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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.13９ News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2017.2.20 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：木下豊房（きのした とよふさ） 1969年、新谷敬三郎、米川哲夫氏らとドストエーフスキイの会を起ちあげ、「発足の言葉」を起草。その後現在まで会の運営に関わる。2002年まで千葉大学教養部・文学部で30年間、ロシア語・ロシア文学を教える。2012年3月まで日本大学芸術学部で非常勤講師。研究テーマ：ドストエフスキーの人間学、創作方法、日本におけるドストエフスキー受容の歴史。著書に『近代日本文学とドストエフスキー』（1993、成文社）、『ドストエフスキー・その対話的世界』（2002．成文社）、『ドストエフスキーの作家像』（2016、鳥影社）その他。ネット「管理人T.Kinoshita」のサイトで「ネット論集」（日本語論文・ロシア語論文）を公開中。 ニュースレター№139 2017―――――――2――――――――――――― 第238回例会報告要旨 『カラマーゾフの兄弟』における「ヨブ記」の主題 －イワン・カラマーゾフとゾシマ長老の「罪」の概念をめぐって－ 木下豊房 新約聖書とドストエフスキーとの関係は、最近の芦川進一氏、大木貞幸氏の著書、および、両氏の本会例会での報告などによってクローズアップされ、このところ、私たちのドストエフスキー読解に、大きな刺激をあたえるテーマとなっている。 もっとも「聖書とドストエフスキー」というテーマからいえば、『カラマーゾフの兄弟』にとりわけ因縁深い、旧約聖書の『ヨブ記』を無視することはできないだろう。小説にはゾシマ長老の話として、『ヨブ記』のエッセンスが詳しく紹介されているだけではなく、晩年のドストエフスキーの『ヨブ記』との再会（1875）、そして遥かさかのぼる幼年時代の思い出から、小説執筆の背景に『ヨブ記』の存在があったことが想像されるのである。 ロシアの研究者の間でのこのテーマでの研究は、1997年段階での『ドストエフスキー便覧事典』の記述『ヨブ記』の項によれば、この書の作家への影響の研究は、近年まだ事実の確認にとどまっていて、『カラマーゾフの兄弟』で部分的になされているものの、創作全体にかかわる潜在的影響の解明は今後に待たれるとされている。その後の10年間を見ても、意外にこのテーマの研究は十分に展開されたとはいえないようである。 私がこのテーマに関心を向けたきっかけは、イワンがアリョーシャとの会話で、神の否定、神の創造した世界を否定する根拠に、無辜の子供にまで及ぶ「人々の間での罪の連帯性」をあげているのに妙に引っかかるものを感じたことだった。「罪の連帯性」という用語は、かつて木寺律子さんが、自分の論文の題名にこの用語を掲げていて、あらためて気づかされたのだった。明らかにラテン語由来の「連帯性」という用語が、ロシア文化史上、いつごろからどのようなコンテクストで使われるようになったのか、にまず興味をもった。 この用語はロシアでのユートピア社会主義思想の普及に伴い、とりわけ19世紀60年代末のナロードニキの思想家達、活動家達の間で一般的なものになったらしい。なかでもドストエフスキー本人やイワン・カラマーゾフのまさに同年代人であるナロードニキの思想家ピョートル・ラヴロフ(1823-1900)にとっては、人類の意識における「連帯」はきわめて重要なキーワードだった。 他方、まったく別方向からの「連帯」概念、しかもドストエフスキーに絡む形での情報に接することになった。それはドストエフスキー研究者Ｔ.カサートキナの論文からの情報で、『貧しき人々』のエピグラフの引用元であるオドエフスキーの小説『生ける死者』には、架空の小説からのエピグラフが掲げられていて、そこには作中人物達により、「solidartis（連帯）はロシア語ではどう訳したらよいのか？」の問答がなされているのである。 ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№139 2017 ここでの「連帯」の概念を、カサートキナはゾシマ長老の思想に連なるものとしているが、これはイワンの「連帯性」とは明らかに異質なものである。イワンの論理か らすれば、子供に向けられた大人の罪の「連帯性」は「原罪」の論理にほかならない。「罪における連帯性」という用語を、さらに探って行くと、こういうことがわかった。 ロシア正教会において、「原罪」についての聖アウグストの教義に基づくカトリック的解釈が聖書翻訳に付随して持ち込まれた結果、なお自然崇拝の要素を残し、「原罪」については異なる解釈を持つ正教会では、これを非公認の概念としてあつかい、「罪における連帯性」と呼ぶようになったということである。こうして見ると、イワンのいう「人々の間での罪の連帯性」の概念は、明らかに「原罪」についてのカトリックの匂いが濃厚である。 他方、オドエフスキーに発し、ドストエフスキーの念頭にもあったであろう、もう一つの「連帯」概念は、多くの辞書類の解説にも見られない独特の解釈である。むしろ、ロシア人の原初的なメンタリティに由来するものとして、ゾシマ長老の思想に反映された、オプチナ修道院を中心とする「セラフィム系流（清貧派）」の修道僧や長老（アンブローシイやチーホン・ザドンスキイなど）の東方的「自然崇拝」の思想から逆照射して理解できるのではなかろうか。そこにはまたヨブの信仰の本来の姿も浮かび上がってくるように思われる。例会では出来ればこのあたりにまで話を進めたいと思っている。 第237回例会傍聴記 大木貞幸氏の「ｷﾘｽﾄの小説
―ﾄﾞｽﾄｴﾌｽｷｰ・ﾏﾙｺによるｷﾘｽﾄ教批判」を聴く 福井勝也 聴きごたえのある濃密な発表であった。内容はすでに既刊行の同名著書（2016.3.1刊）の解説と言えるものであったが、緊張感のある言葉が会場に響いた。僥倖にも当日に著書を頂戴して早速活字を追う機会も得た。「傍聴記」でもある、読後感想を何点か記して置きたい。 大木氏の主題は明らかで、遺作となった『カラマーゾフの兄弟』を「キリストの小説」として構想された作品と捉え、その際とりわけ福音書「マルコ伝」に切迫し、西欧キリスト教世界に対峙したドストエフスキーとマルコの作家的虚構性を論ずるものであった。この前提には、なぜ「マルコ伝」なのかという議論も必要になるはずだが、この点での説明は特になされなかった。問題は福音書の歴史的成立に絡みながら、マルコのイエス・キリスト理解すなわち「人の子」と「神の子」の間での究極の揺らぎから、ゲッセマネの「憂愁」・ペテロの「躓き」を議論の焦点にされた。当方、その流れからこの問題を理解した。 議論の起点として特徴的なのは、神と世界と小児の苦痛をめぐる「小児虐待の思想」に「イワンの未熟さ」を指摘されたことであった。そしてこれに気づいた作者が、「大審問官とキリスト」を次に持ち出し、以後「方法」の経験に踏み込んだとの議論に関心を覚えた。ただこの点で、作家の側からの「マルコ伝」への直接的な関心の証明の問題が残らないか。 ニュースレター№139 2017 ――――――――4――――――――――――― 『カラマーゾフの兄弟』については、現代の『第五福音書』創作の試みだとする指 摘（「ドストエフスキのイエス像」、『イエス研究史』所収1998）が早くに芦川進一氏からあった。昨年、その延長に新著『カラマーゾフの兄弟論』も上梓されている。今回の大木氏の著作（発表）は、その流れとも重なり合っている。今回この点、両氏の間で率直な質疑応答の機会もあり興味深く聞いた。同一の主題が、今日このように偶然に語られる意義とその両者の偏差に関心を抱いた。大木氏の著作には、発表のレジュメでも引用された本論の注解としての《論注》が丁寧に書き込まれていて熟読すべきだと思った。しかしキルケゴールやカントなどの哲学的議論も援用され、必ずしも読み易くない。むしろアフォリズム的に自由に読むべきだと感じた。さらに二部構成後半の《論注》途中（《五》 超越論的アナロギア）には田川建三の聖書論の他、「マチウ書試論」（1954）から『喩としてのマルコ伝』（1978）を書き継いだ吉本隆明の批評にも言及がされている。紹介したいがスペースが足りない。 芦川氏と大木氏の福音書的磁場のなかでドストエフスキーのイエス・キリストを探求するやり方は、大きく言えば聖書を信仰の書プロパーと言うよりも、それを思想・哲学の領域との往還のなかで位置づけようとする試みだと思う。そしてこのことを文学の言葉で架橋してきたのが、小林秀雄や吉本隆明そして柄谷行人へと繋がって来た「文藝批評」というジャンルでもあった。今回の大木氏発表は、この「文藝批評」の系譜に連なっている。それ故に、『カラマーゾフの兄弟』も福音書の言葉（「喩」）を虚構化（「批評」）した物語と言えるのだろう。日本近代批評は、ドストエフスキー文学をそのような内実として解明し受容してきた。芦川大木両氏の微妙な違いも、そうした系譜に連なりながらの偏差なのだと思う。例会にあっても、このような系譜からの発表には大きな意義があると感じた。 事務局便り
第238回例会会場 神宮前隠田区民会館 地下鉄千代田線か副都心線の明治神宮前駅（１分） ○今回の会場は、千駄ヶ谷区民会館の会場が抽選漏れのため変更となりました。 木下豊房 |
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ドストエーフスキイの会
ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.13７
News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2016.10.20 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：熊谷のぶよし （くまがい・のぶよし） ５９歳、妻有、子供二人 ４０歳の時にドストエーフスキイの会に参加。 過去に例会で発表した題目は次のとおり。 「ドミートリイ・カラマーゾフの二重性」「『永遠の夫』を読む」「戦士アリョーシャの誕生」「イワンの論理と感情」「「ネヴァ河の幻」出現の経緯」
ニュースレター№137 2016―――――――2――――――――――――― 第236回例会報告要旨 ラスコーリニコフの深き欲望 熊谷のぶよし 三年前に『罪と罰』を再読したとき、センナヤ広場で身を投げ出すラスコーリニコフに圧倒的な解放感を体験した。彼のこの行為は、欲望に突き動かされたもので、その欲望と私は一体となり、自分もこの時このように身を投げ出すだろうと思った。この感想を人に話すと、「それではエピローグについてもわかったんですね」といわれて絶句してしまった。それ以来このつながりが気になっていて、今回の発表はこの宿題の回答である。ラスコーリニコフの深いところにある、人々とつながりたいという欲望を中心に小説を読んでいこうというものである。話す内容は以下の５章となる予定である。 １ 最後の独白 『罪と罰』のエピローグにおける「彼女の信念がおれの信念となっていいはずではないのか？」というラスコーリニコフの独白は、ふつうソーニャの愛によってラスコーリニコフが信仰を得ることになったと解される。しかし、ラスコーリニコフの信念はソーニャの信念とはかけ離れたもので、それが容易に入れ替わるものとは思えない。この独白の中では、彼の信念とソーニャの信念は並立することになる。 こうした信念の持ち方は自己のあり方を不純なものにする。それは、独立した自己に重きを置く文学的な人間像からは受け入れがたいものであろう。しかし、この不純な自己のあり方を肯定的にとらえてみたい。囚人たちとの和解の契機ともなるこの信念の並立を、ラスコーリニコフが世界を肯定的に受け入れるあり方として考える。その結果、ラスコーリニコフの人々と繋がりたいという欲望が見えてくる。その欲望は、孤独や実存よりも深いものとしてある。その欲望にたどり着くために、その欲望の反転したものとしての彼の孤独について、以下の章で検討する。 ２ ネワ川で体験したこと ラスコーリニコフが犯行後に体験する孤独は、ロマン主義的な孤独とはまったく別物である。犯行前の孤独は彼が自ら選んだものであり、犯行後の孤独は人々の側から切りはなされたものだ。ラスコーリニコフのネワ川の体験の要諦は、犯行前に彼が体験した「唖、聾の鬼気」の異様な印象を、この時彼が体験していないということにある。かつて彼にとって貴重だったテーマはもはや意味を持たない。このことがふたつの孤独の断裂を示している。 ３ 警察署での孤独の体験 犯行後のラスコーリニコフの孤独とはどのようなものかを考える。 警察署でラスコーリニコフが体験した「せつない、無限の孤独と疎外の暗い感覚」は、人殺しによって、彼が人々とつながりたいという深い欲望を持つことができなくなったことに由来する。この感覚の発生の描写を引用し、下記の４点を中心に、ラスコーリニコフの人々と繋がりたいという欲望を探る。 ①自意識の苦痛が消滅したこと、②嫌疑から解放されたことによる歓喜の体験を直 ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№137 2016 前にし、それを忘れてしまっていること、③彼にとってどうでもいい人間達が貴重な存在となっていること、④そして彼らに話しかける理由を失ってしまったこと。 ラスコーリニコフの人々と繋がりたいという欲望は俗念にまみれたものであり、文学が避けてきたものでもある。あるべき自己イメージとかけ離れていて、この自覚は彼の自我を危うくする。この欲望はラスコーリニコフによって無意識に追いやられる。 ４ センナヤ広場にて ラスコーリニコフの深い欲望はセンナヤ広場で解放される。彼がセンナヤ広場で身を投げ出す時の感情の推移は、警察署で彼が経験した歓喜の感情から孤独という筋道の逆をたどる。ラスコーリニコフは、人々と繋がりたいという、深い欲望に突き動かされて身を投げ出した。しかし、この時においても、彼はその欲望が何かを自覚していない。 ５ ソーニャの発見 流刑地において、ソーニャはラスコーリニコフに取ってどのような存在であったか。 彼は、病中に見た悪夢によって、すでに彼の側らにいるソーニャを再発見することになる。 悪夢の中心テーマは、前面に描かれている殺し合う人々ではなく姿の見えない「数人の清い、選ばれた人たち」である。彼らのあり方とソーニャとの関連性を明らかにする。 夢を覆う殺し合う者達は信念を持ちかつその信念を他者に押しつけようとしている。一方、「数人の清い、選ばれた人たち」が夢に姿を顕さないのは、彼らが殺し合う者達の持つ出現の要件を欠いているからだ。彼らは信念を持ちしかしその信念を他者に押しつけない。そのために夢に出現しないのだ。そう思えるのは、ラスコーリニコフが信仰を奨めないソーニャを驚きを持って見ているからだ。ソーニャがラスコーリニコフに信仰をすすめなかったのは、ラスコーリニコフが信仰を持つようになることを信じて疑わなかったからだ。あるいはもうすでに信仰を持っていると信じていたからであろう。そのことに気づいたラスコーリニコフは、「彼女の信念がおれの信念となっていいはずではないのか？」と思ったのだ。 第235回例会傍聴記 金沢 友緒 氏「ドストエフスキーと気球」を聴いて 近藤 靖宏 気球、それも実用化される前、実験の段階にあった時代の話である。現在でこそ気球が飛ぶ原理など当たり前に分かっているが、当時は動物磁気やエーテルと同様、今の言葉で言えば疑似科学に近いものと見なされていたのだろう。したがって、必然的に気球という言葉はファンタジー、現実離れしたものといったイメージを呼び起こすことになる。 ニュースレター№137 2016 ――――――――4――――――――――――― 今回の報告は、気球が発明され実用化される前段階までの歴史、およびその時代の文学作品の中で気球がどのように扱われてきたかの一端を示すものであった。気球の歴史はさておき、私たちにとって重要なのは後者であろう。詳しく取り上げられた事例、それもドストエフスキーと直接関連するものは、雑誌『時代』の予約購読募集記事、『賭博者』、『罪と罰』、ポーの短編に関する評論であった。ここでは先の2つについて述べたい。 『時代』の記事は、当時の西欧派・スラブ派の論争が背景にある。西欧派の人々を気球乗りに例えてきっと内心では地上に降りたいと思っているに違いないと皮肉っている。スラブ派の人々が土壌主義なる思想を提唱していたことと考え合わせると実に分かりやすい。ドストエフスキーが気球を取り上げるとき、それに乗る人の気持ちがモチーフになっていることが多いと報告者は言う。 『賭博者』には最後の資金を全部賭けてしまったときの心境を「マダム・ブランシャールが気球から地面に飛んだときの印象」と例えた描写がある。無論どちらも命がけの行為だ。 ブランシャール夫人とは、気球により墜落死を遂げた実在の人物。ここで彼女が登場するのは、『賭博者』の登場人物、マドモアゼル・ブランシュと名前が似ていること、ルーレット盤の上では小さな「球」が回ることと、気球の「球」、つまり二重の引っかけになっているのではないかと報告者は推測する。ドストエフスキーは当時の歴史的事件、というより三面記事の事件をよく取り上げるので、こういったトリビアルな事例を調べて報告してもらうと実にありがたい。 今回の報告資料の中にソ連時代の記念切手の写真があり、これが多いに私の興味を引いたので文学と直接関係ないが最後に紹介したい。そこには「ロシアの発明家Крякутнойが世界で初めて気球で飛行して225年」とある。まるでファンタジーのようなプロパガンダだ。なお、報告者が指摘していたように、なお、報告者が指摘していたように、史実では気球を発明したのはフランスのモンゴルフィエ兄弟であるとされていることを念のため申し添えたい。 事務局便り 2017年度の「ドストエーフスキイ広場」№26号の刊行へ向けて、9月17日の例会の日、運営委員会メンバーの中のボランティアで、編集会議を原宿の喫茶店「ノア」で起ちあげました。集まったのは昨年同様、福井、高橋、渡辺、熊谷、近藤、木下の5名でした。 第一次原稿締め切り、12月末日、最終締め切り来年1月20日というタイムスケジュールで、執筆者に原稿を依頼することになりました。 現在、掲載を予定されているのは、2016年度例会発表者、田中沙季、芦川進一、杉里直人、金沢友緒、熊谷のぶよしさんらの論文のほかに、冷牟田幸子さんのエッセイ、清水孝純さんのエッセイまたは小論文、書評、金沢美知子さんによるグラナダ、国際シンポジューム報告、在モスクワ、在ペテルブルグに留学中の泊野竜一、斉須直人さんの学会、研究報告などです。 日頃、例会参加もままならない地方会員の方々からの、エッセイ、小論などの寄稿を歓迎します。ワープロ原稿が条件で、枚数等は下記アドレスに問い合わせください。 |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.136 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2016.8.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：金沢友緒 (かなざわ ともお) 東京大学大学院博士課程修了、現在日本学術振興会特別研究員(PD)。専門は18 ・19世紀のロシア文学、文化。特にロシアにおけるドイツ受容、トゥルゲーネフ、А.К.トルストイを研究している。 ｢А.К.トルストイと 1840 年代ロシア－『アルテミイ・セミョーノヴィチ・ベルヴェンコフスキ イ』をめぐって－」(SLAVISTIKA
28号、2012)、 «О.П.Козодавлев и И.В.Гете. Межкультурное сопоставление (コゾダヴレフとゲーテ：異文化衝突をめぐって) » ( Русская литература №
2 , 2015) 他。 ニュースレター№136 2016――――――――2――――――――――――― 第235回例会報告要旨 ドストエフスキーと「気球」 金沢友緒 文学作品は多様なジャンルの影響を受けて生まれたものであり、その中の一つが科学である。イギリス、フランス等、近代西欧先進諸国における科学技術開発の歴史の中で試みられた実験や生まれた発明に対して作家達は強い関心を示しており、ロシアの作家達もその例に漏れなかった。18世紀および19世紀を通じて近代ロシア文学は飛躍的な発展を遂げたが、そのプロセスには科学の発展もまた密接に関わりをもっていたのである。 今回の報告で注目するのはその一つである「熱気球」である。18世紀後半のフランスでモンゴルフィア兄弟がおさめた実験の成功は本国のみならず諸外国でも注目を集め、｢気球 (воздушный шар)｣は別名、すなわち実験者兄弟からとった「モンゴルフィア（Монгольфьер）」の名で各地に広まったのである。ロシアでも反響が大きく、フランスで実験が行われた1783年に既にペテルブルグで、また翌年にはモスクワでも同様に実験が行われた。以後、気球は飛行実験や新たな交通手段の開発の模索が繰り返される中、文学においても、伝統的な飛行のモチーフとの関わりの中で重要な役割を獲得していったのである。 本報告は18世紀から19世紀にかけての気球をめぐる科学の歴史を踏まえた上で、ドストエフスキーの作品の中では「気球」がどのような形で登場し、用いられていたかを取り上げたい。 19世紀に入って気球をめぐる技術は向上を続け、ロマン派の作家達の作品の中にしばしば登場していた。しかし写実主義への移行期には、新たな日常的交通手段としての鉄道が文学の中に登場し、大きな役割を果たすようになっていった。レフ・トルストイに繰り返し登場する『アンナ・カレーニナ』の鉄道の旅や駅の描写、ドストエフスキーの『白痴』冒頭のムィシキンとロゴージンの列車内での出会いの場面はその代表的な例であろう。無論19世紀後半にフランスで出版されたジュール・ヴェルヌの『気球に乗って』のように、「気球」を用いたファンタジー文学として西欧で大きな反響を得た作品もあったが、現実の風景としての気球飛行はさほど実用的ではないため、ロシア・リアリズム文学の中ではむしろ比喩的な表現として用いられることの方が目立っていたと思われる。 ドストエフスキーの文学の中でも数多くはないものの｢気球｣のモチーフは登場する。やはり｢気球｣を比喩的に利用したものが見られ、その中でも特に意図的な利用が明確であるのが、同時代の文壇の西欧派とスラヴ派の思想的論争の背景を踏まえて書かれた、チェルヌィシェフスキー等急進陣営に対する批判である。彼の批判に対し、他の作家もまた「気球」を踏まえて応酬したのであった。 本報告ではこの議論の他に、『罪と罰』や『賭博者』に登場する「気球」についても取り上げる。また、ロシア文学の中で｢気球｣のモチーフが果たしてきた役割を考慮し、例えば19世紀初めから同時代の19世紀半ばにいたる作家達、В.Ф. オドエフスキー、ブルガーリン、ゲルツェン等の作品についても比較の対象として取り上げながら、ドスト エフスキーの「気球」をめぐる視点について紹介したい。 気球についての言及は、ドストエフスキーを含め、近代ロシアの作家達が科学技術の発展全般についてどのような関心をもち、また創作上、どのように利用しようとしていたかを明らかにする手がかりを提供してくれるであろう。 |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.135 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2016.6.30 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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ニュースレターNo.135 2016――――――――2――――――――――――― 第233回例会傍聴記 杉里直人氏の「 『カラマーゾフの兄弟』における「実践的な愛」と「空想の愛」――子供を媒介にして」を聞いて 高橋誠一郎 長年、『カラマーゾフの兄弟』に取り組んできた芦川進一氏の報告に続いて、今回の報告は６年間かけて『カラマーゾフの兄弟』の翻訳を終えたばかりの杉里氏による報告であった。芦川氏の考察は日本ではあまり重視されてこなかった『聖書』における表現との比較を通して『冬に記す夏の印象』や『罪と罰』などの作品を詳しく読み解いたことを踏まえた重層的なものであった。杉里氏の考察も１９９２年に発表された「語り手の消滅
－『分身』について」や「「書物性」と「演技」――『地下室の手記』について」（『交錯する言語』掲載）など初期や中期の作品の詳しい考察を踏まえてなされており説得力があった。ここでは当日に渡されたレジュメの流れに沿って感想を交えながらその内容を簡単に紹介する。 最初にアリョーシャが編んだ「ゾシマ長老言行録」に記されたゾシマ長老の「幼子を辱しめる者は嘆かわしい」という言葉には「子供の主題」が明確に提示されており、ドストエフスキー自身の声が響いていることが指摘された。次に主人公たちが「偶然の家族」の「子供」として描かれていることが、「腹の中で自殺するのも辞さない」と語ったスメルジャコフと養父グリゴーリイとの関係だけでなく、カラマーゾフの兄弟それぞれが「辱しめられた子供」であることが、あだ名や父称などの問題をとおして具体的に分析された。 さらに、子供が大好きだというイワンが「反逆」の章で「罪のない子供の苦しみ」に言及しながら、「不条理な涙は何によっても贖われることがない以上」、「神への讃歌《ホサナ》に自分は唱和しない」という決意を語るのは有名だが、それと対置する形で、父親殺しの容疑者として徹夜の取調を受けた後で眠り込んだドミートリーが火事で焼けだされた村落で泣く赤ん坊の夢を見て、「もう二度と童(ジチョー)が泣かずにすむように……中略…あらんかぎりのカラマーゾフ的蛮勇を発揮してどんなことでもやりたい」と思ったことが彼の新生への転回点となり、「徒刑地の鉱山の地底で神を讃えて悲しみに満ちた《讃歌(ギムン)》を歌うと宣言する」ことが描かれているとの指摘は新鮮であった。 そしてこのようなドミートリーの「人はみな、万人の行ったすべてのことに責任がある」という贖罪意識や認識が、イワンとを遠ざけるだけはなく、 ゾシマ長老、彼の夭折した兄マルケルへと近づけるという指摘は『カラマーゾフの兄弟』という長編小説の骨格にも深く関わっていると思える。また、ドミートリーにどこまでも寄り添おうとするグルーシェンカが、みずからも ニュースレターNo.135 2016――――――――３――――――――――――― 「虐げられた子供」の一人でありながら「一個のタマネギを恵む」女であることや、「苦しむ人へ寄り添う」人であり、「運命を決する人」としてのアリョーシャ像からは『白痴』のムィシキンが連想させられて私には深く納得できるものであった。ただ、会場からはコーリャやイリューシャなどとの関係についての質問も出たが、質疑応答も活発になされて時間が足りないほどであったので、機会があれば次は三世代の少年たちとの関係にも言及した報告をお願いできればと思う。 バルザックの作品とドストエフスキーの翻訳との比較をした「ドストエフスキーの文学的出発──『ウジェニー・グランデ』の翻訳について」（１９８７年）で研究者としての第一歩を踏み出した杉里氏は、2011年にはバフチンの大著『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』（水声社）の翻訳を出版している。今回の報告からもドストエフスキーの言葉や文体の特徴に注意深く接しながら、地道な翻訳作業を続けてきた杉里氏の誠実な研究姿勢が強く感じられた。杉里訳『カラマーゾフの兄弟』の出版が今から待たれる。 国際ドストエフスキー・シンポジュウム（スペイン・グラナダ）参加報告 木下豊房 第16回国際ドストエフスキー・シンポジュウムが去る6月7日～10日の日程で、スペイン・グラナダの市街地の中心、大聖堂脇のフェデリコ・ガルシア・ロルカセンターで開催されました。世界各地から百十数人の研究者が参加し発表しました。メインテーマは「『罪と罰』公刊150周年」ということでしたが、それにとらわれず、幅広い論題で発表が行われました。 日本からは清水孝純、高橋誠一郎、金沢美知子・友緒、泊野竜一、斉須直人、望月哲男、木下豊房が発表しました。注目の亀山郁夫氏はオープニングの初日と二日目に姿を見せましたが、二日目の最後、総会が終わると、発表の予定もなく、立ち去ってしまいました。次回3年後の開催地は対立候補もなく、ブルアリアのソフィアと決まりました。 1971年のバッド・エムス以来3年目毎に開催されたきたこのシンポジュウムも明らかに世代交代が目立ち、昔の常連の姿が見えなくなっていました。3日目の6月9日には、「IDSの歴史と将来」という回顧の集会が開かれ、かつて事務局を務めたノルウェーのエゲベルグ氏が歴史を語り、かつての会長・イギリスのマルコム・ジョーンズ、ドイツのゲーリック氏がヴィデオメッセージで、挨拶を送りました。今回目立ったのは、ドイツ、フランス、イギリスからの参加がほとんどなく、アメリカ、ロシア、日本、イタリア、かつてのソ連圏、東欧諸国が主で、中国からも三名の参加がありました。なお北京第二外国語大学では、2011年の研究集会に続いて、今年10月21－23 ニュースレターNo.135 2016――――――――4――――――――――――― 日に「ドストエフスキーと今日の人類の運命」と題する研究集会が企画されており、招待状が届いています。 事務局だより ○5月21日に例会に先だって、第47回総会を開き、会計報告その他、全会一致で承認されました。 平成２７年度 収支計算書 （平成27年5月6日〜平成28年5月5日） 会計 近藤靖宏 監査 渡辺好明
第234回例会会場 神宮前隠田区民会館 地下鉄千代田線か副都心線の明治神宮前駅（１分） ○今回の会場は、千駄ヶ谷区民会館が区の公用使用で申し込み出来ないため、変更となりました。 |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.134 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2016.4.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：杉里直人（すぎさと なおと） 1956年生まれ。早稲田大学、明治大学ほか非常勤講師。2007年以降、マヤコフスキー学院にて『カラマーゾフの兄弟』を講読しており、まもなく読了の予定。最近『カラマーゾフの兄弟』の翻訳を終えた。主要訳書：バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』（水声社）。 ニュースレター№134 2016――――――――2――――――――――――― 第233回例会報告要旨 『カラマーゾフの兄弟』における「実践的な愛」と 「空想の愛」――子供を媒介にして 杉里直人 アリョーシャが編んだ「ゾシマ長老言行録」（第六編第二章）には、子供についてゾシマ長老が述べた印象深い一節がある――「とくに子供を愛されよ、なぜなら、子供も天使のごとく罪なき者であり、私たちを感動させ、私たちの心を浄化するために生き、私たちにとってある種の啓示のようなものだからである。幼子を辱しめる者は嘆かわしい」 「辱められた子供」は『カラマーゾフの兄弟』のもっとも重要な主題の一つである。そもそもカラマーゾフの三兄弟はみな親に遺棄され、成年に達するまでその愛情を知らずに生きてきたし、幼時より下種な男だ、嫌な臭いの女から生まれた父なし子だと差別され続けてきた、異母兄弟スメルジャコフにいたっては、「この世に生まれないですむなら、腹の中で自殺するのも辞さない」と慨嘆するほどの黒々とした絶望と怨嗟に苛まれている。 幼児凌辱と言えば、読者の胸にもっとも強烈な印象を刻むのは、「反逆」（第五編第四章）のイワンであろう。子供が大好きだというイワンは、古今東西の幼児虐待事件の記録のコレクターで、トルコ、フランス、ロシアでのその種の残虐な事件を弟に縷々語る。彼が結論として引きだすのは、罪のない子供の苦しみ、彼らが流さなければならない不条理な涙は何によっても贖われることがない以上、神の創った世界と、その終末に到来する一切の罪の赦しと永遠の調和を拒否し、神への讃歌《ホサナ》に自分は唱和しないという決意である。 一方、父親殺しの容疑者として徹夜の取調を受けて疲労困憊したドミートリーは眠りこみ、奇妙な短い夢を見る。火事で焼けだされた村落で一滴の乳も出なくなった痩せた女に抱かれて泣く赤ん坊の夢。それに魂を震撼されたドミートリーは夢の中で誓う――「もう二度と童が泣かずにすむように…一刻の猶予もなく、万難を排して、あらんかぎりのカラマーゾフ的蛮勇を発揮してどんなことでもやりたい」（第九編第八章）。この夢は彼の回心・新生への転回点となる。裁判の前日、彼は監獄を訪ねたアリョーシャに向かって、自分は親父を殺してはいないが、あの童のために懲役に行く、なぜなら「人はみな、万人の犯した罪に対して責任があるからだ」、そして徒刑地の鉱山の地底で神を讃えて悲しみに満ちた《讃歌》を歌うと宣言する（第十一編第四章）。その彼にどこまでも寄り添おうとするのが、みずからも「虐げられた子供」の一人でありながら、「一個のタマネギを恵む」女グルーシェンカである。 虐げられた子供の涙を前にして、二人の兄弟を分かち、異なる道に向かわしめるのは、ドミートリーにあって、イワンにはない啓示――「人はみな…」という贖罪意識である。この認識はドミｰ―トリーとイワンとを遠ざけるだけはない。彼 ―――――――――――3――――――――――――ニュースレター№134 2016 をゾシマ長老、彼の夭折した兄マルケルへと近づけることにもなる。 兄と弟はそれぞれ独自の子供への愛を語るが、イワンはもちろん、ドミートリーにしても、ゾシマ長老の語る「空想の愛」にとどまることもいなめない。「人はみな…」だけでは、「実践的な愛」には到達しえない。私見によれば、「人はみな…」は、マルケル、ジノーヴィー（ゾシマの俗名）、そしてジノーヴィーの軍隊時代の従僕アファナーシーを貫く「自分にそんなことをしてもらう値打ちがあるだろうか」という謙譲＝忍従をともなわないかぎり、「実践的な愛」には到達しえないのだ。 では、「実践的な愛」の人アリョーシャは、子供にどのように対しているか。あるいは三世代を扱うこの小説にあって、「少年たち」は具体的にどう描かれているか。今回の報告では「子供」を鍵にして、「実践的な愛」と「空想の愛」の諸相について考えてみたい。 第232回例会傍聴記 芦川進一氏の「悪魔が明かすモスクワのイワン」を聴いて 熊谷のぶよし この傍聴記がお手元に届く頃には、芦川氏の新著『カラマーゾフの兄弟論』はすでに出版されているはずである。今回の発表はその出版を記念してのものであった。会場は満席で期待の高さがうかがわれた。私自身も前著『『罪と罰』における復活』で、克明に描かれたラスコーリニコフの人物像に深い感銘を受けていたので、今回のイワンに焦点を当てた発表を楽しみにしていた。 まず、発表の冒頭では、『カラマーゾフの兄弟』の献辞が妻アンナに対してなされていることの重要性が指摘された。作家が主人公に夭逝した子と同じ名前をつけた意味は大きい。妻への口述筆記の間にはこのアレクセイという名が常に呼び続けられていたのだ。以前、このことを人に指摘されて、この作品が作家だけでなくアンナにとっても大切なものとして創造されたことに気づいたことがある。発表では、妻への献辞から読み解くべきこととして、この作品が、作家が二人の子の死の経験から死を超えた「永遠の生命」を探求して生み出されたものであることが指摘された。この「永遠の生命」の探求とは、抽象的なテーマの追究ではなく、作家と妻の深い切実な願いにもとづいたものなのだと思った。 次に芦川氏は「一粒の麦」のエピグラフについて触れた。エピグラフに使われたヨハネ福音書の言葉は感動的であるが、聖書の読解においては、感動的な言葉の印象だけに留まるべきではなく、まず前後の言葉との関連という小さな文脈の中で捉え、次に聖書全体の大きな文脈で捉える必要があることが力説された。小さな文脈においては、一粒の麦の喩えは、永遠の生命の条件を意味するが、大きな文脈においてはイエスと弟子―特に裏切るものとしてのユダ―たちとの関係性の断裂を意味し、それを「一粒の麦」の死を巡る逆説として捉えるべきことが強 調された。 この「一粒の麦」の逆説は、カラマーゾフにおいては、ゾシマとフョードルが ニュースレター№134 2016 ――――――――4――――――――――――― 追いやられる死と、その死によってカラマーゾフの兄弟たちがイエスを裏切るユダとして迫られる古い生の死に対応する。この古い生の死は彼らの新しい生への復活に結び付いていくことで「一粒の麦」としての意味を持っている。これが芦川氏が『カラマーゾフの兄弟』で展開されることをみた死と復活のアウトラインだろうと私は受け止めた。 今回の発表の中心は、モスクワ時代のイワンの「神と不死」探求思想の軌跡にあった。準備された資料にそって、「アリョーシャとの対決」におけるイワンの神否定の思想と「悪魔との対決」の悪魔の言葉から抽出され時系列的に整理されたイワンの思想的遍歴とが対比された。資料では、イワンのそれぞれの項目ごとの結論が、信仰に関する「肯定」と「否定」で便宜的に〇と●に分けられていた。質疑では、この資料による整理と分類によって、なぞの多いイワン理解の入り口に立てることができたとの声があったが、イワンとその信仰を考える上でのポイントが明確に示されていた。 この思想的遍歴の中では、イワンは聖書に精通した人物として捉えられている。一方ですくなくともこの小説の中でイワンは●の側で終わってもいる。それでは、聖書の理解が信仰に結び付かないなら、理解と信仰の隙間にあるものとは何なのだろうか？そのことを考えてみたいとも思った。 質疑は十分な時間を取り活発に意見が出たが、その中で時に心にとまったことがある。小説の参照として福音書を読むことは福音書に対する正しい対し方なのかとの質問に対して、氏は福音書をドストエフスキーの小説の参照として読んでいると言い切られていた。一方で『カラマーゾフの兄弟』は第五福音書であると氏は述べていたので、つまり『カラマーゾフの兄弟』に向き合うことは福音書に向き合うことと同じことなのだろう。それならば私も『カラマーゾフの兄弟』をとおして福音書に向き合うことができるだろうと思ったのであった。 事務局便り ◎2016年の今年は『罪と罰』（1866）が刊行されて150年ということで、6月のスペインでの国際シンポジュウムも一応、それを記念することになっています。カナダのブリティシュ・コロンビア大学でも10月に何かのイヴェントをやるらしく、『罪と罰』の読み、とりわけデジタル時代の作品の読みについて、300字程度の情報や提言を募るアッピールをメールで送ってきています。 こちらでは前回例会の芦川さんに引き続いて、今回は杉里さんの『カラマーゾフの兄弟』論です。私が国際シンポで発表するのも同じですが、いずれ例会で披露させていただきたいと思っています。 ◎2016年度会誌「ドストエーフスキイ広場」を4月9日に発送しました。会員の皆様のお手元にはすでに届いていることと思います。例年通り、7月の例会を合評会にする予定ですので、じっくり読んで、多数の会員にご参加いただきたいものです。 木下豊房 事務局メールアドレス：tkino@chiba.email.ne.jp |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.133 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2016.2.20 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：芦川進一（あしかわ しんいち） 1947年、静岡県生まれ。東外大（仏語）、東大大学院（人文科学研究科・比較文学比較文化）。津田塾大学講師を経て現在河合塾英語科講師・河合文化教育研究所研究員。研究テーマはドストエフスキイにおけるキリスト教思想。翻訳（共訳）『イエス・キリスト』（小学館、1979）。著書『隕ちた「苦艾」の星』（1997）、『「罪と罰」における復活』（2007）、『カラマーゾフの兄弟論』（2016）［以上三冊は河合文化教育研究所］、『ゴルゴタへの道』（新教出版社、2011）。河合文化教育研究所のＨＰに「ドストエフスキイ研究会便り」を掲載中 〔http://bunkyoken.kawai-juku.ac.jp/reserch/dosuto.html〕 ニュースレター№133 2016―――――――2――――――――――――― 第232回例会報告要旨 「悪魔が明かすモスクワのイワン」 ―「ロシヤの小僧っ子」が辿った「神と不死」探究の足跡― 芦川進一 『カラマーゾフの兄弟』第五篇第３章、故郷家畜追込町の居酒屋「みやこ」で、イワンは弟アリョーシャにこう語ります。 「俺もお前と同じロシアの小僧っ子だ。［中略］そういう連中が、飲み屋でわずかな時間を捉えて何を論じると思う？他でもない、神はあるかとか、不死は存在するかとかいう世界的な問題なのだ」 次兄イワンをどのように捉えたらよいのか。この問題は私にとって長い間大きな課題であり続けてきました。このたび書き上げた本で、私はこの青年の原点はやはりこの言葉にあると考え、彼の思想と行動の一切を「ロシヤの小僧っ子」による「神と不死」探究の旅、一貫したイエス像探求の過程として捉えようと試みました（『カラマーゾフの兄弟論―砕かれし魂の記録―』）。イワンばかりかカラマーゾフの兄弟四人が向かう方向とは、突き詰めれば神存在の問題に他ならず、これは作者ドストエフスキイ自身の人生を貫く究極の問題であり、私自身改めてこの方向での思索を深める必要を痛感させられました。 ところでイワンの思想と行動を捉える大きな手掛かりは、「肯定と否定」と題された第五篇のアリョーシャとの対決にあり、そこで弟から「反逆」と呼ばれる思想であることは明らかです。しかしこれに加えて作者は、イワンという人物を知るもう一つ大きな手掛かりを提供してくれています。第十一篇第９・１０章に描かれた悪魔との対決です。作品の終り近く、裁判を明日に控えての悪魔の登場。これはスメルジャコフによって父親殺しの罪を決定的に自覚させられ、裁きの場での自白を決意したイワンの心に生じた猛烈な反動、「揺れ戻し」と言うべきもので、この時イワンの心は、悪魔との問答という形で、もう一度「大審問官」や「地質学的変動」の思想を生み出した頃の自分、モスクワ時代の自分に立ち帰ろうとしているのだと考えられます。つまりイワンは、神の否定に続き「キリストの愛」をも否定し、自分自身を「一切が許されている」神とするに至った頃の自分、力に満ち溢れたモスクワでの自分を呼び戻そうとしているのです。 錯綜し、飛躍と韜晦に満ちた捉え難い悪魔の言表。しかしそこに散りばめられた情報を丁寧に拾い集めてゆくと、イワンがモスクワで辿った思索の足跡を時系列的な線上に再構成することが可能となります。その結果、悪魔が明かすモスクワでのイワンと、アリョーシャと対決する家畜追込町でのイワンとが、ちょうど表裏一体の合わせ鏡のようになって、その思想の全体像が立体的に浮かび上がり、イワン造型に当たる作者ドストエフスキイの構想も相当明瞭になってくるように思われます。 周知の如くイワンとは「自己矛盾的存在」（西田幾多郎）と呼ばれるように、その思想も行動も「肯定と否定」の間に激しく分裂し、この上なく捉え難い存在です。し ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№133 2016 かし以上のような方法論で（悪魔とアリョーシャの導きによって！）アプローチする時、その矛盾・分裂の奥からは「神と不死」の熱烈な探究者イワンの瑞々しい姿が現れ出て、この存在がいわば弁証法的なドラマ性を持った生成途上にある「ロシヤの小僧っ子」であることが明らかとなります。ここから見る時、イワンとその「前衛的肉弾」スメルジャコフとの関係、他の兄弟たちとの関係、またゾシマ長老や父フョードルやリーザとの関係にも新たな光が当たり、『カラマーゾフの兄弟』へのより大きな視野も開けて来るでしょう。 例会では何よりもまず、このモスクワにおけるイワンの思想形成のドラマを具体的に提示するように努めたいと思います。そこから新たに開かれるカラマーゾフの世界への展望を検討し、時間が許せば、更にドストエフスキイ文学の根幹をなすユダ的人間論とキリスト論の問題にまで言及できればと思っています。 第231例会傍聴記 田中沙季氏の「現代に『カラマーゾフの兄弟』は可能か」を聴いて 高橋誠一郎 今回は２０１５年にチェーホフ記念モスクワ芸術座で上演されていた四時間半にわたるボゴモロフ監督の長大な劇『カラマーゾフ』を３回見た田中氏の発表で、配布された資料には「ゾシマの死を伝えるニュース番組」の場面や、舞台の上部だけでなく両脇の壁に設置された「左の眼」と「右の眼」に映った映像を示す小さなスクリ－ンの写真もあり、臨場感のある報告となった。 発表では役者の顔をクローズアップしたり、複数の視線を提供するなど映像技術を利用した舞台が詳しく紹介され、アリョーシャを演じたのが白髪の女優であり、スメルジャコフとゾシマを同一の俳優が演じるなど配役の特徴だけでなく、母親が悲しみを訴える場面でロックバンドの音楽が流れたり、グルーシェンカがカリンカを踊るなどの音楽を取り入れた場面が多いとの指摘もなされた。 さらに、俳優名のリストの一番下に「悪魔 ある」と記される一方で、アリョーシャと少年達との交流や大審問官の話、ゾシマの伝記などが省略されていたことに対しては、日本における『カラマーゾフの兄弟』の受容と比較して興味深いとの感想や「『悪魔』的にドストエフスキーを読む」ことの面白さを強調する意見が出された一方で、果たしてこれがドストエフスキー劇と呼べるのだろうかといった率直な疑問も出された。実は、私も監督の意図がなかなかつかめずに、この劇も大衆受けするようにセンセーショナルに作られているのかもしれないと戸惑いながら聞いていた。 しかし、千葉大学で行われた国際研究集会で「ドストエフスキイの終末論――地獄の克服」（『ドストエーフスキイ広場』第１０号参照）という題の講演をした研究者サラスキナが記したこの劇への肯定的なコメントや、配付資料ではあまり詳しく記されていなかった劇の筋が、参加者の質問に対する答えから明らかになるにつれて印象が変わった。 すなわち、監督のボゴモロフが自分の劇の題名からロシア語でも「同胞愛（ブラーツトヴォ）」という単語の語源となっている「兄弟（ブラーチヤ）」という単語を削除 ニュースレター№133 2016 ――――――――4――――――――――――― して『カラマーゾフ』と名付けていることに注意を促したサラスキナはコメントで、 この題名は「『同胞愛』が存在するためには、『兄弟』が必要だというドストエフスキーの言葉に合致している」と記していた。 実際、この劇では最後にアリョーシャがリーザと心中するだけではなく、イヴァンも死にドミートリイも死刑になって、スメルジャコフのみが生き残り、ゾシマ二世ともいうべき役割を果たしていたのである。つまり、登場人物や基本的な筋は原作に拠りながらも、監督は後半の筋を大きく変えることで重たい問題提起をしていたと思える。 会場からはモスクワ芸術座だけでなくタガンカ劇場でも演出した鈴木忠志監督についての指摘もあったが、「宗教と政治との癒着」を批判する劇も上演していたボゴモロフ監督が、プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』も上演していたことを知って、ロシアの演劇界で一世を風靡したタガンカ劇場のリュビーモフ監督も権力者の「良心の呵責」を描いたこの劇を上演していたことを思い出した。ことに劇『巨匠とマルガリータ』（ブルガーコフ作）でリュビーモフは、悪魔の口をとおして、今あなた方は物質的には多少豊かになったかもしれないが、精神的にはどうかという鋭い問いを発していたのである。 懇親会では劇『カラマーゾフ』には、ドストエフスキーを深く敬愛し、オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』の演出も行っていたタルコフスキー監督の映画《惑星ソラリス》を示唆するような場面があることもわかり、会話が盛り上がった。実際に見ていないので断定はできないが、「卑俗的なものが付加され、聖なるものが排除されている」この劇も、タガンカ劇場などの前衛的なロシア演劇や映画の伝統を踏まえつつ、原作のテーマをしっかりと受け継いでいる可能性があると思われる。タガンカ劇場の熱気が思い出されるような知的刺激に富んだ報告であった。 事務局便り ○「広場」25号は編集を終了し、現在、印刷所への入稿の段階です。発行、発送は4月9日の予定です。入稿から完成までに一か月以上の時間がかかりますが、これは、印刷所の割引料金を利用して、経費削減をはかる関係からです。 編集の最終的統括は熊谷さん、表紙、イラストの制作、印刷所との折衝は渡辺さんにお願いしています。 ○第16回国際ドストエフスキー・シンポジュウムがスペインのグラナダ大学で6月7日―10日に開催されます。 報告者として世界の研究者156名がノミネートされていて、日本からの参加予定者は次の9名です。高橋誠一郎、清水孝純、金沢美知子、望月哲男、亀山郁夫、泊野竜一、斉須直人、金沢友緒、木下豊房。 全員参加となれば、1998年のニューヨーク・コロンビア大学での9名に並ぶ最多の参加者となります。なかでも、亀山郁夫氏の名前があるのが注目されます。また本会に所属する若手の研究者の名前があるのが、頼もしいです。 木下豊房 |
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ドストエーフスキイの会ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.132 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2015.12.20 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：田中紗季（たなか さき） 1988年生まれ。早稲田大学文学研究科博士後期課程ロシア語ロシア文化コース在学中。論文「ドストエフスキイ『白痴』における陰謀：イッポリートをめぐって」『ロシア研究の未来：文化の根源を見つめ、展開を見通す：井桁貞義教授退職記念論集』（2013年）、「Ф.М.
ドストエフスキーの『白痴』終局における言葉、行為、空間」『ロシア語ロシア文学研究』（2014年）。 ニュースレター№132 2016―――――――2――――――――――――― 第231回例会報告要旨 現代に『カラマーゾフの兄弟』は可能か ――チェーホフ記念モスクワ芸術座『カラマーゾフ』をめぐって 田中沙季
本報告では、2013年からチェーホフ記念モスクワ芸術座で上演されている劇『カラマーゾフ』における演出の方法や脚色の分析を通して、現代社会のコンテクストの中でФ.М.ドストエフスキーの作品を表現することの意味を問うてみたい。 上演時間が4時間30分に及ぶこの長大な劇は、ゾシマ長老の庵室で、低く鈍いＢＧＭが鳴る中、黒い革張りのソファーに腰かけた登場人物たちが議論をする場面から始まっている。舞台上の調度品や人物たちの衣装は現代的ではあるものの、会話は『カラマーゾフの兄弟』そのままであり、重苦しい雰囲気である。ところがゾシマ長老が庵室の外へ出ると、舞台に異変が起こる。突然舞台の両脇からスクリーンが現れて、客席の脇に立っているホフラコヴァ夫人役の女優をアップで映し出す。彼女はハンドマイクを持って舞台上のゾシマ長老に対して病気の娘リザヴェータの話をし始めたが、その姿はテレビのトークショーの観客そのものである。そうかと思うと今度は舞台上にリザヴェータが車椅子で登場し、画面が彼女の正面を映し出すやいなや大音量でロシアのポップミュージックが流れ出した。そして音楽が止むと再びBGMが鳴り始め、何事もなかったかのように暗い雰囲気に戻った。 信じがたいことかもしれないが、『カラマーゾフ』という劇では4時間半にわたってこのようなことが起こり続ける。フョードルとイヴァン、アリョーシャの間でなされる「神はあるか」という問答の後に、ドミートリーがロシアの歌謡曲とともに殴りこんできて舞台が一気に滑稽な場面へと変容したり、スメルジャコフが舞台上で目玉焼きを作ったり、イヴァンが幼児虐待の話をアリョーシャに聞かせる場面の後で、いきなりゾシマ長老の死を報道する「ワイドショー」のスタジオに舞台が急転したり、グルーシェンカが派手な衣装を着て『カリンカ』に合わせて踊ったり、僧侶がロックを歌いだしたりと、ありとあらゆる局面に現代的なもの、大衆的なもの、通俗的なものが付加され、聖なるものが排除されているのだ。 ドストエフスキー研究の第一人者であるЛ.И. サラスキナは芸術座のサイトに「（演出家の）К. ボゴモロフは自身の作品を『カラマーゾフ』と正確に名づけている。『兄弟』という言葉を取り除いてしまったのだ。このことは同胞愛が存在するためには兄弟が必要だというドストエフスキーの言葉に通じている」というコメントを寄せている。「同胞愛」のない『カラマーゾフ』が描き出しているのはひたすらに肉体的快楽のみが追及されている地獄の世界であり、そこでは当然アリョーシャとイリューシャら少年たちとの交流の場面はカットされているし、ゾシマ長老でさえ通俗的なテレビ番組のパロディによって戯画化されている。 ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№132 2016 『カラマーゾフ』は『カラマーゾフの兄弟』ではない。だが過剰なまでに世俗化された演出は、現代のロシアで作品の宗教性が共感不可能なものになっていることをよく示しているといえるだろう。2013年にフジテレビ系列で放送されたドラマ『カラマーゾフの兄弟』では日本の視聴者に合わせてか、原作の中のキリスト教的なテーマを「母親」に置き換えていた。それとは対照的に、芸術座の『カラマーゾフ』では安易な置き換えをせず、むしろ宗教的なテーマの不可能性を執拗なまでに示すことで、原作と現代ロシアとの間隙を表現しているのではないだろうか。本報告では『カラマーゾフ』の分析にとどまらず、他の演劇作品や映像作品との比較も交えることで、広くドストエフスキーの作品を現代社会の中で表現するにあたって生じる問題について考えていきたい。 第230例会傍聴記 長瀬隆氏の「アインシュタインとドストエフスキー」を聴いて 高橋誠一郎 ペレヴェルゼフ『ドストエフスキーの創造』（1989、みすず書房）の訳者として知られる長瀬隆氏は、その考察を踏まえた『ドストエフスキーとは何か』（2008、成文社）では、作家のレオーノフが「アインシュタインとドストエフスキー」を研究の課題とすべきだと語っていたことを紹介し、昨年には『トリウム原子炉革命――古川和男・ヒロシマからの出発』（展望社）を刊行している。 例会での発表は長年にわたる研究を反映した重厚なものであったが、時間的な制約のために全部は語り尽くされなかったので、びっしりと書き込まれたＡ４版・１０枚の配布資料で補いながら感想を記すことにしたい。 発表の前半では個人史にもふれつつ、ドストエフスキーからの強い影響が指摘される作家レオーノフの作品を学生の頃に熱中して読んだことや、３０年代後半の大粛清の真最中に書かれたレオーノフの戯曲『吹雪』が発表されるにいたる経過や来日の際の質疑応答などが詳しく語られた。また、アインシュタインがこの時期のソ連では批判の対象とされていたことや、検閲などのために厳しい制限を受けていたペレヴェルゼフの『ドストエフスキーの創造』が、日本でも１９３４年にその一部が翻訳掲載され、小林秀雄の『ドストエフスキーの生活』にもその名前が見えるなどのエピソードも語られた。 ただ、なかなか本題の「アインシュタインとドストエフスキー」に話が到達しないので気をもんだが、「マクロの世界を支配するのが調和である」と信じ、その解明を目指して「相対性理論を創造した」アインシュタインが、『カラマーゾフの兄弟』を「いままで手にしたなかでもっともすばらしい本です」と記し、「ドストエフスキーはどんな思想家よりも多くのものを、 すなわちガウスよりも多くのものを私に与えてくれる」と絶賛していたことに ニュースレター№132 2016 ――――――――4――――――――――――― 言及するころから一気に佳境に入った。 すなわち、大著『アインシュタイン』の著者クズネツォフは、「非ユークリッド幾何学の最初の提唱者はロシアのロバチェフスキーであって、リーマンよりも30年も早く、その精神はドストエフスキーの中にも流れていた」と説明していた。それゆえ、「非ユークリッド幾何学なしには、空間の3点に時間を加えた四次元の世界（肉眼ではみえない）の発見、すなわち相対性理論の確立は無かった」とした長瀬氏は、「永遠の調和の瞬間」についても言及しているイワンが、「非ユークリッド幾何学の存在をしりながら、それが調和をもたらしていないことを指摘した」ことに注意を促して、アインシュタインがイワンの問題提起に強い関心を持ったのは、この統一場の理論の探求の時代になってからのようであるとした。 質疑応答もアインシュタインの調和との関連などについて議論が盛り上がり、充実したものとなった。小林秀雄が傾倒したベルグソンが「時間と空間のアマルガム（混合物）」と批判したことに対してアインシュタインが、「あなたには、時間（だけ）が有って空間が無い」と反批判したとの説明を聞いた時には、それまでの疑問が解消されたように思えた。 今年は原爆が日本に落とされたことに責任を感じてアインシュタインが哲学者のラッセルとともに組織したパグウォッシュ会議が初めて長崎市で行われた年でもある。質問でも指摘されたように、『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャに対する発表者の評価については議論の余地があると思えるが、『罪と罰』では「人類滅亡の悪夢」が描かれていたことを想起するならば、ドストエフスキーの作品に対するアインシュタインの切実な関心は伝わってくる。 「ジャンルの境界」を超えてアインシュタインの倫理観とイワン観の重要性を指摘した今回の発表は、『カラマアゾフの兄弟』論で「完全な形式が、続編を拒絶してゐる」と断言していた小林秀雄が、なぜ「あれは未完なのです」と語るようになったのかを考える上でもきわめて示唆に富むものであった。 事務局便り ○2015年も早暮れようとしていますが、16年1月の例会へ向けての案内をお送りします。「広場」25号に向けての原稿の締め切り、そして編集作業が間もなく始まります。運営・編集委員のみなさんの積極的なご協力を得て、今回も首尾よく進行するものと信じています。 ○生涯を通じてドストエフスキー文学に深い関心を持ち、影響を受けた日本近代文学研究の最長老ともいうべき佐藤泰正氏（98歳）が、11月30日に逝去されました。会に対してもシンパシイを持っておられました。清水孝純氏に追悼の一文を次号「広場」に寄稿してもらうようお願いしました。 木下豊房 |
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ドストエーフスキイの会ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.133 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2016.2.20 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：芦川進一（あしかわ しんいち） 1947年、静岡県生まれ。東外大（仏語）、東大大学院（人文科学研究科・比較文学比較文化）。津田塾大学講師を経て現在河合塾英語科講師・河合文化教育研究所研究員。研究テーマはドストエフスキイにおけるキリスト教思想。翻訳（共訳）『イエス・キリスト』（小学館、1979）。著書『隕ちた「苦艾」の星』（1997）、『「罪と罰」における復活』（2007）、『カラマーゾフの兄弟論』（2016）［以上三冊は河合文化教育研究所］、『ゴルゴタへの道』（新教出版社、2011）。河合文化教育研究所のＨＰに「ドストエフスキイ研究会便り」を掲載中 〔http://bunkyoken.kawai-juku.ac.jp/reserch/dosuto.html〕 ニュースレター№133 2016―――――――2――――――――――――― 第232回例会報告要旨 「悪魔が明かすモスクワのイワン」 ―「ロシヤの小僧っ子」が辿った「神と不死」探究の足跡― 芦川進一 『カラマーゾフの兄弟』第五篇第３章、故郷家畜追込町の居酒屋「みやこ」で、イワンは弟アリョーシャにこう語ります。 「俺もお前と同じロシアの小僧っ子だ。［中略］そういう連中が、飲み屋でわずかな時間を捉えて何を論じると思う？他でもない、神はあるかとか、不死は存在するかとかいう世界的な問題なのだ」 次兄イワンをどのように捉えたらよいのか。この問題は私にとって長い間大きな課題であり続けてきました。このたび書き上げた本で、私はこの青年の原点はやはりこの言葉にあると考え、彼の思想と行動の一切を「ロシヤの小僧っ子」による「神と不死」探究の旅、一貫したイエス像探求の過程として捉えようと試みました（『カラマーゾフの兄弟論―砕かれし魂の記録―』）。イワンばかりかカラマーゾフの兄弟四人が向かう方向とは、突き詰めれば神存在の問題に他ならず、これは作者ドストエフスキイ自身の人生を貫く究極の問題であり、私自身改めてこの方向での思索を深める必要を痛感させられました。 ところでイワンの思想と行動を捉える大きな手掛かりは、「肯定と否定」と題された第五篇のアリョーシャとの対決にあり、そこで弟から「反逆」と呼ばれる思想であることは明らかです。しかしこれに加えて作者は、イワンという人物を知るもう一つ大きな手掛かりを提供してくれています。第十一篇第９・１０章に描かれた悪魔との対決です。作品の終り近く、裁判を明日に控えての悪魔の登場。これはスメルジャコフによって父親殺しの罪を決定的に自覚させられ、裁きの場での自白を決意したイワンの心に生じた猛烈な反動、「揺れ戻し」と言うべきもので、この時イワンの心は、悪魔との問答という形で、もう一度「大審問官」や「地質学的変動」の思想を生み出した頃の自分、モスクワ時代の自分に立ち帰ろうとしているのだと考えられます。つまりイワンは、神の否定に続き「キリストの愛」をも否定し、自分自身を「一切が許されている」神とするに至った頃の自分、力に満ち溢れたモスクワでの自分を呼び戻そうとしているのです。 錯綜し、飛躍と韜晦に満ちた捉え難い悪魔の言表。しかしそこに散りばめられた情報を丁寧に拾い集めてゆくと、イワンがモスクワで辿った思索の足跡を時系列的な線上に再構成することが可能となります。その結果、悪魔が明かすモスクワでのイワンと、アリョーシャと対決する家畜追込町でのイワンとが、ちょうど表裏一体の合わせ鏡のようになって、その思想の全体像が立体的に浮かび上がり、イワン造型に当たる作者ドストエフスキイの構想も相当明瞭になってくるように思われます。 周知の如くイワンとは「自己矛盾的存在」（西田幾多郎）と呼ばれるように、その思想も行動も「肯定と否定」の間に激しく分裂し、この上なく捉え難い存在です。し ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№133 2016 かし以上のような方法論で（悪魔とアリョーシャの導きによって！）アプローチする時、その矛盾・分裂の奥からは「神と不死」の熱烈な探究者イワンの瑞々しい姿が現れ出て、この存在がいわば弁証法的なドラマ性を持った生成途上にある「ロシヤの小僧っ子」であることが明らかとなります。ここから見る時、イワンとその「前衛的肉弾」スメルジャコフとの関係、他の兄弟たちとの関係、またゾシマ長老や父フョードルやリーザとの関係にも新たな光が当たり、『カラマーゾフの兄弟』へのより大きな視野も開けて来るでしょう。 例会では何よりもまず、このモスクワにおけるイワンの思想形成のドラマを具体的に提示するように努めたいと思います。そこから新たに開かれるカラマーゾフの世界への展望を検討し、時間が許せば、更にドストエフスキイ文学の根幹をなすユダ的人間論とキリスト論の問題にまで言及できればと思っています。 第231例会傍聴記 田中沙季氏の「現代に『カラマーゾフの兄弟』は可能か」を聴いて 高橋誠一郎 今回は２０１５年にチェーホフ記念モスクワ芸術座で上演されていた四時間半にわたるボゴモロフ監督の長大な劇『カラマーゾフ』を３回見た田中氏の発表で、配布された資料には「ゾシマの死を伝えるニュース番組」の場面や、舞台の上部だけでなく両脇の壁に設置された「左の眼」と「右の眼」に映った映像を示す小さなスクリ－ンの写真もあり、臨場感のある報告となった。 発表では役者の顔をクローズアップしたり、複数の視線を提供するなど映像技術を利用した舞台が詳しく紹介され、アリョーシャを演じたのが白髪の女優であり、スメルジャコフとゾシマを同一の俳優が演じるなど配役の特徴だけでなく、母親が悲しみを訴える場面でロックバンドの音楽が流れたり、グルーシェンカがカリンカを踊るなどの音楽を取り入れた場面が多いとの指摘もなされた。 さらに、俳優名のリストの一番下に「悪魔 ある」と記される一方で、アリョーシャと少年達との交流や大審問官の話、ゾシマの伝記などが省略されていたことに対しては、日本における『カラマーゾフの兄弟』の受容と比較して興味深いとの感想や「『悪魔』的にドストエフスキーを読む」ことの面白さを強調する意見が出された一方で、果たしてこれがドストエフスキー劇と呼べるのだろうかといった率直な疑問も出された。実は、私も監督の意図がなかなかつかめずに、この劇も大衆受けするようにセンセーショナルに作られているのかもしれないと戸惑いながら聞いていた。 しかし、千葉大学で行われた国際研究集会で「ドストエフスキイの終末論――地獄の克服」（『ドストエーフスキイ広場』第１０号参照）という題の講演をした研究者サラスキナが記したこの劇への肯定的なコメントや、配付資料ではあまり詳しく記されていなかった劇の筋が、参加者の質問に対する答えから明らかになるにつれて印象が変わった。 すなわち、監督のボゴモロフが自分の劇の題名からロシア語でも「同胞愛（ブラーツトヴォ）」という単語の語源となっている「兄弟（ブラーチヤ）」という単語を削除 ニュースレター№133 2016 ――――――――4――――――――――――― して『カラマーゾフ』と名付けていることに注意を促したサラスキナはコメントで、 この題名は「『同胞愛』が存在するためには、『兄弟』が必要だというドストエフスキーの言葉に合致している」と記していた。 実際、この劇では最後にアリョーシャがリーザと心中するだけではなく、イヴァンも死にドミートリイも死刑になって、スメルジャコフのみが生き残り、ゾシマ二世ともいうべき役割を果たしていたのである。つまり、登場人物や基本的な筋は原作に拠りながらも、監督は後半の筋を大きく変えることで重たい問題提起をしていたと思える。 会場からはモスクワ芸術座だけでなくタガンカ劇場でも演出した鈴木忠志監督についての指摘もあったが、「宗教と政治との癒着」を批判する劇も上演していたボゴモロフ監督が、プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』も上演していたことを知って、ロシアの演劇界で一世を風靡したタガンカ劇場のリュビーモフ監督も権力者の「良心の呵責」を描いたこの劇を上演していたことを思い出した。ことに劇『巨匠とマルガリータ』（ブルガーコフ作）でリュビーモフは、悪魔の口をとおして、今あなた方は物質的には多少豊かになったかもしれないが、精神的にはどうかという鋭い問いを発していたのである。 懇親会では劇『カラマーゾフ』には、ドストエフスキーを深く敬愛し、オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』の演出も行っていたタルコフスキー監督の映画《惑星ソラリス》を示唆するような場面があることもわかり、会話が盛り上がった。実際に見ていないので断定はできないが、「卑俗的なものが付加され、聖なるものが排除されている」この劇も、タガンカ劇場などの前衛的なロシア演劇や映画の伝統を踏まえつつ、原作のテーマをしっかりと受け継いでいる可能性があると思われる。タガンカ劇場の熱気が思い出されるような知的刺激に富んだ報告であった。 事務局便り ○「広場」25号は編集を終了し、現在、印刷所への入稿の段階です。発行、発送は4月9日の予定です。入稿から完成までに一か月以上の時間がかかりますが、これは、印刷所の割引料金を利用して、経費削減をはかる関係からです。 編集の最終的統括は熊谷さん、表紙、イラストの制作、印刷所との折衝は渡辺さんにお願いしています。 ○第16回国際ドストエフスキー・シンポジュウムがスペインのグラナダ大学で6月7日―10日に開催されます。 報告者として世界の研究者156名がノミネートされていて、日本からの参加予定者は次の9名です。高橋誠一郎、清水孝純、金沢美知子、望月哲男、亀山郁夫、泊野竜一、斉須直人、金沢友緒、木下豊房。 全員参加となれば、1998年のニューヨーク・コロンビア大学での9名に並ぶ最多の参加者となります。なかでも、亀山郁夫氏の名前があるのが注目されます。また本会に所属する若手の研究者の名前があるのが、頼もしいです。 木下豊房 |
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ドストエーフスキイの会ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.132 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2015.12.20 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：田中紗季（たなか さき） 1988年生まれ。早稲田大学文学研究科博士後期課程ロシア語ロシア文化コース在学中。論文「ドストエフスキイ『白痴』における陰謀：イッポリートをめぐって」『ロシア研究の未来：文化の根源を見つめ、展開を見通す：井桁貞義教授退職記念論集』（2013年）、「Ф.М.
ドストエフスキーの『白痴』終局における言葉、行為、空間」『ロシア語ロシア文学研究』（2014年）。 ニュースレター№132 2016―――――――2――――――――――――― 第231回例会報告要旨 現代に『カラマーゾフの兄弟』は可能か ――チェーホフ記念モスクワ芸術座『カラマーゾフ』をめぐって 田中沙季
本報告では、2013年からチェーホフ記念モスクワ芸術座で上演されている劇『カラマーゾフ』における演出の方法や脚色の分析を通して、現代社会のコンテクストの中でФ.М.ドストエフスキーの作品を表現することの意味を問うてみたい。 上演時間が4時間30分に及ぶこの長大な劇は、ゾシマ長老の庵室で、低く鈍いＢＧＭが鳴る中、黒い革張りのソファーに腰かけた登場人物たちが議論をする場面から始まっている。舞台上の調度品や人物たちの衣装は現代的ではあるものの、会話は『カラマーゾフの兄弟』そのままであり、重苦しい雰囲気である。ところがゾシマ長老が庵室の外へ出ると、舞台に異変が起こる。突然舞台の両脇からスクリーンが現れて、客席の脇に立っているホフラコヴァ夫人役の女優をアップで映し出す。彼女はハンドマイクを持って舞台上のゾシマ長老に対して病気の娘リザヴェータの話をし始めたが、その姿はテレビのトークショーの観客そのものである。そうかと思うと今度は舞台上にリザヴェータが車椅子で登場し、画面が彼女の正面を映し出すやいなや大音量でロシアのポップミュージックが流れ出した。そして音楽が止むと再びBGMが鳴り始め、何事もなかったかのように暗い雰囲気に戻った。 信じがたいことかもしれないが、『カラマーゾフ』という劇では4時間半にわたってこのようなことが起こり続ける。フョードルとイヴァン、アリョーシャの間でなされる「神はあるか」という問答の後に、ドミートリーがロシアの歌謡曲とともに殴りこんできて舞台が一気に滑稽な場面へと変容したり、スメルジャコフが舞台上で目玉焼きを作ったり、イヴァンが幼児虐待の話をアリョーシャに聞かせる場面の後で、いきなりゾシマ長老の死を報道する「ワイドショー」のスタジオに舞台が急転したり、グルーシェンカが派手な衣装を着て『カリンカ』に合わせて踊ったり、僧侶がロックを歌いだしたりと、ありとあらゆる局面に現代的なもの、大衆的なもの、通俗的なものが付加され、聖なるものが排除されているのだ。 ドストエフスキー研究の第一人者であるЛ.И. サラスキナは芸術座のサイトに「（演出家の）К. ボゴモロフは自身の作品を『カラマーゾフ』と正確に名づけている。『兄弟』という言葉を取り除いてしまったのだ。このことは同胞愛が存在するためには兄弟が必要だというドストエフスキーの言葉に通じている」というコメントを寄せている。「同胞愛」のない『カラマーゾフ』が描き出しているのはひたすらに肉体的快楽のみが追及されている地獄の世界であり、そこでは当然アリョーシャとイリューシャら少年たちとの交流の場面はカットされているし、ゾシマ長老でさえ通俗的なテレビ番組のパロディによって戯画化されている。 ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№132 2016 『カラマーゾフ』は『カラマーゾフの兄弟』ではない。だが過剰なまでに世俗化された演出は、現代のロシアで作品の宗教性が共感不可能なものになっていることをよく示しているといえるだろう。2013年にフジテレビ系列で放送されたドラマ『カラマーゾフの兄弟』では日本の視聴者に合わせてか、原作の中のキリスト教的なテーマを「母親」に置き換えていた。それとは対照的に、芸術座の『カラマーゾフ』では安易な置き換えをせず、むしろ宗教的なテーマの不可能性を執拗なまでに示すことで、原作と現代ロシアとの間隙を表現しているのではないだろうか。本報告では『カラマーゾフ』の分析にとどまらず、他の演劇作品や映像作品との比較も交えることで、広くドストエフスキーの作品を現代社会の中で表現するにあたって生じる問題について考えていきたい。 第230例会傍聴記 長瀬隆氏の「アインシュタインとドストエフスキー」を聴いて 高橋誠一郎 ペレヴェルゼフ『ドストエフスキーの創造』（1989、みすず書房）の訳者として知られる長瀬隆氏は、その考察を踏まえた『ドストエフスキーとは何か』（2008、成文社）では、作家のレオーノフが「アインシュタインとドストエフスキー」を研究の課題とすべきだと語っていたことを紹介し、昨年には『トリウム原子炉革命――古川和男・ヒロシマからの出発』（展望社）を刊行している。 例会での発表は長年にわたる研究を反映した重厚なものであったが、時間的な制約のために全部は語り尽くされなかったので、びっしりと書き込まれたＡ４版・１０枚の配布資料で補いながら感想を記すことにしたい。 発表の前半では個人史にもふれつつ、ドストエフスキーからの強い影響が指摘される作家レオーノフの作品を学生の頃に熱中して読んだことや、３０年代後半の大粛清の真最中に書かれたレオーノフの戯曲『吹雪』が発表されるにいたる経過や来日の際の質疑応答などが詳しく語られた。また、アインシュタインがこの時期のソ連では批判の対象とされていたことや、検閲などのために厳しい制限を受けていたペレヴェルゼフの『ドストエフスキーの創造』が、日本でも１９３４年にその一部が翻訳掲載され、小林秀雄の『ドストエフスキーの生活』にもその名前が見えるなどのエピソードも語られた。 ただ、なかなか本題の「アインシュタインとドストエフスキー」に話が到達しないので気をもんだが、「マクロの世界を支配するのが調和である」と信じ、その解明を目指して「相対性理論を創造した」アインシュタインが、『カラマーゾフの兄弟』を「いままで手にしたなかでもっともすばらしい本です」と記し、「ドストエフスキーはどんな思想家よりも多くのものを、 すなわちガウスよりも多くのものを私に与えてくれる」と絶賛していたことに ニュースレター№132 2016 ――――――――4――――――――――――― 言及するころから一気に佳境に入った。 すなわち、大著『アインシュタイン』の著者クズネツォフは、「非ユークリッド幾何学の最初の提唱者はロシアのロバチェフスキーであって、リーマンよりも30年も早く、その精神はドストエフスキーの中にも流れていた」と説明していた。それゆえ、「非ユークリッド幾何学なしには、空間の3点に時間を加えた四次元の世界（肉眼ではみえない）の発見、すなわち相対性理論の確立は無かった」とした長瀬氏は、「永遠の調和の瞬間」についても言及しているイワンが、「非ユークリッド幾何学の存在をしりながら、それが調和をもたらしていないことを指摘した」ことに注意を促して、アインシュタインがイワンの問題提起に強い関心を持ったのは、この統一場の理論の探求の時代になってからのようであるとした。 質疑応答もアインシュタインの調和との関連などについて議論が盛り上がり、充実したものとなった。小林秀雄が傾倒したベルグソンが「時間と空間のアマルガム（混合物）」と批判したことに対してアインシュタインが、「あなたには、時間（だけ）が有って空間が無い」と反批判したとの説明を聞いた時には、それまでの疑問が解消されたように思えた。 今年は原爆が日本に落とされたことに責任を感じてアインシュタインが哲学者のラッセルとともに組織したパグウォッシュ会議が初めて長崎市で行われた年でもある。質問でも指摘されたように、『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャに対する発表者の評価については議論の余地があると思えるが、『罪と罰』では「人類滅亡の悪夢」が描かれていたことを想起するならば、ドストエフスキーの作品に対するアインシュタインの切実な関心は伝わってくる。 「ジャンルの境界」を超えてアインシュタインの倫理観とイワン観の重要性を指摘した今回の発表は、『カラマアゾフの兄弟』論で「完全な形式が、続編を拒絶してゐる」と断言していた小林秀雄が、なぜ「あれは未完なのです」と語るようになったのかを考える上でもきわめて示唆に富むものであった。 事務局便り ○2015年も早暮れようとしていますが、16年1月の例会へ向けての案内をお送りします。「広場」25号に向けての原稿の締め切り、そして編集作業が間もなく始まります。運営・編集委員のみなさんの積極的なご協力を得て、今回も首尾よく進行するものと信じています。 ○生涯を通じてドストエフスキー文学に深い関心を持ち、影響を受けた日本近代文学研究の最長老ともいうべき佐藤泰正氏（98歳）が、11月30日に逝去されました。会に対してもシンパシイを持っておられました。清水孝純氏に追悼の一文を次号「広場」に寄稿してもらうようお願いしました。 木下豊房 |
ドストエーフスキイの会ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.132 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2015.12.20 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：田中紗季（たなか さき） 1988年生まれ。早稲田大学文学研究科博士後期課程ロシア語ロシア文化コース在学中。論文「ドストエフスキイ『白痴』における陰謀：イッポリートをめぐって」『ロシア研究の未来：文化の根源を見つめ、展開を見通す：井桁貞義教授退職記念論集』（2013年）、「Ф.М.
