ため池の多い地域 「藤井寺市の川と池」の地図でわかるように、上田(かみのた)池・下田(しものた)池 の周辺地域は羽曳野市域を含めてもともとため池の多い地域です。現在もい くつものため池が存在していますが、かつてはもっとたくさんのため池があ りました。 この一帯は藤井寺市域では最も南の地域で、標高も市内では最も高い地域 です。もっと高い南側の羽曳野丘陵の先端に連なる地形です。つまり、南側 から流れ来る水をためて、北側に位置する水田に用水を供給するのが、これ らのため池です。明治中期までの旧村としては、野中(のなか)村といいました。 村の中に在るため池の中では、上田池・下田池が最大のものでした。藤井寺 市史掲載の江戸時代の絵図を見ると、「上ノ田池・下ノ田池」の表記もあり、 読みは「かみのた・しものた」だとわかりますが、現在の地図では「上田池 ・下田池」の表記が標準です。 野中村にあった下田池ですが、用水の一部は隣り村の野々上村へも供給さ れていたようです。藤井寺市史掲載の『河州丹南郡野中村明細差出帳』(元禄 14〈1701〉年8月)には、「下田池 但野々上村田地四反程水壱通り遣申候」と あり、『村差出帳』(安永7年〈1778年〉4月 野中村)でも、「字下田池 但シ野々 上村田地ニも壱反程水一へんかき申候」と記されています。他の池の例を見 ても、用水の相互供給やため池の共用は昔からあったようです。 2つの池が南北に接している形ですが、初めからこのように2つのため池 だったのか、先に1つあったのか、その辺りはよくわかりません。 池の形を見ると、どちらの池も東岸が直線で同じ方向角になっているのが 目立ちます。明らかに人為的なものだとわかります。 古代運河の跡も 実は、上田池の北端部に突き出ている長方形部分は、古代に築造された運 河と推定されている「古市大溝(ふるいちおおみぞ)」の遺構の一部なのです。下田池 東岸の直線形も、この運河遺構を示すものなのです。右の写真①にポインタ |
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① 現在の上田池・下田池周辺の様子 文字入れ等一部加工 〔GoogleEarth 2015(平成27)年11月30日〕より ※ ロールオーバー効果で「古市大溝推定跡地」が表示されます。 |
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ーを置くと、ロールオーパー効果によって別の写真が現れます。そこに、古市大溝の推定跡地を表示しています。その写真でわかるように 「細池跡」「中ノ池」も古市大溝跡の一部であると推定されています。古市大溝の築造時期については、今のところ複数説があって未だ定 説化していませんが、いずれにしても千年以上前であることは確かだと思われます。これらのため池もそれだけ古い歴史を秘めていること になります。 ![]() 古市大溝についての詳述は他のページを見ていただきたいと思いますが、まずは、上田池・下田池がこの古代運河に関わりを持ちながら 築かれた池であると推定されることに注目してください。推定跡地に運河が通っていたことを前提とすれば、上田池・下田池の形態や並び 方の特徴もうなずけます。運河の跡を利用してここにため池が造られたのか、池があったからここに運河を通したのか、興味が湧くところ です。さらに、ボケ山古墳に接していることも何らかの関連性を感じさせます。古市大溝の今後の調査・研究が大いに期待されます。 |
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②下田池の様子(南西凹部より北東を見る) 2016(平成28)年10月 合成パノラマ |
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③下田池の様子(北西角より南を見る) 2016(平成28)年10月 合成パノラマ 対岸右手に見える小山は、ボケ山古墳(仁賢天皇陵)。西岸(右側)に続き東岸にも住宅が増えてきた。 |
写真②と③は、下田池のそれぞれ北東方向、南東方向を見た様子です。池の周囲に は池岸沿いに遊歩道が整備されており、よい散歩道となっています。 写真①でわかるように、北岸の道路と西岸の遊歩道沿いが隣接する羽曳野市との境 界になっており、下田池の西側には青山3丁目の飛び地があります。同じ通りに並ぶ 家でも、通学する学校が別々という地区です。 古市大溝の形を残す地形 右の写真④は、下田池東岸の直線の堤に隣接する水田です。写真①で上田池の北端 に突き出た長方形部分に続く地形です。すなわち、古代運河・古市大溝の跡地として その形を残している部分ということになります。この辺りを通っていた大溝の幅は、 概ねこの程度であったと想像できます。現在残っている大溝の遺構の中には、これよ りももっと広い所があります。大溝の幅は部分によっていろいろだったようです。参 |
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④下田池東側に残る古市大溝跡地(南より) 北側の半分強は宅地化している(写真①)。 2017(平成29)年6月 |
