ラリーレイドモンゴル2002参戦記
エントリー決意 「ただいまあ」 「おかえり、ニッポンどうたらこうたらってラリー、どうだった?」 「夏さあ、モンゴル行きたいんだけど」 「GWに家族ほったらかしにしたつぐない? だったら、もっといいところにしようよ」 「いや、またラリー」 「ふざけないでよ!どこにそんな、お金あるのよ」 「お金なんとかなれば、いいの?」 「冗談じゃないわよ、これが最後っていったから、ニッポンどうたらこうたらってラリーOKしたんじゃない」 これが第1回ツールド・ニッポンから自宅に戻った時の妻との最初の会話だった。 完走はしたものの、とにかく悔いの残るツールド・ニッポンだった。
冬、SSERより2002年がラストモンゴルという発表があった。すぐにTDNでもバカミーズの チームメイトのマフィアT中さんより、参戦宣言とGSバカミーズを結成しようと、呼びかけがあった。 しかし、私自身はこの時、オフ車に乗り始めた時のパリダカ同様、モンゴルも雲の上のイベントとしか思っていなかったので、ラストTBIの発表の時程の衝撃はなかったし、出場など全く考えなかった。 そうこうしているうちに、ツールド・ニッポンがスタート。メーターのトラブルの為、コバンザメ走行が多かったが 気持ち良く走れていた。 そして、ラリー最終日のSS−2(ヌタヌタでBigOffにはつらかった)での出来事。 ラインが2つあり、右側はGSには厳しいので、左側のラインを、と思ったのになんとなく右のラインを走り転倒。1人で起こす事が出来ずに、手伝ってもらい、速いひとであれば10分とかからないのに、ここで1時間。 「何で、左と思ったのに右に行ったのか?もう少し慎重になれなかったのか?」 たったこれだけの事で、TDNが、それに費やした時間が、費用が、全てが、吹き飛んだ気がした。 その後のリエゾンでは、この悔しい気持ちをコントロール出来ずに、「こうなったらモンゴルに行くしかねえな。そこでリベンジするしかねえな。」と思ったら、不思議と気持ちも落ち着き、この時、一大決心。 何でこの時モンゴルが浮かんだか、わからず「心のどこかにモンゴルがあったんだ。神様が 行けと言ってるんだ。これは神様の命令だ」と、都合よく解釈し、自分自身の実力を考えると決意が鈍るので、それは無視する事にした。 そして冒頭の会話からシッピングまで1ヶ月ちょっとの準備期間に、金銭の工面、休暇の調整、マシンの調整、一番大事な家族の理解を得る事など、大忙し。 ただ、ライディングテクニック、経験は準備できずに、出発する事になりました。 |