ドストエフスキーの『白痴』終局における言葉、行為、空間」『ロシア語ロシア文学研究』（2014年）。 ニュースレター№132 2016―――――――2――――――――――――― 第231回例会報告要旨 現代に『カラマーゾフの兄弟』は可能か ――チェーホフ記念モスクワ芸術座『カラマーゾフ』をめぐって 田中沙季
本報告では、2013年からチェーホフ記念モスクワ芸術座で上演されている劇『カラマーゾフ』における演出の方法や脚色の分析を通して、現代社会のコンテクストの中でФ.М.ドストエフスキーの作品を表現することの意味を問うてみたい。 上演時間が4時間30分に及ぶこの長大な劇は、ゾシマ長老の庵室で、低く鈍いＢＧＭが鳴る中、黒い革張りのソファーに腰かけた登場人物たちが議論をする場面から始まっている。舞台上の調度品や人物たちの衣装は現代的ではあるものの、会話は『カラマーゾフの兄弟』そのままであり、重苦しい雰囲気である。ところがゾシマ長老が庵室の外へ出ると、舞台に異変が起こる。突然舞台の両脇からスクリーンが現れて、客席の脇に立っているホフラコヴァ夫人役の女優をアップで映し出す。彼女はハンドマイクを持って舞台上のゾシマ長老に対して病気の娘リザヴェータの話をし始めたが、その姿はテレビのトークショーの観客そのものである。そうかと思うと今度は舞台上にリザヴェータが車椅子で登場し、画面が彼女の正面を映し出すやいなや大音量でロシアのポップミュージックが流れ出した。そして音楽が止むと再びBGMが鳴り始め、何事もなかったかのように暗い雰囲気に戻った。 信じがたいことかもしれないが、『カラマーゾフ』という劇では4時間半にわたってこのようなことが起こり続ける。フョードルとイヴァン、アリョーシャの間でなされる「神はあるか」という問答の後に、ドミートリーがロシアの歌謡曲とともに殴りこんできて舞台が一気に滑稽な場面へと変容したり、スメルジャコフが舞台上で目玉焼きを作ったり、イヴァンが幼児虐待の話をアリョーシャに聞かせる場面の後で、いきなりゾシマ長老の死を報道する「ワイドショー」のスタジオに舞台が急転したり、グルーシェンカが派手な衣装を着て『カリンカ』に合わせて踊ったり、僧侶がロックを歌いだしたりと、ありとあらゆる局面に現代的なもの、大衆的なもの、通俗的なものが付加され、聖なるものが排除されているのだ。 ドストエフスキー研究の第一人者であるЛ.И. サラスキナは芸術座のサイトに「（演出家の）К. ボゴモロフは自身の作品を『カラマーゾフ』と正確に名づけている。『兄弟』という言葉を取り除いてしまったのだ。このことは同胞愛が存在するためには兄弟が必要だというドストエフスキーの言葉に通じている」というコメントを寄せている。「同胞愛」のない『カラマーゾフ』が描き出しているのはひたすらに肉体的快楽のみが追及されている地獄の世界であり、そこでは当然アリョーシャとイリューシャら少年たちとの交流の場面はカットされているし、ゾシマ長老でさえ通俗的なテレビ番組のパロディによって戯画化されている。 ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№132 2016 『カラマーゾフ』は『カラマーゾフの兄弟』ではない。だが過剰なまでに世俗化された演出は、現代のロシアで作品の宗教性が共感不可能なものになっていることをよく示しているといえるだろう。2013年にフジテレビ系列で放送されたドラマ『カラマーゾフの兄弟』では日本の視聴者に合わせてか、原作の中のキリスト教的なテーマを「母親」に置き換えていた。それとは対照的に、芸術座の『カラマーゾフ』では安易な置き換えをせず、むしろ宗教的なテーマの不可能性を執拗なまでに示すことで、原作と現代ロシアとの間隙を表現しているのではないだろうか。本報告では『カラマーゾフ』の分析にとどまらず、他の演劇作品や映像作品との比較も交えることで、広くドストエフスキーの作品を現代社会の中で表現するにあたって生じる問題について考えていきたい。 第230例会傍聴記 長瀬隆氏の「アインシュタインとドストエフスキー」を聴いて 高橋誠一郎 ペレヴェルゼフ『ドストエフスキーの創造』（1989、みすず書房）の訳者として知られる長瀬隆氏は、その考察を踏まえた『ドストエフスキーとは何か』（2008、成文社）では、作家のレオーノフが「アインシュタインとドストエフスキー」を研究の課題とすべきだと語っていたことを紹介し、昨年には『トリウム原子炉革命――古川和男・ヒロシマからの出発』（展望社）を刊行している。 例会での発表は長年にわたる研究を反映した重厚なものであったが、時間的な制約のために全部は語り尽くされなかったので、びっしりと書き込まれたＡ４版・１０枚の配布資料で補いながら感想を記すことにしたい。 発表の前半では個人史にもふれつつ、ドストエフスキーからの強い影響が指摘される作家レオーノフの作品を学生の頃に熱中して読んだことや、３０年代後半の大粛清の真最中に書かれたレオーノフの戯曲『吹雪』が発表されるにいたる経過や来日の際の質疑応答などが詳しく語られた。また、アインシュタインがこの時期のソ連では批判の対象とされていたことや、検閲などのために厳しい制限を受けていたペレヴェルゼフの『ドストエフスキーの創造』が、日本でも１９３４年にその一部が翻訳掲載され、小林秀雄の『ドストエフスキーの生活』にもその名前が見えるなどのエピソードも語られた。 ただ、なかなか本題の「アインシュタインとドストエフスキー」に話が到達しないので気をもんだが、「マクロの世界を支配するのが調和である」と信じ、その解明を目指して「相対性理論を創造した」アインシュタインが、『カラマーゾフの兄弟』を「いままで手にしたなかでもっともすばらしい本です」と記し、「ドストエフスキーはどんな思想家よりも多くのものを、 すなわちガウスよりも多くのものを私に与えてくれる」と絶賛していたことに ニュースレター№132 2016 ――――――――4――――――――――――― 言及するころから一気に佳境に入った。 すなわち、大著『アインシュタイン』の著者クズネツォフは、「非ユークリッド幾何学の最初の提唱者はロシアのロバチェフスキーであって、リーマンよりも30年も早く、その精神はドストエフスキーの中にも流れていた」と説明していた。それゆえ、「非ユークリッド幾何学なしには、空間の3点に時間を加えた四次元の世界（肉眼ではみえない）の発見、すなわち相対性理論の確立は無かった」とした長瀬氏は、「永遠の調和の瞬間」についても言及しているイワンが、「非ユークリッド幾何学の存在をしりながら、それが調和をもたらしていないことを指摘した」ことに注意を促して、アインシュタインがイワンの問題提起に強い関心を持ったのは、この統一場の理論の探求の時代になってからのようであるとした。 質疑応答もアインシュタインの調和との関連などについて議論が盛り上がり、充実したものとなった。小林秀雄が傾倒したベルグソンが「時間と空間のアマルガム（混合物）」と批判したことに対してアインシュタインが、「あなたには、時間（だけ）が有って空間が無い」と反批判したとの説明を聞いた時には、それまでの疑問が解消されたように思えた。 今年は原爆が日本に落とされたことに責任を感じてアインシュタインが哲学者のラッセルとともに組織したパグウォッシュ会議が初めて長崎市で行われた年でもある。質問でも指摘されたように、『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャに対する発表者の評価については議論の余地があると思えるが、『罪と罰』では「人類滅亡の悪夢」が描かれていたことを想起するならば、ドストエフスキーの作品に対するアインシュタインの切実な関心は伝わってくる。 「ジャンルの境界」を超えてアインシュタインの倫理観とイワン観の重要性を指摘した今回の発表は、『カラマアゾフの兄弟』論で「完全な形式が、続編を拒絶してゐる」と断言していた小林秀雄が、なぜ「あれは未完なのです」と語るようになったのかを考える上でもきわめて示唆に富むものであった。 事務局便り ○2015年も早暮れようとしていますが、16年1月の例会へ向けての案内をお送りします。「広場」25号に向けての原稿の締め切り、そして編集作業が間もなく始まります。運営・編集委員のみなさんの積極的なご協力を得て、今回も首尾よく進行するものと信じています。 ○生涯を通じてドストエフスキー文学に深い関心を持ち、影響を受けた日本近代文学研究の最長老ともいうべき佐藤泰正氏（98歳）が、11月30日に逝去されました。会に対してもシンパシイを持っておられました。清水孝純氏に追悼の一文を次号「広場」に寄稿してもらうようお願いしました。 木下豊房 |
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Dostoevsky Society 2015.10.20 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：長瀬隆（ながせ たかし） 1931年生 早大露文卒。日本原水協を経て商社に勤務ソ連中国を担当。要旨に記載のペレヴェルゼフ『ドストエフスキーの創造』（1989、みすず書房）、『ドストエフスキーとは何か』（2008、成文社）および『トリウム原子炉革命』（2014、展望社）以外に、下記著作が有る。『樺太よ遠く孤独な』、『ヒロシマまでの長い道』、『微笑の沈黙』、『松尾隆』（雑誌連載）、『日露領土紛争の根源』。詳しくは http://homepage2.nifty.com/~t-nagase/ に見られたい。 ニュースレター№131 2015―――――――2――――――――――――― 第230回例会報告要旨 アインシュタインとドストエフスキー 長瀬隆 レオーノフ（1899～198？）は『スクタレフスキー』、『ロシアの森』（ともに米川訳がある）などの自他ともに認められたドストエフスキーの影響の色濃い作家であるが、1961年雑誌『ズヴェズダー』のインタビュー「作家の仕事」において「アインシュタインが愛好したのはドストエフスキーだった。ここに芸術理論家たちが取り組むべき課題がある」という発言をおこなった。これを私は記憶していて、2008年刊の拙著『ドストエフスキーとは何か』の結びの章でそれを紹介し、アインシュタインが関心をもったのは、『カラマーゾフ兄弟』の中のイワンの非ユークリッド幾何学に言及した言説であると述べている。 アインシュタイン全集の訳者にして編集者の一人だったクズネッオフ（1903～？）は1962年初版の大著『アインシュタイン』の全30章のうちの７章（表題は「ドストエフスキーとモーツァルト」）においてこの問題に触れた。もっともこれ以前に彼は「エピクロスとルクレツィー、ガリレイとアリストロ、アインシュタインとドストエフスキーについての覚書」を雑誌に発表しており、レオーノフの発言がこれを読んでの反応だったとも考えられる。 『アインシュタイン』は版を重ね1967年に第三版が公刊され、1970年に上下二巻の邦訳が出た。これは1973年までに第４刷が出ているが、このうちのドストエフスキーへの言及が日本の文学界で話題になったことは無い。 クズネッオフは三版後に全面的な改定をおこない、頁数もぐっと増大した『アインシュタイン――生涯、死と不滅』を公刊した。ここでは『アインシュタイン』の７章はそれぞれ「ドストエフスキー」と「モーツアルト」の二つに分割され、またそれぞれ倍以上の量と成っている。著者自身の立場はレーニンの『唯物論と経験批判論』および『哲学ノート』に立脚しつつの、それらの発展を目指したものとみなすことができる。レーニンはドストエフスキーとアインシュタインについては何も言及せずに逝っており、両者は、ペレヴェルゼフの『ドストエフスキーの創造』（1912～1921、1989年に長瀬訳がある）を唯一の例外として、旧ソ連ではマルクス主義の盲点を成していた。 『アインシュタイン』は各国語に翻訳されていたが、ドストエフスキーに係る 章が特に注目されたようであって、『生涯、死と不滅』が刊行されたのと同じ1974年にロンドンで『アインシュタインとドストエフスキー』が公刊された。タイプされた露語原稿から英訳されたもののようである。小著であり、これが1985年に邦訳されている。しかしこれもまたわが国の文学界ではまったく話題にはならなかったのではなかろうか。 クズネツォフのそれまでの著作と論文は常にアインシュタインが主体であり、 ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№131 2015 ドストエフスキーはこれに従属するものとして扱われてきた。この性格は量的に は最大の『生涯、死と不滅』においても変っていない。これに対して英訳単行本の『アインシュタインとドストエフスキー』では両者は初めて対等な形で並置され論じられている。その本文に「ドストエフスキーをアインシュタインの目を通して見、アインシュタインをドストエフスキーの目を通して見る」という文言があることからも明らかなように、相互的にして対等であり、その革新的な試みは成功している。 問題は、ヒロシマ・ナガサキ・フクシマを体験してきた私たち日本人が今日この試みをどのように評価するかにあると思われる。私としては昨2014年刊の『トリウム原子炉革命――古川和男・ヒロシマからの出発』で少なからず行ったと考えている。 第229例会傍聴記 冷牟田幸子氏「『永遠の夫』と「地下室」」を聴いて 熊谷のぶよし 『永遠の夫』は、作家のストラーホフ宛ての手紙の中で、後期ドストエフスキー作品理解の要である『地下室の手記』と、形式は異なるが本質は同じと言及されることで重要性を持つことになる。 以前から、この二つの作品の共通する本質とは何かが気になっていた。今回の冷牟田氏の発表を聴いて、この共通の本質に関わる大きなヒントを得られたと思う。 一方で、『永遠の夫』を最後に読んだのがずいぶん前で、人物関係、ストーリーの記憶が薄れ、報告の理解があやふやになったところがあり、冷牟田氏の繊細な読解に基づく発表要旨をうまく説明することができない。そこで、このヒントに繋げる形で自分の理解したところを傍聴記にまとめてみたい。 発表は、第一部＜作品論＞第二部＜『永遠の夫』と「地下室」の関連性＞の構成でおこなわれた。 第一部＜作品論＞で印象に残ったところは、小説を動かしていくのが、パーベル・パーブロビッチ（トルソーツキイ）であるということで、彼の道化がヴェリチャニーノフを追い詰めるための戦術的道化であるという点だ。氏の戦術的道化という用語には、道化固有の屈折した自意識が介在しないということが含意されている。この道化の攻撃力が小説の魅力となっていて、それに追い詰められるヴェリチャニーノフは、やや抽象化された「タイプ」となると指摘された。 第二部では、『永遠の夫』の記述の中にある「地下室」を示す言葉が検討された。その部分は、小沼訳、米川訳では「床下」となっていて、その訳語でも意味はとおる。しかし、訳語「床下」が作家によって「地下室」を意味しているなら、この言葉によって『永遠の夫』は『地下室の手記』と繋がっていることになる。ストラーホフ書簡で示した二つの小説の共通の本質が、この「地下室」という言葉で示される内容と深く関係していることになるはずだ。 ニュースレター№131 2015 ――――――――4――――――――――――― モチューリスキイは『評伝ドストエフスキー』の『永遠の夫』の引用で、ストラーホフ書簡を念頭において『地下室の手記』との共通性を示すために、「床下」にあたる部分を「地下室のたわごと」「醜悪な地下室の人間」と訳出していた。それを紹介した上でさらに冷牟田氏は、『永遠の夫』の「創作ノート」に探り、地下室者であり不具者である」という言葉があることを見出した。作家が『永遠の夫』の二人の主人公に対して「地下室者」と言う言葉を意識して使っていたことが裏付けられた。 それではこの「地下室」ということで示される内容とは何か。『地下室の手記』で「地下室」は従来、自意識の悪循環を意味していると解釈されてきた。しかし、『永遠の夫』の二人の主人公は『地下室の手記』の主人公とはずいぶん違った人物で、冷牟田氏によれば、両者共に自意識が欠如している。戦術的道化者としてのパーベルは自意識の苦痛からは免れており、ヴェリチャニーノフは、彼を悩ましていた裁判が勝訴してしまえばヒポコンデリーから解放されてしまうような自立性のない享楽主義者である。それにもかかわらず彼らは「地下室者」である。『永遠の夫』での「地下室」の意味するところは、自意識の悪循環ではない。となると、二つの小説に共通する本質も、もっと別のところにあるのかもしれない。この観点が私には発見であり、二つの小説に共通の作家の本質的なテーマを自意識の悪循環とは別の物として考えてみることが新たな課題となった。 報告は質疑の時間を多くとって発表者は明快に解答した。パーベル性的不能説。地下室の政治的意味。ヴェリチャニーノフのスタブローギンプロトタイプ説。『永遠の夫』の題名の意味するものは何か、また題名が妥当かどうか、そうした議論が印象に残った。 事務局便り ○今年も奇数月のインターヴァルで、快調に例会を開催してきましたが、早くも会誌「広場」25号の編集作業に着手する時期となりました。9月例会の日に編集委員会を立ち上げ、原稿募集を開始しました。 会誌「広場」は例会発表者の論文を基軸に編集されますが、寄稿論文、エッセイ、書評、学会報告などの応募を、会員のみなさんに呼びかけます。会負担の無料原稿は、発表論文・15枚（400字、以下同様）、寄稿論文・10枚、エッセイ・5枚。規定枚数超過分は400字あたり400円を負担していただきます。その代わり、その単価で会誌の部数が還元されます。 原稿締め切りは12月末日で、直ちに編集にとりかかりますが、事情によって遅れる場合は、来年1月20日を最終締め切りとします。原稿はワードでのメール添付、ページ設定は「標準」、横書きでお願いします。執筆希望者は、以下の事務局メールアドレスまで早めにお知らせください。 木下豊房 |
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ドストエーフスキイの会ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.131 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2015.10.20 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：長瀬隆（ながせ たかし） 1931年生 早大露文卒。日本原水協を経て商社に勤務ソ連中国を担当。要旨に記載のペレヴェルゼフ『ドストエフスキーの創造』（1989、みすず書房）、『ドストエフスキーとは何か』（2008、成文社）および『トリウム原子炉革命』（2014、展望社）以外に、下記著作が有る。『樺太よ遠く孤独な』、『ヒロシマまでの長い道』、『微笑の沈黙』、『松尾隆』（雑誌連載）、『日露領土紛争の根源』。詳しくは http://homepage2.nifty.com/~t-nagase/ に見られたい。 ニュースレター№131 2015―――――――2――――――――――――― 第230回例会報告要旨 アインシュタインとドストエフスキー 長瀬隆 レオーノフ（1899～198？）は『スクタレフスキー』、『ロシアの森』（ともに米川訳がある）などの自他ともに認められたドストエフスキーの影響の色濃い作家であるが、1961年雑誌『ズヴェズダー』のインタビュー「作家の仕事」において「アインシュタインが愛好したのはドストエフスキーだった。ここに芸術理論家たちが取り組むべき課題がある」という発言をおこなった。これを私は記憶していて、2008年刊の拙著『ドストエフスキーとは何か』の結びの章でそれを紹介し、アインシュタインが関心をもったのは、『カラマーゾフ兄弟』の中のイワンの非ユークリッド幾何学に言及した言説であると述べている。 アインシュタイン全集の訳者にして編集者の一人だったクズネッオフ（1903～？）は1962年初版の大著『アインシュタイン』の全30章のうちの７章（表題は「ドストエフスキーとモーツァルト」）においてこの問題に触れた。もっともこれ以前に彼は「エピクロスとルクレツィー、ガリレイとアリストロ、アインシュタインとドストエフスキーについての覚書」を雑誌に発表しており、レオーノフの発言がこれを読んでの反応だったとも考えられる。 『アインシュタイン』は版を重ね1967年に第三版が公刊され、1970年に上下二巻の邦訳が出た。これは1973年までに第４刷が出ているが、このうちのドストエフスキーへの言及が日本の文学界で話題になったことは無い。 クズネッオフは三版後に全面的な改定をおこない、頁数もぐっと増大した『アインシュタイン――生涯、死と不滅』を公刊した。ここでは『アインシュタイン』の７章はそれぞれ「ドストエフスキー」と「モーツアルト」の二つに分割され、またそれぞれ倍以上の量と成っている。著者自身の立場はレーニンの『唯物論と経験批判論』および『哲学ノート』に立脚しつつの、それらの発展を目指したものとみなすことができる。レーニンはドストエフスキーとアインシュタインについては何も言及せずに逝っており、両者は、ペレヴェルゼフの『ドストエフスキーの創造』（1912～1921、1989年に長瀬訳がある）を唯一の例外として、旧ソ連ではマルクス主義の盲点を成していた。 『アインシュタイン』は各国語に翻訳されていたが、ドストエフスキーに係る 章が特に注目されたようであって、『生涯、死と不滅』が刊行されたのと同じ1974年にロンドンで『アインシュタインとドストエフスキー』が公刊された。タイプされた露語原稿から英訳されたもののようである。小著であり、これが1985年に邦訳されている。しかしこれもまたわが国の文学界ではまったく話題にはならなかったのではなかろうか。 クズネツォフのそれまでの著作と論文は常にアインシュタインが主体であり、 ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№131 2015 ドストエフスキーはこれに従属するものとして扱われてきた。この性格は量的に は最大の『生涯、死と不滅』においても変っていない。これに対して英訳単行本の『アインシュタインとドストエフスキー』では両者は初めて対等な形で並置され論じられている。その本文に「ドストエフスキーをアインシュタインの目を通して見、アインシュタインをドストエフスキーの目を通して見る」という文言があることからも明らかなように、相互的にして対等であり、その革新的な試みは成功している。 問題は、ヒロシマ・ナガサキ・フクシマを体験してきた私たち日本人が今日この試みをどのように評価するかにあると思われる。私としては昨2014年刊の『トリウム原子炉革命――古川和男・ヒロシマからの出発』で少なからず行ったと考えている。 第229例会傍聴記 冷牟田幸子氏「『永遠の夫』と「地下室」」を聴いて 熊谷のぶよし 『永遠の夫』は、作家のストラーホフ宛ての手紙の中で、後期ドストエフスキー作品理解の要である『地下室の手記』と、形式は異なるが本質は同じと言及されることで重要性を持つことになる。 以前から、この二つの作品の共通する本質とは何かが気になっていた。今回の冷牟田氏の発表を聴いて、この共通の本質に関わる大きなヒントを得られたと思う。 一方で、『永遠の夫』を最後に読んだのがずいぶん前で、人物関係、ストーリーの記憶が薄れ、報告の理解があやふやになったところがあり、冷牟田氏の繊細な読解に基づく発表要旨をうまく説明することができない。そこで、このヒントに繋げる形で自分の理解したところを傍聴記にまとめてみたい。 発表は、第一部＜作品論＞第二部＜『永遠の夫』と「地下室」の関連性＞の構成でおこなわれた。 第一部＜作品論＞で印象に残ったところは、小説を動かしていくのが、パーベル・パーブロビッチ（トルソーツキイ）であるということで、彼の道化がヴェリチャニーノフを追い詰めるための戦術的道化であるという点だ。氏の戦術的道化という用語には、道化固有の屈折した自意識が介在しないということが含意されている。この道化の攻撃力が小説の魅力となっていて、それに追い詰められるヴェリチャニーノフは、やや抽象化された「タイプ」となると指摘された。 第二部では、『永遠の夫』の記述の中にある「地下室」を示す言葉が検討された。その部分は、小沼訳、米川訳では「床下」となっていて、その訳語でも意味はとおる。しかし、訳語「床下」が作家によって「地下室」を意味しているなら、この言葉によって『永遠の夫』は『地下室の手記』と繋がっていることになる。ストラーホフ書簡で示した二つの小説の共通の本質が、この「地下室」という言葉で示される内容と深く関係していることになるはずだ。 ニュースレター№131 2015 ――――――――4――――――――――――― モチューリスキイは『評伝ドストエフスキー』の『永遠の夫』の引用で、ストラーホフ書簡を念頭において『地下室の手記』との共通性を示すために、「床下」にあたる部分を「地下室のたわごと」「醜悪な地下室の人間」と訳出していた。それを紹介した上でさらに冷牟田氏は、『永遠の夫』の「創作ノート」に探り、地下室者であり不具者である」という言葉があることを見出した。作家が『永遠の夫』の二人の主人公に対して「地下室者」と言う言葉を意識して使っていたことが裏付けられた。 それではこの「地下室」ということで示される内容とは何か。『地下室の手記』で「地下室」は従来、自意識の悪循環を意味していると解釈されてきた。しかし、『永遠の夫』の二人の主人公は『地下室の手記』の主人公とはずいぶん違った人物で、冷牟田氏によれば、両者共に自意識が欠如している。戦術的道化者としてのパーベルは自意識の苦痛からは免れており、ヴェリチャニーノフは、彼を悩ましていた裁判が勝訴してしまえばヒポコンデリーから解放されてしまうような自立性のない享楽主義者である。それにもかかわらず彼らは「地下室者」である。『永遠の夫』での「地下室」の意味するところは、自意識の悪循環ではない。となると、二つの小説に共通する本質も、もっと別のところにあるのかもしれない。この観点が私には発見であり、二つの小説に共通の作家の本質的なテーマを自意識の悪循環とは別の物として考えてみることが新たな課題となった。 報告は質疑の時間を多くとって発表者は明快に解答した。パーベル性的不能説。地下室の政治的意味。ヴェリチャニーノフのスタブローギンプロトタイプ説。『永遠の夫』の題名の意味するものは何か、また題名が妥当かどうか、そうした議論が印象に残った。 事務局便り ○今年も奇数月のインターヴァルで、快調に例会を開催してきましたが、早くも会誌「広場」25号の編集作業に着手する時期となりました。9月例会の日に編集委員会を立ち上げ、原稿募集を開始しました。 会誌「広場」は例会発表者の論文を基軸に編集されますが、寄稿論文、エッセイ、書評、学会報告などの応募を、会員のみなさんに呼びかけます。会負担の無料原稿は、発表論文・15枚（400字、以下同様）、寄稿論文・10枚、エッセイ・5枚。規定枚数超過分は400字あたり400円を負担していただきます。その代わり、その単価で会誌の部数が還元されます。 原稿締め切りは12月末日で、直ちに編集にとりかかりますが、事情によって遅れる場合は、来年1月20日を最終締め切りとします。原稿はワードでのメール添付、ページ設定は「標準」、横書きでお願いします。執筆希望者は、以下の事務局メールアドレスまで早めにお知らせください。 木下豊房 |
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ドストエーフスキイの会ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.130 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2015.7.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：冷牟田幸子（ひやむた さちこ） 1937年生。早稲田大学第一文学部英文科卒業。 著書；『ドストエフスキー―無神論の克服』（近代文芸社、1988年） 訳書；ワッサーマン編『ドストエフスキーの「大審問官」』（ヨルダン社、小沼文彦、冷牟田訳 1981年） ニュースレター№130 2015―――――――2――――――――――――― 第229回例会報告要旨 『永遠の夫』と「地下室」 冷牟田 幸子
『永遠の夫』(ｌ８６９年秋完成、７０年『黎明』１，２月号に発表)には、後期諸作品に共通する思想性も宗教性もなく、格別魅力的な人物も見当たりません。風采のあがらない実直な「永遠の夫」トルソーツキーと軽薄才子の「永遠の情夫」ヴェリチャニーノフという、対照的な一見分かりやすい二人の中心人物の間で繰り広げられる、謎めいた心理戦を読んで楽しめば事足りるような『永遠の夫』を、なぜ取り上げる気になったのか。ひとえに、ドストエフスキーの手紙（小沼文彦訳）にあります。１８６９年３月１８日、ストラーホフに宛てて次のように書いています。 この短篇（『永遠の夫』)は今から４年前の兄が亡くなった年に、小生の『地下生活者の手記』を褒めてくれ、そのとき小生に「君はこういったふうのものを書くといいよ」と言ったアポ（ロン）・グリゴーリイェフの言葉に答えて書いてみようと思い立ったものです。しかしこれは、『地下生活者の手記』ではありません。これは形式の上からは、まったく別なものです。もっとも本質は──同じで、小生のいつもながらの本質です。ただし貴兄が、ニコライ・ニコラーイェヴィッチ、作家としての小生の中に、多少とも独自の、特殊な本質があると認めてくださるならばの話ですがね。 つまり、『永遠の夫』の登場人物たちと「地下室者」との関連性、さらにいえば、ドストエフスキーのいう「いつもながらの本質」を探りたいと思ったのです。 ここに注目すべき、作品からの引用があります。モチューリスキイ著『評伝ドストエフスキー』(松下裕・松下恭子訳)における『永遠の夫』からの引用です。 １ 「情夫はかっとなって夫に叫ぶ。『捨ててしまうんだ。君の地下室のたわごとは。君自身が地下室のたわごと、がらくたなんだから』」（第九章） ２ 「ヴェリチャニーノフはトルソーツキーに『われわれは二人とも堕落した醜悪な地下室の人間です』と白状している。」（第十三章） ここからモチューリスキイは、ヴェリチャニーノフとトルソーツキーを「地下室者」と結びつけます。一方、代表的な日本語の訳書（a）河出版(米川訳)と（b）筑摩版(小沼訳)は、先の二つの文章に該当する部分を次のように訳しています。 １（a）「床下から引っぱり出したようなけがらわしい話をもってとっとと出てうせろ！それに第一、あんた自身からして床下のねずみみたいなやくざ者だ。」 （b） 「その床下のがらくたみたいなものを引っかついで、どこへなりと出て失せろ！第一あんたからして床下のがらくたみたいな代物じゃないか。」 ２（a） 「われわれはお互いにけがらわしい床下のねずみみたいな胸くその悪くなるような人間なんです。」 （b）「われわれはふたりとも実に罪深い、床下でうごめいているような、な ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№130 2015 んとも汚らわしい人間なんですよ。」 これらの訳書で用いられている「床下のねずみみたいな」、「床下」、「床下でうごめいている」が、原典の「地下室の」（подпольный）に当たりますが、さきの文脈の中で何ら違和感なく読めて、そこに敢えて「地下室」を読み取るのは難しいでしょう。モチューリスキイは、ストラーホフに宛てた手紙を念頭において読んでいますので、ドストエフスキーがここにさりげなく忍び込ませた「地下室の」という単語を、『地下生活者の手記』の「地下室」と結びつけることができたのだと思います。 訳書の「床下」に当たる原語は何かを原典にあたって調べようとしたとき、偶然に『永遠の夫』の「創作ノート」（準備資料）を見つけました。それは、『永遠の夫』と「地下室」の関連性を考えるうえで、さらに先のドストエフスキーの書簡を理解するうえで大きなヒントを与えてくれるものでした。（一）作品論と（二）『永遠の夫』と「地下室」の関連性の二部構成でお話しします。 第228例会（『広場』24号合評会）傍聴記 私が司会をするにあたり特に留意したのは、あらゆる意匠を尊重しようと務めること、言葉が言葉を指嗾するのに極力歯止めを掛けることであった。各論文が論じられることにより「憐憫」というテーマが浮かび上がる。憐れみという感情はどうしても「上から目線」を含む。キリスト教の観点から考えるのが妥当だがそれをやると自分自身の問題から離れてしまう気がする。これらの陥穽を克服した憐憫は可能なのかと考えながら司会進行した。発言する人々の意見が平行線になる局面もあった。文化人が社会とどう関わるべきかに対する根本的な考えの違いがあるからか。一方は社会から距離を置くべきと考える「皇帝のものは皇帝に」派、もう一方は社会に密着すべきと考えるアンガージュマン派。簡単に言えばこうなるが答えのない問題だ。今回の論評者はいつもの常連ではなく新鮮さを感じさせた。そこでこれらの方々に当日のことを振り返っていただき短い要約文を寄せてもらうことにした。順に福井論文、堀論文、きむ論文、木下論文の論評である。（近藤靖宏） ドストエフスキー「白痴」において、ムイシュキンは限りない憐憫の情を持つが、その憐憫は「魔性」でもある。これは小林秀雄の見立てだが、この「魔性」は同時に「イエス・キリストのネガ」（負の自画像）でもあるのだ。「キリスト公爵」ムイシュキンの憐憫は、ついに破局しかもたらさなかった。それは、犯罪者ロゴ—ジンとの共犯という殺人、つまりナイフに象徴される。そう、ムイシュキンの憐憫、キリストの愛とはナイフという暴力なのだ。愛ゆえに子を殺す、柳田国男の語る「山の人生」の話は、愛というものの持つ暴力性を示唆している。本居宣長の「物のあはれ」とは、この在り方の日本版である。日本でもロシアでも、憐憫とは愛であるが、しかしそれは背面から見れば、つまり悪の側から見れば、魂や身体を殺すことによって救いを与えることなのである。そう、私は読み、理解した。（冨田陽一郎） （当要約については、執筆者から強い異論と疑問が合評会で出され議論の余地を残した。） 堀さんが最初に見た黒澤映画は、高校生の時の「隠し砦の三悪人」で、それ以後、 黒澤映画に魅了されます。黒澤明研究会には、２５年前に入会しています。黒澤のドストエフスキー理解の中核には「憐憫の情」と「直視の姿勢」があり、ドストエフス ニュースレター№130 2015 ――――――――4――――――――――――― キーから吸収したものが、黒澤明全作品に投影していることを堀さんは実感しています。黒澤明は「白痴」を映画化できましたが、「七人の侍」を自作を撮る前に見るというタルコフスキーも『白痴』の映画化には熱意を燃やし、実現できませんでしたが、二人の共通の基調になっていると指摘しています。堀さんは『カラマーゾフの兄弟』に黒澤明が強い興味を持っていたと考えています。堀さんの論文にはいろいろ沢山教えられました。黒澤明、タルコフスキー共にドストエフスキーを創作の核としていること、映画作品に吸収したものが、投影していることです。黒澤明が『白痴』を映画化した時は、ドストエフスキー死後７０年、タルコフスキーの「サクリファイス」は１０５年。ドストエフスキーの存在の凄さを感じます。（船山博之） きむ氏の論文における主題は、スヴィドリガイロフの恋を通じて、ドストエフスキーの高度な小説技巧を明らかにすることにある。彼女が主題に挑むにあたって着目したのは、スヴィドリガイロフの妻マルファの「口臭」である。ここからきむ氏は、毒殺されたと言われるマルファは実は覚悟をしての自殺であったとの結論を導き出す。この分析は実にスリリングで読み応えのあるものとなっている一方、荒唐無稽で恣意的な読解にも思える。しかしながら、マルファの心の奥底まで潜り込むような深いテキストの読み込みには、確かな説得力がある。とはいえ、本論文の美点はマルファが自殺したか否かにあるのではない。今まで負の側面ばかりが語られてきたスヴィドリガイロフに、新たな正の一面への光を投げかけていること。ここにこそ、きむ論文最大の成果があると言っても過言ではあるまい。作家と登場人物の過剰な同一視など類推が飛躍している箇所もあるが、スヴィドリガイロフを見る新たな視座を与えてくれた点において、この論文は確固たる価値を持ちうるものと思う。（小山創） 木下論文に関連して私は二つのポイントを指摘した。ひとつは、一般読者に対するミスリードの責任という問題。もうひとつはそれと関連して、作者からはなれて「恣意的な解釈を振りまく」ことの問題。この観点から「亀山現象」を問題とすべきだ。木下氏によれば、小林はカー、ジード共に亀山的な俗流フロイド主義的な解釈の批判者であるが、私見では「ムイシキンはシベリアから帰った」のようなテキストと違う解釈は恣意的で、小林は亀山現象の源流といえるのではないか。木下氏は小林が時代の制約からカーやジードの見解を援用したことに一定の評価を与えているが、小林はフランス文学者であって、二次資料をもとにまとめたに過ぎない。ラスコーリニコフやムイシキンのとらえかたに見受けられる小林の「恣意的解釈」はロシア正教に対する無理解から生じているもので、ミスリードというべきだ。これについては改めて論じたい。（大木昭男） 事務局便り 今回9月の例会は月末の土曜日の会場がとれず、連休の22日（火曜日）となりました。会場申し込みは福井さんにお願いしていますが、希望者が複数の場合抽選もあって、ご苦労をかけています。会計担当の近藤さんが、この数年、名古屋転勤で、遠隔地からこれまた大変ご苦労でしたが、この10月からまた神奈川の元の職場に戻れるそうで、朗報です。前回の「事務局便り」に書き漏れがありましたが、総会で、早大院生の泊野竜一さんに運営委員に参加してもらうことが決まりました。（木下） |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.129 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2015.6.30 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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ニュースレターNo.129 2015――――――――2――――――――――――― 第227回例会傍聴記 旧約聖書「エデンの園」と「大審問官」における「カーニバル原理」と「救済原理」―「自由」に対する観点から― ―樋口稲子氏の発表を聴いて 泊野竜一 2015年5月16日に開催された第227回例会は千駄ヶ谷区民会館の和室にて行われた。今回の発表者である樋口稲子氏は非常に重厚かつ深遠な研究テーマを取り扱っており、例会での発表内容も非常に示唆に富んだ優れたものであった。この発表の全貌を紹介することはとうてい私の筆の及ばぬところであるが、ここは賢明なる読者の御宥恕を請いたい。 入念に準備された膨大な配布資料をもととした樋口氏の発表は、先行研究の丁寧で誠実な紹介から始まった。 以下に概略を述べる。まず本発表を理解するための土台となる概念として、「古代メニッポス風の風刺」、「エデンの園を中心とする旧約聖書の思想」、「キリスト教の救済原理」、「カーニバル原理」の４つが挙げられ、それぞれに関する説明が行われた。 次に《大審問官》のプロットに含まれると樋口氏の考えるカーニバル原理の特性を、メニッポス風の風刺の基本的性格と突き合わせつつ説明がなされた。具体的には、①大審問官と「再臨」前のキリストが出会うという突飛な《大審問官》の物語の成立、②イエス＝キリストと大審問官との自由で無遠慮な出会い、③曠野を放浪し試練を受けるキリストと《大審問官》の舞台である南国スペインのイメージのちぐはぐさ、④キリストに対する奪冠によるキリストの卑俗化の４つが挙げられた。 ついで樋口氏は《大審問官》における自由の問題と創世記の一挿話「エデンの園」からの人間の追放の問題とを結びつける持論を展開された。「エデンの園」では人間が知恵の実を口にし、その罰として楽園から追放されたが、樋口氏はこの点について人間の独立と自由への希求を神が受け入れたものであるとの解釈を述べられた。松波信三郎著『実存主義』（岩波新書、1967年）から、「人間は、単にあるところのものであるような事物存在とは異なって、常に自己のそと ニュースレターNo.129 2015――――――――3――――――――――――― へ、いまだあらぬ彼方へ向かって、現にある自己から脱出して行く存在である。」の言を引き、エデンの園での庇護から飛び出し自由を得た人間こそ、実存的存在的たりうるのであることを説明された。しかしその自由は人間の存在に本質的な意味を持つにもかかわらず、その自由のもたらす苦悩に人間は耐えきれない。これを神の人間に対する不条理なまでの愛の顕現、と樋口氏は表現した。 最後に《大審問官》は神の原理と人間の原理の相克する場と見るべきであるとの結論を下された。大審問官は現実のひ弱な人間に対する愛から人間の立場に立ち、彼らの労苦を軽減するために悪魔と手を結び、人間から自由を奪い地上のパンを与えた。しかし、それは神の救済原理に抵触する。なぜなら自由な信仰により選びとられるべき天上のパンから遠ざけられた人間たちには、いくら彼らが望んだこととはいえ、その先に復活、永遠の命、神の王国が存在しないからである。《大審問官》の物語で大審問官は神の側に立っておらず、かよわい人間の側に立っており人間の原理であるカーニバル原理を神に仕掛けていると樋口氏は説くのである。 発表は会場から好評を持って迎えられ、時間いっぱいまで会場からの活発な質疑応答が繰り広げられた。 発表は丁寧かつ膨大なものであったが、そのスケールゆえに、樋口氏の提示した意欲的で複数の壮大な概念がいかにつながるかが明瞭たるものとならなかったという憾みを残すところとなった。 最後にホームページから当会を知り、遠路をものともせず例会に参加された非会員の方々について触れさせていただきたい。その非会員の方々には、発表後の二次会にも３名全員に参加していただくことができた。ドストエフスキーに関する議論で二次会は大いに盛り上がり、和気藹々の内に第227回例会は幕を閉じた。 事務局だより ○5月17日に例会に先だって、第46回総会を開き、会計報告その他、全会一致で承認されました。 ニュースレターNo.129 2015――――――――4――――――――――――― 平成２６年度 収支計算書 （平成26年5月6日〜平成27年5月5日） 会計 近藤靖宏 監査 渡辺好明
〇昨年に久しぶりに行った「アンケート」にご回答頂いた方々にはこの場を借りてお礼を申し上げます。 設問などに問題があったようで回答頂いた方は予期したほどには多くありませんでしたが、例会での発表のご希望など具体的な提案がいくつかありました。それらは例会活動で徐々に生かすようにし、アンケートでのご回答を元にもう少し趣旨をふくらませて、次号にエッセーという形で投稿して頂くなどの方法も検討しています。 〇ソ連アカデミー版ドストエフスキー全集の編集指導者であり、世界文学との比較を通してドストエフスキー研究に新たな地平を 拓いた国際的な研究者Ｇ．Ｍ．フリードレンデルの生誕100年を記念する国際学術会議が、6月22日から24日 まで科学アカデミー・ロシア文学研究所（プーシキンスキイ・ドム）で開催され、木下氏が参加、29日に無事帰国しました （事務局） 事務局アドレス：tkino@chiba.email.ne.jp |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.128 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2015.4.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：樋口稲子（ひぐち いねこ） ロシア文学作品を読み始めたのはラスプーチン、パウストフスキー等の比較的現代の作家の作品からであったが、次第に古典に関心が移り、主にドストエフスキーの作品と関わるようになった。それと同時に、聖書、特に旧約の原初史に関心を持ち、広大な聖書の世界を覗いた。ドストエフスキーの作品でも『死の家の記録』は、他の作品には無い魅力を感じている。現在では、多くの作家の作品に関心を持っているが、特に、オドエフスキー、ドストエフスキー、ザミャーチンを一線上に関連付けて見ている。 ニュースレター№128 2015――――――――2――――――――――――― 第227回例会報告要旨 旧約聖書「エデンの園」と「大審問官」における「カーニバル原理」と 「救済原理」 ―「自由」に対する観点から― 樋口稲子 古来より楽園と見なされてきた「エデンの園」と、「大審問官」の言説をとりあげ、「カーニバル原理」と「救済原理」の機能的内容を見ながら「自由」の問題を考察してゆく。カーニバル原理については、ミハイル･バフチンのカーニバル文学理論を適用し、キリスト教の救済原理については、プロテスタントのジョン･マーレーの救済理論を適用した。言うまでもなく、二つの原理は全く対立する原理である。さらに、バフチンは、「カーニバル理論」の一応の要件と特性の定義をしているが、どうみてもその定義には揺れがある。 「エデンの園」の物語において最も関心を引くのは、〈蛇〉の存在である。彼は、謎に満ち同時に魅力的な存在である。だが、神が万物の創造主であるならば、神の似姿を以って創られ、神の愛を他の誰よりも受けた人間が生きるエデンの園に、神に背信し人間を神に立ち向かわせる蛇が、神の被造物として何故存在するのか、こうした疑問は今までも多くの研究者の提起してきたものであった。しかも、創世記の「エデンの園」の登場人物は、アダムとイヴの関係を除けば互いに対立する存在であり、(蛇と神のように)、また、初めは神に対して従順な人物(アダムとイヴ)が蛇の唆しをきっかけに、神への反抗という背反的行動をして、そのことにより追放され、神の恩寵から離れ、異なる世界に移行することになる。エデンの園の物語は、こうした対立要素を必須要素として含有することで初めて成り立つ。こうした対立関係が生まれるための具体的な役割を持った存在が「蛇」である。もし「蛇」が存在しなければ、エデンの園の物語は成立しない。従って、人間が神の禁を破り〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べて、独立と自由を獲得するというプロセスはありえなくなる。人間の発展にとって、絶対に必要な存在である蛇は、否むべき存在として位置づけられているが、しかし、その否むべき存在が、なぜ神の言葉と真実との矛盾を知っていて、人間にその神の言葉と真実との矛盾を告げる正しき者の役割を果たしたのか、そして同時に唆しの罪を犯す役割を担わされているのか、一体「蛇」はどの様な存在として理解すればよいのか、この点については今もって謎である。 「大審問官」には、最大のカーニバル性が認められる。キリストに対して奪冠し卑俗な存在におとしめたのは、つまり、カーニバル化の立役者は大審問官なのである。これは単に彼がイエスという神の一人子に対する奪冠を行ったというのではない。彼が本当に奪冠をした相手は、キリストの神性に対して行ったのであって、それは〈神〉に対する奪冠であった。だから、キリストの卑俗化、奪冠とは結局、キリスト教と神に対する卑俗化であり、奪冠なのである。それは、公認されたものへのこの上ない挑戦である。それにもかかわらず大審問官が、微塵もひるむことなく、キリストを見据えて、堂々と語った〈背信の思想〉は人間の真実であり真理でもあった。しかも、キリスト教が抱えることの出来ない、肯定もできない、キリスト教とは対極にある真理である。大審問官は人間の真理を代表し、キリストは神の真理を代って現わそうとしている。（大審問官の物語では、メニッペアの基本的性格５の特性が濃い。） ―――――――――――3――――――――――――ニュースレター№128 2015 「大審問官」には、世界を支配する二つの原理が相克するさまが描かれている。取るに足らぬ存在の真理と神の真理は、それぞれ互いに対立する極に足場を置いて、その真理の正当性を主張する。 作家にとって、我々が神の原理を取ることにも、あるいは人間の原理を取ることにも、どちらの選択をするかについて本当は無関心であろう。彼の関心は、神の原理が、キリスト教的な言い方をすれば、神の〈愛〉の原理が、彼の理論に従えば、崩壊するということにある。これは、キリスト教文明の世界が今までの価値を失う事を意味する。それを承知で、作家はこの問題を提示しないではおれなかった。何故なら、彼が自らを〈懐疑と不信の子です〉と言い、信仰の危機に到ったのは、この問題、すなわち神の原理の崩壊の可能性に気付いたからではないだろうか。この問題は、作家自身が述べているとおり一生作家を悩まし続けたに相違ない。作家の最後の作品に組み込まれた『大審問官』は作家の答えになるべく構成され、神の原理と人間の原理の相克を描いたものである。 第226回例会傍聴記 槙田寿文氏の「黒澤映画におけるﾄﾞｽﾄｴﾌｽｷｰとﾊﾞﾙｻﾞｯｸの受容」を聴いて 福井勝也 発表後に感想を述べさせて頂いたが、要点は、黒澤はﾄﾞｽﾄｴﾌｽｷｰ文学を愛読した者であったが、撮られた映画は社会的ﾋｭｰﾏﾆｽﾞﾑ、槙田氏も指摘された近代的個人の確立を目指した作品でなかったかということである。この点で気になったのは、資料にあった寺田透の「社会はﾄﾞｽﾄｴﾌｽｷｰの中ではいはば副産物に過ぎない。これと反対にﾊﾞﾙｻﾞｯｸは社会を人間の裡に捉える。だから彼は筋を能力の展開として進めることもできたのだが、・・・」との言葉であった。省略の後文が気になるが、映画監督黒澤とﾊﾞﾙｻﾞｯｸを結びつける鍵語に聞こえる。同時に寺田が好敵手とした、小林秀雄のﾊﾞﾙｻﾞｯｸとﾄﾞｽﾄｴﾌｽｷｰの文学的差違への言及も気になった。「ﾄﾞｽﾄｴﾌｽｷｲが、小説の上に齎した革命は非常なものであった。恐らく彼とﾊﾞﾙｻﾞｯｸの隔りは、ｼｪｲｸｽﾋﾟｱとｷﾞﾘｼｱ悲劇との隔りほどにあると極論した評家もある。ﾄﾞｽﾄｴﾌｽｷｰはﾊﾞﾙｻﾞｯｸを愛讀したらしいが、仕事は、ﾊﾞﾙｻﾞｯｸの終わつたところから、全く新に始めたのである。社会的存在としての人間といふ明瞭な徹底した考へは、ﾊﾞﾙｻﾞｯｸの「人間劇」という舞籉を離れることが出来なかつた。ﾄﾞｽﾄｴﾌｽｷｲは、この社会環境の網の目のうちに隈なく織り込まれた人間の諸性格の絨毯を、惜し気もなく破り捨てた。一切の大道具小道具は捨てられて、「人間劇」の舞籉の中心は、人間の内的世界に移された」（「罪と罰」についてⅡ、1948） このように異質な二人の作家の影響を映像芸術に生かす黒沢の試みは至難であったろう。しかし傍聴後に気になったのは、槙田氏にもう少し質問したかった「酔いどれ天使」（1948）と「どですかでん」（1970）についてであった。深くﾄﾞｽﾄｴﾌｽｷｰ的とも考えられる二作品と「白痴」（1951）を媒介しての議論が必要か。今回はｽﾍﾟｰｽの関係で、そのきっかけになった文章を掲げておくに止める。別途論じてみたい。「たんばさんは「どですかでん」のなかでただ一人、じゅうぶんに書き込まれた登場人物だ。 <略> たんばさんは困って悩んでいる隣人の腹中へヒョイと自分を入れ込んでしまうことができる。その能力が彼をこの映画の主人公にしているのだ。彼は自分の世界の人々を決して裁いたりせず、むしろ彼らを受け入れ、彼らの役に立とうとしている」（『黒澤明の映画』ﾄﾞﾅﾙﾄﾞ･ﾘﾁｰ著、1991文庫版） ニュースレター№128 2015 ――――――――4――――――――――――― ここには、ﾑｲｼｭｷﾝが登場している。「限りない憐憫の情」を能力として駆動させる人間が社会的に描かれている。「物のあはれを知る」人間が描かれている。だとしたら、寺田と小林の議論が黒澤の映画のなかで生きている。槙田氏の発表を聴いて、もう一度黒澤の幾つかの作品をじっくり見てみたいと思った。発表に感謝したい。（2015.3.28） 槙田報告傍聴記 長瀬 隆 私はドストエフスキーが戯曲を書かなかった理由について問題提起し、その長編小説の映画化が無理なことをワイダの唯一の失敗作である『悪霊』を例として述べたことがある。しかし大変に遅れて最近黒澤明の映画『白痴』を見て堪能し少なからず考えを改めた。 『罪と罰』が翻訳されてこれが島崎藤村の『破戒』の執筆に繋がったように、ドストエフスーの文学は他のロシア作家同様ヒューマニズムの文学として捉えられ、プロレタリア文学でも葉山嘉樹の諸作にその影響は見られる。白樺派の左派としてスタートした宮本百合子の処女作の『貧しき人々の群れ』は明らかにドストエフスキーの『貧しき人々』を意識したものだった。黒澤の戦時下での最初の作品が『虐げられた人々』の少女ネリーに想を得ているという今回の報告に接して、この傾向はまだ若かった黒澤にも及んでいたことが知られた。 ドストエフスキーのバルザック愛好との関連でマルクス主義芸術論の古典であるエンゲルスのバルザック論が紹介されたが、意義深い。この観点はレーニンによって継承され「ロシア革命の鏡としてのトルストイ」の執筆となった。すなわちトルストイはマルクス主義をクリアしたのだが、ドストエフスキーはそういうわけには行かなかった。その優れた試みはペレヴェルゼフにおいてなされていたのだったが、戦前わが国では断片的にしか紹介されなかった。それらを師の小田切秀雄に教えられ、援用しつつ批判的小林秀雄論（『文学的立場』）を書いた人に西田勝がいる。彼が小林の戦時下の満州のメディアに書いた文章を発掘発表した（雑誌『すばる』本年二月号）。当時の大東亜共栄圏文学を支持するもので、もちろん現行の全集には収録されておらず、これは翻って同時期の小林ドストエフスキー論の本質を鮮明にする。 出発点にあったドストエフスキーの弱者への人間愛の精神は生涯変わらず、『カラマーゾフの兄弟』ではイワンの口を通じて「地球はその表皮から中の芯まで人間の涙でびしょ濡れになっている」と語られる。じつはこの感情こそは小林にもっとも欠けていたものであり、反対に黒澤は戦中戦後を通じてこれを懸命に保持してきたことを報告者は立証していた。極め付きは今日世界的に読まれているピケティの『２１世紀の資本』に触れて「これもバルザックの影響です」とレジメには無かった言葉を述べたことである。ともにCAPITALなのだから「マルクスの『資本論』の」と言っておかしくない指摘だった。 （以下700字はhttp://homepage2.nifty.com/~t-nagaseに全文とともに掲載） 事務局便り ◎「広場」24号がお手元に届いていることと思います。7月例会は例年通り、「広場」の合評会を予定していますので、ご一読の上、ご出席、ご感想をお待ちしております。 ◎「広場」の編集は専らPCの画面上でおこなっており、便利ではあるのですが、それだけに最終段階での活字のチェックにうっかり見落しが出て、木下論文だけ印刷ポイントが大きくなっていまいました。特別の意味はありませんので、ご理解、ご容赦をお願いします。 事務局メールアドレス：tkino@chiba.email.ne.jp |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.127 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2015.2.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：槙田 寿文（まきた としふみ） 1959年（昭和34）生まれ。商社、外資系メーカーを経て、現在、NPO法人映像産業振興機構所属。黒澤明研究会会員。黒澤明研究家＆資料収集家。主な論文『黒澤明とバルザック』『黒澤明の青春』『謎解き「七人の侍」』（「黒澤明研究会会誌」所収）。『生誕百年 映画監督黒澤明展』（フィルムセンター）への資料協力とギャラリートーク。『イノさんのトランク～黒澤明と本多猪四郎 知られざる絆～』（NHKBS）の企画・監修。新資料発見に貢献。 ニュースレター№127 2015―――――――2――――――――――――― 第226回例会報告要旨 「創造は記憶である」 黒澤映画におけるドストエフスキーとバルザックの受容 槙田 寿文 映画監督黒澤明のドストエフスキーへの傾倒ぶりは隠れもないことであるが、実は黒澤明のバルザックへの傾倒ぶりも深いものがあったことが最近明らかになりつつある。一方、ドストエフスキーのバルザックへの深い敬愛も明らかな事実である。黒澤明、ドストエフスキー、バルザックの相互の関連性と影響度を黒澤明の終戦直後の二つのエッセイを起点として考察を展開するのが今回の発表の概要である。 二つのエッセイとは、一つは雑誌『芸苑』の昭和21年（1946年）7‐8月合併号に掲載された『わが愛読書』という題名の一文で、当時三十六歳の黒澤明が自身の愛読書に関して約二千五百字に亘って率直に述べている。もう一つは、雑誌『シナリオ』昭和23年（1948年）2月号に掲載された『シナリオ三題』というシナリオに関する当時の黒澤明の考えを述べたものである。 当時、戦後第1作『わが青春に悔いなし』を製作中であり、まだまだ、新進気鋭という枕詞がついて回る時期だった黒澤明は、『わが愛読書』の中で、「先ず、一番始めに『悪霊』という名前と『戦争と平和』という名前が浮かんできました。そして、それに続いて『カラマーゾフの兄弟』『アンナ・カレーニナ』『死の家の記録』『虐げられし人々』『白痴』と云う名前が次々に飛び出してきました。それから、少し間を置いて『従妹ベット』『ゴリオ爺さん』『セザール・ビロトー』『幻滅』と云う名前が続きます。（中略）だから、僕はやっぱり一番の愛読書はトルストイとドストエフスキーとバルザックのそれぞれの代表作であると申し上げる外はありません。（中略）何故なら、僕はこれ等の本を愛すると申すより、その前に跪づいていると申した方が適当だからです。云はば、僕にとってこれ等の本は聖書の様なものだからです。」と述べている。 一方、『シナリオ三題』の中では、「ひとつ、社会的に大きな波紋を投ずる程の人物が創造出来ないものだろうか。例えば、今の日本では、ヴォートランやスタブローギンやバザロフの様な人物の創造は不可能なのだろうか。」と述べている。この時期は、黒澤明の評価を決定づけた傑作『酔いどれ天使』の撮影開始直前である。つまり、二つのエッセイは巨匠黒澤明としてではなく、終戦後、日本人が生き方を模索していた時期に、同様に映画作家としての方向性を模索していた黒澤明として書かれたものであり、昭和20年代の黒澤映画と黒澤明の思想的発展を解くカギの一つとなりうると私はみなしている。 発表の前半では、この二つのエッセイを起点として、バルザックが各界に与えた様々な影響、ドストエフスキーのバルザックへの敬愛、そしてアンドレ・ジイドと寺田透によるドストエフスキーとバルザックの比較を通して黒澤作品への影響を考察してみたい。また、バルザック作品のドストエフスキーへの影響や、黒澤作品におけるポリフォニーとカーニバルに関しても再考したい。 発表の後半では、「戦後思想と黒澤明」を大きなテーマとして、「戦後の作家」であ ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№127 2015 る黒澤作品が昭和20年代に辿った精神・思想の成長過程と破綻をバルザックとドス トエフスキーからの影響である自我の確立、ヒューマニズム、ニヒリズムといった切り口を交えながら見ていきたい。そこでは、最近、黒澤明がゴーストライターであったことが確認された戦中の映画『愛の世界』におけるドストエフスキー的ヒューマニズムの源流や、戦後の黒澤映画に登場するドストエスキー的人物を語ることになるだろう。また、『シナリオ三題』で挙げられたヴォートランやスタヴローギンへの強い関心や憧れはどこから来て、どのように消えたのかも類推してみたい。 多田道太郎は黒澤明の戦後の歩み（昭和20年代）を「黒沢明はずい分遠い道を歩いたものだ。（中略）しかし通してずっとみてみると、それは戦後の、芸術分野での、最高の歩みの一つである。」と述べているが、それを上記のような様々な切り口で追体験できればと考えている。 第225例会傍聴記 泊野竜一氏 「『カラマーゾフの兄弟』における対話表現の問題」を聴いて 熊谷のぶよし 『カラマーゾフの兄弟』「プロとコントラ」の章では、大審問官の無敵の涜神思想が描かれている。それへの反駁として構想されたのが「ロシアの僧侶」の章におけるゾシマの語る言葉であった。しかし、この二つの章はかみ合うことのない乖離した言葉として完結し、そこにどのような反駁の筋道があるのかが明らかではない。今回の泊野氏の発表は、二つの章に共通する対話形式である「長広舌と沈黙との対話」を手がかりにしてそれを探ろうとするものであった。 まず、長広舌と沈黙を対比させた対話表現は四つの特徴を持ち、その用例が≪大審問官≫の発話の分析によって紹介される。大審問官による尋問中にキリストは沈黙を守りその様子は読者に説明されない。このような特徴を「聞き手の様子不明の特徴」と呼ぶ。長広舌を揮う話者が、相手の発言を遮り、かつまた相手の発言を先取りしてまで、自らの発言を聞くことを強要するのは「長広舌強要の特徴」であり、長広舌を揮っていた話者が逆に、沈黙を守る聞き手に発言を乞うようになるのが「返答要請の特徴」である。そして、対話が見かけ上終了しても、話者の心の中で内的対話が継続するのは「対話継続の特徴」であるとする。 この四つの特徴を用いて、さらに、作品中の対話への適用が試みられた。まず、「場違いの会合」中の「教会と国家に関するイワンとゾシマ長老の対話」の検討がなされた。次に「ロシアの僧侶」中の「故大主教ゾシマ長老の生涯」の検討が続き、その発話が「聞き手不明」「長広舌強要」「対話継続」の特徴を持ち「返答要請の特徴」を有しないことが確認された。そして、「プロとコントラ」と「故大主教ゾシマ長老の生涯」の対比においては「対話継続の特徴」の共通性が強調されることになった。 この二つの章での「対話継続の特徴」の共通性が示すことは、涜神の思想の反駁はついに成功するに至らずに、イワンとアリョーシャの内的対話として継続することになったということである。つまり、本来「プロとコントラ」で「涜神論とその否定」 は決着がつくはずであったが、この章が有する「対話継続の特徴」によって対話の結 ニュースレター№127 2015 ――――――――4――――――――――――― 論は保留され「ロシアの僧侶」に持ち越された。さらに「ロシアの僧侶」おいてイワンの思想を論破するという構想も、芸術性の要請のために「対話継続の特徴」が採用 されることによって、決着がつかなくなってしまった、ということになる。 バフチンを踏襲して発話総体によってのみ浮かび上がる主人公の内的対話に着目すれば「対話継続の特徴」の強調に至るのは納得できることである。しかし、四つの特徴を用いた泊野氏の丁寧な分析によって浮かんできた疑問は、作品は発話以外の要素によっては成り立っていないのか、つまり「返答要請の特徴」に対する切り返しが言葉ではなく接吻という行為であったことをどのように考えればよいかということである。 この行為を言葉による回答に置き換えることはできない。イエス及びアリョーシャの接吻は対話的空間を抜けだして現実の触感をもたらし、話者と聞き手に感情の高揚と強い存在感を与えている。それは大きな芸術的成果である。また「ロシアの僧侶」ではたしかに「返答要請の特徴」は欠落しているが、ゾシマは長い説教の果て命の最後に大地に、やはり同じく接吻する。これは偶然といえるだろうか。一瞬の行為の表現による主人公の存在感が、長大な発話による涜神論への反駁として構想されたのではないか、と想像して見たくなったのだ。 いずれにせよこの「返答要請の特徴」が帰結した接吻は、「対話継続の特徴」である内的対話に決定的な影響を与えているはずだ。であるならば、泊野氏が「長広舌と沈黙との対話」から抽出した四つの特徴は、対話的な空間の外部である主人公の振る舞いや存在感とも結び付きつつ、相互に動的な関係にあるのではないかと思った。 泊野氏の発表は､拡張性の高い刺激的なものであった。 事務局便り ○「広場」24号は順調に編集を完了し、これから印刷所との折衝に入ります。例年通り、4月中旬に完成、発送の予定です。ご期待ください。 ○2016年の国際ドストエフスキー・シンポジュウムの情報が届きました。スペイン・グラナダで、6月7日～10日開催です。詳しい情報はホームページの表紙下段のメニューからアクセスしてご覧ください。 （木下） 事務局メールアドレス：tkino@chiba.email.ne.jp
神宮前隠田区民会館 地下鉄千代田線か副都心線の明治神宮前駅（１分） |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.126 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2014.12.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：泊野竜一（とまりの りょういち） 所属・身分は早稲田大学大学院文学研究科人文科学専攻ロシア語ロシア文化コース後期博士課程１年。源ゼミに所属。研究テーマは、修士課程では、対話表現としての長広舌と沈黙との問題を、ドストエフスキー作品において取り扱った。博士課程では、19－20世紀ロシア文学における対話表現の問題を研究していきたいと考えている。具体的に研究する作品としては、ドストエフスキーの作品を中心として、その先駆となるもの、あるいは後継となるものとして、オドエフスキー、ゴーゴリ、アンドレーエフ、ガルシン、ブリューソフの作品を選択。そして、その間の変化の中での「分身」「狂気」「内的対話」の問題に取り組む予定。 ニュースレター№126 2015――――――――2――――――――――――― 第225回例会報告要旨 『カラマーゾフの兄弟』における対話表現の問題 泊野竜一 ドストエフスキーは、知人宛ての書簡で、『カラマーゾフの兄弟』の中に、ある宗教的な意図を含めたことを記している。それは、「プロとコントラ」の章においてイワンが語る涜神論は、次の「ロシアの僧侶」の章においてゾシマ長老の思想に論破されるというものである。この二つの章には、相似的な構造が用意され、宗教論争上のイワンの敗北とゾシマ長老の勝利が対照的に示される予定であったことが伺える。だが「ロシアの僧侶」の原稿を出版社に送った直後、ドストエフスキーは、この目論見が揺らいでしまったと、別の書簡で告白している。一体どうしてそのようなことが起こったのであろうか。 ドストエフスキーは長編小説中で、一つの独特な対話表現を用いていると考えられる。それは、対話者の片方は長広舌を続け、もう片方は沈黙しそれを拝聴するという形式をもっている。つまり見かけ上は、一方的なモノローグの様相を呈している。ところがこれは、通常の相互通行の対話よりも、はるかに豊かな内的対話の表現となっているのである。 ドストエフスキーに特徴的である対話表現が、もっとも発達していると考えられるのは、『カラマーゾフの兄弟』の中の《大審問官》である。そこで《大審問官》における二人の主要登場人物である、大審問官とキリストと目される男の対話に注目し、これに具体的な分析を加えることとする。 分析の結果、この対話表現には以下のような４つの特徴が存在すると見られる。まず、対話者の片方が沈黙を守り、その様子もほとんどわからない「聞き手の様子不明の特徴」。次に、長広舌を揮う対話者が、相手の発言を遮り、かつまた相手の発言を先取りしてまで、自らの発言を聞くことを強要する「長広舌強要の特徴」。そして、今度は逆に、長広舌を揮っていた対話者が、沈黙を守る相手に発言を乞うようになる「返答要請の特徴」。最後に、見かけ上の対話は終了するが、対話者の心の中で内的な対話が永続する「対話継続の特徴」である（このような対話表現を仮に「長広舌と沈黙との対話」と呼ぶこととする）。 そこで「プロとコントラ」と「ロシアの僧侶」の二つの章の中にある、《大審問官》と、「故大主教ゾシマ長老の生涯」における対話を分析することを試みると、どちらも「長広舌と沈黙との対話」の体をなしていると見られる。したがって、この二つの対話は、そのもっとも重要な特徴である「対話継続の特徴」を有していると考えられる。それならば、この二つの対話は対話者の内部においては終了しないし、結論も確定しないということとなる。つまり、これらの対話は、その表現方法によって、対話者間の議論に優劣をつけうるような性質のものではなくなってしまったのではないかと思われる。 すなわち、ドストエフスキーが生み出した文学上の表現方法である「長広舌と沈黙との対話」が、作者の、イワンの涜神論が、ゾシマ長老の思想に論破されるというような宗教的な意図を結果的に裏切ってしまっているのである。以上のような読みの可 ―――――――――――3――――――――――――ニュースレター№126 2015 能性を、ここでは提案したい。 第224例会傍聴記 木下豊房氏「小林秀雄とその同時代人のドストエフスキー観」を聴いて 高橋誠一郎 今回の発表の前半ではこれまでの研究史を踏まえつつ文献学的な視点から唐木順三や森有正などの研究者と小林秀雄のドストエフスキー論との関連についての詳しい検証が行われ、E.H.カーと小林秀雄のドストエフスキー観との具体的な比較が行われた中頃から佳境に入り、ぐいぐいと引きつけられた。 「小林の『ドストエフスキイの生活』はE.H.カーの評伝のコピーのようにいう者がいるが、必ずしもそうとはいえない。しかしカーの視点の影響は、かなり強いのではないか」とした木下氏は、「金持の商人に捨てられた妾」（２８０頁）だけでなく、監獄で「枉（まげ）られた視力」（９４頁）の指摘、「ドストエフスキーのキリスト教への発心が『悪霊』後」（３１５頁）などの記述が、カーの『ドストエフスキー』（中橋一夫、松村達男訳、１９５２年）にあることを具体的に挙げた。 その一方で木下氏は、E.H.カーが「ドストエフスキーは原始キリスト教の理想を近代文学の姿で」表現していると記していたことや、ジイドも福音書の教えをドストエフスキーほど立派に実践した芸術家はいないと記していたことにも注意を促した。 そして、米川正夫訳の『白痴』の創作ノートを分析することにより、最終的なプランが最初の構想とは全く異なっており、ロゴージンやガーニャの愛の形と対置する形で「キリスト教的な愛――公爵」と明記されていることを指摘した氏は、小林秀雄がこの記述を知りつつも「独自の解釈に舵を切ったといえよう」と分析した。 小林秀雄のドストエフスキー論の独自性を示す文章として示された「空想が観念が理論が、人間の頭の中でどれほど奇妙な情熱と化するか、この可能性を作者はラスコーリニコフで実験した」という記述は、まさにかつて私が魅了されるきっかけとなった記述でもあったので、これらの重要な指摘からは小林秀雄の『罪と罰』論や『白痴』論の形成過程の現場に立ち会っているような知的興奮を覚えた。 ただ、木下論文「ドストエフスキーと漱石」にも言及しながら『白痴』における「憐憫」と小林の著作『本居宣長』の「物のあはれ」との類似性を指摘した福井氏の問題提起を受け、デビュー作「様々な意匠」で「指嗾」という用語を用いながら、「劣悪を指嗾しない如何なる崇高も言葉」もないと書いた小林が、「人々に不安を与える無能なムイシキン」の最後に、「作者の憐憫の眼差しを見ている」とした見解には違和感を覚えた。 福井氏は質疑応答の際に自説を重ねて主張したが、『草枕』における「那美」と主人公の画工との関係とムイシキンとナスターシヤとの関係を「憐れ」と「非人情」の視点から比較した木下論文からは私も強い知的刺激を受けていたが、「あはれ」という単語を重視して、『白痴』と小林秀雄の『本居宣長』とを直接的に結び付けることは難しいと思われる。なぜならば、熊谷氏が質問で指摘したように本居宣長の「物のあはれ」は「漢意（からごころ）」との対比で論じられているからである。なお、『本居宣長』の問題については、評論家の柄谷行人と作家の中上健次が１９７９年に行われた対話「小林秀雄をこえて」で詳しく考察しており、現在は講談社文庫の『全対話』に収められている。 ニュースレター№126 2015 ――――――――4――――――――――――― マルチン・ブーバーの〈われ－汝〉の関係に言及した分析は非常に興味深かったという感想を述べた前島氏は、ブーバーの「われわれの運命の高貴な悲しみ」という記述と、小林が「『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものもついに現れなかった」と解釈していたこととの関連について質問した。「来たものは文字通りの破局」であったと続けていた小林の『白痴』論についての前島氏の質問は、小林秀雄のドストエフスキー論は当時としては白眉の評論ではあるが、「著者に成り代わって」主観的にテキストを解釈するという現在の風潮をも導いてしまったのではないかという私の懸念とも重なる。 字数の制限から言及することの出来ない点も多く残ったが、配布されたB５版で１６頁になる詳しい資料に従って行われたこともあり、２時間半に及ぶ発表にもかかわらず、ほぼ満席となった会場の聴衆は最後まで席を立たず、質疑応答も短いが充実したものとなった。 事務局便り ○会発足45年目の2014年も早、暮れようとしています。加速度のついた一年の時間の経過の速さに、私のような後期高齢者は目もくらむ思いにかられます。 会誌「広場」24号の刊行は、次号も来年4月中旬を目処に、現在、原稿締切の最終段階を迎えようとしています。ワープロ機能を駆使してのフォーマット作り、校正など編集作業にもだんだんに習熟して、効率的な製作ができるようになりました。年が明けると編集作業メンバーも忙しくなりますが、会員のみなさんのご期待に応えるよう頑張っていきます。 ○こちらはちょっと気にかかるホットニュースですが、例年同様、11月11日のペテルブルグ博物館のドストエフスキー生誕日の研究集会に私が送った挨拶状に対する博物館の友人からの返事の中で、曾孫のドミトリー・ドストエフスキーに新たな癌が見つかったという知らせがきました。 私が早速ドミトリー本人メールしたところ、すぐに返事がきて、大腸にかなり大きい腫瘍が見つかった、「爆弾跡に第二弾が着弾した」と伝えてきました。例の35年も前の腫瘍は完治しているはずで、私は「それは新しい着弾だ、日本でも大腸がんは珍しくなく、手術で多の人が回復しているので、頑張ってくれ」との励ましを送りました。その後検査入院をした結果について、博物館の友人から知らせが入り、結果、もう一つ見つかった。二つ同時に手術するか、時期をずらすか医者が検討中ということでした。 そしてこの12月11日に手術した結果について知らせを受けました。手術の翌日12日には集中治療室から一般病床へ移され、腫瘍は悪性ではあったが小さいもので、転移はない、早期発見で幸いだったとの、安堵の文面が届きました。 ドストエフスキー関係の行事には、ドミトリーに代わって息子のアリョーシャが出席しているとのことで、アリョーシャにはアンナ、ベーラ、マリヤの三女とフョードルの一男がいます。曾孫の孫に作家と同名のフョードルが誕生したわけで、ドストエフスキー家の血は子孫に受け継がれています。 ホームページの表紙のメニュー「曾孫ドミトリー氏の家族」をクリックすれば、家族の本年1月の写真を見ることができます。 （木下） 事務局メールアドレス：tkino@chiba.email.ne.jp |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.125 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2014.10.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：木下豊房（きのした とよふさ） 1969年、ドストエーフスキイの会の発足にあたり「発足の言葉」を起草。新谷敬三郎、米川哲夫氏らと会を起ちあげる。その後現在まで会の運営に関わる。2002年まで千葉大学教養部・文学部で30年間、ロシア語・ロシア文学を教える。2012年3月まで日本大学芸術学部で非常勤講師。ドストエフスキーの人間学、創作方法、日本におけるドストエフスキー受容の歴史を研究テーマとし、著書に『近代日本文学とドストエフスキー』、『ドストエフスキー・その対話的世界』（成文社）その他。ネット「管理人T.Kinoshita」のサイトで「ネット論集」（日本語論文・ロシア語論文）を公開中。 ニュースレター№125 2014――――――――2――――――――――――― 第224回例会報告要旨 小林秀雄とその同時代人のドストエフスキー観 木下豊房 去年、高橋誠一郎氏「テキストからの逃走―小林秀雄の「『白痴』についてⅠ」（214回例会）、今年、福井勝也氏「小林秀雄のドストエフスキー、ムイシキンから「物のあはれ」へ」（221回例会）と、小林秀雄をめぐる、論争性を内に秘めた報告がなされ、去る7月には高橋氏の『黒澤明と小林秀雄―「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』が上梓された。 私はこの両者の説にふれることで、自分が抱えている問題意識に火がつくのを感じた。とりわけ、高橋氏の小林批判は鮮烈で、私はそのレトリックとカリスマ性ゆえに敬遠してきた小林のドストエフスキー論の実体を解明したくなった。 「ムイシキンはスイスから還つたのではない。シベリヤから還つたのである」という表現に集約される小林の解釈に、高橋氏は多方面からの批判を加えていて、傾聴すべき点が多い。と同時に、昨年ですでに没後30年になる文学者を歴史的存在（歴史的制約を受けた存在）としてではなく、現在の時局論に引きつけ過ぎて論じているきらいがあり、また深読みと思われるところもあって、そのあたりには疑問を感じた。そこで私は、小林秀雄を歴史的存在として見て、彼の論の形成に影響した状況を踏まえて検証を試みようと思った。 俗に、小林の「ドストエフスキイの生活」はE.H.カーの剽窃であるとの噂はいまだに燻っているようであるが、その実情はどうなのか？ ほとんど同年を生きた唐木順三、そしてやや後輩の森有正のドストエフスキー論、そして彼らをはじめ同時代の文学者に広く読まれたアンドレ・ジードの論、そして小林や唐木や森の論が日本で形成される時期には、おそらく未知の存在であったミハイル・バフチンの論、これらを対比して見た時に、共通する論点が多くあることに気づかされた。 それはドストエフスキーのリアリズムの性格と人間についての見方である。バルザックに代表され、ロシアではトゥルゲーネフやトルストイに見られる客観的写実主義ともいうべきリアリズムとは一線を画すドストエフスキーの内観的リアリズムともいうべきものである。そして、人間の心理の客観的分析を旨とするフロイド的精神分析に対する異口同音の批判であつた。 19世紀ロシア文学史上、ドストエフスキーにおいて人間の見方に新しい転換が起きた。徹底的に客体化されて描かれたゴーゴリの人物が、『貧しき人々』において、主観性を持った主体的人物として蘇った。いわば死者の復活である。 デカルト的理性を基盤とする19世紀の客観主義的リアリズムによって描かれる人物像はドストエフスキーの内観的リアリズムから見れば、十分に生を享受しているとは言えないだろう。ドストエフスキーの芸術思想によれば、「人間にはA＝Aの同一性の等式を適用できない」 人間の本当の生は「人間の自分自身とのこの不一致の地点で営まれる」（バフチン）ドストエフスキーにとって、「人間は先ず何をおいても精神的な存在であり、精神は先ず何を置いても、現に在るものを受け納れまいとする或 ―――――――――――3――――――――――――ニュースレター№125 2014 る邪悪な傾向性だ」（小林） このように客体化を拒む精神、自意識というものは、他者を客体としてではなく、もう一つの主体として認知する「われ－汝」の二人称的関係を希求する（バフチン、唐木順三） しかしこの関係はきわめて不安定で、時空間の因果の網に拘束されない現時制の瞬間においてしか成立しない。それは過去化され、時空間で相対化された時、客体化を免れえない運命にある。この問題は作者の主人公に対する態度とともに、作中の人物間の関係にかかわる作品の主題としても現象するのが特徴である。 これをムイシキン像についていうならば、小説の前半では、登場人物達を読者に開示する二人称的、語り手的な機能を担わされ、読者はムイシキンとの出会いを通じて、人物関係図を知らされる。後半に至って、ナスターシャへのプロポーズの事件以降、彼は他の人物達との距離を失い、事件の渦中に巻き込まれて、客体化され、いわばトラブルメーカーに頽落していく。最終段階の創作ノートには「キリスト教的な愛―公爵」という記述があるのをおそらく知りながら、観念の意匠に敏感な小林は、人々に不安を与える無能なムイシキン、しかし作者が愛さないではおれない存在としてのムイシキンの現実を強調した。 ここに小林は作者の憐憫の眼差しを見ている。 最後にこの「憐憫」＝「あわれ」の眼差が、小林の隣接する著作「本居宣長」の「あはれ」の概念とどう関係していくのか、福井氏の問題提起を受けて考えてみたい。 第224例会傍聴記 北岡淳也氏「晩年のドストエフスキーと「人民の意志」連続テロ事件」を聴いて 富田陽一郎 ドストエフスキーは、一生暴力、流血、革命、犯罪と縁が切れなかった。暗殺事件の横行する時代 ― ザス－リッチによるトレーポフ特別市長官暗殺未遂、ソロヴィヨフによるアレクサンドル二世暗殺未遂、ハルトゥーリンによる冬宮爆破とストレーリニコフ将軍暗殺など、血腥い事件の果てに、グリュネヴィツキーによるアレクサンドル二世暗殺がおこり、アレクサンドル三世が即位。このようなテロの時代に、ドストエフスキーは自宅でひっそりと死去した。 一方で、ロシアの秘密警察第三課（オフラナ）には、ラチコフスキーという有名な人物が存在した。ミルスキー事件に連座して、三年のシベリア流刑か第三課所属かのどちらかを選択せよと言われて第三課を選んだ人物で、８３年に海外部局へ移り、パリとロシア本国の間を往復して、後に「操り師ラチコフスキー」といわれる人物。偽書「シオン賢者のプロトコル」の作者と推定される人物である。知性の高い、頭の切れる男であったが、この人物がカギとなって、ロシアのテロの暗黒時代と、それに対する治安側との対立が展開されていった。 一方、テロと地下活動で社会を変えていこうとする、反社会集団の側には、「人民の意志」というグループがあった。「第二次土地と分割」のグループから、「人民の意志」と「黒い再分割」の二つのグループが分離し、ある種の無政府主義者たちであったが、「一発の銃弾がすべてを変える」という信念のもとに地下活動を行うグルー ニュースレター№125 2014 ――――――――4――――――――――――― プであった。このテーマは、ドストエフスキー流に捉えれば、「一切は許される」のテーマを、実際の現実の行動で示そうとするものであり、これらのテーマは、社会運動の描写としては「悪霊」に、そして思想的・哲学的テーマとしては「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」のテーマとして描かれるようになったともいえる。 これは、「一切は許される」無秩序な状態（アノミー）にあった時、イエス（愛と自由とマナ）をとるか、それとも大審問官（権力と不自由とパン）をとるか、という問題でもあり、また、それは、「一切は許される」のであれば、皇帝暗殺も「許される」し、また、それはテロ組織側からすれば、「大審問官としての皇帝を暗殺し、イエスの支配する世の中を創る」ためには、「皇帝暗殺」の「テロ」も「許される」という論理にもなる。 ドストエフスキーと皇帝アレクサンドル二世は、流刑中のドストエフスキーに首都帰還の恩赦を与えた人物ということもあり、いわば明治帝と漱石、昭和帝と三島のように、王と道化（シャーマン）という関係があり、それゆえアレクサンドル二世とドストエフスキーの死も繋がっていたという解釈も出来る。そして、そこからもっと深めると、ドストエフスキーが暗殺された（ヒ素などの可能性があるという）という、報告者のような考え方もできるだろう。 ドストエフスキーは、ザス－リッチの無罪を支持した時、「キリストによって無罪」を宣告するなど、自身をキリストの再臨と解釈する場面も多かった。そこから解釈すると、ドストエフスキーの死、それが暗殺であれ、あるいは「カラマーゾフの兄弟」の続編で皇帝暗殺を描こうとして呪殺されたのであれ、またアレクサンドル二世の道化（似姿）として死んだのであれ、とにかくその死は、いわばキリストの死のように、死と復活、つまり死してドストエフスキー文学が人類の黙示録、預言の書として、いわば第二の聖書となって復活するために必要であった聖なる儀式であったという考え方も出来るであろう。 もちろんこれは報告者の小説的なフィクショナルな解釈であって、史実としてドストエフスキーが暗殺されたり、呪殺されることがあったのか、あるいは「キリストの再臨」と捉えてよいのかは、禁欲的な研究の立場からは非難される側面もあるだろう。しかし、ある解釈として、いわば評論的な立場からこのように解釈してみることで、ドストエフスキーと彼の文学作品に、新たな方向から光が当たるという可能性も、捨てきれない。そう考えると、このような考察にも、一定の意義があるだろう。有意義な発表と、その後の討論による考察であった 事務局便り ○2015年4月刊行予定の「広場」24号の編集委員会が先ごろ発足し、作業を始めました。今年度例会報告者の論文を柱に、エッセイ、書評等を掲載します。なかでもエッセイはこれから執筆者を募ります。締切は12月末日ですが、事情に応じて来年1月20日まで延長可能。400字×５枚までは掲載費無料、超過分は400字当り400円で、この単価で部数が還元されます。エッセイのテーマは多少ともドストエフスキーに関係があれば、自由です。原稿は横書き（標準）。添付で下記アドレスへお送りください。 （木下） 事務局メールアドレス：tkino@chiba.email.ne.jp |
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ストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.124 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2014.8.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：北岡淳也（きたおか じゅんや） １９４５年生まれ、早大文学部卒、 著書に、「ドストエフスキー・クライシス ─
ユートピアと千年王国」。 ニュースレター№124 2014――――――――2――――――――――――― 第223回例会報告要旨 晩年のドストエフスキーと「人民の意志」連続テロ事件 北岡淳也 １８７８年１月、ザスーリッチによるトレーポフ特別市長官暗殺未遂事件に始まる 連続テロは８月、クラフチンスキーによる憲兵司令長官、メゼンツェフ暗殺、翌、７９年には３月、ミルスキーによるドレンチェリン長官襲撃事件、４月、ソロヴィヨフによるアレクサンドルⅡ世暗殺未遂事件、１１月、列車爆破事件、８０年にはハルトゥーリンによる冬宮爆破事件とつづいて、８１年３月１日に、アレクサンドルⅡ世がエカテリーナ運河ぞいでグリュネヴィツキーの自爆テロによって横死した。急進派ナロードニキによる花々しいテロの時代に、「悪霊」の作者、ドストエフスキーは８１年１月２８日にひっそりと自宅で死亡した。 ドストエフスキーの友人で宗務院長官のポベドノスツェフは彼の作品について検閲官の役割をはたしている。政治的には保守陣営の大立者で、黒百人組にも深く関係している。 ところで、ミルスキーによるドレンチェリン第三課長官暗殺未遂事件に加担したピョートル・ラチコフスキーという人物、─ 彼は２０世紀初頭、第三課長官になり、操り師、ラチコフスキーの偉名をとる ─ ペテルブルグ市の一般事務職員がテロの時代のさなか、７９年４月に第三課職員として地下工作活動の世界に入っていく。 彼はドストエフスキーの作品を愛読していた。その時代、ドストエフスキーは「カラマゾフの兄弟」を雑誌に連載していた。作家は市民ホールなどでも章ごとに朗読している。ラチコフスキーも朗読会に聴衆のひとりとして聴きにいった。作家本人が読むと、俳優の朗読とは違った味わいがある。 現代イギリスの政治学者、テイラーによると、アレクサンドルⅡ世暗殺事件は近代政治テロの原点であるという。 この事件の真相にフィクションを用いて迫れないだろうか、それは３０年近く前に、ドストエフスキーの死に疑問をもったこと、調べているうちにその当時、宮廷女官が言ったという「ロシアはこの２、３カ月のうちに大きく変る」という言葉が噂となって流布していたという。 アレクサンドルⅡ世とドストエフスキーの死で、ロシア・ルネッサンスといわれる時代は幕をおろした。では誰が幕引きを仕組んだのか。 Ⅱ世が死亡した瞬間、皇太子がアレクサンドルⅢ世に即位した。政治権力にキレ目があってはならない。皇太子の教育者、ポベドノスツェフはⅡ世の死以後、毎日、教会で鎮魂の儀式を欠かさなかったと伝えられる。彼の勧めもあって、ドストエフスキーはⅢ世に８０年末、「カラマゾフの兄弟」を献本している。場所はアニチコフ宮殿である。 冬宮は改革派のアレクサンドルⅡ世、大理石宮は急進派のコンスタンチン大公、アニチコフ宮殿はポベドノスツェフ、皇太子らの保守派、上層部の分裂は深まり、社会 の矛盾は深刻さをます。急進派のテロは相次ぎ、露土戦争で経済は悪化する時代、ドストエフスキーは「カラマゾフの兄弟」を書きあげた。 ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№124 2014 第222回例会傍聴記 「広場」23号合評会を聴いて 高橋誠一郎 ７月１９日の例会では『ドストエーフスキイ広場』第２３号の論文を中心に合評会が行われた。紙面の都合から議論となった争点を中心に順を追って紹介していきたい。 原口美早紀氏の論文「『白痴』におけるキリスト教思想」を論じた福井勝也氏は、ドストエフスキーの手紙を引用することで「ドストエフスキイのキリスト教思想はヨハネ福音書に多く依っている」ことを指摘したこの論文を高く評価する一方で、手紙の同じ箇所を引用しつつも小林秀雄が「ポジとしてのイエス」に対して「陰画（ネガﾞ）としてのイエス」という視点を提示していたことを強調した。 この論文に関してはもっとも注目されたのは、原口氏の視点で、『白痴』のムィシキンには「ヨハネ福音書」のイエス像と同じように「喜びの福音を伝える者」としての要素が大きく、またイッポリートが「弁明」を書いた理由も彼が「饗宴」を求めたからだろうとの解釈だった。この解釈は説得力があるという意見が目立った。 高橋論文「『シベリヤから還った』ムィシキン」を論じた木下豊房氏は、E.H.カーが小林秀雄の視点に及ぼした影響はかなり強く、ナスターシャが「商人の妾」であることや「キリスト教への発心」の時期が『悪霊』以降であるという説をカーが書いていることを明らかにするとともに、「小林にとっての最大の関心事は、観念に憑りつかれた人間が、駆り立てられるようにカタルシスに向かってたどる心理的プロセス」であったと指摘し、小林のドストエフスキー論の背景に戦争に向かう当時の時代情況を見ようとすることやエウゲーニイにムイシキンの告発者としての役割などを見ることは「深読み」であろうとの批判がなされた。 しかし、ムィシキンを「シベリヤから還った」者と規定した小林秀雄が、『罪と罰』論では殺人を犯した主人公には「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と記していたことやエヴゲーニイがプーシキンの愛読者でもあったことにも注意を払わねばならないだろう。「黒澤と小林を対比する方法によって、小林についていろいろ見えてくるものがあるのは確か」との指摘はきわめて重要だと思われた。 大木昭男氏の論文「ドストエーフスキイとラスプーチン」を論じた近藤靖宏氏は、まず中編小説『火事』が書かれたのが、チェルノブイリ原発事故があったことに聴衆の注意を促すことで、この作品が書かれたソ連の時代状況を示し、『カラマーゾフの兄弟』の「ガラリアのカナ」におけるアリョーシャの体験の描写と比較しながら、『火事』でも実際の風景と心象風景が組み合わされて迫力のある描写になっていることを指摘した。 その一方で、この作品で描かれている農村や主人公の情況が日本の読者には不明な点が多いので、二人の作家の内的な関係が今ひとつ分かりにくいとの感想もあったが、その点では論文では削除されていたが、報告では触れられていた『おかしな男の夢』における「覚醒」の問題や、『火事』でも頻出する「良心」という単語の役割がより明確になると二人の作家の比較が説得力をもったのではないかとの意見も出された。 清水孝純氏の「ドストエフスキーとグノーシス」の予定していた論評者が出席でき なくなったために、急遽、代役を引き受けられた木下氏は清水論文の問題提起を受け ニュースレター№123 2014 ――――――――4――――――――――――― て「グノーシス主義にとって、善悪の問題は知による認識にかかわるもの」だが、ドストエフスキーにとって善悪の問題は、「信仰、不信仰の問題と深く結びついていて、人物創造の基軸をなしている」とし、作家が子供の頃に読み『カラマーゾフの兄弟』でもゾシマ長老に語らさせていた「「『旧・新約聖書の百四つの物語』という美しい絵入りの本」にも収められていた「ヨブ記」の重要性を指摘した。 すでに字数を大幅に越えたが、主人公たちの娼婦に対する言説を考察した西野常夫氏の「椎名麟三の『地下室の手記』論と『深尾正治の手記』」のテーマがきわめて深い内容であり、椎名麟三への関心もあるので、ぜひ例会での発表をお願いして質疑応答をゆっくりとしたいとの言葉が印象に残った。 残念ながら、当日の参加者は少なかったが、「ドストエーフスキイの会」を活性化するためにも、遠方の会員も参加しやすいような形が模索されるべき時期に来ているのではないかと感じられた。 運営委員会よりアンケートの実施について 会員の皆さま 皆さまにおかれましては、ますますご健勝のことと存じます。 ここしばらくアンケートを行っていませんでしたので、会の活動を活性化するために、 「現在、関心を持っているドストエフスキーの作品とその理由」などについて、皆様 のご意見をお聞きし、それを機関誌や活動に活かしたいと思います。 また、「ドストエフスキーかトルストイか」というテーマのシンポジウムを行ってほしいなど要望が届いていますが、いろいろなご意見を頂ければ活動の幅が広がりますので、会として行ってほしい活動についても、ご希望をご遠慮なくお知らせ頂ければありがたいと考えています。
