労働争議、水平運動などへ暴力的介入も行っています。

 東西の「暴力団」

 「一班」によれば、ほとんどの府県で博徒、侠客が当時の「暴力団」の相当部分を占めています。一方で関東や 愛知など東日本の暴力団と大阪、兵庫、福岡など西日本の暴力団の団体名を調べてみると、かなりの違いが認められました。
 一言で言えば、前回書いたように東京や愛知の博徒(ヤクザ)は「一家」がほとんどで、西日本は「組」を名乗る博徒が圧倒的に多いということです。
 博徒、土建業者等による国粋主義団体である大日本国粋会は大正8年に発足し、翌大正9年12月に大阪本部発会式が執り行われました。
 大阪府警察史によれば、当日参集した団体は橘組、太政官組、野口組、淡熊組、北畑組、中村組、阪庄組、上場組、塩飽組、山崎組、八尾組、吉山組、真鍋組、末広組、川口組など「侠客を自称する暴力団を主とするものであった」とのことです。何れも「組」を名乗っています(※2)。
 また、大正14年当時、大阪で親分と称された主たるものとして、野口組長・野口栄次郎、直島藤太郎、鴻池忠治郎、大日本正義団団長・酒井栄蔵、酒梅組長・鳶梅吉、吉山組長・吉山猶太郎を挙げています。
 この中で、野口栄次郎は口入れ家業(労働者派遣業)から土木建設業に転じた人物で、木屋市と呼ばれた親分です。鴻池忠冶郎は、大手建設業鴻池組の創始者で、大正7年に株式会社鴻池組を設立、社長に就任しています。二人とも博徒ではありません。
 大日本正義団団長である酒井栄蔵と、肩書きのない直島藤太郎以外の親分は全て「組長」です。
 なお酒梅組は現代の指定暴力団・九代目酒梅組の初代です。
 また、大阪府警察史によれば、暴力行為等処罰ニ関スル法律が制定された年である大正15年1月には、「博徒抗争」して土木請負業・長政組と「顔役」中政組との抗争事例が発生しています。長政組も博徒と呼ばれていることから、土木請負業は看板だけの博徒、あるいは二つ看板の半博徒と思われます。
 資料から見る限り、大阪の当時の主力団体は、ほとんど「組」を名乗っています。
 そして、大日本国粋会がそうでしたが、当時は博徒(ヤクザ)の親分と土木建設業者の親分との間の垣根が低かったことが窺われます。
 前回触れたように、大正4年、初代山口組は仲仕の組として結成されましたが、初代組長・山口春吉は神戸港の大親分と言われた大島組長・大島秀吉の盃を受けています。
 二代目山口組長・山口登と興行関係で争った山口県下関の籠寅組が結成されたのは明治39年です。
 大正当時の福岡県内の「侠客、博徒」については、あまりよくわかりません。ただ、若松市(現・北九州市若松区)の港湾荷役の会社は山口組のように、既に明治末には浜尾組、大村組、そして作家火野葦平の実父である玉井金五郎の玉井組など、何れも「組」を名乗っていました。
 これらの港湾荷役の会社はもちろん暴力団ではありませんが、やはり明治末から大正時代、神奈川県横浜市の港湾荷役会社でも鶴岡組、本間組、酒井組、藤木組、笹田組と「組」を名乗っています。

 令和元年12月12日 つづく

【注】