青木タカオ「ちょっくら・おん・まい・でいず」

「今日の夜話」過去ログ'04.4〜7月

「古い旅館」7/29

 先日、古い旅館にみんなで泊まった。

 その宿は、やっているのかやっていないのか、わからないような感じであり、声をかけてみると、宿の人も驚いていた様子であった。

 部屋に通されてみると、実に典型的な日本の宿であった。掛け軸、100円コインテレビ、古いクーラー、きじの剥製、色あせたふすま。。

 昭和50年代のときには、まだ新しかったであろう。

 お客さんも僕らだけであった。今回はみんなでわいわいと泊まることができたが、これが一人となると、状況的にかなりきびしい。

 特に広い宿に一人ではね。ひとりでないとしても、部屋にひとりというのは、けっこうきつい。

 そんなふうに思うようになったのは、ここ10年くらいかな。それまでは、僕もひとりで古い宿に普通に泊まったものだった。

 今は、部屋のパワーのほうに僕の方が負けてしまう。さすがに部屋も30年40年もたつと、だんだんと人格が出てくるのかもしれない。

 部屋の年齢と自分の年齢が一緒だと、近すぎてきついのかもしない。 ひとりだと、パワーを部屋に吸われてしまうのかもしれない。

 若い頃から僕は、古い宿では、おかしな夢を見てしまうくせがあった。そういう精神状態になってしまうのだろう。

 みんなでわいわいと騒いでいれば、そのまま夜明けになってしまい楽だ。

 でも、本当はひとりでも、何も考えずにさらりと古い宿に泊まってみたい。何も考えずに。


「では、行きましょう」7/27

 その担当の人は、年齢は60才は越えているだろう。

 昼前の仕事で忙しくしていた。

 「いつもどうも。あのう、また近くの倉庫の方まで、よろしくお願いしたいのですが、今、忙しいですよね」

 と、僕がひかえめにたずねると、、

 「あっ、倉庫の方ですか。。では、行きましょう。」

 そして、にこりと笑った。

 僕にはその「では、行きましょう」の言葉の響きが、現代にはないような響きに思えたのだ。

 僕がずっと過ごして来た友達からは、聞いたことのない響き・・。

 戦後の世代の人達の持つ、独特な団結感というか。あきらめ感というか、、。

 うまく言葉では説明できないのだが、おおらかな心を感じたのだ。

 昭和20年代、30年代の日本映画の中にあった、きちんとした発音のように。

 小さな町工場の工場長の白いワイシヤツのアイロンのかかった襟のように。

 この言葉は、響いていた。

 「では、行きましょう」

 それは、ずっと僕らが忘れている言葉かもしれない。


「球ひろい」7/21

 今、卓球のエッセイをまとめているのだが、いたるページに「球ひろい」の言葉が出てくる。

 「球ひろい」。。それは、卓球を中学で始めた頃の悔しい思い出とも重なっているが、実に素晴らしい経験ではなかったか。

 (特に自分をいじめているわけではなく、、)

 球ひろいをしながら、先輩たちの卓球プレイを研究すること、それは本当に勉強になるだろう。

 「球ヒロイ侮ルベカラズ」。

 と、思ってはみても、そのときは一日も早く卓球台で打ちたかったものだ。

 僕はとても、卓球に燃えていた。部活動としたら完璧な卓球部生活を送っていたかもしれない。(あんなふうにギターも練習すればよかったな。)

 すごく模範的に燃えていたので、球ひろいも完璧に「球をひろう」ことに集中していた。

 (ちょっと失敗したかな。)

 それにしても、あの中学時代の部活動のパワーがもう一度、僕に戻って来ないものか。

 「球ひろい」。その実体はただ、打つ台が無かったといことなのだけれど。

 今は7月、そろそろ中一の卓球部のみんなは、少しずつ台で打つようになる時期だ。

 僕は一所懸命に球ひろいをした。それは実は失敗だった。

 球ひろいをした、先輩の弱点を見抜くらいでちょうど良かったな。


「佐久間荘」7/19

 高円寺から、新宿の中央図書館まで自転車ででかけてみた。

 ・・・思ったよりも遠かった。。

 しかし、自転車で来たために、僕は15年前まで住んでいたアパートを訪ねることもできた。

 (今もあるかな・・)

 そこは目白と下落合の椎名町の三駅の真ん中にあり、10年間住んでいたアパートだ。

 東京に出てきてはじめて借りた四畳半のアパート。

 自転車で進んでゆくと、当然ながら回りの景色はかなり変わっていた。マンションが多く建っていた。

 なかったはずのマンションに挟まれ、僕の住んでいたアパートはまだあった。

 二階に六部屋あるのだけれど、ほとんどの部屋は雨戸がしまっていたので、空室が多い状態なのだろう。

 僕の部屋も空いていた。

 ・・・借りられるじゃん!!

 もう二度と住むこともないと思っていたアパートではあるけれど、住むということもできるのだ。

 東京に出て来て一度しか引越してないので、もし借りられれば、時間がつながるということなのだ。

 いいじゃないか。

 それもどちらにも泊まれるとしたら。

 バイトを終えて、どちらに行こうかなとか思ったりね。。

 実際住んでみると、最初は新鮮であるけれど、そのうち慣れたりしてね。それは困る。

 最初は15000円だった家賃も、10年後は22000円になっていた。今はいくらだろう?

「あら、アオキさんなら一万円でいいわよ」そんなふうに言わないだろうか。

 そんな夢を、目白で見ました。


「しぐれ」7/15

 今日もまた、しぐれアイスを買ってきてしまった。

 「しぐれ」と呼ばれているけれど、シンプルに冬の「しぐれる」から来ているのだろうか。

 基本形は、「赤いしぐれ」・・。

 「赤」は、いちご味・・?