できれば、『ドストエーフスキイ広場』へも掲載することでご意見を反映させたいので（不可の場合はその点を明記して）、一応、返信用の封筒も同封致しますが、編集担当の熊谷氏宛てになるべくメールでお送り下さい。 なお郵送による返信に要した切手代は、会費納入時に差し引いて払い込みください。 回答先のメールアドレスは kumatiti@gmail.com です。件名は「ドストエフスキーアンケート」としてください。多くの会員の皆様からのご返事をお待ちしています。 Ⅰ.アンケートの締め切りと字数 締め切り：11月末日。字数は各項目の末尾に指定、厳守のこと Ⅱ.アンケートの項目 様式は問いませんので下記の項目にしたがって回答ください １，氏名をご記載ください。 ２，現在、関心を持っているドストエフスキーの作品とその理由。（４００～８００字程度） ３，現在、ドストエフスキー以外の作家に関心を持っている場合は、その理由とドストエフスキー作品との関わりについて。（４００～８００字程度） ４，例会で取りあげてほしいテーマと希望する発表者（自薦も含む）（４０字未満） ５，「旧著新刊」で扱ってほしい著書と希望する論評者（自薦も含む（４０字未満） ６，今後、「ドストエーフスキイの会」で行ってほしい活動（４０字未満） ７，アンケートの内容の『ドストエーフスキイ広場』への掲載の可、不可 |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.123 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2014.6.15 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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ニュースレターNo.123 2014――――――――2――――――――――――― 第221回例会傍聴記 福井勝也氏の「小林秀雄のドストエフスキー、ムイシュキンから「物のあわれ」へ」を聴いて 木下豊房 今回の報告、私自身のテーマとも重なり、興味深く聴いた。小林秀雄は「「『白痴』についてⅡ」の最終章9章を1964年に（1952年の8章発表から10年余の断絶を経て）書いた後、翌65年に「本居宣長」を「新潮」に連載し始めた。これを一般に、小林秀雄の「日本への回帰」、あるいは山城むつみのように「小林批評の「衰弱」（クリチカル・ポイント）として、ある種の転回、断絶と見なす傾向があるが、福井氏の報告はそれとは対照的に、小林の「『白痴』論Ⅱ」との連続性を「本居宣長」に見ようとするものであった。そのキー概念が「物のあわれ」であった。 それは端的には、報告要旨の引用によれば、「「『白痴』についてⅡ」の最終9章の最後の記されている小林の言葉 ―「『限りない憐憫の情』として人々にはたらきかける様にムイシュキンを描いた」という個所にかかわる。私にいわせれば、本来、「憐憫の人」（主体）として描かれたはずのムイシュキン（黒澤明の視点はこれである）が、後半逆転して、「唖の様に、聾の様に苦しむ」、いわば「物」に閉じ込められた受け身の存在と化す様を描いたドストエフスキーの固有の「リアリズム」へ、小林秀雄の関心は傾斜したといえよう。 不勉強な私にとっては有難い資料として、福井氏は1963年の中村光夫、福田恒存との鼎談『文学と人生』と1965年の岡潔との対談『人間の建設』から、小林のロシア文学について、ドストエフスキーについての、手探りめいた含意の多い言葉の数々を紹介てくれた。スペースがないので二つばかり挙げる。小林いわく―ドストエフスキーの作家的感性は独特のもので、「眼がじかに人間に行く」「人間以外に全く興味をもっていない」（例えば『貧しき人々』のデェヴシキンの描かれ方について）。「やはり物のあわれの感じの非常に強いのがまずあって、その人間のミゼールの感じから、メタフィジカルの意味が自ずから生じてきた」（鼎談『文学と人生』から）。 座談の場の手探りの思考の中で発せられる、一見とりとめもない小林秀雄の断片 的な言葉の集合から、「本居宣長」の「ものゝあわれ」論につながるものを、論理の糸でたぐり寄せることはむずかしいだろう。しかし物事の認識の態度として、語ら れているニュアンスから、福井仮説の裏付を感知することはそれほど困難ではない。 ――――――――――――3――――――――ニュースレターNo.123 2014 ひるがえって私自身、ムイシキンまつわる「同情・憐憫（ｻｽﾄﾗﾀﾞｰﾆｴ）」の概念を、ドストエフスキーの人間学の要諦であり、物事や他者に対する対話的な態度の問題として、かねてから論じてきた。拙論「『白痴』論―“貧しき騎士”ムイシキン公爵の“運命の高貴な悲しみ”」や漱石の『草枕』の「憐れ」と「非人情」との比較を論じた一文でそのことを論じた（拙著『ドストエフスキー・その対話的世界』（成文社・2002 所収）。その際、とりわけ後者の論文の末尾で、「漱石、ドストエフスキーをめぐってここで論じてきた書き手と対象、そして受けての三者関係に貫流するこうした「憐れ」あるいは「同情・憐憫」の美的価値は、日本人の伝統的美意識と言われる「もののあわれ」と比較するならばどういうことがいえるなか」と問題提起をした。その時は小林秀雄の「本居信長」は意識にはなかったが、その後読んで、「ものゝあわれ」論の個所に注目しメモとってもいた。ご参考に紹介する。 小林が「石上私淑言」を引いて紹介する宣長の「あわれ」（阿波禮）は、喜怒哀楽、すべての「情に感ずることはみな阿波禮也」であり、「すべて人の情の、事にふれて感くは、みな阿波禮也」（「新訂小林秀雄全集第十三巻、昭54、119頁）である。小林はこのことを次のように説明する。「事物の知覚が、対象との縁を切らず、そのまゝ想像のうちに育って行くのを、事物の事実判断には阻む力はない。宣長が、「よろづの事にふれて、感く人の情」と言ふ時に、考えられてゐたのは、「情」の感きの、さういふ自然な過程であった。敢えて言ってみれば、素朴な認識力としての想像の力であった」（130-131頁）「「情」が「感」いて、事物を味識する様を、外から説明によって明瞭化する事は適わぬとしても、内から生き生きと表現して自証する事は出来るのであって、これは当人にとって少しも曖昧な事ではなからう」（131頁）。 小林は紫式部のこの方法を「内観による、その意識化」とも記している。これは二葉亭四迷がドストエフスキーの方法を特徴づけた作者と作中人物との「同化」を自 ずと連想させる。またこの「同化」の方法にともなって生じる、対象と語り手、受け手の関係について、小林はこうのべている。「「かたる」とは「かたらふ」事だ。 相手と話合う事だ」「語る人と聞く人とが、互いに想像力を傾け合ひ、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変わらぬ、言はば物語の魂であり、式部は、新しい物語を作らうとして、この中にたった」 ニュースレターNo.123 2014 ――――――――４―――――――――――― 我田引水の誹りを承知で、あえていえば、これはもはやドストエフスキーのポエチカ（創作理念）の問題ではないか。いま私の思考の軸にあるのは、「あわれ」、「物のあわれ」、「物のあわれを知る事」の三つの概念は、それぞれ位相が異なるのではないかということだ。小林の『白痴』論をにらみながら、私も再論したくなった。高橋誠一郎氏が提起している黒澤明の視点との違いの原因も、私なりに論じてみたい。願わくば、近いうちに例会で報告する機会を得たい。 事務局だより ○4月末に「広場」23号をお届けしましたが、お気づきと思いますが、表紙の背中の発行年号にミスがあります。シールを貼って訂正していただくように、シールを添付した短冊を同封しますので、よろしくお願いします。 ○5月17日に例会に先だって、第46回総会を開き、会計報告その他、全会一致で承認されました。活動に会員の要望を反映させるためのアンケートの実施などが決まりました。 （木下豊房） 事務局アドレス：tkino@chiba.email.ne.jp 平成２５年度 収支計算書 （平成25年5月6日〜平成26年5月5日） 会計 近藤靖宏 監査 高橋誠一郎
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.122 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2014.4.15 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：福井勝也（ふくい かつや） 1954年東京生まれ、1978年ドストエーフスキイの会入会（現会員、運営編集委員） 現在「全作品を読む会」(世話人) 、読書会「著莪」（日本近代文学、講師小森陽一氏）並びに「ベルクソン他講義」（講師前田英樹氏）に長らく参加させていただいている。 著書等、『ドストエフスキーとポストモダン』（2001）『日本近代文学の＜終焉＞とドストエフスキー』（2008）、「日本のドストエフスキー」（『現代思想』、2010）ほか執筆。 ニュースレター№122 2014――――――――2――――――――――――― 第221回例会報告要旨 小林秀雄のドストエフスキー、ﾑｲｼｭｷﾝから「物のあはれ」へ 福井勝也 小林秀雄は、戦前から書き記して来た「ﾄﾞｽﾄｴﾌｽｷｲ･ﾉｰﾄ」のなかで最後の「『白痴』についてⅡ」が一番いいものだと評している（1963年の対談「文学と人生」）。この批評文は、1952.5月から1953.1月まで「中央公論」に連載され、第八回の末尾には「前編終わり」と付された。それから、10年以上の中断があって最終章(第9章)が書き加えられ、1964年5月に『「白痴」について』（角川書店）が単行本として発刊された。文字通り「未完」も多い小林の「ﾄﾞｽﾄｴﾌｽｷｲ･ﾉｰﾄ」にあって、とにかく結末が付けられて刊行されたことは注目すべき点だろう。この「ﾎﾟｲﾝﾄ」に着目し、この63年頃に「戦前から持続してきたﾄﾞｽﾄｴﾌｽｷｲ論考が微妙に変異していた」として、ここに小林批評の「衰弱」（「ｸﾘﾃｨｶﾙ･ﾎﾟｲﾝﾄ」）を指摘したのが山城むつみ氏であった。それが氏の処女作「小林批評のｸﾘﾃｨｶﾙ･ﾎﾟｲﾝﾄ」（1992）であって、その年の「群像」新人賞を獲得した。その山城氏が近年、大著『ﾄﾞｽﾄｴﾌｽｷｰ』（2010）の批評家として大成されてきているのは周知の通りである。 今回の当方の発表も山城氏が問題としたこの時期への関心から始めたい。しかしﾀｲﾄﾙに「ﾑｲｼｭｷﾝから「物のあはれ」へ」と副題を付したように、話の到達点は山城氏のそれと大分違ったものになると考えている。だからと言って、余りこの問題に限局して論争的に係わるつもりはない。話の端緒と結び位で丁度良いと思っている。 昨年は小林没後30年という年回りから、関連の書物が何点か刊行された。そのなかで記憶に残った一つが、盟友河上徹太郎との対談「歴史について」（1979）であった。対談の翌年に河上が亡くなり、二人のものが、結局は「小林秀雄最後の対談」となった。昨春そのような触れ込みで再録発表された。対談は既読であったが、掲載誌「考える人」にはCDが付されていて、二人の声がまさに生き返ったように響いて新鮮に聴き返した。 ここでも二人の主題はﾄﾞｽﾄｴﾌｽｷｰに向かってゆく。小林は、「「白痴」をやってみるとね、頭ができない、ﾄﾙｿになってしまうんだな。「頭」は「罪と罰」にあることが、はっきりしてしまったんだな。「白痴」はｼﾍﾞﾘｱから還ってきたんだよ」と持論の感慨を吐露する。河上はそれに「そりゃ、わかっている」と即答している。この科白の裏には、どうにか「白痴ﾉｰﾄ」に結末を付けた、この間の小林の苦渋の声が聞こえるようだ。しかし同時に、小林は「ﾄﾙｿ」ではあっても、中断後10年以上を費やした最後、精一杯の「ﾑｲｼｭｷﾝ」像を最終章に書き記している。それは、「白痴」の物語の最後に現れた「傍観するﾘｱﾘｽﾄ（ｴｳﾞｹﾞｰﾆｲ）に「事件全体に、何一つ真面目なものがない」という言葉を吐かせながら、次のようにその「ﾑｲｼｭｷﾝ」像を語って「ﾉｰﾄ」末尾へと導いてゆく直前の言葉に表現された。 作者が意識の限界点に立って直接に触れる命の感触ともいうべき、明瞭だが、どう手のつけようもない自分の体験を、ﾑｲｼｭｷﾝに負わせた事はすでに述べた。この感触は、日常的生の構造或はその保存と防衛を目的とするあらゆる日常的真理や理想の破滅を代償として現れる。それは、その堪え難く鋭い喜びと恐怖とが證している。この内的感触に、作者は「唖のように、聾のように苦しむ」のだが、その苦しみもﾑｲｼｭｷﾝに負わせた。ただ限りない問いが、「限りない憐憫の情」として人々に働きかけるようにﾑｲｼｭｷﾝを描いた。殺人者と自殺者とがﾑｲｼｭｷﾝの言わばこの魔性を一番よく語り、どうしようもなく、 ―――――――――――3――――――――――――ニュースレター№122 2014 彼に惹かれる。彼は孤独ではない。ﾑｲｼｭｷﾝは、ﾗｺﾞｰｼﾞﾝのﾅｲﾌを無意識のうちに弄ぶと言 ってはいけないであろう。生きる疑わしさが賭けられた、堪えられぬほど明瞭な意識のさせる動作だと言った方がよかろう。ﾄﾞｽﾄｴﾌｽｷｲの形而上学は、肉体の外にはないのである。 今回僕が着目したのは、ここの文章全体を背景にした下線を引いた箇所だ。つまり限りない問いに駆られて、「限りない憐憫の情」の人として描かれた「ﾑｲｼｭｷﾝ」像だ。ここに、小林が生涯ﾄﾞｽﾄｴﾌｽｷｰに追求した「ﾈｶﾞ」としての「ｷﾘｽﾄ」像が明らかになる。しかしそれだけではない。そのことの意味は、当日に譲りたいと思うのだが、ここで少しだけ触れておきたい。その前提には、山城氏も注目した1963（S．38）年（この年、小林は作家同盟の招きでｿﾋﾞｴﾄを訪れ、ﾖｰﾛｯﾊﾟを廻って帰国している）前後の小林の旺盛な批評活動の推移がある。その一つが、1958（S．33）年から開始されて、結局未完に終わったﾍﾞﾙｸﾞｿﾝ論「感想」であって、それが中断されたのがこの1963年であった。そして、小林はその「中絶」から踵を返すようにﾛｼｱ旅行に出かけ、ﾄﾞｽﾄｴﾌｽｷｰの墓を訪ねる機縁を得た。その「墓詣り」の希望に率直に触れたのが「ﾈｳﾞｧ河」（帰国後11/30～12/5まで朝日新聞連載）であり、そのｿｳﾞｪﾄ･ﾛｼｱという国家の歴史的特殊性を日本の「万葉集」を引き合いにして語ったのが「ｿｳﾞｪﾄの旅」（11/26、文藝春秋際講演）であった。なお、この二編は他の注目すべきｴｯｾｰとともに『考えるﾋﾝﾄ』に収録され（執筆は1959年から64年）、『「白痴」について』の刊行同年（64）に出版されている。ここにも注目したい。そしてもう一つ重要なのは、小林はﾍﾞﾙｸﾞｿﾝ論「感想」の連載を続けながら、途中の1960（S．35）年に「本居宣長
― 『物のあはれ』の説について」をすでに発表していたことだ。しかし何故かこの宣長論は、小林の生前に著作ﾘｽﾄから除外されたらしい。この辺りは、前田英樹氏の『小林秀雄』（1998）に教えられた。いずれにしても、小林秀雄が最後に語ろうとしたﾄﾞｽﾄｴﾌｽｷｰの「ﾑｲｼｭｷﾝ」像は、「物のあはれ」に転移、連続してゆく機縁としてあり得たのではないかというのが、今回僕の発表の思いである。まあ、その一端だけでも語ることができればよいのだが。
（2014.4.3） 第220回例会傍聴記 堀伸雄氏の「黒澤明と『カラマーゾフの兄弟』に関する一考察」を聴いて 高橋誠一郎 今回の例会は3月22日に行われたが、冒頭で堀氏は翌日の２３日が黒澤監督の誕生日に当たるので、当日は監督が生きておられたら映画《夢》の第八話「水車のある村」の老人（笠智衆）と同じ１０３歳の最後の日にあたることを紹介した。 黒澤明監督の映画《白痴》については、1975年にこの会でも鑑賞会が開かれるなど関心が高いが、それ以外の作品におけるドストエフスキーとの関係については、《どですかでん》の発表以外はなかったと思われる。 『黒澤明 夢のあしあと』（黒澤明研究会編・共同通信社・1999年）の編纂に参加されていた堀氏は、発表の前半では、『藝苑』（厳松堂書店、１９４６年）に掲載された「わが愛読書」で、黒澤がトルストイとドストエフスキー、そしてバルザックを挙げていたことや、『死の家の記録』の映画化も真剣に考えていたことなどを地道な調査にも基づいて明らかにした。さらに、ポリフォニーやカーニバルの手法にも注目しながら、黒澤監督の「憐 ニュースレター№122 2014 ――――――――4――――――――――――― 憫」と「直視」の精神とドストエフスキー作品との深いつながりを指摘した。 後半では『カラマーゾフの兄弟』の続編におけるアリョーシャのその後を描いてみたいと語った黒澤の言葉に注目しながら、日本における『カラマーゾフの兄弟』の受容と「続編構想の日本への伝搬」について詳しく分析したあとで、『乱』（1985公開）およびシナリオ『黒き死の仮面』（未映画化・1977）と『カラマーゾフの兄弟』のシナリオの一部をテキストとして検証した。 私にとって興味深かったのは、「語り手」の問題の重要性に注意を促しながら、「アリョーシャを主人公とする続編」の問題点について指摘した木下氏の質問であった。実際、アリョーシャがその後、皇帝の暗殺を目指す革命家になるという説を認めると、『カラマーゾフの兄弟』の本編で描かれていた「殺すこと」を批判したアリョーシャ像を否定せざるをえなくなると思える。さらに、尊敬する師ゾシマの死体が発した死臭によって、「精神的な死」の危機を経験しながらも、大地への接吻で「復活」していたアリョーシャが再び「復活」することは不自然でもあるだろう。 発表者の堀氏も『カラマーゾフの兄弟』の「続編」という微妙なテーマを論じつつ、想像を膨らませるのではなく冷静なテキストの分析をとおして、信仰の問題や「神の存在」についての議論もある『乱』や『黒き死の仮面』と、『カラマーゾフの兄弟』との構造や「大審問官」などのテーマとの類似性を明らかにした。 最後の場面でのアリョーシャの台詞が《まあだだよ》の先生が語るメッセージの手法につながるという指摘は、ロシアの映画人からも高く評価された映画《白痴》を撮った黒澤監督の『カラマーゾフの兄弟』理解の深さをも示唆していると思えた。 堀氏は結論の箇所で、ドストエフスキーから受け継いでいると思える黒澤明の「直視の姿勢」が「核」や「環境」への関心とも深く結びついていることを確認し、映画《生きものの記録》などの重要性にも言及した。 シナリオ『黒き死の仮面』についてはあまり知られていなかったこともあり、映画評論家リチーの映画《白痴》観についての鋭い質問が出たほかは、会場での質問は残念ながら少なかったが、緻密に構成された発表と視覚的でかつ具体的な配付資料により、分かりやすく知的刺激に富む発表だった。それはバルザックと黒澤明についてなどのさまざまな質問が飛び交って盛り上がった懇親会にも反映していたと思える。 事務局便り ○今回45回目の総会ですが、過去一年の運営責任体制は「広場」編集＝熊谷、例会会場設定＝福井、会計＝近藤・渡辺、例会報告者・ＮＬ作成等のコーディネイト＝木下・高橋を中心に進行してきました。年間6回、2か月に一回のペースでテンポよく例会を開催し、また年誌「広場」23号の刊行を実現できたのも、ひとえに協同の成果というべきでしょう。 ○「広場」23号は4月26日発送で、このＮＬと前後して、お手許に届くことと思います。7月の例会は23号の合評会の予定です。それまでにご読了の上、ふるってご参加ください。 ○第219回例会報告者の金洋鮮さんから、ＮＬ前号の「傍聴記」の筆者前島さんの記事にからんで、自分の正しい見解をブログで読んで欲しいとの要望がありましたので紹介します。アクセスはグーグルの検索「ドストエフスキー・コード」 URL・kimyanson.blogspot.jp） （木下） 事務局メールアドレス：tkino@chiba.email.ne.jp |
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報告者紹介：堀 伸雄（ほり のぶお） 1942年（昭和17）生まれ。日本ビクター㈱定年後、新興企業で上場準備、監査を担当。現在はフリー。「黒澤明研究会」会員。世田谷文学館「友の会」運営に参加。同「友の会」の講座で「黒澤映画と『核』」(2012)、「核を直視した四人の映画人たち」(2013)を担当。論文「試論・黒澤明の戦争観」「『野良犬』における悪」（黒澤明研究会会誌）など。資料・記録集「黒澤明
夢のあしあと」（黒澤明研究会編・共同通信社・1999年）の編纂に参加。 ニュースレター№121 2014――――――――2――――――――――――― 第220回例会報告要旨 黒澤明と「カラマーゾフの兄弟」に関する一考察 堀 伸雄 “創造は記憶である。”黒澤明が生前、随所で口にしていた言葉である。創造は、単なる瞬時の閃きや直感からではなく、倦まず弛まず蓄積してきた芸術的渉猟による記憶から生まれるとの信念を抱いていた。黒澤は、その記憶の引き出しから溢れ出るイマジネーションをシナリオとして書きなぐる。黒澤明の記憶の大きな分野を占めていたのが、ドストエフスキー、トルストイ、バルザック、シェイクスピアである。特に、こだわったのが『白痴』であり、苦闘の末に映像化した（1951公開）。国内での一般的な評価は、惨憺たるものがあったが、旧ソ連のグリゴーリー・Ｍ・コージンジェフ監督は、黒澤版『白痴』をもって、「古典を映画に再現した奇蹟である」と絶賛した。 然るに、黒澤明は、ドストエフスキーの最高傑作かつ生涯最後の作品となった『カラマーゾフの兄弟』については、『白痴』をはじめ、『罪と罰』、『虐げられた人々』、『死の家の記録』等の作品に比べ、なぜかあまり語っていない。例えば、「キネマ旬報」1977年4月上旬号の映画評論家・清水千代太との対談「黒澤明に訊く」や、1981年にＮＨＫ教育テレビで放映された「黒澤明のマイブック」、1993年の大島渚監督との対談「わが映画人生」等の中で、『白痴』やドストエフスキーに対する思いを、かなり詳述しているにもかかわらず、『カラマーゾフの兄弟』については、特に言及はしていない。2007年4月から京都の龍谷大学と黒澤プロダクションの共同監修により、インターネットに公開されている「黒澤デジタルアーカイブ」に掲載された膨大な黒澤の直筆ノート等を確認しても見当たらない。 その中にあって、『カラマーゾフの兄弟』について注目したい数少ない発言がある。1975年8月に「サンデー毎日」に掲載された小説家・森敦（1912～1989）との対談と、1993年発行のインタビュー集「黒澤明・宮崎駿・北野武～日本の三人の演出家」（ロッキング・オン）での発言である。前者では、「いま、ドストエフスキーのもので何かやるとすれば、『カラマーゾフの兄弟』ね。（中略）ドストエフスキーが書けなかったところを書いてみたいという気持ちはありますね」、後者では、「アリョーシャっていう神学校に行っている天使みたいな弟がいるでしょ？それもドストエフスキーのノートによるとそのアリョーシャは最後に妻（ママ）の暗殺を企てるんですよね。で、ラディカルな革命家になっていくんですよね。そういう予定だったみたいだけど、それはびっくりですよ。あの天使みたいな存在がね」と語っているのである。何れも、ドストエフスキーが生前に構想を抱いていたと思われる『カラマーゾフの兄弟』の「続編」に着目した発言である。黒澤明は、一体、どんなことを考えていたのだろうか。 アリョーシャが教会から俗界に出て、魂の遍歴を辿り変貌していくという最も神秘的な部分に黒澤明がこだわりを抱き続けていたという事実は、特に、黒澤の後期から晩年にかけて、新たな創作への萌芽や作風の変容を予感させ、さらには黒澤自身の人間観・宗教観を考えるうえでも、看過できないように思われる。 今回の報告では、そのような視点から、身勝手な深読みではないかとの批判を覚悟のうえで、特に『乱』（1985公開）とシナリオ『黒き死の仮面』（未映画化・1977）を ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№121 2014 仮説的に考察し、併せ、一黒澤映画ファンとして、黒澤明の生涯と黒澤作品から感じ取れるドストエフスキーの精神を語らせていただくこととする。 ― 参考文献：『全集黒澤明』（岩波書店1987～2002）所収のシナリオ（第３巻「白痴」「生きる」・第４巻「生きものの記録」・第６巻「乱」・最終巻「夢」「黒き死の仮面」）、『蝦蟇の油～自伝のようなもの』（黒澤明・岩波書店・1984）、『黒澤明 夢のあしあと』（黒澤明研究会・共同通信社・1999） 第219回例会傍聴記 金 洋鮮氏の「謎のトライアングル（スヴィドリガイロフの場合）」を聴いて 前島省吾 今回の報告は発表者自身が大胆な仮説と語ったようにドストエフスキーの作品と実人生との関係性に関する極めて斬新で独創的なもので、作品鑑賞の上でも自伝についての新知識吸収の上でも有益なものであった。氏はドストエフスキー文学の特徴は、「韜晦」と「虚実皮膜」であると語る。「ペトラシェフスキー事件」の悲惨な体験、つまり「ゴーゴリの手紙」の朗読ぐらいで何故これほどの過酷な運命を忍ばねばならなかったのかという思いと、同時に彼がスペシネフ等と一緒に抱いた心の秘密、皇帝暗殺の意図。後者は官憲の落度で追及されることを免れたが、「手紙朗読」の如き不当な罪でも当時の官憲は彼を一生シベリアに留めるつもりであった。ニコライ一世の死去が彼を救った。ドストエフスキーは、この「韜晦」の思いを文学に結実させずにはいられなかった。そして確立した表現方法が「虚実皮膜」だった。「韜晦」は謎の言葉となり、「虚実皮膜」は、「リアリテイの織巧（詐術）」となる。その結果、作品の登場人物は全てアンヴィヴァレントとなる。ラスコーリニコフは殺人者と英雄、スヴィドリガイロフは殺人者と救済者という両義性を持つことになる。 氏はこの「韜晦」と「虚実皮膜」がスヴィドリガイロフの人物像の中に、マルファー、ドーニャとの愛憎関係の中にどう表現されているかを「口臭」をキーワードとして解明しようとした。スヴィドリガイロフは黒い噂に包まれた男である。妻のマルファー毒殺の噂もある。だが氏は毒殺説を否定する。マルファーの強い「口臭」は糖尿病によるものと断定、「葡萄酒一本飲んで水浴したために脳溢血死した」というスヴィドリガイロフの話を信じ、その謎の死はドーニャとの三角関係を清算し夫をドーニャから決定的に遠ざけるための覚悟の自殺であったと語る。マルファーのスヴィドリガイロフへの「愛」を語る氏の語り口には穏やかな女性らしい誠実さがこもっていて説得力があり、会場の多くの人たちから賛同の声が寄せられた。 氏はスヴィドリガイロフとマルファーの愛にはドストエフスキーと妻マリアと恋人スースロヴァとの三角関係が映し出されていると観る。命を賭けたマルファーの恋を黙って見過ごすしかなかったスヴィドリガイロフは、重病の妻マリアを放置したままスースロヴァを求めてヨーロッパに向かったドストエフスキーそのものであると語るのである。 私の疑問： キーワード（謎の言葉）を読み解くことによって、小説の真の世界、真のストーリーが見えてくるという氏の考えには大賛成である。しかしドストエフス ニュースレター№121 2014 ――――――――4――――――――――――― キーの小説にキーワードは満天の星のように無数に存在する。スヴィドリガロフの場合、「噂」そのものが実体でありリアリテイを持っている。彼は「噂」に対峙して自己の潔白を証明しようとはしない。それどころか「噂」の中の人物について、その幻、幽霊について饒舌に語る。彼はその影に怯えつつ彼らと共に生きる。「田舎の風呂場みたいな煤だらけの小さな部屋でどこを見ても蜘蛛ばかりの永遠」。それが彼の人生であり彼の実体なのだ。彼は殺人者ラスコーリニコフと「同じ畑の苺」でもある。彼は生涯「愛」とは無縁で「無為と淫蕩の男」であった。４３才の借金漬けの男と４８歳の「口臭」の女との結婚、その後の７年間の「愛」の生活、それだけではスヴィドリガイロフという「イデー」は解明できないのではないか。スヴィドリガイロフが、「永遠の愛」を誓ったのはドーニャに対してだけである。ドーニャの為であればマルファーを切り殺すことも毒殺することも辞さなかった。そしてマルファーがルージンとドーニャの結婚を仕掛けた時、彼は「狂憤」を感じた。私にとっては、この「狂憤」もキーワード（謎の言葉）である。 （私は息子の友人のＨＰ Go Today お手軽文学散歩（休止中）に、文学を読まない若者の為の「罪と罰」の荒筋と「謎の言葉」の注釈を書いたことがあります。 http://www7a.biglobe.ne.jp/~skawashima/GoToday/COLUMN/LITERARY/LITERARY_17.html 会員の皆様にお見せできる代物ではなく極めて幼稚なものですが、ご一読願えれば幸いです。） 事務局便り ○「広場」23号の編集は、順調に進行中です。例年よりも原稿の集まり具合がよく、筆者の２回の校正を経て、現在、編集作業キャップの熊谷さんの手元で、最終チェックを行っています。このところ、４月中旬に完成、発送を行ってきましたが、今年は少し日程が早まるかもしれません。 ○例会の開催もこのところ２か月に１回のペースで快調に進んできました。例会開催には報告者の選定と会場確保の二つの問題がありますが、福井さんによる会場確保の努力が、ペースを引っ張ってくれた面があります。報告者の選定も運よくそれに対応してきましたが、いささか息切れの気配がないでもありません。今回も心配されましたが、幸いに高橋さんの紹介で、「黒澤明研究会」の堀さんにご登場いただくことができました。本会は文字通り開かれた会で、会員、非会員を問わず報告をお願いしていますが、とはいえ適切な報告者を選定することは、簡単ではありません。 ７月は昨年同様に、「広場」23号の合評会となるかと思われますが、５月、９月の例会あたりまで、もう見極めをつける必要に迫られています。 小林秀雄と黒沢明のドストエフスキー観の興味深い比較が高橋さんによって昨年の例会、また「広場」23号論文で提起され、それをめぐって、福井さんや私との間で論争の気配もあります。もし他に適切の報告者の登場がなければ、５月、９月と例会を、この問題の議論を深める機会にしたらどうかと考えています。ご意見を寄せていただけると有難いです。 （木下豊房）
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報告者紹介：金 洋鮮（きむ やんそん） 職業： フリー 大阪外国大学地域文化東欧博士前期過程終了、新潮新人賞評論部門、最終候補「三位一体のラスコーリニコフ」 ニュースレター№120 2014――――――――2――――――――――――― 第219回例会報告要旨 謎のトライアングル（スヴィドリガイロフの場合） きむ やんそん 芸術作品の粋を評価するうえで欠かせない「韜晦」と「虚実皮膜」、この最も重要なふたつの要素を極めた作家が、ドストエフスキーだと思う。言い換えれば、彼の作品ほど謎とリアリティに満ちた作品は古今東西ないのではないだろうか？ バフチンの「ドストエフスキーの詩学」によって、登場人物の対話がポリフォニックであることは、今やドストエフスキー読者にとって人口に膾炙したものとなっているが、言葉だけでなく人物そのものが多重であることを付け加えたい。 作家はピカソに先駆けて、人物を３６０度の視座から捉えるキュビズム手法を、逸早くその作品に取り入れた。 それゆえ一読ぐらいでは、画期的な描写により衝撃を受けたとしても、その内容の把握はおぼつかない。 『罪と罰』は、彼の全作品においてキュビズムが最も際立った作品で、登場人物の殆どが、キュビズムを把握しやすいアンビヴァレントで描かれているということを、最も謎とされているスヴィドリガイロフと彼の恋を通して確認したい。 スヴィドリガイロフは過去においては少女姦、下男殺し、そして現行では妻を毒殺した、その背後にどれほどの闇があるのか測りようのない真っ黒な人物として現れる。 が、キルポーチンが指摘したように（スヴィドリガイロフはどこにおいても一本調子で書かれていない、彼は、一見そうみるような黒一色の人物ではない［・・・］スヴィドリガイロフは悪党、淫蕩で、シニカルであるくせに小説全体にわたって数々の善行を行うが、それは他の作中人物たちをみんな合わせたよりも多いほどである。） また「スヴィドリガイロフこそ真の主人公」とミドルトン・マリが指摘する通り、「スヴィドリガイロフの方がラスコーリニコフよりも存在感がある」と感じる読者は結構いる。 清水孝純氏も彼のドーニャとの恋に「謎」を感じ、また（所詮彼の側からは、発動できない受身の求愛の形だったのです）と、従来とは違う新しい見解を述べている。 スヴィドリガイロフ側からすれば、〈私の気持は純粋そのものだったかもしれないし、それどころか、本気でふたりの幸福を築こうと思っていたかもしれませんものね！・・・私の受けた傷のほうがよほど大きかったようですよ！・・・〉と話が逆転する。 今回は反論を覚悟で、大胆な仮説を述べる。 ドストエフスキー作品には、森有正やモチュリスキーが述べたように、有に一大長編となるものが、一挿話として片付けられている。 一挿話を一大長編にするのも、ドストエフスキー作品を読む上での楽しみのひとつであろうし、それが整合性あるものであれば、聞くに耐えられるのでは・・・、このような思いで報告します。 ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№120 2014 第218回例会傍聴記 中本信幸氏の『ドストエフスキーとチェーホフ』を聴いて 木村敦夫 中本氏は、ドストエフスキー（1820-80）とチェーホフ（1860-1904）は、実際に同じ空気を吸っていた同時代人だと指摘する。文献的な証拠がないと研究の世界では事実として認められないが、最近の文学研究の場では文献証拠は必然でなく、想像力を以って考えることが主流になりつつある。チェーホフがドストエフスキーに関心を抱いた、興味をもった、という活字や文章による記述なり証拠なりは、実際には残されていない。だが、チェーホフのドストエフスキーへの関心の問題も、同様に想像力を以って考えてやることができるのではないかと中本氏は主張する。 チェーホフは、生まれ故郷タガンローグにいた少年時代から、ドストエフスキーの作品に慣れ親しんでいた。その文献的な数少ない証拠として、次のような例を挙げることができる。チェーホフの初期短編小説『謎の性格』（1883）にドストエフスキーの名前が登場する。また著名な戯曲『ワーニャおじさん』（成立年がはっきり分からない作品である）にもドストエフスキーへの言及がある。チェーホフは、ドストエフスキーに私淑していたと言える。彼はサハリン島に探索旅行に行くときもドストエフスキーの作品を読んでいる。 次に中本氏は、ドストエフスキーとチェーホフをテクスト・レヴェルで比較する。チェーホフは簡単だとよく言われるが、ロシア語テクストとしては、ドストエフスキーの文章の方がチェーホフの文章よりも単語、表現も簡明で分かりやすい。ドストエフスキーは雄弁家であり朗読も上手だった（自分の作品を朗読するのも、ひとの作品を朗読するのも）と言われている。チェーホフの場合には、彼が朗読を行った事実であるとか、朗読が上手だったとかという記述は残されていない。 「簡潔は才能の姉妹である」というチェーホフの言葉があるが、ドストエフスキーも、作家の技量は「彫琢して余分なものを削ることだ」（1864年12月14日プルコフスカヤ宛ての書簡）と同じような発言をしている。ドストエフスキーのロシア語テクストは、チェーホフのように込み入っていない、朗読してもらって、耳で聞いて「分かる」のである。1880年6月6日のプーシキン像除幕式でのドストエフスキーの講演は、素晴らしいものだった。そのみごとなプーシキン論は、『作家の日記』の1880年臨時号に掲載された。チェーホフはこれにも目を通していたことだろうが、チェーホフ自身はその事実を書き残していない。 日本では、ドストエフスキーは難しいと考えられているが、実態は、そうではないし、ドストエフスキーは身近な存在だと中本氏は言う。二葉亭四迷のように、ドストエフスキーの書いたテクストの句読点の一つ一つをも逃さず、注意しつつ、現代人に届けられる翻訳を心がけることが望ましい。それは時代の要請でもある。場合によっては、「言葉」は「言葉」として理解されるよりも、その「意味」が伝わればいいわけだから、大切な部分は、日本語に訳さずにロシア語のままカタカナで表記しておいてもいいのではないか、と中本氏は提唱する。芝居の台本も、台詞の中にロシア語をそのまま使ってもいいのではないか。人間の注意力というものは、対象を100%理解し尽くすということはあり得ない。イギリスでは、マイケル・フレインというチェーホフの翻訳者は、英語への翻訳の中で、ロシア語の発音そのままの「音」を、発音方法の解説も交えて、ロシア語の通りに発音さ せようとしている。例えば自分なら、ロシア語をそのまま台詞として役者に言わせて、その後で、日本語をかぶせればいいのではないかと思っている。意味として分かるよりも、 ニュースレター№120 2014 ――――――――4――――――――――――― 感覚として分かることを大切にしたい。解釈は観るひと聴くひとにまかせればいいのではないか、と中本氏は主張する。 ドストエフスキーの脚色作品はもっと上演されてしかるべきだ。脚色は、実際の作品に忠実になされるべきではあるが。ドストエフスキーの作品のなかでは、世界的にもそうであるが、脚色されるのは『罪と罰』が最も多い。ドストエフスキー本人が演劇好きな人であって、どの作品も劇化しやすい。小説を脚色すると、チェーホフの小説よりもドストエフスキーの小説の方が劇としていいものが出来るようだ。 ドストエフスキーには、通俗的で、一般のひとにもよく分かる話しが多く、けっして難しくない。ドストエフスキーの原作をもとに映画が作られたり（日本では黒澤明）、翻案されたりしている。チェーホフの側面からドストエフスキーをあぶり出していくと、チェーホフの方が大衆的だと一般には言われているが、ドストエフスキーの方がはるかに俗受けすると言える。表現、テクスト自体もそうなっている。ドストエフスキーの小説を読むと、ドストエフスキーは、難しいことはあまり言っていないと分かる。チェーホフも、ペダンチックなことはきらいである。チェーホフにも老獪なところがあったが、そういうところも、後世の私たちはメッセージとして受け取るべきだろうと思っている。 専門はロシア文学だが、演劇に造詣の深い中本氏らしく、講演はドストエフスキーとチェーホフという話題から演劇全般へと幅広く展開した。講演後の質疑応答でも活発に議論が展開した。チェーホフ自身はエネルギッシュな人だが、作品の登場人物が人生に倦んでいるのはなぜなのか、という質問が出された。木下会長が、「語り」の構造に着目することによって、それに答えた。チェーホフ作品の「語り手」は、チェーホフ自身とは異なる、というこの「語り」の構造は、ドストエフスキーに類似していて、この手法をチェーホフはドストエフスキーに学んだのではないか、というロシアのチェーホフ学者、エンマ・ポーロツカヤの説を紹介した。 別の聴講者から、現代ロシアの流行作家アクーニンの『かもめ』に関するコメントが出された。トレープレフは自殺したという解釈が通り相場だが、アクーニンは自身の『かもめ』で、トレープレフは周囲の、かつての恋人ニーナや母親のアルカーヂナや医師のドールンに「殺された」のではないか、というストーリーを展開した。そのような読み方は意外とチェーホフの本質をついているのではないか。中本氏は、ロシアの演出家スタニスラフスキーの、ストーリーが始まる前の登場人物の「前史」を読み解こうとする演出方法を紹介した。また、表面のテクストの後ろにあるサブ・テクストを読み解くことの重要性を指摘した。古典と呼ばれる作品をこのように時代に合わせて解釈を変えていくことは必要なのではないだろうか。既存の読み方・解釈とまったく異なるこのような新しい「読み」はドストエフスキーにも必要なのではないだろうか、という議論に展開した。 本講演後の質疑応答に触発されたディスカッションは1時間におよび、濃密な得がたい時を経験させていただいた。 事務局便り ○イギリスのドストエフスキー研究者で、日本での「謎解き」物の種本として大いに活用された研究書の著者リチャード・ピース氏の訃報が、先日ＩＤＳからもたらされました。２０００年の千葉大での国際会議にも参加し、高橋さんとは京都旅行もされた親日家だっただけに、大いに悔やまれます。 ○「広場」原稿の締め切りが間近です。執筆者には追い込みをお願いします。 （木下豊房） 事務局メールアドレス：tkino@chiba.email.ne.jp |
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報告者紹介：中本信幸（なかもと のぶゆき） 神奈川大学名誉教授。東京外語大ロシア語学科卒。専攻は、ロシア文学・演劇。2004年のチェーホフ没後百年記念委員会の運営委員長。演劇評論家。07年、日本の文化勲章に当たるロシア最高のプーシキンメダルを受賞。「チェ―ホフのなかの日本」「エカテリナ2世物語」などの 著書がある。 ニュースレター№119 2013――――――――2――――――――――――― 第218回例会報告要旨 ドストエフスキーとチェーホフ 中本信幸 ドストエフスキー（1821‐81）とチェーホフ（1860‐1904）は、同時代人である。両者は出会ったことはなかったが、チェーホフはドストエフスキーに深く馴染んでいた。 １）チェーホフは青年時代からドストエフスキーの作品に親しんでいた。 「わたしの生活はこんなにも豊富で、こんなにも複雑で、こんなに多彩で・・・・。でもそれにしても、わたしは不幸だわ！わたしはドストエフスキー好みの苦悩者ですわ・・・。わたしの心を世界の人に見せてやって、ヴォリデマール，この憐れな心を見せてやって！あなたは心理学者なんですもの。ここでこうして話し込んでまだ一時間とたたないうちに、わたしのことはもうすっかり、何から何までおわかりなんですもの！」（チェーホフ『謎の性格』1883、松下裕訳） 以上のように、チェーホフの初期作品にドストエフスキーの影響がうかがわれる。 チェーホフの多幕物戯曲のひとつ『ワーニャ伯父さん』から。 「一生を棒に振っちまった！ぼくだって才能もあるし、頭も冴えているし、勇気もあって・・・ まともな生き方をしていりゃ、ショーペンハウエルにも、ドストエフスキーにもなれたかもしれない！ぼくは、なんでこんな下らんことを！ぼくは頭にきている・・・ お母さん、ぼく、やけっぱちだ！お母さん！」と、ヴォイニツキーがぼやく（チェーホフ『ワーニャ伯父さん』第３幕、1899）。 ２）なぜか旧ソ連時代のロシアでは、「ドストエフスキーとチェーホフ」を扱った論考はあまり刊行されていなかった。しかし、１９７０年代から「ドストエフスキーとチェーホフ」を扱う論考が相次いで刊行されるようになる。 ベールキン著『ドストエフスキーを読む』（モスクワ、1973）、クレショフ『チェーホフとドストエフスキー』（『チェーホフ論叢ヤルタ』モスクワ、1978）、ミハイル・グロモフ『チェーホフとドストエフスキー：大いなる対立』（ミハイル・グロモフ『チェーホフに関する本』モスクワ、1989）、ゲオルギー・ベルドニコフ『チェーホフトドストエフスキー』（『ゲオルギー・ベルドニコフ選集２』モスクワ、1986）など。 ３）ドストエフスキーとチェーホフの多彩で豊饒な相関関係があぶりださ れた。その一端を紹介する。ドストエフスキーの『永遠の夫』（1869‐1870） ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№119 2013 の主人公の苗字はヴェリチャンニノフで、チェーホフの『中二階のある家』（1896）の女主人公たちはヴォルチャニノフ家の令嬢リージヤ・ヴォルチ ャニノワとその妹ジェーニャ・ヴォルチャニノワである。その他多くのドストエフスキーとチェーホフの相関関係にスポットを当てる。チェーホフの『サハリン島』（1895）、（短編『黒衣の僧』）（1893） 創作技法の点でも：ドストエフスキーのＡ・コルヴィン・クルコフスカヤ宛の手紙（1864年12月14日付け）は、作家の技量は「彫琢・余分のものを削ること」と強調している。これは、チェーホフの有名な箴言「簡潔は才能の姉妹」と照応する。 ――― 参考文献：『現代に生きるチェーホフ』（東洋書店、2004）、清水正『チーホフを読め』（鳥影社、2004）、Кулешов В.И. «Чехов и Достоевский:великое противостоние»（-Кулешов В.И . Чехов и Достовский. В
кн. Чеховские чтения в Ялте
Москва 1978）、Бердников Г.П. Чехов и Достоевский Вк. Бердников Г.П Избранные работы в
двух томах Т.2.-----М.1986、Михаил Громов
Книга о Чехове, М. 1989 . 第217回例会傍聴記 原口美早紀氏の「『白痴』を流れるキリスト教思想とは何か—ヨハネ福音書とヨハネ黙示録—」を聴いて 熊谷のぶよし 発表は、前半「『白痴』のイデーとヨハネ福音書」と後半「『白痴』の世界とヨハネ黙示録」の二部に別れた。ヨハネ福音書とヨハネ黙示録はヨハネ教団の思想を共有しており、そこには生の「饗宴」の感覚がある。この「饗宴」の感覚を『白痴』の登場人物たちの物語の中に見出していったのが今回の発表であった。 第一部冒頭で、「完全に美しい人」について述べた手紙に「ヨハネ福音書」への言及があることを指摘する。その福音書にある歓びの感覚を、ドストエフスキーは、死刑からの恩赦の時の決定的なイエス認識の瞬間の中で体験し、ムイシキンのキリスト性として壺割りの演説において再現したと原口さんは言う。 一方、無限の憐れみを持つムイシキン像は、死期の近いイッポリートや妻を亡くしたレーベジェフへの同情の欠如によって退けられる。彼の同情はナスターシャだけに向けられたものであり、その同情も、幼児期に虐待を受けた者同士の共感という経験の次元で理解される。こうしてムイシュキンのキリスト性はあえて言えば抽象的な「憐れみ」から生の体験に根ざした「歓喜」へと収斂される。 第一部の最後では、死んだナスターシャの足音としてのマテリアルな復活が論じられたが、ナスターシャの復活とは、足音をきっかけにしてムイシキンとロゴージンに よって為された、死せるナスターシャについての、生きている人のことを思い浮かべ る時の歓びに満ちた追想のことだと言いたいのだと私は思った。この追想が復活と呼 ニュースレター№119 2013 ――――――――4――――――――――――― ぶに値することは分かる。しかし、こうした他者の復活がどのようにして自己の復活に結び付くのかという根本的な疑問が常にある。 第二部では、ドストエフスキーの黙示観である終末的な「災いの歴史」から「天上のエルサレム」の理想への人類史的な移行のイメージが、レーベジェフとイッポリートの個人の物語の中に生きていることを見ていった。 レーベジェフの小説の中での変化は激しい。情報通の道化として登場し、妻の死を悲しみつつその復活の予感を持ち、イヴォルギン将軍を死に追いつめる殺人者でもある。「災いの歴史」を恐れつつ体現し、イヴォルギン将軍の妻ニーナ夫人によって悔い改め「復活」にいたる。このプロセスを原口さんは小説中に記述された「データ」によって説明する。この手法と着眼点は『黒澤明で「白痴」を読み解く』（高橋誠一郎）でおこなったレーベジェフの分析と重なり、かつ異なり興味深かった。 イッポリートの遺書「不可欠なる弁明」で述べられている「最後の信念」とは、朗読によって、皆が「何かのことで僕の赦しを請い、そして僕も皆の赦しを請う」場である饗宴を出現させることであり、イッポリートの真の魅力は、「黙示録的現実を生きながらも、饗宴の創出、太陽(生命)に自身のすべてを賭ける」ところにあると原口さんは語った。 イッポリートの朗読は自意識によって屈折しているが、「饗宴」のイデーには屈折がない。ドストエフスキーの作品では、読者はひとつの出来事から屈折した複数の意味を読み取る。我々は、ムイシキンの歓喜の演説が冷ややかな聴衆の前で行われ壺を割る醜態で終ったことを知っているし、レーベジェフの復活もマルメラードフの改心と同じようになし崩しになると想像できる。こうした多義性が作品のリアリティーとなっていることは間違いない。 それにもかかわらず、「饗宴」に着目する原口さんの発表に説得力があったのは、小説上の事実によって主人公達の内面を緻密に洞察し、屈折を経る前の内面の希求として「饗宴」を見出したからだ。 「饗宴」とは人々の共感の場であるはずだが、『白痴』では「饗宴」はまだ独りよがりな高揚として生きられ、そのことによって他者に拒否され内面に閉じ込められている。それを取り出して魅力であるとする原口さんの今回の発表に、私は強く力づけられた。 事務局便り ○今回の例会には、会外から、チェーホフを中心とするロシア演劇の紹介者として有名な、中本信幸氏にご報告をお願いすることができました。興味深いテーマでのお話です。 ○10月19日に高橋、福井、熊谷、木下の4人が集まり、「広場」23号の編集会議を起ち上げました。例会発表者を中心とする5本の論文のほかに、エッセイ、書評などの候補を決めました。なおエッセイの執筆希望者は申し出てください。原稿の締め切りは年内、12月末日としますが、遅延の場合は1月20日が最終締切日となります。 執筆要領は昨年と変わりなく、会員に限り、報告論文は400字15枚、寄稿論文は10枚、エッセイは5枚まで、会負担とします。それより枚数超過の場合は400字につき400円の執筆者負担ですが、この単価で負担額を割った部数が執筆者に還元されます。 （木下豊房）
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.118 News Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky Society 2013.8.20 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：原口美早紀（はらぐち みさき） 東京大学大学院博士課程在学。総合文化研究科地域文化研究ロシア東欧科専攻。専門は文学、聖書学。研究課題は宗教と芸術（文学、美術）の関係について等。執筆論文は「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ『星月夜』におけるキリスト教思想」（２００９）、「『白痴』におけるキリスト教思想—ヨハネ福音書とヨハネ黙示録—」（２０１３）。 ニュースレター№118 2013――――――――2――――――――――――― 第217回例会報告要旨 『白痴』を流れるキリスト教思想とは何か—ヨハネ福音書とヨハネ黙示録— 原口美早紀 本報告は『白痴』におけるキリスト教思想について、物語の主題と関わる「ヨハネ福音書」と、大量の引用がなされる「ヨハネ黙示録」から考察した修士論文に基づく発表である。 １，『白痴』とヨハネ福音書 ドストエフスキイのキリスト教思想はヨハネ福音書に多く依っている。『白痴』の主人公であるムイシキン公爵は「キリスト」を描くという構想のもと、創造された人物であるが、ドストエフスキイはその際に「ヨハネ福音書全体がこの意味なのです」と、それが「ヨハネ福音書」の「キリスト」であることも伝えている。 それゆえドストエフスキイの描く「キリスト」とは、何よりもまずヨハネ福音書と作家自身の体験との重なりから考察されるべきである。そしてその決定的な体験とは、『白痴』にも描かれている死刑からの恩赦体験である。ドストエフスキイは、恩赦の瞬間に「キリスト」を見出し、また「人生は贈り物」であるという喜びを感じたと手紙に記している。この「キリスト」は、他の共観福音書とは異なる特徴を持つ、ヨハネ福音書に描かれる喜びのイエス像と繋がって来る。それゆえ「キリスト」ムイシキンもまた、「喜びの福音を伝える者」としての要素が大きいと考えられる。ムイシキンが死刑体験について繰り返し語るのも、その喜びを知るための前提条件だからだ。このようにムイシキン像を捉えると、彼の「キリスト」としての姿は、第四部七編のエパンチン家の夜会において、人生の喜びを伝える姿にこそあると考えられる。 しばしば先行研究で説明される「憐れみ」というキリスト教概念も、『白痴』において重要であるが、実はムイシキンが進行形の物語で直接的に「憐れみ」を表す相手は、ナスターシャだけである。逆を言えば、ムイシキンは、一ヶ月前に妻を亡くしたレーベジェフにも、余命が一ヶ月しか無いイッポリートにも、「憐れみ」を見せることは無く、彼らの悲しみには、驚くべき事に無関心である。ではなぜムイシキンはナスターシャだけを憐れむのだろうか？ テクストをよく読めば、ムイシキンは「七歳」で両親を亡くし、パブリーシチェフによって引き取られ、預けられた先では鞭を振るわれ、虐待のような行為さえされていた過去を持つ人物である事が分かる。実は、偶然にも、ムイシキンと同じ「七歳」で両親を亡くし、引き取られた先で不幸な思いをした登場人物がもう一人居る。ナスターシャである。ムイシキンはナスターシャの痛みが理解出来る。なぜなら全く同じ過去があるからである。だからこそ憐れみ、共感することが出来る。ここにドストエフスキイの、キリスト教思想を単なる象徴では無く、ドラマの内に生かす手腕が発揮されている。 また「復活」というテーマに関しては、「唯物論者」ムイシキンに相応しい「復活」として、第四部十一章の「足音」の場面が相当する。しかし、より福音書において弟子達に臨んだイエスの復活と重ねるのであれば、それは「足音」にはじまるムイシキンとロゴージンの「カード」と「音楽会」について口走る会話の中に見いだせる。彼等の心の中に突如浮かび上がってきた、それぞれにとって最も美しい生前のナスターシャの顕現こそ、弟子の心に浮かび上がってきたイエスの顕現との重ねて読めるのではないか。 ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№118 2013 ２，ヨハネ黙示録 また『白痴』に多く引用されるヨハネ黙示録は、目の前の現実を「サタン」の支配する「災いの歴史」と見なし、そこから「神」の支配する「天上のエルサレム」の道を探る、というドストエフスキイの黙示観に沿って理解すべきである。 ドストエフスキイの黙示観の、最も具体的な担い手は、レーベジェフである。彼もまた、神の義に裏切り続けられる目の前の現実世界を、「災いの歴史」と見なし、それを黙示録に重ねて強く弾劾する。だがレーベジェフは誰よりも「天上のエルサレム」の到来、神の赦しを待ち望み、信じている人物でもある。彼の現実への弾劾は、一ヶ月前の妻の死や、イッポリートの反逆の理論の中で次第に強まり、ついにはイヴォルギン将軍を死に至らす行為に出る。だがその果てに、レーベジェフは神の裁きと神の赦し（ニーナ夫人）を見出し、確固たる神への信頼を抱くように変化している。黙示録を土台にした『白痴』のドラマは、物語の深層で、なによりもまずレーベジェフにおいて、神と悪魔をめぐる聖史劇として描き込まれている。 またイッポリートも、黙示録に描かれるような「死」からの「復活」を強く望むという、黙示録的磁場を生きる登場人物である。彼は不条理な死に対して「否」を唱え、神への反逆として自殺を試みるという理論を、「我が不可欠なる弁明」で朗読するが、イッポリートの本当の信念は、地上に「饗宴」をもたらすこと、人々の善行の種になることであった。その最期の機会として「弁明」の朗読はされたのであり、イッポリートは「死」の世界に「太陽」の調べが響き渡ることを切実に願い、それに生命さえ賭けることの出来る「プロ」の人物である。彼のドラマもまた、「死」の現実から、天上の「生命」へという、黙示録的な土台に沿って描かれている。 このように『白痴』は、ロシアの現実世界を舞台にしながらも、具体的かつ近代的に、キリスト教思想が生きている作品である。『白痴』に生きるキリスト教思想が、新約聖書のヨハネ福音書とヨハネ黙示録の二つによって支えられているのは、どちらの書物も「饗宴」の世界について記しているからである。ヨハネ福音書で描かれた「饗宴」を、黙示録の磁場を生きる者達が「天上のエルサレム」として求めていく。このような「饗宴」を求める者たちのドラマのうちに『白痴』におけるキリスト教思想は生きているのではないか。 第216回例会傍聴記 「広場22号」合評会傍聴記 堤 崇弘（編） 各論評の要約を掲げます。特に断りのないものは論評者自身による要約です。 熊谷論文（近藤靖宏氏） － 『詩と散文からなるペテルブルグの夢』の失恋体験の箇所はドスト氏自身の身に起きた出来事が反映されており、ドスト氏の作風がいかに確立したかを示す。ここに現れる夢想する他者を夢想する人物は他者を描くことを志向する作者に、夢想に現れる人物を操っている人物は作中作家の存在に対応する。全知でない作者設定は自己言及のパラドックスを緩和させ、他者をよりリアルに描くことに適している。これが本論文の要旨だろう。特に人物の語る出来事が時系列順に再構成されているところ、夢想家が幻想的な風景を目撃し現実に立ち返ったという逆転の発想に注目したい。 金沢論文（高橋誠一郎氏） － 斬新な視点かつ説得力のある手法で「コジマ・プルトコフ」という架空のユーモア作家の作品と生涯を明らかにしており、雑誌《ズボスカール》との対比も興味深い。ことにこの作家の作品に言及した『ステパンチコヴォ村とその住民達』の手法は『白痴』においても用いられており、ドストエフスキーの方法の一端を ニュースレター№118 2013 ――――――――4――――――――――――― も明らかにしていると思われる。 桜井論文（西川直子氏、要約：堤） － 大衆紙の性格からか、日本でも知られたステレオタイプの見方が多いことに驚いた。トルストイ、チェーホフとの比較があると面白かった。データを元に何を研究されようとしているのか、ご本人にきいてみたい。 木下論文（福井勝也氏） － 二葉亭以来の日本におけるドストエフスキー受容、その「作家像」の変遷を辿るもので圧巻。しかしその「作家像」を論ずる視点が商業主義・マスメディアによる問題に傾き、その内実に迫る切り口にやや違和感を覚えた。そこで別の観点から、それは本会を創始した頃の故新谷敬三郎氏並びに木下氏ご自身の業績辺りに着目し、その時期（「ポストモダン」）以降の「作家像の変遷」として論じてみた。そしてこの観点は、今年没後30年の小林秀雄のドストエフスキーと交差するものだと思う。なおこの内容については、既発表の拙論「日本のドストエフスキー」及び「古今東西のドストエフスキー 日本編」（アンソロジー）（『現代思想』2010.4、総特集=ドストエフスキー 所収）を併せて参照していただければと思う。 山本論文（熊谷のぶよし氏） － キリストの唯一無二の存在としての美しさは、もし「完全に美しい人間」が文学で描けるならば失われることにならないか、という背理を『白痴』が持っていることに気づかされた。やさしい言葉遣いの中で、見慣れた引用と要約が新鮮な意味と繋がりをもち、ムイシュキンの限界が語られていく。 川崎論文（木下豊房氏） － ドストエフスキーのリアリズムの深さ、独自性は19世紀の同時代に おいては必ずしも理解されず。20世紀に入って象徴主義やフォルマリズムの流れのなかで、再発見された。これは美術史上で、印象主義や表現主義などによって、描写対象に対する１9世紀写実主義からの視点の転換がなされたのとパラレルである。この物を見る目という本質的な問題を『白痴』のアデライーダの絵の題材への迷いに見て 取り、背後に作家のリアリズム観の存在を指摘した川崎氏の慧眼を評価したい。これはもっと大きな論文の枠で論じるに価するテーマである 清水論文（冷牟田幸子氏、当日欠席、高橋氏が代読・要約） － ロレンスの「大審問官」論を紹介して清水氏は「結局ロレンスはロレンスという作家独特の視点から、この劇詩のもつ輻輳した問題性を引き出し、展開して示した」と批判している。私も同感でロレンスの「大審問官」論はロレンスを理解するのには役立っても、ドストエフスキー理解の一助になるとは思えない。なぜならば、ロレンスは独断的な解釈で作品を大胆に歪曲し、自論を展開しているからである。 事務局便り ○第15回国際ドストエフスキー・シンポジュウムは7月8－14日、モスクワのソルジニツィン記念在外ロシア人会館で開かれ、世界の140人余りの研究者が成果を報告しました。日本からは清水孝純、望月哲男、木寺律子、木下豊房の4人の参加にとどまりました。日本のマスメディアでのブームを演出がいかに村社会的な現象であるかを思わせることでもありました。3年後、2016年の第16回シンポジュウムはスペインのグラナダで開かれます。国際ドストエフスキー学会（IDS）の新会長にV・ザハーロフ氏が選ばれました。IDSの動きについては、今後もこのNLやホームページで、即刻お知らせし、公開してまいります。そうした情報連絡の日本代表コージネーターとして、高橋誠一郎氏に新たにお願いすることになりました。 （木下豊房）
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.117 News Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky Society 2013.6.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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ニュースレターNo.117 2013――――――――2――――――――――――― 第215回例会傍聴記 大木昭男氏の「ドストエーフスキイとラスプーチン――中編小説 『火事』のラストシーンの解釈」を聴いて 高橋誠一郎 今回の発表は、イタリアの国際的文学賞を受賞した短編などを収録した作家ラスプーチンの短編集『病院にて――ソ連崩壊後の短編集』〈群像社〉の翻訳を公刊したばかりの大木氏の発表であった。 ラスプーチンとは個人的にも旧知の間柄である大木氏は、波乱にとんだ作家の人生を略年譜で分かりやすく説明しながら、中編小説『火事』のラストシーンでの「永遠に姿を消してしまう」という描写の謎に鋭く迫った。ことに、宮沢俊一訳を踏まえて新らしく訳出した最終章の朗読は、重厚で深い陰影と示唆に富む文体をとおして、ラスプーチン自身の生の声を聞くような感さえあり、聴衆の深い共感を呼んで『火事』全体を大木訳で読んで見たいという感想も出たほどであった。 そして、正教における「復活」の重要性を強調した氏は、ラスプーチンも洗礼を受けて正教徒となっていることに注意を促して、『火事』の主人公と『カラマーゾフの兄弟』の「ガリラヤのカナ」におけるアリョーシャの体験の描写との類似性を指摘した。さらに、大木氏はドストエフスキーが１８６４年のメモで人類の発展を、１，族長制の時代、２，過渡期的状態の文明の時代、３，最終段階のキリスト教の時代の三段階に分類していたことを指摘し、『火事』とドストエフスキーの『おかしな人間』の構造を比較することで、その共通のテーマが「己自らの如く他を愛せよ」という認識と「新しい生」への出発というにあると述べた。 特に私が関心を持ったのは、『白痴』における「サストラダーニエ（共苦）」という用語や「美は世界を救う」というテーマの重要性を強調した氏が、ムィシキンを「シベリアから還った」とする小林秀雄の解釈には無理があり、むしろ未来の「キリスト教の時代」から来たと言うほうが適切だろうと批判した点である。 たしかに、芦川進一氏が指摘するように「『白痴』Ⅱ」に記された「聖書には、生きる事に関する、強い素朴な一種異様な畏敬の念が一貫し ――――――――――――3――――――――ニュースレターNo.117 2013 ていて、これが十字架のキリストに至って極まっている様に見える」という文章は名文で心に深く残る。しかし、第３章に記されたこの文章は、第９章の「『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかった。来たものは文字通りの破局であって、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」という文章へと続いているのである。小林秀雄のムィシキン観の問題は、今後の詳しい検討の課題といえるだろう。 「農村」の重要性を訴えた作家の視点に対しては、果たしてこのような価値が現代において意味を持ちうるのかという鋭い質問も出されたが、「原発などによるすさまじい環境破壊」で「人類が危機的状況」にある一方で、夢物語のように思われていた自然エネルギーは、科学の発展によって可能性を増大させている。ドストエフスキーが唱えた「大地（土壌）主義」とその問題意識を現代に受けついでいる作家ラスプーチンとその作品の意味はきわめて大きいと思える。 事務局だより ○ 第44回総会は、5月18日（土）の215回例会に先立ち、午後5時30分 から開かれました。議事の中心は活動報告、会計報告で、活動報告の要点は『広場』22号に掲載、会計報告は次頁に掲載しましたので、ご覧ください。 ○ 「会運営・「広場」編集の態勢は、発足時からの会の持ち味で、動ける人が 全体のバランスを重視しながら動くというスタイルをとっています」というのが昨年の「事務局だより」の記事ですが、過去1年もそれに変わりなく、メーリングリストで連絡をとりながら、合議して活動してきました。現在メーリングリストのメンバーは10人で、2012年度の実務分担は次の通りでした。木下豊房（コージネート、ＮＬ作成、ホームページ管理）、高橋誠一郎（コージネート、会計監査）、熊谷のぶよし（「広場」編集チーフ）、近藤靖宏(会計、「広場」編集)、福井勝也（会場確保・編集）、渡辺好明（会計補佐）、堤崇弘（メーリングリスト管理）、木寺律子（編集校正協力）。2013年度もこの態勢の延長上に、新たなメンバーの戦力を加えていくことになるでしょう。 ○ 1971年より3年毎に各国で開催されて35年の歴史を持つ第15回国際ドス トエフスキー・シンポジュウムが、はじめて作家の母国のモスクワで開催されます。会場はタガンカ劇場近くの「ソルジェニツイン記念在外ロシア会館」で、会期は7月8日～14日、世界の研究者の140本ほどの報告が予定されています。プログラムをＨＰに掲載しましたので、表紙の下段のメニューをクリックして見てください。日本からは鈴木淳一・Ｖ．ジダーノフ，望月哲男、木寺律子、清水孝純、 木下豊房の6名の発表が予定されています。近年、ドストエフスキーブームで鳴らした人達の名前が見えないのはどうしたことでしょうか。私（木下）個人は５ ニュースレターNo.117 2013 ――――――――４―――――――――――― 月中旬に歩行障害で脊椎の手術をして、目下リハビリ中なので、旅行に踏み切れ るかどうか、間際まで不確定の要素がありますが、一応、準備を進めています。 （木下豊房） 事務局アドレス：tkino@chiba.email.ne.jp 平成24年度 収支計算書 （平成24年5月6日〜平成25年5月5日） 会計 近藤靖宏 監査 高橋誠一郎
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.116 News Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky Society 2013.4.15 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：大木昭男（おおき てるお） 桜美林大学名誉教授。世界文学会運営委員長。日本比較文学会、日本ロシア文学会などの会員。主な著書に「現代ロシアの文学と社会」（中央大学出版部）、共編著として「民族・宗教と世界文学」（創樹社）、「漱石と「露西亜の小説」」（東洋書店）など。近刊訳書としてラスプーチンの短編集「病院にて」（群像社）などがある。 ニュースレター№116 2013――――――――2――――――――――――― 第215回例会報告要旨 ドストエーフスキイとラスプーチン──中編小説『火事』のラストシーンの解釈 大 木 昭 男 現代のロシア人作家ワレンチン・ラスプーチン（1937年生まれのシベリア出身作家）の中編小説『火事』（1985年）は、旧ソ連社会の否定的側面を告発した小説として問題作となり、ゴルバチョフのペレストロイカ政策が追い風となって二度目の国家賞受賞作となった作品である。ラスプーチンは1986年の夏、来日して「ソビエト作家歓送迎会」の席上で、19世紀ロシア文学の作家で、特に影響を受けた作家は誰かという質問に答えて、次のような発言をしている。 「私はここ10年間ドストエフスキーを何回も読み返しています。非常にドストエフスキーが好きです。けれども10年間ドストエフスキーを読んでいるからと言って、トルストイやチェーホフやゴーゴリが好きでないということではありません。つまり、ドストエフスキーは私にとってどういう作家であるかと言えば、気持ちの上で一番近い存在であり、精神的にもっとも影響を受けた作家であるという答えが一番正しい答えになるとおもいます。」（日ソ著作権センター「ソ連出版文化通信」1986年第9号） 本報告では、ラスプーチンの中編『火事』の幻想的ラストシーンに焦点をあててドストエーフスキイの影響について考えてみたい。 中編『火事』は、内容からして前作『マチョーラとの別れ』（1976）の続編とも言うべき作品になっている。すなわち、アンガラ川の中州の島マチョーラが水力発電所建設計画で水没することになり、そこから強制移住させられた住民たちのその後の運命が描かれている。マチョーラでは300年来農業が営まれてきたが、移住先の土地は北側斜面の農業不適地で、住民たちは農業から林業に変更を余儀なくされる。新しい集落ソスノーフカで主人公イワン・ペトローヴィチは、林業コルホーズのトラック運転士としてすでに20年間勤勉に働いてきた。彼は「戦争と勤労の英雄」でもあり、ソ連社会における模範的な人物である。ところが最近4年間の内にこの集落の中が殺伐とした雰囲気となってきて、数々の犯罪行為が徐々に習慣となってくる。たまりかねた主人公は、「黙ってきた自分を激しく責めた挙句、黙っていられなくなって、集会の席で立ち上がり、伐採現場で何が行われているか、下の貯木場や自動車管理部や商店で何が行われているかを公然と言った」。 ところがその後、主人公に対する土地っ子からの脅迫とイヤガラセが始まる。主人公は社会主義競争の勝利者の重荷を背負って、これらすべてに耐え忍んできたが、この一年ですっかり気力をなくしてしまった。「ムショ帰り作業班」が来て、腰を据えたからだ。貯木場にこの無法者連中が配属されてからというもの、主人公は「仕事に出かけるのが、まるで苦役に行くみたいになってしまった」のである。命の危険にさらされるほどの悪質ないやがらせを度々受けたために心身ともに疲れ果てて、この集落を出ることにしか救いを見出せなくなる。林業コルホーズ集落の物資調達部倉庫で発生した火事は、主人公がそのような疲労困憊の極に達していたときに起きたのだった。 3月の夜、燃え盛る火事は、故郷を喪失した人々の精神的荒廃を、赤裸々に照らし出す。主人公イワン・ペトローヴィチが目撃したのは、「ムショ帰り」の男たちをはじめとする住民たちの倉庫からの略奪行為であり、それを阻止しようとした正義漢に対する殺人であ った。すべてが終わったあと、退職届を出した主人公は、妻の言うようにハバロフスクで ―――――――――――3――――――――――――ニュースレター№116 2013 いい暮らしをしている息子夫婦のところへ行きたい気もしたが、そうであってはいけないと自らに言い聞かせる。同じ村出身の同僚に「行く先はどうなんだ？」と尋ねられた主人公は、「穀物だよ。耕して、種蒔きして、それから刈り入れだ。村での暮らし、憶えてるか？」と答える。問題はこのあとの謎めいたラストシーンである。 主人公は集落からひとりで去り、いずこともなくずっと歩きに歩き続ける。「彼には自分の中から、与えられた孤独の中へますます遠くへ遠くへめりこみ、入り込みながら歩いているように思われたのであった。しかもそれは彼と並んでいる者が誰一人としていなかったという孤独として感じられていたからだけでなく、さらに、彼が自分の中に空虚と単調さを感じていたからでもあった。」「あたかも彼が偶然にも自分の歩みをも嘆息をも探し当てたかのように、そしてあたかも遂に自分が正しい道へ運び出されたかのように、彼は軽やかに、自由に、穏やかに歩けたのだった。樹脂の匂いがしていたが、この匂いを感じたのは、孤独の中にいる人間ではなく、別な何かであり、樹脂の香とひとつに合体した何かなのだ。啄木鳥が乾いた木をコツコツ突いていたが、それを突いていたのは啄木鳥ではなく、心臓が何かに感謝してせわしなく応答していたのだ。彼は自分を遠くから遠くに見ていた。自分の家を見出すことに絶望して道に迷った小さな人間が春の大地を歩いている。そしてほら、彼は今小さな林の陰に回り、永遠に姿を消してしまうのだ」 主人公のめざしているのは、「耕して、種蒔きして、刈り入れする」かつての農業生活であろうことが予想できる。だが、主人公が「永遠に姿を消してしまう」という言葉が気にかかる。それは主人公の孤独な死さえ想わせる。これをいかに解釈すべきかというのがわたしの問題意識なのである。「遠くから遠くに自分を見ていた」とはどういうことなのか？それは果たしてぺシミスティックな結末なのか、オプティミスティックな結末なのか？ この謎を解く鍵として、ドストエーフスキイを援用したい。ひとつは『カラマーゾフの兄弟』第三部第７編第４節「ガリラヤのカナ」におけるアリョーシャの「他界との接触」という神秘的体験をアナロジーとして。もうひとつは、ドストエーフスキイの「社会主義とキリスト教」と題するメモに記されている人類史観を。推論を提起してご批判を仰ぎたい。 第214回例会傍聴記 高橋誠一郎氏の「テキストからの逃走―小林秀雄の「『白痴』についてⅠ」を中心に」を聴いて 木下豊房 私はこのところ関心事である「商業出版・マスメディアにおける作家像」のテーマと関連して、小林秀雄のドストエフスキー作家像の解読の意義を、考えているところだった。そこに、高橋氏により、『白痴』の主人公ムイシュキンの人物像に関連する形で、小林の解釈と対立するものとして、黒澤明による作家像の解釈が提示された。それは、私には、大変興味深く、刺激的で、また示唆的であった。問題の核心は、報告要旨にも提示されているように、「ムイシュキンはスイスから還ったのではない、シベリヤから還ったのである」という小林のとらえかたに集約される。 読者が作品自体を無前提で読んだ時、小林の言を鵜呑みできないことはいうまでもない。でないと、高橋氏が指摘するように、スイスでのマリーのエピソードの意味、そのヴァリエーションとも言うべきムイシュキンのナスターシャに対する「憐憫・同情」のテーマは消えてしまうだろう。そうすると、この理念のエッセンスを映像化した黒澤のムイシュキン像も浮かびあがってこないだろう。かねてより、ドストエフスキー作品の「同情・憐憫 （サストラダーニエ）」のテーマに関心を寄せていた私には、黒澤によるこのテーマの見 ニュースレター№116 2013 ――――――――4――――――――――――― 事な映像化は、日本人の読みの深さの代表であり、であればこそロシアの研究者達が世界のドストエフスキー作品映画化の最高位に評価する理由も頷けるものだった。 とはいえムイシュキンに体現された「肯定的に（パラジテリノ）美しい人間」という基本理念の表現は、実はこの主人公像の半面に過ぎないといえる。ムイシュキンは救済者の理念に導かれながらも、他の反面では、ナスターシャ、ロゴージン、アグラーヤの運命を狂わす悲劇的な皮肉な役回りを演じざるをえなかったからである。 芦川進一氏の最近著『ゴルゴダへの道』で知ったのだが、小林は河上徹太郎との対談で、『白痴』を論じると「頭が出来ない、トルソになってしまう」「既に頭は『罪と罰』にあることがはっきりしてしまった」とのべている。『罪と罰』を通して『白痴』を位置づけようとするのが、ムイシュキンは「シベリヤから還った」とする小林の読みの基本であり、「ソーニャに導かれての」ラスコリニコフのシベリアでの「聖書熟読の体験」が「キリスト公爵」＝ムイシュキンに受け継がれたとする芦川氏の説が出てくる所以でもある。 そういう読み方が許容されるとすれば、ラスコリニコフがシベリアで悔悟の理由を見出さなかったというエピローグの叙述（これは主人公の意識を写したものにすぎない）を小林が重要視していると指摘したうえで、背景に、戦時下の日本社会の自己正当化の意識への迎合があったとする高橋氏の説は、あまりに短絡的に思える。 小林秀雄は昭和10年前後、シェストフ論争の頃から、ドストエフスキーの実人生と作品、作者と作中人物の関係について、自然主義的、私小説的解釈を厳しく批判し、作者の視点と人物像を峻別してきた。ナスターシャのサド・マゾ的意識をめぐって、亀山郁夫の『白痴』論と小林のそれが直結しているとの高橋氏の指摘も、フロイド的ドストエフスキー解釈に批判的だった小林には当たらない。 報告では批評家小林秀雄が黒澤の映画『白痴』を無視してきた不自然さも指摘された。確かに小林には黒沢と対照的に、ムイシュキンのネガティブの面を強調している印象は強い。しかしそれは「トルソ」の部分だからであり、小林によるドストエフスキーのリアリズムの本質の洞察と無関係ではない。小林にとって「頭」の部分とは「肉化を迫られた精神」であり、「観察されて描きだされた人物」ではなかった。 『白痴』の読解において、黒澤の翼と小林の翼を対立させるのではなく、両者を統一的に把握する視点の獲得こそ必要ではないだろうか。同時代に存在したこの読みの両翼は日本人による読解の幅の広さと深さを示唆するものとはいえないか。ムイシュキンにおける理念・精神の肉化ともいうべき同情・憐憫（サストラダーニエ）」の実践が、時空間において客体化され、過去化された時に避けられない退落について、私は過去の拙論で触れてきた。黒澤・小林による読解の両翼はおそらくこの論脈で捉えなおすことができはしないかという気がしている。いずれにせよ小林秀雄のドストエフスキー読解の問題は、さらに例会でとりあげて掘り下げるに価するテーマであろうかと思う。 事務局便り ○今回45回目の総会ですが、過去一年の運営責任体制は「広場」編集＝熊谷、例会会場設定＝福井、会計＝近藤・渡辺、例会報告者・ＮＬ作成等のコーディネイト＝木下を中心に進めてきました。またその他の運営委員の方にも折にふれて多大な協力をいただきました。これからは高橋氏にもコーディネーターとして参加してもらい、戦力が強化されます。2013年度もこの陣容が引き継がれる見込みです。 ○「広場」22号はお手許に届いていることと思います。7月の例会は22号の合評会の予定です。それまでにご読了の上、ふるってご参加ください。 事務局メールアドレス：tkino@chiba.email.ne.jp （木下） |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.115 News Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky Society 2013.2.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：高橋誠一郎 東海大学外国語教育センター教授。日本比較文学会、比較文明学会、黒澤明研究会、日本ペンクラブなどの会員。おもな著書に『黒澤明で「白痴」を読み解く』（成文社）、『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』（成文社）、『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』（刀水書房）、『「罪と罰」を読む（新版）』（刀水書房）、編著に『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』（リチャード・ピース著、池田和彦訳、のべる出版企画）などがある。 ニュースレター№115 2013――――――――2――――――――――――― 第214回例会報告要旨 テキストからの逃走――小林秀雄の「『白痴』についてⅠ」を中心に 高橋誠一郎 作家の坂口安吾が、戦後間もない１９４７年に著した「教祖の文学 ―小林秀雄論」で、「思うに、小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と書き、小林秀雄が「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったと厳しく批判したことはよく知られている（『坂口安吾全集』第５巻）、筑摩書房、１９９８年、２３９～２４３頁）。 しかし、小林秀雄とも同人誌『文科』の同人でリアリズムの重要性を認識していた坂口は、この評論において「日本は小林の方法を学んで小林と一緒に育つて、近頃ではあべこべに先生の欠点が鼻につくやうになつたけれども、実は小林の欠点が分るやうになつたのも小林の方法を学んだせゐだといふことを、彼の果した文学上の偉大な役割を忘れてはならない」とも記していた（同上、２３２～２３３頁）。 実際、『永遠の良人』論や「『未成年』の独創性について」（１９３３）などの初期の論考には凝縮されたともいえるドストエフスキー作品に独特な時間の認識や「告白体」の深い考察などがあり、また『カラマアゾフの兄弟』論（１９４１）でも「この最後の作も、まさしく行くところまで行つてゐる。完全な形式が、続編を拒絶してゐる」との適確な指摘がなされている。（『小林秀雄全集』第６巻、新潮社、１９６７年、１７０頁。以下、全集からの引用に際しては旧漢字を新漢字になおすとともに、本文中の括弧内に頁数をアラビア数字で示した）。このように小林秀雄の評論にはきわめて深いドストエフスキー作品の理解が見られ、現在の私たちが学ぶべき点も多い。 ただ、すでに「『罪と罰』についてⅠ」（１９３４）には、『地下室の手記』の主人公の言説とドストエフスキー自身とを結び付けることで、ドストエフスキーが前期の作品と訣別しそれまでの「理性と良識」を捨てたと主張したシェストフの『悲劇の哲学』からの強い影響が見られるように思える。 たとえば、「第六章と終章とは、半分は読者の為に書かれたのである」と書いた小林は〔５３〕、この評論の終わりで「ドストエフスキイは遂にラスコオリニコフ的憂愁を逃れ得ただらうか」と読者に問いかけていた〔６３〕。そして小林は、『罪と罰』の終りで「作者が復活の曙光とよんでゐるものは、恐らく僕等が一般に理解してゐる復活、即ち精神上の或は生活上のどういふ革新にも縁のないものだ」とラスコーリニコフの「悔悟」を否定し、「ラスコオリニコフは生きのびて来たドストエフスキイその人に他ならぬ」と断定していたのである〔８３～８４〕。 このような小林の解釈は、戦争に向けて走り出していた当時の日本で受け入れられたが、それは「非凡人」には「悪人を殺す」ことも許されると考えて「高利貸しの老婆」を殺害したラスコーリニコフが、シベリアで自分の罪を深く反省してしまっては、「自国の正義」のために「敵」と戦う「戦争」も否定されること ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№115 2013 になってしまうからでもあっただろう。 さらに問題だと思えるのは、『罪と罰』との連続性を強調するために小林が「来るべき『白痴』はこの憂愁の一段と兇暴な純化であつた。ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」とテキストとは全く違う解釈をしていたことである〔傍線引用者、６３〕。 なぜならば、ムィシキンがシベリアから帰還したことになると、彼がスイスの村で体験したマリーのエピソードがなくなり、そのことがナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」とする解釈にもつながっているように思えるからである〔９５〕。さらには、ムィシキンが西欧で見たギロチンによる死刑の描写もなくなり、『白痴』における主要なテーマの一つである「殺すなかれ」というイエスの言葉と近代西欧文明の批判が読者の視界から抜け落ちてしまうことになる。 小林秀雄は「ムイシュキンの正体といふものは読むに従つていよいよ無気味に思はれて来るのである」と「『白痴』についてⅠ」（１９３４）の第三章で書き、簡単な筋の紹介を行った後に「殆ど小説のプロットとは言ひ難い」と断じている〔８７～８８〕。しかし、報告で詳しく考察するように、それはスイスでのエピソードが省かれているばかりでなく、筋の紹介に際しても重要な登場人物が意図的に省略されているために、ムィシキンの言動の「謎」だけが浮かび上がっているからだと思われる。 研究者の相馬正一は、小林秀雄を「教祖」になったと厳しく批判した坂口安吾が、「通俗と変貌と」（１９４７）でも、小林を「実は非常に鋭敏に外部からの影響を受けて、内部から変貌しつづけた人であり」、それは「勝利の変貌であるよりも、敗北の変貌であったようだ」と指摘していたと書いている（『坂口安吾 戦後を駆け抜けた男』人文書館）。 検閲の厳しかった時期を体験した坂口安吾のこのような指摘に注意を払うとき、原作の舞台を日本に置き換えながらも、主人公を沖縄で死刑の判決を受けるが冤罪が晴れて解放された復員兵として描いていた黒澤映画《白痴》（１９５１）におけるテキストの緻密な読みと原作理解の深さが浮かび上がってくるだろう。 本発表では当時の時代状況と評論とのかかわりを年表で確認しながら、小林の文章を具体的に考察することで小林秀雄のドストエフスキー論の意義と問題点に迫りたい。活発な議論にむけての問題提起となれば幸いである。 第213回例会傍聴記 国松夏紀氏の「『悪霊』と「チーホンのもとで（スタヴローギンの告白）」の1章について」を聴いて 齋須直人 今回の発表は国松夏紀氏が2010年秋から2011年秋にかけてモスクワとペテルブルクにそれぞれ半年間滞在した際の研究成果をもとにしている。国松氏は卒業論文、 修士論文でも「チーホンのもとで」の章を扱っており、この章との付き合いは長い。 ニュースレター№115 2013 ――――――――4――――――――――――― 発表は留学中に氏が訪れたモスクワ地下鉄10号線の「ドストエフスキー駅」やドストエフスキーが訪れた旧居などを撮った豊富な写真から始まり、「ドストエフスキー の日」の催しについての資料、豪華版の『悪霊』（手に持つと重量感があり、背表紙の反対側の頁のめくる部分が金色になっている）、「チーホンのもとで」のアンナ夫人の筆写本のコピーなど、多くの資料で愉しませていただき、また私自身の留学に向けての参考になった。 氏は修士論文では複数の版の丹念な比較対照を行った結果、「チーホンのもとで」の１章を『悪霊』本文に含めるのは技術的に不可能であるという結論を出していた。 一方、今回の発表の中心は、氏がこれまでの主張を修正し、「チーホンのもとで」の 章を『悪霊』の中で考えるべきなのかもしれないという結論に至ったことについてで ある。 氏がこのように主張を修正することになったのは2010年に出版された《カノン版ドストエフスキー全集》９巻の『悪霊』に所収のザハロフ著「『悪霊』長編小説の雑誌テキスト再現の試み」で新しい事実を知ったことによる。それは『ロシア報知』11月号に入る予定であった「チーホンのもとで」の章を、編集者がドストエフスキーには無断で掲載せず、作者本人にはそのことを事後報告で伝えたということである。このことは雑誌掲載時において「チーホンのもとで」の章を『悪霊』の第3部第１章に入れる意図がドストエフスキーにあったということを示している。しかし、この時にドストエフスキーが編集者に送った原稿は紛失したまま見つかっていない。 発表の後半では『悪霊』の中で「チーホンのもとで」がなければ、『悪霊』の筋や内容に深みが欠けることになると思われる箇所が列挙された。例えば、チーホンからの指摘がなされる前に、すでに第２部第３章でキリーロフから「重荷と偉業」についての指摘がなされており、この章を『悪霊』の中に入れるべきことが必要不可欠であるとの指摘がなされた。さらに報告ではクリストフォロスの形象やスタヴローギンの「グランドツアー」にも触れられており、これらの点や「重婚のモチーフ」を巡って、発表の後も興味深い議論が交わされた。今後、また新たな資料が発見されれば、現段階以上にこの章についての理解が深まると思われる。国松氏は今世紀に入ってもまだ何かでてくるのではないかと予感している。 この発表を聴かせて頂いて特に印象的であったのは、やはり文献に忠実な研究はロシア語力の差と資料に触れやすいという点で、ロシアの研究者が圧倒的に有利だということを氏が痛感しておられることであった。日本人としてドストエフスキーやロシア文学を研究する者であれば避けては通れない問題であり、この点については私自身も自分の研究を進めながら真面目に考えていきたい。 事務局便り ○ 目下、運営委員会編集グループでは、熊谷のぶよし氏を中心に、「広場」22 号の編集を集中的に進めており、4月中旬の完成、発送をめざしています。 今回は例会発表者の論文4本のほかに、会員寄稿論文3本、エッセイは会員外寄稿1本を含む4本、書評2本、小山田チカエさんへの追悼文4本と、いつになく多彩、ヴォリューム感のあるものになりそうです。ご期待ください。 （木下豊房） 事務局メールアドレス：tkino@chiba.email.ne.jp |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.114 News Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky Society 2012.12.15 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：国松夏紀 桃山学院大学国際教養学部教授。ロシア文学、比較文学専攻。主要論文：芥川龍之介とドストエフスキー―『カラマーゾフの兄弟』から『藪の中』へ―（明治書院『アプローチ芥川龍之介』所収）、アトス記―ドストエフスキー或いは三島由紀夫―（桃山学院大学『国際文化論集』所収）、『悪霊』に入らなかった一章―「チーホンのもとで」の典拠について―（多賀出版『論集・ドストエフスキーと現代』所収）。 ニュースレター№114 2012――――――――2――――――――――――― 第213回例会報告要旨 『悪霊』と「チーホンのもとで（スタヴローギンの告白）」の1章について 国松夏紀 周知のように、「チーホンのもとで」の1章は『悪霊』第2部第9章として校正刷まで出ながら、編集者のクレームにより著者生前は陽の目を見ることは無かった。作家没後25年記念出版の全集第8巻付録として未亡人アンナ・グリゴーリエヴナの手によって1905年、部分的に公刊されたのが、一般の目に触れた最初である。 1918年未亡人没後、1921年、まずモスクワで、改稿を試みた夥しい作家自筆の書込みを有する15葉の校正刷が発見された。ほぼ同時期にペテルブルクでアンナ夫人による「筆写本」が発見された。美しい筆跡の78ページ中判ノートブックであった。 早大露文科の卒業論文のテーマを「スタヴローギンの告白」としたとき、テキストにしたのは「校正刷」を主な典拠として1922年モスクワとミュンヘンで公刊された小冊子であった。全180枚（400字詰原稿用紙）の半分は『悪霊』の創作過程をたどる文章であった。それも、『悪霊』全編を論じるのは手に余り、「スタヴローギンの告白」だけに絞って論じることの妥当性を擁護するための序文であった。 卒論から2年後、修士論文を書くときもこの1章を『悪霊』に含めないという立場は変わらなかった。というか、生誕150年記念アカデミー版≪30巻全集≫第11巻・第12巻という新たな情報を得て、『悪霊』と「チーホンのもとで」を同一平面に並べることは不可能だということを600枚ほどの原稿用紙を使って、そのことだけを論じたのだった。新たな情報とは校正刷の書き込みのほぼ全面的開示であった。なお「アンナ夫人筆写本」に関しては、すでにその発見の翌1922年、雑誌『ブィロエ（過去）』第18号に公刊されており、これも早大図書館に所蔵されていた。 そこで作業の実態は、≪モスクワ版≫・≪ミュンヘン版≫及び≪筆写版≫と≪30巻全集版≫との比較対照ということになる。それによって従来のテキストが如何に不備であったかを明らかにし、新たな解読情報を加味するならば、この1章を『悪霊』に「復帰」させるのは不可能だ、という論拠であった。やや詳細にわたれば、校正刷活字面を第1層、増補・訂正・削除等加筆後を第2層＋アルファ、写本を仮に第3層とし、各層において旧資料と新資料を校訂せんとする、30数年後の現在から見れば無謀とも言える作業ではあった。 修論からほぼ20年後ともなろうか、巡り巡ってソ連崩壊の年に関西に移住してから6年目、阪神淡路大震災の翌1996年、半年の研究休暇でモスクワ及びペテルブルクに滞在し、≪校正刷≫及び≪筆写本≫原本を我が手にしての、≪30巻全集≫との比較校訂作業の際にもこの基本方針に変わりはなかった。 変化が生じたのは、最近（2010秋～11秋）の研究休暇で半年ずつモスクワとペテルブルクに暮らしたその前後でもあったろうか。≪校正刷≫原本、未亡人がキチンと美麗なノートに添付したもの、これはアルヒーフで門外不出となっていた。マイクロフィルのみ閲覧可。コピーを依頼したら、ＣＤに焼き付けてくれた。週3回開くペテルブルクのアルヒーフに週2回1ヶ月ほど通って、≪筆写本≫を検討、思わぬ発見などがあった。 ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№114 2012 ようやくにして本題なのだが、要するに、もしかすると「チーホンのもとで」の1章は『悪霊』の中で考えるべきものかも知れないということと、もう一つは、翻訳の 問題である。この1章、とりわけ≪校正刷≫書込みなどは翻訳困難と考えていたし、翻訳は校訂の厳密さを損なうなどとも考えていたのだが、最近は年齢のせいもあり（？）、ロシアと限らず外国文学をやっていて残るのは結局翻訳なのかなとも思ったりして。その辺りをもう少し具体的にお話しできれば良いのだが。加えて、「筆写本」の評価も違ってきた。「あんな筆写本」と一段軽く見てはいけないのではないか、と。 第212回例会傍聴記 木下豊房氏の「投機的マスメディアと商業出版における作家像ドストエフスキーの問題 －ロシアの場合、日本の場合」を聴いて 福井勝也 木下氏は、予め断るまでもなく、「会」創立（1969）に係わり「発足の言葉」を起草し、会の代表も務めておられるドストエフスキー研究のエキスパートである。その長い活動は国内のみならずロシアを含め、専門学会を通じて文字通り国際的なレベルの評価を得てこられている。 今回の議論も、そんなキャリアを踏まえた氏ならではの内容であったと思う。発表の前段では、作家像ドストエフスキーについての主要な評言を、日本におけるドストエフスキーの受容史に絡めて、年代を追って逐一批評された。その精察には、特徴的なことが幾つか指摘できる。第一に、作家像理解の試金石として「地下室の意識」に着目し、そこに集約されるアンビバレンツな人物描写の創作方法への真剣な探求と受け止めを、その判断の重要な指標とされた。その観点から、それ以前の作家像の変容が明らかになった80年代以降が問題視され、そのきっかけになった五木寛之氏の唱えた「明るく楽しいドストエフスキー」（1971）という標語がピックアップされた。そして、この言葉に触発されたように新たな作家像を描いたのが江川卓氏の「謎とき『罪と罰』」（1986・新潮社）であって、画期的な書物と位置づけながら、木下氏の評価は否定的なものであった。すなわち同著の問題点は、作者像の分裂の果てに、作者自身も認識できない枠組みを設定し＜超越的存在＞を空想したことであって、それが以降の作家像変容に悪影響を及ぼしたのだと。さらにそれが、安易な「謎解き」を誘発し、系譜的には「自らを絶対に祀り上げる欺瞞的」解釈者まで生んで現在に到ったとされる。そしてその際大きな問題として、80年代以降そのような新奇な作家像を助長してきたのが、標題の「投機的マスメディアと商業出版」であり、批判の矛先はそれと一体となった現代の作家像（評言）のあり方にも向けられている。 後段の話は、以上の分析から新たな問題として、ロシアで昨年テレビ放映されたドストエフスキーの伝記映像の内容に及んだ。要するに、現代ロシアにおいても日本と同様、視聴者（読者）に迎合した下世話なドストエフスキー像がマスメディアによって流布されているとの指摘であった。それは作家を好色家、賭博者として描く興味本位のもので、研究者達からは厳しい批判が向けられたそうである。そのような作者像がロシア国内でマスコミに出てくる底流として、Ｖ．スヴィンツォフの「ドストエフスキーと男女関係」（1999）という資料が俎上にのぼった。そこでは、『悪霊』のスタヴローギンの告白にある（犯罪的な）「少女陵辱」が、作家の伝記的事実であった如くに暗示されていたらしい。この書物の前提には、作家と同時代人の「回想記」などがその根拠になっていて、木下氏はそれらの文献も翻訳し資料として提供された。これらを読むかぎり、確かに作家が「異常な性 ニュースレター№114 2012 ――――――――4――――――――――――― 的倒錯者」「少女性愛者」あるいは「脚フェチスト」と誤解を助長する傾向が読み取れた。しかし同時に、どう読んでもそれが決定的な「犯罪事実」を示す資料でもないと受け取れた。問題なのは、スヴィンツォフの書物が、視聴者の欲望に迎合するように作家像を歪め る方向で示されていたことなのだろう。かえって自分には、木下氏の訳された資料で、E.M.オポチーニンにドストエフスキーが語ったとされる言葉が、ラカンの言葉のようにも聞こえて、より問題の真実に近い証言だと思った。 「思うに、どんな人間も実際に現すか、想像に止まるかの違いはあれ、ある程度まで、この種の倒錯（「性的倒錯、病理学の領域の問題」）にかかっている。ただ誰もそのことを告白しないことだけだ」 今回の発表を聴きながら、「スタヴローギンの告白」というドストエフスキー文学の最大のアポリアに関連し、作家の名誉にも係わる問題の応答として、自分なりに現在のベストアンサーだと思っている言葉をここに掲げておきたい。これは、木下氏も触れていたが、問題の伝記映像がロシアで放映された時、手厳しく批判されたらしい『悪霊』の専門研究者、リュドミラ・サラスキナ女史の直言である。「わたしは彼を魂の中から取りだしてきました」というドストエフスキーの言葉に対して、サラスキナ氏は次のように語っていた。 「ドストエフスキーが犯罪者であったことは、むろん、一切ありません。ラスコーリニコフのように、老女を殺したこともなければ、スタヴローギンの「告白」に出てくるように、少女を陵辱したこともありません。そういったたぐいの経験は一切ないのです。 ドストエフスキーは、彼自身が大事だと考える課題を小説に課したのであり、自分に対して重大な問題提起を行なったのだ、とわたしは考えています。つまり、スタヴローギンを書くことは、自分に課した課題に対する答えだったのです。」 （「ドストエフスキー『悪霊』の衝撃」／光文社新書／2012、下線は筆者） なお、前段の江川卓氏の「謎とき『罪と罰』」対する評価の問題も、さまざまな理解が可能であって、例えば「広場」21号（2012）の冷牟田幸子氏の「江川卓著『ドストエフスキー』」についての感想などは、全面的肯定ではないが江川氏への率直な感想が語られていて参考にすべきものだと感じた。さらに、江川氏の著作のドストエフスキー論の位置付けについては、当方の拙論「日本のドストエフスキー」（『現代思想』総特集＝ドストエフスキー、2010）も参照していただければ有り難い。いずれにしても、木下氏の本質的な議論は傾聴すべきで、時勢に流されずに「ドストエフスキーをあいだにはさんだ対話」の必要性を改めて感じさせられた例会であった。（2012.12.9）
