なぜ暴力団員を「組員」と呼ぶのか(1)

 新聞やテレビでは、暴力団のトップを「組長」と呼んだり、暴力団員を「組員」と呼ぶことが多いようです。
 暴力団は、山口組のように「○○組」を名乗るものがあります。山口組のトップは組長ですし、その構成員が組員と呼ばれても何ら不思議はありません。
 一方で、工藤會、稲川会、住吉会や道仁会のように「○○会」を名乗るものもあります。指定暴力団24団体中、15団体が「会」を名乗っています。組を名乗っているのは7団体にすぎません。また、合田一家(山口県)や小桜一家(鹿児島県)は一家を名乗っています。
 しかし、○○会、○○一家を名乗る団体、組織についてもトップを組長、その構成員を組員と呼んでいます。
 その理由を考えて見たいと思います。
 以前、警察では、暴力団は大きく分けて、博徒系、的屋系、その他(愚連隊等)に分類していました。
 現在の暴力団は、すべて「ヤクザ」、仁侠団体を標榜しています。元々、「ヤクザ」は博徒、つまり博打を業とする集団やその構成員を指していました。
 現在の指定暴力団の中では、東京の極東会が的屋系ですが、現在、博打、的屋(露天商)を主な資金源としている暴力団は存在しないと思います。そして「的屋」(露天商)=「暴力団」ではありません。

 工藤會も「一家」を名乗っていた

「一家」については、工藤會も、昭和62年に工藤会と草野一家が合併した後は、工藤連合草野一家を名乗っていました。
 この工藤連合草野一家のトップ、工藤玄治総裁が工藤會の初代にあたり、ナンバー2の草野高明会長が工藤會二代目となります。
 工藤総裁が、昭和21年ころ当時の小倉市で結成したのが工藤組です。工藤會も最初は組を名乗っていたのです。草野会長は、元々、工藤総裁の最有力子分、工藤組草野組長でした。
 しかし草野組長は、昭和38年の三代目山口組と工藤組の抗争に際し、山口組々員2名の殺害を指示したとして昭和41年に逮捕された際に、工藤組からの脱退、草野組の解散を表明し、工藤組長から破門されてしまいました。
 草野組長は殺人で有罪となり服役しましたが、昭和52年に出所し、昭和45年に工藤会と改称していた工藤会・工藤会長の了解を得て、シノギは博打一本でいくとして草野一家を結成したのです。
 しかし、工藤会も草野一家も北九州市小倉区(当時)を主な「縄張り」としていたことから、両団体は激しい抗争を繰り広げることになりました。私は北九州市の出身ですが、昭和50年に警察官を拝命し、工藤会と草野一家の抗争が激しかったその頃、初めて、工藤会の幹部と口を交わしました。当時の工藤会本部前を警戒中の出来事でした。その後、同幹部は草野一家側から射殺されてしまいました。その幹部が工藤会ナンバー2の矢坂顕理事長だったと知ったのは新聞記事を見てでした。
 昭和62年6月、工藤会と草野一家が和解し、合併してできあがったのが工藤連合草野一家です。
 なお、工藤連合草野一家傘下組織の中には、現在の工藤會主流派である田中組など○○組を名乗るもののほか、極政会など「会」を名乗る組織もありました。平成11年1月、工藤連合草野一家を改め、三代目工藤會と改称した際に、傘下組織はすべて「組」を名乗るようになりました。

 「警視総監丸山鶴吉」説

 やくざが「◯◯組」と名乗るようになるのは大正10年以降、時の警視総監・丸山鶴吉がやくざに「実業を持て」と奨励したことにより、やくざが土建業を兼業するようになった、という説があります。
 NHKで時代考証業務を担当し、NHKドラマ番組部シニアディレクターを務めた大森洋平氏がNHK職員向け資料を底本とした『考証要集』に「やくざの組」として、次のように書いておられました。