 あたりまえのように、思ってきたけれど、それはなぜだろう?

 かき氷も、基本形は「いちご味」だ。

 しかし、いちごの味がするかは、僕には確信がない。

 ただ、あま〜くて、何かしらの味が付いているのだ。

 あれは、ストロベリー味だったのか。シロップの味だったのか。

 ただ、赤色が夏らしかっただけではないのか。

 ストロベリーをイメージしながら、「しぐれ」を買う人が多いとも思えないが。。

 「氷」と「いちご」の出会い。

 シロップだとしても、冷たくて、味の方がもうひとつあいまいだ。

 メロン味・レモン味ならなんとなくわかるのだけれど、いちご味がよくわからない。

 それは僕だけなのか。。

 ・・・・・

 ・・・・・

 氷イチゴの「赤色」は、、もしかしたらスイカのイメージとつながっているのでは?

 夏らしいしね。スイカ味シロップではだめだったのか。

 ふと、今日はそんなことを考えてみました。


「クラシック」7/10

 先日、クラシックのコンサートに出かけた。

 そして行くたびに、自分の創作にかける思いの小ささを感じてしまう。

 いや、クラシックの大きさに驚くというべきか。

 一曲に対して、あれだけちゃんとアレンジをするには、どれだけの時間が必要なのだろう。

 僕なんか、イラストを一枚さらさらっと描いたようなものかもしれない。

 そしてクラシックは、油絵を何枚も何枚も連作で描いた感じかもしれない。

 クラシック音楽を聞きながら僕は人生のことを考えた。

 いや、人生のようなクラシック音楽のことを思っていた。

 僕自身には、それを感じるだけの力はないけれど、クラシックを愛する人たちには、それぞれの作品が人生のように感じられるのでないか。

 おなじ一曲の中の豊かな展開。その中にある映画のようなストーリー。

 しみじみと、聞き入るそんな時間。。

 それを味わえるだけの耳が僕にはなくて残念だ。

 なぜ、そう聞こえてこないんだろう。

 クラシックの数曲を、聞き続けてみれば、何か見えてくるのかもしれない。

 ああ、そんなふうに音楽を味わってみたい。

 まだ出会えてないだけなのだろう。


「見えないお店」7/4

 先日、古い友人が部屋に遊びの来た。僕よりも10年長く、東京のこの街を知っている先輩。

 改札口で待ち合わせをしたあと、いつもの商店街を抜けていった。

 「お菓子でも、買っていこうかな。あの角のちょっと先のお店で。もうコンビニのお菓子もあきちゃったな。」

 「ああ、あそこね」

 その角を曲がり、そしてお菓子屋さんの前に来た。友人はそこを過ぎてしまった。

 「あれ、ここじゃないの?」

 そこは、文明堂のカステラ他、普通にあるちょっとオシャレな菓子屋だった。

 「ちがうよ、こっちだよ。こっち」

 その店の数件先に、駄菓子専門店があったのだ。

 「あれ、何この店? 今まで気が付かなかったよ」

 あふれるばかりの駄菓子の袋が、選び放題に店じゅうに飾られている。

 僕はこの道を朝に夕に、もう10年以上歩いているが、今日はじめて店のこの存在を知ったのだ。

 この街を歩いた年数といえば、もう20年以上にはなる。普段、街歩きは好きなので、商店についても気を付けて歩いているはずなのに。。

 「おれ、ここの駄菓子好きなんだよね」

 店に入れば、なんとも魅力的に駄菓子が、並んでいるではないか。それもだいたい300円ほどの値段で。

 (なぜ、いままで気が付かなかったのだろう。。)

 たしかに店がまえは地味ではあるが、いくらなんでも10年間、目に入らないって、自分の感性を疑ってしまった。

 駄菓子を選ぶ10年先輩は実に楽しそうである。

 今度は、僕がこの店を君に紹介しようと思う。


「歌の家」6/29

 ・・・歌は家みたいなものかな。

 今、歌を作っているが、しばらく前、こんなことを考えた。

 僕の歌は、どんなに時間をかけて作っても、ほとんど一回歌ってボツになってしまうことが多い。

 もったいない話。

 でも僕の先輩は、作った歌はボツになんてならないという。

 その先輩は大工さんをやっている。

 (・・・歌は家みたいなものかもしれない)

 もしも僕が大工さんだとしたら、実際に小さな家を建てるとしたら、それなりに設計図を作るだろう。

 材料をそろえ、そして無駄なく作り上げ、なおかつ人が住める家をちゃんと作るだろう。

 空地に出来た小さな家を訪ねる人。長くそこに残る家。大風が来ても丈夫な家。

 もしも僕が大工さんだったら、作った後で、すぐに家を壊すなんてしないだろう。

 もったいないし。。

 僕はいままで、歌が家だなんて考えたことがなかった。

 そして歌は料理かもしれないなとも思っている。

 材料を揃え、下ごしらえをして、隠し味をつけ、煮て、焼いて、お皿にならべて、ちゃんと食べられるもの。

 そして、メニューに加えられるもの。

 たしかに、唄作りは、料理と似ている。しかし、僕はかつてそんなふうに歌作りのことを思ったことがなかった。

 歌はもともと生き物であり、まるで、走ってゆくチーターでも捕まえるように思っていた。

 現場勝負の気持ちでいた。

 しかし、それにも限界があるようだ。

 料理はまるで出来ないが、家を建てるという気持ちにはなれそうな気がする。

 昨日から、歌の家を、作り中である。


「円空の仏像」(6/22)