事務局だより 第213回例会会場 神宮前隠田区民会館 地下鉄千代田線か副都心線の明治神宮前駅（１分） ○今回の会場は、千駄ヶ谷区民会館が区の公用使用で申し込み出来ないため、変更となりました。 |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.113 News Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky Society 2012.10.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：木下豊房 1969年、ドストエーフスキイの会の発足にあたり「発足の言葉」を起草。新谷敬三郎、米川哲夫氏らと会を起ちあげる。その後現在まで会の運営に関わる。2002年まで千葉大学教養部・文学部で30年間、ロシア語・ロシア文学を教える。2012年3月まで日本大学芸術学部で非常勤講師。ドストエフスキーの人間学、創作方法、日本におけるドストエフスキー受容の歴史を研究テーマとし、著書に『近代日本文学とドストエフスキー』、『ドストエフスキー・その対話的世界』（成文社）その他。ネット「管理人T.Kinoshita」のサイトで「ネット論集」を公開中。 ニュースレター№113 2012――――――――2――――――――――――― 第212回例会報告要旨 投機的マスメディアと商業出版における作家像ドストエフスキーの問題 －ロシア場合、日本の場合－ 木下豊房 作品を通して作家像ドストエフスキーをどのようにとらえるかは、古くて、きわめて新しい問題である。とりわけ今日、マスメディアや商業出版で、実利的動機からの読者への迎合がこの問題に影を落としている現象が見られることからも注視せざるをえない。 日本におけるドストエフスキー受容を考える場合、まず二葉亭四迷が指摘した、ツルゲーネフとドストエフスキーの作家像の違いを肝に銘じておくべきであろう。二葉亭によれば、前者は作中人物の外側に位置して、いくぶん批評的にくっきり、はっきりした輪郭で描く作家であり、後者は作中人物の内部にいきなり跳び込んで、内側から外に向かって描く作家で、そのぶん、人物像はぼやけているが、そのかわり、人物と人物との間にイデーがさかんに見える（「作家苦心談」明治30年／1897年）。これがどれほど先見性にみちた鋭い指摘であるかは、1920年代後半にようやく登場するバフチンの作者と人物の関係論を視野に入れて見れば分かる。ドストエフスキーはツルゲーネフやトルストイ型の19世紀リアリズムに収まりきれないばかりか、創作方法において彼等とは対照的な作家であるというのは、ロシア文学史、文化史の定説といっていい。 ドストエフスキーに傾倒した萩原朔太郎がトルストイ影響下の白樺派によるドストエフスキー理解を批判して、一方を好む者は他方を好まないほど「宇宙の両極」であると、この二人のロシア文豪に対する読者の嗜好と理解能力の違いを指摘していることも記憶に残る。その後、昭和10年（1935）前後、思想転向、シェストフ現象を背景とした、横光利一や小林秀雄によるドストエフスキー作家像の独自性の発見や、戦中・戦後にかけての椎名麒三、武田泰淳、埴谷雄高等に見られる自己の作家的態度に引きつけての作家像の探究などに一貫するのは、ドストエフスキーの作家的自我の多重性、複合性への驚嘆に充ちた眼差しであった。1970年代、リンチ事件に極まる極左運動が破綻する時期までのドストエフスキー受容は「地下室の意識」に集約されたアンビバレンツな人物描写の創作方法の特性を真剣に受け止めていた。 潮目が変わったのは80年代、日本経済の高度成長と思想的無風化、空洞化の中で、71年の生誕150周年の講演会で五木寛之が唱えた「明るく楽しいドストエフスキー」読みが、江川卓によって「謎とき『罪と罰』」となって具現化される（1986年・同書「あとがき」参照）。それより一足早く、岩波書店の寵児・中村健之介が、ドストエフスキーは「ふつうの小説家」であると殊更に強調し、日本での先行的な受容の歴史を「予言者」扱いだと中傷する一方、バフチンなどの理論を踏まえた作家像の探究には目をくれず、自己流の自然主義的な実感信仰による読みを唱えていた。80年代～90年代、ポストモダニズムの流行が、伝統的権威の否定の名のもとに受容の歴史を無視して、自らを絶対者に祀り上げる欺瞞を助長したといえる。 近代合理主義的な作家の絶対的自我を否定したドストエフスキーの立場こそがポストモダニズムの先駆で、二葉亭やバフチンや小林秀雄の視点はその意味の究明に注がれていたとすれ ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№113 2012 ば、そうした受容を重くて暗い人生論的なものと誹謗して、自己の新奇な立場を商業出版の化粧直しの要請に同調させようとする試みこそアナクロニズムで、「自然主義」（中村）や「民俗学的ポピュリズム」（江川）や「サド・マゾ的心理分析」（亀山）への先祖返りにほかならず、本来それらこそがポストモダニズムの標的であったはずである。 江川卓の「謎とき」は民間伝承、神話。聖書のモチーフをテキストの裏に探りながら、論者自らが作者に成り変って、パッチワーク的な手法で絵解きするもので、初体験の読者には目新しく、知的好奇心をくすぐられることはあっても、作品自体の真の深みと感動を伝えるものではなかった。江川の影響を受け、継承者を自認する亀山郁夫は、誤訳にとどまらず、テクストの改ざんや空想のテクストに踏み込んで、作者を僭称する特権を許されていると勘違いしている。「原作と張り合う『偶像破壊』的な集大成」とは、亀山ブームの火付け人で光文社の代理人・沼野充義による亀山最近作『謎とき「悪霊」』の毎日新聞書評の表題であるが、皮肉な意味でいみじくも的を射ている。底の浅い「サド・マゾ的心理分析」に頼りながら、恣意的な解釈の特権を許されていると思うのは、彼を利用する出版社の投機的な思惑によって鼓舞され、宣伝、媒体によって偶像化された結果の錯覚にすぎない。賢明な読者によって、それはかならず見破られる性格のものである。 今回の例会で報告したいのは、ロシアで昨年（2011)5月22～26日に放映されたＴＶシリーズ「ドストエフスキー」が、大衆受けをする一方、研究者の間から厳しい批判が浴びせられ、マスコミを賑わせた出来事である。この番組は処刑台のシーンからはじまる伝記物であるが、伝記的な事実やその時間的な前後関係をかなり乱暴に無視して、賭博者、好色家ドストエフスキーをクローズアップしている。これにはサラースキナをはじめとして、ロシアの研究者たちから手厳しい批判が加えられている。 また亀山著『悪霊別巻－「スタヴローギンの告白」』で、「精密で画期的な解説」との宣伝のもとに基本文献として著者が重用しているＶ・スヴィンツォフの「ドストエフスキーと”男女関係“」（1995）という論文がどのようなものかを紹介したい。ロシアの俗流フロイディストによる、日本のそれと実に波長のあった論調が見られる。 日本でもロシアでも商業化された俗受けするドストエフスキー像歪曲の本質は変わらない。 第211回例会傍聴記 熊谷のぶよし氏の「〈ネヴァ河の幻想〉で作家の体験したこと」を聴いて 高橋誠一郎 １８６１年に雑誌『時代』の創刊号に発表されたフェリエトン「詩と散文からなるペテルブルグの夢」は、『弱い心』などの前期の作品と後期の作品とを考察する上できわめて重要な作品であるが、熊谷のぶよし氏の発表はこの作品の分析をとおしてドストエフスキーの創作の原理にまで迫ろうとする意欲的なものであった。 かつてモスクワで見た劇『罪と罰』は「ペテルブルグの夢」と題されていたが、「ドストエフスキーが作家となるきっかけとして語られている」この作品の重要性については多くの研究者が言及している。そして、『白痴』を論じた小林秀雄も「こゝに描かれた発作前ネヴァ河岸をさまよふムイシュキンの姿と、殺人 ニュースレター№113 2012 ――――――――4――――――――――――― 後ネヴァ河橋上を歩くラスコオリニコフの姿との間に本質的なつながりがある事は誰でも気がつく筈である」と記し、このフェリエトンからの長い引用を行っていた。それゆえ、ここ数年、黒澤明と小林秀雄のドストエフスキー観の比較研究を行ってきた私は、たいへん強い関心を持ってこの発表を聞いた。 今回の発表の特徴は、作品の具体的な分析に入るまえに「小説における美学的原理と事実的基盤」と題した第一部で、読者の「要請」に応えるために、「推理小説」や「冒険小説」的な手法や、「恋愛小説」的な要素も大胆に取り入れていたドストエフスキーの創作方法を分析することで、「表面的な謎解き」と「隠された事実を洞察」して作品を「読み解く」こととの違いに鋭く迫っていたことであろう。その際に発表者は「一次的作者は沈黙と化す」というバフチンの言葉や木下論文「スメルジャコフの素顔、もしくはアリョーシャ・カラマーゾフの咎について――倫理と芸術のアポリア」を踏まえて、「作者と語り手の分離」という「ドストエフスキーの小説における基本的な構造」に注意を促し、「作者の意図」が複雑な人物関係などの「設定と筋立てによって小説に組み込まれて」いることを、あまり重要視されてこなかった『カラマーゾフの兄弟』におけるニーノチカの役割などの分析をとおして説得力豊かに語った。 また、そこでは『白痴』におけるレーベジェフの役割も考察されていたが、このフェリエトンではデュマや「椿姫」についても詩の個所でたびたび言及されているばかりでなく、プーシキンにも触れられており、それはこの作品と『白痴』のテーマとの関わりを示唆しているように感じられた。 そして、「『「詩と散文からなるペテルブルグの夢』における幻想」と題された第２部では、「伝記的背景」を簡単に見た後で、「フェリエトンのあるべきテーマ」としてソロヴィヨフが考察されたあとで、「ニェヴァ河の幻想について」が詳しく考察された。それは「記述の順番」や「夢想の質の変化」に注目しながら作品を具体的に分析して「主人公の内面」の問題に迫ろうとするものであったが、しかし、かなり詳しい資料が配布されたにもかかわらず論理の流れが分かりにくい内容となっていた。 その原因の一端は緻密に構成された長編小説とフェリエトンというジャンルの違いにもあるだろう。そのことを踏まえつつ、会場から出された初期や後期の作品との関わりが具体的に示されればより明快になると思える。 文学的な再出発を行おうとした年に発表されたこのフェリエトンは、その重要性にもかかわらず本格的な考察はまだなされていない。少し混沌とした個所もあったが、この作品を真正面から論じた熊谷氏の発表からは、ドストエフスキーの創作本法についての議論の深まりや、フェリエトン「詩と散文からなるペテルブルグの夢」論の豊かな実りが予感された。 事務局だより tkino@chiba.email.ne.jp ○
来年4月刊行予定の「広場」22号の第1回編集会議を10月28日に開き、編集作業をスタートします。 今年度の例会発表者・桜井厚二（1月）、金沢友緒(3月)、富田臥龍（5月）、熊谷のぶよし（9月）、木下豊房（11月）の論文を中心に編集の予定ですが、寄稿論文、エッセイなどについては、これから決定します。執筆者を募りますので、希望者は早めに申し出ていただけると幸いです。締め切りは年内、遅くとも来年1月20日。原稿400字につき、報告論文は15枚、寄稿論文は10枚、エッセイは５枚まで会で負担します。超過分は400字につき400円が執筆者負担ですが、この単価で負担額を割った数字の部数が、執筆者に還元されます。 （木下豊房） |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ
No.112 News Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky Society 20012.8.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：熊谷のぶよし 54歳、妻有、子供二人 過去に何度か例会で発表している。 近年は「ドストエーフスキイ広場」の編集に参加している。 趣味は俳句（最近始めた）とmoumoon（音楽ユニット）を聞くこと。 ニュースレター№112 20012 ――――――――2―――――――――――――― 第211回例会報告要旨 ＜ネヴァ河の幻想＞で作家の体験したこと 熊谷のぶよし ドストエフスキーの多くの作品に、繰り返し現れてくる＜ネヴァ河の幻想＞は、「詩と散文からなるペテルブルクの夢」において、ドストエフスキーが作家となるきっかけとなった体験として語られている。＜ネヴァ河の幻想＞の体験が世界の原型を作家に現し、その原型を構造とすることによって作品は生まれた、そのような仮説を立てることができる。その原型とは夢想と現実の対立に関わるものであるが、この対立の中で現実は他者たちの夢想として現れてくる。この対立自体は、夢想家を主人公とした初期の作品でそのまま主題化されている。しかし、主題化されていない全ての作品においてもその構造となっている。 ドストエフスキーの作品の表面は、その純粋な姿においては夢想と化すことになる「美学的要請」によって構成されている。一方小説を支える小説の事実的基盤は、読者に発見されることを待って隠されている。隠されているのは、それが、隠されていたものが発見されるようにしてしか体験できないものだからだ。つまり表層の美学的要請とそれに覆われた事実的基盤という小説の構造を、縦に貫くように読んだときに得られる読書体験を意図して小説は書かれている。＜ネヴァ河の幻想＞において、ドストエフスキーは、このような構造によって小説を書くことになる体験をした、そう思われるのだ。 隠されているものの発見は、あるいは「謎解き」という手法を思い起こさせるかもしれないが、「謎解き」の手法は作品の表面に現れる「美学的要請」に基づいた意味の深化と拡大を目指し、外部のテキストの参照を志向している。しかし、ここで述べる隠されているものの発見とは、そうした方向とは真逆に、作品の内部に向かい、そこで記述された事実に関わる事例を洞察したときにあきらかになることである。作品において、ただ語られただけで意味づけられていないちりばめられた事実を洞察することによって、主人公の発言や行動や物語の展開の意味は発見されていく。 ここまでの問題設定自体が、従来の作品理解の方法とかけ離れているかもしれない。そこでまず、発表に際しては前段において、高橋誠一郎氏の『『黒澤明で「白痴」を読み解く』中のレーベジェフに関する読解と、木下豊房氏の「スメルジャコフの素顔、もしくはアリョーシャ・カラマーゾフの咎について―倫理と芸術のアポリア―」（広場２０号）を私の論点から整理することによって、問題設定を明確にしておきたい。高橋氏のレーベジェフ論は作品の「美学的要請」の下にある事実的基盤を読み解いて作品の理解を一新している。木下氏のアリョーシャに関する倫理的観点の導入は、作品の読解を現実の倫理的基準の方向に逸脱しているように見える。しかし、そこまでがドストエフスキーの意図したところである、ということを、『作家の日記』における作家の裁判関与のあり方を参照して確認したい。いずれの論考も、表層の美学的要請とそれに覆われた事実的基盤という小説の構造を、縦に貫くように読んだものである。出来れば両論文を事前に読んでおいていただければと思う。 「詩と散文からなるペテルブルクの夢」中の＜ネヴァ河の幻想＞は、生まれながら ――――――――――――3――――――――――ニュースレター№112 2012 の夢想家であるドストエフスキーが見るべくして見た幻想であるという調子で描かれている。これは納得しやすい美学的要請にそった幻想の意味づけである。しかし、一方で幻想の記述の直後にまとまり無く書かれた事実の示すことは、この幻想が、ナージャという名の少女との失恋の事実から現実逃避して、恋愛の夢想に没頭していた時期に体験されたということである。「ペテルブルクの夢」の記述自体が他の作品と同じ構造によって成り立っているのだ。 幻想は、恋愛の夢想に没頭していたドストエフスキーを恋愛の経緯に関わる事実認識が襲ったとき出現し、その結果その後の夢想の性質を根本的に変質させてしまった。他者たちの夢想によって出来上がった現実にドストエフスキーは接触している。このことによってドストエフスキーは作家となった。この時、ドストエフスキーの中で何が起こったかをたどるのが発表の趣旨である。このことについてうまく発表できたらと思う。 第210回例会傍聴記 「広場21号」合評会を聴いて
福井勝也 今夏、7月21日に行われた合評会の感想を記しておく。紙数の制限もあり、当方の関心に沿ったやや偏頗な内容であることを予めお断りしておく。各論評者が担当論文をコメントした後、会場全体で合評する形式は従前通りであった。しかし全体的な感想を述べれば、論評者各自が担当論文の趣旨を尊重しつつも、該論文細部への率直な指摘が目立った。さらに会場参加者の意見も加わって、今までになくやや厳しい合評会であったと思う。 このことは、最初に論じられた杉里論文「イワンのばか」への木寺氏の指摘から始まった。緻密なテキストの読みと分析を通した知の人イヴァン・カラマーゾフの言説の＜誤謬＞という問題はどこからもたらされたのか。ここには、作者ドストエフスキー、語り手、登場人物イヴァンそしてその言葉を受け取る者との関係性が、テキストの位相とも絡んで一々の言葉に幾重にもヴェールをかけている。一義的に「間違い」と言えない言葉もあり、会場からも確信的な手厳しい意見が飛んだ。杉里氏はこれらに誠実に応答しながら、再度自分の思考のなかで反芻されている姿が印象的だった。木寺氏が指摘した意味深長な論文タイトルについても、もっと突っ込んだ面白い議論（「イワンのばかは、ただのばかではない」）に発展するはずだと予感を抱いた。議論の端緒としての杉里論文に意義を感じた。 第二論文の「『未成年』を語る」も、時間があればもっと議論を発展させるべき内容であった。当日寄せられた堤氏の感想のとおり、近藤論文の功績は「語りにくい作品」「これほど分かりにくい作品」の「解剖」であった。このことの労は確かに評価できる。しかしこの作品の真骨頂はその「語りにくさ」「分かりにくさ」を理解したうえで、＜そのままのかたち＞で、その物語に流れる＜時間＞を主人公とともに生きることなのだろう。その点から言えば、「情報の非対称性」など大した問題ではないはずだ。なぜなら僕等は生きる時にそのようにしか生きていないからだ。少しづつ分かってきたが、『未成年』はおそらくドストエフスキー最大の問題作で、このことは ニュースレター№112 2012 ――――――――4―――――――――――――― 小林秀雄から山城むつみ氏の評論、そして身近には会員の池田和彦氏の論文（『未成年』の混沌について、「広場」4号1994）辺りを熟読すべきだろう。この作品を解く 鍵は、末尾で語られる「流動する現在」という言葉にあり、それを考えるうえでのベルグソンの時間論と無意識の問題が重要だと思っている。 第三番目の森論文は当方が論評させていただいた。論文というより、おもしろい「読み物」を読むように愉しんだ。ただし結論から言うと鈴木正三という近世武士にして禅宗の僧？の自力本願的な悟りからドストエフスキー的悪人の救済根拠を導き出すのは、かなり無理があると感じた。実は、この点で仏教思想的にドストエフスキーに「太刀打ち」するならば、今年３月に逝去した吉本隆明の『最後の親鸞』（1981）しかないだろうというのが今回の僕の意見であった（この点は、「読書会通信」133号の拙文でもう少し詳しく書いた）。 第4番目は当方の拙論「小林秀雄の絶筆－ﾌﾛｲﾄ・ﾕﾝｸﾞ、ﾍﾞﾙｸｿﾝそしてﾄﾞｽﾄｴﾌｽｷｰ」で、木下先生が論評してくださった。指摘の要点は、論文の前提となった例会発表「ドストエフスキーと無意識的なるもの、その後の感想」に対する先生の「傍聴記」（ﾆｭｰｽﾚﾀｰNo．108）以来一貫した内容であった。すなわち、戦前の小林秀雄から始まるドストエフスキー批評の正当な道筋を辿りながら、80年代半ばに「変節」したドストエフスキー論の問題の所在を明らかにするもので、先生ならではの議論であった。この流れのなかで、有り難いことに僕の処女論文「無意識的なるもの－ﾄﾞｽﾄｴﾌｽｷｰとﾕﾝｸﾞ」（ﾄﾞｽﾄｴｰﾌｽｷｲ研究Ⅰ、1984）をその後辿るべき結節点の論文として高く評価してくださった。しかし、おそらくここには現在の問題意識への手厳しい批評がこめられていることも実感した。なお、ここで一言しておけば、「ドストエフスキーと無意識的なるもの」という主題は今回の拙論の通り自分の中でかなり変遷を遂げてきている。木下先生も先述の傍聴記で触れられていたが、この点でフロイト（通俗的ﾌﾛｲﾃﾞｨｽﾞﾑではなく）からラカンの線で語られた島田透氏の「ｽﾀｳﾞﾛｰｷﾞﾝの精神分析」（ﾄﾞｽﾄｴｰﾌｽｷｲ研究Ⅰ）は画期的な論考であることを改めて指摘しておきたい。当方も最近「ドストエフスキーとラカン」という切り口に大きな関心を抱きつつある。 最後に、椎名麟三の小説とキリーロフの問題を取り上げた西野論文（寄稿論文）を高橋先生が論評した。高橋氏の指摘も、該論文の内容に止まらぬ拡がりを持つものとして執筆者をも刺激するものでなかったか。すなわち、西野氏がすでに「広場」で論じたポーランド貴族のトカジェフスキやアンジェイ・ワイダの視点、さらに木下先生の椎名論をベースにしたもので高橋先生ならではの視点を感じさせるものであった。 事務局だより tkino@chiba.email.ne.jp ○211回（9月例会）の案内をお届けします。前回から発送事務の方式を変更しました。プリントアウトと発送を業者に一括して委託することにより、事務の軽減だけではなく、全体としての経費の節約という、一挙両得が可能となりました。 ○
2012年も後半へ入って、来年度「広場」22号の編集作業も視野に入れるべき時期と なりました。1月例会の桜井厚二、3月例会の金沢友緒、5月例会の富田臥龍の報告者みなさんには、そろそろ論文執筆の準備をお願いしたいし、寄稿論文、エッセイについても、希望者は早めに申し出ていただけると幸いです。原稿400字につき、報告論文は15枚、寄稿論文は10枚、エッセイは５枚まで会負担で、超過分は400字につき400円が執筆者負担となりますが、その分は会誌の受取り部数で還元されます。 （木下豊房） |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.111 News Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky Society 2012.6.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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ニュースレターNo.111 2012――――――――2――――――――――――― 第209回例会傍聴記 悪人論／バラムの驢馬 ～『カラマーゾフの兄弟』における「スメルジャコフ」論を聴いて 福井勝也 先日の冨田臥龍氏の発表を聴いて、『カラマーゾフの兄弟』における「スメルジャコフ」という問題が、今日的ドストエフスキー論の＜アポリア＞であることを改めて実感した。実は氏から例会発表の意向と主題を聞いたのは半年位前のことであったが、ここ数年間「スメルジャコフ」問題がすでに伏線的に迫り上がって来ていた。それは例えば「読書会通信」115号（2009.7.30）の拙文でも取りあげた『カラマーゾフの兄弟』への菅原純子氏の発言などであった。ここでは、「ガリラヤのカナ」で信仰の戦士として再生したはずのアリョーシャの限界性がスメルジャコフの存在から逆照射され、本人が自己の出生を徹底して否定的に語る「胎内自殺」という言葉がその光源としてクローズアップされた。この時点で、イワン像を哲学的に語る「ニヒリズム」を「形而下的に」に威圧するスメルジャコフ像が浮上してきた。崩れ落ちるように精神的崩壊を遂げるイワンと対峙するスメルジャコフの鬼気は、イワンと対照的に「自死」という「あっぱれな結末」を選択し、それは「胎内自殺」という運命的言葉の強度と見事に釣り合っていた。 今回の発表で冨田氏は、スメルジャコフの「悪」を説明するために幾つかの社会的事件（「酒鬼薔薇聖斗」等）と善悪二元論にわたる言説（「ヒトラー」／「ハンナ・アーレント」等）を援用した。おそらく冨田氏の人生に関わってきた現代日本が、スメルジャコフを『カラマーゾフの兄弟』の主人公に押し上げ、それが氏の思索を展開させたのであろう。言うならば、日本のみならず21世紀的世界が「スメルジャコフ」に着目し、その悪魔的存在を呼び寄せているようだ。勿論彼を注視した者に、ヴィトゲンシュタインや武田泰淳等の存在もあるわけだが、それとは異なる「世間」化された「スメルジャコフ」に切実なまでの類似性を発見する現在があるのだろう。しかしながらこの点で、現代ドストエフスキーの読者に大事なことは、ジャーナリズム的言語や流布された言説に浮遊し問題を拡散させることではなく、むしろ『カラマーゾフの兄弟』というテキストに戻ることではないか。その意味では冨田氏が、スメルジャコフをフョードルが「バラムの驢馬」と呼んだことに着目し、その前提とされた旧約聖書（ヨブ記も含めて）から原義的に語り始めたことは評価すべきだろう。 そのような観点からは、2010年11月例会発表の木下豊房氏の「父親殺しにおけるアリョーシャ・カラマーゾフの罪－倫理と芸術のアポリア－」では、（これは翌年「広場」20号で、「スメルジャコフの素顔、もしくはアリョーシャ・カラマーゾフの咎について」と改題、副題はそのまま）バフチンの指摘する一次的・二次的作者、すなわちドストエフスキー独自の語り手に着目しての『カラマーゾフの兄弟』のテキスト分析から新たな「スメルジャコフ」論を目指されていて新鮮さを感じた。しかし発表後の木下論文については、昨年７月の合評会後の「傍聴記」拙文（ﾆｭｰｽﾚﾀｰNo.106）において、副題の「倫理と芸術のアポリア」という視点からの結論に不満的言辞を洩らさせていただいた。それは、木下論文が山 ――――――――――――3――――――――ニュースレターNo.111 2012 城むつみ氏の「カラマーゾフのこどもたち」（『群像』2010.7初出、『ドストエフ スキー』2010.11講談社に所収）にも言及しながら、山城氏の「アリョーシャとスメルジャコフの左右対称性」という枠組みを倫理よりも美学（芸術）的観点を優越的に解釈されたことと関係していた。結局、木下氏は「スメルジャコフの人間性は小説の筋立てのために犠牲にされ、甦生の道は絶たれ、悲劇的な生を終えざるを得なかった。スメルジャコフの自殺の悲劇は芸術と倫理のアポリアに位置づけられるものではないだろうか」（「広場」20号、p78）として締めくくられた。 この結論へ至る筋道の当否はともかく、山城氏はこの評論のタイトル通りに「スメルジャコフ」の救済を少年イリューシャとコーリャを囲むこどもたちの問題へシフトさせている。そして小説最後の「カラマーゾフ万歳！」（武田泰淳の言うように、ここには当然スメルジャコフが含まれる）のこどもたちの叫びは、「スメルジャコフ」の＜復活／甦生＞が暗示されることになった。以上はすでに前掲「傍聴記」でも触れたことだが、その拙文末尾で「ここでは、アリョーシャとスメルジャコフの左右対称性の美学は、こどもたちという可能性の渦中で混沌に帰し「カラマーゾフ万歳！」が叫ばれるのだ。」と書き残した。 今回の富田氏の発表は、途中自身が語ったように山城むつみ氏の評論を踏まえたものではなかったが、その着地点には、善悪二元論を肯定的に語るなかで＜アジア的混沌＞を予想させるものを感じた。しかしここに至る道筋が十分語られることがなく、やや安易な文明論のように聞こえた。実はこのポイントにこそ、テキスト論的な読みの根拠と道筋を付ける議論が必要なのだろう。ここで当方がその道筋で持ち出したいと思うのが、山城氏の評論とともに吉本隆明と三島由紀夫（武田泰淳も）がドストエフスキーに見出した「アジア的古代性の枠組み」であり「ドストエフスキーの美学」への洞察である。 紙面が超過気味なので以下引用しておくに止めるが、実は、今回会場での木下氏とのやりとりでは、その論文の結末とは異なった意見をお聞きしたように感じた。これは、西欧的美学の枠組みに止まらぬ、アジア的古代の＜混沌＞を背景としたもう一つの＜美の観念＞のなせる業ではなかったか。今後になお、＜アポリア＞は継続していると感じた。 「ぼくたちはどうしても、ドストエフスキーが自分の作品の世界に、眼にみえないロシアのアジア的古代的な感性や思想性の枠組みを施しているという仮定に導かれます。これをドストエフスキーが「祖国主義」と呼んだとしても、「土着主義」と呼んだとしても、そのことには意味がありません。ただ世界をロシアのアジア的古代性という枠組みで、構成していたかどうかが問題となるだけです。」（「ドストエフスキー断片」、『現代のドストエフスキー』p110（新潮社）1981所収） 「ドストエフスキーの美の観念は、少なくともギリシャ的ではない。私は、（直感的にだが）アジア的な生の指示を感ずる。そこには、ヨーロッパ人にとって不断の脅威であるところのアジア的混沌の風土がありはしないか？」 （「美について」三島由紀夫／1949「近代文学」）
ニュースレターNo.111 2012 ――――――――４―――――――――――― 事務局だより ○ 第43回総会は、5月19日（土）の209回例会に先立って、午後1時20分から 開かれました。議事の中心は活動報告、会計報告で、活動報告の要点は『広場』21号に掲載されており、会計報告は下記に掲載しましたので、ご覧ください。 ○ 会運営・「広場」編集の態勢は、発足時からの会の持ち味で、動ける人が全体の バランスを重視しながら動くというスタイルをとっています。前年からのメンバーで、2011年度の実務分担は次の通りでした。木下豊房（コージネート、ＮＬ作成・印刷、ホームページ管理）、熊谷のぶよし（「広場」編集チーフ）、近藤靖宏(会計、「広場」編集)、福井勝也（会場確保・編集）、渡辺好明（会計補佐）、下原敏彦（ＮＬ発送）、堤崇弘（メーリングリスト管理）、菅原純子、木寺律子、長谷川 研（編集校正協力）。2012年度からは、高橋誠一郎氏にも中心メンバーに入ってもらいます。 ○昨年暮れからロシアの親しい友人フォニャコフ氏（1970年2月の第6回例会で報告してくれた唯一のロシア詩人）夫妻や60過ぎのドストエフスキー研究者ナターリヤ・ジボルーポワが急逝するという悲しみの中で、ペテルブルグの博物館長との文通折に、「広場」の表紙の画家小山田チカエさんの逝去のことも伝えました。すると、チカエさんについての情報が欲しいとの返信がきました。実は、チカエさんは1970年に幼児絵画教育視察団に加わり、ソ連、フランス、北欧を旅行しており、その際にぺテルブルグの博物館に立ち寄り、リトグラフ数点を寄贈していました。私もそのことは、聞いていました。しかし、博物館ではチカエさんがどのような画家なのかは知らないできました。館長のメールによると、最近出たアルバムにチカエさんの作品が収録してあるとのことで、彼女が会と近い関係にある人とは知らなかったのは残念だとのべています。遅ればせながら、チカエさんの略歴を彼女の作品集末尾記載の資料に基づいて翻訳し、早速、送りました。 平成23年度収支計算書 （平成23年5月6日～平成24年5月5日） 会計 近藤靖宏 監査 渡辺好明
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ
No.110 News Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky
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報告者紹介：富田臥龍（本名、陽一郎） 明治大学文学部史学地理学科地理学専攻卒業。 その後明治大学文学部文学科文芸学専攻に学士編入学。そして卒業。 さらに、二松学舎大学大学院文学研究科国文学専攻・修士課程（博士前期課程）修了。現在は博士課程（博士後期課程）への受験浪人中。 今後は博士課程（博士後期課程）進学と、群像新人文学賞評論部門受賞を目指している。 ちなみに、「臥龍」は、文芸評論家としてのペンネーム、雅号。 ニュースレター№110 2012――――――――2――――――――――――― 第209回例会報告要旨 悪人論／バラムの驢馬―『カラマーゾフの兄弟』における「スメルジャコフ」論 富田臥龍 「…バラムの驢馬とは、召使のスメルジャコフにほかならぬことがわかった。せいぜい二十四かそこらの、まだ若い男なのに、おそろしく人ぎらいで、寡黙だった。人見知りするとか、何か恥ずかしがっているというわけではなく、むしろ反対に、性格は傲慢で、あらゆる人間を軽蔑しているかのようだった。ところで、この召使に関してもせめて二言、三言なりと、それも特に今、語らずにはすまされまい。彼はマルファとグリゴーリイに育てられたのだが、グリゴーリイの表現を借りるなら、<およそ感謝の念を知らずに>育ち、いつも隅の方から世間をうかがう、人見知りのはげしい少年になった。少年時代には、猫を縛り首にして、そのあと葬式をするのが大好きだった。法衣のように見せるため、シーツを身にまとい、猫の死骸の上で香炉よろしく何かを振りまわしながら、歌をうたうのだ。すべて、ごく内緒にこっそり行われた。ある日、グリゴーリイが葬式の稽古をやっているところを押え、鞭でこっぴどくお仕置きをした。少年は片隅にもぐりこみ、一週間くらいそこから白い目でにらんでいた。「俺たちをきらってやがるんだよ、あの性悪め」グリゴーリイはマルファに言った。「だれのことも好いちゃいねえんだ。お前、それでも人間かよ」だしぬけに彼はスメルジャコフに直接食ってかかった。「お前なんぞ、人間でねえわさ。お前は風呂場の湯気の中から湧いて出たんだ、それがお前さ……」あとでわかったことだが、スメルジャコフはこの言葉を絶対に赦すことができなかったのだった。」 （ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」原卓也訳 新潮文庫 上巻p234~235） 今回の「悪人論／バラムの驢馬」では、まず序論の「はじめに」で、この論を展開する理由を述べ、次に、１ 旧約聖書「民数記」より「バラムの驢馬」説話について、聖書から該当箇所を引用する。次に、２ 作品より「バラムの驢馬」とあだ名されるスメルジャコフについての説明部分に関連して、上記のような、引用箇所を列挙していく。 次に本論に入り、１ スメルジャコフの本性とサカキバラセイト（酒鬼薔薇聖斗）の類似性を指摘する。サカキバラセイト事件については、あくまでスメルジャコフ理解の参考資料に止めるが、こういった事件を起こすタイプの人間理解の為、引用する。そして、２ 「ドストイェーフスキイ自身の負の影としてのスメルジャコフ」で、ドストイェーフスキイ自身と、スメルジャコフの相似点を列挙していく。この列挙では、思いの外相似点が多い事に、諸兄は驚かれる事だろう。 そして、３ ドストイェーフスキイが『カラマーゾフの兄弟』で表現したかった真意、４ 「バラムの驢馬」（スメルジャコフ）の本質、５「カラマーゾフの兄弟」最大のテーマ「大審問官」についてといった、本論に入っていく。ここでは、神と悪魔の相克といった、聖書的問題と、「大審問官」のテーマなどに絡めて、「スメルジャコフ」論が展開される。その後、６ 序論と本論のまとめ、そして、結論・私の「悪人 論／バラムの驢馬」論と題して、旧約聖書、新約聖書、ドストイェーフスキイの作品 群を引用しながら、私なりの「悪人論」を展開していく。 ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№110 2012 最後に補論として、この「悪人」問題への関わりとして、石川啄木、ニーチェ、ヒトラー、ハンナ・アーレント、魯迅、そして再び新約聖書と、ドストイェーフスキイの引用と言及を通して、今回の「悪人」論のテーマを、世界史的、人類史的な規模の思想運動との関係で把握し、論述していく。 善とは、そして悪とは何か？この普遍的なテーマを、「悪人」という切り口から論ずる今回の試みは、ドストイェーフスキイ「カラマーゾフの兄弟」の新解釈のみならず、人間の普遍的な有り様の洞察への試みの一歩として、世界史的な意味を持つ事を、願って止まない。 第208回例会傍聴記 金沢友緒氏 ドストエフスキーと「コジマ・プルトコフ」を聴いて 近藤靖宏 一人でバラエティ番組を見ているときでも日常の会話の時でもいい。誰かが面白いことを言ったはずなのに自分は何が面白いのか分からなかったときどうすればいいか？前者なら「この芸人はつまらない」で片付ければいいし、後者なら自分もその意味が分かったふりをして皆に合わせて一緒に笑っておけばすむ。そもそもギャグというものはそれが面白ければ自然と笑いが出るのであって、本来あれこれ思案する必要はないはずだ。 ところがそうはいかなくなっている。今私は、コジマ・プルトコフの作品を読みながら首をひねっている。わたしの目の前には、今回の例会で配布された資料と、その後の懇親会の場で金沢さんからいただいたロシア・フォークロアの会『なろうど』会報（63号）の抜き刷りがある。かろうじて笑いどころが分かった気になっているのが一つ。『牧人とミルクと読者（寓話）』 ある時、牧人がどこかへミルクを運んでいた／しかしおそろしく遠いところだったので／もう彼は帰ってこなかった／読者諸君よ！彼に出くわさなかったかね？ 金沢さんの解説にあるとおりこの作品にはオチがないが、読者は牧人にミルクを盗まれたことに気づかない作者のマヌケさを笑うことができる。同様に今、本来考える必要のないことをわざわざ考えている私の姿は、第三者にとって笑いの種になりえるのだろうか？ そろそろ、コジマ・プルトコフについて紹介する。彼は、実在の人物ではない。A．Kトルストイ、他２名が冗談半分に作った架空の作家だ。冗談とはいっても、わざわざ彼の肖像画や役人としての経歴まで設定する念の入れようだ。作風はひたすらバカバカしいことばかりを書く。ところが次第に文壇からは真面目な社会風刺をやる作家と看做されるようになる。彼の正体である３人（自称彼の「保護者」）は、世間的に本来のプルトコフ像が歪んでしまうことを危惧し、また３人が同時に顔を合わせる機会が減ってきたことも相まって、彼は死去することになる。死後も彼の息子や友人と 称して作品を発表するいわば僭称者が後を立たなかったので、更なる世間への牽制として彼の「全集」まで出版される。この全集は版を重ねるごとに順調に出版部数を伸 ばしたので、これによっても彼は同時代だけでなく後世にわたっても一定の人気を維 ニュースレター№110 2012 ――――――――4――――――――――――― 持し続けた作家であることが分かる。 彼はドストエフスキーと同時代を生きた作家であるから、新しいもの好きのドストエフスキーが彼の存在を放っておくわけがない。事実いくつかの作品や、創作メモなどにプルトコフに関する言及が見られる。その例を列挙すると、『夏象冬記』では「現在注目すべき作家」としてプルトコフが紹介されている。また、ドストエフスキーが『分身』を改変した際には「ゴリャートキンをプルトコフ風に描く」という構想メモを残している。そして『ステパンチコヴォ村』にはプルトコフの作品『パンバの包囲』が登場する。 物語中には、子供がロスターネフ叔父の前でこの詩を朗読し、途中途中で叔父が解説じみたコメントを述べるシーンがある。『パンバの包囲』とはカスティリア人ペドロ・ゴメスが9,000人の軍勢を率いてムーア人の拠点を9年間包囲し続けたという叙事詩。何故かその間ミルク以外の食物を一切口にしないという誓いを立て、それを実行した結果、拠点は陥落せず最後まで残った兵士はわずか19人を残すのみ。正直なところ訳が分からない、ナンセンスな話である。おそらくこのシーンの笑いどころは、ロスターネフ叔父がこの滑稽な叙事詩の笑いどころを分かったつもりでいるが、実のところは理解などしていないということにあるのだろう。ここにも他人のマヌケさを笑いの種にするという発想がある。 今回の発表は、ドストエフスキーも『ズボスガール』という面白さを主体とした雑誌を出すことを構想したが、途中で検閲に阻まれて企画倒れになったというエピソードによって締めくくられた。これはコジマ・プルトコフがデビューする前の話であり、この構想の影響を受けて彼が生まれたのかもしれない、という遠大な仮説を金沢さんは提示した。正直なところ「まさか・・・」と思った。が、私にとって今回の発表はドストエフスキーを読む際は今後も「笑い」の要素を常に頭の片隅に置いておこうと、いう心がけはきっと間違っていないと確信させられる内容であった。 ドストエフスキーは、よく作品中に笑い話を挿入してくれる。が現在の読者にはその笑いどころが分からない、あるいはそこに笑い話があることにさえ気がつかないままスルーしてしまうこともあるだろう。だから私たちは本来大真面目に考える必要などないはずの「笑い」についてわざわざ考えるという愚をあえてする必要がある。これが現在のドストエフスキー読者の宿命なのだ。 事務局だより ○「広場」の表紙とカットを創刊号より飾ってきた画家の小山田チカエさんが亡くなられ、4月18日午後2時から府中市の葬儀場・市民聖苑でお見送りしました。行年90歳とのことでした。会からは福井、渡辺、下原夫妻、木下の5名が参列し、チカエさんの作品「聖母子像」で表紙を飾った出来たての「広場」21号をお棺に納めました。 チカエさんは、高名な画家で夫の小山田二郎さんと共に、会発足間もない1970年代はじめに、新宿厚生年金会館が会場であった頃の例会に初めて見えました。それ以来の古い会員で、ドストエフスキーと会を大変愛した人でした。ご冥福を祈ります！ ○「広場」21号の表紙は渡辺利子さんのデザインで、偶然にも小山田チカエさんを追悼するのには、これ以上は望めないくらいの仕上がりになりました。内容も多彩で重量感のある論文、エッセイ、書評など充実した号です。7月の例会は合評会を予定しています。 （木下豊房） 事務局メールアドレス：tkino@chiba.email.ne.jp |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.10９ News Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky Society 2012.2.29 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：金沢友緒 （かなざわ ともお） 東京大学大学院修士課程2年。専門は19世紀ロシアの文学、文化。ロシアにおけるドイツ受容等も研究している。 修士論文｢トゥルゲーネフ『ファウスト』にみる物語の方法―実験者と観察者の狭間で―｣ （2011年提出） 「創られた作家「コジマ・プルトコフ―19世紀後半ロシアに おけるフォークロアと作家―」（「なろうど」第63号掲載）ニュースレター№109 2012――――――――2――――――――――――― 第208回例会報告要旨 ドストエフスキーと「コジマ・プルトコフ」 金沢友緒 ドストエフスキーの『ステパンチコヴォ村とその住人』（1859）の中に、クジマ・プルトコフという作家の話題で盛り上がる場面がある。ロスタネフ大佐に、娘のサーシェンカが「パンバの包囲」という「おどけた詩」を朗読して聴かせたところ、詩の作者が問題になった。 私はナースチェンカに向かって、これは誰の詩なの、と聞いた。 「そうだそうだ！誰の詩だね？」と伯父は急き込んで言った。「きっと頭のきれる詩人が書いたのだろう。…そうじゃないかね、フォマ？」 「フム！…」とフォマは曖昧な声を出した。 サーシェンカは父親の問いに対し、「これはクジマ・プルトコフという人が書いたの、パパ。《同時代人》誌に掲載されたのよ」と答える。「クジマ・プルトコフ！知らないなぁ」と訝しむ大佐。だがすぐに、「しかし、きっと立派な詩人なんだろう」と納得し、その姿を見てフォマ・フォミッチはたまらず笑い出した。 ドストエフスキーは『ステパンチコヴォ村』の中に、既存の作家や作品の名前を数多く登場させている。コジマ（クジマ）・プルトコフКозьма（Кузьма）Прутковもまたその1人であるが、この場面では名前だけでなく、その詩がとりあげられ、注目されているのだ。彼は一体どんな人物なのか。 コジマ・プルトコフは、19世紀中葉のロシア社会で《同時代人》誌を中心に活躍していたユーモア作家であり、滑稽な詩やパロディ、アフォリズム等を数多く発表していた。興味深いことに、このコジマ・プルトコフは詩人А.К.トルストイと彼の身内のジェムチュージニコフ兄弟達が創り出した架空の作家であった。共同ペンネームの下で複数の作家が創作活動を展開する事例は、同時代ロシアの他の作家にも見られた。しかし「コジマ・プルトコフ」はただのペンネームではなく、独自の伝記と外貌（彼の肖像画が流布している）を持つ独立の作家であった。『ステパンチコヴォ村』の中でもひとりの「実在の流行作家」として扱われている。 日本でプルトコフの名は殆ど知られていないが、ロシアにおいては彼の作品集は出版され続けており、2011年には偉人伝シリーズに『コジマ・プルトコフ』伝まで登場している。19世紀ロシアの同時代性のみならず、ロシアにおける今日性の点でも興味深い存在である。 『ステパンチコヴォ村』や『冬に記す夏の印象』等の著作の中でプルトコフがとりあげられていることからも、ドストエフスキーが彼に対して関心を持っていたことが推測される。また、プルトコフを巡る一連の現象は、初期ドストエフスキーの実現しなかった雑誌《ズボスカール》を連想させるだろう。「コジマ・プルトコフ」を検証することは、ドストエフスキー文学の細部への理解を深める手がかりにもなるに違いない。 ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№109 2012 今回の報告では主に3つの点、すなわち①作家コジマ・プルトコフ ②プルトコフを巡る当時の文壇の反応 ③ドストエフスキーとコジマ・プルトコフ、について考察する。 第207回例会傍聴記 桜井厚二氏「現代ロシア新聞で言及された『ドストエフスキー』」 下原敏彦 今日、パソコン機能の発達やデータベースの整備でドストエフスキー情報は、迅速により多く知ることができるようになった。今回の報告者・桜井厚二氏は、早くからＩＴ分野に着目し「現代のドストエフスキー情報」の集約を試みてきた研究者である。 氏は、これまで1990年代の新聞から集めた『現代用語としての「ドストエフスキー」』（2000）や共著『21世紀 ドストエフスキーがやってくる』（集英社、2007）の「現代用語としてのドストエフスキー」などを手掛けている。が、それらは、専ら現代日本の新聞とインターネット上からの情報であった。現代ロシアの新聞情報の紹介は、知る限りなかった。それ故に報告は、初の日本以外のドストエフスキー事情紹介という点で、画期的な発表だったといえる。ロシアの現代の新聞は、ドストエフスキーをどう報じているのか。知っているようで知らなかっただけに、大いに興味湧くものであった。 もっとも、ロシアについて知らないのは一人ドストエフスキーに限らない。例えば、先日の新聞にモスクワ支局員のこんな囲み記事があった。「どれだけ自分は、普通のロシア人の声に耳を傾け、彼らが抱える問題や思いを伝えてきたか」。ロシアで「日本製品は大人気だ。そうしたことを日本の知人に話すと驚かれる」（朝日新聞2012・2・8「記者有論」） 近くて遠い国といえば北朝鮮の専売特許だが、上記の記事を読むとロシアもまたしかりである。ドストエフスキーについても実際のところ未知であった。それ故、一般市民が読む新聞からの集約は、現代ロシア人のドストエフスキー観を知る上で極めて重要なものがある。 氏は、集約対象として「イズヴェスチヤ」紙を選んだ。現代ロシアで最も平均的水準にある新聞ということが理由。対象年月を2010年としたのは、記事データベースの「一ヶ月限定試用版」（早稲田大学図書館が8－9月にかけて導入していた）を2011年9月に利用した都合上、1月１日から12月31日まで、丸一年間分 の完全なデータを確保できるのは2010年までに限られたためとのこと。データベース上によると同年1月1日から12月31日までの1年間、文中に「ドストエフスキー」が記載された記事数は108件という。3日に1件のペースである。ちなみに日本では、2001年元旦～2006年11月末まで朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、日本経済新聞の大手4紙で633件（日経テレコン21のデーター「現代用語としてのドストエフスキー」）という。これをみると1年間1紙で108件はかなり頻繁といえる。この現象、日本と同じようにブームか、と思いきや、タネあかしはトルストイ没後100年の影響では、と推察された。 氏は記事を12項目に分類して、内容を分析しながら紹介した。項目順位は、恣意 ニュースレター№109 2012 ――――――――4――――――――――――― 的とのこと。沢山の幅広い記事からだけに記憶に残った印象はこのようであった。ドの名前はフランスに関する記事のなかに多くみられた。大半は作家のサガンが読んでいた。政治家か俳優が『罪と罰』を口にした。「メグレ警視」の作者シムノンが幼少時代にドストエフスキーを愛読していた、といった類のものだった。豊富に例をあげられたのは、トルストイとの比較である。トルストイは常に「偉大な」という代名詞がつくが、ドストエフスキーは天才的・古典的といった総称。しかも単独で記事になることはあまりなく、チェーホフ、ゴーゴリたちロシア作家の一人として名を連ねることが多い。新聞が「平均的な水準」つまり大衆紙という性格からか、かなり砕けた登用もあった。作品名やシベリヤ流刑の影響からか、塀の中を体験した作家と呼ばれている。日本でいえば『塀の中の懲りない面々』を書いた安部譲二か。『死の家の記録』からは、『網走番外地』的雰囲気が伝わってくる。（健さんのように恰好いいと思われているのか？！）それに賭博といえばドストエフスキー、ドストエフスキーといえば賭博。そんな連想が浸透しているという。現にペテルブルグには何と賭博クラブ「ドストエフスキー」という店があったという。観光ルートでは知り得ぬところか。いずれにせよ、時評文脈が多い日本のドストエフスキー観とは大分異なるようだ。項目のなかに「武道家とドストエフスキー」というのがあった。記事は、目下ドストエフスキー作品を読書中だというレスラーへのインタビュー。もう一つは、空手の心得のある彫刻家が、地下鉄でガラの悪そうな男たちに絡まれた時に読んでいたのが「作家の日記」だった、というもの。このような場合、日本だったら新聞は、レスラーと彫刻家を人間心理を探究する有識者として持ち上げるだろう。が、ロシア新聞は、そうではないらしい。どこか揶揄的である。 いずれにせよ報告は、日本国内でのドストエフスキー評価しか知らないドストエフスキー読者にとっては、少なからずカルチャーショックを受けるものだった。そのせいか質疑応答も戸惑いがみられた。 こんな体験者もいた。二人のロシア人と話をしたとき、トルストイやチェーホフの話まではよかったが、ドストエフスキーをもちだしたら、二人とも急に怒りだした。この話を聞いて、数年前だが私の知人がロシア大使館職員から聞いたドの話を思い出した。なぜか文豪をおとしめるものだったらしい。 今報告の現代ロシアの新聞紹介は、報道において日本とロシアのドストエフスキー観の違いであった。1991年のソ連邦崩壊から20余年だが、いまだロシアでは、ドストエフスキーは反革命作家のままらしい。最後に、そうした新聞の記事事情について報告者の桜井氏は「『悪霊』を書いた作家ということが起因しているのでは」と結んだ。いろいろなことを考えさせられた報告だった。 事務局だより ○現在、熊谷のぶよしさんを中心に、｢広場｣21号の編集が進められています。3月中旬に印刷所に入れ、4月20日頃には発送、皆様にお届けできる予定です。 （木下豊房） 事務局メールアドレス：tkino@chiba.email.ne.jp |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.10８ News Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky Society 2011.12.20 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home page:
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報告者紹介：桜井厚二 （さくらい こうじ） 早稲田大学非常勤講師 小冊子『現代用語としての「ドストエフスキー」』（東洋書店ユーラシア・ブックレット）などを通して、現代新聞記事に表れたドストエフスキーの大衆的イメージを探究している。一方でドストエフスキーとヨーロッパ犯罪小説との構造比較に関する考察を、1997年・133回例会、2001年・149回例会で報告し、「広場」8号、12号に論文を発表している。 ニュースレター№108 2011 ――――――――2――――――――――――― 第207回例会報告要旨 現代ロシア新聞で言及された「ドストエフスキー」 －2010年の『イズヴェスチヤ』紙より概観 － 桜井厚二 ｢ドストエフスキー」の名は、今日では文学の領域を越えて、時事評論や世間話など、より広範な言説の場で頻繁に言及されるほどの「現代用語」となっている。報告者はかつて日本の大手新聞記事で言及される「ドストエフスキー」の文脈を概観してみたことがあるが、これは日本国内で大手新聞記事内容を容易に検索できるデータベースが整備されたことによって、はじめて可能となった。最近、これとほとんど同等の概観を、ロシアのマスメディアに対しても可能にしてくれるシステムの存在を知り（雄松堂書店提供のデータベース「Integrum」）、試用した成果の一部が、本報告である。今回はとりあえずロシアの大手新聞の中から「イズヴェスチヤ」紙を選び、2010年の一年間で紙面に言及された「ドストエフスキー」の文脈を概観してみた。 周知のように「イズヴェスチヤ」は「プラヴダ」と並んで、旧ソ連邦の政府系機関紙として格式と伝統を誇る老舗新聞である。ただし現代ロシアの激動の中で、社主の変遷や社員の大規模流出が相次ぎ、「イズヴェスチヤ」という看板こそ同じものの、その内実はめまぐるしく変貌してしまっており、昨今のメディア政策によって政府の統制下に入ったと評されている。ソ連邦政府系機関紙だった頃に比べて、より通俗的な大衆紙として方針転換したこともあり、良くも悪くも現代ロシアのマスメディアにおける最も平均的な水準を、明瞭に反映した新聞であると言える。 データベース上で2010年1月1日から12月31日にかけて、「ドストエフスキー」という語を文中に含む記事数は108件。文脈を概括して、概ね以下のように分類してみた。 1．フランス：なぜかフランスに関連した「ドストエフスキー」記事が目立つ。 2．「ドストエフスキー」に掛かる枕詞：トルストイをはじめとするロシア文豪と並列や、「天才的」「古典的」などの形容。 3．投獄経験：ドストエフスキーの「逮捕と流刑」への言及。 4、『悪霊』との関連：「祖国の未来の予言者」としての言及。 5．賭博：作者に「賭博者」のイメージを投影。 6．アクチュアルな文学：近年の時事的な話題との連関 7．教会・キリスト教：「道徳の核としての信仰」「魂の探求」などの言葉が引用。国内情勢と正教会の動向との関連性に、若干の生臭さも見受けられる。 8．犯罪・悪：「人間の暗部」のイメージ 9．バフチンのドストエフスキー論への言及 10．ペテルブルグ：「ドストエフスキー的な街」として 11．武道家とドストエフスキー 12．その他 ――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№108 2011 第206回例会傍聴記 福井勝也氏「ドストエフスキーと無意識的なるもの、その後の感想」 木下豊房 今回の福井氏の報告に、私は、恐らく他の傍聴者が思はなかったほど、あるいは、報告者ご本人の意識にあった以上に、アクチュアルなメッセージ性を感じつつ、興味深く傾聴したのであった。というのは、近年、「父親殺し」や「サディズム／マゾヒズム」をキーワードに、フロイド理論の通俗的な解釈に乗っかった解釈で、未経験な読者を煽情的にあおり、新訳の販路を広げようとする訳者と出版社の魂胆を目に余るものを感じていた私には、報告者が、小林秀雄によるフロイド主義的ドストエフスキー解釈の批判をクローズアップすることで、ドストエフスキーは「psychologist ではない、pneumatologistである」（小林の記憶によるベルジャーエフの定義、井筒俊彦によって反復され、「見霊者」と訳される）という視点を踏まえ、このロシア作家の無意識の領域にあらためて目を向ける必要を唱えたことに新鮮さを感じたのであった。 「あらためて」というのは、実は、福井氏は本会刊行の「ドストエーフスキイ研究Ⅰ－特集＝ドストエーフスキイと深層心理－」（1984)に「無意識的なるもの －ドストエフスキーとユング－」を発表しており、いま振り返ると、この論文は画期的なものであったと思うのである。というのは、最近、私はロシアのある学術機関の依頼により、日本における過去40年間のドストエフスキー研究概観を執筆し、2011年7月末に提出した。その執筆の過程で気づいたことがあった。1971年は作家生誕150周年であったが、記念講演会で五木寛之が「明るく楽しいドストエフスキー」を唱え、これが後に江川卓の「謎解き」の動機となった（「謎解き『罪と罰』」後書き）。この年、荻野恒一が小林の批判を意識しながら、フロイド主義に依拠した「ドストエフスキー－芸術と病理‐」を出した。1978年に桶谷秀昭はその著『ドストエフスキー』で、作者の肉体的・生理的気分、感触に密着した限りでの「観念」を論じる中村健之介に共鳴しながらも、「神」の問題に及んで、「民衆とかロシアの近代化」にかかわる、いわば「集合的無意識」の問題を無視できないと気づいていたらしい。 しかし1984年にいたって、ドストエフスキーの人物達を動かす観念が、肉体的・生理的感覚密着のものではなくて、民衆の歴史的な無意識の層に根ざすであろうことを、小林秀雄とユングを援用しながら論じたのが、福井氏であった。また同じ「研究」掲載の井桁貞義による論文「大地－聖母－ソフィア」はロシアの民俗学の成果を紹介しながら、「集合的無意識」の具体例を豊富に興味深く示し、福井氏の総論を補強した形となった。この方向でのドストエフスキー作家像の構築はその後、正当に展開できず、いまなお重要な課題であり続けているといえよう。 というのは、その後の脱構築テキスト論の風潮のなかで、固有名の語源や教会暦、ゲマトリアといった神話、民族学的な素材を用いての興味本位の「謎解き」は、論者が作者の僭称者に成り変わる独我論的、恣意的な解釈に陥り、また作中での作者像のあり方を理解しない生理感覚密着の作品解釈は、病気尊重の作家というフロイド主義的イメージを増幅させる方向に偏向してきたからである。 高度経済成長の精神的無風期にこういう通俗的な視点に立った著述が大手出版社の商業主義的なメガネにかなったのも不思議ではない。目先の衣装を変えて一般読者の興味をそそるためには、戦前戦後の転向、戦中、敗戦体験、70年代の左翼運動の退廃など、精 ニュースレター№108 2011 ――――――――4――――――――――――― 神的混乱と実存主義的状況に直面しながら読まれてきたドストエフスキーを、「深刻で重い」偏ったものと一蹴して、「小説家」ドストエフスキーの復権を一面的に唱える商業上の要請があったのである。その結果、日本の過去のドストエフスキー受容の歴史をあえて無視した独我論的、独断的な解釈が、ロシア文学専門家の名において、市場で流通してきたといってよい。二葉亭四迷にはじまり、萩原朔太郎、小林秀雄、さらに椎名麟三、武田泰淳、埴谷雄高などの戦後作家、森有正、唐木順三などの思想家によって究められてきた日本のドストエフスキー受容の歴史は現在の世界のドストエフスキー研究の基礎的な概念を先取りしており、誇るべきものであると私は感じている。であればこそ、歴史に背を向けて、独我論的、独断的なアプローチに居直り、初歩的な誤訳や、場当たり的な解釈、テクスト改竄すら恥じない仕事が、専門家の名において堂々と市場に流通する現象に目をつぶることは出来ない。 福井氏が紹介した島田透の論文「スタヴローギンの精神分析―主体の構造をめぐって」（福井論文掲載誌、前掲「ドストエーフスキイ研究Ⅰ」）は、亀山郁夫のマトリョーシャ論（「『悪霊』神になりたかった男」）とまったく同じテーマを扱いながら、はるかに説得力に富んだ、深い、優れた分析であることを示している。「ドストエーフスキイ研究」はⅠ－Ⅲとも、事務局に十分に在庫があるので、福井論文と合わせてみなさんに是非、読んでいただきたい。 事務局だより ○2013年にモスクワで開催される第15回国際ドストエフスキー・シンポジュウムについての情報が、このほどIDS会長を通して、ロシアから届きました。それによると、会期は7月9日～15日、会場はソルジェニーツイン記念「在外ロシア会館」(Дом Русского
зарубежья). シンポジュウムの総題目は「ドストエフスキーとジャーナリズム」 詳しい情報はホームページにアップしましたので、表紙の「国際シンポジュウム情報」からアクセスしてください。 ○2011年10月22－24日に北京で、「21世紀の文化コンテクストにおけるドストエフスキー－伝統と文化―」と題する国際ドストエフスキー学会が開かれました。日本から私と木寺律子さんが参加、清水孝純さんは奥さんの入院で、残念なことに、間際にキャンセルでした。この学会は「広場」17号に木寺訳で紹介した論文「中国における受容」の著者・張変革さんらが実質的な組織者なって、北京第二外国語学院に「ドストエフスキー研究センター」開設されるのを記念して開かれたものです。外国からの参加者は、私達のほかに、ロシアから7名（ザハーロフ、カサートキナ、ステパニャン、チホミーロフ、アシンバーエヴァ、フォーキンの6名は2000年の千葉大学での学会にも参加した人達）と現IDS会長のD･マルテンセン（ニューヨーク・コロンビア大学）の8名でした。 木寺さんは «Звезды и цветы в романе
«Братья Карамазовы»（「『カラマーゾフの兄弟』における星と花」、私は
«Искажение авторского
образа Достоевского на японском рынке»（「日本市場における作家像ドストエフスキーの歪曲」と題して報告しました。私のロシア語テクストは個人のサイトですでに公開しています。 ○上記の傍聴記で私が触れている福井、島田論文を含む本会の出版物「ドストエーフスキイ研究」Ⅰ－Ⅲ、会報復刻版「場」Ⅰ－4、および「広場」のバックナンバーは事務局に在庫しています。ただ「場」、「広場」の号によっては、品切れもあります。カタログはホームページ「会の刊行物」からアクセスしてご覧ください。会員には定価の半額もしくはそれ以下の頒価で提供できる予定です。 （木下豊房） 事務局メールアドレス：tkino@chiba.email.ne.jp |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.106 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2011.7.24 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：森 和朗（もり かずろう） NHKディレクターをへて日大芸術学部講師 この会での報告がきっかけで『ドストエフスキー闇からの啓示』(中央公論社)ができる。他に『マルクスと悪霊』『自我と仮象』など。最新刊に『甦る自由の思想家鈴木正三』(鳥影社)がある。このところドストエフスキーからやや離れ、自分独自の思想の構築を目指している。 ニュースレター№106 2011 ――――――――2――――――――――――― 第205回例会報告要旨 ドストエフスキーと鈴木正三における悪の認識 森 和朗 「ドストエフスキー砦」の三悪人といえば、『罪と罰』のスヴィドリガイロフ、『悪霊』のスタヴローギン、『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフであろう。彼らは殺人者でありながら刑事訴追を免れ、無神論者であるため神からも追及されず、後悔も未練もなくさっさと自殺してしまう。 彼らは極悪人であるにしても、ドストエフスキーが書いているように、「ナイーヴで純真」でもある。スヴィドリガイロフは天真爛漫であり、死を前にしたネヴァ河畔の彷徨は叙事詩的ですらある。スタヴローギンはその純真さを奇行や放蕩でカモフラージュしているが、凌辱した少女の自殺によって悪の深淵に突き落とされる。乞食女に産み落とされたスメルジャコフは「腹の中で自殺したかった」と呪いながら、好色な父親を殺してその罪を兄たちになすりつけてしまう。 彼らはドストエフスキーが創造した人物としては珍しく、神への関心が稀薄である。なみの無神論者は神の存在を前提としていて、絶えず神を意識しているのに、彼らは神の存在そのものを無視しているから神に赦しを乞わない。『悪霊』の創作ノートのなかで、スタヴローギンは「ぼくは神を信じないが、潔白な人間でありたいと思っている。ぼくはエゴイストだ。だからエゴイズムで生きたいんだ」と語っている。ドストエフスキーにとって人間の根源的な悪は、他人を踏みにじって自己中心的に生きようとするエゴイズムであり、ツアーリ専制のロシアにはびこっているのがこの神まみれのエゴイズムなのだ。ドストエフスキーは「三悪人」の苦悩のなかにエゴイズムの極北を見究め、それから脱却する道を探っているように私には思える。 戦国末期に三河武士として生を享けた鈴木正三は、大坂夏の陣で首級を二つあげながらそれを捨てて仏の道に入ったが、それ以前から自分の心を凝視していた。「身を思う心の中に悪業の鬼が住む」のであり、その念が八万四千の煩悩になるのだ。「悪というものは窮まりては必ずその非を知り、心を翻すものなり。故に名利の善根よりも無漏に近し。」人は極悪のなかに落ち込んでいったら、それが人には許されないものであることを悟って、自ら立ち直ろうとする。自分を乗り越えようとするのが「無漏」であり、外見だけの「善根」よりも貴い。正三もまたエゴイズムと対峙して、それから目を逸らそうとはしない。 天草の乱のあと彼は現地に渡り、棄教したキリシタンや彼らが遺した文書に接して、『破吉利支丹』を書いた。キリシタンが信じる神は全智全能だというが、天地開闢以来、仏教などが弘まるのを捨置いてきたから、「たわけ仏」というものだ。このキリシタンらは煩悩のおもむくままに振舞うのを自由だと称しているが、それは自由の顛倒も甚だしい。「彼らに随う者ども、幾千万という数を知らず亡びぬ。これ魔法の致す所なり。」そういえば、『悪霊』に登場するシガリョフも「一億人の首切り」などと豪語していたが、これらの大袈裟に見える数字は、征服された新大陸と、社会主義化されたロシアと中国で現実になった。 「神が存在しなければ、すべてが許される」というのはイワンの十八番であったが、 正三は「神が存在するから、すべてが許される」に限りなく近づいている。 ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№106 2011 第204回例会傍聴記 「広場20号」合評会傍聴記 福井勝也 梅雨明けの酷暑が盛りの先日（7/16）、20号を迎えた「広場」の合評会が行われた。ちなみに「合評会」は9号から開始され、すでに10年以上が重ねられてきた。年一度の例会形式として定着した感がある。発表者が論文を書く際、例会での意見等が反映されてその内容が変更になる場合は珍しくない。今回も高橋・木下両氏が論文の後記・注でこの点を明らかにし、長瀬氏はタイトルを含めての改訂稿と銘打っておられた。その論文が再度、論評者の発表によって「合評会」の俎上に乗せられ、結果発表者自身が再考を促される。さらに参加者を通して問題が対話的に連続されてゆく。この回路こそ、ドストエフスキーを間に「対話」を重ねようと発足した「会」の精神そのものであった。今回、自身が司会を務めさせて頂きながらそんなことを思った。 そうした感想を可能にしたのは、今回の論評者五人が当該論文とその前提となる作品・資料を率直に読み直し、参加者への対話的な姿勢に溢れた発表をされたからだと思う。特に、『白痴』を対象とした高橋論文への感想を述べた渡辺氏の丁寧な語り口は、若干の問題点に触れながらも、誠に丁寧なもので感心させられた。発表内容を再吟味された高橋氏の好論文の意図をよく咀嚼された論評であった。年来の渡辺氏自身の疑問「ムイシュキン＝美しい人？」も提起され、それが高橋氏へのさらなる問いかけにもなっていたと思う。また熊谷氏の冷牟田論文への論評も、対象作品の『スチェパンチコヴォ村とその住人』を平易に語り直しながら、冷牟田氏の論点を改めて浮き彫りにしてくれた。小説の喜劇性が「作品」に特徴的な語り手と作者の距離の問題、すなわちドストエフスキーに特徴的な作品構造と関係していることが具体的に理解された。永年温めておられる冷牟田氏の語り手論の喜劇応用編を熊谷氏が詳かにしてくれた。残念なことは、冷牟田氏ご本人が不参加であったことか。ほぼ同様な感想は、第一論文の長瀬氏にも言えるだろう。年齢差のある近藤氏は、長瀬氏の人生をも率直に吐露された論文を、Ｅ・Ｈカーの著作を焦点に論評された。今日なお『資本論』と『カラマーゾフの兄弟』の併読の必要性を説く老（失礼！）マルキストである長瀬氏が、労作『ドストエフスキーとは何か』において、二著がヒロシマ・ナガサキに及ばなかったことを指摘している論文末尾が印象的であった。さらに、チェルノブイリからフクシマまで起きてしまった現在、長瀬氏の文学へかける思いが一層強く迫ってきた。ただ付言すれば、マルクス（「主義」以前）の深い理解者であった小林秀雄の『ドストエフスキーの生活』は、Ｅ・Ｈカーの『ドストエフスキー』とは異なる歴史への洞察（「序文」参照）を前提にしていて、「伝記／評伝」とは違うむしろ「創作的作品」と言えるものだろう。その点で＜剽窃問題＞は本質的でなく、当時の狭い文壇による中傷と理解すべきか。この点はとにかく、近藤氏がカーの『ドストエフスキー』に、小林の『ドストエフスキーの生活』を併せて論評の対象（材料）とされなかったことが残念であった。 今回の合評会で特に注目すべきだと思っていたのは木下論文であった。論評者の高橋氏も、木下氏が従来から力説されてきた一次的作者（＝作家本人）と二次的作者（＝語り手）の構造や「記憶」「思い出」の問題に触れ、今回はそれをスメルジャコフ論 ニュースレター№106 2011 ――――――――4――――――――――――― に敷衍した内容であることを語られた。確かに、その通りの新展開の興味深い論文であったのだが、問題はその着地点にあるのではないかと感じていた。前段の「作者論」が＜倫理と芸術のアポリア＞という副題の問題へ収斂し、＜メモワール構造におけるスメルジャコフの現実＞は説得的であったが、最後に＜倫理＞よりも作品の＜芸術＞的構造が優先して結論が導かれた。この結論をどう受け止めるべきか。司会をしながら何人かの方に意見を求めたが、もう少しこの点での議論ができればと思った。とにかく、木下氏ご本人が不参加であったのも残念であった。実は、この問題は、第三論文である長谷川氏の「イワン・カラマーゾフの若葉」にもほぼ同様な議論が成立するのだろう。つまり二次的作者である作品の語り手の視座あるいはその美学的原理からは、その＜可能性としてのイワン＞の原初的な＜感受性＞も、語られるべき倫理的スメルジャコフ像と同様に小説構造の限界線上に位置づけられるものではないか。論評者の船山氏も長谷川氏の発表意図（≒ロマンチシズム）を好意的に丁寧に辿られていたが、長谷川氏の論文主題は発表原稿の頁数以上の制約を元々孕んでいたのかもしれない。さらに本論点は、今回の冷牟田氏の語り手論とも通底していて、ドストエフスキー文学が避けて通れない内在的問題として浮上してきた感がある。言うならば、それがスメルジャコフ像をめぐって先鋭化したものと考えられる。 それでは、今回提起されたスメルジャコフ論は、木下氏の説く「アポリア」としての文学的結論が唯一のものであろうか。この点で、今回の「広場」では、別なかたちの解決？の糸口が複数仕掛けられていたように思う。一つは、エッセイ欄の川崎・今井両氏のイワンとスメルジャコフに関する表現であって、川崎氏は翻訳者的限界を超えた研究者的立場から、今井氏はより深い層の倫理的読者の立場からの示唆であった。もう一つは、木下氏も論文で取り上げ、私自身も旧著新刊の書評欄で論じた山城むつみ氏の新著『ドストエフスキー』であった。この評論の最後の項目が、「カラマーゾフのこどもたち」でその主題が木下氏同様スメルジャコフ像の再生を企図するものであった。その結末では、アリョーシャとスメルジャコフの左右対称性を美学的範疇に止めずに、スメルジャコフの問題を継承した少年イリューシャが、ポスト・アリョーシャ的存在のコーリャ少年の愛に満ちた配慮で愛犬ペレズヴォン（ジューチカではなく）との「邂逅」を遂げることを通して、スメルジャコフの問題が問い直される道筋が示唆されていた。そして山城評論の末尾、「カラマーゾフ万歳！」と叫ぶこどもたちの言葉が、アリョーシャとスメルジャコフを両端とする「カラマーゾフ」の全スぺクトルに対して「万歳！」と絶叫したと結んでいる点を書き添えて置こうと思う。ここでは、アリョーシャとスメルジャコフの左右対称性の美学は、こどもたちという可能性の渦中で混沌に帰し「カラマーゾフ万歳！」が叫ばれるのだ。大分、与えられた頁数を越えたようだが、引き続く「対話」が要請される重要な問題が提起された有意義な合評会であったと思う。 事務局だより ○第204回例会「合評会」には、体調不良で、心ならずも欠席してしまいました。 福井さんの傍聴記からもうかがわれるように、多彩な議論が出たようで、参加できず残念でした。 ○11月の第206回例会の報告者が未定です。どなたか自薦、他薦していただけると有難いです。 （木下豊房） |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.1０５ News Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky Society 2011.6.15 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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ニュースレター№105 2011 ――――――――2――――――――――――― 第203回例傍聴記 近藤靖宏氏「『未成年』を読む」を聴いて 堤 崇弘 この発表は、本来、3月12日に予定されていたが、東日本大震災のために延期されたものである。近藤氏のこととて、さぞかし心も頭もしっかりと調整され、いわばプロ野球の先発投手がローテーションに合わせて心身のピークを持って行くように、コンディショニングされていたことと拝察する。お気の毒であったが、その後2カ月、一度緊張をゆるめ、その間を利用して更に内容に磨きをかけ、臨まれたであろう発表には、それだけのことはある、と思わせるコシの強さがあった。 最初に時代背景の話から導入された。年を明示せずに「9月19日」から書き始められている作品の設定年代について、パリのチュイルリー宮焼失への言及との関係から、実は、1872年であると突き止め、アルカージイは1853年（農奴解放の8年前）生まれと結論された。これに当時の農奴の人権欠如とマカールの証文の話が続いた。 その後、語り手について取り上げられた。本作は、一人称小説であり、自意識過剰な主人公の心の動きに読者を付き合わせる半面、設定上、執筆時期を事件よりも後の時点とし、自己を対象化する客観性をもって語られてもいる。近藤氏はむしろ、その「意識による事実の歪みのなさ」の方に注目した。アルカージイは物語の中で、極度に感情的に、自分を見失ったまま行動している場面が多いが、それをいささかも手加減なく、滑稽を滑稽のまま伝えきっている。登場人物としての未成年アルカージイと、語り手たる成長したアルカージイは同一人物でありながら、視点が全く異なっており、その意味では、ドストエフスキー得意の「作中作家」型小説を思わせる、珍しいタイプの一人称小説と言えるかも知れないと気付かされた。 自意識過剰な人物といえば、もう一人、セリョージャ公爵を忘れてはなるまい。近藤氏は、アルカージイ、ヴェルシーロフと並び、彼を言わば第3主人公の体で取り上げ、被害者意識、コンプレックス、卑屈な態度などが、貴族らしい気高い心と同居する人物像を明らかにした。その上で、この物語のテーマは、「自分を自分で裁く」ことではないか、という結論的仮説とともに、3人が三者三様に自分を裁いたことを指摘した。この捉え方、特にアルカージイについては、木下氏も賛意を表明されていたが、筆者としても、前掲の語り手に関する指摘と通じるところを感じ、同意見である。 この他、クラフト、オーリャ、のっぽ（うどの大木）といった副人物の、独自の視点からのスケッチを始め、面白い話が多々あったが、最も印象に残ったことを書いておきたい。 実は、3月の時点では近藤氏は、アルカージイが初対面の際、セリョージャ公爵の欠点に気づいていたと書いているのは、後の交友関係と矛盾しており、いわゆる「後知恵」ではないかと解釈していた。ところが、この震災後の2カ月間に読み返してみて、そうでもない気がして来たという。淋しがり屋の彼は、本当に最初から公爵の悪影響を予感していながら、それでも大丈夫だろうと、いわば自分を欺いて付き合ってしまったのだと認識を改めた。そこに氏は、「原子力発電は実は危ない」と薄々わかっていながら、ついつい電気の便利さの誘惑に負け、危険から目をそらしてきた我々と同じ種類の人間的な弱さを見た、と指摘した。発表が延期になってこその洞察であり、この「時間経過による見解の変化」の表明こそ、アルカージイそのものを比喩的に体現する巧まざる(?)好演出であった。 二次会でお聞きしたが、氏は今回、評論家による解説書類を封印したという。影響されることを恐れてとの由だが、一つの賢明な選択であろう。淡々たる語り口の中にも、自力で ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№105 2010 テキストを読み込んで得られた見解には力と味があり、プロの評論家の言を引きつつ質問する出席者との問答でも、自らの言葉を紡いで臆する所がなかった。むろん、質問者の話にも、いつもながらはっとさせられるものが多々あり、カフカが愛読していたという情報や、その説を後押しする熊谷氏の見解など興味と刺激の尽きぬ午後であった。 近藤靖宏氏「『未成年』を読む」を聞きながら考えていたこと。 熊谷のぶよし ロスチャイルドの理想は、大々的に語られたきり早々にこの小説の中から姿を消し、アルカージイの生活や欲望や怠惰の中に埋没する。しかし、その埋没そのものが、見えなくなった理想をどこかで照らし出している。アルカージイの目はどんな時でも、他者の懐く理想の姿を追い求めて動く。他者の理想の在り方に激しく反応する。それはマカールやヴェルシーロフに対する時だけでなく、あらゆる登場人物にむけられる。彼が、彼女がどのような理想を持つ人間か、それがアルカージイが知りたいことなのだ。 知力を持て余したダメおやじヴェルシーロフは生活の中で朽ち果てるかもしれないが、心にずっと持ち続けた、斜めさす光に照らし出される西欧の理想を語らずにいられなかった。理想を語ることを渇望するアルカージイの目があったから、彼は語ったのだ。埋没しながら理想を求めている、そのことに自分では気づいていないかもしれない、それがアルカージイの魅力であり、多くの人間に彼が好かれる理由である。この小説の魅力もそこにある。 神の観念の獲得、不死の思想の創造、人類の調和のための参画、人類愛の実践。後期の作品の中で屹立するこれらの理想も、心の中での成立のプロセスをたどれば、アルカージイの懐いたロスチャイルドの理想と似ているに違いない。どのような理想も、自己と世界の亀裂の中から生み出されていく。その内面の秘密をアルカージイは正直に述べてしまったのだ。手段と目標は陳腐であっても、ロスチャイルドとなりそれを放棄することは、時代と状況に厳しく制約されたこの青年が、その中から思い描くことのできた唯一の理想の形だった。たしかにここには、ふつう理想について回る利他的要素はない。だからこそ理想が必ず持つ、自己と世界との完結した関係がはっきりと見える。 子供が家族の温かさの中で経験した全能感は、成長の過程で、社会との接触によって一度消滅する。青年期に、それが世界と理想に分割された姿で、再び現れるのだと思う。世界であるすべてを、理想を思う無条件に明るい感情で満たすこと。過ぎ去った全能感を再び取り戻すため、その時、この完結に自我が賭けられる。獲得し放棄するロスチャイルドの理想は屈折したものではあるが、まぎれもない理想なのだ。 名前をつけられるほど明瞭なものではなくとも、日々の生活の必要から浮いている、欲望とは異なる動機が、現代の我々の中にも存在する。それを注意深く見れば、理想と名づけられるものに近いに違いない。『未成年』は、最後の小説『カラマーゾフの兄弟』を準備する過渡的な作品だという評価を聞く。そうかもしれない。しかし、むしろ、生活に埋没した我々の中に生まれる、瞬間瞬間の理想を、アルカージイを通してドストエフスキーの小説世界と結びつける橋渡しの作品なのだと私は思う。 近藤氏の発表を聞きながらそんなことを考えていた。 ニュースレター№105 2011 ――――――――4――――――――――――― 事務局便り ○「広場」17号（2008）で木寺さんの翻訳により紹介した論文「中国におけるドストエフスキーの受容」の著者・張変革さんから、北京での国際会議の案内が届きました。それによると、北京第二外国語大学付属ドストエフスキー研究センターの主催により、作家生誕190年記念国際会議が、2011年10月21－24日に、「21世紀の文化コンテクストにおけるドストエフスキー、伝統と現代性」と題して開催されるとのことです。会からも何人かの出席が見込まれます。 ○5月14日の総会は決算、予算報告を中心として行われました。運営は例会設定、会誌編集の実務機能を実行するメーリングリストのメンバーで、常時メールを活用して意思の疎通をはかりながら行っています。本年度も、全国の会員の皆様の声なき声に耳を澄ましながら、バランスのとれた運営に心がけていく所存です。 昨年度と同じく、本年度も以下のメンバーで取り組んでいきます。木下豊房（コージネート、ＮＬ作成、ＨＰ管理）、熊谷のぶよし（「広場」編集）、木寺律子(「広場」編集補佐)、近藤靖宏(会計、「広場」編集)、下原敏彦・康子（ＮＬ発送）、菅原純子（事務補佐）、堤崇弘（メーリングリスト管理）、福井勝也（会場設営）、渡辺好明（会計補佐）。長谷川研さんが新メンバーとして加わってくださることになりました。新戦力として大いに期待しています。 （木下豊房）
