ナポレオンのロシア遠征の頃のロシアの首都はペテルブルグでしたので首都を明け渡してはいませんでした。すいません。まちがえました。てっきりモスクワが首都かと思いました。ごめんなさい。(サンクト・ペテロブルグともいうが、サンクトとはロシア語で「聖」という意味らしいが、ここが「聖」なる都市なんてとても私は思えないので、私はサンクトを付けたくないんですよ。たまに使うかもしれませんが。(^_^;) ) モスクワはモスクワ大公国の首都だったんですが、その大公国がロシア帝国へと発展するんですが、1712年にピョートル大帝が、「バルト海は『ヨーロッパへの窓』じゃ」、とかというわけのわからんことを言い出して首都をピーテルブルッフ(のちにペテロブルグと改名)へ移したらしいんですよ。てなわけて、ナポレオンのころのロシアの首都は一応はペテロブルグだったらしんですな。すいません。 [くそ〜。ピョートルの野郎。おめえが遷都なんかするから、わしがミスってしまったじゃないか。バッキャロウ。・・・???ナンノコッチャ (^_^;) ] いや〜人間は神様じゃないので、結構ボンミスするもんですな〜。わたしも足軽なので、ここんとこミスの連続でボロボロですな。しかし、このロシアの首都については、結構間違えやすいようで、ほかの本でも間違っていることが見つかったので、まあ、勘弁して下さいな。その同じ間違いを犯した本であるナツメ社出版の『戦いに見る 戦略・戦術辞典』のページを、わかりにくいと思われる単語の注釈をくわえた以外はほとんどそのまま本文のまま下記に掲示します。 モスクワ撤退を始めたナポレオンはクツーゾフの謀略で、厳冬の中を無残な敗走となった ・『戦争とと平和』で描かれた遠征の悲劇 一八一二年六月、ナポレオンは五〇万の大軍をロシア国境に集中した。しかし、ロシア軍は退却につぐ退却をつづける一方、ナポレオン軍の行動も鈍重で、戦いは起こらず、ただズルズルと大草原の奥に引き込まれていった。 ロシア軍もまた.内部に不満の声が上がっていた。退却ばかりで軍の土気の維持が困難になりつつあった。退却を仕事としたバークレーに代わって、ナポレオンの宿敵クツーゾフが登場する。 九月七日、ロシア軍拠点を突破して、フランス軍は戦いに勝利し、モスクワ入城となった。無理に無理を重ねての進撃である。 ナポレオンは何とか皇帝アレクサンドル一世と講和条約を結びたかった。首都を占領してしまえば交渉のテーブルにつけると信じこんでいたのだ。ところが「ロシア領内にフランス軍在るかぎり和議を開かず」の強硬な声明があるのみだ。 じれたナポレオンは、ついにモスクワを引き揚げることを決意。この機を待っていたクツーゾフ元帥は、一転して追撃戦に入る。まんまと罠にはまったのだ。そして無残な敗走となり、五O万の兵のうちパリに帰還したのは、わずか千数百名といわれている。 敗因はいくつかある。まず五〇万の大軍。この数で広域に展開したので、ナポレオンのワンマン統帥による命令戦法は通用しなかった。そしてロシア兵と違って寒さに弱い。零下一五度という厳冬のなか、フランス軍の行動力が極端に低下したところをコサック騎兵が襲撃する。動きの鈍い輜重隊(補給部隊のようなもの)が捕捉され、たちまち糧食が欠乏し、飢えと疲労で倒れる者が続出した。 根本の原因は、ロシア軍を撃滅しないでモスクワを占領したことにある。また、秋以降の戦いは避けて、春を待つべきであった。 まあ、上記の本についての間違いをすこし、弁護するとペトロブルグに首都が移った以後もモスクワはロシアの主要都市だったらしく、ペトロブルグとモスクワは【両首都】と呼ばれていたらしいと、『平凡社 世界大百科事典』に書いてありました。しかし、この『平凡社 世界大百科事典』もレニングラード(ソビエト連邦時代のペテロブルグの呼び名)の説明の[市街・主要建築物]の項で、「1712年首都がモスクワからこの地に移されてから」と書いておきながら[歴史]の項で「1812年首都がモスクワからこの地に移されたが、」と間違いを記述しているようですな。このように間違えると、ナポレオンにモスクワを一時占領されたからペテロブルグに首都をうつした、と勘違いされてしまいますな。非常に危険な間違いです。あれ、ちょっと話がそれた。 ようするに、結構間違いやすい事項なんですよ。はい。 他人の間違いを指摘して、自分の間違いをフォローするのは、いささか、武士らしくないですが、私は足軽なので身分相応のことをしたと開き直ってます。 ナンノコッチャ? ?(゚_。)?(。_゚) でも、一応反省はしていますので、勘弁して下さいね。 なお、このペテロブルグはけっこう名前が時代によって変化していてわかりにくい。はじめは、ピーテルブルッフ(オランダ風)だったが、1725年にペテロブルグ(ドイツ風)に改名されたが、同時にギリシャ風にペテロポーリ、あるいはペトロポリスとも呼ばれたりした。その後、第1次世界大戦の始まった1914年にブルクが敵国のドイツの言葉という理由でスラブ風にペテログラードに改名され、ロシア革命後の1924年後にレニングラードとなり、そしてついこないだの1991年にまた、ペテロブルグと元の名前に戻ったらしい。この年はソビエト連邦が崩壊した年でもある。 |