 松島の瑞厳寺に寄ったとき、宝物館に「円空」の仏像があった。

 円空は江戸時代の仏師で、一生のうちに12万体の仏像を作ったといわれる人だ。

 12万体・・。その数は尋常ではない。円空仏と一般に呼ばれているものは、木をザクッザクッと削った感じのものが多い。

 その作品は、テレビで何度も見た事があるが、流れるラインが個性的だなぁと思うくらいだった。

 しかし、、。

 しかしだ。瑞厳寺の宝物館にあった円空の仏像を見て、僕はすべて円空に関する考えを改めることになった。

 だいたい1メートル20センチくらいの仏像ではあったが、ひとつの木からそれは出来ていて、木の木目とその形に合わせて仏像が掘られてあるのだ。

 仏陀の座っている姿ではあるけれど、その姿はくねりとしてユーモラスだ。木の形を生かしたためそうなったのであろう。

 (ああ・・。)

 僕はかつて、何千という仏像を見てきたけれど、初めて感じるものがあった。

 まるで生きてるようなのだ。いや、生きてる「気」を感じるのだ。

 いやいや、「気」が生きてるというべきか・・。

 この作品もまた、ザクッザクッと削った仏像ではあるが、ついさっきそれは生まれたようである。

 円空という仏師は「木」のもつ「気」を感じられた人であったのだろう。

 この仏像の前に立っていると、あまりのみごとさに動けなくなってしまった。

 それは本当だ。僕の何かに反応したのだ。

 宝物館を一回りして帰ってくると、その仏像の前で動けなくなっている人を見た。

 いつか瑞厳寺に行くことがあったら、円空の仏像に会って来て欲しい。


「言葉」6/18

 明日は仙台に行く。

 今回はぜひ言葉の旅をしようと思っている。

 日々いろんなことに夢中になるけれど、地方に行って、その言葉を聞けるほど僕にとって嬉しいことはない。

 普段だって、テレビでよく聞くことのできる方言や訛りではあるけれど、じっさい地方に行って聞くと色んなことが全体的に重なり、とても伝わってくるのだ。

 なぜかはわからない。

 芸能人を、実際に見たときと感覚は似てるかもしれない。

 自分もまた新潟の訛りがあり、そこからやって来た人といってもいいだろう。

 地方に行くということは言葉の異国に行くようなものかもしれない。

 そして僕は、話し言葉の中にあるリズムや、流れの強弱や高低が、とても好きだ。

 どこか音楽のひとつであると言ってもいい。

 目や音で見える感情のようだ。

 僕は言葉のリズムの中から、いろんなことを探っていこうと思う。

 どの地方の言葉にも、美しい流れがある。

 僕はそれを見つけに行きたい。

 なぜ、こんなにも言葉が好きなんだろう。自分でもわからない。

 自分でもわからないところが、気に入っているのだ。


「札幌みそラーメンファン」6/16

 先日、札幌に行ったけれど、みそラーメンを食べる機会がなかった。

 ・・・・

 僕は、東京で食べる札幌みそラーメンが好きだ。

 それは、ばつぐんに美味しいという理由からではないのだが、、

 僕は札幌みそラーメン店の雰囲気が好きなのだ。

 そこには必ず一人のおやじがいる。

 それが好きなのだ。

 たぶん、そのおやじもまた北海道出身では、きっとないのだ。

 フランチャイズチェーン店のひとつとして、始めたのかもしれない。

 もちろん、僕が注文するのは、みそバターコーンだ。

 今から25年前、東京に出て来て、初めて一人で入った食べ物屋が、札幌みそラーメンの店だった。

 いまだに、僕はその頃のことを思い出す。

 その頃というか、その店と味を思い出すのだ。

 木彫りの熊の懐かしさと似てるかもしれない。

 とにかく僕にとっては、ラーメンの味以上に何かがそこにある。

 ちょっとした芝居小屋の芝居のような。。

 「へい、らっしゃい!!」

 お店のおやじさんが長く続けているように、

 僕もまた長い、札幌みそラーメンファンなのだ。


「ここオフィス化計画」6/13

 いや、実に本気だ。

 もう入口のドアのノブにも「OFFICE」の小さな紙も貼った。

 前にも書いたけれど、どうにも部屋が整理できないのだ。

 そして、いろんな計画を立ててはいるのだけれど、うまく実行できない自分がいるのだ。

 しかし、ここをオフィスと考えれば、きっといろんなことが、次々と実行されてゆくような気がするのだ。

 気がするだけか。。

 (・・アルバイトでも雇おうかな)

 しかし、僕が不思議なのは、すべての会社が、ものすごい量の情報や、書類をなんとかしているということだ。

 仕事自身の内容だけでなく、他にのこまごまとしたことまで、なんとかうまく進めている。

 す ば ら し い じ ゃ な い か 。

 僕もその秘訣が欲しい。

 やっぱり、オフィスにするか。

 ・・・アルバイト募集して。

 そうすれば、きっと。。

 とりあえず、社長兼社員兼アルバイトかな。


「感覚記憶装置」6/11

 僕のメガネ歴は長い。もう、かれこれ30年近くメガネ生活を送っている。

 夜は、いつも気絶するように眠ることが多いのだが、メガネをどこかに置いても、いつも朝、手を伸ばすとそこにある。

 自分ながらいつもすごいなぁと思う。どこかに感覚記憶装置があるのだ。

 長年のカンなのかな。

 しかし、これが一度みつからないと、さっぱりとわからなくなってしまう。

 たぶん、起きて最初の感覚の再生を失敗したのだ。

 もう一度も戻ろう思っても、それは呼び戻すことが出来ない。

 ・・・・

 僕も35才くらいまでは、その感覚がはっきりとわかるつもりでいた。

 そして、ここ7・8年は自分でもわからなくなってしまった。

 最初の最初の最初の最初。

 1の0.0000001秒前の一瞬。

 7・8年前から僕には、その1の0.0000001秒前の一瞬がない。

 起きた時、メガネを探すときだけ残っている。

 原始のなごりか。。


「落ちてるもの」6/9

 今、液晶テレビが欲しい。。落ちてないかな。

 そのうち、液晶テレビが落ちている時代もきっとやってくるだろう。

 普通にカラーテレビが捨てられているように。。

 ・・・・

 この2004年、どんな電化製品が捨てられていたら驚くだろう。やっぱり液晶テレビ? DVDレコーダー?