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ
No.10４ News Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky Society 2011.2.１0 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：近藤靖宏（こんどうやすひろ） 昭和51年生まれ。会の運営・編集委員の一人として会計担当を務め、編集にも積極的に参加する。例会での発表は今回が初めてであるが、読書会では『虐げられた人々』『賭博者』の発表を行ったことがある。
ニュースレター№104 2011 ――――――――2――――――――――――― 第203回例会報告要旨 『未成年』を読む 近藤靖宏 ふとこんな荒唐無稽な仮説を思いついたことがある。小説の登場人物の一部の人たち、少なくとも語り手は自分自身が何者か超越的な存在、つまり作者によって操られているということに気がついていて、その絶対的な拘束を断ち切り自由になろうともがいているのだ。少なくとも私はこのようにでも考えなければドストエフスキー作品の語りの特徴、作者と登場人物の距離感といった問題設定をとらえることができない。今回報告の対象とさせていただく作品『未成年』は、幸いなことに一人称小説、すなわち語り手と主人公が一致する小説である。したがって語り手がある時ふと全知の作者になったりいつの間にか消えたりはしないだろうから多少は語り手の問題を考察しやすいかもしれない。 アルカージーの性分は、およそ語り手という役回りには不適任であろうと思われる。彼は些細なことでたびたび激昂しては我を忘れる。そしてまるでドストエフスキーの初期作品の主人公たちのように過剰な自意識病に侵されている。これならちょうど水面に斜めに沈めた棒が屈折して見えるがごとく明瞭に語り手の意識による事実認識の歪みを読み取ることができそうに思える。が、なかなか語り手アルカージーは尻尾を出さない。マカール老人との交流、ヴェルシーロフの無理心中未遂事件などすべての出来事が過ぎ去った後で少し人間的に成長してから記述された手記であるからか、あるいはどんな不都合なことでも「自分を罰するために」あえて記述しようという強固な意志があるからか。 まるですべてを盗み聞きしているかのごとく人の心を透視する父ヴェルシーロフ（実際この作品には盗み聞きがよく登場する）、アルカージー以上に重度の自意識病に侵されている悪友セリョージャ公爵、的確なののしり方をよく知っているタチヤーナ叔母。彼らの言動はアルカージーの意識を絶えず揺さぶるための仕掛けであると私には思える。例えばクロード・モネの睡蓮の絵を想像する（本当ならストーリーに登場するクロード・ロランの絵画を引き合いに出すべきところ、クロード違いの例を出してしまった）。あの池に誰かが石を投げ入れたら、あるいは池には魚が棲んでいてその魚が跳ねたとしたら、水面に浮かぶ睡蓮は動揺し、水面に移る景色もまた歪むだろう。実際にはこのような絵画は存在しないのだろうが、このようにまるで視覚的にとらえるがごとくアルカージーの意識のフィルターを通したストーリーの歪みをありのままに読みとることはできないか、そういうことを目論見ながら『未成年』を読んでいる。それが困難だとするならば、それは読者が無意識のうちに自分の知識や想像力の眼鏡で像の歪みを「矯正」してしまうからだろう。 我ながらステベリコフの語りのように不明瞭な文章を書いてしまった。が、私はヴェルシーロフの言葉に救われている。彼がアルカージーに語ったことによれば、思ったことを的確に表現する言葉が見つからないのは高尚な悩みであるとのことだ。とにかく『未成年』を読んでみました、という体験を報告したい。テキストとしては現代の日本語に近く読みやすいので工藤精一郎訳を用いることにする。お時間のある方は 少し読んできていただければ楽しい時間を共有できるのではないかと思う。 ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№104 2011 第202回例会傍聴記 杉里直人氏「方法としての引用―イワンの無知」を聞いて 熊谷のぶよし 論題は、イワンの言説における引用の誤りを、作者ドストエフスキーの引用の誤りとはとらえず、作家によって意図されたイワンの「無知」の表象としてとらえるという主旨である。 イワンの「無知」は、語り手による「イワンは知性の人と言われるがそうでもない」という言及によっては示されず、誰も気づかなければ存在しなかった表象―イワンはヴィクトル・ユゴーをちゃんと読んでいないという事実―によって示される。イワンの「無知」は、引用テキストの参照によってはじめて発見される。その時イワンは、「学者」「知性の人」というイメージと同時にそれとは異なる事実を持つものとして現れてくる。 ドストエフスキーの作品・その主人公は、多くの場合、イメージにおいて捉えられ語られる。しかし、精読すればそれを裏切るテキストの事実は数多くあることがわかる。杉里氏は今回の発表をとおして、イメージとそれとは異なるテキスト―もしくは歴史的事実や訳語に対する原語―の事実を明らかにした。とくに「大審問官」の章を対象に、イワンの引用の誤りを中心に、引用元のテキストを丹念に参照し、徹底的に掘り起こした。以下はその中で特に心に残ったところである。 発表は、異端審問制度がスペインの国家基盤の強化を目的とした政治的動機によるものであり、宗教的な動機からは程遠いものであったことが、前提の知識として提供された。次に日本語で悪魔と訳されている言葉が原文では霊（Spiritに相当）であり、そこには大審問官（異端審問長官）が悪魔と呼ぶことへの躊躇があったという指摘がなされた。 「大審問官」の章に検討が加えられ、ヴィクトル・ユゴー『ノートル＝ダム・ド・パリ』に関する、でたらめと言っていいほどのイワンの要約が指摘された。『ノートル＝ダム・ド・パリ』を読んだことのある読者がイワンの言葉を読んだならば、混乱し、続く彼の言葉の信憑性に疑問を抱くのではないか。それが章の冒頭におかれている意味はたしかに大きい。つづいて異端審問の犠牲者（キリスト教に改宗した元ユダヤ・イスラム教徒であった）をプロテスタントと見なす歴史認識の欠如。神話、旧約聖書等の知識の混在による不可解な比喩（天の火、バベルの塔）の使用が指摘された。 なかでもイワンの聖書知識の欠如についての指摘は、聖書に親しんでいない知識人の表象を明瞭にする上で説得力に富むと同時に、「大審問官」中に登場するイエスのあり方を理解するうえで重要な観点を提供するものであると感じた。とくに大審問官がしばしば口にする「自由」「良心」という言葉がイエスの言葉としては極めて少ないという指摘は、「自由」「良心」についての大審問官の論難を、たとえ沈黙であっても正面から受け止めているかに見えるイエス像自体が、イワンの聖書理解の杜撰さによって捻じ曲げられたものである可能性を示唆するものであると言えよう。最後にヨハネ黙示録の乱用の例として、大審問官が自らをバビロンの淫婦に喩えることによる、自己に対する価値評価の転倒の不可解さが指摘された。 ニュースレター№104 2011 ――――――――4――――――――――――― バフチンの『ラブレー』を翻訳した碩学が、テキストに存在する不可解さを避けることなく「わからない」と繰り返す発表に、あらためてテキストの持つ深みとそれに向かい合う杉里氏の真摯さを感じた。 イメージとしての大審問官は出口なしの完璧さを備えている。しかし、作者の構想としては、「大審問官」は否定されるべき言説として提示されたはずなのだから、そのイメージを突き崩すことになる杉里氏のアプローチは正当で独創的な試みであると思った。 しかし、一点疑問が残ったのでそれを提示したい。イメージということであれば、「大審問官」全体を覆う一つの強固なイメージがある。それは奇跡と神秘と権威という三つの力が、悪魔の三つの試みに対応するというものである。しかしテキストの事実としては、この三つの力は二番目の試みである良心の支配に対してのみ発揮されるものである。悪魔の三つの試みは、跪拝すべき者、良心の支配、世界的結合という三つの人間の狂おしい欲求に応える、大審問官の現実的な統治能力に対応している、と私は理解している。この従来のイメージとテキストの事実との混乱について、時間があればもう少し聞いてみたかった。 また、なぜ作者は、語り手によって言及されず、読者によって発見されなければ存在しないような表象を作品に持ち込むのか。発表を聞きかつ豊富で詳細な資料を読みながら、このことも謎として残った（常に謎としてある）。 杉里氏の述べたとおり「大審問官」の章の読解は、その章のみで完結するものではなく、イワンによる宗教裁判権の議論、地質変動後の世界のヴィジョン、そして、ゾシマの言葉との関係の中で解明されなければならない。今回の発表は、中間報告とのことだが、全体が完成した時どのような『カラマーゾフの兄弟』論が現れるのか、その日が心から待たれる。 事務局だより ○「ドストエフスキー広場」№20の編集作業は、熊谷のぶよしさんを中心に快調に進行しており、例年より早めに印刷にかかれそうです。毎年、4月に完成、発送していますので、4月初め頃には、会員のお手元に届けられるかと思われます。 今度の号ではエッセイで川崎 浹さん、学会報告で清水孝純さんという日本のロシア文学界と比較文学界を代表する長老格お二人の原稿をいただきました。 ○5月の例会では、会員の森和朗さんによる報告がすでに予定されています。森さんは昨年9月に『甦る自由の思想家―鈴木正三』（鳥影社）を上梓されました。報告のテーマは「鈴木正三とドストエフスキーにおける悪の認識」といったもののようです。 ○このところ順調な例会設定の段取りから見て、7月例会は「広場」№20の合評会 ということになるでしょう。 ○9月以降の例会については未定ですので、自薦他薦、アイデアを奮って提案していただければ有難いです。以下のメールアドレスでお願いします。 （木下豊房） |
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No.103 News Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky Society 2010.12.20 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介： 杉里直人（すぎさと なおと） 1956年生まれ。早稲田大学、明治大学ほか非常勤講師。ここ10年ほどバフチンの研究・翻訳に従事。現在、マヤコフスキー学院にて、『カラマーゾフの兄弟』を10年計画で購読中。主要訳書にバフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』（水声社）ほかがある。 ニュースレター№103 2011 ――――――――2――――――――――――― 第202回例会報告要旨 方法としての引用――イワンの無知について 杉里 直人
イワン・カラマーゾフは《知性の人》である。一般にそう認められてきたし、私もそれに異存はない。『カラマーゾフの兄弟』の語り手はイワンを紹介する際、彼の知的早熟を強調する。登場人物たちのイワン観も同様である。アリョーシャ、ドミートリー、フョードル、ミウーソフ、スメルジャコフ、修道士たちは口々に彼の博識、才気、思弁性に驚倒し、讃辞を送り、あるいは畏怖を感ずる。さらに大学入学早々から凡百の同輩には及びもつかない文才を発揮して、文壇で頭角を現したイワンが執筆した教会裁判をめぐる論文は、教権派、市民派、無神論者の間でかまびすしい議論を呼び起こす。 イワンの知性（と心性）の特質が明確かつ強力に現出しているのが、彼がアリョーシャに語って聞かせる物語詩「大審問官」であることは言をまたない。不寛容が吹き荒れた16世紀スペイン、セビーリャを舞台にした異端審問所長官と《彼》との対決を描くこの物語詩において、作者は聖書（とりわけヨハネ黙示録）、シラー、チュッチェフ、ポレジャーエフ、プーシキンからの引用や歴史、神話、宗教史、フォークロアなどの該博な知識を縦糸とし、自らの世界観、宗教観を横糸として、じつに見事なタピスリーを織りあげる。 ところが、イワンが引用、言及する作品の原典に当たり、背景となっている歴史、宗教的事象を調べると、驚くべきことに、彼の知識や認識には重大な誤謬があることがわかる。一例をあげよう。「大審問官」の冒頭部で、イワンは前置きが必要だと言って、ヴィクトル・ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』の一挿話に言及する。当該原文はこうである――「ヴィクトル・ユゴーの «Notre Dame de Paris» には、ルイ十一世の治世に、フランス皇太子の生誕を祝って、パリ市役所の大広間で «Le bon
jugement de la très sainte et gracieuse vierge Marie» と題する教訓劇が民衆向けに無料で上演される場面があるがね、そこには聖母自身が舞台に登場して、«bon jugement» をおこなうんだよ」。 ユゴーを一読すればわかるが、このわずか4行たらずの文に5か所の錯誤を指摘できる（下線部）。そもそも『ノートル=ダム』冒頭のこのエピソード自体が公現祭の「愚者の祭り」を背景とする、騒々しくも下世話なカーニヴァル的なものであって、イワンが自らの存在と思想のすべてをかけて語る深刻きわまりない物語詩の前置きにはふさわしくないと言わなければならない。 これは作者の単なる「不注意」だろうか（グロスマン、江川卓はそう考える）。だが、ドストエフスキーがユゴーを長年愛読し、『ノートル=ダム・ド・パリ』を「天才的な力強い作品」と高く評価し、しかもそのロシア語訳が『ヴレーミャ』1862年9号に掲載されたことを考慮するならば、「不注意」説はとうてい首肯できるものではない。 こうは考えられないだろうか――作者はユゴーの作品に通暁しているが、イワンは知らない、彼はおそらく『ノートル=ダム』を読んでいないのだ。そして「大審問官」 ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№103 2011 での錯誤がこの一件にとどまらず、イワンの知識の不備、欠落、混乱が歴史、宗教、 文化の諸事象に及ぶ以上、これはドストエフスキーの確信犯的な作為と見なすほかないのではないか。作家がこの24歳の青年を、イロニーをこめて、｢学者｣と呼んだことを忘れてはならない。 今回の発表で、私は「大審問官」における引用、言及を検討しながら、《イワンの無知》について考えてみたい。また、同じく好んで引用を行うドミートリーやフョードル、ゾシマ長老の言説についても合わせて検討し、ドストエフスキーの《方法としての引用》の諸相に光を当てることができればと思っている。 第201回例会傍聴記 木下豊房氏「父殺しにおけるアリョーシャ・カラマーゾフの罪」を聞いて 熊谷のぶよし 木下氏は、スメルジャコフの殺人と自殺を防げなかったことについてのアリョーシャの罪を考察した。アリョーシャの罪が成立するには、スメルジャコフは物語にとって必要とされる悪役としてではなく、救済すべき一つの主体的な人格として存在しなければならない。 しかし、「スメルジャコフについての語りはもっぱらイワンの知的な世界、自意識の領域に引き込まれて展開され、スメルジャコフはイワンの分身、あるいは共犯者、あるいはイワンの思想の戯画化、パロディないしは陰の部分、あるいは悪魔の変身という暗示に、読者を誘導していく」。語りの内部では、スメルジャコフの主体性は剥奪されている。 「この人物の尋常ならざる誕生ゆえに、その性格は運命によって、あらかじめ決定されてしまっているかのような印象を読者にあたえるのである。しかしスメルジャコフは運命によって自分が拘束されているかのような他者の眼差しに、あらゆる点で反抗した。この人物像を染め上げているのは自分の運命に対する反抗のモチーフと見るべきである。」 木下氏によってスメルジャコフの設定が考察され、その時彼の主体性が見出される。この視点に私はすがすがしい感動を覚える。スメルジャコフがんばれ、と言いたくなる。と同時にある既視感にとらわれた。 木下氏は以前から幼児期の美しい思い出が人間を救うというテーマの重要性を指摘してきた。しかし、スメルジャコフはそうした思い出をまったく持っていない人物として設定されている。その人物が主体性を見出すとき、それは陰惨な方向に向うしかなかった。「第一に、彼はこの世に生まれることを拒否したかった。第二に、彼はロシアを憎む」 一方で、イワンの罪の意識は、あくまでもスメルジャコフの自立性を無視したところで進行していく。スメルジャコフが犯人であれば、自分も殺人者だと断じるイワンは、スメルジャコフを独立した存在と見ていない。 そのスメルジャコフにとって、「イワンの「罪の連帯性」という観念は」「人間的な平等を実感できる魅力的なキーワードであり、」すべてが失われているスメルジャコフに「復権をもたらす梃子であったかもしれない」。父親殺しの意図を持つスメルジャコフには、一人の意志を持つ人間として存在し、仲間（イワン）を持つ可能性が開けたのだ。しかし、スメルジャコフを意志と内面を持つ存在として認識できないイワンと語り手は、その働きかけを「イワンの感触で外在化したスメルジャコフとの違和感、圧迫感」として語ることしかできない。 ニュースレター№103 2011 ――――――――4――――――――――――― 木下氏はナターリヤ・ロゴーワを引用する。「イワンはスメルジャコフに、あの“小さな”赤ん坊、つまりその子供の涙が彼に、彼の心に嵐の様な激しい怒りを引き起こしたあの赤ん坊の姿を見ていない」、「自分が創り上げた“子供の涙”の抽象的な姿に眩惑されて、イワンは子供たちの生きた悲しみを見ていないし、感じていもしない」。この非難はイワンに向けられたものだが、アリョーシャに対してもあてはまる。アリョーシャの罪は、救済以前に彼の意識に、スメルジャコフが人格を持った人物として浮かんでいなかったところにある、と木下氏は言っているのだと思う。語り手の主観により構成された調和だけが作品のすべてだとすれば、この解釈はないものねだりの読みの逸脱になる。しかしそうではない。 『カラマーゾフ』は、語り手の語ったことだけが作品のすべてではない。物語は、語り手によって語られるが、設定と筋立ては作者によって定められている。筋立てと設定は物語の事実的基盤であり語り手の自由にならない。この領域は語り手の主観を超えた、作者にのみ固有の領域としてある。語り手が作者の意図に抗する身ぶりは、最大限、ある事実を語らないことであろう。スメルジャコフの主体性は、こうして語り手によって語られなかった。しかし、それは同時に設定と筋立てによって小説に組み込まれていて、作者のある意図を反映している。 ドストエフスキーが、自作以外のテキストに向かう時の姿勢には、これと同じ構造がある。新聞記事、裁判記録、他の作家の作品等々、それらの華々しい主観の展開の背後に、表明されていない事実の因果関係を彼は洞察しようとする。その結果、世間の常識に反する方向で、同情をもって他者の裁判にかかわったりすることにもなった。隠された事実を洞察し、その上に展開されたものとして言説を読み解く、それがドストエフスキーによるテクスト読解だと思う。もしドストエフスキーが他者のテキストとしてこの小説を読んだなら、語り手の提供する印象とあえて語られない事実の対照から、スメルジャコフの主体性にたどり着く読み方をするに違いない。そして為すべきことを為さなかったアリョーシャの落ち度は、指摘されるのだと思う。木下氏の発表を聞きながら『作家の日記』のドストエフスキーを連想していた。既視感はそこに由来していたのだろう。「」は木下氏のレジュメからの引用です。 事務局便り 第202回例会会場・神宮前穏田区民会館案内 JR原宿6分/ 東京メトロ千代田線 |
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No.102 News Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky Society 2010.10.20 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：木下豊房（きのした とよふさ） １９７9年2月、故・新谷敬三郎氏、米川哲夫氏らとともに、「ドストエーフスキイの会」の発足にあたり、中心的な役割をはたす。会発足より1996年２月まで、事務局責任者。千葉大学教養部・文学部に２９年勤続、２００２年３月定年退職。千葉大学名誉教授、日本大学芸術学部非常勤講師。 国際ドストエフスキー協会（ＩＤＳ）副会長。 著書に『近代日本文学とドストエフスキー』（成文社、1993）、『ドストエフスキー・その対話的世界』（成文社、２00２）。翻訳に『ドストエーフスキイ夫人アンナの日記』（河出書房新社、1979）、『ドストエフスキーとカント ―『カラマーゾフの兄弟を読む』―』（みすず書房、1988）、ロシア語論集 «Антропология и поэтика
творчества Ф.М. Достоевского» (Санкт-Петербург, 2005) ネット論集：http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost200.htm ニュースレター№102 2010 ――――――――2――――――――――――― 第201回例会報告要旨 父親殺しにおけるアリョーシャ・カラマーゾフの罪 ―倫理と芸術のアポリア― 木下豊房 父親殺しではアリョーシャもその罪を免れないのではないか、という設問は、これまでの一般的な解釈から見れば、奇異に思われるかもしれない。フョードル・カラマーゾフの私生児と想定されるスメルジャコフをふくめてのカラマーゾフ四兄弟のうち、長兄ドミトリーは無実の刑を受けてシベリア流刑となり、次兄イワンは発狂し、スメルジャコフは自殺する、そのなかで、アリョーシャだけは、皮肉ないい方をすれば、渦中にいて渦中になかったかのごとく、未来を志向して生き、第一部の「作者より」の「まえがき」によれば、第二部の主人公として活躍することが予定されている。しかもこの第二部こそが小説の本編というのである。 この小説冒頭より顔を出す「作者より」の作者とはどのような存在であろうか。私は以前、『弱い心』を分析した時に、形象化できない（姿を現さない、隠れた）一次的作者（＝作家本人）と二次的作者（＝語り手、語り手的副主人公という）バフチンの概念を使って、それらの主題展開のなかでの役割の違いを明らかにしようとした。 アレクセイ・カラマーゾフの伝記作者を任ずるこの大長編の「作者」もまた、（姿を現わさない）一次的作者ではなく、いわゆる語リ手（二次的作者）と理解すべきであろう。というのはこの語り手的「作者」はまず愛する主人公のアイデンティテイを護り、青年の人格形成に目を注ぐことを第一義的任務として、つねにアリョーシャに寄り添っている。その意味で、この｢作者｣は一定の課題を担わされ、制約を受けており、変幻自在な一次的作者とはいえない。この事実は後で明らかになるように、スメルジャコフへの視点をめぐって、重大なずれとして露呈する。 小説構成上、アリョーシャは『白痴』のムイシキン公爵にも似て、他の主要人物達と読者をつなぐ媒介者的人物であって、語り手とその機能の面で役割を分担している。ドミトリーとイワンはもちろんのこと、父親のフョードルも、グルーシェンカも、リーザもスネギリョフも、自分の内面を開いて見せるのは、アリョーシャに対してなのである。語りの主要な構造は主人公達のアリョーシャに対する告白に支えられているといって過言ではない。ひるがえって、アリョーシャは彼等に対して、一種の心理カウンセラーのような役割すら担わされているのである。したがって、アリョーシャは作中のほとんどの主要人物と対話的関係にある。語り手はひたすらアリョーシャの視点に寄り添っている。ただ一つ対話的要素を欠いた例外的な対応がある。それはスメルジャコフに対してある。 アリョーシャのスメルジャコフに対する無関心、その運命への冷淡さは、「偶然の家庭」をめぐるこの小説の主題に照らして見れば、不可解というほかはない。ドストエフスキーは「偶然の家庭」の憂慮すべき本質的な問題として、子供時代の記憶、思い出が人格形成に深刻な影響を及ぼすという考えを、『作家の日記』で繰りかえしのべた。そしてこの思想をゾシマ長老に説話のなかで語らせた。アリョーシャは小説フィナーレ場面で少年たちを前にして、ほとんど鸚鵡がえしにこの思想を繰り返えす。 ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№102 2010 そして「記憶を通しての死者の復活」という思想にさえも接近する。これに呼応するのが、「カラマーゾフ万歳」である。かって武田泰淳は「カラマーゾフばんざい！」という叫びの中には、「かの悪漢スメルジャコフさえもふくまれていなければ、作者ドストエフスキーは満足しなかったはずです」と書いた。このあたりのところはテキストからどう読みとれるだろうか？私はひとつの問題提起をおこなってみたい。 報告を聞いていただく前提として、「広場」14号の拙論「「小説『弱い心』の秘密」、16号の拙論「思い出は人間を救う」に目を通しておいていただけると有難い。「偶然の家庭」にかかわる子供時代の「記憶」「思い出」の意味に触れた引用文は 報告資料では割愛し、「広場」掲載の引用個所に依拠するので、14号、16号を持参していただくようにお願いしたい。 第200回例会傍聴記 冷牟田幸子氏『スチェパンチコヴォ村とその住人』を聴いて 「読む」は可能か 近藤靖宏 ただ読む――小説のテキストに書いてあることだけをそれ以上でもそれ以下でも無く余すところ無く読み取る、そんなことが可能なのでしょうか。ある読者がテキストのある部分に着目するならばその人は着目しなかった他の部分を読み落とすことになるかもしれません。またある読者が作中のある登場人物に共感しながら読んだとするならばその人はテキストの中に自分自身という要素を持ち込むことになり、テキストに書いていないことをあたかも書いてあったかのように錯覚することになるかもしれません。「読む」という言葉の意味を厳格に定義するならば、それはおよそ人間にとって不可能な営為となるでしょう。 今回例会で発表された冷牟田幸子さんは、私の知る限りでは本当の意味での「読む」の境地に最も接近している方だと私は思っています。『ドストエーフスキイ広場』１９号の小論文において冷牟田さんは『おじさんの夢』について論じていますが、これは敢えて宗教性や思想性の混在していない作品を読むことによって作者ドストエフスキーの小説家としての力量、その創作手法を見ることができるという試みでした。今回の発表も同じく宗教性や思想性の見られない作品『スチェパンチコヴォ村の住人』を取り上げていますのでその第二弾ということになります。 冷牟田さんは作品中の語り手について論じます。ドストエフスキー作品の場合概して語り手は全知でなくなおかつ作者ドストエフスキーとは独立した存在ですが、作品中時おり全知かつドストエフスキーの代弁者となっていると思われる箇所もあることを冷牟田さんは指摘しています。『スチェパンチコヴォ村の住人』においては、前置きのところで語り手が登場人物を評している部分に作者ドストエフスキー自身が顔を出すとのことです。冷牟田さんはこの理由を語り手が語る登場人物の性格的特長が発揮される局面がその後のストーリーの中に見当たらないということに求めています。つまりテキストの文脈から判断できるということ、決して作者ドストエフスキ ニュースレター№102 2010 ――――――――4――――――――――――― ーの伝記的要素と照合することによってではないということです。この一事によってだけでも冷牟田さんのテキストを読む集中力の高さがうかがえます。 ドストエフスキーの作品には一般に喜劇性があるといわれています。冷牟田さんは、今回『スチェパンチコヴォ村の住人』を例にして喜劇を喜劇たらしめている要素について、性格の対照的な登場人物の登場（ここではフォマーとロスターネフ）、パロディなど計７通りの手法を列挙されていました。その中でも特に冷牟田さんが重視されていたと思われるのが、「異化」という語りの手法――例えば一見災難のように見える出来事を語り手がさも他人事のように、言い換えれば災難にあった登場人物の意識に同化せず面白おかしく語るといった様子――でした。これについては、これからも更に考察を続けるとのことでした。 私の思うに異化による「笑い」があるからこそ例えば『悪霊』のようなあまりにも悲劇的な作品であっても読者は何とか読み通せる、作者の側から見ればこれほどの悲劇をいかに読ませるか、という手法となるのでこれは普遍性のあるテーマであると感じます。 以上、発表全体のうちいくつか私が注目した内容について述べてみましたが、もうひとつ今回の発表を聴いて冷牟田さんの作品を読む姿勢について気がついた点がありました。作品をより深く読むためにはその作品が書かれた当時の時代背景を含む広い意味での伝記的要素についての知識が必要なことは否定できないし、冷牟田さんもそういった知識を相当持っているに違いない。にもかかわらず冷牟田さんは可能な限りぎりぎりのところまでそれに依拠せずに作品を読解しようとする傾向があるように感じました。これこそが「ただ読む」に近づくために必要な態度のように思います。今回の発表を聴くことによって、今まで自分が行ってきた読書は果たして本当の意味での「読む」であったのかと内省すると同時に、学識経験無く、なおかつ語学の制約があり原文が読めない私のような人間であっても「読む」は可能かもしれないという希望を持つことができました。冷牟田さんに感謝です。 事務局だより ○例会は前回で第200回の大台に乗りました。ちなみに第100回例会は1989年9月29日に、高橋さんの国際シンポ報告、杉里さんのモスクワで見たドストエフスキー演劇、井桁さんの現代ソ連の文化状況についての3本立てで、千駄ヶ谷区民会館で開かれています。201回は6月のナポリでの国際シンポでの報告に基づいて、私が報告させていただきます。参加報告記は一緒に参加した清水孝純さんに次号「広場」に書いていただく予定です。 ○ナポリでは曾孫ドミトリー・ドストエフスキーと同じホテルでしたが、ごく最近の彼のメールによると、9月5日に彼に男の子（息子のアレクセイの子）の孫が生まれフョードルと名づけたそうです。これまで女の子の孫２人でしたから、作家と同名の直系・フョードル・アレクセーヴィチ・ドストエフスキーが誕生したわけです。ホットニュースです！ ○事務処理上の問題ですが、5年以上の会費長期滞納者は、次回から名簿から削除させていただく処置をとることにしました。該当する方はご了解をお願いします。 ○先頃、亀山郁夫訳『悪霊1』が出ましたが、ロシア語テキストに基づく｢検証｣を「管理人T.Kのページ」に公開しました。興味のある方はご覧になってください。 （木下豊房） |
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No.101 News Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky Society 2010.９.24 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：冷牟田幸子（ひやむた さちこ） 1937年生。早稲田大学第一文学部英文科卒業。 著書：『ドストエフスキー－無神論の克服』（近代文芸社 1988年） 訳書：ワッサーマン編『ドストエフスキーの「大審問官」』（ヨルダン社 小沼文彦、冷牟田訳 1981年） ニュースレター№101 2010 ――――――――2――――――――――――― 第200回例会報告要旨 『スチェパンチコヴォ村とその住人』について 冷牟田幸子 1981年、ドストエフスキー没後100年の記念講演会(東京 山手教会)が開かれ、作家でロシア文学者の後藤明生氏は、ドストエフスキーの文学は喜劇であると、次のように主張されました。 わたしが申上げたいのは……ゴーゴリのパロディ作家として出発したドストエフスキー文学は、ゴーゴリの作品が喜劇であったと同様に、悲劇ではなくて、喜劇なのだということです。……それは、はっきりと意識された｢方法｣によって作られた｢喜劇｣なのだということです。(『現代のドストエフスキー』l981年 新潮社) 私の頭の片隅に「ドストエフスキーと喜劇」という思いがけないテーマがインプットされた瞬間でした。 後藤氏の指摘される高度な喜劇性とは別に、笑ってしまうドストエフスキー作品にふれられたのが、会員の福井勝也さんの紹介により、総会で報告された東大教授の小森陽一氏です(何年のことだったでしょうか)。ロシア語圏で育った小森氏は、開口一番、少年時代、原典で『カラマーゾフの兄弟』を読み、頁を開くなり大いに笑ってしまった（ゲラゲラと、と言われたでしょうか定かではありません）、と話されました。いまだかつて『カラマーゾフの兄弟』で笑った経験のない私には、衝撃的な一言でした。こういう人の翻訳でドストエフスキーを読んでみたいと思ったものです。 そして、私なりの『悪霊』における笑いの発見になります。主要人物の言動に捉えられず、語り手の視点で作品を読む、つまり作品世界から距離を置いて読むとき、見えてきたのが、後藤氏の言われる｢意識された方法」―相対化による笑いの構造でした。（『ドストエーフスキイ広場』13号、『ドストエフスキー曼荼羅』2号参照） 数年前『死の家の記録』以前の作品を少し読もうと、まず手にしたのが『スチェパンチコヴォ村とその住人』であり同時期の『おじさんの夢』でした。一通り読んでおこう、ぐらいの気持ちでしたが、やはりその喜劇性に魅かれたのか、かなり身を入れて読みました。 思想性も宗教性もない、取り立てて魅力的な人物もいない、しかし、それだけにドストエフスキーは会話に、筋の展開に、人物の造型に並々ならぬ工夫を凝らし、自身｢最もすぐれた作品｣(59.5.9 ミハイル宛)と自負するように、細部まで目の行き届いた、すぐれた作品だと思います。 作品の執筆者でもある語り手は30歳そこそこの青年セルゲイですが、｢前置き｣の語りは、ドストエフスキー自身によるものと思われます。そう判断する理由とその語りの特徴について考えます。対照的な二人の主人公、訳書(筑摩版)で212頁の1％にすぎない、短い「コローフキンのエピソード」のもつ意味、そしてドストエフスキー ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№101 2010 がもっとも意を尽くしたと思われる、異化をはじめ多種多様の笑いの方法について述 べたいと思います。できましたら作品を読んできてくだされば、多少興味を持って今回の報告を聞いていただけるかと思います。 199回例会傍聴記 長谷川 研氏「イワン・カラマーゾフの若葉」を聴いて 今井直子 今回の長谷川氏の報告は、「粘っこい若葉を愛する」というイワンのセリフを出発点に彼の精神構造の初源を探ったもので、結果として、これまでに例のないイワン像が描出された。世にイワン論は数多あれど、大審問官を中心とする彼の思想内容を論じたものが大半で、その思想を生み出す精神の源を「感受性」に着眼して論じた氏の報告は、それらと一線を画すものだ。しかも、全般を通じて、あくまでテキストに寄り添いながらセリフの奥に隠された登場人物の真意が読み解かれており、想像力任せの勝手な解釈とは段違いの真摯な報告だった。用意されたレジュメは例会の時間枠に収まりきらぬ分量と示唆に富む内容で、これほどの力作を手に取ることができた幸運に感謝したい。 イワンといえば、とかく無神論やニヒリズムの観点から語られがちだが、長谷川氏は、いわばその源泉であるイワンの感性に注目し、「キリスト教的感受性」と「実存的感受性」という2つの資質を提示した。そしてイワンの人格破綻の主因を、「生の意味を全て神に結び付けて考えるキリスト教的感受性」にあると結論付けた。すなわち、イワンに内在するキリスト教徒としての感受性と、理性が生み出した無神論思想との衝突が人格破綻を招いたという論法だ。発表後の質疑応答で、イワンがキリスト教的感受性の持ち主という点に疑問も投じられたが、「イワンは、生の意味をすべて神に結びつけて考えるキリスト教的感受性にとりわけ敏感であったがゆえにこそ、その明晰な知性は徹底したキリスト教批判に向かった」とする氏の言葉には納得させられるものがある。そもそもイワンは「神の叡智も目的も認める」し、「永遠の調和も信じる」と明言している。あくまで神への深い愛ゆえの反逆心なのだ。 後半では、ゾシマ、アリョーシャ、イワンのセリフを比較することで、3者が共通して持ち合わせている「実存的感受性」、つまり、この世界の具体的な諸物の存在に神秘性を感じる感受性について示され、その上で、イワンだけが信仰の力を要せず自然に親和性を感じることができる、つまり「存在論的親和性」の持ち主だと語られた（ゾシマとアリョーシャは神を讃える点で共通しているが、アリョーシャの方が精神の位置が地上に近いという指摘も興味深い）。ネガティブな思想から離れ、イワンの瑞々しい感性に焦点が当てられたことは喜ぶべきだろう。イワンを論じるとき、彼がまだ23歳の若者であり、アリョーシャの言葉を借りれば「雛っ子」であることを忘れるべきではない。「イワンはキリスト教徒ではないと理解できない部分と、キリスト教徒ではないからこそ理解できる部分を絶妙なバランスで持ち合わせている」という長谷川氏の言葉は印象深く、そこにイワンの魅力を再発見する鍵があるのかもしれ ニュースレター№101 2010 ――――――――4――――――――――――― ないと感じ入った。 精神の核に存在論的感受性を持ち合わせていれば、いかに人生に絶望しようと、救 われる余地は残されているのではなかろうか。レジュメの終盤で、苦悩を抱えて生きるイワン、そして彼と共通の資質を持つ人々に向けて、一つの処方箋が提示されている。「私たちは、人生において、苦を強いる不可避な現実に直面したとき様々な態度をとる。－中略―いずれにせよ重要なのは、この世界に起こる出来事、人生で不可避的に出会う存在を直視し、これを引き受けることである。苦を丸ごと引き受けることを含めてこの世界を愛することなのである」。静かな、目立たぬ生き方かもしれないが、しなやかで強い意志を持つ人だけが到達できる境地である。 傍聴記としては蛇足になるが触れずにおけないのは、長谷川氏の文章のすばらしさだ。とりわけ最終章「この世界の存在にかかわる愛」は、端正でありながら物柔らかな語り口で大切なメッセージが伝えられており、書き手の感性が表れている。まさしく、この世に内在することを謙虚に受け止め、凛然と生きる者だけが語りうるイワン論だったように思う。 事務局だより ○熱中症の危険が話題になった日本の夏も過ぎ去ろうとしていますが、今年は異常な現象が世界的に見られ、ロシアＴＶのニュースで見ると、モスクワ近郊では異常な高温で泥炭、森林火災が頻発し、ペテルブルグでは突風で被害が出るなど、ドストエフスキーの故国でも非常事態が続きました。 今回の例会は、1969年2月の会発足以来の200回目の例会となります。ニュースレターも101号と大台を超えました。今回の報告者冷牟田幸子さんは最も古い会員の一人で、1970年に入会されましたが、ＩＤＳへの英文翻訳や、「広場」の英文目次の作成で、会活動に大いに貢献していただいています。このような陰の支え手の数々があって、会が40年以上も継続してきていることを、この際、銘記しておきたいと思います。 ○会発足以来の刊行物のほとんどのバックナンバーの在庫があります。 会報の復刻版「場」Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ 「研究」Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ 「広場」1号から19号です。 ものによっては、在庫切れの場合もあり、全部は揃いかねます。購入ご希望の際には 事務局にお問い合わせください。会員には大幅な値引きで提供いたします。 刊行物の一覧はホームページからご覧になれます。 ○郵便物が転居先不明で返送されることが間々あります。住所変更の場合は、ぜひ事務局宛、郵便かメールでご一報ください。 事務局のメールアドレス：tkino@chiba.email.ne.jp |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ
No.100 News Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky Society 2010.７.8 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：長谷川 研（はせがわ けん） 1957年東京生。ドストエフスキーについては大学時代に親しみ、その後勤め人生活のかたわら四十歳を超えて再読を開始。2006年から「ドストエーフスキイ全作品を読む会」に参加。同読書会にて、07.04.14「ドストエフスキー『白痴』についての私的かつ分裂症的覚書」、09.10.17「スメルジャコフとアリョーシャの時代」を報告。ドストエフスキー曼荼羅3号（2009年）に「スメルジャコフの子孫達」を発表。2009年夏より本会会員。 ニュースレター№100 2010 ――――――――2――――――――――――― 第199回例会報告要旨 イワン・カラマーゾフの若葉 長谷川 研 当日の報告予定原稿は、第Ⅰ章「イワン、苦悩する無神論者」、第Ⅱ章「イワンのニヒリズムと人格崩壊」、第Ⅲ章「可能性としてのイワン」の３章構成である。以下にその冒頭部分を抜粋する。 「カラマーゾフの兄弟」のイワンについて論じようとするとき、とりわけ感覚的で美しく印象に残る場面がある。レストラン「都」で、イワンがアリョーシャに対坐し、自らの思想、劇詩「大審問官」を中心として、神と悪魔と人間に関する眩暈のするように壮大・深遠な形而上学的思弁をとうとうと述べる前のところである。イワンはアリョーシャに語る。 「このわれわれの惑星の上には、求心力はまだまだ恐ろしくたくさんあるんだものな、アリョーシャ。生きていたいよ、だから俺は論理に反してでも生きているのさ。たとえこの世の秩序を信じないにせよ、俺にとっちゃ、《春先に萌え出る粘っこい若葉》が貴重なんだ。青い空が貴重なんだよ。」（上巻P577） イワンはその少し先でも繰り返す。 「春先の粘っこい若葉や、青い空を、俺は愛してるんだよ、そうなんだ！この場合、知性も論理もありゃしない。」（上巻P578）…（報告原稿中略）… 「粘っこい若葉」の「粘っこい」という形容は、日本の読者には実感しがたいが、「春先に萌え出る若葉」と「青い空」というのはいかにも鮮烈な感覚的印象を残す。イワンに哲学者ならぬ抒情詩人の資質を見いだしたくなるほどである。 この言葉に共鳴し「この世のだれもが、何よりもまず人生を愛すべきだと、僕は思いますよ」（上巻P578）と語るアリョーシャにイワンはさらに続ける。 「人生の意味より、人生そのものを愛せ、というわけか？」（上巻P578） 以後この試論では、「人生の意味」を追求しそれを言葉により表現したものを、〈思想〉と呼ぶことにしよう。 「カラマーゾフの兄弟」の思想的な構図のエッセンスは、古くから、イワンの近代ニヒリズムとゾシマのキリスト教の弁証法的な対峙にあると考えられてきた。先行研究者達の言うところの「象徴層」に関わるテーマとして、これが作者ドストエフスキーの創作意図の一つであったことは疑いない。この試論でも、イワンを論じることを目的とする以上、それが文学作品として多層多面的な構造を持つ「カラマーゾフの兄弟」を楽しもうとする読者にとってどれほど「野暮」に見えようと、イワンの思想の骨格を取り出しそれを正面から論じることに過半を費やすことになるのはしりぞけられない。しかし、イワンの思想の内実を論じること自体に最終目的があるのではない。むしろ、〈思想〉を生み出す初源にありながら、いったん〈思想〉が形成されるとおうおうにして〈思想〉からこぼれおち てしまう〈何か〉、精神の原形質となる〈感受性〉とでも言うべき〈何か〉を析出し掬い取ることが目的である。「春先の粘っこい若葉や、青い空を、俺は愛してるんだよ、そうなんだ！」という言葉の根源にイワンの〈感受性〉を。 報告原稿は全文を当日配布する。しかし、報告そのものは、時間の制約からⅡ章、Ⅲ章を中心にかいつまんで行う。テキストは新潮文庫（原卓也訳）を使用した。 ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№100 2010 198回例会傍聴記 「ドストエーフスキイ広場」No.19 合評会 「世界の非対称の克服に向けて―知識人と一般市民の間を繋ぐ橋となることを目指して」 冨田 陽一郎 はじめに福井論文評が木下氏から行われた。論文のテーマは、1、神のモチーフ（偶然・運命・見神）２、無垢、３、聖体拝礼（人肉食）などがであった。そこに、大岡昇平とスタンダール、そしてドストエフスキーと大岡昇平との関係などがからんでくる。福井氏は大岡が自分自身の性質として、いわば文学によって世界を把握し、現実そのものを比喩で理解してしまう知識人性を自覚し、それを痛烈に批判しながらも、それに絡め取られてしまう自己の抜き難い「文学的なもの」の泥沼を指摘している。この大岡とドストエフスキーという主題の設定の背後には、論考最後に提示された福井氏の父上の戦争体験と、福井氏の文学体験とが、これもいわばエディプス的関係性によって存在しており、その部分が福井氏の論及の由来となっているのではないかと考えさせられた。 次に渡辺論文について。「カラマーゾフの兄弟」を東方正教会の修道院制度から解釈するというのは具象的な立証作業に近く、具体的に影響関係が指摘出来るレヴェルである。そこから考えると、テクストレヴェルで具象的な立証が出来る問題と、いわば解釈学として抽象的な関連性が指摘出来る問題は、分けて考えた方が良いと思われた。 次に、木寺論文は、論評者・渡辺氏の指摘のように、現在の流行の社会学の概念から、いわば近代社会の無謬の前提となっている無神論の概念（近代的神概念）を、「カラマーゾフの兄弟」に無前提に投射してしまっているようだ。そう考えれば、キリスト教の無神論を近代日本社会の無神論と繋げる理解は、いささか安易に理解されても致し方ないという印象を受けた。 次は熊谷論文。この論文はイワンの「大審問官」をテーマに、いわばゾシマ長老的、キリスト的な「救済」と、イワン的な「義憤」の葛藤と相克を論じている。子どもの受難という題材に対して、イワンはその子どもの受難を救済する権利は誰にも無いと主張する。だが、ゾシマ長老は、いわば超越的な神の存在の立場からは、贖罪や救済が在り得るという。イワンの義憤は、自身が言うように、「ユークリッド幾何学」的世界、デカルト的な自我（コギト）の世界までしか通用しない。だが、ゾシマ長老の言う世界とは、そうした自我を超越した世界、自我の世界を包括したより大きな世界、メタ世界からの理解であり、救済である。こういった「位相の違い」は、ニュートン物理学とアインシュタイン相対性理論の関係、あるいは量子力学の関係のように、いわば「パラダイム」的な「位相の違い」を持っている。その為、この論文において、最後にゾシマ長老の見解が存在することに納得し、同感であった。 最後に、参加者全員の討議の中で、「カラマーゾフの兄弟」は、ドミートリイ（過去）イワン（現在）アリョーシャ（未来）という分類になっているという見解や、福井氏の大岡昇平と人肉食について、「アライブ」という映画で、「アンデスの聖餐」という、飛行機 事故で食料が無くなり、人肉食が許されるか、という時に、これは聖体拝領なので、許されると考え、人肉食を行ったという事件があり、それを後でヴァチカンが聖体拝領と認めたという話や、大岡昇平は日本は戦争には負けたが文学では勝ちたかったという動機があったといった、興味深い話があった。また、「応報」と「復讐」についての見解もあった。また、フョードルは物質的な中で生きてきた人で、愛が足りない、イワンは見下したところがあるが、愛の深い人、スメルジャコフは愛されなかった人、アリョーシャは本当はスメルジャコフ ニュースレター№100 2010 ――――――――4――――――――――――― を愛さなければならないのに、愛せなかった、愛の浅い人であるという見解も示された。この見解を出された方は一般の女性の方だったが、会全体において、学識のあるドストエフスキー研究者集団（大学関係者など）と、一般のドストエフスキー愛好者（一般市民）との乖離が感じられた。だが、本来文学とは、こういった知識人層と一般市民層の両者に説得力のある、普遍的なものではないか。世界全般を見ても、非対称の関係が多くなってきている。知・富・権力・権威・情報を「持てる者」と「持たざるもの」の非対称。私は別にマルクス主義者ではないが、「文学」の立場とは、人間の、あるいは世界の非対称を是正し、人間が真に人間らしく生きられる世界を提示することではないか。それを愛と呼んでもいいかもしれない。今回、大変勉強になったが、今後私がそういった、知識人と一般市民の乖離の是正に役に立つ「触媒・橋」としての役割を担っていきたいと思った。今後とも私自身、この会で育ててもらい、批評家・研究者として（一般の視点を忘れず）生きていこうと思う。 事務局便り 6月13日～20日までナポリで開かれた国際ドストエフスキー・シンポジュウムから、25日に帰国しました。日本からの参加者は清水孝純、望月哲男、私（木下）の三名でした。次回2013年の学会はモスクワで開かれることになりました。 5月29日の総会は決算、予算報告を中心として行われました。現在、実質会員は9⒉名。運営は例会設定、会誌編集の実務機能を実行するメーリングリストのメンバーで、常時メールを活用して意思の疎通をはかりながら行っています。本年度も、全国の会員の皆様の声なき声に耳を澄ましながら、バランスのとれた運営に心がけていく所存です。 昨年度と同じく、本年度も以下のメンバーで取り組んでいきます。木下豊房（コージネート、ＮＬ作成、ＨＰ管理）、熊谷のぶよし（「広場」編集）、木寺律子(「広場」編集)、近藤靖宏(会計、「広場」編集)、下原敏彦・康子（ＮＬ発送）、菅原純子（事務補佐）、堤崇弘（メーリングリスト管理）、福井勝也（会場設営）、渡辺好明（会計補佐）。 （木下豊房） 平成21年度収支計算書 （平成21年5月6日～平成22年5月5日） 会計 近藤靖宏 監査 渡辺好明
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ
No.99 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ
Dostoevsky Society 2010.4.28 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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ニュースレター№99 2010 ――――――――2―――――――――――――― 第197回例会傍聴記 高橋誠一郎氏「果たしてムイシュキンは殺人の「使嗾者」か？ －黒澤明監督の映画『白痴』を手がかりに－ 木下豊房 高橋氏の本報告の主要点の一つは、ナスターシャ殺害をロゴージンに使嗾したのはムイシュキンであるとの、亀山説の批判にあったと思う。 氏は資料で示しているように、近く、『ドストエフスキーの『白痴』と黒澤明』の刊行を準備していて、詳細はその著書に待ちたいが、実はイポリートが使嗾者なのだという、独自の説を打ち出そうとしているようである。病気で死刑宣告を受けたと同然のイポリートが、暗い無神論的感覚のホルバインの絵「キリストの屍」との関連で、ロゴージンに及ぼした影響というところが、主要な論点であるらしい。そこで、黒澤映画では、『生きる』のテーマが大きな意味を帯びてくるし、ペテン師レーベジェフという視点では、『醜聞』が意味をもってくる。 『白痴』にとどまらずその周辺の映画のテーマへの目配りから黒澤とドストエフスキーを論じようとする視点は高橋氏ならではで、いろいろなデーターで、示唆されるところが多かった。 ただ、目配りが広すぎて、論が拡散的になり、もうひとつ本論の深みに届かないうらみがあったのは残念である。その辺りは近著に期待することにしたい。 私自身も黒澤『白痴』と小説作品の関連には、かねてより関心をもっているが、ポイントはドストエフスキーがムイシュキンに体現させた「同情・憐憫（サストラダーニエ）」のイデーを黒澤が鋭敏に読みとり、見事に映像化したことにあると思う。その点で、映画評論家・清水千代太氏相手のインタヴュー（「キネマ旬報」1952年4月上旬）で、黒澤が語った言葉は見逃せない。その要旨は、ドストエフスキーの「やさしい好ましいもの」は、「悲惨なものを見たとき」に、普通だったら目をそむけるのに、「あの人は目をそむけないで見ちゃう。一緒に苦しんじゃう」、「人間ではなくて神様みたいな素質を持っている」というのである。この言葉を踏まえて清水氏が「『白痴』のムイシュキンにはそれが具体化されているわけですね」というと、黒澤は「その点がたまらなく好きですしね」と答えている。このイデーの把握と描写のアクセントの違いは、1946年のフランス映画（ジョルジュ・ランパン監督）や1958年のソ連映画（イワン・プイリエフ監督）の『白痴』と見比べてみると、はっきり印象づけられる。
○ 例会会場は過去2回、千駄ヶ谷区民会館が改装工事中のため閉館で、同じ原宿で も別の会場に移動しておりましたが、今回は再び、元の会場にもどりました。お間違えないようにご注意ください。 ○「広場」のバックナンバーについては従来、国会図書館にしかるべき納本を怠ってきていましたが、今回一括して納本し、今後、引き続きの納本態勢を整えました。関西の分館のほうでも閲覧可能になるはずです。 （木下豊房） |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ
No.98 News Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky Society 2010.2.15 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：高橋誠一郎（たかはしせいいちろう） 東海大学外国語教育センター教授 東海大学大学院文学研究科（文明研究専攻）、修士課程修了。現在は比較文明学会理事、日本比較文学会、日本ロシア文学会、日本ペンクラブ会員。 近著に『ドストエフスキーの『白痴』と黒澤明――「本当に美しい人間」の探求』（仮題）、（成文社、６月刊行予定）。 著書に『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』（人文書館）、『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』（成文社）、『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』（東海教育研究所）など。 ニュースレター№98 2010 ――――――――2――――――――――――― 第197回例会報告要旨 果たしてムイシュキンは殺人の「使嗾者」か？ ――黒澤明監督の映画『白痴』を手がかりに 高橋誠一郎 今年は、『羅生門』（1950）と『七人の侍』（1954）がヴェネチア映画祭でグランプリと銀獅子賞を受賞し、さらに日ソ合作の『デルス・ウザーラ』（1975）がモスクワ映画祭で金賞を受賞し、翌年にはアカデミー最優秀外国語映画賞を受賞するなど多くの賞を受賞して、国際的に認められた黒澤明監督（1910～98）の生誕１００周年にあたる。 その黒澤自身が最も高く評価した自作の一つが、ドストエフスキーの『白痴』を終戦直後の混乱した時代の日本に置き換えて描いた映画『白痴』（1951）であった。 上映時間四時間二五分という大作となったこの作品は、観客の入りを重視した経営陣から大幅なカットを命じられたために、時折、字幕で筋の説明をしなければならないなど異例の形での上映となり、日本では多くの評論家から「失敗作」と見なされた。
それにもかかわらず、新谷敬三郎氏が「初めてみたときの驚き、ドストエフスキイの小説の世界が見事に映像化されている」と書いたように、映画『白痴』は原作を熟知している本場ロシアや海外、そして日本の研究者たちからはきわめて高く評価された。 一方、近年の日本は「グローバリゼーション」の名の下に、「新自由主義」が幅をきかすようになって「格差社会」が一気に進んだ。ちょうどその頃に出版された研究書で亀山郁夫氏は、ナスターシャの殺害をロゴージンに「使嗾」したのはムイシュキンであり、「現代の救世主たるムイシキンは、じつは人々を破滅へといざなう悪魔だった」と結論した（『ドストエフスキー 父殺しの文学』上巻、ＮＨＫ出版、2004年、285頁）。 そして、亀山氏のこのようなドストエフスキー論はマスコミで賞賛され、学校などでも読書コンクールの対象図書とされたことで若者たちの間でも広まっている。亀田（ムイシュキン）を「真に美しい善意の人」として描いた黒澤明の『白痴』理解は、全くの誤読だったのだろうか。 この意味で注目したいのは、大著"Dostoyevsky―― An Examination of the Major Novels"（Cambridge
University Press, 1971）において、『白痴』のロゴージンやナスターシャが古儀式派から派生した過激なセクトである去勢派や鞭身派への強い関心を示していたことや、『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフが去勢派に属していた可能性が強いことを語義的なレベルから明らかにして、世界中のドストエフスキー研究者に強い影響を与えたイギリスのすぐれた研究者ピース氏のムイシュキン解釈である。 後に、"Dostoyevsky's
Notes from Underground"（Bristol Classical Press,
1993、邦訳『ドストエフスキイ 「地下室の手記」を読む』のべる出版企画）で、ドストエフスキーの作品が緻密な論理構造を持っているだけでなく、登場人物もきわめて有機的に配置されていることを明らかにすることになるピース氏はすでにこの大著で、 「死刑を宣告された者」と自ら名乗っていたイポリートの考察をとおして、当時の「弱肉強食の論理」とそれに対抗する「弱者の権利の理論」との対立を浮き彫りにしていた。 そして1864年の裁判改革の流れにのって、弁護士の資格も取っていたレーベジ ェフの問題点だけではなく、彼の娘ヴェーラの肯定的な意義も示すことで、ムイシュキン という主人公がプーシキンに依拠しつつ、「美は世界を救う」という理念によって世界を和解させる道を必死に模索していたことを明らかにしていた。 これらの指摘をふまえて黒澤映画を見直す時、『白痴』（1951）とその前後に撮られた 『醜聞（スキャンダル）』（1950）と『生きる』（1952）が、『白痴』三部作と呼べるよう ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№98 2010 な深いつながりを有していたことに気づくのである。 今回の報告ではピース氏の『白痴』論や黒澤明監督の映画を手がかりにしながら、モスクワから半年ぶりに帰還したムイシュキンの行動を描いた第２編を次のような順序で分析する（訳は、木村浩訳『白痴』新潮社による）。 まず、最初にレーベジェフと甥との会話に注目することで、弁護士も営むようになったレーベジェフが、「真心は持っている」ものの、酔っぱらいの「ペテン師」である可能性が示唆されていることを確認する。 そして、ロゴージンの古い家を訪れた際にはムイシュキンが、ホルバインの絵画『キリストの屍』や「分離派」について会話を交わしただけでなく、別れ際にはＣ氏との出会いや殺人事件の話、そして百姓の女性から受けた印象についても語っていることに注目する。 さらに、ロゴージンとの間では歴史書についての会話もなされていたが、『死の家の記録』で重要な役割を与えられているペトロフも歴史的な事実についての強い関心を持っていたと記されていることに注意を払うことで、ロゴージンという人物が1861年の農民一揆を指導した「古儀式派」教徒のペトロフをモデルとしている可能性があることを示唆する。 最後に、エパンチン夫人がコーリャに無神論を教えて「誘惑」したとイポリートを批判していることに注目しながら彼の『キリストの屍』観などを分析することにより、ロゴージンを殺人へと「使嗾」したのはムイシュキンではなく、多くの研究者が『白痴』を解く鍵と見なしているイポリートである可能性が高いことを明らかにする。 第196回例会傍聴記 長瀬 隆氏の「小林秀雄のドストエフスキー」を聴いて 船山 博之 あたたかな囲炉裏端で、人生の達人が想い出を語るような感じで始まる。生業は、会社組織に従事してきたとはいえ、筋金入りのドストエフスキー研究者。ペレヴェルゼフの『ドストエフスキーの創造』を翻訳し、ロシア語とロシア文学に浸ってきた者の矜持と感慨が、十分に伝わってくる夕べとなる。 資料は、早稲田大学松尾隆教授記念行事発行のものが用意されていた。小林秀雄の『ドストエフスキーの生活』が、Ｅ・Ｈ・カーの『ドストエフスキー』の「剽窃」ではないかというエピソードを、この資料を参照して、師・松尾隆教授の話などが、楽屋話的面白さで語られる。また、自論である「ドボォイニーク」がキーワードであることについて、ジラールの「ドストエフスキー 二重性から統一性」を読んで確信できたとも述べられる。レジメにもあるように、小林秀雄の「今日、僕等が読むことができる『カラマゾフの兄弟』が、凡そ続篇といふ様なものが全く考えられぬ程、完全な作と見えるのは確かと思われる。彼が嘗めて書いたあらゆる大小説と同様、この最後の作もまさしく行くところまで行っている。完全な形式が続篇を拒絶している。」に共感していると述べ、安易に続篇を考える研究者に苦笑してみせるなど、広がりのある知識を存分に吐露された。 長瀬氏の話に触発されて、手元にある「小林秀雄 ドストエフスキー論考」昭和41年発行のものを改めて読んでみる。『ドストエフスキーの生活』の中で、「僕が一番信用した文献は、彼の書簡であった。貧困、濫費、放埓、熱狂、絶望、憤怒、凡そ節度を知らぬ情 熱なら、書簡のうち到る處に見付る。」として、本人の書簡、同時代の友人、妻娘の書簡、 ニュースレター№98 2010 ――――――――4――――――――――――― 回想記、日記、手紙などからの引用を多用している。特に、ルーレット賭博にのめりこむ姿を、何故か執拗に、かなりの量を引用しているが、発表された昭和16年を考えると、斬新で刺激的な外国作家の評伝だと推察される。 小林秀雄は、昭和41年『批評』の≪歴史と文学≫と題する座談会で、「誰でも伝記を書く場合には、伝記を書く人のイデーというものがありますよ。其のイデーというものは、主義だとか理論だとかそんなものぢゃあないんですよ。対象人物に対する尊敬、或いは愛情、そういうものがイデーに他ならないので――」と述べている。昭和39年の〈ソヴェットの旅〉の講演では、「私は文学者になるについて、ロシアの19世紀文学に、非常に世話になった。ドストエフスキーという作家を読んで、文学に対して開眼したのです。」と述べ、ドストエフスキーの讃美を語っている。昭和16年（39才）に発表した『カラマゾフの兄弟』の作品論で「ドミトリィは、実によく描かれた人物である。」と述べ、ドミトリィが恋愛について喋る「意味のない悪夢だ、而もまさしく悲劇だ。惚れ込むといふのは、愛することぢゃあない。惚れるのは憎しみながらも出来るからだ、覚えとけよ、アリョオシャ。」を引用して、小林秀雄は、次の様に続ける。「惚れるとはどういう事なのか誰も知らない。だが、それは確かに愛することではない、愛は人を救う筈だ、人は惚れて愛を見失ふ。一体、妄想と凶行と絶望が、どれほどあれば恋人達は満足するのであろうか。恋愛は幸福な美しい人間の型は勿論、凡そどの様な人間の型も育て上げる力はない。人間の精神も肉体も、恋愛のうちで混乱し、亡びる他はない。」と書く。この一節は、28才の小林秀雄が陥った中原中也、長谷川泰子との三角関係について、昭和24年（47才）に『文芸』に発表した≪中原中也の思い出≫の「中原中也と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、やがて彼女と同棲した。悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という本能も思い出という創作も信じる気になれない。」と照応し合っていて興味深い。 小林秀雄が、書くことを公言していた『ドストエフスキーの文学』という本は、『本居宣長』を書く路線を選んだことで、幻の本となる。 尚、長瀬氏が大岡昇平の『レイテ戦記』を『本居宣長』より上位においていると述べたことも印象的であった。 事務局便り 第197回例会会場・神宮前隠田区民会館 JR原宿6分/ 東京メトロ千代田線 |
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No.97 News
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Society 2009.12.25 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：長瀬 隆（ながせたかし）氏 1931年樺太大泊（コルサコフ）に生まれる。47年引揚。早稲田大學露文科卒。57年日本原水協代表団のロシア語スタッフとして訪ソ（同時に訪中）。貿易商社に勤務、主としてソ連を担当。作品に『樺太よ遠く孤独な』（84年、西田書店）、『ヒロシマまでの長い道』（89年、晩聲社）、『微笑の沈黙』（95年、同）が、また翻訳にペレヴェルゼフ『ドストエフスキーの創造』（89年、みすず書房）がある。99～2002『早稲田・1950年・史料と証言』全６冊の編集に従事、ドストエフスキー学者にしてマルクス主義者たりし松尾隆（木寺黎二）教授(1907～56)につき評伝180枚を連載。2003年草思社より評論『日露領土紛争の根源』640枚を刊行。同書に詳述せるチェーホフ『サハリン島』の日本関連記述についての学的発見を04年没後100年記念国際学会（メリホヴォ）で報告、論文集に収録さる。http://homepage2.nifty.com/~t-nagase/ に掲載。 ニュースレター№97 2010 ――――――――2――――――――――――― 第196回例会報告要旨 小林秀雄のドストエフスキー 長瀬 隆 小林秀雄の文学界への登場は1929年の『改造』の懸賞２位の論文「様々なる意匠」である（１位は宮本顕治「敗北の文学」）。プロレタリア文学の最盛期であって、彼は少数派としてスタートした。転機が起ったのは34年の左翼運動の崩壊によってである。彼は「文芸評論の主宰者の地位」（本多秋五）につき、ほぼこの年から『未成年』論を皮切りに一連のドストエフスキーの作品論を発表し始めた。また並行するように『ドストエフスキーの生活』の名で作家の評伝を雑誌に連載、戦後48年にこの表題でそれまでの全論考を収録した単行本を刊行した。と同時に彼はスキャンダルに身を晒すことになった。 事の起りは埴谷雄高であって、E.H.カー『ドストエフスキー』と照らし合わせて『生活』を読んだところ、その書が種本として使われていることを発見しそれを同じ『近代文学』の同人たちに話したのである。その真相を埴谷は書いてはいないが、89年に私が直接質したところ花田清輝が諸処方々に「誤訳まである剽窃」と言いふらし、騒動が持ち上がったのである。何人もの人々が見解を表明したが、真偽を判定できるのは『ドストエフスキー文献考』（36）の著者である木寺黎二以外には無いということになり、『都新聞』が再三にわたって執筆を慫慂したが、固辞し続けたと伝えられる。（面識のなかった小林が訪ねてきている） 木寺は本名を松尾隆といい、「シェストフ文献考」で登場、三木清編集のシェストフ三巻全集の翻訳スタッフの一人であり、34年に仏語から重訳されてドストエフスキー観に甚大な影響を及ぼした『悲劇の哲学／ドストエフスキーとニーチェ』を、露語から直接訳していた。しかし戦後は本名に戻りマルクス主義哲学者として活躍、ドストエフスキー＝シェストフからは足を洗ったと信じていた。固辞しきれずに同紙に「小林秀雄問題管見」三回を発表、その延長として親交があった窪川鶴次郎が編集長だった雑誌『思潮』の鼎談「ドストエフスキーをめぐって」に出席（他に埴谷雄高と中村眞一郎）。56年49歳で没した。 小林はその後の版でE.H.カーに依拠したことを付記するようになり、やがてその書は邦訳された。今日両書を比較対照すると、10年代の左翼がこれに小林のマルクス主義の歴史主義への接近を誤認した理由がよく分かる。 カーは後にはマルクスの評伝をも公刊した公正な歴史家であり、ゲルツェンやベリンスキー等の革命的民主主義者についても言及していて、小林はそれを写して執筆していたのである。そしてさらに感慨深いのは、マルクス主義者ペレヴェルゼフをも名をあげて引用していることである。 ペレヴェルゼフはロシアの反動期の12、14年に『ドストエフスキーの創造』でスタート、革命後ドストの生誕百年に記念講演「ドストエフスキーと革命」（89年、みすず書房刊拙訳書『ドストエフスキーの創造』に収録）を行い、これを22年刊行の版の序文とした。これはスターリン派の台頭を視野に入れつつ、『悪霊』をマルクス主義の立場から擁護したものであり、政治と文学の対等な相互協力を希求した後の論文が加わって、20年代末に「失脚」する原因となったものである。これが、解説が一切なされずに34年に早大露文科の研究誌に岡沢秀虎によって訳載されていた。小林はこれから引用しているのだ。 この年、岡沢は『創造』のうちのラスコーリニコフとイワン・カラマーゾフの章をそれぞれ『浪漫文学』と『書物』のドストエフスキー特集号に訳載している。前者の場合は「（専らペレヴェルゼフによる）」と文末に記しているが、後者にはこれも無く、自分の論文で あるかのような体裁であった。ペレヴェルゼフはドヴォイニーク（二重人、分身）をキーワードにドストエフスキーを分析しており、このため前者には14、後者には28度にわた ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№97 2010 ってこの言葉、二重人格の訳語が頻出している。小林が眼を通さなかったはずの無い論文であるが、彼はこの言葉が第二作に現われて後、27年の星霜をへて『未成年』に16回にわたって再出していることに気づかなかった。依拠した三笠版全集が、前者では二重人格、後者では米川訳で分身となっていたために、ロシア語では同一語であることに気づかなかったのである。 カーは二つの作品の関連に触れている。そのことは、たとえ剽窃してでも自著に採用すべきだった。しかしこの一語の重要性に気づくためには、人はマルクス主義であるか、それに準じていなければならないようだ。カーはドストエフスキーの作品にはヘーゲル哲学が生かされていると明白に述べている。小林はこれを黙殺し、『罪と罰』では反発している。「ヘェゲル風に考えるにせよ、マルクス風に考えるにせよ、一元的歴史主義というものの裡には」云々。 大東亜戦争を肯定する大座談会「近代の超克」を主催し、戦後は戦争協力者に擬されつつ、小林は左翼がドストエフスキーを軽視していることを非難し続けた。その原因は左翼がスターリン主義の重圧に屈したことにあった。ペレヴェルゼフを全訳するためには、この文芸学者が弾圧されている事実に対する評価の表明が必須だった。『創造』が傑出していることは読めばだれにも分かることであり、戦時下にあって全訳を目指した人に松尾隆がいた。しかし「小林問題管見」ではその事実をひた隠し、最晩年の学生であった私にも一言も告げずに逝った。ソ連におけるドストの禁圧の歴史は、ペレヴェルゼフ「ドストエフスキーと革命」の禁圧の歴史だった。詳しくは08年刊の拙著『ドストエフスキーとは何か』（成文社）に見られたい。 限界の明らかな小林ではるが、優れた鑑賞家であったことは認めなければならない。「今日僕らが読むことが出来る『カラマーゾフの兄弟』が、凡そ続編という様なものが全く考えられない程完璧な作と見えるのは確かだと思われる。彼が嘗て書いたあらゆる大小説と同様、この最後の作も、まさしく行くところまで行っている。完全な形式が、続編を拒絶している。若し彼がもっと生きていたら続編は書かれていたかも知れぬ。併し、それは全く異なった小説となったであろう」（42）。続編を空想して書きまくっている今日の自称「最先端」の新訳者は、小林の爪の垢を煎じて飲むべきであろう。 195回例会傍聴記 熊谷のぶよし氏「イワン・カラマーゾフの思想」を聴いて 長谷川 研 文芸批評を読むのが楽しい理由は様々あろうが、文芸作品の一読者でもある当該の批評家が次の二つの課題に取り組んでいるのが伝わってくると、私にとっては、とりわけ啓発的なものになる。 ① テキストに沿い作者の創作意図を明らかにすること。 ② 作者により創作された作品が読者にとってどのような意味を持つのか、現代を生きる読者個々人の問題意識から問い直すこと。 熊谷氏の「イワン・カラマーゾフの思想」は、「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」を中心としたテキストの精密な読解のうえに、イワンの思想を現代的な観点から斬新に再構成している力作であり、上記①、②の点で、私にとって、聴きごたえがあり実に有益な報告であった。 氏の今回の報告を読み解くのは必ずしも容易ではない。5ページにわたるレジメと10ページに及ぶ詳細な注解は、時に晦渋ですらある。しかし、その難しさは、多くの優れた ニュースレター№97 2010 ――――――――4――――――――――――― 批評と同様に、言葉の奥深いところに何か重大な真実が語られていることを予感させないではおかないものであり、氏の緻密きわまる論理をたどる労を惜しんではならないことを思わせるのに十分である。 氏の問題提起と分析は多岐にわたり、また、その論調は複雑な陰影を帯びるが、ここでは紙幅の制約上、上記の②に関し、現在の私が理解している範囲でポイントと考える個所を一点だけあげ、それについて極簡単にコメントしたい。氏が語ることの主旨の一つは次のようなことであると思われる。 １）キリスト教社会（信仰共同体）は、神の国や復活による永生と不死の思想（信仰）により死を隠蔽している。 ２）神なき現代社会も〈システム〉＝「蟻塚」による繁栄のなかで死を隠蔽している。 ３）本来、人間にとって、死とは、〈虚無〉以外の何ものでもない。 ４）よって、キリスト教社会も神なき現代社会も、人間から死＝虚無を隠蔽している点では同じである。 ５） この隠蔽の欺瞞から覚醒した後に開ける生の光景は、人間がその虚無性を直視したうえで、死すべき〈私〉と死すべき〈他者〉が見つめ合う世界である。 基本的には同感である。２）について言えば、ハイデガーが「存在と時間」のなかで明らかにしたように、通常、人間（現存在）が死を忘却しているのは、社会のシステムに問題があるのではなく、〈世人〉としての〈頽落〉という実存の根本的な条件による、という考えもあろうが、現代の資本制社会がそこで日々生きる人間を死から眼をそらすようにドライブするメカニズムを内包していることは事実であろう。 氏が報告の中で言及した大澤真幸の師にあたる社会学者見田宗介は、近代以降の社会を生きる個人が直面する最も本質的な問題はニヒリズムとエゴイズムであると喝破した。今回の氏の報告は、このニヒリズム系列の問題群中で、イワンの思想の現代人にとっての生きられる可能性を探る、氏の言葉をレジメから引用すればイワンの「肯定的な思想」を析出する試みとしてスリリングであった。一方、イワンの「人神」の思想は、エゴイズム系列の問題群のなかで整理・分析すべき論点も含むと私は考える。 また、報告後の質疑のなかで、イワンの無神論思想と〈自然〉の関係を問う意見が出された。この指摘は極めて重要であり、私は、イワンの思想、というより思想を生みだした感受性のなかに、〈自然〉に親和的な地層と〈自然〉と相反するベクトルを生みだす地層があり、イワンの感受性のこの二つの地層をテキストに即して分離・析出することは可能であると思っている。他日、こうした点について議論する機会が持てれば幸いである。 事務局便り 第196回例会会場・神宮前隠田区民会館 JR原宿6分/
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報告者紹介：熊谷のぶよし氏 １９５７年生まれ、東京在住、妻有、子供２人。地方公務員。過去の例会での発表履歴 「〈嗜癖〉をとおしてミーチャを読む」「『永遠の夫』を読んで」「アリョーシャ・カラマーゾフの課題と達成」
ニュースレター№96 2009 ――――――――2――――――――――――― 第195回例会報告要旨 イワン・カラマーゾフの思想 熊谷のぶよし 教会裁判権の論者、「大審問官」の語り手、神の世界の否定者、＜神がなければすべては許される＞の発信者であるイワンは否定的な思想の代表者であると思われている。しかし、彼は生きることを熱望する青年でもあり、否定を基盤に生きることが不可能であることを知っている。イワンには誰にも触れられたくない肯定的なヴィジョンがある。論じられることが少ない主題だが誰しも気になる、あの、悪魔によっていやらしく証言される＜『地質学的変動』後の世界＞である。イワンの苦悩と悲劇は、彼が経験する現実の生の中で、このヴィジョンが失墜し泥まみれになりながらも、このヴィジョンを彼が最後まで手放せないところにある。 このヴィジョンは、カラマーゾフ以前の作品や『作家の日記』でも形を変えてたびたび登場した。＜『地質学的変動』後の世界＞は、ドストエフスキーのとらえる西洋的理想の究極の姿としてある。ある日突然おこる、人間の本質の激変によって出現するこの理想社会は、完全な無神論を基盤とし、死すべき他者に対する狂おしい憧憬によって維持される。この傲慢な個人を要素として成立する無神論社会のヴィジョンは、ドストエフスキーが自国の農民の裡に見る宗教的理想と対極の姿をしめす。したがってドストエフスキーにとっては蜃気楼であるべきものなのだが、市民社会を＜理想＞に向かって進むものとして見たとき―今日われわれは、社会を理想という観点から眺めることをしなくなったが―、このヴィジョン以外なにも残されていない、と思わせる説得力がある。 ヴィジョンが＜理想＞を示すなら、＜現実＞の社会は、「大審問官」が君臨する世界である。「大審問官」の章は、テキストに沿って丁寧に読むと、従来論じられてきた自由と専制の議論が退き、虚無の隠ぺいと「生政治」の主題が浮かび上がってくる。それは、まさにわれわれの＜現実＞の社会の隠れた動機を言い当てている。物質的繁栄によって、人々の安逸な暮らしから、死をどのように隠すか、それが「大審問官」の現代的な意義である。したがって、高齢者医療制度と特定健診・特定保険制度の同時成立、自殺者の増加、出生率の低下の意味するものは、虚無から社会を守る機能としての「大審問官」的制度のほころびである。 「大審問官」は神の代理人の僭称者である。彼自身は神を信じていないが、しかし神の観念は「大審問官」の僭称にとって必須条件である。一方＜『地質学的変動』後の世界＞は「神の観念の完全なる破壊」の上に成り立っている。この無神論的理想社会のヴィジョンは、「大審問官」の前提を無効にするものとして、その年の春に突然イワンを訪れ、彼のすべてを決定づけた。 イワンは何かを否定して事足りる人間ではない。それが無神論であったとしても、それを究極の肯定のなかでとらえる。そうした意味で理想を持つ人間である。しかし、この理想社会には理論的必然性はなく、ただ、イワンが見てしまったヴィジョンだけがある。また行動規範としては＜すべてが許される＞という結論を回避できない。そこに「しかし、そうはしないはずだ」という言葉を聞き取る者はいない。それなのでイワンは、この肯定的なヴィジョンを公言することができない。イワンの悲劇は、＜神がなければすべては許される＞という否定的な思想を持つものが否定的な結果を生み出してしまったところにあるのではない。この標語自体が本人の言葉から離れ、別の者たちに言い換えられた結果である。イワンの悲劇は、心に理想を持った人間が、その逆の否定的な結果を生み出して ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№96 2009 しまったということにある。しかもそのような結果を生み出すに相応しい人間であると人に見なされ、読者にも見なされる。イワンの苦悩の幅は人に思われているより、はるかに大きい。このイワンの苦悩をあとづけてみたい、というのが今回の発表の一つの趣旨である。 イワンが見た＜『地質学的変動』後の世界＞のヴィジョンの問題は、結局は、人間が無神論に耐えられるのかということに帰着する。小説においてこのテーマは、＜死者＞の苦痛の問題として、イワンの前に立ちふさがる。小説中最も重要なイワンの言葉は、次の引用部分である。 「もしたって望むなら、自分だけの分を赦すがいい、自分の母親としての無量の苦痛を赦してやるがいい、しかし、八裂きにせられた我子の苦痛は、決して赦す権利を持っていない。たとえわが子が赦すといっても、その暴君を赦すわけにはいかないのだ。」 死んだら人間は無である、ということが言い切れなければ無神論ではない。無神論者でありながら死者の苦痛を語ることは不可能なのだ。しかし、無であり、死者の苦痛が存在しないのであれば、人間は他者に対する感情生活で重要なものを失う。イワンのこの短い言葉の中には多くのことが込められている。ここには人間が無神論と向き合うときの一つの壁がある。神を前提としてその世界を糾弾するイワンの論法の根拠がある。イエスにおいてだけ可能である他者の他者に対する罪を許すということの、人間における困難さが表明されている。この言葉は長い間解けない謎だった。今でも謎であるが、イワンについて一番話したいのはこのことなのだ。しかしそのためにも前半が必要となる。 発表は、次のような順序を予定している。悪魔の言葉の中で取り上げられたヴィジョンのイワンの思想の展開における位置づけを行う。続いて、ヴィジョンの他の作品における現れ方を整理する。「大審問官」の読み直しを行い、「大審問官」の現世的権力の在り方をテキストから再検討する。そのうえでビジョンが「大審問官」の前提条件を解決したものとしてイワンに訪れたという読みを提示する。以上を踏まえた上で、時間があれば上の引用を検討したい。しかし、すべてはイワンという現実に存在する人間の頭の中に起こった出来事としてである。 １94回例会傍聴記 福井勝也「大岡昇平とドストエフスキー」を聴いて 長瀬 隆 ドストエフスキーが日本文学に根を下ろしたのは1934年前後の「転向」の時代であることは常識である。この時期に三笠書房版の邦訳全集が出始めたのも偶然ではなかった。もっとも「転向」するためにはその前段階として共産主義運動への加担が無ければならず、埴谷雄高、椎名麟三、武田泰淳、野間宏等すべて程度の相違こそあれこの範疇に一括できる。しかし「転向」が言われるためには機軸が無ければならず、それが「非転向」＝スターリン主義であったことが明らかな今日的観点に立てば、この一般論は見直しが必要なのである。 大岡昇平は右の人々とは違っていた。彼はプロレタリア文学運動に斜に構えていた文壇評論家小林秀雄の身近にあった人である。彼は戦前スタンダールの翻訳で知られた人であり、戦後もその研究書がある。自ら積極的にドストエフスキー派であると名乗ったことは無かった。しかしこのロシア作家の本質をもっともよく捉えていたのは前記の人々よりも大岡だったのではなかったか、と私は久しく思ってきた。それは今回福井報告でも触れら ニュースレター№96 2009 ――――――――4――――――――――――― れた『俘虜記』と『野火』それぞれでの各１、２行にすぎないドストエフスキーへの言及 によるのである。 『野火』は当初『狂人日記』の表題が予定されていたと伝えられ、作中の章名に生かされている。これはゴーゴリの同名の小説が意識されてのことだが、このポプリーシチンこそはドストエフスキーが己の二重人（格者）をそれから創りだした原型である。『貧しき人々』然りであるが、第二作のゴリャートキンは徹底的にそうである。三笠版では「二重人格」と訳されていて、これが大岡作品に記されていることで、文学史的にも意味がある。「分身」の米川訳が現われたのは、『俘虜記』の後である。 私がドストエフスキーを読み始めたのは、初期大岡のこの２作を読んだ後のことで、非常に長期にわたって米川の「分身」を良くないと考えてきた。『俘虜記』の「二重人格」を「分身」に代えてみたまえ。この作品は歪んだものになるのである。三笠の訳語があったので大岡はゴリャートキンを二重人として把握でき、自作に生かすことができたのだ。 「分身」の訳語の後にドストエフスキーの（人物の）二重性の把握は弱まった、と私は慨嘆してきたのだったが、1989年に自らペレヴェルゼフ『ドストエフスキーの創造』を訳し、その後にこの影響を無しとはしないジラール『ドストエフスキー/二重性から統一性へ』を読んで、二重人と分身の両義を有するドヴォイニーク（＝double）がキーワードであると確信することになった。かくて『ドストエフスキーとは何か』（2008）の上梓と相成ったのであるが、執筆中に「分身」訳語の積極面をも発見することになり、それを最後に記した。 生きて復員してきて大岡は「人を殺してきたのではないか」と疑う他者の眼を意識せざるをえなかった。その可能性（危険）は一度だけあった。しかし殺さなかった。エピグラフには「わが心善くて殺さぬに非ず」（親鸞）と記す。その発展として人肉も食わなかったことを報告しないではおれなかった。それで『野火』の執筆となったのだが、その舞台がフィリピンというカソリック国（初めての洋行と冗談を言っている）であったことにより、またミッションスクール出身者の教養によって、キリスト教の（唯一絶対の）神が問題となった。それで人肉食を制止してくれたことで、作品は「神に栄えあれ」と結ばれることになる。これが幸いして（？）『野火』は西欧語に訳されることになったのだが、作者が語るところではその意図はけしてキリスト教讃美にあったのではないようだ。福井報告に教えられたことで、礼を言わなければならない。 事務局便り ○2010年4月発行予定の「広場」19号の編集企画に着手する時期となりました。近々、編集会議を開きます。編集会議は運営委員によって構成されます。 次号主軸の論文は2009年度の例会発表者渡辺 圭、木寺律子、福井勝也、熊谷のぶよしさんの論文4本となりますが、会員の皆さんに広く参加をお願いするエッセイは、未だ一切、未決定です。申し合わせにより、400字3枚までは会負担で執筆料無料ですが、超過枚数分は400字あたり400円の負担をお願いし、その対価として「広場」1冊を受け取ることができます。400字10枚くらいまではエッセイとして受付けます。内容はドストエフスキー、あるいは会に多少とも関係があるものならば、自由です。編集の都合上、ワープロ原稿が原則で、手書き原稿の場合は、ワープロへの打ち直しの手数料をご負担いただくことになるかもしれません。 締め切りは年内12月31日、奮ってご寄稿くださいますよう、お願いします。連絡先、添付での原稿提出先は、アドレス：tkino@chiba.email.ne.jp
です。 （木下豊房） |
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No.9５ News Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky Society 2009.7.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：福井勝也氏 １９５４．１ 東京都渋谷区生まれ 「全作品を読む会」世話人 『ドストエフスキ－とポストモダン』（2001.1）
