新古典主義建築博覧会〜外灘
 
新古典主義建築博覧会
〜外灘
 

   どの街にも、そこを語り始めるのに相応しい場所がある。今につながる発展の礎となり、歴史を動かす重要な出来事の舞台となった界隈。となれば、上海では外灘をおいて他にないだろう。
 今回の旅はこれまでと少し趣向を変えたいと思った。短期間にあちこち移動するのではなく、滞在場所を固定し、ひとつの街をじっくりと味わう。観光やショッピングを楽しみ、時には郊外に足を伸ばし、疲れたらホテルの部屋でのんびりする。スケジュールをこなす旅ではなく、贅沢な時間を過ごす旅。イメージはシティリゾート。年齢をとったのかもしれない。
 そこでホテルは思い切ってウエスティン上海を奮発することにした。またの名を「外灘中心」。地図で見る限り、名前の通り便利な立地だ。豫園や南京路にも歩いて行ける。
 吹き抜けのレストランで朝食をとった後、いよいよ観光に出発することにした。今日の天気は花曇り。気温は東京と同じか、やや蒸し暑い。ホテルの周りは再開発から取り残されているのか、昔ながらの風情を感じさせる路地がまだ残されている。洗濯物をぶら下げた物干し竿が、何本もアパートの上階から突き出している。歩いて行くうちに、建物で切り取られた空の一角から東方明珠塔のSFチックなフォルムが顔を覗かせ始めた。対岸にある近未来と、連綿と営まれる伝統的な暮らし。この対比がたまらなく味わい深い。
 軒先だけの小さな果物屋、腕まくりをした労働者風の人々が玄関先にたむろする病院、日本とそっくりのコンビニエンスストア。狭い歩道に日々の生活が根付いている。風景が胸に沁み込んでくる。セピアに色彩どられた記録フィルムのように、どこか懐かしい感じがする。路地を渡り、また路地に出会う。あっという間に僕はこの雰囲気が好きになっていた。
 川沿いの大通りに出たところで急に視界が開けた。黄浦江に沿って走る中山東路。道の東側には堤防を兼ねた黄浦公園が、西側にはイギリス租界時代からの新古典主義建築群が連なる、近代上海発祥の地。ここで風景は一変する。
 19世紀半ば、帝国主義イギリスは二度のアヘン戦争を足がかりに大陸中国への進出を本格的に開始する。その橋頭堡として選ばれたのが外灘だった。のどかな水郷の村に過ぎなかったこの土地に、イギリス人は河岸を埋め立て船着場を造った。ほどなく港は物資を山積みにした貿易船で溢れ返るようになる。やがて商社が、続いて為替を担う銀行が、相次いで設立される。外国人居住者が増え、その住宅を供給する不動産業と、娯楽を提供するサービス業が発達する。切った堰はもう止まらない。イギリスに続いてフランスが、アメリカが、日本が、列強諸国が時に武力を背景として雨後の筍のように次々と自らの勢力圏を確保していく。こうして上海は急速に国際貿易・金融都市へと発展していった。
 角のビルにアルマーニのブティックが入っていた。ショーウインドーのディスプレイが洗練されている。青山あたりと比べても何ら遜色がない。ここから北に向かって、欧米資本により20世紀初頭に集中して造られた街並が続く。それはまさに一大建築博覧会と言ってよい眺めだった。ネオ・バロック、アール・デコ、クイーン・アン・リバイバル。かつて世界の最先端だった建築様式が、今もなお時代を風靡するかのごとく威容を競っている。
 カメラを構えてみたが、引きが足りずファインダーに収まり切らない。縦にしても横にしても全貌を捉えるには画角の限界を超える。超高層ではない。ことさら幅があるわけでもない。それなのに28mmのレンズでは捕まえることができない。
 ふと、七つの海を制覇するというのはこういうことなのか、と思った。圧倒的な経済力の差を見せつけられ、自分たちの土地でありながら立ち入ることを制限された当時の中国人は、突如として現れた近代化の象徴をどんな思いで眺めていたのだろう。
 感慨と少しの感傷に浸りながら、緩やかに右カーブする歩道を歩いた。ベージュを基調としたビルの外壁が、麗らかな春の陽に古き良き香りを醸し出していた。
 

   
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虹色の上海
 

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