 以前は、ラジカセが捨てられていても驚いたものだった。

 CDが付いた頃は、まさかCD付きのラジカセが捨てられることはないだろうと思っていたが、それも現実になった。

 MD(ミニディスク)付きのものは、まださすがに捨てられてはいない。

 しかし、それも現実となるだろう。

 カラーテレビなんて捨てられても何にも感じなくなってしまった。

 ビデオデッキが落ちていても、「またか」と思ってしまう。

 その昔は、20万円以上した、ビデオデッキ。。

 こうして書いてくると、「ぜいたく品」になっているものは、さすがに捨てられていないようだ。

 そこには、何か法則があるかもしれない。

 ・・・・

 さて、普通にテレビが捨てられているように、液晶テレビが捨てられる時代はあとどのくらい待つのだろうか。

 5年?

 あと、5年待つか・・。(笑)


「その人たち」6/7

 外歩きの仕事をしていると、いろんな人たちとすれちがうことがある。

 蟹売りの一団と出会ったときも、その独特さが一瞬にしてわかった。

 道ばたの座り込み、はちまき姿で大声で話す彼ら。

 (何者?)と、一瞬思ったけれど、傍らに置いてあるハッポウスチロールの箱の中の蟹を見てすぐに理解できたのだった。

 ・・・・

 その日出会った、ある一団の人たちは、路地の向こうからやってきたときから、なにか違うものを感じた。

 なんとゆうか、その表情や存在がまるで100年生きた人のように見えたのだ。

 なぜだろう。なぜそんなふうに見えるのだろう。

 どこかの大陸の人たちのようにも見える。同じ日本人なのに、違う時間の中にいるようなのだ。

 そしてどの人も顔が大きく見える。誰も表情豊かで、底抜けに明るいようだ。

 そのくせ、どこか地獄の鬼たちのようにも見える。

 不思議な一団だったのだ。

 時代がまるで違う感覚。漫画昔ばなしの中に出てくる登場人物のようだった。

 さて、彼らは何者たちなのだろう。

 その謎は意外なところで解けた。

 それは僕が仕事ですぐ近くのマンションの屋上にいたときのことだ。

 さっきの彼らの一団が、屋根の上に登って瓦の交換工事をやっていたのだ。

 見てみれば、命綱というものもなく、単純に屋根に登っているようだった。

 声を掛け合い、屋根の上で仕事をする彼ら。

 地上での彼らを見たことがありますか。


「金色のライオン」6/5

 僕が最初に買ったアルバム楽譜は、岡林信康の楽譜集だ。

 1973年。ちょうど「金色のライオン」が出てた頃のこと。

 その楽譜は、今もこの部屋にあり、しみもあり、珈琲をこぼした跡もありぼろぼろで表紙もない。

 一度ばらばらになったのを、凧糸でもう一度とめてあったりする楽譜。

 コード他の書き込みもあり、本当によくこの本で唄っていたことが思い出される。

 ・・・・

 今、僕は、弾き語りブームで、中学時代の頃のように、いろんな楽譜を出してきては弾いたりしている。

 最初に買った楽譜もまた弾いてみるのだ。

 ああ、なんてなつかしい。。そして、30年の時の流れってなんなんだろうとも思えてくる。

 僕の人生はずっとこのままだったのだ。

 ・・・・

 そしてなぜか思い出されるのが、安いカセットテープのこと。安い60分テープ、90分テープに入れて、実によく聴いた。

 それはクリーム色のカセットで、表面に紙が貼られていたものだ。

 ほんの50円くらい安いだけで、買っていたあのバーゲンカセットテープ。

 その中に入っていた、岡林の「金色のライオン」のアルバム。

 30年たった僕は、あのクリーム色のカセットテープの中に入ってゆくことができるだろうか。

 プラスチックの目覚まし時計のプラスチックの秒針のカチカチがそこから聞こえてくる。

 その響きの中にずっといたようだ。


「34年目のそのまま」6/3

 小学校の頃、近所の空地近くの野原で、ガラス製のライオンの顔の置物を僕は見つけた。

 「うわっ!!」

 それは、ガラス製であったものの、僕にとっては高価な宝物に思えた。

 いったい誰がそんなものをそこに置いたのか。それは謎であったが、もちろん見つけた僕のものだった。

 僕の中での宝物。ライオンというせいもあったのだろう。何よりもそれは大事にされてきた。

 18才で東京に出てくるときも、それは僕のカバンの中に入っていた。

 それは1978年。。

 初めてガラスのライオンを見つけたのは、1970年頃であったろう。

 そのガラスのライオンの置物は、今も本棚のある。

 いつも当たり前のようにそこにあるけれど、よく見てみればガラス製なので、まったく見つけた当時のままなのだ。

 34年目のそのまま。

 この先、また30年たってもこのガラスのライオンはこのままだろう。

 記憶は色あせてゆくのに、そのとき見つけたライオンはずっとそのままだ。

 ライオンを手のひらにのせてみると、あの日の空地の午後がはっきりと思い出される。

 (30年なんてあっというまだったなぁ・・)

 僕は人生の早さがこわい。


「新曲発表会」6/1

 先月から、古い友達の歌うたいの中村十兵衛さんと新曲発表会をやっている。

 場所は、この部屋。

 月ごとに交代で新曲のテーマを出し合い、そのテーマで作ってくるのだ。

 第一回のテーマは「ダーウインの進化論」。中村さんの提案だ。

 いままで、あらかじめテーマがあって歌を作って来たことが僕はないので、今回は苦しみの中の創作であった。

 前日までの北海道ツアー中も、まだ完成してなかったので、歌詞を作り続けていた。

 中村さんは「これはゲームだよ」と言う。

 確かに、これは「ゲーム」のようだ。

 勝ち負けはない。

 相手を苦しめるゲーム?