『日本近代文学の<終焉>とドストエフスキ－』（2008.2） ニュースレター№95 2009 ――――――――2――――――――――――― 第194回例会報告要旨 大岡昇平とドストエフスキー －『野火』を中心にして－ 福井勝也 拙著『日本近代文学の＜終焉＞とドストエフスキー』（08.2）で引用した小林秀雄（1902-1983）の言葉を冒頭に再掲する。 「僕は、西洋の近代文学者の中で、一番問題に豊富な大きな作家を見付けて、それを徹底的に調べることの必要を考えてドストエフスキイを見付けたのです。少ししらべて行くと、実に誤解に誤解を重ねられて来た作家だという事が、直ぐわかってくる。ドストエフスキイもトルストイもあんなに騒がれて来たが、どうして日本人はあんなに勝手気儘に曲解しなければならなかったか不思議な気がして来る。僕は日本人らしいドストエフスキイ観を持ちたいなどという考えは少しもなかった。今もない。いかにも日本の近代文学者流に曲解された彼を正しい姿に返らそうとしているだけです。」（「文學界」s.17） 今年は、私たちの「会」が発足して40年目という節目の「ﾒﾓﾘｱﾙ･ｲﾔｰ」に当たっている。さらにここ数年の「ﾄﾞｽﾄｴﾌｽｷｰ･ﾌﾞｰﾑ」という巡り合わせを考える時、小林のこの言葉は彼の率直な感想では済まされない＜日本におけるドストエフスキー文学の受容＞というアポリア（その「来し方行く末」）を改めて考えさせられる。そのことは、戦後まで小林批評の中核としてあったドストエフスキー論を自身が放棄せざるを得なかった皮肉な結末が何より物語っている。前掲の拙著も、そのような問題意識から日本近代文学史へのドストエフスキーの影響を＜逆説的に＞辿ろうとしたものであった。そこに「ドストエフスキー体験」という副題の言葉を介在させることで見えて来るものを探ろうと考えた。今回の発表で大岡昇平（1909-1988）を取りあげようと思ったのもその延長であって、実は大岡（の作品）に小林の目指したドストエフスキーの「正しい姿」が捉えられているのではないかと思った次第である。 大岡は以前から気になる作家で、思い出せば丁度20年前（1989）、前年暮れに亡くなった大岡氏に触れた文章を「会報」（No.109）に掲載していただいたことがあった（拙著『ドストエフスキーとポストモダン』2001、所収）。書き出しは、これも巡り合わせを感じるが、すでに人気作家になった村上春樹氏の80年代末のインタビュ－記事についてであった。そこでは来るべき90年代の「新しく築かれるべきモラル」が語られ、さらに村上氏のこんな予感が語られていた。「今後、僕はまったく新しい体験として、日本文学を受け入れていくかもしれない。」 思えば作家村上春樹の社会へのｺﾐｯﾄﾒﾝﾄを開始する時期の静かな決意表明であった。ご存知のとおり、その後氏はﾉｰﾍﾞﾙ文学賞候補にもなったりしながら、最近のイスラエルでの意見表明を経て、さらに今夏『1Q84』が刊行され21世紀の世界的作家に成長した。時代は90年代から世紀末を過ぎて、21世紀もすでに10年が終わろうとしている。「思えば遠くへ来たもんだ」ではないが、一方でますます液状化して正体が不明になりつつある「文学」について考える時、改めて「会」発足20年目にあたって書いた自分の文章に巡り合う不思議（と僕なりの責任）を感じる。この「会報」の最後で自分はこんな風に文章を結んでいる。 「大岡氏の文学に接してもう一つ指摘しておきたいのは、埴谷雄高氏も大岡氏との対談で触れていることだが、大岡氏の『俘虜記』はドストエフスキーの『死の家の記録』に匹敵するものだということである。大岡昇平とドストエフスキーという問題は、これからも ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№95 2009 っと論じられてしかるべき大テーマであろう。もしかすると、このテーマを掘りさげることの中に、自らの＜新しいモラル＞のヒントも隠されているかもしれない。」 果たしてその後、この＜新しいモラル＞は築かれて来たのだろうか。甚だ心許ない今日の事態（勿論、自分を含む）ということになろうか。あれから20年経過した今年（偶々シベリヤに4年抑留された経歴を持つ父親が85歳で亡くなる前後から）大岡文学を読み直す機会に恵まれて、改めてドストエフスキーについて語ってみたいと考えた。これは、「会」発足40年目の個人的な思いである。とにかく大岡氏の戦後の主な作品を読み返すうちに、氏の文学と人生の師でもあった冒頭の小林秀雄の言葉がまず蘇って来た。大岡昇平とドストエフスキーという問題は、単に比較文学的に語られるべき内容のものでなく、そこには何重かのハードルと屈折が孕まれていることも実感した。そこには、小林秀雄と大岡昇平という生涯の師と弟子のエディプス的因縁すら介在している。 そして同時に、例えば『野火』（1948-52）という代表作一作を考えても、これ程ドストエフスキーの文学（例えば、『罪と罰』）の影響を「正しく」感じさせられる作品は他に無いと感じた。見方によっては、「日本の近代文学者流に曲解」されずになされたドストエフスキー理解の希有な実例ではなかったか。それは決して、単なる文学的影響関係などというふやけた言葉で説明されるものではないのだろう。一つはっきり言えることは、師である小林の助言で書き始められた『俘虜記』（1946-48）等の戦後作品が、「戦争体験」という極限状況を見据えた（助言者小林には到底持ち得なかった）、大岡の人間存在を見つめる「眼」に裏付けられていたことだろう。そこには作家大岡の「蜥蜴の眼」が輝いている。 発表は、第一に『野火』等の作品を中心に進めたいと考えている。それは『野火』が、拙著で問題とした＜日本におけるドストエフスキー文学の受容＞の到達点の一つとして語るべき作品だと思えるのと、現代のドストエフスキーを語るうえで、立ち帰るべき作家としての大岡昇平の原点がここにあると感じたからでもある。64回目の敗戦記念日、父の墓参から戻って、『野火』を前にして発表の前口上を書かせていただきました。 １93回例会傍聴記 「ドストエフスキー文学における罪 －『カラマーゾフの兄弟』を中心に」を聴いて 渡辺 圭 木寺律子氏による当会の第193回例会報告「ドストエフスキー文学における罪――『カラマーゾフの兄弟』を中心に――」は、ドストエフスキー作品における「罪」の問題の根深さを参加者に再認識させる大変有意義なものであった。木寺氏は、当該のテーマで既に学位請求論文を通過させており、それに基づいた本報告は重厚な内容となった。筆者は、木寺氏作成のレジュメ（全30頁）を読み返し、この傍聴記を書き上げた次第である。 木寺氏は、本報告の冒頭において、ドストエフスキーの諸作品における「罪」の問題の分析を、「社会的なアプローチ」を用いて行い、「宗教感情」よりも「罪の構造」を重視すると述べている。つまり、「罪」という存在を宗教的には捉えず、「構造」として検討するということである。木寺氏は、研究の方法論について言及した後、西欧とロシアにおいて「罪」の問題がどのように扱われていたかを概観している。ここで取り上げられているのは、ニコライ・ベルジャーエフの宗教思想、チェーザレ・ベッカリーアの法学、ジークム ニュースレター№95 2009 ――――――――4―――――――――――――― ント・フロイトの精神分析などであり、人間にとっていかに「罪」の概念が問題視されて きたのかがよく分かる。続いて、木寺氏は、報告の芯となる『カラマーゾフの兄弟』における「罪」の問題を論じている。この部分は、『カラマーゾフの兄弟』の作品世界全体、そして個々の登場人物をめぐる「罪」の在り様が整理されており、当該のテーマに関心を寄せる者にとって有用である。ここで木寺氏は、『カラマーゾフの兄弟』における「罪の連帯責任」という構造の重要性を強調し、フロイトはこの問題に触れていなかったと主張している。さて、木寺氏は、本報告が「社会学的」「社会的」な研究であることを繰り返していたが、『カラマーゾフの兄弟』における「罪」の問題を考察するにあたり、皇帝アレクサンドル2世の農奴解放令（1861年）や、同作品が書かれた時代の知識階級が民衆に対して抱いていた負債の感情＝「罪」の意識についても言及している。これはドストエフスキーの諸作品での「罪」の概念の理解を助けるものであろう。全体として、木寺氏の報告は、ドストエフスキーの著作における「罪」のリストの様相を呈しており、参加者はこのリストから知的刺激を受けたのだった。 木寺氏の報告がなされた会場では、同氏に対して様々な質問やコメントが寄せられた。筆者が報告のレジュメに残したメモ書きから、幾つかの質問やコメントを再現してみたい。ある参加者からは、木寺氏の研究が「社会学的」「社会的」なものであるという事に対して、「『カラマーゾフの兄弟』という小説、虚構の中の社会共同体と、現実のロシアの社会共同体は別物ではないのか？」という疑問が投げかけられた。社会学の方法論は現実の社会を分析するのに有効であって、小説の考察には適用出来ないのではないか、というこの参加者の質問は、大学時代に社会科学を学んでいた筆者には得心のいくものであった。また、木下豊房先生からは、「『罪』と『赦し』は常にセットになっているのではないか、木寺氏の報告では『罪』の方ばかりが取り上げられている」といった指摘があった。このコメントに対し、木寺氏からは、「『赦し』は宗教的な感情である、宗教感情は取り上げない」といった感じの返答がなされた。筆者は木下先生の意見に賛成である。実際、「赦し」は、人間関係のルールの中にあるものであり、全ての「赦し」が宗教に起源を持つわけではなく、無宗教の人間においても倫理的・道徳的に「罪」と「赦し」は常にセットになっていると筆者は考えている（木寺氏の報告において、「倫理」や「道徳」についての言及が乏しかったのは残念である）。筆者自身は、「ドストエフスキーの諸作品における『罪』を構造的に分析した結果、いかなる結論が導き出されたのか？（どのような地平が垣間見えたのか？）」という質問をさせていただいたのだが、具体的な回答は得られなかった。木寺氏は、自身の研究が「社会学的」「社会的」なものであることを強調していたが、方法論の問題に拘泥したためか本報告ではその分析によって得られた「結論」は明示されなかった。筆者は、この点に不足を感じている。 事務局便り ○いま私たちが経験しつつあるのは、気候変動、政治的、社会的、経済的変動の季節であるようです。その一端の反映が、ドストエフスキーの読み方の多様化にも見られるのかもしれません。しかしこういう時代であればこそ、歴史から学ぶことが必要です。新自由主義的なその場かぎりの無責任な風潮が退いて、しっかりとしたテクストに基づいた分析と判断が求められるようになるでしょう。来年6月15日～20日、イタリアのナポリで第14回国際ドストエフスキー・シンポジュウムが開催されます。テーマは＜Dostoevsky – Philosophical Mind, Writer’s Eye＞です。国際ドストエフスキー学会（IDS）は1971年以来の歴史を持つ、研究者の交流の場です。そうした場と隔絶した形での、日本の亀山ドストエフスキーブームは、ローカルな奇怪な現象というべきでしょう。 （木下豊房） |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ
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報告者紹介：木寺律子氏 2008年3月大阪大学にて博士号取得 2008年4月から同志社大学、 2005年10月にはドストエーフスキイの会第171回例会で「『カラマーゾフの兄弟』における『ファウスト』の登場」というタイトルで発表しました。 ニュースレター№94 2009 ――――――――2――――――――――――― 第193回例会報告要旨 ドストエフスキー文学における罪 ――『カラマーゾフの兄弟』を中心に―― 木寺律子 今回の発表は、私が1年半前に大阪大学で取得した博士号のために提出した博士学位請求論文（タイトルは今回の例会発表と同じ）の一部になります。博士論文に加筆訂正していきたいと考えていますが、なかなか進みませんので、ドストエーフスキイの会の例会で皆さんからいろいろなご意見や助言をいただきたいと思い、今回発表させていただくことにしました。 まず、罪の概念について、西欧において歴史的にどのように考えられてきたかを述べます。罪の問題が考察されるのは、何よりもまず宗教においてです。ほかに、精神分析、法、宗教心性史や宗教社会学、ポストモダニズムの思想などさまざまな角度からも罪の問題を考えることが出来ます。これらを踏まえた上でドストエフスキー文学を考察します。特に『カラマーゾフの兄弟』を中心に扱います。 『カラマーゾフの兄弟』には、この作品の主要な登場人物であるイヴァン、ゾシマ長老、リーザ、町の人々などの罪の意識や、罪の連帯性というキリスト教の概念について描かれているということを、すでに以前発表した拙論「『カラマーゾフの兄弟』における罪の連帯性――町で起こる事件とゾシマ長老の言葉の呼応――」（『ロシア語ロシア文学研究』38号）や「『カラマーゾフの兄弟』における国家と教会の問題」（『ロシア語ロシア文学研究』39号）、「劇詩『大審問官』と共同体の問題」（『むうざ』24号）などにおいて述べました。今回の発表でも、『カラマーゾフの兄弟』にある罪の感覚の全体像をとらえるために、これらの論文の内容に触れます。 罪の感覚というさまざまな人物の内面の問題を扱うにあたって、個人の問題のみではなく、『カラマーゾフの兄弟』の舞台となる町やその時代の様子にも多く言及します。特に、当時の社会を大きく変化させ、民衆と貴族の関係や知識人の意識に大きく影響した出来事である農奴解放と司法制度改革が重要であると考えています。私は『カラマーゾフの兄弟』を扱うにあたって、この作品の中心的な人物であるイヴァンの人物造形に何よりも興味を持っているのですが、農奴解放と司法制度改革は、イヴァンの知識人ならではの罪の意識を考えるにあたって大変大切です。 さらにその上で、他の人物、グルーシェンカ、ドミートリー、フョードルなどにも罪の感覚があることをお話したいと思います。同じ罪の意識、罪の連帯性についての考えであっても、さまざまな登場人物ごとにその表れ方が違うこと、そしてそれがその人物の特徴になっていることに着目したいです。そして『カラマーゾフの兄弟』のさまざまな人物の罪の意識は、個人の罪の意識であるにとどまらず、町全体の構造と関わっていることを指摘します。 『カラマーゾフの兄弟』よりも以前に書かれたさまざまな作品にも、罪の感覚は描かれています。今回の発表では『罪と罰』や『主婦』、『弱い心』などの作品にも言及し、これらの作品に個人の心理的な問題として描かれてきた罪の感覚が、ドストエフスキーの晩年の大作である『カラマーゾフの兄弟』では人々の集団の問題として発展、変化を遂げてきていることを見たいです。 ――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№94 2009 １9２回例会傍聴記 「広場」（Ｎｏ．18）合評会、感想 福井勝也 今回「広場」の合評会は、会発足40周年の節目に重なるものであった。ただし俎上にあがった本号は元々40周年を記念する内容ではなかったが、巻末に＜特集＞として活動記録が付されたことはともかくメモリアルであったと思う。通算192回の例会目次を総覧して感じたことは、「現代に生きるドストエーフスキイを発見するため」の「混沌たる時代に生きるわたしたち自身の相貌を明らかにするため」の「ドストエーフスキイをあいだにはさんだ対話」が、「会発足の言葉」をなぞるように半世紀近く実践されてきた意味を改めて思い返す時期に今日があるという思いであった。これは決して我々の「会」の活動を後ろ向きに回顧するということではなく、さらに昨今の「ドストエフスキー・ブーム」に便乗することでも勿論なく、「時代の変転のなかで人間の根源的なものへの問いかけ」が今日益々必要な状況を認識して、今こそより開かれたかたちでドストエフスキーを巡る対話を掘り下げてゆく時期にあるとの思いからだ。 そんな気持から今度の合評会を振り返る時、萩原・芦川両論文がドストエフスキーの信仰という問題に根源的に迫ろうとする姿勢は、両氏が専門研究者であることを忘れさせられるほどに熱い中身で（宗教的姿勢の好悪の問題は別にして）、「会」に集う紛れもない「正統派」のものだと感じさせられた。特に芦川論文の内容は、論評された冷牟田氏も触れていたが、氏の一貫したドストエフスキー研究の原点ともいうべき個人史をおそらく初めて告白されたもので正直衝撃であった。今やその思索の実りの時期を迎えながら、まことに謙虚に自身の「ドストエフスキー体験」（例えば、江川先生に触れた件など）を語られる氏の姿勢こそ「会発足の言葉」そのものを想起させた。 なお今回の合評会では、なかなか話が深まらず議論を先送り？したような問題提起があった。それは主に、木下論文のドストエフスキーの文学に特徴的な語りのスタイルに係わり、さらに清水孝純氏の長文「書評」（バフチンのラブレー論新訳）に関連して出された意見であった。論評者大木氏のトルストイの小説表現からの異論を含め、結局はバフチンがドストエフスキーの文学表現に使用した「ポリフォニー」「カーニヴァル」という言葉の概念、さらにもう一つの「書評」でとりあげられた長瀬隆氏の著書の主題「語り手」論とも関連していた。拡散気味であった意見（問題提起）を大括りに考える時、一見小説の形式的技法の問題と見られがちな専門家的な論点が、実は何故ドストエフスキーが小説をそのような形式（スタイル）で語らざるを得なかったかという実質論として説明されて来なかったことが一番の問題なのだと感じた。木下氏のソルジェーツィンの語りのスタイル論は、緻密な検証による具体的な内容でロシアの講演でも高く評価された専門的なものである。ただし、果たして両者の文学の形式的相似性が実質上何に由来して、真に本質的な同質性を獲得しているのかがなお気になった。いずれにしても木下氏は、既著作を通じて（二葉亭四迷や夏目漱石等の小説表現、文学論の援用）このドストエフスキー的文学表現の問題を検証し続けている。芦川氏同様、一貫した独自の問題意識を長年持続されてきている。 同時に議論を傍聴しつつ考えていたことは、我々の会の発起人の新谷敬三郎先生がバフチンの著作を翻訳（1968）して以来のこの種の「議論」（勿論これは新谷先生の翻訳とは本来無関係だが、そしてやや微妙な言い方をすれば、この40年間は結局この「バフチン的ドストエフスキー論」が席巻した時代として総括できよう。）が延々続いて来ていて、ともすると同語反復の思考停止状態に陥っていることを感じるのだ。自分などはこの際、「バフチン的」ドストエフスキー論として一度この種の議論を「括弧」に括ったうえで検 討し直す時期に来ているのではないかと思うのだ。ここであえて提案をしてみたい。以後、 ドストエフスキーを語る際に「ポリフォニー」とか「カーニヴァル」とかの用語は＜禁句 ニュースレター№94 2009 ――――――――4―――――――――――――― ＞にすべきではないかと。もしあえて利用するのなら、各々然々の意味で「ポリフォニー」であり「カーニヴァル」であると予め断るべきではないのかと。確かそのような意見も出ていたと思うが、この40年を節目としてバフチンのドストエフスキー論を一から読み直す時期が到来しているとも思うのだ。それを次の40年のドストエフスキー論を語る大前提とすべきではないか。そして今日、さらに新しい21世紀のドストエフスキー論が待望されていないか。そのいくつかの兆候はすでに現れて来ていると思う。ということで、合評会の席上でも触れたが、現在僕がその兆候の一つとして注目しているドストエフスキー論を＜山城むつみ＞という優秀な文藝評論家が文藝誌（『群像』・『文學界』）に不定期連載していることを紹介してとりあえずの筆を置こうと思う。やはり今回は、「会」発足40年目の節目に重なる合評会であったと思うのだ。 事務局便り 1969年2月に会が発足してより満40周年が過ぎました。記念すべき年に記念すべき催しをとの気持もありますが、反面、ただの通過点として受け留めるのも悪くないと思います。過去の190回を超える例会の歩みは、『広場』№18の特集をご覧ください。5月30日の総会は決算、予算報告を中心として行われました。現在、実質会員は93名です。運営は例会設定、会誌編集の実務機能を実行するメーリングリストのメンバーで、普段はメールを活用して意思の疎通をはかりながら実行しています。本年度も、全国の会員の皆様の声なき声に耳を澄ましながら、偏りのない運営に心がけていく所存です。 本年度も昨年度と同じ以下のメンバーで取り組んでいきます。木下豊房（コージネート、ＮＬ作成、ＨＰ管理）、熊谷のぶよし、木寺律子、小林銀河(「広場」編集)、近藤靖宏(会計、「広場」編集)、下原敏彦・康子（ＮＬ発送）、菅原純子（事務補佐）、堤崇弘（メーリングリスト管理）、福井勝也（会場設営）、渡辺好明（会計補佐）。 （木下豊房） 平成20年度収支計算書 （平成20年5月6日～平成21年5月5日） 会計 近藤靖宏 監査 渡辺好明
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ニュースレター№93 2009 ――――――――2―――――――――――――― 第191回例会傍聴記 渡辺圭氏『ロシア正教会の修道士思想から見た『カラマーゾフの兄弟』 の世界――長老制度と聖人の肉体――』を聞いて 木寺 律子 今回の発表は、千葉大学大学院に在籍されている渡辺圭氏によるもので、大変学術的な内容のものであった。ロシア正教の聖者伝を専門的に研究されている渡辺氏による『カラマーゾフの兄弟』論では、作品世界に描かれる修道院やゾシマ長老の様子がロシア正教の実際の修道院や長老についての深い知識によって検証され、例会参加者の多くからも「作品世界の背景が分かった」という声が上がった。私はドストエフスキー文学を研究するにあたって宗教思想よりも宗教と社会構造の関係に興味があるが、渡辺氏のようにロシア正教を専門とする人の考えを聞くことは私にとって大変有意義であるため、興味を持って発表を拝聴した。 渡辺氏は、まず、オープチナ修道院の例を中心にしてロシア正教会における修道制と長老制を解説した。オープチナ修道院の修道士たちは、東方の正教神学で最重要視されているケノーシス（自己無化としての謙遜）の概念を実践していたとされる。カトリックやプロテスタンティズムとは異なるロシア正教会が東方正教会から継承した特徴は、荘厳な儀式のほか、教父の教えに基づいた観想による聖霊の獲得の思想である。神化（テオシス）というのは「神が人になったのは、人が神になるためである」という思想を基盤とし、失われた楽園にいた頃のアダムの姿を神への絶えざる祈りによって取り戻していくというのが神化（テオシス）のプロセスである。神への絶えざる祈りとは、「主イエス・キリスト、神の子、罪人なる我を憐れみたまえ」という祈りの言葉を間断なく繰り返す東方正教会固有の祈祷法で、エジプトのシナイ山やギリシアのアトス山で発展し、「静寂主義」の伝統としたロシアにも受け継がれた。19世紀のオープチナ修道院ではこの「静寂主義」＝「聖霊の獲得」のイデーが開花したということである。 ロシア正教の修道制には、多数の修道士が一定の規律で共同生活を行う共住修道、2、3人単位のグループでスキートという僧庵に住む修道、孤立した環境で隠棲する陰修があり、同じ修道院の中に異なる修道形態が存在していた。『カラマーゾフの兄弟』のフェラポント神父は長老制に批判的で陰修形態で修行している。その一方で長老の多くは民衆の相談に積極的に応じたが、これも作品中のゾシマ長老の姿勢と重なる。 私自身も『カラマーゾフの兄弟』を扱うにあたってフェラポント神父とゾシマ長老の対立の原因が単に心理的なライバル意識によるだけではなく、修道スタイルの違いによることには関心を持っていて、自分の博士論文の一部に書いたばかりであったが、ロシア正教の専門家である渡辺氏からも同様の指摘を聞いたことを嬉しく思った。 さらにドミートリーの言葉と聖イサクの思想の関連、カラマーゾフ家の老僕のグリゴーリイが聖イサクの本の愛読者であったことについての指摘がなされ、ゾシマ長老の遺体が腐った話については、聖者の聖不朽体の写真なども別添資料として配布された。 発表の後半で渡辺氏は「『カラマーゾフの兄弟』においては、（『罪と罰』のソーニ ――――――――――――――3――――――――――ニュースレター№93 2009 ャのような）神を疑わず、全てを無条件に許容する母性的原理の刻印を帯びた女性の存在が希薄である。」と指摘したが、発表の前半で修道制や聖イサクの本について綿密な検証がなされたのに対して、この部分は説得力が低いと感じた。イヴァンやドミートリーの恋人であるカテリーナとグルーシェンカ、アリョーシャと幼馴染の少女リーザ、ゾシマ長老を訪問する婦人たち、脚の悪いニーノチカ、イヴァンとアリョーシャの思い出の中にある母親などの存在を考えると、一概には言えない。 渡辺氏はロシア正教を専門となさる一方で、最近の日本で流行しているケータイ小説をよく読むことで、興味関心のバランスをとっておられるとのことである。発表の中でもケータイ小説に言及されていたが、渡辺氏は日本人としての自分自身のメンタリティーは聖者伝よりもケータイ小説の方に近いときもあるのではないかと感じるそうである。これは今回の例会の興味深いエピソードであった。 渡辺氏は発表の最後で『カラマーゾフの兄弟』における父親不在のテーマにも言及された。例会後の懇親会では、研究や論文を離れた場での雑談として、私から「『カラマーゾフの兄弟』では父親不在というテーマが論じられているけど、どうしてイヴァンとアリョーシャはポレーノフさんの思い出をもっと大切にしないんだろう？ポレーノフさんがかわいそう！イヴァンとアリョーシャはポレーノフさんの元でかなり長い間過ごしていて、ポレーノフさんは自分の子供ではない二人を自分の金で教育したり、イヴァンの才能を見出して学校に入れてくれたりしたじゃないか。イヴァンとアリョーシャは当時ものすごく仲良しの兄弟でなかったかもしれないけど、さくらんぼのジャムを食べた思い出などもあるというのに。」という話を提起した。このように懇親会の場でも話の弾んだ例会であった。
○「広場」№18は4月25日に発行、当日、会員の皆様にはメール便で発送しました。 この日、関東地方は風雨の大荒れの天気が予想されていましたが、午前10時から、渡辺さんの手配で、このところ例年、使っている下板橋の公民館で発送作業を行い、12時前には手際よく作業を終了しました。 ○今回の192回例会は、適当な報告者を立てられなかったこともあって、急遽、「広場」新刊号の合評会となりました。例年は7月例会でやっているのを早めての企画で、刊行一ヶ月では、じっくり読むのには時間が足りない向きもあるかもしれませんが、別の見方からすれば、ホットな気分で取り組める材料ともいえます。一応、論評者を立てての進行ですが、フリー討論の時間を多く取る予定ですので、会員多数のご参加をお願いしたいものです。 （木下豊房） |
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第1９１回例会のご案内 下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 報告者：渡辺 圭 氏 題 目：ロシア正教会の修道思想から見た『カラマーゾフの兄弟』の世界 ＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
報告者紹介：渡辺 圭 氏
1996年桜美林大学経済学部経済学科卒業。社会人を経て、1999年にモスクワ大学哲学部宗教学科修士課程に進学、2001年に同学部修士課程修了。ロシアではロシア正教会の歴史と宗教哲学を研究した。現在、国立国会図書館支部図書館・協力課非常勤職員、また、千葉大学大学院社会文化科学研究科博士後期課程にも所属し、博士論文提出の準備を進めている。代表的な論文には、「ロシア正教会における20世紀初頭の異端論争『讃名派』問題：その思想的特徴と『アトス山の動乱』の背景」、『ロシア史研究』第76号掲載、「カフカス山脈の隠修士スキマ僧イラリオンの『荒れ野』の修道思想」『スラヴ研究』第53号掲載等がある。
ニュースレター№92 2009 ――――――――2――――――――――――――
第191回例会報告要旨
ロシア正教会の修道思想から見た『カラマーゾフの兄弟』の世界
渡辺 圭
Ф.М. ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、ロシア正教会の修道制における｢長老制（старчество）｣が隆盛を極めた時代の息吹を吸いこんで執筆された。高徳のスキマ僧ゾシマ長老が住まう修道院の場面からその様子が窺うことができる。
東方正教会の修道制における｢長老（старец）｣とは､熟練した､修道士の教師としての苦行者の尊称であり、未熟な修道士たちは、この長老を「霊の父」とし、「霊の子」となってその教えに従い、自身の罪の告白を行う。『カラマーゾフの兄弟』において長老と弟子の関係は、ゾシマ長老とアリョーシャの関係によって鮮明に描かれている。長老という存在は､ロシアにおいては､修道生活を教導するだけではなく､一般信徒に対しても信仰にかんするものに留まらず､日常生活の具体的な諸問題の指導を行ってきた｡
しかし、｢長老｣という称号は､聖職者の位階の中に位置付けられたものではなく､高位聖職者でなくとも（女性も）長老になりうる｡この教会内の位階の範疇外にある｢長老制｣はロシアでは19世紀にオープチナ修道院において頂点を迎え、また、当地の長老たちは民衆との「積極的対話」を行い、信者たちの魂の、教導者の役割を果たしていた｡オープチナ修道院は、ピョートル大帝の聖宗務院設置（1721年）以降、世俗権力の監視下に置かれ、国家の一機関と化したロシア正教会の、19世紀における霊的復興の一大拠点となったのである。ドストエフスキーもまた、宗教思想家В.С. ソロヴィヨフとともに当地を訪れ、ゾシマの長老のモデルとも言われる長老聖アムヴローシイ・グレンコフと面会している。
『カラマーゾフの兄弟』において、宗教的な問いかけが重要な位置を占めているということは、今さら言うまでもないであろう。本報告では、ロシア正教会の修道思想から見た『カラマーゾフの兄弟』の世界の描出を試みる。ドストエフスキーの小説をキリスト教の見地から考察したものは枚挙に暇が無いが、論者は、『カラマーゾフの兄弟』とロシア正教会の修道制との関係のみを検討の対象とする。また、論者は、ロシア宗教思想、東方正教神学を専門としているため、当該のテーマはこの見地から分析されることとなる。ここで重要な先行研究となってくるのが、文献学博士В. カテリニコフ氏の著作『正教会の苦行者たちとロシア文学：オープチナへの道』（Котельников В. Православные подвижники и русская литература. На пути к Оптиной.）である。同書でカテリニコフは、キリスト教初期の伝統の継承が、現代のロシアでは断絶してしまったと嘆いている（Там же. С.5.）。彼によると、かつてロシアにも教会の聖なる伝承の継承者たる信仰の見本が存在した。その中心には、東方正教会の数多の苦行者たち（подвижники）の理念をそのまま受け継ぎ、作家Н.В. ゴーゴリ、ドストエフスキー、Л.Н. トルストイらと交流のあったオープチナ修道院の長老たちが屹立しているのである。
今回の報告では、オープチナ修道院の長老聖アムヴローシイの遺骸が、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老と同様に死臭を放っていた、という問題に取り組んだアイス
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ランド古典文学の研究者Ф.Б. ウスペンスキイ氏に教えていただいた資料、掌院アガピートの『アムヴローシイ伝』（Архимандрит Агапит (Беловидов). Житие преподовного Амвросия старца
оптинского в двух частях. Оптина Пустынь. 2008.）を用い、議論の俎上に載せられることの多い「ゾシマ長老の腐臭」についても、独自の解釈を行う。これらの作業は、宗教思想研究と文学研究の橋渡しをするものとして、特定の成果をもたらすことと見込まれる。
１90回例会傍聴記
木下豊房氏「ソルジェニーツィンの語りのスタイルとドストエフスキーのポエチカ（詩学）」を聴いて
長瀬 隆
「ドストエフスキーの第一人者」と喧伝されることになった人物がいる。木下氏はすでに『『悪霊』―神になろうとした男』（2006）の時点でこの人、亀山郁夫の語学感覚の異常さを指摘批判していた。またいち早く新訳の膨大な誤訳悪訳に気付いた人にモスクワ勤務の会員ＮＮ氏がいて、二人の協同作業で新訳の長大な「検証」が07年12月に会のサイトに掲載された。しかしジャーナリズムではこの新訳者の一人勝ち的現象が生じていて私は憂鬱だった。それ故木下氏が昨年末招かれてモスクワで「ドストエフスキーとソルジェーニツィン」について話し、好評だったというニュースは一服の清涼剤だった。またＮＮ＝新山登氏がロシア人と世界のドストエフスキー学者に亀山ブームなるもの実体を知らせるべく優れた露文による批判（08年12月）を発表してくれて嬉しかった。
今回の報告は、モスクワでの報告を基にして両作家の語法の同質性、すなわち他者を念頭においた対話（共感）的特長を、文章の具体例を列挙して指摘説明したものだった。これはバフチンのドストエフスキーについての学説のソルジェーニツィン（の初期作品群）への適用であり傾聴に価した。しかし私に異論が無かったわけではなく、それは木下氏に対するよりは、氏が多大に依拠するバフチンに対するものであった。
「我と汝」――その相互間の対話は劇文学に古くから存在していた。しかしドストエフスキーが戯曲を書かなかったのは、彼が描こうとした中心人物たちが、自身の内に「我と汝」を含む二重体の人物――原語ではドヴォイニーク（わが訳語では二重人）――だったからである。この「我と汝」は互いに対立する関係にあり、それがもっとも激化した場合、自己が二極分裂をきたし、一方にとって他方が分身として幻視されることになる。そしてこの描出は戯曲によってでは不可能で、作中作家（語り手）を小説中に配置する新しい形式の小説によってのみ描きうることだった。新しい文学内容が新しく手法を要求したのだ。
バフチンはドストエフスキーの思想を「世界についての最後の言葉はまだ語られていないし、世界は開かれたままであり、これからも永遠にそうであろう」というものだと太字で記している。これは、研究を創作方法のみに限定し、内容への探求を避け（ざるをえなかった）たことの結果として生じた謬見である。彼の生涯の課題は自己分裂（発狂、自殺、殺人）の調和的止揚（救済、出口の探求）にあった。それはルネッサンス以降の西欧全体の精神上の課題だったが、ロシアに特に顕著に現われた。つまりは唯一絶対神の有無が問題だったのであり、彼は有の方向で『カラマーゾフの兄弟』を書き上げようと努め、極限の表現を提示した（ジラールによれば「ドストエフスキー黙示録」）。その成否および
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それへの賛否は別問題であるが……。
亀山は「アカデミックな従来の研究」に反対しているが、それがもしもバフチンの限界を言っているのであれば、一理あるということになる。もっともその「克服」は彼の場合、テキストの無視と改ざんという愚劣な所業となって現われた。 彼は基準を喪失しており、キリーロフやスタヴローギンの道をたどりつつあると言えよう。
「ソルジェーニツィンの芸術的側面（語法、文体）を問題にする状況にはまだ無い」という指摘は、ロシアの現状を伝えていて面白く、それ故に木下報告には虚を突かれる思いをしたのではなかろうか。なんと言っても『収容所群島』（1973）であり、また未訳の大作『赤い車輪』ということになる。ソルジェーニツィンは「日本では木村浩のような良い訳者をもった」とのことだった。氏の亀山新訳批判の基準はこのあたりに在る。
事務局便り
○1969年2月12日に、新宿の厚生年金会館で発足の会を開いてより、満40周年が過ぎました。例会の第1回は4月9日に開いております。
現在、会誌「広場」№18を編集中ですが、この号には過去40年間に開かれた190回にのぼる例会と、その間に開催された講演会やシンポジュームのリストを特集しています。これを眺めるだけで、いかに多くの思いがけない人々が例会の報告者として登場されたか、懐かしくも興味深いものがあります。会の歴史の歳月の重みがひしひしと感じられます。
○「広場」№18は4月初～中旬を目処に刊行予定ですが、昨年の例会報告者のうち、
松本賢一、清水正氏お二人の原稿を事情によりいただけないのが残念でした。論文は
芦川進一、萩原俊治、木下豊房の３本となります。書評、エッセイともに力作ぞろいで、会員の皆さんの期待に十分に応えることが出来ると確信しています。
○旅行社「大陸トラベル」主催の「ドストエフスキー・ツアー」の参加者募集が始
まります。10月1日～10月8日が催行期間で、目玉はモスクワ、サンクト・ペテルブルグのほかに、ドストエフスキーの少年時代の思い出の地ダラヴォーエと、『カラマーゾフの兄弟』の舞台スターラヤ・ルッサ訪問です。保養地としても昔から有名なスターラヤ・ルッサには1泊します。ロシアの黄金の秋も堪能できるでしょう。私が同行してお手伝いすることになっています。ツアー案内をお届けしますので、ご検討ください。
（木下）
ドストエーフスキイの会
ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.9１
News Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky Society 2008.12.25
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事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方
（Tel＆Fax：047-448-9213）
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第1９０回例会のご案内 下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 報告者：木下豊房 氏 題 目：ソルジェニーツィンの語りのスタイルと ドストエフスキーのポエチカ（詩学） ＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
報告者紹介：木下豊房 氏
１９７9年2月、故・新谷敬三郎氏、米川哲夫氏らとともに、「ドストエーフスキイの会」の発足にあたり、中心的な役割をはたす。会発足より1996年２月まで、事務局責任者。千葉大学教養部・文学部に２９年勤続、２００２年３月定年退職。千葉大学名誉教授、日本大学芸術学部非常勤講師。 国際ドストエフスキー協会（ＩＤＳ）副会長。2008年12月５～６日、モスクワ国立図書館での国際ソルジェニーツィン会議に参加、上記表題で報告。
著書に『近代日本文学とドストエフスキー』（成文社、1993）、『ドストエフスキー・その対話的世界』（成文社、２00２）。翻訳に『ドストエーフスキイ夫人アンナの日記』（河出書房新社、1979）、『ドストエフスキーとカント ―『カラマーゾフの兄弟を読む』―』（みすず書房、1988）、ロシア語論集 «Антропология и поэтика
творчества Ф.М. Достоевского» (Санкт-Петербург, 2005) その他。
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第190回例会報告要旨
ソルジェニーツィンの語りのスタイルとドストエフスキーのポエチカ（詩学）
木下豊房
ドストエフスキーの小説では、作者と主人公との関係に一つの特徴的な現象があります。それは作者（バフチンの用語では「一次的作者」、いわば「全知の作者」）は舞台裏にいて姿を見せず、舞台の前面に出て、作者の機能を果たすのは、通常、雑報記者であるとか、主人公自身であるとか、副次的な人物であるとかで、彼らは語りの機能を担うものの、通常、その視野は限られており、告白の形式や伝聞、世間の噂などに頼ることが多いのです。
またドストエフスキーの創作のもう一つの一般的な特徴は、叙述のスタイルにおいて、作者が人物の感触や感覚、意識に同化してみたり、また人物から離れて距離をとり、コメントしたり、変幻自在に姿や位置を変えることです。作者の人物に対するこのような「共感覚」(сопереживание)、「共有体験」(вживание)と「外在性」(вненаходимость)、「距離の確保」(дистанцирование)との組み合わせは、語りのスタイルにおいて、まず「擬似直接話法」(несобственная прямая речь)（「自由間接話法」、「体験話法」）として現象します。ドストエフスキーとソルジェニーツィンに共通する特徴は、まさしくこの話法にあります。1970～90年代のロシアの知性を代表する存在であったＤ・リハチョフはドストエフスキーの場合の語りのスタイルのこのような特徴について、次のようにのべています。「作者の言葉から語り手の言葉への目立たない移動はドストエフスキーの作品の全過程にわたって見られる現象である」
また別の研究者の評言によればこうです。「作者の言葉と主要主人公の言葉には相互に明確な区切りがなく、言葉の流れは読者を一般的な語りの水路から主人公の内面へと移行させ、そこから再び外面的出来事の軌道へと自由自在に移動させる」（ギゴロフ）、「語り手と主人公の声は対極に分かれるかと思うと、また最終的には交じり合わないままに接近し、同じ音調を響かせる」（ヤーゴドフスカヤ）
ソルジェニーツィンの小説を読むと、このスタイルがまたこの作家の基本的な特徴であることが、容易にわかります。報告ではトルストイと比較した例で説明します。その際、語り手の言葉と交じり合う主人公の内部の声が、実は主人公の過去の思い出や記憶と結びついていることが明らかになります。ソルジェニーツィンはドストエフスキーと同様に、記憶や思い出が人間の精神の基礎、人格を育んだ土壌であるとして重視するとともに、作品の主題構成の思想的な基盤ともしています。『イワン・デニーソヴィチの一日』、『マトリョーナの家』、『クレチェトフカ駅での出来事』などの作品の形式自体、回想のジャンル、いわば「語りのメモワール形式」に属しています。
『煉獄のなかで』や『ガン病棟』では、「記憶」、「思い出」が主題の理念的構成を決定しています。主人公達は記憶、思い出のパースペクチブ（空間）のなかで、自分の現在の行動を意志的に選択します。語り手はその内部、傍ら、あるいは背後にいて、主人公の記憶に発する内部の声を引き出し、支えます。と同時に、語り手は一転して他の人物の傍ら、あるいは背後に移動し、あるいはその人物の内部に入りこんでその声を引き出して人物同士の対話の状況を創りだし、活性化に勤めます。
ソルジェニーツィン文学において、もう一つの重要なモチーフが、「憐れみ」、「同情」です。『煉獄の中で』、『ガン病棟』では、主人公の生き方、他者に対する態度を
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規定するものとして、「憐れみ」のモチーフが繰り返し登場します。それは『ガン病棟』の主人公が目指した「美しき思い出」の地に住む夫妻の信条、すなわち「人間の幸福というのは生活水準にではなくて、心と心の触れ合いに、そして私たちが生活をどう見るかに懸かっている」に由来し、また『煉獄の中で』の主人公ヴォロジンを自分の人生を危険にさらす行動に踏み切らせたものが、思い出の母親の遺訓「憐れみはよき心の最初の動きである」という言葉であったことと、深く結びついています。
作中の人物像が「全知の作者」の眼によってではなく、人物達の相対的な眼によって徐々に明らかにされて行き、最後に一気に全貌が明らかにされ、語り手によって新たな光と意味づけのもとに蘇らされるという光景を、私達は『ガン病棟』や『マトリョーナの家』で目にします。あるいは人物同士の相対的な眼によっても相手の正体が最後まで謎のまま残り、読者にも不明のまま、主人公の思い出の中で、その相手が忘れがたい存在として思い返えされるという結末（『クレチェトフカ駅での出来事』）にも出会います。
登場人物達が独立した声として、相互に響きあい、応答しあい、照らしあうポリフォニックな主題展開と構成は、バフチンがドストエフスキーのポエチカ（詩学）の特徴として指摘したことは有名ですが、ソルジェニーツィンの芸術作品もまたこうした特徴を十分に備えています。この形式上の共通性を支えるものとしての、両作家の世界に対する態度、人間学的思想の共通性に注目すべきでしょう。
１８９回例会傍聴記
清水正氏の「マンガ版『罪と罰』二種」を聴いて
堤 崇弘
今回の報告は、例会登板は意外にも30年ぶり（？）という清水正氏。内容は『罪と罰』を漫画化した新旧２作品に対する評だった。といっても、どのように原作を翻案しているか、という主題に分け入るに従い、自然、原作の読み方にも迫っていく。漫画の読者でなくても面白く聞ける内容であったと思う。
前半は、昭和20年代に発表された手塚治虫のバージョンについて。これに関しては、清水氏には既に1500枚もの批評があるとのことで（恐縮だが、筆者は未読）、語る材料は山とある中で、特に論点として、「手塚が描かなかった３つの重要な場面」すなわち「マルメラードフの告白」「ラザロの復活」「シベリアの曙光」を取り上げた。清水氏によれば、これらは原作の中心主題に直結するものばかりであり、それを割愛した手塚版は、原作が持っていたラスコーリニコフの宗教的な葛藤の大半を脱落させてしまう結果になったという。筆者も以前、この手塚版を読んだ際、困惑と失望を味わった記憶があるが、主として絵のイメージの違いに神経を奪われていたため、内容的な面で何が欠けていたのかをあまり深く突っ込んで考えていなかったことを反省させられた。また、この議論の中で、マルメラードフのカチェリーナに対する性衝動について言及があったが、それは、後述の落合版の設定について筆者が個人的に抱いていた疑問の一部に間接的に答えるものだった（その内容はここでは略す）。その他、『罪と罰』に限らず、手塚作品には、虚無感が漂っているという指摘と、清水氏が個人的に（キリスト教の形ではなく、筆者の勝手な表現によれば＜より日本的な＞形で
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の）「復活を信じています」との言明が、印象的だった。
次に現在、雑誌（双葉社の「漫画アクション」、毎月第1・第3火曜日発売）に掲載中の落合尚之版について論じられた。この作品は、手塚版と違い、舞台は現代日本に置き換えられており、ラスコーリニコフは裁弥勒（たち・みろく）という青年、また、被害者の金貸し老婆姉妹は馬場光、島津里沙という（実の姉妹ではない）女子高校生たちとして描かれている。光は里沙を含めた同級生の少女たちの弱みを握るなどして援助交際（売春）をさせ、その水揚げで荒稼ぎしている設定である。清水氏は、これらの登場人物の名前からして、江川卓の「謎とき『罪と罰』」などをしっかりと踏まえているが、それ以上に設定全体が、深いところで原作の意図を正確につかんだ上で、それをいったん解体し、インターネットや携帯電話などによって劇的に情報化が進行し、倫理的な価値基準も大幅に荒廃した現代日本という舞台装置の上で見事に再構築しているとして、同作品を高く評価すると共に、今後の展開への熱い期待を表明した。筆者も、今まで雑誌での連載を興味深く読んできたが、「弥勒」という名前が、「６６６」の暗号を踏まえたものだ、ということは、うかつにも清水氏のこの日の指摘まで気づかずにいたので、なるほどと思った。
氏は、いつもながら大胆な、だが確かな目線で裏付けられた独自のテキスト解釈に基づき、エネルギッシュかつ表現力豊かに語られた。時には本人も何の話だったか分からなくなってしまうほど脱線しながらも、それがまた何とも魅力的で、聴衆をぐいぐいと引きこんでしまう。あっという間に２時間が過ぎていた。日大芸術学部の大教室では、氏の授業ですら居眠りする学生もいるというが、筆者にはとても信じられなかった。
発表後の質疑応答も、落合氏自身や、掲載誌の編集者などが出席されたこともあり、熱気がそのまま持続した。とりわけ、落合版でマルメラードフ、ソーニャ父娘が血縁のない男女として描かれたことについて、これに違和感を唱えた筆者に対し、別の出席者から、「血縁がない設定によって、ソーニャの献身的行為がより際立たせられ得るのではないか」との指摘があったのが鮮烈な印象を残した。もちろん、血を分けた娘の犠牲であったからこそ、マルメラードフの苦悩も深かったとも言えるのだが、このあたりはどちらの設定にも一長一短がある中で、選択されたということであろう。ただし、落合版における二人の設定に対して原作の愛読者が抱く違和感は、血縁がないということだけに留まらない。この点は、いわゆる「ネタばれ」になるため、ここでは触れないが、興味のある読者は、ぜひ実際に落合版を読んで、考えてみてもらいたい。
今後、落合版についても独自の視点からの批評を予定されるとの清水氏の著作とともに、同作のこれからの展開、さらには、同氏に限らず現代の気鋭の作家による他のドストエフスキー作品の様々な切り口からの漫画化に、大いに期待したい。
（なお、落合版の第1話は、インターネットの「Webアクション」のサイト
http://webaction.jp/title/5.php にて、無料で読むことができます。）
事務局だより
「広場」1８号掲載のエッセイを、会員の皆さんから緊急に募集しています。400字×５～６枚程度。400字3枚までは無料、それを超過した分は、単価400字400円の負担で、その単価あたり「広場」１部が償還されます。締切り1月末日。
ドストエーフスキイの会
ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.90
News Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky Society 2008.10.27
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事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方
（Tel＆Fax：047-448-9213）
Home page:
http://www.ne.jp/asahi/dost/jds
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第1８９回例会のご案内 下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 報告者：清水 正 氏 題 目：マンガ版『罪と罰』二種 ＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
報告者紹介：清水 正（まさし） 氏
1949年我孫子市生まれ。日本大学藝術学部文芸学科卒。現在、日本大学藝術学部文芸学科教授。
日本大学大学院芸術学研究科教授。所沢校舎で「マンガ論」を担当。
つげ義春、浦沢直樹、望月峯太郎、業田良家、白土三平等のマンガ作品を講じている。江古田校舎で「文芸批評論」を担当、ドストエフスキー、宮沢賢治等の作品を講じている。文芸批評家。D文学研究会主宰。日本文芸家協会会員
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第189回例会報告要旨
マンガ版『罪と罰』二種
清水 正
落合尚之版『罪と罰』を三巻まで読んだ。この作品は原作に拮抗する出来ばえで感心した。手塚治虫版『罪と罰』に関しては千枚以上書いたが、手塚が子供向けに書いたと公言していることもあって、その内容は原作とはかけ離れている。原作における重要な場面、例えばマルメラードフの告白の場面、ソーニャによる「ラザロの復活」朗読の場面、ラスコーリニコフが復活の曙光に輝く場面などが省略され、また『罪と罰』において重要な役割を果たしているスヴィドリガイロフは、スウィドリガイロフ家の下男に変更されたばかりでなく、革命家として設定されてしまった。
ポルフィーリイ予審判事は丸い顔をした小太りの男であるが、手塚は彼を猛禽類の鷹のような鋭い顔に変更している。原作のポルフィーリイは紙巻き煙草を愛好しているが、手塚版ではパイプをくわえている。
原作の主人公ラスコーリニコフは二十三歳、元ペテルブルグ大学法学部の学生であるが、手塚版のラスコルニコフはどう見ても中学生以上には見えない。原作で主人公が被っているのはドイツのツィンメルマン製の山高帽子であるが、手塚版では学習院初等科の生徒が被っているような学帽である。原作では老婆アリョーナとその義理の妹リザヴェータが殺されているが、手塚版では老婆のみが殺害されている。原作ではソーニャはラスコーリニコフに糸杉の十字架を手渡しているが、手塚版では頭にさしていた大きなリボンを渡している。
原作の舞台となった一八六五年当時、学生たちは大学当局に様々な要求を出し、当局は大学を一時閉鎖するなどして運動の鎮静化を図ったが、未だ首都ペテルブルグを瓦礫の山に破壊するほどの革命運動の盛り上がりはなかった。手塚版終幕部のラスコルニコフは、激しい戦闘を展開する革命運動真っ最中のペテルブルグを背景にしている。原作においてラスコーリニコフの革命思想は巧妙に深く隠蔽され、「おれにあれができるだろうか」の〈あれ〉は社会のシラミであるがめつい高利貸しの老婆アリョーナ殺しに限定された。もし〈あれ〉が〈皇帝殺し〉をも意味することが当局にばれれば、おそらく『罪と罰』は公表を許されなかったであろう。元政治犯ドストエフスキーは、検閲を十分に考慮して〈あれ〉が〈老婆殺し〉として受け入れられるように工夫を凝らしたのである。
手塚治虫はラスコルニコフの前にソーニャの〈信仰〉とは別にはっきりと革命家スビドリガイロフを登場させることで〈革命〉を前面に出している。手塚治虫版『罪と罰』の最終場面は、誰一人いない瓦礫の山と化した首都ペテルブルグの街路を、ラスコルニコフが去っていく後ろ姿が描かれている。それは〈革命〉も〈神〉も、そして〈愛〉さえ信じられない者の後ろ姿のように見える。講談社版手塚治虫全集の『罪と罰』の最終頁は空白となっている。ラスコルニコフはこの空白のページの世界へと紛れて姿を消してしまった。手塚治虫は愛とヒューマニズムの漫画家と見られているが、わたしは彼の漫画版『罪と罰』を批評してつくづく思う、彼は何ものも信じられなかった虚無の漫画家であり、その底無しの虚無を絶え間なく埋め尽くそうとして
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膨大な作品を次々に生み続けていったのではないか、と。
落合尚之版『罪と罰』は未だ未完であり、今後どのような展開を見せるが興味津々である。わたしは批評の醍醐味はテキストの解体と再構築であると思っているが、落合尚之版『罪と罰』も基本的には同じ方法論によって作られている。この作品は二十一世紀日本の首都東京を生きる〈一人の青年〉を主人公にした『罪と罰』である。作者落合尚之はかなり『罪と罰』を読み込み、自分のものにしている。おそらく落合は江川卓の『謎とき「罪と罰」』も熟読しているはずである。人物の命名に関しても原作名の由来を十分に考慮した上で新たな落合なりの解釈を加えている。原作『罪と罰』の内容を深めている人物としてポルフィーリイ予審判事とスヴィドリガイロフがいる。この人物をどのように解体し再構築化するかによって作品の真価がとわれることになろう。今、わたしは落合版『罪と罰』に大いなる期待を寄せている。
１８８回例会傍聴記
萩原俊治氏「ドストエフスキーとヴェイユ（「真空」について）」を聴いて
木寺 律子
今回の例会は大阪府立大学の萩原先生のお話であった。萩原先生は、ご自身のドストエフスキー体験、すなわち先生が17歳で初めてドストエフスキーを読み始めた頃から現在まで、どのようにドストエフスキー文学を理解し、どの点に疑問を持ってきたかといった事柄、先生が離人症を患われたときの独特の感覚などを踏まえた上で、ドストエフスキー文学についてお話になられた。参考文献は主として、フランス出身でユダヤ系の思想家シモーヌ・ヴェイユ（1909-1943）の死後に出版された主著『重力と恩寵』とブレーズ・パスカル（1623-1662）の『パンセ』（1670）であり、キリスト教的な問題やマルクス主義的な思想との関連がお話のテーマであった。
私はヴェイユについて以前から知っていながらも、「ハンストを行い、若くして亡くなった過激な思想家」といった印象があり、なかなか自分ではヴェイユに取り組めないでいた。今回、萩原先生のご発表でヴェイユの思想との関連でドストエフスキー文学を解釈するというお話について聞き、今まで私が良く知らないでいた分野に接することができ、大変勉強になった。
ヴェイユの主要な思想には、「美」や「不幸」などのテーマもあるが、今回のご発表では、ヴェイユの「真空」の概念が中心であった。ヴェイユによると、人は自らの「真空」を持ちこたえなくてはならない。「真空」を作り出すためには、まず何かしら絶望的なことが生じなくてはならず、「真空」を満たしてしまう信仰や「復活」、「永遠の調和」は避けなくてはならない。こういったヴェイユの考えは、『カラマーゾフの兄弟』においてイヴァンが神の調和を拒否する考えと関連する。
また、パスカルについては、まず彼の原罪遺伝の考えが『カラマーゾフの兄弟』に大きく影響していることが指摘され、さらにパスカルの「無」の概念とヴェイユの思想の詳細な比較もなされた。
ニュースレター№90 2008 ――――――――4――――――――――――――
萩原先生ご自身の造語である「物語の暴力」という概念によって、これらのテーマはさらに考察された。先生はこの問題についてすでに多くの論文を書いておられ、「あなたには癒しでも私には暴力――物語の最初の暴力――」や「熊の親切、ウサギの迷惑――レヴィナスとマルクス――」などがインターネットにも公開されていてPDFファイルで本文を参照できる。先生は、他者の事柄に無理解な人が他者を定義付けるような言説を「物語の暴力」として批判される。会場からは、この「物語」という概念についてさまざまな意見が出され、一般的な物語論との定義の違いなどが問題に取り上げられた。「物語の暴力」という考えは私にとっても興味深かった。しかしこの考えを推し進めていくと、厳密にはすべての言説に暴力性があるということになる。その場合には、たとえ暴力性があろうともなかろうとも、自己の考えを言説として述べるよりほかはなく、それに賛成できない人は、反論のための言説を述べるよりほかはないのではないだろうかという疑問をもった。
萩原先生が温かみのある口調でヴェイユについて語られていたことが印象的であった。発表も質疑応答も終始和やかな雰囲気のうちになされ、懇親会の場でも話が弾んだ例会であった。
事務局だより
2009年版「広場」19号の編集作業に入る時期となりました。11月2日に編集方針を固め、来年1月末にかけて締め切ります。論文は例年通り、例会発表者による執筆が基本となりますが、エッセイはその都度、会員の広い参加を期待しています。内容は会誌にふさわしいものであれば、自由です。400字3枚までは、会の予算から負担しますが、それを超過した分は、単価400字400円で、その単価あたり「広場」１部が償還されます。
1月20日あたりが締め切りです（希望をあらかじめ知らせていただいて、編集会議で正式に決まってから、ご連絡します）。皆様の積極的な応募をお待ちしています。
なお論文の場合も400字10枚までが、会負担で、それを超えた分は執筆者に負担してもらい、同じような計算で、部数で還元することになっています。
なお、原稿はパソコン入力済みのもので、メールの添付でお願いします。事務局に入力を依頼される場合には、別途手数料をいただくことになります。
ドストエーフスキイの会
ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.8９
News
Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky
Society 2008.8.30
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第1８8回例会のご案内 下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 報告者：萩原俊治 氏 題 目：ドストエフスキーとヴェイユ ──物語の外へ── ＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
報告者紹介：萩原俊治 氏
1947年、兵庫県に生まれる。神戸市外国語大学（ロシア学科）卒業。神戸市外国語大学外国語研究科（ロシア語学）修了。現在、大阪府立大学教授（ドストエフスキー研究、物語論、暴力論）。報告を聞かれる前に次の５論文をあらかじめ読んで頂ければ有難いと思います。５以外は（ ）内のHPからPDFファイルをダウンロードできます。１）「あなたには癒しでも私には暴力──物語と最初の暴力」（http://ci.nii.ac.jp/naid/110000040679/）、２）「熊の親切、ウサギの迷惑──マルクスとレヴィナス」（http://ci.nii.ac.jp/naid/110000040694/）、３）「物語はなぜ暴力になるのか」、４）「非暴力を実現するために」（３、４はhttp://book.geocities.jp/ifujii3/）。５）「ドストエフスキーの壺の壺──シニフィエはどこにもない」（『江古田文学』第６６号）
ニュースレター№89 2008 ――――――――2――――――――――――――
第188回例会報告要旨
ドストエフスキーとヴェイユ
──物語の外へ──
萩原俊治
私たちは皆、何らかの物語に憑かれて生きている。ここで物語というのは、ストーリー（事実）とプロット（ストーリーを結びつける因果関係）から成る文のことだ。たとえば、「王様が亡くなった、王妃様も亡くなった」というのがストーリーで、「王様が亡くなり、悲しみの余り、王妃様も亡くなった」という文の「悲しみの余り」というのがプロットだ。物語は必ずこの二つの要素を含む。私たちはさまざまな物語、すなわち、誰かのおしゃべり、誰かのお説教、誰かの世界観、誰かの小説、誰かの詩や歌、誰かの理論などを聞いたり読んだりすることによって自分の物語を作る。そうして作った物語には何ひとつ私たちにオリジナルなものはない。それはいずれも私たちがルネ・ジラールのいう模倣の欲望によって誰かから剽窃した物語であり、その物語を自分なりに取捨選択し組み合わせたものだ。
私たちがこのような自分の物語を他人に押しつけるとき、私のいう「最初の暴力」あるいは「物語の暴力」が発生する。「最初の暴力」とは次のいずれかの条件を満たすものだ。（１）相手の物語を聞かないこと。（２）自分の物語を相手に押しつけること。自分の物語を相手に受け入れてもらえないとき、私たちは無力感を感じたり、悲しんだりする。そして「二次的暴力」を準備する。二次的暴力とは、自分の物語を受け入れてくれない相手に向かって、言語的あるいは身体的暴力を加えることだ。物語を共有する集団間で二次的暴力が行使されると戦争になることもある。
ところで、ポリフォニー小説であるとは、比喩的に言えば、シニフィアン（意味するもの）がシニフィエ（意味されるもの）を持たないということだった。言い換えると、ポリフォニー小説には、未完結の人物像やプロット、すなわち、浮遊するシニフィアンしかなく、その人物像やプロットはシニフィエを充当された完結したシーニュ（記号）になり得ない。その人物像やプロットは常に未完結であり現
――――――――――--―3――――――――――――ニュースレター№89 2008
在にある。しかし、よくよく考えてみれば、私たちの生きている世界もまた常に
未完結であり生成途上にある。ここで注意しなければならないのは、このようなポリフォニー小説は未完のプロットしか持たないということだ。言い換えると、ポリフォニー小説とは、読者に最初の暴力あるいは物語の暴力をふるえないほど不完全な物語の集まりなのだ。一方、モノローグ小説は完結したプロットを含む、最初の暴力に満ちた物語の集まりだ。
それにも拘わらず、江川卓のドストエフスキー論のように、ポリフォニー小説をモノローグ小説のように読む読者がいるとすれば、その人はポリフォニー小説から最初の暴力をたっぷり含んだ物語を作り出そうとしていることになるだろう。彼らはポリフォニー小説から未完結の人物像やプロットの切れ端を拾い集め、そこに自分の想像力を加え、自分好みのモノローグ的な完結した物語を作り上げてしまう。これではポリフォニー小説を読んでいることにはならない。ポリフォニー小説を読むとは、ポリフォニー小説をモノローグ的に読もうとする欲望に逆らいながら読むということだ。そうすればポリフォニー小説は私たちの前にありのままの姿を現す。では、ポリフォニー小説のありのままの姿とは何だろう。それは読者を物語の外、すなわち非暴力へと連れ出そうとしている姿だ。このことについて、ドストエフスキーと同様、物語の暴力について考え続けたシモーヌ・ヴェイユに教えを乞いながら述べてみよう。
ニュースレター№89 2008 ――――――――4――――――――――――――
事務局だより
○ 前回7月26日の第187回例会は、『広場』17号の合評会でした。サハリン領事館勤務中の小林銀河さんを除いて、執筆者も全員出席し、
論評者の丁寧な読みに支えられた、落ち着いた雰囲気の中での、充実した合評会でした。いつものの例会同様に、その傍聴記をＮＬ本号に掲載できればよかったのですが、技術的にむずかしく、例年通りに省略しました。
○ 会員に長瀬 隆さんがこのほど『ドストエフスキーとは何か』（成文社刊、4200円）を刊行されました。446頁の力作で、『広場』17
号掲載の「唯一絶対神有無の文学」はその要約にあたります。「二重人・分身」の概念と語り手の位置づけに、私は斬新な視点を見ました。
○ すでにお気づきのことと思いますが、会のホームページの表紙にあった亀山訳『カラマーゾフの兄弟』に関するメニューを『管理人T.
Kinoshitaのページ』へ移しました。これは、これは、私の亀山訳に対する批判的な立場が、「会代表」として会の立場を代表するかのように、世間に受けとられるのは困るという至極もっともな声が、運営委員のなかにあったためで、妥当な処置だったと思っています。
私の立場は、長年学生にロシア語を教え、それで給料を貰って生活してきた一介のロシア文学専門の研究者として見過ごせない現象に対しての発言であって、それ以上でも以下でもありません。その現象はまだ尾を引いて、新たな展開を見せており、当分、発言を続けざるをえない状況です。
私のサイトには自由討論の場は用意しておりませんが、光文社古典新訳文庫のトロッキーの翻訳をめぐって、誤訳問題を追及している中島利章氏が「光文社古典新訳文庫についてのフォーラム」を立ち上げました。ここは意見交換の場です。亀山訳その他について意見のある方もここを利用してみてはいかがでしょうか。私のページのメニューからアクセスできます。
（木下豊房）
ドストエーフスキイの会
ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.８８
News
Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky
Society 2008.6.30
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第1８7回例会のご案内 下記の要領で例会を開催いたします。今回は『広場』1７号の合評会となります。 皆様のご参加をお待ちしています。 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 掲載主要論文の論評者 長瀬論文：唯一絶対神有無の文学 ―――――― 近藤靖宏 小林論文：ドストエフスキーおける「自我」をめぐる 二つの概念 ―――――― 福井勝也 渡辺論文：ドイツキリスト教神秘思想における 言葉で言い表せないもの ―――――― 木下豊房 高橋論文：「文明の衝突」とドストエフスキー―――池田和彦 張 論文：中国におけるドストエフスキーの受容―――木寺律子 司会：高橋誠一郎 ＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
ニュースレターNo.88 2008 ――――――――2―――――――――――――
第186回例会傍聴記
松本賢一氏「ゾシマの腐臭―『カラマーゾフの兄弟』における復活モチーフ」
熊谷のぶよし
２０年ほど前の修士論文の内容を元にした発表であるということだが、福音書の参照、シンボリックな読解、作品のプロットとストーリーへの深い洞察によって、『カラマーゾフの兄弟』の主人公アリョーシャの復活の道筋がたどられた。
はじめに、当日配布されたレジュメの章立てにそって発表の概要を示しておきたい。
＜Ⅰゾシマ長老の腐臭は自然法則なのか＞腐臭発生の時間であると作品中で再三指摘される正午から三時を、福音書のイエスの処刑から昇天にいたる「地のすべてが闇を襲」う第六刻から第九刻と同じ時間であると指摘し、普通冷厳な自然現象と解釈されているゾシマの腐臭を＜奇蹟＞としてとらえなおす。この時間の指摘は重要であると思う。ただし、＜奇蹟＞としての解釈にはついては、あとで異論を述べる。
＜Ⅱアリョーシャの物語としての『カラマーゾフの兄弟』＞小説の主人公をアリョーシャとして位置づけ、腐臭からガリラヤのカナにいたる流れを、復活への道筋としてとらえる。
＜Ⅲ復活への興味＞ドストエフスキーの復活への信仰をルナンの態度との比較で論じたところが秀抜である。近代人でもあるドストエフスキーがこの復活というテーマを、どのように扱っていたのかの難しさ、フィヨドロフの復活についてのドストエフスキーの手紙の評価を保留したところも印象に残った。
＜Ⅳ復活伝承と儀礼＞正教の宗教儀礼は一年間で一サイクルが完結する。アリョーシャの信仰における奇蹟の受容は、一年間の修道院暮らしで準備されていた。この時間はアリョーシャが宗教的感性を作り上げていった時間であった。これにより、ゾシマの腐臭＝＜奇蹟＞とする受け取り方の前提が確保される。
ここで一度ゾシマの死の場面について触れられる。倒れ伏すゾシマの描写に「鎌で脚をなぎ払われるように」（熊谷の記憶によれば）というロシア語が使われているという。このことからゾシマ＝穀物霊という説が提示される。舞台が８月の末、麦の刈り入れの時期であること、ドミトリーの刈り入れ後の麦畑を前にしての死のイメージがその説と結びつけられる。
私個人の体験だが、むかし刈り入れ直前の稲穂の波を見たとき、自分の死が何者かに待たれているという奇妙な気分になったことがある。それと結びついて、ゾシマの倒れるイメージは、深いところに刻み込まれてしまった。
＜Ⅴ墓のイヴァン－大地と石＞回心の時のアリョーシャが身を投げ出す大地と、やはり大地に倒れ込みながら、しかし墓石に接吻するイワンが対比される。
＜Ⅵアリョーシャの死と復活＞ゾシマの腐臭騒動の最中、イワンと同じく墓石の上に坐っているアリョーシャを、イワンの影「死の勝利」として見立て、そこか
――――――――――――3――――――――――ニュースレターNo.88 2008
らグルーシェンカとの出会いを「地獄下りと聖婚」と位置づけ、罪深き女の救済をつうじての、ガリラヤのカナでのアリョーシャの復活編とつなげていく。
松本先生は、小説において短く記述されているアリョーシャの一年間の修道院生活を重視する。この点は重要だと思う。この時間の実質を想像することによって、奇蹟を中心としたシンボリックな読解と、ストーリーとプロットによって組み立てられた作品世界が交錯する。ただ、さらに進めて、この時間に形成されたアリョーシャの宗教的感性がガリラヤのカナまで変化せずに継続していたのか、それとも大きな変容を被ったのかは検討に値すると思う。
ゾシマの腐臭の時間とイエスの刑死の時間の一致については、別様の解釈を示したい。ルナンを強く意識するドストエフスキーという指摘に触発されたものである。
ドストエフスキーの小説は福音書の参照無しには十全な理解はありえないが、この参照には相反する二つの方向性が想定できる。一つは、原テキストである福音書によってドストエフスキーの作品モチーフが意味づけ価値づけられるという方向性。もう一つは、作品のリアリティーを媒介にして、福音書を解釈し直しその聖性を復活させるという方向性。ルナンの人間イエスとしての解釈で聖性を減じられた福音書は、他のテキストに価値を与える原テキストとしての力を弱められている。他方、もしルナンへの対抗としての作品創造という意図がドストエフスキーにあるならば、作品中での福音書参照は、自らが創造した聖なるもののリアリティーによるイエスキリストの神性の再付与という目的を持つはずだ。極言すれば、福音書参照はドストエフスキーが独力で創造した聖性を逆に福音書側に送り込む注入地点である、こうした観点を保持しておきたいと思う。
その上で、イエスの十字架上の奇蹟を検討すれば、自然現象であるゾシマの腐臭を起点にイエスの奇蹟を考えることになる。つまり、ゾシマの腐臭が冷酷な自然現象であったのなら、イエスの刑死の時の超常現象はなんだったのだろうか。後に復活するとしてもこの時イエスは一度死ななければならなかった。父に見捨てられたイエスには奇跡は起こらなかったのだ。望むべき奇跡が起こらないとき、超常現象は奇蹟としての無価値を通り越して、あのおぞましい自然の冷酷さと同じ様相を呈するのではないか。超常現象ですら自然なのではないか。この点において、ゾシマの腐臭と奇蹟は一致するように思う。期待されたゾシマの奇蹟は真の奇蹟ではなかっただろう。もし仮に、彼の死後に奇蹟が起こったとしても、それはイエスの刑死を伴奏する闇や雷鳴にすぎなかったのではないか。
『カラマーゾフの兄弟』の語り手の意識において確認され、読者にひそかに示されたこの福音書との類比は、同じ語り手によってすでに定義されている奇蹟と現実主義者の命題と結びついていて、ここでは真の奇蹟とは何かということが問われている、というのは、言い過ぎかもしれないがそういうことを考えた。
シンボル、ストーリー、プロットに広くまたがった解説は、作品を大きく開いてくれる。様々なコンテキストを導いてくれる。「こういうドストエフスキー論は一般的ですよ」とおっしゃっていたけれどそうだろうか。専門家によるこうしたドストエフスキー論は少なくて、むしろ読者に待たれているのではなかろうか。
ニュースレターNo.88 2008 ――――――――４――――――――――――
事務局だより
○
会発足、満39年目の第39回総会は、5月17日の186回例会に先立って、
同会場で午後6時から開かれました。中心的議題は活動報告、会計報告で、活動報告の要点は『広場』17号に掲載されており、会計報告は下記に掲載しましたので、ご覧ください。
○2008年度の運営・編集委員会のメンバーには若干、変動があります。会計担当が主要な部分は近藤靖宏さんに引き継がれ、渡辺好明さんは郵便振替の管理など、補助的な役を担当されます。小林銀河さんが樺太の日本総領事館に赴任されたために抜けられ、代わって、木寺律子さんに編集の戦力として入ってもらうことになりました。括弧内は実務分担。木下豊房（コージネート、ニュースレター〔ＮＬ〕作成・印刷、ホームページ管理）、熊谷のぶよし（「広場」編集）、木寺律子(「広場」編集)、近藤靖宏(会計、「広場」編集)、下原敏彦・康子（ＮＬ発送）、菅原純子（ＮＬ発送）、堤崇弘（メーリングリスト管理）、福井勝也（会場設営）、渡辺好明（会計補佐）。 （木下豊房）
平成19年度収支計算書
（平成19年5月6日～平成20年5月5日） 会計 渡辺好明
近藤靖宏
監査 木下豊房
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収 入 |
支 出 |
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前年度繰越 |
290,681円 |
郵送料・送料 |
85,600円 |
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会費収入 ＠4,000×70口=280000 円 ＠3,000×1口 ＝3000 円 |
283,000円 |
『広場』17号 印刷・制作費 |
189,388円 |
||
|
講演会収入 |
0円 |
ニュースレター印刷・製作費 |
21,000円 |
||
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例会々場費収入 ＠500×51名 |
25,500円 |
講演会費 |
0円 |
||
|
『広場』売上 2冊 1,200円 |
2,400円 |
会場借料 |
14,700円 |
||
|
『広場』原稿掲載料 |
83,240円 |
消耗品費 |
24,222円 |
||
|
雑収入 |
178,88 円 |
事務局費 |
32,619円 |
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|
収入計 |
412,028円 |
雑 費 |
1,860円 |
||
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支 出 計 |
369,389円 |
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|
翌年度繰越 |
333,320円 |
|||
|
支出計＋翌年度繰越 |
702,709円 |
|||
ドストエーフスキイの会
ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.87
News
Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky
Society 2008.4.20
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第39回総会と1８６回例会のご案内 下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 総 会 午後6時から45分程度、終わり次第に例会 議題：活動、会計報告、運営体制、活動計画、予算について 報告者：松本賢一 氏 題 目：ゾシマの腐臭―『カラマーゾフの兄弟』における復活モチーフ ＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
報告者紹介：松本賢一 氏
奈良県生まれ。大阪外国語大学、同大学院修士課程修了。近畿圏の様々な大学でロシア語の非常勤講師を務めた後、１９９８年より同志社大学専任教員となる。現在同志社大学言語文化教育研究センター教授として、ロシア語、ロシア文学その他の教育に携わっている。研究テーマは学生時代から一貫してドストエフスキイの作品で、修士論文を書き直した「アリョーシャ・カラマーゾフの死と復活」をロシア・ソヴェート文学研究会会誌「むうざ」に掲載したのを皮切りに、同誌および同志社大学言語文化学会紀要「言語文化」などに研究論文等を書き続けている。
ニュースレター№87 2008 ――――――――2――――――――――――――
第186回例会報告要旨
ゾシマの腐臭―――『カラマーゾフの兄弟』における復活モチーフ
松本賢一
私はながらく『カラマーゾフの兄弟』から離れています。「報告者紹介」にも記してありますように、修士論文でこの大作に真っ向からぶつかり、疲弊して、「暫らくは離れていよう」と思ったその「暫らく」が、すでに２０年を超えてしまいました。
今回「ドストエーフスキイの会」例会での報告をお引き受けするにあたり、私が最近携わってきた、また今日の世界でアクチュアルな問題をも含むと思われるドストエフスキイの民族主義についてお話させていただこう、と計画していたのですが、私にとっては古い研究の蒸し返しになる『カラマーゾフの兄弟』に急遽演題を変更することに決めました。自身の報告に先立って、去る３月１５日の例会に出席し、芦川進一先生の報告「ドストエフスキイとキリスト教」、および報告後のフロアーとの質疑応答を聞いていて、『カラマーゾフの兄弟』における復活モチーフの話のほうが、会員の皆さんにとって新鮮な話題を提供できるかもしれないと思ったのが、演題変更の理由です。
私は元来大きなテーマで作品を裁断することを好みません。確かにドストエフスキイの作品には、骨太なテーマで解釈し易い所があり、それはそれで魅力があるのですが、どんな大きなテーマの作品であっても、それが小説である限りは入念な細部の積み重ねによって支えられなければなりません。いわゆる「謎解き」的な興味とは別に、作者ドストエフスキイが作品という大伽藍を建設するためにひとつひとつ積み重ねていった言葉を、見逃すことなく正確に受け留めなければならない、と私は常日頃考えています。
前回の例会で、ゾシマ長老の遺骸が腐臭を放つことが話題となりました。『白痴』で言及されているホルバインの「死せる基督」と同様に、このエピソードは「自然の法則」が信仰や義よりも強いことを示しているというのが大方の理解であるように私は受け取りました。しかし、この点について私には異論があります。ゾシマ長老の遺骸から腐臭を漂わせることによって、ドストエフスキイは小説の枠内で「奇蹟」を現出したのであり、このことは『カラマーゾフの兄弟』という長大な小説全体のテーマおよび結構と密接な関わりをもっている、と私は考えています。小説『カラマーゾフの兄弟』が、アレクセイ・カラマーゾフの「人物伝」の前半部分であるということはよく知られています。「主人公の青年時代における一契機」を描いたという語り手の言葉を信じるならば、父親殺しにまつわる長兄ドミートリイと次兄イヴァンの物語の他に、アレクセイの物語もまたこの作品には描き込まれていると考えなければなりません。そのアリョーシャの物語を支えているのが復活のモチーフであり、ゾシマの腐臭もまたこのモチーフにおいて理解可能なものとなるのです。
既に２０年以上前に「むうざ」という雑誌に発表した所論ではありますが、人目につくことの少ない論考ですから、この機会に「ドストエーフスキイの会」会員の皆さんに披露の上、ご意見を頂戴したいと考えています。
――――――――――――――３――――――――――ニュースレター№87 2008
第185回例会傍聴記
芦川進一「ドストエフスキーとキリスト教」傍聴記
前島省吾
芦川氏については、「日本女子大学ＶＯＤ講座―ドストエフスキーの時間」を聞き、「ドストエフスキーにおけるイエス像」を読んで以来強い関心を抱き続けてきた。「『罪と罰』における復活」を読んでまた感動を新たにした。芦川氏の今回の講演「マルコ伝十六章」も期待に違わず深い内容であった。聖書の世界にひたりながら、「イエスの復活」と「ラスコーリニコフの復活」はどう結びつくのであろうかと考えていた。講演の趣旨とは違うとお叱りを受けることを覚悟しつつ、氏の話に触発された私の勝手な推論を書いて、批判と指導を仰ぎたい。
芦川氏は、「『罪と罰』における復活」の中で、ソーニャはマルメラードフの幻を通してイエスの「永遠の命」を発見したのだと語っている。鋭い指摘である。
「私はよみがえりであり、命である。私を信じるものは、たとえ死んでも生きる。また、生きて私を信じるものは、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか？」（そして、苦しそうに息をつぎながら、ソーニャはまるで自分がみんなの前で懺悔しているように、一語一語はっきりと力をこめて読んだ。）「主よ、信じます。あなたがこの世に来るべきキリスト、神の御子であることを信じます。」
この時ベタニアのマルタ、マリア姉妹が見出だしたものはラザロではなく、イエスの真の姿であった。ラスコーリニコフの前でソーニャが聖書の中に見ていたものも、「永遠の命」でり、「復活したイエス」の姿であった。読みながらソーニャは「復活したイエス」に懺悔をしていた。しかしラスコーリニコフにはイエスの姿は見えない。
ラスコーリニコフも復活体験をした。囚人病棟で旋毛虫の悪夢を見た後の夕刻、窓越しにソーニャの姿を見た瞬間、Что-то как бы пронзило в
ту минуту его сердце;「何かが、彼の心臓をぐさっと刺した気がした」（米川正夫訳）この瞬間彼は死んだのである。やがて、彼は聖書を手にとってソーニャと共に生きて行く決心をする。しかしそれは「復活の曙光（きざし）」でしかない。彼はソーニャの愛を発見したが、その傍らにいる「復活したイエス」の姿は見えていない。彼がアリョーナとリザヴェータに正面から向き合い、彼に真の悔恨と復活の赦しが訪れるか、私には芦川氏ほどの確信はないが、この瞬間彼が更生への新しい言葉を求め、新しい一歩を歩みだしたことは間違いない。
キリスト教理解への最も大きな躓きとなる問題が「処女懐胎」と「イエスの復活」である。私もハンス・ホルバインの「死せるキリスト」の絵を心に描き、「どうしてこんな死体を目にして、この受難者が復活すると信じられようか？」と考えてしまう。これに対して、キリスト教徒の人たちは、それは「受肉」と「贖罪」に対する無知であり、ドストエフスキーのキリスト教理解の限界を示していると語る。（藤原藤男「ドストエフスキー 生涯・文学・思想・神学」キリスト新聞社、1982）
「受肉」とは、神が人間の罪を一身に引き受けて贖罪の生贄とするために、自分の子を人間の世に遣わされ、女の子宮から生まれさせたのだということである。キリストの磔刑は、人間にとっての地獄である、と同時に神にとっても地獄であり悲劇である。しかしこのことこそ神の人間への深い愛であるという考え方である。たしかに古代から神々は動物や人間の子の生贄をその信仰の証として求めたが、神自らがわが子を生贄に捧げたのはキ
リスト教だけである。したがって受肉した存在としてのキリストが腐臭にまみれようと、それをもって神への不信の念がおこることなどありえないというのである。
マグダラのマリアの見たものが、キリストの実像であったか、幻像であったかはそれほど重要ではないと思う。どちらにしても、彼女が「復活したキリスト」を見たことは間違
ニュースレター№86 2008――――――――4――――――――――――――
いないであろう。やがて弟子たちもガリラヤでキリストに出会った。「キリストの復活」がなければ教団は生まれなかったし、布教活動もなかったであろう。
北森嘉蔵氏は、「聖書の読み方」の中で、「処女懐胎から始まるイエスの生涯は、人間の罪との連帯化であり、その罪の赦しのために捧げられた。この連帯化によって、イエスは人間の罪を負って十字架に死にたもうた。しかしこの十字架の死に結晶したイエスの愛は、罪びとを征服し、勝利した。十字架には神の力が潜められていた。この潜められていた力があらわになったとき、イエスは死を征服して、復活したもうた」、そして「イエスの復活が現象の領域で起こったということは、明言されねばならない」と書いている。つまり、「処女懐胎」は、その本質を神の人間への連帯の証として認識できる問題であるが、「キリストの復活」は神の力によって引き起こされた現象の奇蹟としてみなければいけないと言っている。どうしてこのような現象が生じたか、人間にはわからない。神に任せるしかない。これはもはや認識の問題ではなく、信仰の問題である。マグダラのマリアを始め弟子たちは、この奇蹟によって信仰を得て、布教活動を開始したのである。
ドストエフスキーは神の問題に悩み続けた作家である。神がいなければ全ては許されると語ったかと思うと同時に、神が存在していたとしても神の世界への入場を拒否すると語る。このような極限的精神状況を生きた実存的作家である。それにも関わらず何故「真理よりもキリストとともにあることを望む」と語ったのであろうか？
それは、藤原藤男氏の見解とは異なり、ドストエフスキーがまさにこの「受肉」と「贖罪」の神技を深く理解していたからに相違ない。「受肉」によって生まれ、「贖罪」のために死んで、復活したキリストが、人々の心に降りてくる。神自らが人間の苦悩の仲間となり、神の苦悩が愛となって人間の深淵を埋める。人は不幸を通して神の愛を愛する。受難のキリストは人々の心に入り込む。躊躇するソーニャに聖書を読ませ、不信のラスコーリニコフを「生ける生」に導くのである。
ドストエフスキーは、「私は世紀の子です。不信と懐疑の子です。」と語ったが、それは１９世紀が神の死滅しつつあった時代であり、キリスト教への不信と懐疑が知識人階級を覆っていたことの表現でもある。その中で「キリストとともにありたい」と語ったドストエフスキーの真意を私はその作品の中に発見していきたい。
２１世紀は神の不在の時代である。人間にはすべてが許されている。殺人が多発し、人々は殺人者に死を求める。死が死を呼ぶこのような時代だからこそ、ラスコーリニコフの復活、更新、更生の物語の真実性の根拠を明らかにする必要性がある。真に読み解く鍵はドストエフスキーのキリストにあると私は考える。そのことを今回の講演はあらためて確認してくれた。ドストエフスキー読解にあたってキリストに、そして聖書に立ち戻ることの重要性を喚起してくれた芦川氏に感謝したい。
ドストエーフスキイの会
ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.8６
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第1８５回例会のご案内 下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 報告者：芦川進一 氏 題 目：ドストエフスキイとキリスト教 ―「復活」というテーマに如何にアプローチするか― （出来れば新約聖書をご持参のこと） ＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
報告者紹介：芦川進一 氏
静岡県生まれ。東京外大(仏語)。東大大学院(比較文学・比較文化)。津田塾大講師
を経て現在は河合塾講師(英語)・河合文化教育研究所研究員。専攻はドストエフス
キイにおけるキリスト教思想。 翻訳・著作・論文に『イエス』(共訳、小学館、1979)、
「『夏象冬記』における聖書モチーフ」(文集『ドストエフスキイ』-3-、東大露文研
究室、1983)、『隕(お)ちた苦艾(にがよもぎ)の星』(河合文化教育研究所、1997)、「ド
ストエフスキイにおけるイエス像」(『イエス研究史』、日本基督教団出版局、1998)
など、近著に『「罪と罰」における復活--ドストエフスキイと聖書--』(河合文化教育
研究所、2007)がある。
ニュースレター№86 2008 ――――――――2――――――――――――――
第185回例会報告要旨
ドストエフスキイとキリスト教
―「復活」というテーマに如何にアプローチするか―
芦川 進一
昨年(2007)暮れ、十年以上取り組んできた『罪と罰』論が漸く完成しました。(『「罪と罰」における復活―ドストエフスキイと聖書―』、河合文化教育研究所)。以前から私は自分のライフ・ワークは『カラマーゾフの兄弟』と思い定め、この途方もなく素晴らしい作品をどの深みから捉えるべきか基礎作業を続けていたのですが、その過程で、『夏象冬記』から激しく顕在化するドストエフスキイのキリスト教を『罪と罰』の中で一度キチッと確認しておく必要性、中でも特にソーニャの信仰とは何かを誤魔化さず検討しておくという課題が大きく浮び上がって来ました。そこに久しぶりに『罪と罰』を丁寧に読む機会が生じました。新たに私はこの作品の素晴らしさに胸を揺すぶられると共に、自分には説明のし切れない「謎」が余りにも多いことに驚かされました。この辺の具体的な事情は拙著の「はしがき」に記した通りです。『カラマーゾフの兄弟』から回り道(?)しての、十年以上に亘る『罪と罰』との取り組みが始まりました。この過程で「謎」の多さに驚かされた以上に愕然とさせられたこと、それは改めてドストエフスキイが如何に深く聖書に通じ、聖書をその思索と創作の源としている作家であるかという事実でした。人間と世界と歴史の抱える問題と正面から向き合い、振り返って聖書の世界で厳しいイエス像との対決を試み、そこから真剣勝負の思索を展開するドストエフスキイ、このキリスト教思想家・黙示録的預言者としての彼と真正面からぶつからない限り、少なくとも自分にとってのドストエフスキイ研究の意味はない、これが『罪と罰』との取り組みの結論であり、また改めて今後の自分に課した課題ともなりました。しかしこれは、初めての自覚だったわけでもなかったのです。
私自身、大学でパスカルからベルクソンを中心とするフランス哲学を学び、その後ドストエフスキイの研究を志して大学院へ進むという道を歩んでいました。パスカルの場合もそうでしたが、周知の如くドストエフスキイと取り組む過程には、必ず聖書とキリスト教とどう取り組むかという大きな壁が我々の眼前に立ち塞がってきます。この壁を前にして、当時も今も、それを無視するか、適当な教養でお茶を濁すか、クリスチャンの立場から演繹的で独断的な解説をしてしまうか、或いはそもそもこの壁の存在することなど自覚しない等々、立場は実に様々にあります。私も戸惑いました。様々な要因に背を押され(いつの日かこの事情も記したいと思っていますが)、結局、私は自分のドストエフスキイ研究は聖書を介してキリスト教を納得ゆくまで明らかにする方向にあると心を定めたのでした。それから四十年近く、今回の『罪と罰』論とは、このような過去の経緯からの延長線上に生まれた一つの経過報告ということになると思います。
例会では、以上のような背景から、まず自分自身が今までどのようにドストエフスキイと聖書と取り組んで来たか、そこにはどのような問題や困難あるいは可能性が存在するか等についてお話してみたいと思っています。それはそのまま今も多くの日本
――――――――――――3――――――――――ニュースレター№86 2008
人が聖書という「壁」を前にして覚える戸惑いとか、困難について語ることであると思います。しかし話を抽象論に拡散させてしまうことを避けるため、当日は話を縦に貫くテーマとして具体的に「復活」ということを取り上げ、この最もキリスト教的でドストエフスキイ的でもある難解なテーマを我々はどう扱ったらよいのか、問題提起をしてみたいと思います。そのために、まず新約聖書から「復活」について様々な角度からのデッサンを試み、次にそれを『罪と罰』に重ねてみます。私の方からこの「叩き台」を提示した後、最後に皆さんとの討論に移りたいと思います。この作業から「復活」というテーマ考察への具体的な手掛かりが得られ、再び戻った各自の「地下室」において皆さん自身のドストエフスキイとの新たな対話が開始されるとするならば、これ以上の喜びはありません。当日は、どの版でも結構ですから、新約聖書を持参していただくと便利だと思います。
第184回例会傍聴記
高橋誠一郎氏「文明の衝突」とドストエフスキー―ポベドノースツェフとの関わりを中心に
福 井 勝 也
高橋氏の今回の講演は、ここ数年来の旺盛な執筆活動の成果である著書『ロシアの近代化と若きドストエフスキー―「祖国戦争」からｸﾘﾐｱ戦争へ』（成分社、2007）の発刊を機会におこなわれた。氏のドストエフスキー研究への視点は、96年の『「罪と罰」を読む』（新版・2000年）以来、『欧化と国粋』（02）を経て近著に至るまで一貫したテーマと方法意識に貫かれている。それは、西欧に遅れて出発したロシアが辿った「近代化」の問題であって、そのことが集約的に現れたドストエフスキーを通じてその主題を明らかにしようしている。それ自体、むしろ普遍的かつオーソドックスなものである。しかし氏に特徴的なのは、そのテーマに迫る着眼点とその視野の広がりにあると改めて発表から感じさせられた。
高橋氏の視点で特徴的なのは、ドストエフスキーが生きた背景としての19世紀ロシアの歴史事実の細部への独自の洞察だろう。今回は、そのことがポベドノースツェフという晩年のドストエフスキーに少なからぬ影響を与えた人物にスポットがあてられた。皇帝の側近であって、当時のロシアの政治・文化状況に強い影響力を行使し得た存在。その男がドストエフスキーの「熱心な読者」であったという事実への着眼は、例えば彼の遺作『カラマ－ゾフの兄弟』を読み解くうえでも微妙な問題を投げかけてゆくことになる。高橋氏はこの権力者を注視することで、ドストエフスキーの表現に当時の検閲の問題と絡む「イソップの言葉」を読み取ってゆく。さらには生前の作家のユダヤ人観の問題への言及から、その死後に生起した「ポグロム」という歴史事実、そして結局はロシア革命を招来した「ロシアの専制化」へドストエフスキーが利用された可能性も指摘されてゆく。この辺りの考察は、細部になればなるほど検証の難しい歴史事実の範疇に入り込むことになり、どこまでが「文学論」の問題と言えるかが微妙になってくる。いやむしろ、高橋氏のドストエフスキー論の特徴は、現代の問題とも深く切り結ぶ「歴史的・文明論的」なものであると理解すべきで、そこから氏の司馬遼太郎をドストエフスキーの視点から論ずる姿勢も生じてくるのだろう。
