アラビアの風に吹かれて〜Mumbai(Bombay)
 
アラビアの風に吹かれて
〜 Mumbai(Bombay)
 

   夜が明けて初めて、ホテルの裏がすぐ海になっていることを知った。ヤシの木陰を縫って砂浜が見える。窓を開けてバルコニーに出ると、爽やかな風が下界から吹いてきた。
「これって、インド洋?」
「そうだね。ムンバイはインドの西側にあるから、アラビア海だ」
 朝食まではまだ時間があったので、散歩がてら砂浜に降りてみることにした。
 プールサイドを抜けるとすぐ浜辺に出た。日本の海水浴場と比べると砂の目が粗く、適度に水分を含んでいるため踏みしめるとサクサクと気持ちよい音がする。砂浜は意外に広く、水辺まではけっこうな距離がある。左右に目を転じるとどこまでも遠く続いていて、彼方が靄に霞んでいる。
 ここも人が多かった。まだ夜が明けてからさほど経っていないというのに繁華街のような混雑ぶりだ。いったいみんなどこからやって来たのだろう。
 不思議なのは彼らの表情だ。一様に口唇を真一文字に結んで、難しい顔をしながら黙々と歩いている。その姿は散歩というより競歩、下手をすると修行のようにさえ見える。少なくともリゾートっぽくはない。
 さて、海辺に来たからにはお約束の写真も撮っておかなければ。僕がカメラを構えると、すかさず妻が波打ち際にしゃがんでポーズをとった。インド洋制覇。実際にはちょっと水に触れただけなのだが、本当にインド洋に手を浸し証拠も残したのだという達成感は大きい。
 いよいよ今日でインドも最後か。来る前はどうなることかとビクビクしていたが、意外と平気なものだ。お腹も壊していないし熱も出していない。ここまでくれば万が一当たったとしても帰りの飛行機で寝ていけばいい。成田空港で保健所に駆け込めばどうにかしてくれるだろう。そう思うと途端に気が大きくなり、朝食ではそれまで控えていた生野菜のサラダをたらふく食べてしまった。
 出発の頃にはだいぶ陽も昇り、暑さが肌を灼くほどにまでなっていた。バスに乗って市内の観光ポイントをいくつか巡る。街中の汚れ物が集まる洗濯場、ジャイナ教寺院、対英独立闘争の時にガンディーが住んだマニ・バワン。
 そして、最後に訪れたのがムンバイのシンボルといわれるインド門だった。
 植民地時代、当時のイギリス国王の来訪を記念して建てられたというこの石造りの壮麗な門は、海に向かって開かれている。つまり、観光客が主に目にするのは裏側であって、表を見たければ門をくぐって反対側に出なければならない。しかし、そこはすぐ岸壁で、全貌を捉えようと後ろに下がるとたちまち海に落ちてしまう。どうしても見たければ舟に乗って沖に出るしかない。
 一見逆に思えるこの位置関係こそがこの街の神髄だ。ムンバイは入口なのだ。そう気づくと、少しずつ静かな感動が込み上げてきた。
 ヨーロッパから、アフリカから、アジアから、アラビア海を越えてやってきた船が最初に目にしたのはこの門だった。悠久の歴史を誇るインド亜大陸において、近代以降、それまでこの地になかった物資や文化はすべてここを通って持ち込まれたのだ。
 風が心地よかった。潮の香りひとつにも何か異国のスパイスが感じられる気がする。神戸や横浜にも通じる、港町独特の開かれたハイカラさがそこかしこに漂っている。文明開化はここから始まった。そう思うと、キラキラ光る波しぶきがさらに眩しく感じられた。
 

   
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