 中村さんは精進の一環だと笑う。

 さて、部屋での発表会。

 僕も中村さんも、演奏につかえながら唄う。歌そのものより、どんな切り込みで歌を作ってきたのかが聞いてて楽しい。

 中村さんはブズーキで作ってきた。シンプルに動物の進化の歌だった。僕は動物なしで作った。

 でもタイトルは「進化論」「そこにある進化論」と、ほぼ一緒だった。

 いろんな楽しみがある発表会だ。

 なんにもないところから生まれた発表会。それがいい。


「古いギター」5/28

 久し振りに、押入の中のギターをいろいろと出した。

 一番奥にある、ギターのハードケースが必要だったのだ。

 小さな押入の一番手前から、今まで買って来てギターがしまわれてあり、それを一本一本を出しては弾いてみたのだ。

 ほんとうに久し振りに。

 僕はついつい、自分がギターだったらとか思ってしまう。

 一本一本、弦を合わせて弾いてゆく。僕の方は、音が良くなってないかなと思ってしまう。

 押入の中でのギターの生活はつらいものがあるだろう。

 もうちょっと大きな家に住んでいたら、今まで買っギターもどこかに並べて、ときどきは弾いてみたい。

 買ったギターは、もうすでにどれも20年以上は軽くたっている。20年くらい軽くたっているが、まったくギターには変化がないようだ。

 このぶんなら、あと2・30年くらいは平気でしまわれていそうだ。

 僕がいつか老人になったとしても、押入のギターたちは元気かもしれない。

 「あら、おじいさん、また押入のギター弾いてる」と、サザエさん。

 全国のおじいさんと、押入のギター。


「'85年のライブ」5/25

 今、昔のライブビデオを編集している。その中で、'85年の自分のライブがあった。

 そのビデオについてはもちろん前々から知っていたが、あまりに恥ずかしくて見られなかったのだ。

 20年たって、やっと今、普通に見られたのだけれど、いろいろと感じることがあった。

 数年前までは「あれは今の俺じゃない!!」と、強く思ったものだった。

 しかし歌っている作品が、それなりに気に入る歌を歌っていて、その頃のすべてをひっくるめて、それらの作品を作っていたと思えば、全部許すこともできた。

 24才くらいの僕はなんてピュアだったんだろう。「こんなことがあった。こんなことがあっ」と、しきりに話している。

 もう、今ではあの頃の感覚にはなかなか戻れないだろう。

 しかし、あのあとも、いろんな作品を作り、そのまま海外に出かけたのだ。

 海外旅行に出かけたあとは、その前の自分が、自分ではないと思っていたけれど、同じ僕にはまちがいない。

 思い返せば、日々ずっと歌の中にいたような気がする。

 僕のライブをみている友達たち。その友達たちがどんなふうに僕のライブを見ていたか、今ではよくわかるのだ。

 その同じ客席に、今の僕もいる。

 ・・・・

 今の自分のことを想う。

 もちろん20年もたっているわけだから、同じようにはなれないかもしれない。

 あの頃は、いろんな出来事を、そのまま受けとめていた。今は多少、評論的だ。

 しかし、あの頃の自分と、たぶん本質的なものは変わっていない。

 今日だって、明日だって、いつだって戻れる自分がいるのがわかった。

 あの頃、僕の手帖はいつもメモでいっぱいだった。もう一度戻ってみようと思う。

 もう、決めちゃった。

 20年前の僕よ、ありがとう。町のショーウインドーで会おう。


「教則本」5/21

 若い頃、いろんな教則本を買った。

 教則本にももちろんいろいろあって、本屋さんで見つけて、思わず買ってしまったものも多かった。

 しかし、まあ実際には最後までやれたためしはなく、そのまま本棚に置かれたままになってしまった。

 それからまた20年くらいたって、その本を開く僕がいる。

 (これぞ!!)と思って買った教則本は、今もどこかしら僕の勉強心を誘ってくれる。

 すごくわかりやすい。

 でも、また今回も途中になってしまうのかな。

 本を開いてみると、かつて自分が勉強したあとがわかるが、まったく記憶にない。

 教則本も20年もたてば、もっと進化しているだろうか。

 きっと進化しているだろう。

 しかし、僕が買った20年前もそう思って買ったのだ。

 そして思うことは、よくいろいろと僕は教則本を買ったなぁということだ。

 勉強好きだったということもあるのだろう。

 結局、僕が思うところ、そのものについての教則本は、部屋に一冊あれば、それできっと充分だということだ。

 もっとわかりやすい教則本を探しにいっても同じだろう。大事なことは、買ってある本がすぐ部屋にあることだ。

 勉強好きの特権かな。いや、教則本好きだ。


「最近の唄」5/18

 ここ最近、中学時代のフォークギター少年だった頃を思い出している。

 あのパワーは今思い出しても、かなりものがあった。きっと僕と同じ同年代の人も多いだろう。

 その頃は、ヒット曲ももちろん聴いていたが、自分でアルバムをとりよせては、聞いて聞いてまた聞いては、ギターでも唄っていた。

 たぶんがそれが僕の中でのフォーク第一期だ。

 そして自分の歌を作るようになって、東京に出てきて、同じ唄うたいのみんなと知り合った。

 それが僕の中ではフォークの第二期。

 知り合いになった友達の歌を、どんなときも口ずさんでいたのだ。それはメジャーで聞いてきたような歌ではなくて、個性豊かな歌詞の歌だ。

 だいたいよく考えれば、かって発売されたアルバムの中にはないから、みんな自分の新曲を作っているわけで、今現在の僕らの心に届くのは当然だろう。

 ・・・・・

 年代で言えば、'81年頃から'84年頃かな。

 その頃は、友達のライブが週に二回ほどあり、新曲もみんな一番多かった頃だ。新曲をライブで聞き、その帰り道には、そのサビのフレーズを憶えてしまい、次の日は一日頭の中で鳴ってしまう。テープに録音しなくても、歌詞をそのうちに憶えてしまった。