やや気になったのは、氏が、ドストエフスキーの表現者としての「イソップの言葉」（≠「二枚舌」）を問題としながら、その晩年の立場を結局はスラヴ主義者と同定していることの理由を聞き漏らしたことであった。
ニュースレター№86 2008――――――――4――――――――――――――
発表を聴きながら気になったのは、「ドストエフスキーの問題」を考えるという場合、その作家が残した「テキスト」を読み解くことと歴史的存在としての「作家」について検証することの究極的な矛盾についてであった。その矛盾を回避するためには、思考方法上の分割的な視点がどうしても必要になるのだろう。例えば、今回の発表で高橋氏が批判的に論じられた亀山郁夫氏の例で言えば、その作品理解をより深めるために、氏は「象徴層」「物語層」「自伝層」の他に「歴史層」（これは、近著の『ドストエフスー
謎と力』で新たなファクタ－として追加したもので、これ自体、高橋氏の＜神話と歴史事実の混交＞という批判をクリアーする試みであろう）という要素からの新たな読みを展開している。しかしその場合でも、我々が目指すべきは何よりも作家ドストエフスキーが残した作品（＝「テキスト」）をアルファとし、かつオメガにすべきなのだ。そのことのために、作家存在を自伝的に、さらに歴史的に明らかにすることが必要になることもあるだろう。しかし、その逆転したやり方は「文学論」としては如何なものか。自分は、狭隘な「文学主義」と些末で大雑把な「歴史主義」の両者を排しながら、21世紀的な新たなドストエフスキーを論ずる厳密な方法の必要性を感じている。そのような文脈と離れて、今回批判の俎上に上げられた限りの亀山氏のものと高橋氏のそれは意外に近しいものであるのであるかもしれないと思えた。
当日は、場所を変えて氏の出版記念会が夕方からにぎやかに催された。その場の某氏のスピーチで、我々の会の創始者である新谷敬三郎氏の言として「ドストエフスキーを論ずる場合に、＜人生論＞と＜歴史語り＞が禁じられた」という思い出話が妙に印象に残った。これは、勿論「会」の中での話ではなく、大学で研究者としての新谷氏の姿勢が語られたものであろう。我々も今一度、噛みしめるべき言葉ではないだろうか。
事務局だより
○
目下、「広場」
告者による論文のほかに、「中国におけるドストエフスキー受容」と題する中国人研究者の論文の翻訳が予定されています。
○
3月例会の報告者、芦川進一氏が昨年12月に『『罪と罰』における復活―ドストエフスキイと聖書』を出版されました。河合文化研究所の発行で、364頁、4500円。大変内容の深い論考で、キリスト教、聖書に特別の興味をもたない人でも、文学的に強い感動をあたえられる、お薦めの一冊です。
○ 運営委員で会の中心的な活動家の一人である福井勝也氏がこのほど『日本文学の〈終焉〉とドストエフスキー－「ドストエフスキー体験」という問題に触れて－』を出版されました。のべる出版発行、180頁、1400円。全共闘世代のドストエフスキー体験を戦前の左翼知識人の転向と類推しながら、小林秀雄や横光利一の文学に迫るという方法は大変示唆的で興味深いものです。会員としての共有体験が親しみを感じさせる一冊です。
○ ホームページ掲載の「亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を検証する」は各方面で反響を呼んでいます。なかでも九州の一読者から注目すべき反響がありました。ロシア語を知らない読者が疑問に感じて作成したリストにそって、「検証」のＮＮ氏が専門的なコメントを付けた「一読者の点検」を完成、このほどアップロードしました。私も別に論評の一文を書きました。これも「検証」同様に、運営委員会の了解は得ずに、私個人の責任においてアップしたものですが、1969年に会の「発足のことば」を起草し、当初より一貫して会の運営に携わってきた者として、会の開かれた精神に反するものとは思っておりません。運営委員のなかに、危惧する声があることは理解しております。 （木下豊房）
ドストエーフスキイの会
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第1８４回例会のご案内 下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。 （注意！今回は昼間の時間帯となります） 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 報告者：高橋誠一郎 氏 題 目：ドストエフスキーとスラヴ主義 ―ポベドノースツェフとの関わりを中心に― ＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
報告者紹介：高橋誠一郎 氏
東海大学文学部文学研究科（文明専攻）修士課程修了。東海大学教授、比較文明学会理事。主な著書に『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ―「祖国戦争」からクリミア戦争へ』（成文社、2007）、『司馬遼太郎の平和観―「坂の上の雲」を読み直す』（東海教育研究所、2005）。『欧化と国粋―日露の「文明開化」とドストエフスキー』（刀水書房、2002）、『この国のあした―司馬遼太郎の戦争観』（のべる出版企画、2002）、『「罪と罰」を読む（新版）―<知>の危機とドストエフスキー』（刀水書房、2000）など。現在の課題は、日露両国における近代化の比較と「大地主義」から「スラヴ主義」に至るドストエフスキーの歴史認識の考察で、次作『ロシアのナショナリズムと後期ドストエフスキー ―クリミア戦争から日露戦争へ』を構想中。
ニュースレター№85 2007 ――――――――2――――――――――――――
第184回例会報告要旨
ドストエフスキーとスラヴ主義
―ポベドノースツェフとの関わりを中心に―
高橋誠一郎
『ドストエフスキー 父殺しの文学』（ＮＨＫブックス、２００４年）と名付けられた亀山郁夫氏の著作を読んだときには、９．１１の同時多発テロという衝撃的な事件とアレクサンドル二世の暗殺を、「テロ」という問題で結びつけて論じるという現代的な視点に感心した。しかし、ドストエフスキーが辿り着いた最後の作品である『カラマーゾフの兄弟』の地点から、「父殺し」を主題として過去の作品をも分析するという方法は、ドストエフスキーの初期作品の解釈にゆがみを生じさせる危険性があると思えた。
また、皇帝暗殺という大事件にいたるまでのさまざまな事件は詳しく紹介されていながら、暗殺後に起きた事態については全く触れられていないことにも疑問が残った。すなわちよく知られているように、同時多発テロのあとのアメリカでは「テロ」対策という形で大統領への権力の集中が行われ、「正義の戦争」として始められたアフガン戦争とイラク戦争は、解決の糸口が見えぬまま現在にいたっている。一方ロシアでもアレクサンドル二世が進めていた憲法制定などの穏健な改革案は、言論の自由を抑圧したニコライ一世の政治を高く評価したポベドノースツェフと、彼の教え子でもあった新皇帝によって破棄され、「専制護持」の詔書が出されて、極東への進出が模索されることになったのである。それゆえ、前著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー―「祖国戦争」からクリミア戦争へ』（成文社）では、一代で世襲貴族にまで立身出世しながら、自分の村の農奴によって殺された父親との関係にも留意しつつ『貧しき人々』から『白夜』にいたる作品を考察し、若きドストエフスキーが厳しい検閲に抗しながら「イソップの言葉」によって、「人間の謎」や社会制度の問題に迫ろうとしていたことを明らかにした。
その際に私は、『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンの悪魔が、グリボエードフをイメージして形成されているというロシアの研究者の指摘にも言及しながら、ドストエフスキーの全作品を理解する上では、グリボエードフの『知恵の悲しみ』が重要な働きを担っていることを指摘した。ただ、なぜイワンの悪魔にスペシネフではなく、深い尊敬の対象であったグリボエードフがなぞらえられているのだろうか。前著ではこの問題を詳しく分析する余裕はなかったが、ドストエフスキーはペトラシェフスキー会の会員で暴力的な革命を目指したスペシネフを、自分のメフィストフェレスと見なしており、それが『悪霊』の創作にも大きく関わっていたのである。
この「謎」を解明するためには、モノローグ的な形式で書いた『作家の日記』でドストエフスキーが、『アンナ・カレーニナ』を書いたトルストイの反戦論に論駁を加え、ユダヤ人を厳しく批判したばかりでなく、露土戦争（１８７７～７８年）を「聖戦」として、コンスタンチノープル（現在のイスタンブール）の領有をも主張していることにも注意を払う必要があるだろう。そして１８８０年から１９０５年までロシアの教育と宗教を統轄する宗務院の総裁を勤めたポベドノースツェフが、「憲法を待望している」大臣たちを「犯罪者」と呼んでいたことに留意するならば、グリボエードフを暗示するような言葉を「悪魔」に語らせたときにドストエフスキーは、自作の
――――――――――――3――――――――――ニュースレター№85 2007
「熱心な読者」であったポベドノースツェフを強く意識していたと思えるのである。
言葉を換えれば、ファウストがメフィストフェレスとの契約によって永遠の若さを得たように、ドストエフスキーも権力者ポベドノースツェフに対する「二枚舌」を用いることにより、検閲の重みからある程度自由を得て、自分の才能を思う存分に活かして壮大なドラマを展開したのである。ことに『カラマーゾフの兄弟』では「父親殺し」や「自殺」などの現代的な問題を鋭く描き出す一方で、ゾシマ長老の深い他者観や自然観を描くことで、読者に深い感動を与えた。そして、『カラマーゾフの兄弟』などが「虚構」の上に成立する文学作品として読まれるべきであることはいうまでもない。
しかし、「熱心な読者」におもねるような表現もある後期の長編小説が、ユダヤ人研究者や東欧の研究者から強い批判を受けていることもたしかなのである。事実、ポベドノースツェフによって「正教・専制・国民性」が「ロシアの伝統」として再び強調されるようになったアレクサンドル三世治世下のロシア帝国では、旧教徒やユダヤ人に対する弾圧が強化されてポグロムも起きるようになった。その一方で、排他的な愛国主義を厳しく批判した哲学者のソロヴィヨフは公職から追放され、日露戦争に際しても反戦論を新聞に発表することになるトルストイは、１９０１年に正教会から破門されるのである。
このような時代背景を考慮するならば、『カラマーゾフの兄弟』の記述などが作家の死後にポベドノースツェフによって政治的に利用された可能性も否定できないだろう。本発表では、熱烈なフーリエ主義者からスラヴ主義者に変貌したペトラシェフスキー会員のダニレフスキーの歴史観や、ポベドノースツェフとの交友にも留意しながらドストエフスキーの後期の作品を考察することにしたい。そのことにより私たちは日露戦争にいたるロシアや、日露戦争後に「帝国化」する日本の状況にも迫ることができるだろう。
第183回例会傍聴記
渡辺好明『ドイツキリスト教神秘主義思想における言葉で言い現わせないもの』を聴く
長瀬 隆
フランス神秘主義、あるいはイギリス神秘主義といった言葉を聞いたことはない。フランスに至っては明晰が尊重される国であり、神秘主義とは無縁なようである。またロシア神秘主義といった言葉も聞いたことはない。しかしドストエフスキーには神秘主義は存在している。したがってこれの解明に、ドイツ神秘主義――これは確かに聞いている――に依拠しようというのは肯ける。
ドイツはマルチン・ルターに始まる、既成のカトリックに抗議（プロテスト）し、人間の教会への絶対的従属を打破を目指した宗教改革の発生の地だった。それ自体がルネッサンスのドイツ的現れだった。これに対するドストエフスキーの態度を、報告者は『作家の日記』からの引用をもって説明する。「（この宗派は）単なる無神論へあっさり移行しようとする傾きがある。これは単なる否定の宗教にすぎず、地上からカトリシズムが姿を消すが早いか、それに続いて消滅すること確実である」。
しかしルター以前にアウグスチヌスを積極的にドイツ語に翻訳したエックハルトに代表されるキリスト教神秘主義が大きな力をもっており、これはプロテスタンチズ
ニュースレター№85 2007――――――――4――――――――――――――
ムの全面的勝利にもかかわらず、ルターをも貫き、地下水のようにドイツの精神に流れていて、20世紀のヤスパースの哲学にも影響を及ぼしている。「本質的なものは言語によっては伝達できない。神秘主義者は包括者（唯一絶対神――長瀬）に沈潜する。無限に意識が（言語によって）明白化されていっても根源の充実に到達することは出来ない。根源は伝達不可能である」。
報告者はこうしてドイツ神秘主義をドストエフスキーのそれと関連づけようとするのであるが、なかなかよく結びつかなかった。このため質問に入って私は「あなたはドストエフスキーを神秘主義者だった、と言いたいのですか」と尋ねざるをえなかった。すると「その面の研究の必要を説いているのです」ということだった。しかしこうした疑問が生じたのは、神（善）と対をなす悪魔＝悪霊（悪）の問題にはいりながら、それをドストエフスキーの小説と結びつける点で弱かったからである。
『悪霊』のステパン・トロフィーモヴィチは「わたしはキリスト教徒ではないんだ。あの偉大なゲーテ、古代ギリシャ人のような異教徒なのだ」と述べていたが、そのゲーテは「詩歌のなかには悪霊的なものが存在する（必要である）」と考えていた人だった。『ファウスト』にメフィストフェレスを登場させた人に相応しい。しかし「フランス思想には悪魔が欠けているので浅薄なのです」と述べていたロシアの作家は、これにも飽き足らなかったのである。せっかくゲーテにまで言及したのだから、そこまで踏み込んで欲しかった。
事務局だより
○ 今年、私たちドストエフスキー読者の目を引いた現象といえば、亀山郁夫氏訳『カラマーゾフの兄弟』にまつわるメデァの動きでしょう。出版不況の中での起死回生の一打として、亀山訳が登場し、読者にも「読みやすい」、「分かりやすい」と歓迎されて売上げの部数をのばし、あたかもドストエフスキーブームの再来のような観を呈しました。ただドストエフスキー全体ではなく、亀山現象が突出しているだけに、奇異な印象が残ります。マスコミによって「わが国ドストエフスキー研究の第一人者」と呼ばれるにいたった亀山氏のカラマーゾフ訳は、先行訳に代わって、スタンダードたりえるでしょうか。この点、誰もが無関心ではおれないでしょう。ここに会員でプロのロシア語使いであるＮＮ氏が検証を開始しました。私も彼の作業に共鳴し、ロシア語レベルでの検討だけではなく、該当個所を先行（米川、原、江川）訳と対比して、ロシア語を解さない一般読者にも分かるように工夫しました。
私は研究者としての自分の責任において、ＮＮ氏のこの検証作業（現在はまだ第一分冊にとどまる）を会のホームページに公開することにしました。興味ある方は覘いてみてください。
○ 若干私事にかかわりますが、旅行社「大陸トラベル」が来年夏企画するドストエフスキー・ツアー（7月10日～18日）に講師として随行することになりました。
モスクワ、ザライスク、ダラヴォーエ、ペテルブルグ、スターラヤ・ルッサを訪れます。幻想的な白夜の季節であり、ペテルブルグ博物館付きの現地旅行社との提携の企画なので、ドストエフスキーへの旅を十分に楽しんでいただけるものと思います。
私も随行講師として力をつくします。詳細は1月中旬以降、ホームページに掲載しますし、旅行社からもＤＭが送られてくると思いますので、ご検討ください。
（木下豊房）
ドストエーフスキイの会
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第1８３回例会のご案内 下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 報告者：渡辺好明 氏 題 目：ドイツキリスト教神秘主義思想における 言葉で言い表せないもの
＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
報告者紹介：渡辺好明 氏
県立新潟工業高校建築科卒。青山絵画研究所、日本デザインスクールで学び、広告代理店勤務ののち自営。論文「ドストエーフスキイとアイデンティティ」（『ドストエーフスキイ研究』創刊号所収）。
ニュースレター№84 2007 ――――――――2――――――――――――――
第183回例会報告要旨
ドイツキリスト教神秘主義思想における
言葉で言い表せないもの
渡 辺 好 明
神秘主義とは、神の実在は人間の知恵で計りしれないものとし、その実在を独自に無媒介の直接的、内面的な経験や直感によって捉えることができるという哲学や宗教上の立場をいう。したがってあの人は神秘的だ、という意味の神秘とは異なる。
――――――――――――3――――――――――ニュースレター№84 2007
今まで多くの人によって論じられてきた「大審問官」、「スタヴローギンの告白」、「ラスコーリニコフの殺人」、「ネヴァ河の鬼気せまる光景」などの重要な逸話や、「黒馬の夢」、「繊毛虫」、「多島海」などの夢に隠された数々のメタファーが、読者に深い謎をかける。これらは聖書のメタファーのように、多義的で正解というものはない。これらのメタファーが解釈され、言葉となって発せられた瞬間、その本来のものからズレてしまうのである。つまり、メタファーに描かれたものは本質ではない。
第182回例会傍聴記
アハ体験の場
「ドストエフスキーの作品における≪personality」と ≪individuality」」を聞いて
下原 康子
「ドストエーフスキイの会」の最大の魅力は、今も昔も変わりなく、一般読者と研究者が渾然一体となって集う「開かれた場」であることだろう。一般読者の中にも研究者が舌を巻くような理論派もおられるが、わたしのように自分の直感だけがすべてという読者も少なくないと想像する。それら直感の多くはことばで表現するまでに至らず、意識もされないまま漠然とした印象となって脳や心につめこまれている。
ところが、あるきっかけで特定の脳細胞に発火がおこり、漠然とした印象がいっきに「アハ体験」（ああ、なるほど）に至ることがある。小林銀河さんの報告は、わたしにとってそういうきっかけになった。
ニュースレター№84 2007――――――――4――――――――――――――
資料にそって、＜リーチノスチ＞≪personality≫の抜粋の説明を聞いているとき、
突然わたしの「アハ体験」が誘発された。＜リーチノスチ＞がドストエフスキー作品の核心をつくことばであることを即座に納得したのである。
「輝けるリーチノスチ」「わたしのリーチノスチはどうなる？」「彼はリーチノスチだがあいつはリーチノスチではない」といった表現をあえて日本語に置き換えたら、「輝ける人物」「わたしという人間はどうなる？」「彼は人格者だがあいつは人格者じゃない」といった感じだろうか。
「人格者」という日本語の陳腐なニュアンスが気に入らなくてあれこれ考えていたら、司馬遼太郎『菜の花の沖』の中で、高田屋嘉兵衛とディアナ号副艦長リコルドが交わした会話を思い出した。彼らは「テン（天）」「タイショウ（大将）」という共通認識のことばを作り、お互いを「タイショウ」と呼び合っていた。日本人とロシア人、二人の＜タイショウ＞＝＜リーチノスチ＞の邂逅であったのだろう。
さらにリーチノスチの接頭語の＜リーク＞が＜顔＞の意味であると知って、ふたたび近くの脳細胞が連続発火した。ナスターシャの＜顔＞をしきりに恐れるムイシュキン。「弟としておまえの＜顔＞が兄の助けになる」というゾシマ長老、「君たちの＜顔＞を、たとえ三十年たっても思い出します」と語ったアリョーシャ。アリョーシャは四歳でなくなった母の＜顔＞を目の前にいるかのように記憶していた。続いて＜顔＞と＜記憶＞が繋がり、連想は、木下先生の「思い出は人間を救う－ドストエフスキー文学における子供時代の思い出の意味について－」（ドストエフスキー広場No.16）に及んだ。
「アハ体験」は脳内の神経細胞を活性化する働きがあるそうだ。「ドストエーフスキイの会」は、楽しみながら脳の老化予防ができるありがたい場でもあった。
ドストエーフスキイの会
ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.8３
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Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky
Society 2007.8.25
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事務局・〒273―0853
（Tel＆Fax：047-448-9213）
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第1８２回例会のご案内 下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 報告者：小林銀河 氏 題 目：ドストエフスキーの作品における«personality»と«individuality»
＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
報告者紹介：小林銀河 氏
1991年に東京大学文学部露語露文学科に進学して以来、一貫してドストエフスキーの研究に取り組んでいる。
1997年、本会入会。1999年秋から2002年夏までロシア、モスクワ国立大学に留学し、
活動の場をロシアの学会や国際ドストエフスキー・シンポジウム（IDS）に広げる。2006年、東京大学大学院スラヴ語スラヴ文学科の博士課程を修了。
今回の報告は、博士論文の内容をベースにしたものである。
ニュースレター№83 2007 ――――――――2――――――――――――――
第182回例会報告要旨
ドストエフスキーの作品における«personality»と«individuality»
小林銀河
『地下室の手記』の主人公は、人間は必ずしも自分の利益になることばかりするとは限らず、敢えて不利益になるような馬鹿げた行為に走ることもあるということを力説しているが、その理由を次のように説明している。――「なぜなら、それはいずれにしても、われわれにとって最も重要で貴重なもの、すなわちわれわれの人格と個性とを保持してくれるからである。」（米川正夫訳、下線引用者）
ここに出てくる「人格と個性」のロシア語原文を見ると、「人格」に対応するのが「личность（リーチノスチ）」、「個性」は「индивидуальность（インヂヴィドゥアーリノスチ）」という語である。前者「личность」に当たる英語は「personality」であり、後者「индивидуальность」は「individuality」であると言えば分かりやすいかと思う。両者は意味においてかなり重なり合うところがある一方、そのニュアンスも含めて微妙に違っている面もある。そもそも「личность」はロシア語に古来からある語「ликъ」に由来するのに対し、「индивидуальность」は19世紀初めにフランス語「individualité」から借用されたいわば「外来語」である（ドイツ語「Indiviuum」を借用した「индивидуум（インヂヴィードゥウム）」という語もあり、これらの起源をたどるとラテン語に至る）。大雑把に言うならば、ロシア語起源の「личность」は個々の人物をその人間性、ときにはその尊厳まで含めて捉えた概念であるのに対し、外来語の「индивидуальность」では「他と異なる個性・独自性」という意味合いが強い。しかし、いずれも盛んに用いられるようになるのは19世紀に入ってからであり、ロシア社会において「個人」というものが前面に出てくるプロセスに対応していると言えよう。
「人間の探求」に生涯を捧げたドストエフスキーも無論、これらの語とは無縁ではない。近年のコンピューター技術の飛躍的な進歩の成果として、文学研究において「コンコーダンス」と呼ばれる資料が出まわるようになり、作家が用いている単語の頻度や使用箇所を能率的かつ精確に検索することが可能になった。今回、私はＶ.ザハーロフ教授を中心とするペトロザヴォーツク大学の研究グループがインターネットで公開しているコンコーダンスを利用し、「личность」と「индивидуальность」（および「индивидуум」等の同類語）の用例を分析してみた。圧倒的に用例が多いのは「личность」のほうであり、特に『死の家の記録』において使用頻度が急に上がっており、これは「民衆における«личность»の発見」と呼ぶべき転機を示していると言えよう。また、『悪霊』では「革命運動おける«личность»の諸相」が描かれており、『夏象冬記』では「«личность»の最高の発展段階」としてキリストや殉教者の姿が示され、『作家の日記』では「民族の«личность»」という表現が特徴的である。
「индивидуальность」「индивидуум」の用例は「личность」の10分の1以下にすぎないが、それは必ずしもこの概念が重要でないことを意味しない。特に注目すべきはドストエフスキーが作家活動に入る以前に手がけたバルザックの『ウジェニー・グランデ』のロシア語訳で、後の文豪は逐語訳ではない個性的な訳をほどこしているが、フランス語の「personnarité」を訳すにあたり、「личность」ではなく、「индивидуум」を用いている。この部分のテキストをよく見ていくと、西欧のいわゆる「個人主義」に対する、ドストエフスキーの必ずしも批判一辺倒ではない複雑な向き合い方が見えてくるのである。
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第181回例会傍聴記
キュウリの馬にナスの牛
－ 合評会をめぐる随想、あるいは傍聴記に代えて －
堤 崇弘
大作家と呼ばれる人たちは、とてつもない精神的負債を抱え込んでいます。地獄の一つや二つを抱え込んでいます。
（佐藤幹夫、『村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる』PHP新書、2006、p14）
「大風吹けば桶屋が儲かる」ではないが、今年の「広場」（16号）の合評会は、国会の会期延長で参議院議員選挙の投票日がずれ、当初予定の土曜日に会場が使えず、翌週の金曜日に延期された。そのあおりで、出席者の数は、与党の議席数同様、目に見えて少なかった。報告者5名（木寺、近藤、小林、福井、熊谷各氏）、論文執筆者2名（下原、木下両氏）、司会１名（筆者）を除く、純粋な(?)出席者はせいぜい６、７名だったろう。とはいえ、個性豊かな５つの論文と、気鋭の評者達の意見が、活発な議論を喚起し、例によって時間が足りなくなったのは言うまでもない。
通常、合評会に傍聴記はつけない。言い訳になるが、本稿はニュースレターの編集者から、「"合評会に触発されての随想"という形で、何か書きませんか」とのお誘いがあったのを受けて書いている。そういうわけで、少々の脱線をお許し頂きたい。
たまたま、この原稿は、お盆の時期に、妻の田舎の仏間で書いているのだが、今回の合評会を通じて、ずっと頭にあったのは、「思い出」と「死と再生」というキーワードだった。恐らく、他の多くの参加者も同じではなかったか。思い出、とりわけ子供の頃のそれにより、人は悪から救われると、ゾシマがいい、アリョーシャが演説する。厳密には登場人物の言葉だけれど、僕らは、これをドストエフスキー自身の思想だと感じずに居られない。議論で出たようにカラムジンやトルストイは作家自身と区別の付かない語り手の意見を平気で書いたが、ドストエフスキーは小説では"生の声"で語らない。にもかかわらず、この"思い出"についての言説には、ポリフォニーに埋没してしまい切らない、何か特別な響きが篭められているのだ。熊谷さんが、イリューシャ、ゾシマ、マルケル、ソフィア（フョードルの2番目の奥さん）と、次々と死者たちをアリョーシャに関係付けていくとき、『青い鳥』ではないが、「思い出とは、畢竟、死者の想起ではないか」という感覚が沸いてくる。それはまた、死そのものの想起につながっていく。
僕らは、なぜ死ななければならないのか。それは、生物学的ないし統計力学的には、いろいろな説明ができるだろう。しかし、もし、僕らの人生に、"倫理"とか"哲学"とかいう、何らかの"意味付け"をするとしたら、その文脈においては、死ほど不合理なことはない。それは数学的に言えば、"境界条件"なのであって、問題設定の一部なのだ。「なぜ」と問うても意味がない。理由なんてものはなく、要するに、「"暗愚な自然"により一方的に、そのように作られてるんだ」ということでしかない。
しかし、死という境界条件が倫理的に無意味か、というと、それが必ずしもそうではないらしい。さもなくば、死者を想起することによって、悪から救われる、などということには、恐らくならない。僕のようなぼんくらではない、ドストエフスキーほどの作家が、「思い出が人を救う」と書いているのだ。そこに何がしかの真実が、あるはずだと思うのが人情である。 この世界が一つの芝居の舞台なら、人は生まれて舞台に登場し、死と共にそこを去っていく。普通の芝居と違って、観客というものがない。そして、一度舞台を去った俳優は、二度と出てくることはない。僕らは旅立った者の記憶を、喪失感と共に抱きしめて、自らがここを去る日まで、歩き続けるしかない。
ニュースレター№83 2007――――――――4――――――――――――――
ある意味では空しい。しかし、不思議なことだが、僕自身（三島や森田青年のような劇的な死に方はしそうもないから）肥満による成人病か何かで、ここを去った後、やはり、誰かに憶えていてもらいたいと感じているようだ。人が記憶する僕は、恐らく、本物の僕自身とは、似ても似つかない何者かだ。それでもいい、誰かに憶えていてもらいたい、となぜか感じているのだ。そう考えると、死者の想起というのは、死者の側から見てこそ、貴重である。それが跳ね返って、未来の死者たる生者＝思い出す側にとっても、思い出は、一つの神事であり、聖なるものになる、といえるかも知れない。「広場」p102末尾の、木下氏の文章とも繋がるが、これは、特定の宗教に無関係ながら、何がしか宗教性を帯びた感覚である。
ゾシマ、アリョーシャなど、キリスト教のプロ達の声を通じて作家が、「人を救うのは思い出だ」と人生最後に言ったことは、考えてみれば不思議だ。なぜ、"神"ではないのか？ どうして、人を救うものが、"神"や"キリスト"でなく、"思い出"なのか？ そこには、「神を信じることは前提だが、実際にはそう上手くはいかないんです」という、いわば"ホフラコワの前提"とでもいうべきものが、もう一段積み重なっているように、僕には見えてしまうのだ。
ゾシマの遺言のもう一つの大問題、「自殺者のための祈り」もそうだが、僕らはドストエフスキーに、「標準的なクリスチャンとちょっと違うぞ」「なんか日本人にも分かる汎宗教的なものが匂うぞ」と感じている。それは、彼自身にとっては、恐らく大きな"精神的負債"だったに違いない。だが、僕らにとってはかけがえのない恩寵なのだ。ロシア人のДостоевскийは、ペテルブルクの墓地に静かに眠っているかも知れないが、僕ら日本人のドストエフスキーは、残暑の中、列島のあちこちに焚かれる迎え火に向って、キュウリの馬に乗ってやってくるのである。新盆の田中駢拇さんとくつわを並べて……
合掌
事務局だより
○
連日、30度を越える猛暑の8月でしたが、9月を目の前にして、暑さも峠を越えるか
と待たれるこの頃です。9月の例会は、博士学位論文を通過した小林銀河さんにその一端をご披露していただきます。
○
第13回国際ドストエフスキー・シンポジュウムは、7月3日～7日、ブタペストの
ELTE大学文学部の校舎で、ロシア、欧米、日本の研究者120名近くが参加して、開かれました。プログラムにノミネートされていた札幌大学の鈴木、ジダーノフの両氏は結局、不参加、日本からは、木寺、小林、木下の3名だけで、近年、最も少ない数でした。またまれに見られた、アジアの他の国からの参加もありませんでした。日本から少ないわけを度々聞かれましたが、大学がまだ休暇に入っていないせいだろうと答えておきました。参加者も確実に世代交代が進んでいて、運営をとりしきる研究者は30～40歳代。国際ドストエフスキー学会（IDS）の新会長には、ニューヨーク、コロンビア大学のデボラ・マルテンセン女史が選ばれました。
次回、2010年のシンポジュウムはイタリアのナポリで開催されます。今回、会則が定められ、各国委員を通して、会員は年会費25ＵＳ＄（学生15ＵＳ＄）の納入を義務づけられました。
○ 会員の東海大学教授・高橋誠一郎氏が『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』（成文社 2600円）を刊行しました。
資料を幅広く渉猟し、社会的歴史的文脈で作家像、作品の細部を本格的に論じた注目すべき好著です。
（木下豊房）
ドストエーフスキイの会
ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.８２
News
Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky
Society 2007.6.25
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第1８１回例会のご案内 下記の要領で例会を開催いたします。今回は『広場』16号の合評会となります。 皆様のご参加をお待ちしています。 当初は7月28日の予定でしたが、参院選挙で、前日の区民会館は使用不能となりました。 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 掲載主要論文の論評者 熊谷論文：戦士アリョーシャの誕生 ―――――― 木寺律子 吴 論文：ドストエフスキーの初期作品におけるセンチメンタリズム ―――――― 近藤靖宏 田中論文：ドストエフスキーと自殺 ―――――― 小林銀河 下原論文：団塊世代とドストエフスキー ―――――福井勝也 木下論文：思い出は人間を救う ―――――――熊谷のぶよし 司会：堤 崇弘 ＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
第180回例会傍聴記
長瀬隆氏の『ドヴォイニーク』について(「感想と私見」)
福井勝也
長瀬氏は事前配布の例会報告要旨の書き出しを、次のように始められている。
「『カラマーゾフの兄弟』は小説、すなわち虚構の物語であるが、それは＜私＞なる語り手によってなされている。それではこの＜私＞はドストエフスキーその人とイコールであろうか。私はこの＜私＞もまた虚構化されていると考える。この＜私＞は《ドヴォイニーク》（二重人と分身の両義を有す）と題される第二作における語り手＜私＞と同じである。」
今回の長瀬氏の発表の要点は、このドストエフスキーの生涯にわたる作品を貫く小説の「作中作家」・「語り手」の持つ意味への言及であった。それがはっきりとした形で現出したのが、第二作のいわゆる『分身』（この訳語自体が問題で、その前提になる「ドヴォイニーク」という言葉が焦点になる）で、この問題が26年後の『未成年』のヴェルシーロフが告白する「自分が二つに割れてゆく」「二重人」として作中作者のアルカージーによって再定義されたのだとする。そして『カラマーゾフの兄弟』のイヴァンが見る分身（＝「悪魔」）もこの二極分裂の結果であって、それは作品の序文を語る＜私＞の成れの果て、その化身であったのだという。長瀬氏はこのドストエフスキーの小説表現における「作中作家」・「語り手」についてペレヴェルゼフやジラールにも言及しながら、「ドヴォイニーク」の語源に遡ることでその核心に迫ろうとした。
小説表現の「語り手」・「作中作者」の特徴的なあり方こそドストエフスキーの文学の核心部分であり、そのことが明らかになりつつ現状があると筆者は考えている。勿論、長瀬氏の今回の論も本質的にその流れのもので、特にその「語り手」・「作中作者」の発生から消滅までその推移をドストエフスキーの作品全体にわたって明らかにしようとした点で独自な内容のものだ。そしてその内実をキーワードである「ドヴォイニーク」の語源に求めたことに特徴的な展開とその根拠がある。
さらにそのドストエフスキーの「語り手」の特徴を指摘するうえで、長瀬氏は、プーシキンに始まる近代ロシア文学とりわけゴーゴリの小説における「語り手」・「作中作者」のあり方を興味深く比較対照された。ではその両者の差異とは何か。氏はその点について、まず処女作『貧しき人々』が書簡体形式で書かれた意味を、ドストエフスキー自身が兄ミハイルに書き送った手紙で、書き手である作者の正体を読者に隠し通したことだと作家自身が語っている点を指摘する。確かにここは注目すべき箇所だと思う。やや私見になるが、ドストエフスキーにとってはその処女作から、小説の「作者」は意識的に＜隠されたかたち＞で＜登場＞していたのだと考えられる。ここですでに＜語り手の虚構化＞が始まっていると言っても良いのかもしれない。その意味で始めからゴ－ゴリのそれと異なったかたちの隠された「作中作者」・「語り手」であったからこそ、二作目では一挙に
その独自なかたちでそれが現出し、まもなく新ゴリャートキンとなって消えてしまったのではないか。 しかし、この独創的な試みが一体何に基づき、何のために為されようとしたのかについて理解できる評者は結局現れなかった。
以後、ドストエフスキーが小説を書き続けた意味はこの酷評された第二作『分身』の語り手のスタイルを反芻し模索しながら、その執筆意図を世に問い続けた営為として考えられる。そこで長瀬氏は、その帰結として『未成年』の作中作者のアルカージーがヴェルシーロフについて語る「ドヴォイニーク」という言葉の定義として明らかにしようとした。今回特別に配布された一枚の資料では、《ドヴォイニーク》というロシア語の問題として、「二重人」と「分身」の両義的な意味を持つ言葉が採用されるにあたって、ゴーゴリの『死せる魂』のロシア語に秘められた二重の意味が参照されたのだろうと長瀬氏は推測している。氏は、ここで下敷きとなるゴーゴリの
しかし一方、この「語り手」は近代的な位置づけでは捉えきれない、バフチンのジャンル論の延長線上にもあるものではないか。つまりプーシキンに始まりゴーゴリが継承する近代ロシア文学の系譜以前の、広くヨーロッパのルネサンス文学以前にも繋がるものとしてのそれだ。それは古代・中世的なカ－ニヴァル的な＜笑い＞の世界に連結するものだ。実は、ゴ－ゴリの語り手はむしろこの系譜に繋がっているはずだ。それらの系譜と近代的視線を孕む＜アマルガム的語り手＞がドストエフスキーの《ドヴォイニーク》の正体なのではないだろうか。それは例えば、二葉亭四迷がその『浮雲』の文体を模索するうえで、ドストエフスキーの小説の語り手を意識した際に「落語」の語りを参考にしたこととも関連していて、私は近代日本文学の生成にも影響している問題だと思っている。
さらに長瀬氏は今回の発表で＜マルクスの貨幣論＞と＜新訳聖書のヨハネ黙示録論＞の対比からドストエフスキーの文学を考える興味深い指摘もされた。しかし、紙面が尽きた。とにかく長瀬氏の著作の刊行が待たれる刺激的な発表であった。
事務局だより
○会発足、満38年目の第38回総会は、5月19日の180回例会に先立って、午後6時から開かれました。議事の中心は活動報告、会計報告で、活動報告の要点は『広場』16号に掲載されており、会計報告は下記に掲載しましたので、ご覧ください。「広場」の制作費が昨年よりもいくらか高くなっていますが、これは印刷所への入稿時期の事情によるものです。
運営・編集委員会のメンバーは、基本的には2007年度を引き継いで、次のように確認されました。括弧内は実務分担。木下豊房（コージネート、ニュースレター〔ＮＬ〕作成、ホームページ管理）、熊谷のぶよし（「広場」編集）、小林銀河(「広場」編集)、近藤靖宏(「広場」編集、会計)、下原敏彦・康子（ＮＬ印刷・発送）、菅原純子（ＮＬ発送）、堤崇弘（メーリングリスト管理、ＮＬチェック）福井勝也（会場設営）、渡辺好明（会計）。
○訃報・1月の例会で報告され、「広場」16号には力作「ドストエフスキーと自殺」を発表された田中元彦さんが、5月20日頃、ご病気で急逝されたとのことです。会に入会されたのも昨年の後半で、お付き合いはまだ日が浅かったのですが、大変意欲的に会に参加されようとしていた矢先で、大変残念です。謹んで哀悼の意を表したいと思います。
○7月3日～7月８日まで、第13回ドストエフスキー・シンポジュウム「文化的対話の文脈におけるドストエフスキー」が、ハンガリーの首都ブタペスト、都心の民族博物館を会場にして開催されます。これには、欧米を中心とする120名余りのドストエフスキー研究者がノミネートされており、日本からは小林銀河、木寺律子、鈴木淳一、ジダーノフ（札幌大学）、木下豊房の５名が参加します。
国際ドストエフスキー学会（ＩＤＳ）主催の国際シンポジュウムは1971年のバッド・エムスでの第1回会議に始まりました。以後3年目毎に主としてヨーロッパの都市で開かれ、第10回（1999）がニューヨーク、番外編として2000年のミレニアムには、本会がＩＤＳと連携して、千葉大学で「ドストエフスキーの目で見た21世紀人類の未来」という会議を開き、会長はじめ、主要メンバーが来日しました。2001年バーデン・バーデン、04年ジュネーブに続いて、今回はブタペストです。
本会は1975年以来、ＩＤＳと連携を保っており、最初にシンポジュウムに参加したのは、77年、第3回（コペンハーゲン）井桁氏で、80年（イタリア・ベルガモ）には井桁、清水孝純、木下の3名が参加、その後、フランス、イギリス、ノルエー、リュブリアナと、井桁、高橋、木下の誰かが参加し、95年オーストリアの会議には安藤、金沢、望月、高橋氏、98年のニューヨークでは安藤、望月、金沢、萩原、池田氏らも参加、2001年には越野、04年のジュネーブでは小林、加藤といった若手研究者も参加するようになり、いまでは日本のドストエフスキー研究も国際的にリンクして、外国の研究者の成果を視野に入れないでは語れなくなっています。
（木下豊房）
ドストエーフスキイの会
ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.8１
News
Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky
Society 2007.4.20
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第38回総会と180回例会のご案内 下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ 総 会 午後6時から45分程度、終わり次第に例会 議題：活動、会計報告、運営体制、活動計画、予算について 報告者：長瀬 隆 氏 題目： キーワードとしてのドヴォイニーク （公刊予定稿『ドストエフスキーの今日』560枚より） ＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
報告者紹介：長瀬 隆（ながせたかし）氏
1931年樺太大泊（コルサコフ）に生まれる。47年引揚。早稲田大學露文科卒。57年日本原水協代表団のロシア語スタッフとして訪ソ（同時に訪中）。貿易商社に勤務、主としてソ連を担当。作品に『樺太よ遠く孤独な』（84年、西田書店）、『ヒロシマまでの長い道』（89年、晩聲社）、『微笑の沈黙』（95年、同）が、また翻訳にペレヴェルゼフ『ドストエフスキーの創造』（89年、みすず書房）がある。99～2002『早稲田・1950年・史料と証言』全６冊の編集に従事、ドストエフスキー学者にしてマルクス主義者たりし松尾隆（木寺黎二）教授(1907～56)につき評伝180枚を連載。2003年草思社より評論『日露領土紛争の根源』640枚を刊行。同書に詳述せるチェーホフ『サハリン島』の日本関連記述についての学的発見を04年没後100年記念国際学会（メリホヴォ）で報告、論文集に収録さる。http://homepage2.nifty.com/~t-nagase/ に掲載。
ニュースレターNo.80 2007 ――――――――2―――――――――――――
第180回例会報告要旨
キーワードとしてのドヴォイニーク
（公刊予定稿『ドストエフスキーの今日』560枚より）
長瀬隆
『カラマーゾフの兄弟』は小説、すなわち虚構の物語であるが、それは「私」なる語り手によってなされている。それではこの「私」はドストエフスキーその人とイコールであろうか。私はこの「私」もまた虚構化されていると考える。この「私」は《ドヴォイニーク》（二重人と分身の両義を有す）と題される第二作における語り手「私」と同じである。
ゴリャートキン氏を紹介しつつ始めながら、やがて作者の視点はこの人物を離れ、彼が勤務する役所の長官の令嬢の祝いの夜会の場に移り、この段階で初めて語り手「私」が登場する。そこに招かれてはいない下っ端役人のゴリャートキンが闖入し、つまみだされる。ここから再び作者はこの主人公に密着して語りはじめ、やがて分身が現れて、一編はこの両者の確執の物語に転ずる。と同時に読者諸君と語りかけていた「私」が消滅し、二度と現れない。また「読者諸君」も暫時消滅する。これは「私」が分身にすり替わったためであり、「私」はこのための道具として登場していたことが知られる。ついでながら「分身」は第一作においてワルワーラが幻覚していた自分の傍に立つ「別な人」の言い換えである。
一時は天才になったかのように舞い上がっていたドストエフスキーだが、やがて失敗作であることを悟る。そしてそれを社会主義思想の把握の脆弱に起因したと考え、ペトラシェーフスキーの会に参加し、逮捕、死罪宣告を体験して流刑される。
彼が再びドヴォイニークの語に立ち返るのは26年後の『未成年』においてである。この作品はドヴォイニークの両義性を説明するために書かれている。ヴェルシーロフは「自分が二つに割れてゆく」と告白する人物、すなわち二重人である。またそれゆえに分身を幻視する。ドヴォイニークの語が17回も登場し、作中作者のアルカージーはこの言葉を「精神の変調」と定義する。米川正夫のサンスクリット語仏典に由来する分身の訳語は、絶対的なものではなく便宜的なものであることを知るべきである。（彼はペレヴェルゼフ『ドストエフスキーの創造』からの引用に際しては二重人格者と訳していているのだ）。
かくて作家は『カラマーゾフの兄弟』において第二作以来の生涯の課題の解決に赴く。ゴリャートキンは二重性が二極分裂に至った結果分身を幻視したのだった。同様にイヴァンも分身を見ることになるが、それはもはや悪魔の名で呼ばれることになる。またそれは冒頭からの「私」が変身したものであり、それが予定されていたために作品の序文が思わせぶりなものとなったのである。分身は第二のゴリャートキンのように長々と居座ることなく、短い一瞬に現れ、本体の二重人を崩壊に導いて消滅する。
ペレヴェルゼフのマルクス主義に対し現代のジラールはカソリック原理主義であるが、その『ドストエフスキー』は「二重性から統一性に」の副題を有し、互いに近接している。
―――――――――――――3――――――――――ニュースレターNo.80 2007
《179回報告を聴いて》
報告者への質問の手紙
前島省吾
木下豊房様
拝啓 私は先日の「ドストエフスキーの会」でラスコリニコフとスメルジャコフの生い立ちに関して質問をした者です。もっと詳しくお伺いしたいと思い質問させていただきましたが、時間も少なかったこともあり、質問内容を十分お伝えすることさえできませんでした。＜・・・＞
記憶の問題は、ドストエフスキーを読み解くために、たしかに重要な問題だと考えます。文学作品における記憶の問題という場合、次のような問題が想定されます。
１） 作者が描かなかったが小説のテーマに影響したと類推される登場人物の過去。
２） 登場人物が思い出として語る過去の記憶。
３） 登場人物が語ろうとしない過去の記憶。
４） 本人の自覚なきままに過去の記憶が自己または他人を救済に導く場合と破滅に導く場合。私が質問したのは１）の問題でした。
ラスコリニコフの生い立ちは書かれていませんが、決して家族と断絶していたわけではないと思われます。「七つのとき祭りの夕方、父とふたり郊外を散歩した。」という夢は馬殺しの場面とは切り離して考えると父と子の愛情あふれる情景で、父ヨセフと歩いたキリストを髣髴させる一種の黄金時代の記憶といってよいのではないでしょうか。私は、「もし俺がひとりぼっちで、誰ひとり愛してくれるものもなく、また自身も決してひとを愛さないとしたら、その時はこんなことなど一切おこらなかったであろうに」という彼の最後の嘆きには、彼と母、妹の深い絆の記憶が凝縮されていると考えます。母親と子の精神的絆が深かったこととその愛情がおよぼす作用、あるいは悪影響の問題は別問題です。かりに愛情過多による精神的抑圧があったとしても、それが犯行の動機になったとは私は思いません。
「犯行」の決意はラスコリニコフ自身が精神的自由の中で、自ら選んだ意志であり、決行するキッカケは彼の「予感」の中に、偶然を必然ととらえる彼の認識の中に見出せるのです。たしか小林秀雄も母の手紙が来なければ、ラスコリニコフはそれに代わるものを発見するはずだといっていたように記憶しています。
スメルジャコフにしても、父が誰か、母が誰かは生涯問い続けたはずです。しかし、その生い立ちの中に犯行の意志を培ってきたとはいえないと思うのです。イワンの登場まではおそらく犯行など想像さえしなかったことでしょう。
ラスコリニコフ、スメルジャコフ双方とも過去の記憶、あるいはその生い立ちが「犯行」への因果関係にはなっていないように思われます。
２）ワルワーラの黄金時代の思い出、カテリーナ・イヴァーノヴナの「賞状」これはたしかに思い出です。しかしドストエフスキーの描く思い出とは何でしょうか。
悲惨な現在との対比の中にある数少ない幸福の記憶です。しかし、このような思い出を語る人物には例外なく悲惨な未来が待っているのです。「よい思い出によって救われ」ない現実がそこにはあります。「賞状」の問題は別のメタファーでもあるように思います。
３） 「賞状」と関連して私が考慮したいのは、舞踏会、賞状、父親のことは繰り
返し語られるのに、何故彼女は第1の結婚について語らないのかということです。ドストエフスキーはジョルジュ・サンドを敬愛していたそうですが、カテリーナの
ニュースレターNo.80 2007 ――――――――４――――――――――――
結婚は、父親の反対をおしきっての自由結婚でした。いわば青鞜派の女性の先駆けともいうべき女性でした。そしてこの結婚こそ彼女の転落の原因だったのに、全くその点の慨嘆や後悔のことばもありません。
最近 ソーニャの最初の男はイワン・アファナーシッチ閣下ではないかという説があることを知りました。たしかに初めて街頭にたって３０ルーブルも一回で稼げるとは考えられません。マルメラードフがその後すぐに閣下のところに行き、職を得ますが、５日ほどで出勤をやめ、酒におぼれるのは、このようなソーニャの犠牲による幸福に耐えられなかったからに相違ありません。カテリーナは閣下に最後にインク壺を投げつけ発狂しますが、最後まで貴族としての自分を誇示しようとしていたのです。自分の転落を認めることができなかったのです。「賞状」は自分の転落を隠す代償だったと思うのです。
４） よい記憶がよい作用した例は先生の資料にあるようにアリョーシャやゾシマ
長老の兄の思い出などありますが、記憶が本人の意識を超えて悪い作用となった例として、私は「カラマーゾフの兄弟」のカテリーナ・イヴァーノヴナの「自分を売りにいった」ときの屈辱的記憶を想起します。この記憶こそが、ドミトリーを破滅に追い込んだと思うのです。グルーシェンカも「ポーランド人の恋人」を記憶から排除できなかった。もしふたりとも記憶の魔力から脱出して、現在の状況に対処することができればドミトリーの苦悩はなかったし、冤罪もなかったと思うと記憶の魔術的力にぞっとする恐怖感さえ禁じ得ません。同時に、ドストエフスキーのすべての人物は記憶から逃れることができなかったのではないかという風にも考えます。他にも「白痴」のナターシャ・フリッポヴナとかいつまでも過去のスタヴローギンを追い求めるピョートルやシャートフなどの登場人物など思い浮かべます。
つぎに 記憶（память）と 思い出（воспоминание）についてお伺いします。
私は 思い出もまた次のものとともに記憶の発現形態ではないかと考えます。
１）
思い出、あるいは回想、追憶、２）夢 （これには 悪夢も含まれます）
３）幻想、幻影、４）幽霊、５）悪魔
ラスコリニコフの鞭打たれる馬の夢、これは単なる思い出ではなく、犯行を決意した自分の影像だと思うのですが、夢である限り、過去の決意した瞬間の自分の記憶、そのときの戦慄、恐怖そしてそれを抑圧しても断行しようとする決意のイメージ化であると思います。ラスコリニコフの四つの夢については様々な解釈がありますし、私のようなものが語る必要はないのですが、最後の旋毛虫の夢も未来像ではなく、過去の記憶の心象風景に違いないと私は思っています。それほど、犯行前の「決意」と「ためらい」、「決行」そして「決行後」すべてを通じて彼は彼自身耐え難いほどの重荷を背負ってしまったのでしょう。
スヴィドリガイロフの「マルファーの亡霊」「白い棺の中の身投げした少女」はいうまでもなく過去の忌まわしい記憶の発現です。
洪水の日の娼婦の顔をした少女の幻影、これも過去の記憶の反映に違いありません。川端香男里先生はある講義で、ドストエフスキーの登場人物が自然描写とともに現れるときは、その自然描写は必ず現在のその人物の心理状態を表しているといっていましたが、スヴドリガイロフの最後の日の「滝のように降る雨」、「稲妻」、「洪水」は彼の現在を、そして少女は過去を表現しているのかもしれません。娼婦のような少女、これは女性への情欲だけに生きた男が最後に感じた女性という存在の根源的な不可思議さ、恐ろしさの記憶の反映に違いありません。
他にも記憶とその表現をめぐっては様々な哲学的問題があるとは思いますが、今の私には手に負えません。
―――――――――――――5――――――――――ニュースレターNo.80 2007
イワンの悪魔やスメルジャコフの見た神、スタヴローギンの「人類の黄金時代」の夢とは何なのか、主人公個人の記憶なのか、人類の記憶なのか、そしてスタヴローギンが自分で呼び出す「わが身ひとりを責めた、理性の固まっていない、頼りない少女（のみじめな絶望）」の「威嚇するように、小さな拳をふりあげている姿」とは記憶なのか、認識なのか等。これから先生のご本やいろいろの研究書を通して、そして会の諸兄のご意見を傾聴しながら、考察していきたいと思っています。
最後に、「私達の心の中のよき記憶を亡きひとにささげれば、必ず再会します。」というアリョーシャのことばには、人間救済の願いがこめられているのだという先生の思いはよくわかります。
しかしやはり私も不信の子であって、「権利アル信仰ハ常にｒｅａｓｏｎノ随伴物ナリ。ｒｅａｓｏｎヲ伴わざる信仰は権利ナキ信仰ナリ。」と漱石がいうように、私も復活を信じることができません。それでもアリョーシャのような「善に対する感激性と心情の純潔さ」（「現代における罪と罰」吉尾勝人著より）をさまざまな登場人物の心の奥底に発見するために、ドストエフスキーを読み続けていこうと思っています。
敬具
《質問への返事》
前島省吾様
木下豊房
返事が遅くなりました。
あなたが書いておられることに、私にはほとんど、というより全く異論の余地はありません。「思い出は人間を救う」というタイトルは、昨年、故人となったロシアの友人、そしてこの十年来、他界した私にとってかけがえのなかった友人たちへの感傷的な思いに引きずられ、またドストエフスキーが言ったとされる「美は世界を救う」のフレーズのもじりとして思いついたもので、議論を招く要素があることは予想していました。
ですからこの一句の意味は、より多く、私の論の最終部の他界との架け橋ともいうべき宗教的感情に重点があったわけですが、あなたが引用しておられる漱石の言葉は言葉として、ドストエフスキー風にいえば、自分は不信と懐疑の子であるが、キリストが真理の外にあったとしても、真理よりもキリストとともにあることを望むといった心境にこそ、私は共感を覚えます。ですから、信仰と理由は無関係で構わないのです。しかしキリスト教徒の意味での復活まで信じ切れるわけでもありません。
さて記憶の問題ですが、人間の現在の行動が過去のあるファクターによって決定されるとする単純な因果論にはドストエフスキーは無縁だったと思います。人間の行動の動機は複数あり、何によって決定されるかは不確定であるとみるのが、ドストエフスキーと漱石にも共通する人間観であったと私は思っています。ですから、ラスコリニコフに関しておっしゃっていることはその通りです。
記憶(память)と思い出(воспоминание)の使い分けですが、ドストエフスキーは良い思い出にも悪い思い出にもвоспоминаниеを使っています。おっしゃるように、思い出は記憶の一「発現形態」だと思いますが、想起する積極的な力を伴った思い出がよき思い出であり、記憶の層にあって、無意識的にも作用、あるいは侵入してくるものが、夢や幻影、幽霊、悪魔などの想念ではないかなどと、先日の例会での議論
ニュースレターNo.80 2007 ――――――――６――――――――――――
の後、考えています。
どなたか女性の方が、「信じる力」を指摘され、熊谷さんが他者との関係性の問題をいわれましたが、嫌な体験も良い思い出に変わるという時間のフィルターには、何かこのような力がかかわっているのかもしれません。自己不信と他者不信の悪循環から抜け出せない地下室人的心理の持ち主には、そうしたポジティヴな想起力が欠如し、悪夢や幻影の形で記憶が喚起されるということではないでしょうか。あるいは他者への過剰な期待（信じこみ）が裏切られることによる反動の形もあるかもしれません。といっても、そう簡単に割り切れるかどうか、問題は残りそうです。このあたり、良い考え方があったら、ご教示いただければ有難いです。
答えになっているかどうか自信はありませんが、一応、ご返事とします。
事務局だより
○
今年2月には会発足より満38年を迎え、4月に会誌「広場」第16号が刊行されました。会運営・編集作業もメーリングリストをうまく活用しながら、効率的、かつ民主的に機能してきているのですが、パソコンに頼りすぎた結果とはいえ、今回の編集作業中に、「広場」掲載の木寺律子さんの国際学会「報告」の記事中、尾松 亮氏の姓が「松尾」とどこかでひっくり返り、誤植のまま出てしまいました。ほかにも誤植はあるかもしれませんが、事が会にも近い方の姓名だけに、編集担当グループも大変恐縮しています。担当者を代表して、お詫びします。ほかの誤植にもお気づきの点がありましたら、お知らせいただければ有難いです。
○
ロシア語図書の輸入会社「日ソ」のＨＰ、新刊カタログのページに、日本語図書
紹介の欄があって、「広場」第16号が表紙と目次で紹介されています。
アドレス：http://www.nisso.net/shokai/shokai.htm
（木下）
ドストエーフスキイの会
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第1７９回例会のご案内 下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 報告者：木下豊房 氏 題 目：「思い出は人間を救う」－ドストエフスキー文学におけ る「思い出」の意味について―
＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
報告者紹介：木下豊房 氏
１９７9年2月、故・新谷敬三郎氏、米川哲夫氏らとともに、「ドストエーフスキイの会」の発足にあたり、中心的な役割をはたす。会発足より1996年２月まで、事務局責任者。千葉大学教養部・文学部に２９年勤続、２００２年３月定年退職。千葉大学名誉教授、日本大学芸術学部非常勤講師。 著書に『近代日本文学とドストエフスキー』（成文社、1993）、『ドストエフスキー・その対話的世界』（成文社、２00２）。翻訳に『ドストエーフスキイ夫人アンナの日記』（河出書房新社、1979）、『ドストエフスキーとカント ―『カラマーゾフの兄弟を読む』―』（みすず書房、1988）、ロシア語論集 «Антропология и поэтика
творчества Ф.М. Достоевского» (Санкт-Петербург, 2005) その他。
ニュースレター№80 2007 ――――――――2――――――――――――――
第179回例会報告要旨
「思い出は人間を救う」
―ドストエフスキー文学における子供時代の思い出の意味について―
木下豊房
ドストエフスキー文学には、自然描写がきわめて少ないが、まったくないわけではない。それは例えば、『貧しき人々』の女主人公ワルワーラの少女時代の田舎の思い出であり、また『虐げられし人々』の語り手イワンの、ワシリエフスキイ村の生活についての思い出であり、『作家の日記』の「百姓マレイ」の章における、ダラヴォーエ村での、作家自身の自伝的な思い出にかかわる描写である。これらすべては、少年フョードル・ドストエフスキーが多感な十代の始めを過ごした父親の領地ダラヴォーエ村の思い出と、強く結びついており、それらは作品の主人公や語り手の追憶のプリズムを通して伝えられている。
これらの思い出はいずれも、現在の灰色の境遇とは対照的に、「黄金時代」として意味づけられ、回想の主体にとっては精神的な支えとして機能している。かならずしも自然とは結びつかなくても、娘時代の幸せな思い出を象徴する『罪と罰』のカテリーナの賞状や、『地下室の手記』のリーザの恋文なども、薄幸な彼女たちの現在を支える重要な役割を付与されている。
また反対に、少女時代に凌辱された思い出に苦しむ『白痴』のナスターシャや連隊での不名誉な屈辱の思い出に苦しむ『おとなしい女』の主人公が、いかに地下室的な心理に翻弄されて悲劇を招来するかも描かれている。
とりわけドストエフスキーは晩年1876～77年の『作家の日記』で、子供の人間形成にとって、思い出、追憶がいかに重要な、決定的な意味を持つかを、くり返し語った。クロネベルグ事件、ジュンコーフスキイ事件など、幼児虐待事件に関心を寄せながら、「偶然の家庭」の問題を論じているが、その際、一貫して作家の論調の基調をなすのは、事件から受けた子供たちの印象や記憶が、彼らの将来に及ぼす影響の甚大さについてである。「偶然の家庭」のもたらす否定的な結果についてこうのべる。「家族に対する父親たちの怠惰のもとで、子供たちはもう極端な偶然にまかされるのだ！貧困、父親の心配ごとは幼年時代から、子供たちの心に、暗い情景、時として有毒きわまりない思い出として浮かび上がる」「人間は肯定的なもの、美しいものの胚子を持たないで、子供時代を出て人生へと出発してはいけない。肯定的なもの、美しいものの胚子を持たせないで、子の世代を旅立たせてはいけない」（77年7～8月）
世相に対する作家のこの憂慮と結びついて描かれたのが『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャとゾシマ長老にとっての思い出の意義であろう。アリョーシャは母親の思い出に導かれて修道院へはいり、ゾシマは両親の家庭での大切な思い出、聖書物語との出会いについて語った。
小説の最終場面、少年たちを前にしてのアリョーシャの演説では、亡くなったイリューシャ少年を永久に記憶にとどめようとの呼びかけによって、追憶の力による死者のよみがえり、という宗教感情の基底にふれる領域にまで、その意味は深められていくのである。
――――――――――――3――――――――――ニュースレター№80 2007
第178回例会傍聴記
田中元彦氏「ドストエフスキーと自殺」を聴いて
下原敏彦
ことし最初の例会報告は、田中元彦氏であった。粋な着流しである。和服姿は流行最先端の原宿だけに、より日本の精神を意識させた。それ故に、氏の口からドストエフスキーが語られると、瞬間、何か違和感を覚えた。が、すぐに二つは融和した。やはりドストエフスキーと日本人は馬が合うのか、と納得した。こんなこともあって、報告は、「自殺」という重いテーマだったが、不謹慎にも寄席の席にいるような気持で気負いなく聴くことができた。
報告でとりあげた自殺は、現在の日本では深刻な社会問題になっている。少し前、若者の集団自殺が流行った、昨年はイジメによる子供の自殺が相次いだ。他に恋、病気、困窮などなど諸々の理由による自殺は後を絶たない。戦争でもないのに毎年、3万人の自殺者がいるのだ。今回の氏による「自殺」考察が、自殺防止の手掛かりにならんことを期待した。
はじめに報告される田中元彦氏とは、どんな人か？昭和12年日本が自殺行為につっ走る発端となった盧溝橋事件の年に生まれた。子守唄に進軍ラッパと空襲警報を聞いた。そして敗戦という価値観の大転換期に少年時代を過し、青春からは高度成長の階段をひたすら駆け上がり、バブルがはじけ飛んだころ定年を迎えた。想像だがこんな人生である。激動の時代を体験してきただけに「自殺」を語る言葉に重みが感じられた。
報告は、自殺とは「自身によって為された積極的、消極的行為」であるという自殺の定義を皮切りに、ギリシャ、ローマなど古代都市国家の自殺観やキリスト教世界での自殺観が紹介された。19世紀における自殺については、精神医学の問題点や権利、刑法などが幅広く分析された。悪魔憑きから精神疾患への変化に氏のこだわりが感じられた。
次にドストエフスキー作品から作中人物の自殺者と自殺観が紹介された。大作『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』のなかでの多くの自殺者、未遂者をとりあげ原因、方法を指摘、推理した。これまで漠然と読み過していたので、氏の丁寧な読みと検証に感嘆した。
田中氏は、なぜ「自殺」に興味を持ったのか。ドストエフスキーは、実際の自殺者についてかなり関心をもっていた。『作家の日記』において度々、とりあげ原因を究明している。1876年11月8日にあった中学予備校生の学校内での縊死もその一つである。少年は、なぜ死を選んだのか。作家は、当時の社会背景から、原因をロシアの「貴族階級の家庭の崩壊」とみた。
いつの時代にも不可解な自殺はある。ふと、思いだしたのは、昨秋、新聞の隅にあった小さな記事である。さわやかな秋晴れの朝、郊外にある、ある薬科大学の芝生の上に、2人の女性がうつぶせで倒れていた。彼女たちは、全身を強く打ち即死していた。校舎建物の12階から飛び降りたのだ。近くにＡ4版の紙に「人生に悔いはありません」と書かれたメモがあったという。2人は、この大学の19歳と20歳の女学生で、同じゼミだった。彼女たちは、なぜ自殺したのか。その
ニュースレター№80 2007――――――――4――――――――――――――
後の報道は知らない。1903年5月22日日光の華厳の滝に一人の学生が身を投げた。〈萬有の真相は唯だ一言にしてつくす、曰く「不可解」〉という有名な辞世の句『巌頭之感』を残して。東大生藤村操は、なぜ死を選んだのか。既に百年余の歳月が過ぎているが、いまも謎のままである。田中氏が紹介した、アルヴァレズの言葉「ドストエフスキーが19世紀と20世紀をつなぐ役割を果たすのは自殺によってである」とは何か。もしかして謎解きを示唆しているのかも知れない。だが、残念ながら時間となってその意味を知ることができなかった。
まとめとして氏はドストエフスキーの自殺観を、「理由無き自殺」や「自殺権」を否定しながらも「理由ある自殺」の容認した、とした。ともすれば暗い重いと敬遠されるドストエフスキーだが、この報告で、作家の精神の健康さをあらためて知った次第である。
このたびの報告で自殺について多くのことを知ることができた。氏に感謝します。
事務局だより
○ 「ドストエーフスキイ広場」16号は現在、鋭意編集中で、４月中旬までには刊行予定です。
○ 会の運営、編集作業は、主としてインターネットのメーリングリストを活用して、頻繁に打ち合わせながら、行っています。メーリングリストの管理＝堤、「広場」編集＝熊谷、小林、近藤、例会会場申し込み＝福井、ニュースレターの作成＝木下、印刷・発送＝下原、菅原、会計＝渡辺といったメンバーによる分担作業です。この体制はうまく機能していて、民主的で、透明性が高く、効率的といえます。5月以降の次年度にかけて、次回総会ではこの体制の反省、再評価がなされることになるでしょう。
○ 第13回国際ドストエフスキー・シンポジュウムが、7月3日～8日まで、ハンガリーの首都ブタペストで開催されます。日本から参加者のリストにあがっているのは、本会の小林銀河、尾松亮、木下豊房、それに札幌大学の鈴木淳一の各氏です。
（木下豊房）
ドストエーフスキイの会
ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.79
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第1７８回例会のご案内 下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 報告者：田中元彦 氏 題 目：ドストエフスキーと自殺
＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
報告者紹介：田中元彦（もとひこ）氏
昭和12年
山一証券、日本電気、NECシンガポール、NECソフトウエア勤務を経て平成
11年定年退職。平成７年～９年法政大学工学部非常勤講師、平成10年～14年青山学院大学大学院非常勤講師。平成11年太平洋美術会会友推挙、平成14年退会。平成16年ドストエーフスキイの会入会。
ニュースレター№79 2006 ――――――――2―――――――――――――
第178回例会報告要旨
ドストエフスキーと自殺
田中元彦
ドストエフスキーの四長編、『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』の主要モチーフは殺人と自殺と言っても良い。何れの作品でも主人公が殺人か自殺を犯す筋立てになっている。『罪と罰』ではスヴィドリガイロフの自殺のほか点景人物６人が自殺または未遂であり、『白痴』ではイッポリート、『悪霊』ではマトリョーシャ、キリーロフ、スタヴローギンが自殺している。
欧州ではキリスト教普及以前は自殺は容認され、老衰や病気で死ぬのを恥辱とし自殺する風習すらあった。原始キリスト教時代でも殉教としての自殺は容認されたが、４５２年のアルル公会議以降は自殺は禁止され、宗教法で破門・埋葬拒否が行われた。宗教改革後は国法（刑法）で自殺罪が規定され、自殺罪が抹消されたのはナポレオン法典を嚆矢とし、最後は英国の１９６１年である。
１９世紀には自殺に関わる諸環境の変化があった。精神医学の発達し自殺との相関関係が論じられ、刑法の責任能力理論の採用と相俟って自殺者の自殺罪適用救済が計られた。また人権に自殺権が含まれるという主張、安価な蒸留酒製法、自殺の増加と自殺学の確立などもある。これらの諸問題を概観し、こうした変化を受け『作家の日記』に示されたドストエフスキーの自殺観も絶対的否定（ロシア正教）から条件付き容認へと変化している。以上を考慮しながら、発表では作品に現れた自殺者の死に方、背景、原因などを検討する。
――――――――――――3――――――――――ニュースレター№69 2006
第176回例会傍聴記
下原敏彦「団塊世代とドストエフスキー」を聴いて
福井勝也
大変メモリアルな例会発表であったと思う。発表者は、長年にわたって「全作品を読む会」の方も主宰し続けてくださっている、皆さんご存知の下原敏彦氏であった。今年、３月に著作『ドストエフスキーを読みながら－或る「おかしな人間」の手記』（鳥影社）を出版され、最近10月には、「ドストエフスキーとギャンブル」というテーマで『別冊國分學』にも氏らしい名文を寄稿されている。「ご存知」のとか、「氏らしい」などと気安く書いたが、実は今回、氏の著作を読み、発表を聴かせていたただいて、下原氏個人（そして勿論「団塊世代」）について改めて気付かされ感心させられることが多かった。とにかく著者の味のある文章に魅了された後で例会に参加させてもらい、下原氏の30年以上のドストエフスキー（文学）との因縁が世代論的な枠組みを与えられて新鮮なものとして甦った。
氏は、1947年の早生まれで、私自身は７歳程年下である。当然、資料として頂いた＜団塊世代の青春時代＞ともややずれている。しかし今日、４０年近くが経過してその世界史的画期年と認識されるに至った＜１９６８年＞前後に起きた歴史的変化の余波を肌で感じた世代の者として、ピックアップされた年表の出来事を切実な思いで振り返った。会場には、＜団塊世代＞を70年安保世代とすれば、それ以前の＜60年安保世代＞から団塊ジュニア世代、さらにそれ以降の年代の若い人たちまで含んでまさに盛況であったと思う。このような「場」が一体、現在の日本のどこに出現可能だろう。下原氏の発表（その資料代読を手伝われた近藤氏の意味ある誤読も含めて）に世代を越えてそれぞれの思いで聴き入ることができたのは、まさに＜ドストエフスキー＞というテーマを共有できたからであろう。それは単に客観的な世代論が語られたからではなく、下原氏個人の「ドストエフスキー体験」に裏打ちされた＜歴史語り＞が成立していたからではないか。例えば、「三島事件」と氏の遭遇も、殉死した（いや、下原氏から言えば三島に殺された）友人、森田必勝氏への鎮魂の気持ち無くして語りえないものとしてあった。氏は、1969年に発足した「会」発足の言葉も引用されていたが、まさに＜ドストエフスキー＞を間にして対話を継続しようとする精神とは、結局は個々人の内心に記憶として沈殿した出来事が、ドストエフスキーの文学の言葉と共鳴するという現象を通してしか生まれ得ないものなのだろう。下原氏は、先に触れた「ドストエフスキーとギャンブル」で書いている。ﾄﾞ氏がギャンブルという「嗜癖」から脱出できたのは、アンナ夫人の愛情ある見守りであって、人間を救うのは、神でも思想でも主義でもない「かわいそうだと思う心」だと。「カラマーゾフの兄弟」の主人公アリョーシャこそその「心」の具現化された姿であったと。「会」を「世代」をそして「自分」を振り返る良い機会があたえられた。感謝！
ニュースレター№79――――――――4―――――――――――――――――
事務局だより
○ サンクト・ペテルブルグの博物館から届いた、最新ニュース。
１）曾孫ドミトリー・ドストエフスキーに3人目の女の子マリアちゃんが、11月23日に産まれたそうです。体重5000グラム、身長48cmの大きな子。
２）今年はドストエフスキー一族が歴史上の記録に登場して500年の記念の年ということで、私が参加した8月末のダラヴォーエの学会、恒例の作家生誕日11月11日を中心とするペテルブルグ博物館での学会も、これの記念をうたっています。ペテルブルグでは学会の最終日に高等音楽院のホールで、大々的にコンサートが開かれ、ドストエフスキーが愛したモーツアルト、ベートーベン、チャイコフスキー、ムソルグスキーが演奏されたということです。
３）10月6日にはペテルブルグのスモレンスキー墓地で、ドストエフスキーの弟アンドレイ・ミハイロヴィチの墓が再建され、またオフチナ墓地にはドストエフスキーの息子のアリョーシャの墓が昔あった場所に記念板が設けられたとのことです。
○2006年8月末のダラヴォーエの学会に私が出席して、その時撮ったデジカメのメモリーを、宿泊先のロシア人友人の家に、うっかり忘れてきましたが、それを郵便で送ってもらいましたが、3ヶ月かかってようやく先日到着しました。珍しい写真を、近々、ホームページで公開します。お楽しみに！
○「広場」16号の編集は間もなく、本格的な編集作業に入ります。刊行は例年通り、4月初～中旬の予定です。
（木下豊房）
ドストエーフスキイの会
ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.7８
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Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky
Society 2006.10.25
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第1７７回例会のご案内 下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 報告者：下原敏彦 氏 題 目：団塊世代とドストエフスキー ―なぜ、柳の下に二匹目のドジョウはいるのか―
＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
報告者紹介：下原敏彦（しもはら としひこ）氏
1973年11月第28回例会に初参加。74年3月「ドストエーフスキイの会」入会。99年、会発足30周年記念シンポジウムで「透明な存在の正体」を報告。現在、編集委員として活動する傍ら「全作品を読む会」で『読書会通信』を発行。日本大学芸術学部講師。土壌館下原道場主。著作に『ドストエフスキーとギャンブル』(別冊國文学06)『フセイン拘束『罪と罰』で正当性立証か』(朝日「視点」03)著書『ドストエフスキーを読みながら』(鳥影社2006)『伊那谷少年記』(鳥影社2004)。他に『山脈はるかに』写真集『50歳になった一年生』など。
ニュースレターNo.78 2006 ――――――――2―――――――――――――
第177回例会報告要旨
団塊世代とドストエフスキー
～なぜ、柳の下に二匹目のドジョウはいるのか～
下原敏彦
例会の帰り、二次会でほろ酔い機嫌の車内では、報告感想やロシア談議に花が咲く。今年の春、私が『ドストエフスキーを読みながら』を出版したときは、最近のドストエフスキー出版物が話題となった。「ドスト関係は本当に多いです」といった談笑の最中、木下先生が「どうしてドストエフスキーだけが、柳の下に二匹目のドジョウがいるんだろうね｣と、おかしそうに言われた。〈柳の下にいつも泥鰌は居らぬ〉のはず。が、ドストエフスキーに限って、二匹どころか何匹でもいる。それは、なぜか?ということである。ドストエフスキーの出版物を検索すると、確かにその多さがわかる。この作家の本だけが突出している。暗い、長い、くどいといわれて敬遠されているのに、何故にこんなに多くの出版物があるのか。改めて考えれば大いに不思議に思うところである。今回、報告する機会を得たので、木下先生が発したこの疑問を思い出し団塊世代の立場から考察してみることにした。
ドストエフスキーという柳の下にドジョウは尽きない。この現象をどう捉えるか。今夏、『広場15号』合評会で提議された「精神と肉体」をヒントとして探ってみたい。精神＝思考、肉体＝時代として。例えば、(『広場』15号、木下論文「武田泰淳とドストエフスキー｣を参照すれば)「戦後、何処からともなく現れ…次第に一ヶ所に集って」きた作家達(武田はじめ椎名麟三や野間宏)を、埴谷雄高は71年に「ドストエフスキー族(あるいは派)であることが明らかになった」と解いた。戦争という時代と殺人や思想に拘った彼らの個人的思考が一体化した結果といえる。各自が体験した「精神と肉体」が、彼らをドストエフスキーという大樹の下に引き寄せたのだ。
では、団塊世代のドストエフスキー好き(あるいは派)たちは、どのような時代と思考に影響されたのか。800万人いるといわれる団塊世代、一括りにするのは難しい。47年1月3日生まれの私の場合は70年前後に集約される。まだ、ドストエフスキーを知らなかったが、あの時代はドストエフスキーに憑かれる土壌となりえた。
あの時代、65年にベトナム戦争勃発、67年に革命の英雄ゲバラが死す、68年に学園紛争の火の手や三億円事件、70年3月に「よど号」事件、11月に三島事件。72年浅間山荘事件で陰惨な仲間同士リンチ事件発覚。団塊世代の青春は、過激と衝撃、そして懐疑に満ちた時代だった。理想と現実の混濁。若者は翻弄され諦めと悲劇の道を辿った。この波瀾の時代にドストエフスキーは多く読まれた。ちなみに会が発足したのは、この頃1969年のことである。はじめて参加した例会は、立ち見ができるほど熱気があった。水晶宮への憧れ。革命の嵐、非凡人や英雄主義の台頭、金権が支配する社会。世界はドストエフスキーが予見し警鐘した現実にあった。1922年革命最中のモスクワで開かれたドストエフスキー生誕百年祭でペレヴェルゼフは「現下においてこそ、ドストエフスキーを想起し」(『ドストエフスキーと革命』長瀬隆訳)再読しなければならないと訴えた。あの熱気は、まさにこの危機意識の表れではなかったか。が、結局はどの時代も顧られることはなかった。
新世紀の今日、世界は混沌としている。再びぺレヴェルゼフの言葉を想起しなければならない時代にある。ドジョウの多さはそれを物語るのか。「団塊世代とドストエフスキー」を考察することで、その現象との関連が解明できれば幸いである。
団塊世代の青春はドストエフスキーを示唆する出来事で溢れていた。私の場合、体験に後押ししたのは精神としての柔道である。報告では、「柔道」と柔道のヒーロー「姿三四郎とドストエフスキー」の関係も明らかにしたい。
ドストエーフスキイの会
ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.7７
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Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky
Society 2006.８.20
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事務局・〒273―0853
（Tel＆Fax：047-448-9213）
Home page:
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第1７６回例会のご案内
下記の要領で例会を開催いたします。今回は『広場』15号の合評会となります。 皆様のご参加をお待ちしています。 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 掲載主要論文の論評者 越野論文：『悪霊』におけるコレラのイメージと権力の問題――下原康子 近藤論文：ドストエフスキーの初期作品におけるсердце(heart) について ―――池田和彦 木寺論文：悪魔とメフィストーフェレス、イワン・カラマーゾフとファウスト ―――近藤靖宏 五島論文：ドストエフスキー作品における神、人間、自然の位置 ―――福井勝也 木下論文：武田泰淳とドストエフスキー ―――熊谷のぶよし 司会：小林銀河 ＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
ニュースレターNo.77 2006 ――――――――2―――――――――――――
第175回例会傍聴記
「アリョーシャ･カラマーゾフの課題と達成」
木寺 律子
熊谷氏は小説の読みこみが大変深い方で、いつも私は感服している。今回は『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャに焦点を絞っての発表で、熊谷氏は２時間半にわたって途切れることなく熱く語られた。熊谷氏の発表内容は多岐にわたり、指摘も数多くあったので、そのすべてをここに書き留めることは不可能だが、私が特に関心を持ったことを中心に書いていきたい。
熊谷氏は、小説の中で、アリョーシャの身に起こる出来事を、帰郷、イヴァンとの対話、ゾシマの説教、ゾシマの腐臭、一本の葱の寓話、カナのビジョン、父フョードル･カラマーゾフの死、ニーノチカの言葉、別れの言葉と、順を追って挙げ、アリョーシャという人物が、小説中のさまざまな出来事にどう反応し、どう変化していくかを丹念に考察した。
ひとりの人物に沿ってさまざまな場面を考察していくという熊谷氏の方法に、私は賛成である。熊谷氏は、これは登場人物の気持ちを想像するという小説を読むときの基本的な方法で、小学生でもする一番素直な読み方であると説明されていたが、私には、これは人物の心理の考察にとどまらず、小説の構造全体を分析することにつながる重要な方法であると思われる。『カラマーゾフの兄弟』に描かれる様々な場面は、その思想の深さのために、それぞれ独立した価値を持つものとして取り上げられることが多いが、イヴァンやアリョーシャといった作品中の人物にとって、様々な出来事や語られる思想は相互の影響関係を持って受け止められているはずである。ひとりの人物の心理にとってそれぞれの出来事や思想が関連しているなら、その関連に目を向けることで、個々の出来事や思想の解釈にも新たな意味が加わり、新たな発見が期待される。
熊谷氏によると、ゾシマの指示に従って行動する人物であるアリョーシャも、イヴァンとの対話、ゾシマの腐臭、父の死や兄の逮捕といった事件を体験し、自分が行おうとした実行的愛にも失敗し、これらを乗り越えて変化していく。
私は、アリョーシャに起こるさまざまな出来事の中でも、修道院との訣別の意義を強調したい。『カラマーゾフの兄弟』という小説は、修道院での思弁的な対話と町で起こる世俗の事件が対になっている。アリョーシャというひとりの人物の変化という点においても、修道院から社会へ出るということは、彼の漸次的な変化の中でも節目になっている。
発表の後半では、アリョーシャがグルーシェンカから一本の葱の話を聞く場面の考察に多くの時間が割かれた。熊谷氏は、アリョーシャのすべての人に対してあらゆる人を赦したいという考えを、自分が他者に対して、他者が自分に対して、他者が他者に対して、自分が自分に対しての４つに分けて厳密に考察した。他者
が他者に対してなす悪、つまり、イヴァンがアリョーシャに語った、犬に子供をかみ殺させた領主を赦す事ができるかが、この中で最も難しい問題である。熊谷氏はイヴァンの語った話を、一本の葱の話と関連付けて考え、アリョーシャにと
ってこの話は別のテーマではないはずだと捉える。私には、『カラマーゾフの兄
――――――――――――――3――――――――ニュースレターNo.77 2006
弟』のテーマ全体を考える上でこれは重要な指摘であると思われた。
アリョーシャの顔がゾシマの兄マルケルと似ていることについての熊谷氏の考察は大変興味深いものであった。熊谷氏によると、アリョーシャはゾシマからの愛を受け入れているが、アリョーシャはゾシマからマルケルの話を聞くまで、ゾシマの自分への愛の理由を知らない。自意識の強い人間は愛されることが苦手で、それは他人の意識が自分に入り込んでくるからであり、その例はスタヴローギンやイヴァンなどであるが、アリョーシャはゾシマの愛を受け入れているのである。更にアリョーシャは、マルケルと自分が似ているという、ゾシマの自分への愛情の理由も恐れずに受け入れる。熊谷氏によると、ドストエフスキーの作品には、ほかにもラスコーリニコフがソーニャの顔にリザヴェータの顔を見るといった場面がある。ゾシマの指摘ではアリョーシャの顔は人の役に立つものであり、ミーチャに必要なものだから、アリョーシャにミーチャのそばにいるようにと言う。ミーチャにとって必要なアリョーシャの顔とは、つまり、マルケルの顔である。アリョーシャはこのようにして、自分が知りもしない人物ですでに亡くなっているマルケルの役割を、ゾシマやミーチャといった他者に対して担い、自分のすべきことをなすのである。
人の顔を見ることによって他の人物のイメージを思い起こすという問題は、死者を想起するという事と関連して展開される。アリョーシャは幼いうちに死に別れた母のことを覚えていて、熊谷氏はこれを「母の映像記憶」と名づける。また、アリョーシャはガラリヤのカナの場面で、亡くなったゾシマの姿を見る。熊谷氏は、他者の他者に対する悪を赦さないと、亡くなった身近な人物の美しい記憶を持つことができないのではないかと結論付けた。この人物の顔の意味の問題は大変興味深いものであったが、更に発展、充実させることが可能で、熊谷氏の新しい考察が待たれる。
全体として熊谷氏の発表は、『カラマーゾフの兄弟』という作品そのものを読み込むことで、まだまだ新しい発見がありえるのだという驚きと希望を私に感じさせるものであった。
事 務 局 だ よ り
○
俳優座10月公演「罪と罰」のチラシを同封します。10月5日から15日までの
公演ですが、ドストエーフスキイの会会員は、通常5250円のチケットを4500円の割引でご覧になります。なお、10月7日（土）1時30分からの公演後、出演者、関係者との交流会を予定しています。当日の観劇は、さしあたり、20名ほどの席を用意しています。交流会は紀伊国屋ホール近くの居酒屋で、会費3000円ほどで考えています。
交流会参加は、他の観劇日の人でも構いません。チケット、交流会の参加希望は早めに申し込みください。申し込み先は事務局メール：tkino@chiba.email.ne.jpまたは葉書、電話・ＦＡＸでお願いします。締め切りは9月20日といたします。
ドストエーフスキイの会
ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.76
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Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky
Society 2006.6.25
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第1７５回例会のご案内 下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 報告者：熊谷のぶよし 氏 題 目：アリョーシャ・カラマーゾフの課題と達成
＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
報告者紹介：熊谷のぶよし 氏
東京生まれ。妻有、子ども二人。地方公務員。過去の例会にて
「＜嗜癖＞をとおしてミーチャを読む」「『永遠の夫』を読んで」を発表した。
現在「ドストエーフスキイ広場」編集担当
ニュースレターNo.76 2006 ――――――――2―――――――――――――
第175回例会報告要旨
アリョーシャ・カラマーゾフの課題と達成
熊谷のぶよし
ドストエーフスキイ作品の主人公は、従来次の二点で特徴づけられていたように思う。①声としての存在であること。②変化しないこと。たしかに彼らは多く語り、そのテーマは人間に解決不能なものであり、したがって彼ら自身もその前で同じ姿で立ちつくす以外にないように思われる。しかしプロットに着目して作品を読むと違うものが見えてくる。例え永遠の問題を論ずるときでも彼らの声は自分が経験してきた出来事を背景に発せられたものであり、解決不能と見える問題に直面しているにしても現実の出来事の中で彼らのあり方は変化していく。ドストエーフスキイは出来事の中で、主人公達の変化を描いているのだ。
今回取り上げる、アリョーシャ・カラマーゾフは、ドストエーフスキイの作品の中で、プロットと主人公の関係を考察するのに最良の人物であると考えられる。かれは、イワンやミーチャのように直接自分の思想を表明することはなく、ただ、遭遇した多くの出来事の結果、ガリラヤのカナのビジョンにおいて回心を経験する。かれは、声の少ない、筋立ての中に自分の居場所を得ている主人公なのだ。