「文壇の長老にして仁侠小説の第一人者だった青山光二のノンフィクション『ヤクザの世界』(ちくま文庫ほか)によれば、やくざが「◯◯組」と名乗るようになるのは大正10年以降、時の警視総監丸山鶴吉の「実業を持て」との奨励により、土建業を兼業するようになってからである。それ以前は「◯◯一家」だった。江戸時代劇では気をつけるべし。「次郎長一家」であって「次郎長組」ではない」(※1)


 青山光二氏は、ヤクザ関係の多数の著作がある方ですが、大森氏が引用した青山光二『ヤクザの世界』の該当部分の記述は以下のとおりです。

「土建業とヤクザの本格的野合はどこから始まるかというと、大正時代と考えてよい。
 丸山鶴吉なる警視総監がいて、これが暴力団刈りの立役者だった。丸山が警視総監をやっていた大正十年ごろ、暴力団を刈り取るばかりではだめだ、彼らに実業を持たせなければいけないということで、渡世人に実業を持つことを奨励した。そして、博奕打ちが続々と土建業を始めた。
 その以前から、博徒兼土建業者はあるにはあったが、博徒が土建業の看板をいっせいに掲げたのは、そのときだった。無職(ぶしょく)の渡世人ではなくなったわけである。
 博徒が「――組」という名称を用いるようになったのも、このときからである。建設業者の清水組とか鴻池組という名称にならったわけだが、それがいつの間にか、「――組」がヤクザの専売のような感じになって、新聞記事などで「組員」と書くと、人はただちにヤクザだと解する通念ができてしまった。その発祥は以上のような次第である。土建業兼業以前の博徒は「淡熊」「木屋市」「難福」というように、一家名を名乗っていたのだ。」(※2)


 この説には大きな間違いがあります。主な点は次の三つです。
 第一に、丸山鶴吉警視総監は、「暴力団狩り」で有名ですが、大正10年当時の警視総監は丸山鶴吉ではありません。丸山鶴吉は第33代警視総監ですが、彼が警視総監を務めたのは大正10年当時ではなく、昭和4年7月から昭和6年4月の間です。
 大正10年当時の警視総監は第25代・岡喜七郎です。岡総監当時の、大正10年4月、警視庁は刑事部を新設し、同年8月には「暴力団」の一斉取締りを行っています。ただ、当時の「暴力団」は現在の暴力団とはやや異なっており、現在の「暴力団等」、つまり現在の暴力団のほか、社会運動等標ぼうゴロや企業ゴロなどを含めたものでした。ヤクザ一般は「博徒」として、その一部が「暴力団」と看做されていました。
 第二として、大正10年の8年後となる昭和4年当時でも、警視庁のお膝元である東京の主要博徒(ヤクザ)のほとんどが「一家」を名乗っていました。東京都内の主要博徒組織(ヤクザ)18団体の内、12団体は生井一家や幸平一家など◯◯一家を名乗り、◯◯組を名乗る団体は柳組、1つしかありませんでした。残り5団体は「○○派」が4つと「大阪部屋」です。(※3)
 大正15年当時の愛知県内の博徒(ヤクザ)に関する司法省の資料を見ても、主要博徒35団体全てが稲葉地一家や瀬戸一家など「一家」を名乗っています。(※4)
 三つめは、大正10年以前に「組」を名乗る暴力団組織が既に存在していました。現在の山口県の指定暴力団・合田一家の前身である籠寅組は、明治39年ごろに下関で結成されたといわれています。大正4年には兵庫県神戸市で初代山口組が結成されました。なお、初代山口組はヤクザ(博徒)ではなく、貨物船の積み荷を取り扱う仲仕の組でした。
 ヤクザ(博徒)が、建設土木業などを標榜するようになったのは、明治末以降のようです。また、暴力団一般が「組」、暴力団員が「組員」と呼ばれるようになったのは、終戦後と思われます。
 次回以降、「ヤクザ」、「暴力団」、「組」等について、もう少し見てみたいと思います。

 令和元年11月9日  なぜ暴力団員を「組員」と呼ぶのか(2)につづく

【注】