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考に上田池のページを見てください。 ![]() 写真④の部分から北に続く下田池沿いの大溝跡地は、写真⑤~⑧でわかるように近年までずっと水田でしたが、最近半分ほどが住宅地に なりました。運河であった時には、写真の水田の右側にも堤があったはずです。この部分がなぜ水田にされたのか、なぜ上田池のように池 に取り込まれなかったのか、知りたいところですが、よくわかりません。古市大溝の跡地の形状も、地域の開発が進むとともにだんだんと わかりにくくなっていくと思われます。市街化が進む中で、空中写真でも跡地の形状をたどることが少しずつしにくくなっています。 |
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都市化が進む中で 下の写真⑤~⑧は、1946(昭和21)年から1985(昭和60)年の40年間で、上田池・下田池の周辺が変わってきた様子を見ることができるもの のです。特に写真⑥以降の高度経済成長期における変化には大きいものがありました。 写真⑤は、太平洋戦争敗戦から約10ヵ月後の撮影です。田畑やため池の様子は、明治の頃からほとんど変わっていない感じです。大きく 違うのは、戦前に新たに府道が造られたことでしょう。今では池の跡もよくわからない「新池」もはっきりと見えます。現在は池ではなく なった「細池」も見えています。稲荷塚古墳は、まるで田畑の海に浮かぶ島のようです。今ではすっかり住宅に囲まれています。 写真⑥は、写真⑤から18年後の1964年、東京オリンピックの年に撮影されたものです。写真⑤の頃とそんなに変わらない感じですが、 大きな変化も見られます。新しい府道の建設が進められていることです。戦前に造られた府道堺古市線(竹内街道のバイパス)のさらなるバ イパスとして新しい府道堺羽曳野線(現府道31号)が建設されました。この直後、大阪府内では1970年開催の日本万国博覧会に向けて、各地 で新しい幹線道路の建設ラッシュが展開していきます。藤井寺市域に関わっては、この府道堺羽曳野線のほかに、大阪外環状線(現国道170 号)、西名阪道路(現西名阪自動車道)の建設が行われました。この時期から藤井寺市域は人口の急増期を迎え、1966年11月1日に市制を施 行して「藤井寺市」が誕生しました。写真⑥でも、青山古墳の南北地域で住宅用地開発の様子が見られます。 |
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⑤ 戦後間もなくの上田池・下田池周辺の様子 〔米軍撮影 1946(昭和21)年6月6日 国土地理院〕より 文字入れ等一部加工 |
⑥ 高度経済成長期に入った頃の様子(東京オリンピックの年) 〔1964(昭和39)年5月22日 国土地理院〕より 文字入れ等一部加工 |
写真⑦は、写真⑥からさらに11年経った様子です。⑤ →⑥の18年間の変化に比べ、この10年間ほどの変化の大きさがわかります。府 道堺羽曳野線に接続する新しい道路が出来て、田畑だけだった所に住宅が建ち並んでいます。新池は姿を消し、そっくり住宅地となってい ます。中ノ池の北西側にも住宅が並んでいます。中ノ池の北西方向には「堀川」という池が続いていましたが、この時期の住宅地開発で姿 を消しました。また、人口増による水需要の高まりに備えて、新たに「野中浄水場(現野中配水場Ⅰ)」が建設されています。 写真⑦からさらに10年後の様子が写真⑧です。この10年間の変化はもっと大きくなっていることがわかります。大阪外環状線が開通し ており、上田池の一部が道路用地となっています。細池も埋め立てられて池ではなくなりました。10年前には田畑だった場所のあちこちに 住宅・工場・店舗などが出来ています。羽曳野市域でも同じような変化が見られます。 この写真⑧の様子からちょうど30年後の様子が写真①です。すっかり市街化が進んでおり、田畑は一部に“残っている”感じです。上田 池・下田池はしっかり存在していますが、上田池はさらに面積を減らしています。1/3ほどが埋め立てられて、柏原羽曳野藤井寺消防組合 消防本部の新しい庁舎が造られました。 この数十年の間に、上田池・下田池周辺の中小のため池の多くが姿を消していきました。この先、農業水利としての必要度が下がっても せめて上田池・下田池は残ってほしいものです。治水・防災対策上も必要だと思われますが、地域の景観としても水生生物や水鳥の環境と しても、ぜひ残ってほしいため池群です。 |
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⑦ 大きく変化し始めた頃の様子 〔1975(昭和50)年3月4日 国土地理院〕より 文字入れ等一部加工 |
⑧ 大阪外環状線(現国道170号)が開通した後の様子 〔1985(昭和60)年11月4日 国土地理院〕より 文字入れ等一部加工 |