そのためか、従来アリョーシャの位置づけは、他の主人公にその思想を表明させるための媒体、場面展開の狂言廻しの役割をになうものと認識されてきた。そうでなければ、われわれとは一線を画した無条件に善なるもの（未熟であるが）とされてきた。しかし、アリョーシャは、小説展開上の便宜的存在ではないし、われわれと異なった次元の存在でもない。彼は、読者にはよくわからないが彼にとってはやむにやまれない動機によってこの物語に登場し、やはり読者には不明なしかたでその課題を解決した。奇妙であるが、少なくとも、彼こそは首尾一貫したテーマをになうこの小説の真の主人公なのだ。
一見不明であるアリョーシャの抱える課題は、小説の中で事実に係わる記述をひろいあげていくと明瞭になる。それは、「不死の問題」であるが、ただし、我々がそれを思い浮かべるときの問題のあり方とは異なっているかもしれない。子どもの頃からアリョーシャの心を占めてきた謎は、死んでいるにもかかわらず生きているがごとくに思い浮かべられる母親のヴィジョンである。つまり、アリョーシャにとっての不死の問題とは、イワンと異なり、不死があるとしか思えないことの不思議さの解明なのだ。アリョーシャにおいては、死者を思い浮かべることの不思議さが謎として問題にされており、それは、同時に我々の生における死者の想起という奇妙な出来事とも結びついている。
プロットによって、作品を読んでいくにあたって、＜現実的洞察＞と＜マトリクス思考＞の二つの方法を用いる。＜現実的洞察＞とは、このような事実を経験したのなら主人公はどのような気持ちになるだろうか、というような推論である。ドストエーフスキイは出来事の結果として、主人公がどんな気持ちになったのかということを敢えて書かない。しかし、ドストエーフスキイの構成するプロット
が示唆するものは、そうした推論である。宗教的回心と同じ夜に父親が殺されていたことを知った人間には、どんな衝撃がはしっただろうか。その後、平静さを
――――――――――――――3――――――――ニュースレターNo.76 2006
崩さず、偶然知り合った死にかけた子どもの面倒を見、兄の無実を信じつづける
人間の意志とはどういうものだろうか。私の想像はそうした事態にくぎ付けになる。同時にそうした読み方がナイーブで小説のコードを逸脱しているかもしれないという自覚もある。
しかし、通常、小説のようには滅多に心情を述べない現実の人間に関する洞察は、こうした事実からの推論よって行われている。もしも、アリョーシャのような経験を経た人間を目の前にしたのなら誰しも驚きを持って眺めるのではないだろうか。私自身は、ドストエーフスキイは、小説の中でプロットによって、小説のコードを逸脱する＜現実的洞察＞を読者に要請しているのだと確信している。こうした読み方を除外するとき、アリョーシャはまさに付け足しのような登場人物に見えてくるのだ。
ドストエーフスキイの操るロジックは、各命題が明確に直線的につながる姿をとらないが、決して混乱しているわけではない。「一切に対しすべての人を赦」すと、アリョーシャが心に叫ぶとき、その言葉は、彼の心の中で、①自分が人に対すること、②人が自分に対すること、③人が人に対することに分節化されている。その中で③人が人に対する悪の問題が、イワンとの議論以降、ゾシマの汚辱を通して、アリョーシャの心にのしかかっていた問題であったことがまず自覚されている。①と②は自己が当事者として関与できる。③は他者の問題で関与できない。せいぜい「死刑にすべきです」と叫ぶことしかできない。この自分が関与できない問題に関与し「赦し」という解決の権限を手にしたという認識が、関与可能な事態と③の差異をなくした「一切に対しすべての人」という表現となっているのだ。この例のみならず、ドストエーフスキイの論法は、場合分けの要素を投げ出すような形で記述されることが多く、それが論理的混乱のように見えるときがある。しかし、そうした要素に基づいてマトリクスを作成すると、それらの言説は整合性を保ちつつ多くの情報を含んでいることが分かる。プロットはこうした形態の論理によって整理されている場合がある。発表ではケースに応じて表を示し説明することになる。
発表では、「一本の葱」「ガリラヤのカナ」の章の展開を、アリョーシャの課題の顕在化と答え獲得のプロセスとして考察する。予定されるポイントを以下に記す。
１、 一本の葱におけるアリョーシャとグルーシェンカの出会いを、死んだ母の映像記憶の介入を背景に考察する。
２、 「一本の葱」の話を悲劇ととらえ、それを語るグルーシェンカのコンテキストの中での意味を明確にする。そこで語られる善行の超越性について、善行と原罪の同型性を軸に考察したい。
３、 「一本の葱」と「ガリラヤのカナ」の間に存在する、二時間の空白を証明し、その解釈についての仮説を提示する。
４、 「ガリラヤのカナ」における、イワンとの議論の決着を考察する。
５、 アリョーシャ・カラマーゾフが「戦士」になったという意味を二重性の観点からとらえる。その際、ゾシマの兄マルケルの顔の内面化を一つの契機として考察する。
６、 第二部のアリョーシャを想像してみたい。それは、宗教的な回心と父の横死という実行的愛の破綻を同時に経験した人間の決意のあり方を想像す
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ることになる。
長い間私には、このシークエンスはセンチメンタルな失敗にしか見えなかった。しかし、そういい切るにはドストエーフスキイは偉大すぎる。今回、上記のような問題意識によって、別の光を当ててみた。固い言葉を連ねてしまったが、小学生が初めて物語を読むときの想像力を駆使したい。「こんなとき主人公はどんな風に思うだろう」。年末に見たドラマの女教師の言葉をかりれば「イメージできるかしら」である。
第174回例会傍聴記
『貧しき人々』におけるセンチメンタリズム―風景描写と人物描写
近藤 靖宏
今回の報告に先がけて私は初めて『貧しき人々』を読んだ。それにしてもドストエフスキーの作品は風景描写のいかに少ないことだろうか。それがドストエフスキーの特徴なのだと我ながら勝手思い込んでいた節があったので『貧しき人々』についても人物描写にばかり気をとられて主人公、マカール・ジェーヴシキンの人柄の中にいわゆる「地下室人」的な要素を見いだしたりして一人悦に入ったりしていた。
しかし今回の報告はそんな私に（いや私に限ったことではないと信じる）とってドスエフスキーの別の側面を提示してくれているかもしれないものであった。ドストエフスキーの作品の中にも、風景描写（殊に田舎の田園風景を基調とした）があり、それによって作中人物の心情などを巧みに表現する手法が用いられている、という作家あるいは洋の東西を問わず、ごく普通に小説の中に見られる事象に目を向けさせるいいきっかけとなりうる内容であった。
ただし、傍聴者の受止め方と発表者の意図とは区別されなければならないだろう。発表者が論証したい点は、ドストエフスキーの作品『貧しき人々』の中にカラムジンに代表され、ある時代にロシア文学界を席捲した「センチメンタリズム」の手法が随所に見られるということだ。「センチメンタリズム」が、あまりになじみの無い用語ゆえ発表後司会者よりそれに関する補足的説明、質疑応答の始めの基礎的事実に関する質問が必要とされ、事実そのとおりに例会は進行した。
ここで今回の例会に参加出来なかった傍聴記の読者のために多少解説めいた事を言うならば、カラムジンとはプーシキンよりも前、１７９０年代に代表作「哀れなリーザ」を著し、当時のロシア文学界の形式重視、古典主義的傾向から生きた人間感情の表現、虐げられた庶民への同情などを基調としたセンチメンタリズムの先がけとなった人物である。カラムジンの影響力は大きく１７９０年代から１８２０年代はカラムジンの時代であったとも言えるそうである。当時の文章語に口語の要素を取り入れる、日本でいう「言文一致」への貢献もあるという。
（この段落は、『ロシア・ソ連を知る辞典（平凡社）』『ロシア文学思潮（三省堂、米川正夫著）』による）
発表は一貫して帰納法とでもいうべき方法により進められた。『貧しき人々』
の中からセンチメンタリズム特有の表現方法が見られる個所を指摘、いかに随所にそれが見い出せるか、またそれぞれの描写（殊に田舎の牧歌的な風景描写）が
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登場人物のいかなる感情を表現しているかを解説していくというものだった。中でも私の興味を引いたのはぺテルブルグの夜の風景描写である。『貧しき人々』をはじめドストエスフスキーの作品の中でぺテルブルグが舞台となっているものは数多い。ただプラスの感情にはなりにくいらしい。薄暗い、じめじめした、汚れた・・・、で形容される。田舎の美しさ、牧歌的な、と好対照にされてしまうのか、それともペテルブルグの街の特徴なのか。資料には有益な、他では入手困難な付録がついている。「センチメンタリズム作家カラムジンの作品の抜粋」である。いわばセンチメンタリズム特有の表現方法の標本とでもいうべきだろうか。これらの表現を覚えておけば今後何らかの作品を読んだときその中にセンチメンタリズム特有の表現を見出すことが出来るかもしれない。そのような作品は、あるいは作者はセンチメンタリズムの影響を受けているものと推定出来るのだ。
さて、『貧しき人々』の中にセンチメンタリズムの影響が見られるとして、それが何を意味するのか。その問題が質疑応答に持ち越されたように思える。
『貧しき人々』をはじめとするドストエフスキーの初期作品は、ゴーゴリの影響を強く受けているというのが定説である。特に『貧しき人々』はゴーゴリの『外套』のパロディであるという説もあるし、ドストエフスキー自身、我々はゴーゴリの『外套』から生まれたのだと公言している。だとすると『貧しき人々』に見い出されるセンチメンタリズムはゴーゴリを通してドストエフスキーに受け継がれた、とも考えられる。そこで私は今回の傍聴記を書くにあたり『外套』を読んでみた。が、少なくともセンチメンタリズムをその中に見い出すことは出来なかった。今回の発表の理解にはこの方向からのアプローチは有効ではないようだ。私自身は時代順にカラムジン→プーシキン→ゴーゴリのような直線的な発展段階を想起したのだが・・・。
さまざまな議論の中、一つの重要な指摘が傍聴者からあったのを記憶している。『貧しき人々』の主人公マカール・ジェーヴシキンは役所で浄書係をする傍ら、隣人の文学好きの官吏の影響もあってか彼自身も小説家になれるのではと密かに思っている夢想家なのである、ということだ。この点をもとに推論していくと、小説家志望の者なら当然に一世を風靡したカラムジン作品に触れているはずであり、その手紙の中にも「文学的に」書いてやろうという主人公の意識からセンチメンタリズムらしい表現が現れるのは至極当然ということになる。往復書簡の形をとる小説だけにこの指摘の正しさに対して反駁するのは困難だろう。
いずれにしてもドストエフスキーとセンチメンタリズムの関係について今、一つの結論を下すことは出来ない。議論の中、今後の課題としてドストエフスキーの第二作『分身』の中にもセンチメンタリズムは見い出せるか、という問題提起があった。都会を舞台とした小説の中でセンチメンタリズムの手法を発揮するのは困難なことだとは思うが、もし『分身』、あるいはそれ以後の作品のなかにそれが見い出せるとするならば、センチメンタリズムの再評価ともなり、ドストエスフスキー作品の新たな側面の発見ともなるはずである。発表者の今後の研究が期待される。
ドストエーフスキイの会
ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.7５
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Society 2006.4.20
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第37回総会と1７４回例会のご案内 下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 総 会 午後6時から45分程度、終わり次第に例会 議題：活動、会計報告、「広場」投稿規約の改正、活動計画、予算について 報告者：吴 楠 氏 題 目：『貧しき人々』におけるセンチメンタリズム ―風景描写と人物描写― ＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
報告者紹介：吴 楠 （ご・なん）氏
中国遼寧省瀋陽市出身。中国遼寧大学卒業。
現在東京大学大学院人文社会系研究科博士課程２年生。
19世紀ロシア文学と文化を研究し、18世紀ロシア文学と文化にも関心を持つ。
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第174回例会報告要旨
『貧しき人々』におけるセンチメンタリズム
―風景描写と人物描写―
吴 楠（ご・なん）
ドストエフスキーの初期作品はゴーゴリの影響を受け、当時流行していた「生理学的なもの」であることが多くの研究者によって指摘されている。初期作品の中の『貧しき人々』、『白夜』を対象とした批評や研究の中には、これらの小説のセンチメンタル性を指摘したものも少なくない。この報告のテーマは『貧しき人々』におけるセンチメンタリズムの風景描写と人物描写である。
一、風景描写
センチメンタリズムの作品において、風景描写は主人公、登場人物の繊細な精神世界と鋭い感受性を表現する重要な役割を果たしている。ドストエフスキーの初期作品における風景描写は、典型的な田園風景、ロマン主義的要素の強い風景、自然派の要素の強い風景の３種類に分けられるが、いずれもセンチメンタリズムの風景描写である。以上の３種類の風景描写を分析し、「人間と自然」「理性と感性」「外面世界と内面世界」「現実と理想」「善と悪」という対立した二つの要素を確認しつつ、ドストエフスキーのロマン主義的要素と自然派の要素の混在するセンチメンタリズムの風景描写について論じてみたい。
１．典型的なセンチメンタリズムの田園風景
（１）マカールの古いアパートの思い出における田園風景
（２）ワルワーラの幼年時代の風景
以上の二つの風景描写の特徴は牧歌的な色彩を持った田園風景であり、「黄金時代」という過去の風景である。そして、その描写には自然の美しさが見事に描写され、人間と自然の密接な関係が取り上げられている。理性より感情を重視する傾向が表され、ペーソス、共感、慈愛を中心とした情緒が強調されている。これは典型的なセンチメンタリズムの風景描写であるだろう。
２．ロマン主義的要素の強いセンチメンタリズムの風景―晩秋の村の風景
この晩秋の村の風景は、センチメンタリズムの叙述方式により描写され、三つの部分の対照と均衡を通じて、完全な風景描写に達している。叙情的、哲学的な文脈は小説の劇的な葛藤の深さを開示している。この風景描写は小説のクライマックスとなり、間接的な表現方法により、美の極致と生活の複雑さについての認識が具体的に示されている。
そして、この晩秋の村の風景描写は、楽園の光景、愛や夢、夜、メルヘンの世界、過去の世界への沈潜という形で描き出されている。主人公の現実からの逃避、理想世界への憧れ、エゴイズム、「自我」の解放、想像力、機知などはロマン主義的要素であるが、しかし、これらが「秋の風景」、「黄金時代」の過去の風景、「故郷の風景」といった典型的なセンチメンタリズムの基調で表現されている。また、ロマン主義的心境に宿るのは「憂愁」「孤独」「不安」「追憶のノスタルジア」などの感傷主義の情緒である。この晩秋の村の風景はロマン主義的要素の強いセンチメンタリズムの風景描写であると言えるだろう。
３．自然派の要素の強いセンチメンタリズムの風景―ペテルブルグの夜の風景
この風景描写においては自然派の要素が優位であるが、基本はセンチメンタリズ
ムの風景描写である。この描写においては、怖ろしい、汚いイメージが強調され、
――――――――――――――3――――――――ニュースレターNo.75 2006
貧しい人々の惨めな状態が鋭く描かれている。ドストエフスキーはここで細部描写の技法により、感傷的な基調を作り出し、都会の貧民窟の惨憺たる光景と主人公の哀愁の気分や同情心を詳細に描き出している。
ペテルブルグの夜の風景は表面的には自然派の風景描写と見られるが、実はこの風景描写の背後に、主人公の涙と慈愛が隠れており、主人公の現実社会に対する不満、将来に対する疑念や不安と絶望、下層民の不幸な境遇への同情、共感、憐みなどの感情的情緒と博愛の心境が何より強調され、切々と感じられる。これは自然派の要素の混在するセンチメンタリズムの風景描写であるといえるだろう。
女性の美
ここで取り上げたいのは『貧しき人々』の中で描写されている女性美である。女性の美についての描写はセンチメンタリズムの典型的人物描写である。女性の美は外貌の美しさ、精神の美、性格の美しさという三つの面から描写されている。外貌の美は、優しい目つき、顔の紅潮、紅い唇、豊満な胸などの特徴で描写されている。特に、優しい眼差し、微笑みなどの美しい顔の表情は美の特徴として強調されている。女性の心の美しさは、女性の文学への愛情、才気に富む知性、繊細な精神、鋭い感受性、理想の「楽園」への憧憬などの面から描写されている。性格の美は、無邪気さ、純真さ、素朴さ、おてんばさ、子供の気まぐれに似たいたずらっぽさを通して表現されている。一言で言えば、描かれている女性の美は理想的なものであり、センチメンタリズムの典型的な人物描写である。
第173回例会傍聴記
シンポジウム「ドストエフスキー文学における子供」
石田 里佳
春雨もそぼ降る夕闇に暮れた頃、例会が始まり、木下豊房氏による呼びかけの挨拶の後、四人の発表者からそれぞれ、興味深い報告がありました。
まず小林銀河氏のテーマは、『作家の日記』を中心に、ドストエフスキーが子供について、どのような視点を持っていたか。中でも特に注意をひいたのは、一方では無垢と未熟さを保ちながら、他方では大人びた知識や思想を身につけ、いとも簡単に危険へと飛び出してしまう、思春期の子供達の危うさ、を指摘している部分でした。しかしそうした彼らが、そのまま道を踏み外してしまおうとするのを引き止めるものは、揺るぎなく尊い、子供の頃の想い出である、とも。
この「子供の頃の美しい想い出」とは何かというテーマを、話の流れとしてさらに追究されたようであるのが、次の発表者、熊谷暢芳氏のお話でした。『カラマーゾフの兄弟』の中で、アリョーシャにおける母の記憶、ゾシマにおけるマルケルの死、旧約のヨブ記、子供達が共有したイリューシャの死、それらを通して、受け継がれていく記憶の核。そこにあるのは暖かさだけではなく、避けえぬ悲劇、死と繋がっている事で、限りあるからこそ輝き、まさに一つ一つがかけがえのない、全体として命が存在している事。それは、現世的な諸現象によって変化する、表面的な善悪の価値観ではなく、根源的な意味での生命の意義を照らす光
であり、世界とその一部である自身への、深い愛情と信頼感になっている。そしてこの超越的なる光に触れる体験は、人生の早いうちほど感得しやすい。そのような趣旨だと、私は受
けとりました。
一転して、では逆にこの聖なる光に触れるような体験を持ち得ず、傷つき彷徨い続ける子
ニュースレターNo.75 2006 ――――――――４――――――――――――
供達はどうなるのか。ドストエフスキー文学におけるそうした少女像、『悪霊』のマトリョーシャ等をめぐる問題を取り上げられたのが、次の発表者、福井勝也氏でした。キーワードとしてマゾヒズム、淫蕩等のショッキングな用語が挙がり、その解釈、状況的な用法等について会場内でも論議がありました。
個人的には、ここで主に取り上げられた少女達に見られる自虐性というものには、復讐を求める怨念に近い叫びが宿っている気がします。感情は、それ自体が本人の心中で、あるべきままの姿で受容され、解決されぬ限り、何度でも反復し再現されるものだそうです。例えば、残酷な仕打ちをする親や、自分をとりまく世界そのものへ、憎悪や怒りを感じても、幼い子供は大抵の場合、その対象へ直接、そうした感情をぶつける事ができません。逆にその子は、悪いのは自分の方だと思い込まされ、そうした感情を持つ事自体、罪深いと教え込まれている。すると今度は、そうした行き場のない激しい感情は、救われぬ絶望と不条理感を生み、反転し内攻して、同じだけの憎悪のエネルギーを、自分自身に向けてしまう事になる。相手を呪い、世界を呪うがあまりに、自分を傷つけてしまうわけです。その、自己を傷つける行為自体が、相手への究極的な復讐表現となっている。
いずれにせよ、人生のあまりに早い段階で、その無垢さかげんを無惨にも打ち砕かれてしまうような体験をすれば、その子はその精神に受けた重い傷を、生涯かけて癒やすために、大変な十字架を背負って生きる事になるでしょう。
最後の高橋誠一郎氏のテーマは、作者本人の伝記的事実と対比しつつ、『貧しき人々』における親子関係を見てみようというものでした。ここで氏は、亀山氏による「父殺し」という視点からドストエフスキー文学全般を読み解こうとする試み、についても分析されています。私自身はこの問題も、両刃の剣である怒り・恨み・呪う感情が、父親本人へ直接に向かえば、殺人という具体的復讐になるが、それ以前に自己内部へ反転すれば、ポクロフスキーやネリーのように、自己破滅的なまでの模索を選ぶ事になるのかもしれない、と思いました。作者自身の経年変化やロシア情勢の推移によっても、これらバリエーションのどれに重点が置かれたかは、変化したらしいという事も。
更に福井氏による、ドストエフスキー文学を読み解く上での〈宗教的マゾヒズム〉という提示が、個人的には興味深かったです。確かに、中東砂漠という過酷な自然環境を発祥とする一神教は、その本質に、犠牲の精神を尊ぶ自虐的なまでの厳格さを包含している。多神教が一般的に、混然多様な生命の満ちあふれる、豊穣なる世界への賛歌、とでもいうべきものであるなら、一神教はその根底に、生とはそもそも厳しく、過酷なる現実を生き抜く事である、という厳然たる認識があるような気がします。
苛酷な環境が必然的に、犠牲を求める精神を形成するものであるなら、そしてそれが、怒りや憎悪に支配され、他者へと向かえば、十字軍や聖戦等という言葉を借りて惹き起こされた、攻撃性・排他性ともなり得るでしょう。しかし、同じこの犠牲を求める精神が、あの超越的な光のイメージに照らされ、自己も他者をも一つのものとして繋がり内包する、世界そのものへの愛に根ざして発露される時、キリストの磔形に象徴されるような、〈愛による自己犠牲〉という、宗教感情の中核ともなり得るのだろうと思います。
この、どちらともなり得る光と影の、心象変化の様々のバリエーションが、ドストエフスキー文学における登場人物達の多様性を、下支えしているようにも感じました。
事務局だより
発足37年目の総会です。息の長い会ですが、これは上意下達の組織ではなく一貫したネットワークの精神によると思われます。大事にしていきたいものです。今回の総会、「広場」投稿規約細則の改正が議題です。パソコン入稿を原則とし、編集部に入力を依頼する場合には、所定の入力料を払っていただくという案です。（木下）
ドストエーフスキイの会
ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.74
News
Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky
Society 2006.3.1
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事務局・〒273―0853
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第1７3回例会のご案内 下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。 今回は4人の発言者によるシンポジュームの形式でおこなわれます。 テーマ： ドストエフスキー文学における子供 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 司会： 木下豊房 氏 発言者：小林銀河氏 『作家の日記』における「子供」のテーマ 熊谷のぶよし氏 『カラマーゾフの兄弟』における子どもの頃の宗教体験 福井勝也氏 ドストエフスキーにおける「少女」という問題 高橋誠一郎氏 子供から見た父親像―『貧しき人々』を中心に
＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
ニュースレターNo.74 2006 ――――――――2―――――――――――――
シンポジュームへの呼びかけ
ドストエフスキー文学における子供
木下豊房
ドストエフスキーの作品では、大人の激情的なドラマの世界と並行して、それに翻弄される子供の世界が描かれることが、しばしばです。それは例えば次のような主題やテーマで表現されています。
１）自我意識の芽生えと大人の世界の秘密へのロマンチックな好奇心（ネートチカ・ネズワーノワ、『小さな英雄』の主人公など）
２）無責任な大人に振り回される孤児の不幸な運命（『虐げられし人々』のネルリ、『永遠の夫』のリーザ）
３）身勝手な大人の欲望の対象とされる子供達（『クリスマスと結婚式』の少女、『白痴』のナスターシャの少女時代、『悪霊』のマトリョーシャ）
４）回想の形でのユートピア的、あるいは宗教的幻想（『貧しき人々』のワルワーラの思い出、『カラマーゾフ』のアリョーシャの母親のイメージなど）
５）偶然の家族のテーマにつながる生育期の「父親不在」の問題。私生児意識の問題。（『悪霊』のスタヴローギン、『未成年』のアルカージイ、『カラマーゾフ』のイワン、スメルジャコフなど）
６)無垢なる魂の持ち主の子供達への影響力とその精神的共同体意識の萌芽（マリーをめぐるムイシキンと子供達、アリョーシャと少年達）
ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の最終ページで、少年達を前にしてのアリョーシャの演説を通じて、作家の思想の真髄ともいうべき言葉をこう語っています。
「総じて楽しい日の思い出ほど、ことに子供の時分、親のひざもとで過ごした日の思い出ほど、その後の一生涯にとって尊く力強い、健全で有益なものはありません。諸君は教育ということについて、いろいろやかましい話を聞くでしょう。けれど、子供の時から保存されている、こうした楽しく神聖な思い出こそ、何よりも一番よい教育なのかもしれません。過去にそういう追憶をたくさんあつめたものは、一生すくわれるのです。もしそういうものが一つでも、わたしたちの心に残っておれば、その思い出はいつかわたしたちを救うでしょう。＜･･･＞この一つの追憶がわたしたちを大いなる悪からまもってくれるでしょう。そして過去を顧みて、『おれもあの時分は善良だったのだ。大胆で潔白だったのだ』ということでしょう。」（米川正夫訳全集、382～383頁）
人間の魂にとって、子供時代の思い出、追憶がいかに重要であるかを、ドストエフスキーは世を去る半年程前におこなったプーシキンについての演説でも、『エウゲニー・オネーギン』のタチャーナにふれて、こう語っています。
「絶望のなかにあっても、自分の生涯は滅びたという悩ましい意識の中にも、彼女にはなんといっても、魂の寄りかかる強固なゆるぎなきなにものかがある。それは彼女の少女時代の追憶である。彼女のつつましい清らかな生活の始まった、淋しい田舎にある故郷の思い出である <･･･＞ それは完全な土台であり、一種
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ゆるぎない、破壊しがたいなにものかである。そこには故郷、郷土の民衆、その
聖物との接触がある」（『作家の日記』下、422頁）
最晩年の作家の言葉で明確に浮かび上がるこのような人間観・人間理解こそ、ドストエフスキーの全創作を解き明かす鍵といえるかもしれません。すなわち、当時の農奴制地主社会の支配・被支配関係を背景として、ほとんどの主人公が家族や親子関係が正常に機能しない状況で、孤児同然の生活を送り、人間にとっての精神的土台ともいうべき幼少期の両親のもとでの温かい家庭の思い出、自然や民衆との接触といった「聖なるもの」を持つことなく育った人物達です（例えその境遇は具体的には描かれてなくても、理念的に故郷喪失者､根無し草の性格があたえられています）。したがって、ドストエフスキー文学における子供の問題とは、成人した大人の現在の行動を左右する問題であり、たびたび描かれる子供達の不幸はそのような問題を抱えた大人達によってもたらされる災難といえるでしょう。
ユートピア幻想にもつながる幼年期の思い出は、人類の幼年期である黄金時代の夢にも、投影されます。人間の魂のリアリストであるドストエフスキーは、ユートピア幻想を持つ人間が、逆にいかに悲惨な現実にあるかを描きました。自虐、加虐の性向が幼年、少年少女時代の体験に深く根ざしていることを洞察していました。現在の日本でも頻発する児童虐待のニュースを聞くにつれ、ドストエフスキーが『作家の日記』などで論じている問題に連想が働くのも理由がないことではありません。
このような私達にとってもアクチュアルな問題に対して、ドストエフスキーの視点はどのようなものであったかを意識の焦点に据えながら、作品を通して、みんなで議論してみようではありませんか。
発言要旨（１）
『作家の日記』における「子供」のテーマ
小林銀河
ドストエフスキーが晩年、1873年から断続的に発表し続けた『作家の日記』は、「日記」というよりも、時事問題に関する自分の考えを自由に綴った「評論」が主体である。小説等の文学作品では作家の思想が様々な人物像やイメージとして表出されるのに対し、この『日記』では作家自身の考えが直截に述べられており、研究の上でたいへん重要な資料を与えてくれる。そして、『日記』において頻出し、様々な観点から語られているのが「子供」のテーマである。また、「教育」について、「青年」についても多くが語られている。
100年以上も前にロシアという国で書かれたこれらの評論を見ていくと、しばしば、21世紀初頭の日本に生きる我々にとっても刺激的で興味深い指摘に出会う。例えば、1876年、12月、第２章、１．「子供の生活からの話」には次のような一節がある。
「以前の若者は何かの企てを思いついても、その企てを実行には移さず、仲間に、秘密にしておくことを誓わせながら打ち明けていたものだが、今の若者は思いつ
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くとそのまま実行してしまうのである。以前の若者は、それでも、義務の気持ち、
拘束の感覚（父なり、母なり、一定の信仰や原則なりへの）によって縛られてい
た。それに対し今は、間違いなくこれらの束縛や感覚がいくらか弱くなっている。自分自身の中にある抑制が外的にも内的にも小さくなった。おそらく、それゆえに頭の働きが一面的になったのであろうし、それもまたもちろん、何らかの原因によるのである。」――このような問題は、現代に生きる我々においても未だ十分に考え抜かれていないものではなかろうか。
報告では、『作家の日記』中の「子供」に関する記述から、特に重要だと思われる問題を極力たくさん拾ってゆきたい。現代日本に直結する問題だけでなく、ドストエフスキーの文学作品や思想を理解するうえで重要なものについても、時間の許す限り示すことができればと考えている。
発言要旨（２）
『カラマーゾフの兄弟』における子どもの頃の宗教体験
熊谷のぶよし
『カラマーゾフの兄弟』の最後で、子どもの頃の楽しい想い出、特に家族の愛情に包まれた神聖な思い出は一生の糧となり、大人になってから大きな悪を退ける力になる、とアリョーシャ・カラマーゾフは子どもたちに述べた。このメッセージを、アリョーシャ個人の体験の中から汲み上げられた言葉であると見るならば、彼が悪に向かおうと決意しながら逆に回心へすすむきっかけとなったグルーシェンカとの出会いに着目することになる。その時、子どもの頃の記憶が介入し彼を悪から退けたと、彼は感じ取っていたに違いない。アリョーシャの内面で、その体験とゾシマの言葉が結びつき一つの思想、予言となったのが件のメッセージなのだ。
アリョーシャとゾシマと子ども達、それぞれの子どもの頃の記憶の核はリレーのように受け継がれていく。しかし、そこから見えてくる子どもの頃の思い出とは、我々が思い浮かべるような、ただ愛情に満たされているというだけの情景ではない。アリョーシャの母親の記憶は、彼をマリア像に差し伸べる狂おしいが美しい母の顔だった。ゾシマが感動し子どもに勧めるのは旧約のヨブ記である。アリョーシャの説教もイリユーシャの死が背景にある。これらの要素は、それを押し包むその暖かさの中に、不思議な違和感を生み出している。しかしその違和感によって超越的な光がそこに射し込んでいるように思えるのだ。
１ アリョーシャの説教における「子どものころの思い出」の成立
２ 暖かさの中の違和
３ 宗教的感情の受容体としての「子ども」
１，２については上記の内容を、作品の記述に即して敷衍する。３では、そこから一歩踏み出した仮説を提示することになる。
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発言要旨（３）
ドストエフスキーにおける「少女」という問題
福井勝也
ドストエフスキーの作品において子供の問題を考える時、「記憶」という言葉が喚起される。例えばこの点で、哲学者のベルグソンは、人間が成長を遂げるということについて子供に言及して次のように語っている。
「私たち一人一人はただひとつの人生しか生きられないのだから、いやでも選択は為されなくてはならない。現実には、私たちは絶え間なく選択し、絶え間なく多くのものを捨てている。時間のなかで私たちが遍歴していく路には、私たちが成りかかっていたすべてのもの、成ることができたであろうすべてのものの破片が撒き散らされている。」
ベルグソンは、この言葉の前段で、子供時代の人格とは色々な人物が未分割なまま取り集められていて、全体がひとつに融け合っていることができた生まれかけの状態だと指摘する。この将来性の未決定こそ、子供たちが持っている大きな魅力なのだとも。
ドストエフスキーの作品では、初期段階から、「子供」が、とりわけ「少女」が大人になりかける時期に焦点があてられている。例えば、『ネートチカ・ネズワーノワ』のネートチカや『虐げられし人々』のネルリなどがすぐに思い浮かぶ。そしてこの「少女」たちも、生の選択をくり返して、ありうる自己の可能性を捨てながら大人の女に成長してゆくはずだ。勿論、ドストエフスキーは、成熟した女たちも数多く描いている。しかし、それを「成熟」と表現するには難しい問題を孕みすぎている場合が多い。言うならば、ドストエフスキーが作品で描く大人の女とは、他で描かれた「少女」の結果として想像しうるのであって、そこには「少女」の問題が色濃く投影されている。例えば、『虐げられし人々』のネルリは、もし死ななければ『白痴』のナスターシャになっても不思議はない者としてある。二人の間には、想像可能な連続性が介在しているように思える。
ドストエフスキーの作中人物の特徴は、子供の時期の「記憶」に支配されていると言い換えても良いかもしれない。ベルグソン流に言えば、成長するために捨て去ってきたはずの自己の破片が撒き散らされずに、体に突き刺さったままの「記憶」としてあり続けているとでも言ったら良いか。そのような意味でもドストエフスキーの描く「女性」は、＜成熟＞とは無縁の本質的に「少女」で有り続ける女たちだとも言えよう。やや単純過ぎる表現かもしれない。もしかすると「少女」が反転して何ものかに成り変わっている場合もあるかもしれない。いずれにしても、ドストエフスキーにおける「少女」という問題は、それとパラレルな「少年」の問題とも関連して、ドストエフスキー文学の本質を考えるうえで深い示唆を与えてくれそうな予感がする。その際、大切なことは「少女」という言葉にまつわる安易なイメージを捨ててかかることかもしれない。ドストエフスキーの描く「少女」は一筋縄では捕らえられない謎に満ちている。シンポジウムでは、この辺をもう少し具体的に語れればと思う。
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発言要旨（４）
「子供から見た父親像――『貧しき人々』を中心に」
高橋誠一郎
今回はドストエフスキー文学における子供をテーマとしたシンポジウムであるが、ドストエフスキーにおいては関係性がきわめて重要なことを考えて、ここではドストエフスキー自身と両親の関係も踏まえながら『貧しき人々』における親子の関係とその描写を分析することにより、ドストエフスキー文学の形成とその意味を考察したい。
亀山郁夫氏は２００４年の著作で最後の長篇『カラマーゾフの兄弟』の地点から、「使嗾」というテーマにこだわりながら諸作品を分析することにより、ドストエフスキー文学を「父殺しの文学」とする鋭利で刺激的な解釈を説得力豊かに示した。そして、「あえて自分の無用性を演技することで、帝政権力から『蕩児』として受け入れられたいという願望――。これが本書における私の基本的なドストエフスキー観である」と記している。
たしかに後期の長編小説だけに焦点を絞るならば、そう言い切ることもできるだろう。しかし、亀山氏の『貧しき人々』論ではブイコフの実子であり、父親からの援助を拒否して職を探し病死するポクロフスキーにはほとんど踏みこんでいないが、彼こそは『罪と罰』に描かれた反抗者ラスコーリニコフにだけではなく、『未成年』のアルカージイにも直結している重要な形象であると思われる。
同じことは「白いヴェールを払いとってしまえば、この物語が、あられもない道化芝居に行き着くことは疑う余地もないことです」と断定した『白夜』論にもあてはまるであろう。つまり、ドストエフスキーが辿り着いた最後の作品の地点から過去の作品をも分析するという方法をとることは、自分の生き方や作風を模索して苦悩した初期や中期の作品像をゆがめてしまう危険性を有してもいるのである。こうして、処女作『貧しき人々』における父親像を分析することにより「ドストエフスキー文学」の全体像に迫ろうとする試みは、私たちに別な視野を示すことになるはずである。
第172回例会・傍聴記
木下豊房氏「武田泰淳とドストエフスキー」を聴いて
下原敏彦
新年早々の例会だったが、本降りになった氷雨のためか出足は鈍かった。が、報告がはじまると、次第に席は埋まって盛会となった。報告者は、本会の発起人であり会代表者の木下豊房氏。論題は、日本の戦後派作家の1人、武田泰淳である。
木下氏はこれまで日本の作家について著書『近代日本文学とドストエフスキー』（成文社）で二葉亭四迷、夏目漱石、萩原朔太郎、太宰治といった作家を取り上げている。が、戦後作家は、2003年、没後30周年を記念して『広場No.13』
で椎名麟三をとりあげて以来である。司会は、目下、司馬遼太郎の歴史観で、多
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忙を極めている高橋誠一郎氏が駆けつけ務められた。
報告に先立って高橋氏が、新聞コピーを紹介された。二日前の朝日新聞(1月12日付)に掲載された「武田泰淳の日記を読む」の記事である。昨年9月に長女の武田花さんが武田泰淳の資料2200点（原稿・草稿6400枚、日記239枚、従軍手帳3冊…）を日本近代文学館に寄贈された。その中の「従軍手帖」と「上海時代の日記」を文芸評論家・川西政明氏が読まれ評されたものである。「苦しみの根源あらわに」と題された文は、戦場での殺人を告白した『審判』が主体となっていた。報告は、この作品を根幹とするものだったので、折りよい発表となった。
とはいえ武田泰淳は、ドストエフスキー読者には、馴染みのない作家である。その証拠に例会前「報告に備えてどんな作品を読んだらよいか」といった声が多く聞かれた。武田泰淳というと、『ひかりごけ』がよく知られている。難破船の遭難者たちが極限状況の中で人肉を食らう惨劇。映画にもなった暗く重い事件である。加えて学生時代、哲学を学び中国の文化や文学に造詣が深かったことから、一般的には重厚で観念的な作家のイメージが大きかった。
しかし、筆者は、この作家に対してまったく違う印象を抱いていた。武田泰淳と聞くと壮大な自然とロマン。そんなものを感じてしまうのである。映画『森と湖の祭』で高倉健演じるアイヌの一匹狼風森一太郎が北海道阿寒の原野に消えていくラストシーン。あの感動的場面は、いまもはっきりまぶたに残っている。
だが、木下氏が注目した武田泰淳は、そうした物語作家としての泰淳ではなかった。哲学でも中国古典でもなかった。氏が、武田泰淳をドストエフスキー作家として研究俎上にのせたのは、泰淳が戦場での体験を語った初期作品にあった。戦争という非日常のなかで(殺人も強姦も全てが許された場所で)「私」の無限なまでに広がる「創造的自我」の世界。氏は、そこにドストエフスキー作品の主人公たちの苦悩を感じ取った。また埴谷雄高の「自分を含めて、椎名、武田の三人こそが、戦後文学の『ドストエフスキイ族』あるいは『派』(エコール)の代表との思い」や武田泰淳の作品に展開される殺人論が「ドストエフスキーの深い殺人論の延長線上」にあるとの指摘にも影響されたのではないか、と推測する。
報告は、武田泰淳の年譜と23項目からなる資料が配布され、項目順にすすめられた。項目では、初期作品『審判』『秘密』『蝮のすえ』『「愛」のかたち』や晩年の『富士』がとりあげられ踏み越え場面の葛藤や「創造的自我」が紹介された。他にドストエフスキー作品に言及した小林秀雄、バフチンの記述や伊藤整の日本人の人間関係分析などもあった。作品抜粋は、主にラスコーリニコフの踏み越えを彷彿させる文節が多かった。が、小林秀雄のエッセイや『カラマーゾフの兄弟』における「私」のふかさ、ひろさについてもあげられていた。
報告資料によると泰淳は、この崇高で深遠な「私」が、全登場人物であり、「全人類的なもの」だとしている。道端の小石から大宇宙まで同一原理で貫かれているという理念か。泰淳が「私」の殺人にこだわるのは、たとえそれが「個人的発砲」だったにせよ、殺人は、戦争、大量殺戮、そして人類「滅亡」へと拡大連鎖する――とのドストエフスキー的思惟を無意識に予見できたからに違いない。戦争体験が泰淳に、ラスコーリニコフの苦悩を体現させたといえる。
新聞記事によれば、泰淳が戦争の苦しみから脱することができたのは、友人が殺人の事実をただしたことで「自分の苦しさを理解してくれた」と思ったからで、
それによって「泰淳が生涯背負った罪と罰はその時、清められた」とある。木下
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氏は、著書『ドストエフスキー その対話的世界』で作家の対話的人間観を論じているが、苦しみぬいた泰淳はまさにその「言葉なき対話」に救われたといえる。泰淳は、友人の「顔を見たまま肯定も否定もしなかった」長い沈黙のあと、ただ一言「そうか」とつぶやいただけだという。
報告は、泰淳の作品における踏み越え時の「私」を浮き彫りにするものだった。それによってドストエフスキー作品における「私」との関係性が照合的に提起されたといえる。また、言及はされなかったが「我－汝」の関係についても大いに想起されるものがあった。
質疑応答では、様々な感想、意見、見方がだされた。戦後派の「派」(エコール)の意味について、作家の殺人観、ジェノサイド(大量殺戮)などなどである。議論が集中したのは、泰淳自身が、はたして『審判』で描かれたような殺人を犯したかどうかについてだった。「私」は、真に体験者だったのか。あるいは「想像的自我」の産物か。『従軍手帖』を読んだ川西氏は、「この記述は戦場での殺人を告白した小説『審判』の記述と重なる」としている。配布資料の年譜によれば、武田泰淳は昭和12年10月に召集されて中国に渡っている。真相はいまだ不明だが南京大虐殺があったとされる日本軍の南京攻略は12月13日からである。はじめて戦争に接した、若き泰淳の心情はどんなものだったのか。ルポタージュ文学の傑作といわれる石川達三の『生きている兵隊』は当時の兵隊をよく観察している。石川は中央公論特派員として昭和12年12月25日に東京を発ち13年1月５日に戦渦生々しい南京に入った。この作品は、冒頭から中国青年の首を斬って河に投げ込む。母親の死を嘆き悲しむ娘を、その泣き声がうるさいと殺す、などなど兵士たちの殺人行為が日常事として描かれている。まさに「人間はどんなことにでも慣れる。どんなこともできる」のである。泰淳が中国のK村で殺人を犯したかどうか。たとえ「従軍手帖」に記されていたとしても、今は神のみぞ知る。だが、「私」の殺人は、全中国、全アジアに広がり、そうして広島･長崎の都市を焦土と化した。アフリカの森を出た新しきヒトは、旧人たちを皆殺しにした。次にヒト同士殺し合いを始めた。そしてそれは、今現在もやむことがない。これは現実である。と、すればドストエフスキー族(今流ならチルドレン)たちの使命は見えてくる。彼らは、あの『おかしな男』となって、歩みはじめたのだ。埴谷も椎名もそれぞれの道を。泰淳は、踏み越える者への挑戦者として「私」を、つくりだした。人類救済への道は「創造的自我」にあると信じて・・・。
ともあれ、この報告から武田泰淳のふかいドストエフスキー観を知った。同時に、氏の研究テーマ「対話的世界」と「サストラダーニエ(憐憫)」を感じることができた。あらためて、まずは武田泰淳の作品を読まねばと思った。
事務局だより
○ 現在、「ドストエーフスキイ広場」第15号編集の追い込みの段階で、4月8日には完成し、ただちに会員のみなさまに発送の予定です。15号には、ホームページ掲載中の、亀山氏著書をめぐる議論も収録しました。なお表紙は今回は小山田チカエさんに代わって、亡きご主人、小山田二郎氏の絵を拝借、デザインはいつもの渡辺利子さんです。なお2006年度の総会は5月に予定しています。例会を兼ねて行いますが、発表者は未定です。
ﾄﾞｽﾄｴｰﾌｽｷｲの会
ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.73
News
Letter of ＪａｐａｎｅｓｅDostoevsky
Society 2005.12.25
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事務局・〒273―0853
（Tel＆Fax：047-448-9213）
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第1７２回例会のご案内 下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 報告者：木下豊房 氏 題 目：武田泰淳とドストエフスキー
＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
報告者紹介：木下豊房 氏
１９７9年2月、故・新谷敬三郎氏、米川哲夫氏らとともに、「ドストエーフスキイの会」の発足に中心的な役割をはたす。会発足より1996年２月まで、事務局責任者。千葉大学教養部・文学部に２９年勤続、２００２年３月定年退職。千葉大学名誉教授、日本大学芸術学部非常勤講師。 著書に『近代日本文学とドストエフスキー』（成文社・1993）、『ドストエフスキー・その対話的世界』（成文社、２00２）。翻訳に『ドストエーフスキイ夫人アンナの日記』（河出書房新社、1979）、『ドストエフスキーとカント ―『カラマーゾフの兄弟を読む』―』（みすず書房、1988）、ロシア語論集 «Антропология и поэтика
творчества Ф.М. Достоевского» (Санкт-Петербург, 2005)
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第172回例会報告要旨
武田泰淳とドストエフスキー
木下豊房
埴谷雄高は1971（昭4６）年のエッセイで、「戦後、何処からともなく現れたパルチザン達が次第に一ヵ所に集まってくると、同時代者である私達はまぎれもなく同一問題を負わざるをえなくなったドストエフスキイ族であることが明らかになった」とのべ、椎名麟三、武田泰淳、野間宏の名をあげながら、特に、武田の小説『風媒花』で展開される現代の殺人論が「ドストエフスキイの深い殺人論の延長線上」にあることを指摘している。埴谷は「ドストエフスキイ派（エコール）」という言葉も使って、過去の日本文学への影響にも触れているが、埴谷には、自分を含めて、椎名、武田の三人こそが、戦後文学の「ドストエフスキイ族」あるいは「派（エコール）」の代表という思いがあったであろう。
椎名のドストエフスキー受容の特徴は彼自身のエッセイの表題「矛盾の背後の光」が端的に示すように、実存主義的なものであったとすれば（「広場」12号の拙論参照）、武田泰淳の場合は、「作家的・創造的自我・私」の拡大、増殖への関心であったといえよう。
武田がまだ無名の文学青年であった昭和10年前後の時期、転向問題、シェストフ論争が起こるなかで、日本的な自然主義的な私小説の克服が横光利一や小林秀雄ら若手文学者によって提起されていた。知識人が直面した新たな状況のもとで、彼らの分裂した自意識の問題を文学化する方法を日本の文学伝統はもたなかった。そこでドストエフスキーの文学が大きな存在として迫り、作家的自我の問題が議論された。横光の「純粋小説論」の四人称の問題のその一つであるが、小林秀雄は正宗白鳥との「思想と実生活論争」において、芸術家の創造的自我とでもいうべきものを、次のように表現していた。
「ドストエフスキイが生活の驚くべき無秩序を平然と生きたのも、たゞ一つ芸術創造の秩序が信じられた為である。創造の魔神にとり憑かれたかういう天才等には、実生活とは恐らく架空の国であつたに相違ないのだ」（「思想と実生活」昭11年）
小林はまた「スタヴロオギンにして同時にゾシマである様な人間の真相とは何か」というふうにも設問している。芸術家にとって実生活とは、自ずと芸術創造に吸収され、回収されていく性質のもので、創造行為を離れて論じられる芸術家の生活とは確かに一つのフィクションに過ぎないであろう。要は芸術家の創造的自我の容量の問題である。
武田は戦後派の作家が遭遇した第一の難問として、「この「私」なるものが、一定不変のものではなくて、たいへんつかみにくい何物かであることであった」（｢文学雑感｣・昭42）とのべ、複雑な状況のなかで、矛盾に充ちた存在であることこそ、本格的な小説家の要件であるとの認識を多くのエッセイで繰り返しのべている。このように作家の創造的自我の容量を問う武田にとって、ドストエフスキーこそは最も偉大な鑑であった。
「たとえば、ドストエフスキーの「私」を考えてみるがいい。その「私」が誠実だったことを、だれもうたがうことはできない。だが、「カラマーゾフの兄弟」の三兄弟、その父親が生み出されるためには彼の「私」は鉄をも溶かすほどに過熱されたり、さわる者の心を凍らせ、しびらせる最低温まで、降下したりしなければなら
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なかったのだ。彼の「私」は、冷徹なイワン、情熱的で動物的なドミトリー、神を信ずるアリョーシャだけでは、表わすことができなかった。あの気味のわるい、スメルジャコフまで登場させても、まだまだ、十分ではなかったのだ。
おまけに、あの複雑な殺人事件の全過程に対して、彼の「私」は、責任をもたなければならなかった。「カラマーゾフ」を読みはじめるが早いか、私たちはドストエフスキーの広大な「私」の、天国と地獄の奥底ふかくみちびかれてゆく。あまりにも、ふかく、ひろい彼の「私」に、吸いこまれ、分解され、ふくれあがってしまうので、この偉大な作品に「私」があったことまで、忘れてしまうほどだ。作家の「私」とは、本来、そのようなものでなければならないのではないか。目がくらむほど深遠な、人生の豊富さに向かって、ひらかれた戸口、それが、作家の「私」であってほしいものだ」(同上)
こうのべる武田の創造的自我の容量の問題は、彼の創作の本質を解く鍵であるのみならず、ドストエフスキーについて、作中人物から作者の人物論へと安易に遡行する私小説的・自然主義的読み方に反省を促すものといえるであろう。
第171回例会傍聴記
木寺律子『カラマーゾフの兄弟』における『ファウスト』の登場
―罪の問題を中心に―
菅原純子
過去形の話で恐縮だが、ゲーテの『ファウスト』を高く評価する人物に出会ったことがある。作品のみならず、ゲーテの人生までも尊敬してやまぬという人は、ドイツ語を熟知しているのだが、私にとっては、その時以来の『ファウスト』の再読である。
ドストエフスキーとゲーテという二人の大作家をものの見事にまとめあげた報告者木寺律子氏は、現在、大阪外国語大学博士後期課程に在学中である。木寺氏の報告を、一概にまとめることができないのではないかと考えあぐねた。それは罪の問題を中心にという副題に、少しでも近づけなければならないと思ったからである。
報告は多義にわたり、様々な文献が引用され、大変力のこもったものであった。そしてそれは、報告の主旨と目的にあるように、『カラマーゾフの兄弟』の「悪魔
イワンの悪夢」の中でのメフィストーフェレスの登場の場面を中心とした考察である。また、氏の報告の核心をなすものは、善と悪の問題、罪の問題にある。文献からの引用は、抽象性を伴うことはいなめないと考える。
ロシアの文学における悪魔は、キリスト教の悪魔、デーモン（メフィストーフェレス）、民間信仰の悪霊たちの三層に分かれるという。
イヴァンの悪魔は、イヴァンの分身であり、幻覚の中で表出する。イヴァンは悪魔の存在を認めたくないのである。悪魔の存在を認めるということは、神の存在を認めることになるからである。ここで、イヴァンの懐疑が問われている。
さて、木寺氏の報告の核心である、善と悪の関係であるが、『カラマーゾフの兄弟』の悪魔は、『ファウスト』における善と悪の関係を逆さにしたものであるという。清水孝純氏によると、
「イヴァンの悪魔の役割は、通常の悪魔の役割の逆をゆく。彼の本音は、ホザンナにあるのに、不本意ながら、悪を行うというのだ。彼は皮肉な逆説家の悪魔なのだ。」とある。
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また木寺氏は『ファウスト』における善と悪の関係において、「悪は善の欠如である。」とするキリスト教の発想にのっとっているという。悪が善の欠如だとすれば、悪から現実性が奪われ、存在する善が存在しない。悪に対することがけっしてないために道徳的判断は不可能になる。善と悪の二元論については、グノーシス主義にもかかげられているが、ここでは割愛する。
もう一つの報告の核心である、罪の問題であるが、氏はまず、ファウストの主題における罪の問題を取り上げた。氏の報告にある、ファウスト主題の性格とは、知識と認識を求めてたたかう、努力する人間の無限の向上への衝動であり、自我の拡大に通じるものである。氏が引用した文献では、
「ファウスト主題の造形と呼びうる文学は、探求する人物の、より高い目標への努力との結合を作り出し、悪魔的力を引き入れ、罪の問題に触れ、永遠の劫罰や解脱と救済による罪の解決をえがく文学だけである。」
さらに氏の核心部分は、ドストエフスキー作品における罪の問題は、ゲーテの『ファウスト』を含む文化的伝統の流れと問題意識が重なり、スタヴローギン、イヴァン、ラスコーリニコフといった人物には、ファウスト的人物という側面があり、ファウスト的主題が含まれているという。また、このイヴァンの罪の意識は、メフィストーフェレスに比べると過剰に自己に罪責を付与しているという。
最後に氏はまとめとして、イヴァンは、善と悪の関係についての自分自身の考えを述べるだけでなく、メフィストーフェレスの言葉を引用し、対比することでイヴァンが感じている世界や他者に対する不信感、絶望がより強調されているという。以上、木寺氏の報告をつたないながら述べたが、例会の中では様々な意見や質問がなされた。ファウストは昇天するのに対して、イヴァンは発狂する、この違いは何か。ファウストの罪とドストエフスキーの罪は違う。自分の意志を極限までにつきつめたのが自殺であり、ゲーテは『若きウェルテルの悩み』で自殺の問題を提示し、また『ファウスト』の中で自殺を思いとどませるのはいったい何か。スメルジャコフは自殺するが、ラスコーリニコフやイヴァンは自殺できない人間である。イヴァンが知識人とするのに対して、スメルジャコフをはたして民衆といっていいものだろうか。木寺氏の報告にある、イヴァンは善を追求することに絶望した結果、あえて自分から悪を担おうとし、悪の立場を選ぶという演技をする。この演技とはどういうことなのかなどの議論が活発になされた。これもひとえに木寺氏の充実性ある報告による。
孤立は個々の人間に恐怖を引き起こし、恐怖は悪魔の力をおおげさに考えさせるのである。今日、日本の現代の社会に、この悪魔の力がはびこっていると、とらえなければいけない立場に、それぞれが立たされているのではないだろうか。
第170回例会・「広場」№14 論文合評会
尾松亮「ドストエフスキーと『エミール』―子供期のイメージをめぐって―」について
小林銀河
この論文は、前半ではルソーの『エミール』、後半はドストエフスキーに焦点を当て、それぞれの特徴を対比的に浮かび上がらせるという構成になっており、たいへんよくまとまっている。しかし、両者の特徴が自己完結した形で提示されていて、「子供」というテーマへの踏み込みが物足りないといった趣旨の批判が会場から出され
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た。
論文でも指摘されているように『ネートチカ・ネズヴァーノヴァ』などでドストエフスキーが『エミール』を念等においた形跡が見られること、また当時のロシアにおけるルソーの影響の大きさを考えると、18世紀フランス、19世紀ロシアという違った場所と時間に生きた両者を比較する意義は十分あると言えるだろう。ただし、「ルソーとドストエフスキーの間には、本来思想上の類似は強く見られる」（28頁）と簡単に言ってしまうのは不用意ではないかと私は指摘した。それに関連して、ルソーとドストエフスキーの間にトルストイを媒介させたらどうかという提案が会場からなされた。
もっとも尾松氏は現在、モスクワにて19世紀における教育論を精力的に収集しており、また、ロシアのトルストイ学会でも報告を予定しているとのことであり、この合評会で受けた批判や指摘を活かしつつ、さらに広い視野と確かな裏付けに基づく研究成果を示されるであろうことを期待している。
その他、実際に幼児を育てる仕事をされている方から出された「現実の子供は実に多種多様で、そう簡単に理論の中に収まるものではない」という意見、また、ドストエフスキー文学に関して、子供の成長における宗教的要素、「祈り」の重要性や両親とのあたたかい交流の大切さについての指摘、などが印象に残っている。
福井勝也「近代文学の（終焉）とドストエフスキー」
秋山 伸介
『「近代文学の終焉」が相変わらずささやかれる一方で、「ポストモダン」という語も流布されて久しい。何が終わり何が始まろうとしているのか、これから向かう方向性をつかみあぐねている現状がある。
明治維新以後、近代小説の成立期から現代まで文学状況をざっと見渡してみたとき、ドストエフスキー文学は日本人により多く読まれ多く論じられてきたにもかかわらず、文壇に与えた影響についてはそれほど語られていない。
「近代文学の〈終焉〉とドストエフスキー」は、福井氏独自の視点から「ドストエフスキー文学」に焦点を当てながら、日本近代文学史を読み直してみようという試みである。
そもそも二葉亭四迷の「浮雲」から始まったとされる日本近代小説が、実はその成立において「ドストエフスキー文学」の多大な影響を受けていることを見落としがちであると福井氏は述べている。たしかに言文一致の文体で西洋渡来の近代的な思想を小説に盛り込もうと苦心した二葉亭がロシアの小説を翻訳しながら近代小説を作り上げていったことはよく知られている。しかし、ツルゲーネフ的な自然主義小説の文体が後続の作家に受け継がれていくのに対して、「浮雲」の小説構造、わけても語り手のあり方に見られるドストエフスキー的文体の方は受け継がれるどころか意識されることもなく文壇から消えていった、このことは意外に知られてない。』
以上は、広場掲載の福井氏の論文「日本近代文学とドストエフスキー」について、私が８月の合評会で発表した論評の一部ですが、あえて拙文を引用しましたのは、この論文のテーマがドストエフスキー文学の日本近代小説に与えた影響がその成立に深くかかわりながらも、文学史的に表向きは全くの等閑の体を為し語られてこなかったところにこそ日本文学とドストエフスキーとの根深い関係を掘り下げようとした点を再確認したかったからであります。そして福井氏はこの論文でなんらかの始末をつけようと考えたのではなく、むしろ問題提起をしつつ同時に、自らのライ
ニュースレターNo.73 2005 ――――――――6――――――――――――
フワークとしての端緒を開いた事をここに改めて述べたかったからであります。当日は、会場から文学史上の疑問や意義などの指摘がなされ、福井氏にとっては新たなモチベーションを得る機会に恵まれたのではないかと感じました。福井氏の今後の研究を期待したいと思います。
木下豊房「小説『弱い心』の秘密」
近藤大介
木下氏の「小説『弱い心』の秘密」は小説『弱い心』の叙述に寄り添いながら、丹念な読解によってこの小説の「秘密」に迫ろうとした、読み応えのある論文であった。またこの論文での筆者の試みは十分に成功している、と報告者には思えた。
この論文の要所は、極言すれば次の一点である。従来ワーシャの発狂の原因が、彼自身の心の弱さから、と説明されていたのに疑義を呈し、アルカージイの無遠慮なお節介が友人を苦しめていた、という新説を打ち出したのである。論文では小説の展開に従って、ワーシャとアルカージイの二人の友情に、一読するだけでは分からない、不穏な空気が徐々に忍び寄る過程を順序良く読み解いている。そのため論文の読者は、あたかも小説『弱い心』を再読するような感覚を憶え、それがこの論文に説得力を与えているとも考えられる。
上述したこの論文の核心部分と関連して、報告者が特に興味深いと思えたのは、ワーシャとアルカージイの友人関係を分身関係と捉えなおした点である。「分身」はドストエフスキーの初期作品の多くに共通するテーマであることを再認識させられた。また、「分身」のテーマは常に他者との「一体化」と表裏一体の関係であることを、小説『弱い心』は見事に示しているのではないだろうか。
論評会では論文に対する好意的な意見のほかに、ワーシャ発狂の原因をワーシャ本人の体質に求める旧来から繰り返された説を再度吟味する必要があるのでは、という意見も出された。このことは当然考えるべきであろう。ただ管見であるが、木下氏が提起した『弱い心』の新解釈は決して他の解釈を許容しないわけではない。というのは、木下氏の解釈は小説のポリフォニー構造に着目したもので、ワーシャとアルカージイのどちらの声に重きを置くかという決定それ自体は、ポリフォニー小説の特質上、未解決だからである。この未解決性は解決されるべきものとしてあるのではない、ドストエフスキーの小説の「秘密」である、と考えるのは報告者の身勝手な決定であろうか。
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第1７１回例会のご案内 下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 報告者：木寺律子 氏 題 目：『カラマーゾフの兄弟』における『ファウスト』の登場 ＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
報告者紹介：木寺律子 氏
生年・1977年
出身地・神戸
2000年・大阪外国語大学地域文化学科卒業
現在・大阪外国語大学博士後期課程在学中
ニュースレターNo.72 2005 ――――――――2―――――――――――――
第171回例会報告要旨
『カラマーゾフの兄弟』における『ファウスト』の登場
木寺 律子
『カラマーゾフの兄弟』には、神経を病んだイヴァンの幻覚として悪魔が登場し、この悪魔がゲーテの『ファウスト』の中のメフィストーフェレスの言葉を引用しながら自分自身の立場をイヴァンに説明する場面がある。このイヴァンの分身とも言える悪魔は、「メフィストーフェレスはファウストのところに現れて、自分は悪を望んでいながら、善ばかり行っていると自己証明した。それは彼の好きなようにすればいいが、僕はまったく反対だ。僕はこの全世界で真理を愛し、善を望んでいる、たったひとりの人間かもしれない。」とイヴァンに言う。
イヴァンと悪魔の対話というこの大変有名な場面で描かれる悪魔の像が、ゲーテの創造したメフィストーフェレスの影響を受けており、悪魔がメフィストーフェレスを意識せずに自分自身を語れなかったことは、文学作品における悪魔の形象の流れの中でゲーテの創造したメフィストーフェレスの像が絶大な影響力を持っているためであろう。しかし、『カラマーゾフの兄弟』の悪魔はメフィストーフェレスの言葉を引用しながらも、善と悪の関係を逆さにして自分自身の立場を語る。この場面を考察することで、『カラマーゾフの兄弟』において『ファウスト』の引用がどのような役割を果たしているかを検討する。罪の問題を重視するゲーテの『ファウスト』やファウスト的主題の流れの中でドストエフスキーの作品をとらえることで、イヴァンの内面にある罪の意識の問題、さらに演技の問題に触れ、イヴァンという人物造形の一つの側面を考察する手がかりとする。
また、『カラマーゾフの兄弟』という作品全体において、ゲーテの引用やゲーテへの言及がどのような位置を占めているかを考え、ゲーテの言葉を引用することでドストエフスキーの世界観の一側面がどのように現れるかを見る。
ドストエフスキーは他の作品でも、さまざまな他の作家の文学作品を直接引用したり、曖昧に他の作品のことをほのめかす表現をしたりしているが、それにはゲーテやゲーテの作品への言及も多い。報告者は比較文学を扱うにはドイツ文学についての知識が不足しているが、19世紀ロシアの文化へのゲーテやドイツ文化の影響、ドストエフスキーへのゲーテの影響やドイツ文学の影響をめぐって、周辺的な事情についても基礎的な知識を若干調べたので、それらを整理して述べ、『カラマーゾフの兄弟』においてゲーテの『ファウスト』が引用された背景を理解する手がかりとしたい。
――――――――――――――3――――――――ニュースレターNo.72 2005
第169回例会傍聴記
近藤大介「ドストエフスキー作品における「心」の問題」
熊谷暢芳
上記の題目を見て、久々のどまんなかの直球だと思った。しかし人間の心の真実を描いたドストエーフスキイなのだから、その作品の心の問題といえばすべてのすべてではないか。この広いテーマを近藤氏は、＜心＞という語の使われ方にしぼって研究者の手つきで詳細に論じた。
まず報告は、＜сердце（心）＞という言葉がロシア語では心臓から感情までを意味するという説明から始まった。ほぼ英語のheartと同じ範囲であろうか。§ロシア啓蒙思想と教育－「理性」と「心」で、１８世紀ロシアにおける、理性と心の調和ある教育の展望が述べられると、つづいて§ロシア・センチメンタリズムにおける「心の養育」では、西洋的な理性とロシア的センチメンタルな心の二項対立への発展が解説された。ここまでが序論である。
§『貧しき人々』：センチメンタリスト ジェーブシキンで作品中での＜心＞という言葉の用法が豊富な引用によって例示される。以降、各セクションにおいて、精神の理性的機能を除くすべてを＜心＞と呼称するがごとく、感じることのすべて、自意識の矜持を秘めた用法から、臓器の心臓を指し示すに近いものまで、多岐にわたる用法が例示される。しかし、序章で西洋的理性という対立項がすでに提示されているため、その多様さは、ロシア的なものとしてどこか統一されて映ることになる。ドストエーフスキイの登場人物が＜心＞というとき、それは自身の心であると同時に、西洋的理性に対立しそれで捉えきることの出来ないロシアの心であることを主張している。西洋に対するロシアの自意識そのもののことではないか。氏の発表を聞いてそのように思った。
先走ってしまったが、§罪の意識と人間の心 何が破滅をもたらすのか？ ジェーブシキンの場合の章では、作品において暗示されつつ明示されないジェーブシキンの罪の問題を、作品における秘密を持つ者という、中村健之介氏の指摘によるドストエーフスキイの創作の特性において捉え、また、ベムによる、実行されないことによって張りつめる罪の感覚の初期の表現として解説する。
続く、§運命の転換と心の痛み 何が破滅をもたらすのか？ オルドゥイノフの場合
この『家主の妻』という、読後重苦しい気分を残す謎そのもののような作品の読解において、近藤氏の＜心＞の探求は一番成果を上げているように私には思えた。この作品の＜心＞の用法は、オルドゥイノフの精神作用であると同時に、彼の心臓という生理的機能と完全に一体化しており、またその自己の「心」はカチェリーナの「心」と一体化しようとする精神の働きでもあり、さらに驚くことに近藤氏の指摘によれば、オルドゥイノフの生理的機能と一体化したカチェリーナの生理的機能でもある。精神、肉体、自己、他者、この乗り越えがたい要素間の垣根をすべての組み合わせで越えて、すべてを同一化してしまおうとする狂気に近い＜心＞のあり方、しかも、その頂点において、＜心＞が自己にではなく、他者の位置に転移してしまうことを描いた作品。近藤氏の意図からは逸脱しているかもしれないが、そのように私には受け止められた。『家主の妻』の秘密に一歩せまれたような気がしたのだった。
§心はひとつ・・・？ 何が破滅をもたらすのか？ アルカージイの場合
『弱い心』では、主人公のひとりワーシャは実際、狂気に陥る。近藤氏は、木下豊房氏の論文「小説『弱い心』の秘密」に沿いつつ、＜心＞によって自己と一体化しようとするアルカージイに対するワーシャの抵抗と破滅、そしてついにはアルカージイ自身の覚醒と悲劇を＜心＞に係わる用法を軸に見ていく。
§ロシアの宗教思想と聖書における＜сердце（心）＞
ここで、話は一度総括されて、ドストエフスキーの＜心＞理解の思想的源泉とその影響関係における、聖書ならびにロシア正教の神学（キリスト教）に言及される。スコヴォロダ、ユルケーヴィチ、フロレンスキー、ヴィシェスラフツェフが紹介されて、正教における心的、肉体的＜心＞の重要性が指摘される。
§心の中の闇または嫉妬の連鎖 長編『白痴』
最後に『白痴』に関して、＜心＞は、心と分別、知性、よい心と悪い心、大切な知性とそうでないものというように、より詳細な差異と対比の要素へと分節化され論じられる。『家主の妻』でのすべてを同一化しようとした＜心＞の猛威は姿をひそめて、引用で示されたものには、単一な心の叫びというよりも屈折した微妙なニュアンスが伴うことになる。
以上発表の要約を述べたが、レジュメの引用文を読み返しても、＜心＞の語の使われる部分は、各作品の、特に初期作品のハイライトであることがわかる。また当日質問したことでもあったが、この同一化しようとする＜心＞の性向は、『カラマーゾフの兄弟』におけるドミトリーの告白する＜心＞、生命感覚そのものに連なっていくもののことであろうと理解した。近藤氏の発表は、平明な翻訳による＜心＞の語の豊富な使用例をレジュメで用意され、説得力のあるものであった。
最後に二点、蛇足的な注文を付けたい。ひとつは他の作家とくらべてどうかという差異の例示も見てみたいと思った。
二点目は個人的なお願いに近い。近藤氏は＜心＞をおおむね同一化のモメントでとらえて論を統一され、その有効性を示された。一方、氏が『弱い心』を論じたとき感じたことだが、その同一化を拒絶したり無効にしたりするモメントも＜心＞は持っている。そしてドストエーフスキイには、そうした＜心＞を外側から見る視点もある。ここから他者の心を見るとき心の秘密となり、自己を見るとき心の中の闇という姿を呈してくる。これらの同一化を拒絶する心のモメントも含み統合した上での作品論をいつか聞いてみたいと思った。
事務局だより
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第36回総会と16９回例会のご案内 下記の要領で総会・例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 総 会 午後6時から45分程度、終わり次第に例会 議題：活動、会計報告。05年度の活動計画、予算について 例 会 報告者：近藤 大介 氏 題 目：ドストエフスキー作品における「心」の問題 ＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
報告者紹介：近藤 大介 氏
生年 1976年
出身地 東京
大阪外国語大学（ロシア語学科）を卒業し現在一橋大学大学院博士課程在学（2年）
ニュースレターNo.71 2005 ――――――――2―――――――――――――
第169回例会報告要旨
ドストエフスキー作品における「心」の問題
近藤大介
「思想は変わります。けれど心は変わらないままです。」この言葉は1856年1月18日、セミパラチンスクでの兵役生活を送っていたドストエフスキーが親友アポロン・マイコフに宛てた手紙の一節である。政治犯の烙印を押されて過ごした約10年にも及ぶ生活が、作家にとって大きな転機であったのは言うまでもないことかもしれない。中には、シベリア流刑を機にドストエフスキーは思想的変節を強いられた、つまり作家は転向したのだ、と考える人も少なくない。ただユートピア的社会主義にうなされた20代の新進作家と保守的イデオローグだった晩年の大作家との間にそれほどの人間的（あるいは作家的）断絶があったのだろうか？この点で冒頭に引いた言葉、「思想は変わります。けれど心は変わらないままです」には大変意味深長な響きがある。変化する「思想」に対して、変わらぬ「心」とはどのようなものであろうか？
この発表はドストエフスキー作品に描かれた「心」に関する考察である。ただそこで扱う「心」とは作中人物の心理や精神分析といったものではなく、ロシア語で「心」を意味する＜сердце＞という具体的な言葉のことである。この言葉には人間の心情といった感覚的な意味のほかに、人間の枢要な生命器官である物質的な心臓の意味もある。ロシア語には同じ「心」と訳すことのできる＜душа＞という言葉があるが、これは魂と訳すこともでき、より精神的な意味合いが強く明確に肉体と対置される言葉である。それに比べると＜сердце＞は肉体と精神の両義性を持った言葉であり、人間の感覚機能であると同時に身体器官でもある。＜сердце＞は肉体と精神を媒介するものと考えることができるのである。
ドストエフスキーの描く登場人物の多くは感受性が並外れて強く、外的事象から強烈な印象を受け時に現実と幻との境界を失い、まるで肉体と精神が遊離してしまったような夢遊状態に陥る場面がたびたび描かれている。作者が夢想家と呼ぶ初期作品の登場人物（『家主の妻』のオルドゥイノフや『白夜』の主人公など）や『罪と罰』のラスコーリニコフがその典型だが、彼らが夢や幻想的世界に行き逢う時、そこには必ず肉体的変調が伴っている。ドストエフスキーはそのことを執拗に追い、心理の変化と同時に身体の変化を克明に描き出すのである。一般にドストエフスキー作品には客観的な外的描写が少ないと言われるが（例えばバフチンのドストエフスキー論）、身体変化における＜сердце＞の描写に着目すると、作者の目が登場人物の内側だけに向けられていたわけではないことに気がつくのである。
すでに引用したドストエフスキーのマイコフへの手紙には心についての言及を含め、興味深い発言が目立つ。マイコフの民族主義的発言に触発され、シベリア流刑によって多くのことを学んだと述べながら、「わたしは実体験によって自分が常に心（сердце）においてロシア人であったということに気がついたのです」と書いている。さらにこれに続けて、「思想において誤ることはありますが、
――――――――――――――3――――――――ニュースレターNo.7１ 2005
心（сердце）によって誤り良心をなくしたような、つまり自分の信念に反した行為をすることはありません」と流刑の前後にも心に変わりがないことを強調している。このような心の不変に関する考えは小説中にも見出すことができるがその場合の「心」とは人間の心理とは明らかに違う。ドストエフスキーの描く人間
心理は絶えず変化する不安定で移ろいやすいものだからである。
ロシア文学における心理への関心は18世紀末のセンチメンタル小説によって確立されたと言われているが、このロシア・センチメンタリズムとドストエフスキーとの関わりにも触れてみたい。センチメンタル小説における「心」とドストエフスキー作品のそれとの共通点あるいは相違点など、指摘できることは多いはずである。
これまで述べたようにロシア語の＜сердце＞という言葉は多様な意味を担って使われていることが多く、ドストエフスキー作品全体を見廻してもこの言葉に一定の意味を与えることはできないであろう。この発表ではできるだけ幅広く作品を見渡し、そこで描かれた多種多様な「心」の表現を集めていきたい。その堆積から何らかの統一的な概念や含意が得られるかどうか、それは発表者自身も未だ定かではない。
取り上げる作品としては、『貧しい人々』『家主の妻』『弱い心』『白夜』などの初期作品と『白痴』『カラマーゾフ兄弟』などを予定している。
第168回例会傍聴記
越野剛「ドストエフスキーと病の文化史：コレラと悪魔憑きを中心に」を聴いて
五島和哉
報告者の越野剛氏は、北海道大学のスラヴ研究センターで２１世紀COEによる非常勤研究員を勤められている、第一線の若手の研究者である。本来の専攻は１９世紀ロシア文学だが、ベラルーシ文学においても業績を残しており、たいへん視野の広い研究をされる方だ。越野氏には、「プーシキンとコレラ」、「病気・ナロード・ツァーリ──19世紀コレラ暴動をめぐる言説の研究」、「悪魔憑きとムハンマド：ドストエフスキーの癲癇研究」という１９世紀ロシア文学と病の文化史にまつわる諸論文があり、今回の報告はこれらの成果を踏まえた上で、ドストエフスキー作品上の病気イメージを分析する形をとる。
報告は『悪霊』のコレラに関する話と、『カラマーゾフの兄弟』の悪魔憑きに関する話の二部に分かれる。まず第一部では、１９世紀のヨーロッパおよびロシアにおけるコレラの歴史と、それにまつわる様々なイメージが語られる。そのイメージの来歴が大変興味深い。１８３０年にコレラが流行した際に、ツァーリが病の蔓延するモスクワを訪ね、これがペスト患者を見舞ったナポレオンのエピソードと重ねて考えられた。そして翌３１年、外国人が毒を撒いていると信じた民衆がコレラ病院を襲撃したセンナヤ広場の暴動の際には、コレラが外国（フランス、ポーランド）における革命と関連づけて考えられるようになり、「病気（悪いもの）＝革命思想、外国人の陰謀」という発想が、ナロードのツァーリ信仰、知識人のナロード信仰という構造を支えた、というのだ。この報告では、コレラ
ニュースレターNo.71 2005――――――――4―――――――――――――――
という病気がたんなる自然現象ではなく、イメージとして人びとの思考の構造を形作るさまが鮮やかに描き出された。
こういった構造の中で、『悪霊』に登場するシュピーグリン工場のコレラの
エピソードを捉えれば、より問題がはっきりしてくることは自明だろう。暴動の核となったシュピーグリン工場で流行しているとされた「コレラ」とは、語り手によれば実体のないもので、明らかに革命思想のメタファーであった。越野氏は「温床rassadnik」という言葉に注目し、これがシュピーグリン工場（コレラの温床）とステパン氏（自由思想と退廃と不信心の温床）の両方に共通して用いられることから、新コレラ（１８世紀以降ヨーロッパに伝わった伝染病としてのコレラ）と旧コレラ（ステパン氏の「擬似コレラ」）の対立に、「父と子」の世代間の対立構造までを読み取っている。
第二部は「悪魔憑き」に関する問題である。「カラマーゾフの兄弟」に登場するクリクーシャとは、癲癇やヒステリーのような、痙攣、トランス、意識の喪失などを伴うものであり、「悪魔に憑かれた人」と解釈されていたが、越野氏によれば、年代を追うにつれてこれに、「クリクーシャとは悪魔に憑かれたふりをした詐欺師である」という合理的解釈と、「クリクーシャとは精神病の患者である」という医学的解釈が加わったと言う。しかし、ドストエフスキーは、この「悪魔憑き」が信仰によって快復するというエピソードを書いている。これによって「悪魔憑き」の問題は、「奇跡から信仰が生まれるのではなく、信仰から奇跡が生まれる」というアリョーシャの信仰の問題とも結びついている。これまた、病気が信仰／不信仰の問題というより大きなレベルの問題と結びついている、という事実を指摘している。
全体として、非常に本質的かつ斬新な発表であり、作品の内と外からドストエフスキーの新しい読みを提示してくれるものであった。ただし、コレラに関する論が高度に完成されているのに対し、「悪魔憑き」に関する論についてはまだまだ発展の余地がありそうだ。たとえば「悪魔憑き」のイメージは、すでに『罪と罰』においてラスコーリニコフの病を語るメタファーとして登場しているし、癲癇の問題や、「万人が滅び去る夢」との関連性もあるだろう。また、会場からでた質問にあった、「治療」や「病気にかからない状態」と病気イメージとの関連も課題であろう。いずれにせよ、非常にレベルが高い上に情報量が多く、今後の越野氏の活躍が期待されるすばらしい報告であった。
事務局だより
○ 昨年の総会は6月12日でしたが、今年は1日ちがいの６月11日（土）、昨年同様に、例会をかねて開かれます。なお会計年度は5月締めです。
○ 会誌「ドストエーフスキイ広場」第14号は曾孫来日特集など盛り沢山ですが、昨年同様、暑気払いをかねた合評会を第170回例会として、8月13日（土）午後1時～5時、池袋の東京芸術劇場小会議室７で開きます。午前中は同会場で、読書会が予定されています。
○ 高橋誠一郎氏から便りがあり、東海大学エックステンションセンターで開講される『罪と罰』に関する、氏の3回の講義、
「司馬遼太郎の文明観」と題するオムニバスの講義の案内がありました。詳しくはhttp://www.tokai.ac.jp/ext/ を開いてみてください。（木下）
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第16８回例会のご案内 下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。 場 所：千駄ヶ谷区民会館（ＪＲ ℡：03―3402―7854 報告者：越野 剛 氏 題 目：ドストエフスキーと病の文化史：コレラと悪魔憑きを中心に ＊会員無料・一般参加者＝会場費５００円 |
報告者紹介：越野 剛 氏
1972年、札幌に生まれる
2002年 北海道大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学、
2001～2003年 在ベラルーシ日本大使館専門調査員
2003年～ 北海道大学スラブ研究センターＣＯＥ非常勤研究員
ニュースレターNo.70 2004 ――――――――2―――――――――――――
第168回例会報告要旨
ドストエフスキーと病の文化史：コレラと悪魔憑きを中心に
越野 剛
発表者の主要な研究テーマはロシア文化における様々な病気のイメージの変遷である。従って必ずしもドストエフスキーを専門に研究しているわけではないが、彼の作品に散りばめられた様々な病気の描写や象徴効果は、ロシアにおける病の文化史を考える際の重要な題材だと考えている。今回はドストエフスキーの作品に表れる病気、『悪霊』のコレラと『カラマーゾフの兄弟』の悪魔憑きの二つを取上げ、ロシアの文化史というもう少し広い文脈の中で眺めることによって、小説の世界の中で病気が担っているイメージや含意を明らかにしたい。
どちらの病気もドストエフスキーの作品においては、無神論やニヒリズムの象徴として用いられる。コレラは暴動や革命など社会的な現象として、悪魔憑きは神への反抗や不信仰など内面的な現象として表現される。『悪霊』においては軽薄な自由主義思想が新しい世代に「伝染」してラジカルな革命思想に変容する「父と子」の問題、『カラマーゾフの兄弟』では信仰の是非をめぐる壮大な形而上的問題がそれぞれ病気のテーマと結びつく。そうした病気のイメージを形成している文化史的な背景を検討することは問題の理解を深めるのに役立つであろう。
コレラはもともとインドの一地方の風土病であり、ヨーロッパでは知られていなかったが、19世紀になってたびたび大流行を繰り返すようになる。とりわけ1830-1831年にはヨーロッパ・ロシアが大被害にあい、モスクワやペテルブルグでそれぞれ数千人の死者を出した。同じ時期に各地で血なまぐさい民衆の暴動が発生したことが、その後のコレラのイメージに暗い色合いを刻み残すことになる。同じ時期にはフランスの7月革命やポーランド反乱が起きており、これらの諸事件とコレラ疫を結びつける同時代の言説を見ることもできる。その他にコレラは「女性」や「アジア」といった周縁的なイメージを帯びていた。
ドストエフスキーの『悪霊』では、シュピグリン工場の不潔な環境がコレラの「温床」ではないかと疑われている。工場の労働者はピョートルの一味によって扇動され、民衆の暴動というイメージとも結びつく。一方でピョートルの父親ステパン氏のサークルは不穏な自由思想の「温床」ではないかと疑われている。自由思想、無神論、暴動、コレラといった概念が「温床」という同じ言葉を通じて重なり合っている。ステパン氏の持病が「擬似コレラ」であることも興味深い。スタヴローギンやピョートルなど主だった登場人物にとってステパン氏は父親もしくは教師の役割を果たしており、彼らによって引き起こされる様々なスキャンダルや事件のもともとの「温床」はステパン氏であるとも考えられる。ドストエフスキーの作品世界では無神論の思想がロシアという病人にとり憑いた悪霊に見立てられると同時に、伝染病のように人から人へ広がっていくものとしてもイメージされている。
ロシアの農村文化では悪魔憑きの現象をクリクーシェストヴォもしくはイコータと呼ぶ伝統がある。犠牲者の多くは女性であり、「憑かれ女（クリクーシャ）」
と呼ばれ、『カラマーゾフの兄弟』にも登場する。17世紀の公文書に最初の言及
――――――――――――――3――――――――ニュースレターNo.70 2004
が見られるが、それ以来、悪魔憑きのイメージは「信じる／信じない」という価値判断の問題と結びついてきた。18世紀の啓蒙主義の時代にはクリクーシャは悪霊に憑かれたふりをする詐称者であるという言説が広まった。19世紀になると悪魔憑きは精神病の概念で説明されるようになるが、同時に病気のふりをする詐病者というステレオタイプなイメージも生れる。ドストエフスキーはゾシマ長老の信仰治療を説明して、奇跡を信じる何らの科学的根拠はないことを認めながらも、盲目的に「信じる」という心のあり方自体が奇跡的な治療効果を生むという逆説を強調する。これは作家自身の「真理がキリストの外にあったとしても、自分はキリストのもとにとどまりたい」という逆説的な信仰表明とも結びついた問題である。
悪魔憑きは医学的にはヒステリーに類似した神経症的発作であると考えられるが、ドストエフスキーの持病であるてんかんにも悪魔憑きと同一視された歴史があり、両者の区別は必ずしも明確なものではなかった。『カラマーゾフの兄弟』に登場する「憑かれ女」は、最愛の息子に死なれたことがどうしても納得できず、神様に小さな反抗をする哀れな農婦である。ドストエフスキーの息子アリョーシャの死（てんかんの発作）は『カラマーゾフの兄弟』創作に影響を与えており、「憑かれ女」のエピソードに作家の自己投影を見ることができる。
第167回例会傍聴記
五島和哉「ドストエフスキーの＜神＞と戦後日本文学 ―信仰する無神論者たち ―埴谷雄高、高橋和巳、大江健三郎―」を聴いて
岡野秀彦
力のこもった、たいへんいい報告であった。報告者の五島氏は、東京大学大学院の 博士過程でドストエフスキーを研究している。今回の報告は、その研究の上に「趣味」の戦後文学研究をもちこんだものである。結果、研究者の緻密な論理構成と、「趣味」と称する戦後文学に対する熱い情熱を伴った報告となった。
報告は第一部と第二部に分かれる。第一部は「ドストエフスキーの神の位置 ―神・人間・自然と病気哲学―」と題され、ドストエフスキーの文学における＜神＞と人間と自然の関係について述べられた。第二部は「日本におけるドストエフスキー受容の様態 ―無神論と汎神論―」と題され、日本の戦後文学（埴谷雄高・高橋和巳・大江健三郎）におけるドストエフスキーの＜神＞概念の受容について述べられた。
第一部をかいつまんでいえば、報告者はドストエフスキーの宗教観には「病気哲学」というべきものがあると述べる。もともとドストエフスキーの世界観には、＜神 ＞と＜神＞につくられたものとしての＜自然＞とがある。この＜自然＞のうちに、人間や樹木などの自然物があるわけだ。そして、人間も自然物も、原罪によって地上におとされている。地上におとされた者たちを救うためにキリストが媒介となるのである。原罪により、人間は「意識＝病」をもつことになった。そして善悪の二元論を許さないキリスト教において、「悪」とは、いわば「善」
の不足としてとらえられる。人間にとって「病気」とは、「悪」の状態ではなく
ニュースレターNo.70 2004――――――――4―――――――――――――――
「善」の不足した状態なのである。だからその不足を自覚することによって、人
間はさらなる「善」にいたることも可能となる。これがドストエフスキーにおいて「病気」の重視されるゆえんである。
第二部において報告者は、＜神＞観念をもたぬ日本人は、無神論的、また汎神論的 にドストエフスキーを誤読してきたと述べる。そして埴谷雄高や大江健三郎は自らの 文学のためにドストエフスキーの＜神＞を意図的に誤読し、唯一まっとうにドストエ フスキーの＜神＞を受け止めた高橋和巳は、それゆえに沈黙せざるをえなかったと述べる。
この指摘には会場から大きな反響があった。一例をあげよう。日本人は＜神＞の観念をもたぬがゆえにドストエフスキーを誤読してきたというが、ドストエフスキーの文学には、この世界の苦しみの理由を神に問うようなところがある。そこに日本人は共感してきたのだ。それこそが日本人にとっての「ドストエフスキーの＜神＞」なのではないか、というものである。
筆者もまた、質疑応答で報告者に批判を述べた。筆者はこれまで、高橋和巳の文章 はだいたい読んできたつもりなのであるが、報告者が今回引用した「悪の進化につい て」という文章は未見だった。単行本には収められてなく、作品集や全集でなければ 読めぬ文章だったのである。そういったことから、報告者の「戦後日本文学」というくくりにおいて、高橋和巳にのみ力がかかり、埴谷や大江に対しては比較的に力を入れられなかったのではないか。高橋はあまり知られぬ文章を紹介されていながら、埴谷や大江は目につきやすい誤りだけを指摘されている。これはアンフェアではないか、と述べた。
改めていうまでもなく、批判というものは、報告者がひきずり出すものである。今回の報告に対して活発な意見の出たことは報告者の名誉であろう。また報告者は、今春から民間企業に就職されるとのことである。「岐路こそまさに愛すべし」、と高橋和巳は述べている。また、こうもいった。「自分がせめてこうありたいと思い定めること以外に、いかなる＜神＞もこの世には存在しないのである。」（「現代への祈願と人間性」） 学生から社会人へ。ちょうど、こういった「岐路」においてなされた報告に対する厳しい意見は、先輩である社会人からの激励でもあったかもしれない。今回の報告は、じつに楽しかった。
事務局だより
○今回の例会は札幌在住の若手研究者、越野さんの登場です。前回の1月29日から、いつになく間隔が短い例会設定で、しかも日曜日となりましたが、越野さんの都合と会場申し込みの制約によるものです。今後も幾人かの若手研究者の登場が見込まれ、例会も充実したものになりそうです。
○目下、会誌「広場」14号の編集が進行中です。原稿の割り付けなど、厄介な仕事を熊谷さんにお願いしていますが、メーリングリストというものを利用して、運営委員全員が全部の原稿に目を通せるようになっていて、相互の意見交換、連絡も機能的に行っています。全員がそれぞれ仕事を分担することによって、開かれた無理のない運営、編集のスタイルを確立していきたいと思います。14号には、ドミトリー・Ｄ氏の講演その他、特集記事を予定しています。4月刊行を目処にしています。ご期待ください。
（木下豊房）