マジャール人
特にTABLEなどで文書を整形していませんので、ご自由にこのウィンドウを読みやすいサイズにしてください。
マジャール人
ハンガリー人の自称。フィン・ウゴル語派のウゴル語系に属するマジャール語を話す。フィン・ウゴル語派の原任地は、現在のところ、ウラル山脈中・南部付近とされている。前3〜前1世紀にフィン語系とウゴル語系の民族は北と南に分かれ、それぞれ西進するが、マジャール人はバシキールあたりで独自の人種的言語形成を行った。7〜8世紀ころにドン川中流へ移り、ここでプルガール、トルコ系諸族の文化的影響を受けた。このとき密接な関係のあったオノグルOnogur族の名前から、外国語での<ハンガリー人>(スラブ語系のvenger、ドイツ語のUngar、フランス語のHongrois、英語のHungary)が出ている。
マジャール人は9世紀にはドニエストル川とドン川の間へ移り、895‐896年に族長アールパード(?-907ころ)に率いられて、カルパチ盆地(ハンガリー盆地)に入り、独自の国家を建てた。このときのマジャール人は、7部族で40万一50万人とされている。遊牧民であった彼らは、カルパチ盆地の先住民たるスラブ人らと戦うとともに、彼らから農耕を学び、彼らと融合した。11世紀初めのイシュトバーン1世の時代に諸部族の統一、農耕生活への定着、キリスト教化、統一的封建国家の形成がなり、ハンガリー王国が建てられた。こののち11一12世紀にハンガリー王国はクロアティア、スロバキアを含む国家となり、13世紀にはモンゴルの侵入があるが、15世紀のマーチャーシュ1世の治下では中欧最大の国家となり、ルネサンスの花を咲かせた。
しかし1526年から1699年まではオスマン・トルコとハプスブルク家の、その後は後者の支配を受け、その間に中貴族を中心に民族意識も芽生えた。19世紀に入って民族主義が広がり、1848年革命時に一時独立をするが失敗し、ようやく67年のアウスグライヒ(妥協)によって独自の国家を再建した。
しかし国内の諸民族の自覚には不寛容で、第1次大戦後<歴史的ハンガリー>が解体したばかりか、多くのハンガリー人を国外に残すこととなった。この状態の是正を目ざす領土の<修正主義>が戦間期の不幸を生んだが、第2次大戦後は社会主義のもとで偏狭な民族主義は克服されつつある。
なお、今日全世界でハンガリー語を話す人は約1450万人とされ、ハンガリー国内に住むものは約1000万人である。
平凡社 世界大百科事典 より 抜粋
今あなたの見ているウィンドウは正規であるドイツ参謀本部経由からきた方は、新しく別ウインドウとして開かれていますので、もとの本文に戻る場合は、タスクバー(マックの場合はメニューバーっていうんでしょうか?)などをクリックして元のウインドウを呼び出して下さい。(別ウィンドウにした理由は、あくまでも、用語解説のページなのでちらっと見てすぐに本文にもどりたいという人が多いと思いまして、別ウィンドウの方が本文にすぐに戻りやすいと思いまして別ウィンドウ形式にしました。)
あまりたくさんのウィンドウを開けるとメモリーなどが不足する場合がありますので、必要に応じてウィンドウを閉じて下さい。
検索ページなどから来た方の場合はよろしければ、ウィンドウサイズを800*600のサイズ゙にして
参謀本部へ(MIDIあり)