 これは、今でもよくある話だけれど、、、。

 今でも思い出すのは、あの頃の実に幸せだった気分だ。生活の中にいつも友達の歌があり、くちずさんでいたのだ。

 (どうして、こんなにいい歌なんだろう!!)。そう心で思いながら。

 あれから、20年以上たってしまった。友達の歌は今もよく口ずさむけれど、その頃のような幸せ感からは少し遠い。

 バンドサウンドになり、CD も作り、どんどんと先に進んでゆく友達。それはぜんぜん悪くない。

 もちろん今も、状況は何も変わってない。

 20才の頃は自分の感受性にあった歌が多かったのかもしれない。

 そして、僕はまたあの頃に戻ってみたいと思っている。友達の歌が生活だった頃に。

 なんだか、今の僕らは、中学時代の第一期フォークと似てるような気がするのだ。アルバム曲というのかな。

 さて、第二期にようこそ。


「雨が空から降れば」5/15

 よしだたくろうの「ライブ'73」のアルバムを久し振りにきいた。

 このアルバムには、多くの名曲が入っているが、その中でも「雨が空から降れば」(別役実・作詞、小室等・作曲)が特に耳に残った。

 たまたまその日、雨が降っていたせいもあるだろう。たくろう自身も「おそらく何十年に一曲の名曲だろうと・・」とライブの中で話している。

 僕もそう思う。作詞は劇作家の別役実であり、歌い手本人の作品ではない。どこか文章のような口調が、いい感じで曲とマッチしたのだろう。

 だいたい歌詞では最初からなかったのかもしれないが、詞の進みかたに無駄がなく、文だけとしてもとても生き生きしているのだ。

 そして何と言っても、たくろうの歌唱がみごとだ。バックのマンドリンの音もいい。

 作曲者の小室等の歌の方もそれなりにいいのだけれど、唄いあげている。

 たくろうの歌い方はとても静か。そのほうが、この曲はぴったりのようだ。

 しかし、もっとこの「雨が空から降れば」を唄いこなすシンガーは多いのではないか。

 「雨が空から降れば」だけをみんなで唄ったアルバムが出ないものか。

 そしたら僕も歌ってみたい。

 ・・・・・

 でもたぶん、たくろうが一番のような気がする。。(なぜか・・)

 ・・・・・

 それにしても、この曲はいいな。ユーモアがあってね。


「アルバム」5/12

 前に友達に録音してもらったアルバムを、テープで探しているが、なかなか見つからない。

 10曲入っていて、送ってもらった当時は一年ほど、聞き続けたのだ。

 しかし、なぜかメロディーを一曲も思い出せない。

 そんなばかな。。

 たぶんもう一度聞けば、するすると全曲思い出すはずだろう。

 思い出せない、名曲が10曲ある。

 これは年をとった今だから出てくる現象なのかもしれない。

 でも新鮮だな。

 なんだかどきどきする。

 またテープは見つかっていないが、一度観た映画をすっかりストーリーを忘れてもう一度観るような感じだ。

 老人の楽しみとは、こうゆうものなのかもしれない。

 僕の頭の記憶の中から出てくる、知っている歌の数々。なつかしさで震えそうだ。

 すっかり忘れたものを思い出す喜び。


「ななめの楽器」5/9

 先日、民芸品店のガラスケースの中にあるチャランゴを見た。

 39000円だったかな。色あざやかなケース付き。そこに張られている弦の綺麗さ。

 チャランゴは斜めに置かれていて、それは主人のいない、演奏中のようだ。

 ・・・ショーウインドウに、ななめに置かれた楽器。。

 そうだ。僕は中学時代、ショーウインドウの楽器ばかり眺めていた気がする。

 高価なギター。聞こえてくるような、すばらしい音。弾けなくても弾けるような気がしてくる世界。

 僕は中学1年のときにはギターが弾けたのに、実際に買ってもらったのは、中三のときだった。

 その一年の間の苦しさと来たら・・。楽器屋によっては、毎日のようにギターを眺めていた。

 憧れはショーウインドゥのギター。

 中三になってギターを買ってもらってからは、もうずっとショーウインドウを眺めることはなかった。

 カタログでもそうだけれど、なぜ楽器をななめに置くといい感じなのだろう。

 いない人が見えてくるということかな。


「SAMMY WALKER」5/5

 先日、友人より「SAMMY WALKER」というシンガーの「in Concert」というアルバムを紹介された。

 ギター一本の弾き語りのライブアルバムである。

 普通に聞いたら「これ、ボブ・ディラン?」というほど、実はボブ・ディランとジャック・エリオットに似ている。

 友人は、「サミー・ウォーカー、いいんですよアオキさん!!」と薦める。

 最初聞いたときから楽曲がいいなと素直に思い、この一週間、僕はこのアルバムを聞き続けてみた。

 いい。ホントにいい。

 一度聞いたら忘れられないような楽曲が真ん中に二曲ほどあり、それが実に印象深くこのアルバムを聞かせている。

 ギター一本のコンサートは、どこか物足りない気持ちもあったが、こうして何度も聞いている自分がいて、そのことがとても嬉しい。

 SAMMY のギターは実に丁寧にピッキングがされていて、そのへんの良さもあるのだろう。

 このアルバムは'90年頃の作品ではあるけれど、サウンドはまさに'60年代になっていて、よき伝承者の一面も感じられる。

 (SAMMY 自身も実は古いシンガーではある)

