ハプスブルク家ある末えいの一徹
「締め出し法」無視して入国
「時代錯誤の法は撤廃せよ」
オーストリア 騒ぎ 。結局「死文化」
ハフスブルク家
現在のスイスが発祥の地とされる。十三世紀ごろからオーストリア地域を押さえ、旧東欧、独、伊、ウクライナ、スペインや新大陸なとに版図を広げた。十五ー十九世紀にかけて神聖ローマ帝国皇帝の座を占めた。首都ウィーンを中心に、華麗な文化の王朝を築いた。
ハプスブルク法は第一次大戦後のオーストリアにとって、「ハブスフルク後」の新欧州秩序であるベルサイユ体制を受け入れるあかしだった。第二次大戦後、オーストリアは独立回復の際に改めて同法順守を連合国に誓約した。同家が支配した東欧の覇権を握った旧ソ連の要求とされる。
神聖ローマ帝国の皇帝が輩出するなど、第一次大戦まで欧州に君臨したハプスフルク家の未えいが今年三月、オーストリアの「皇帝一族の締め出し法」 (ハブスフルク法)を無視して、入国を強行した。
それをきっかけに、八十年前にできた法の是非をめぐる激しい論争となり、大統領や国会議長らが対立する大騒ぎの末、法を事実上、死文とすることで決着した。今やオーストリアの観光資源ともいえる「ハプスフルク」の政治的波紋の大きさに、市民は驚く一方、「なんと時代錯誤な」とあきれている。
(ウィーン=宮田 謙一 )
入国したのはオーストリア・ハンガリー帝国の最後の皇帝カール一世の三男フェリクス・ハプスフルク・ロートリンゲン氏(七九)。幼いころ父とともに国外追放され、スイスなど欧州を転々とし、メキシコに落ちついた。今は欧州中の名門一族との血縁・親密関係を武器に金融ビジネスで成功し、ベルギーに住む。
帝国滅亡後のー九一九年、その復活を恐れたオーストリア共和国は「家系と絶縁し、王権、財産権を放棄する誓約書に署名しない限り、一族の入国を認めない」との法を定めた。 しかし、フェリクス氏は仕事を理由に三月十一日、ドイツから車で入国した。欧州連合(EU)内の国境のチェックは極めて簡単だ。氏のオーストリア旅券の六ページ目には「入国を禁じる」と手書さされていたが、係官は表紙を見ただけで入国させてしまった。
念願を果たしたフェリクス氏は首都ウィーンで記者会見し、「帝国再興の野望なんてあるはずがない。時代錯誤の法をすぐ撤廃してほしい」。代々の皇帝一族をまつるカプチーナー教会にもうでて、三日後に出国した。警察も手を出しかね、「次は検挙する」と警告しただけだった。
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カール一世の子のうち、欧州統合運動の指導者として知られるオットー氏(八三)は誓約書に署名。今年二月に死去した次男ロベルト氏も権利を放棄した。だが、四男力ール・ルートピヒ氏(七九)とともに署名を拒むフエリクス氏は、母の葬儀で例外的に祖国訪問が許された以外は「国外追放」が続いてきた。
もっとも、権利を放棄したとはかえ、オットー氏は一族の当主として伝統の紋章を管理する。百人を超す一族の結婚は今も家族会議で承認されるという。「放棄なんて形式的なもの」といわんばかりの長兄流の割り切りが、フェリクス氏には我慢ならないらしい。 ウィーンでの記者会見でも、「王権や財産権に未練はないが、ハブスブルク家の人間であることは否定できない」と、アイデンティティーへのこだわりを強調。オーストリアが昨年一月にEUに加盟した以上、市民の域内自由通行を妨げるのは違法、とも訴えた。
波紋は政界に広がった。保守党やクレスティル大統領が「もはや脅威であるはずがない」と法の即時撤廃を主張したのに対し、連立与党の杜民党は「放棄さえすれはすむこと」(フィッシャー国民議会議長)。EU法と国内法はどちらが優先するか、一族の基本的人権は制限しうるか、などと法律論争にまで発展した。
旧東欧諸国で八九年、共産党政権が崩壊したあと、ハンガリーなどでハブスフルク家などの人物を大統領、国王に担ぐ動きが表面化したことも反対派の脳裏にはあったかもしれない。
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結局、一ヵ月に及ぶ議論の末、政府はフェリクス氏らがこだわる「家系との絶縁」には目をつぶり、王権と財産権の放棄だけで入国させる方針をわさわさ閣議を開いて決定。四月十六日には、議会も承認した。
知らせを受けたフェリクス氏は「五月下旬に再帰国するのを楽しみにしている」と声明を発表した。だが、法にはー族の大統領就任を禁止した条項もあり、こちらはなお有効とか。完全な”復権”にはまだ相当の年月が必要のようだ。
(1996年の朝日新聞の夕刊(詳しい日付は現在不詳。))
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