 '60年代の弾き語り時代のボブ・ディランが好きな人ならば、このアルバムは受け入れられるだろう。

 感じるものがあるからだ。それは楽曲とギターと唄い方にすべて出ている。

 そして新しさも感じる。


「私的コーヒー物語」5/2

 ・・・もし、インスタントコーヒーが生活の中になかったら。。(ドリフふうに)

 日々、僕は大変インスタントコーヒーにお世話になっている。とにかく一杯の値段が安いからだ。

 今はこんなにも珈琲を飲んでいるけれど、小さい頃はほとんど珈琲は飲まなかった。

 それはみんなそうかもしれない。

 一杯の熱い珈琲を美味しそうにすする小学生はそんなにいない。

 が、ハンバーガー屋さんで、ホットコーヒーやアイスコーヒーを頼む小学生は多いだろう。

 ・・・・

 僕にとって最初のコーヒー体験はたぶんロッテの「コーヒーガム」と明治の「コーヒービート」というお菓子だろう。

 これは大変に美味しかった。もう自分では珈琲つうのつもりになるくらいによく食べた。

 そこには南米の味がしたのだ。そして子供の僕にも、とてもわかりやすかった。

 僕が実際にそのあと珈琲というものを飲んだのは、、(まあ、そんなにおおげさなものではないが)

 小学校の4年か5年生の頃、そうインスタントのネスカフェ「エクセラ」だったかな。

 最初の頃はまったく美味しいとは思えなかった。もちろん、ミルクと砂糖入り。

 (これが珈琲というものか・・) それはまったくコーヒーガムやコーヒービートと違う味があったのだ。

 ・・・まあ、香りだけは似ていたが。

 まったく美味しいとも思えないままでの、数年間。。まあそのうち、美味しいなるとと思っていた数年間。

 さて、本当に珈琲は美味いのかが、今も実はわからないのだ。確かに、喫茶店では大変に美味しい珈琲をいただくことはある。

 しかし、あのコーヒーガムやコーヒービートの味ではない。このギャップは、ずっと僕の中に残ったままだ。

 小学生に、今きいてみたい。「君たち、コーヒーは好きかい?」と。


「'70年代の店」4/29

 東京・高円寺に古くからあるハンバーグ屋さんが、閉店した。

 もしかしたら移転なのかもしれないが、もうその店はもう一度、復活はきっとしないだろう。

 '80年代のはじめ、東京に来たときによく通った店だ。そのときでさえもう古い感じがしたので、'70年代からあったのは、たしかだ。

 '70年代の店。

 それをどう表現したらいいのか。

 その高円寺のハンバーグ屋さんには、ガラスに水彩の絵とか描かれていた。壁に飾ってあるものもどこか今の時代のものではないようだった。

 '70年代の高円寺は木造アパートもまだ多く、フォークソング好きの若者が歩いていたのだろう。

 僕はそんな'70年代風の店に入るたびに、ここで交わされた会話や、ここで座っていたベルボトムの若者たちの姿を思い浮かべては、その雰囲気を再生してみた。

 今ではもうどの店も建物自体がもう老朽していて、建て直すことが多い。同じ店でもリニューアルするだろう。

 ・・・・

 でも、よく考えてみると、'70年代の店もそうやって新しくリニューアルしてその店になったはすなのだ。その時は、一番モダンだったはずだ。

 たぶん、今入って懐かしいと感じるのは、そのモダンさが残っているからのようだ。


「ジーンズ」4/25

 ジーンズを数年ぶりで買った。

 ・・安かったので。

 もうずっと30年くらいはリーバイスかLeeのジーンズばかりだった。

 一年中はいているので、まるで肌みたいになっているのだろう。

 さすがに安いジーンズは、まるで肌ざわりが違っていた。わかっていたけれど、こんなに違うとは。。

 そのメーカーは、僕が初めて買ったジーンズのメーカーであった。

 思えばこのジーンズから僕のジーパンライフが始まったわけで、その時の気持ちにただ帰ったということなのかもしれない。

 「こんなに違う」と、言ってみたけれど、ほんのちょっとの差なのだろう。

 ・・・・

 はき心地とは別に、このメーカーが今もあるということが嬉しい。まるでそれはジーンズのような強さがあったというふうに思える。

 ジーンズはジーンズ。

 しばらくは、小学5年生の頃の気持ちに戻ってはいてみようと思う。


「15年」4/22

 外歩きの仕事をしていると、よく犬に吠えられる。

 先日、いつも吠えられる場所を通りかかったら、その家のおばあさんが出てきて「家の犬、今月亡くなちゃったよ」と言った。

 「もう老犬だったからねえ」と続ける。「えっ、何年飼っていたんですか?」

 「15年だね」

 ・・・・

 僕はその犬の飼い始めの頃から知っていて、すごく小さな小犬だったのも知っている。

 その印象が強くて、ずっと若い犬だと思っていたのだ。

 それがもう15年たっていたなんて。。

 この15年間ずっと吠えられ続けていた。

 その犬は15年吠え続けていた。

 僕はすっかり老犬になっていた事には気が付かなかった。

 一冊の本かあり、まだ最初の30ページくらいしか進んでないようだった。

 おじいさんの時期がまったくなかったまま、その場所から消えてしまった。

 吠えられた15年が、まるで3年くらいのような印象だ。
 


「良いギター」4/19

 部屋にいるときは、いつもギブソンのB-25という小さめな生ギターを弾いている。

 作られて40年はたっているだろう。僕が中古で買ってもう10年がたった。買ってからほぼ毎日弾き続けているが、ずっといい音で鳴ってくれている。

 当たった一本だ。なんと言っても、ネックが強い。いまだにまったく反っていないのだ。

 中学時代、国産のギターを弾き始めた頃、弦を張りっぱなしにしてはネックが反ったりしたものだった。

 ギターにとってネックは命である。

 アジャスターというものもネックには入っていて、多少調整はできることはできるが、それにも限界がある。

 本来、ギターは糸巻きをちょっとゆるめておくのがネックにはいい。本来ならそうするべきだ。

 しかし、僕のギブソンは弦を張りぱなしにしたままでも、まったくネックは反るような気配がない。

 なんて丈夫なんだろう。

 そして毎日、いい音で鳴ってくれている、「ギブソンB-25」。

 良いギターはいい。音だけではなく、信頼に応えてくれるのだ。

 そんなスペシャルなギターなのに、音が威張ってなく、田舎っぽいところもいい。

 ・・僕は幸せ者だ。


「ギターピックアップ」4/16

 ボブ・ディランの1964年のライブ盤のCDを買った。

 ギター一本のホールでのコンサートの録音だ。その頃はギターの音をギター自身から拾うというピックアップはなく、もちろんギターはマイク録りだ。

 強調したい場所ではギターをマイクに近づけているディランがよくわかる録音だ。しかし失敗して、何度もマイクにぶつけたりもしている。正式盤の音源として当時採用されなかった理由でもそれはあるだろう。

 現在ではほとんどのホールで、生ギターはピックアップで拾うことが多いが、大きな音をだすためには、やっばり強くピッキングしなければならない。強くピッキングをすると、ギターの音色も微妙に印象が変わってくるし、安定感もこわれてしまう。

 僕はだんぜん生ギターはマイク録り派だ。

 1964年のこのディランでのライブはもちろん生ギター弾き語りであり、マイク録りの録音だ。聞いてるとギターをマイクにかなり近づけると、相当に大きな音量になる。歌と同じくらいだ。

 それだけギター音量を強調する弾き方をピックアップ付きの生ギターでやろうとするとかなり無理が生まれてくる。単純に言って、音がにごってしまうのだ。ギターにはそれぞれ、一番いい音でなる音量というものがあり、それはとても大事だ。

 このライブ盤では、生ギターの音がマイクに近づくたびに、大きな音量になってしまうが、それも微妙に強調の差があり、歌とギターの一体した響きを作っている。

 見ている側にもそれは伝わっているだろう。

 僕はやっぱり生ギターはマイク録り派だ。


「時間の先端」4/12

 ここ数日とても眠く、何をするわけでもなく時間を使ってしまった。

 海外の旅に出ていた期間、今思い返してもとても充実していた。

 それはDVD の画面のように、ずっと記憶の中の残っている。

 しかしその当時、そんな時間に自分がいたなんて思えていだろうか。

 それと同じことで、時間の先端のいるときは、今の素晴らしさの実感がないようだ。

 桃の薄皮の外と中身のような関係なのかもしれない。

 何にもないような毎日の時間の中に、永遠性のあるものが含まれていると信じることもできる。

 たしかにそんな日もある。

 だいたい25分の1くらいの確立だ。しかし、これがまた10年もたてば、ほぼ毎日が良かったと思えてしまうのか。

 時間の先端はいつも思い返すことが出来ない。


「こぶしファンクラブ」4/7

 春と言えば、なんと言っても桜と言われている。

 桜はその散りゆく美しさも含めて、僕ももちろん大好きであるけれど、個人的には「こぶし」そして「もくれん」をとても愛したい気持ちがある。

 こぶしの花が咲いているのを見ると、まさに春近しといった実感があり、普通に街角で、こぶしの花か咲いていると単純に感動してしまう。

 白いのが「こぶし」。紫色なのが「もくれん」。5メートルくらいの樹木に、いっせいの上に向かって咲く花は、力強く、まさに「こぶし」という表現の響きもびったりだ。また同じように紫色の「もくれん」が咲くのも愛しい。

 こぶし・もくれんファンクラブというものは無いのだろうか。

 まあ、こぶし・もくれんの下で花見というわけにもいかないかもしれない。

 路地を曲がったとき、そこに咲いていてギョッとして驚き、心打たれる楽しみ。それを楽しむことを、こぶし・もくれんファンクラブとしたい。

 その入会条件は簡単だ。ただ好きであればいい。


「楽器製造」4/4

 浜松の楽器製造工場のテレビを見た。

 浜松なんて遠いなぁと思えうけれど、もしかしたら自分も楽器製造に就職したかもしれないなって思う。

 ギターがとても好きだったからだ。

 ギターがとても好きなので、今も歌を作ったりしているけれど、逆にギター制作の方に行っていたかもしれない。

 浜松に住んでいる自分。どこかにアパートを借りている自分。東京から遠いところにいる自分。高円寺から遠い自分。

 浜松の僕のアパートの本棚にはどんな本が並んでいるのだろう。CDラックにはどんなCDが並んでいるのだろう。インターネットはウインドウズだろうか。どんなサイトを訪れているのだろう。

 自分と同じ名前の人を検索したりしているだろうか。

 このページを見つけているかもしれない。

 また逆に僕は彼の作ったギターを使っているかもしれない。

 もうひとつの人生。

 もうひとつの人生をひざに抱えて歌う僕。

「今日の夜話・過去ログ'03年11月〜'04 年3月」

「ちょっくら・おん・まい・でいず」の本編に戻る

TOP   Jungle