青木タカオ「ちょっくら・おん・まい・でいず」今日の夜話、過去ログ'02-7月〜10月

「にわとりの朝」10/30

 朝、にわとりが、小屋の外を歩く。

 トコトコと・・。

 冬はじめの朝、ニワトリの足にあたる小石の冷たい感触。

 (ツッメタイ・ツッメタイ・コッコココー)

 「コー!!」

 それは、朝のひと鳴き。

 テレビスタジオで準備している、お天気お姉さんよりも早く、

 ニワトリの声が今日を告げる。

 「サームコココ・サームコココ」

 「サムイコー・デモハレルコー」

 僕らに届く、今朝の空気の、朝一番。

 今日は、サムハレコ。

 了解。




「スピーカーいろいろ」
10/27

 「スピーカー」は漢字では、良い言い替え文字がない。

 言葉的には外国人だ。と言って、外国の音がするわけではない。

 高円寺駅前の、焼き鳥屋「大将」の元の二階には、古いスピーカーが柱にあった。その表面はなぜか新聞紙が貼られていた。

 そこから流れてくる演歌がなんとも、いい音だった。いままで聞いたどのスピーカーよりも良く聞こえた。

 ・・それはただの思い込みかもしれないが。。

 もうずっと前にひろったスピーカーを、先日、ラジカセに付けてみたところ、実にいい音で鳴ってくれた。

 なんというか、どのCDを聞いても、ぴったりときて、他の作業の邪魔にもならず、それでいて、ちゃんと印象に残っているのだ。

 意外だった・・。

 高いスピーカーではない。特別にいい音がする訳ではない。しかしこの部屋にはぴったりなのだろう。

 友達が来る。会話は進む。音楽は流れている。

 「このCDは誰?」

 その言葉を待っている。




「立ち食いそばマニア」
10/24

 マニアというほどでは、ないんですけど・・。

 ここ最近、なぜか立ち食いそば屋にはまっている。

 まあ、立って食べるということでもないんですけど・・。

 ただちょっと寒くなって来たということだけかもしれない。

 いやいや、もっと深いところで、立ち食いそばにはまっている。

 日本じゅうのどこにいってもいいけれど、今は、そこがぴったりだ。

 そこには、ちゃんとした時間が流れていて、生きてるって実感するのだ。

 おかげで、なんだか、最近太ったような気がするけれど、思いこみかなぁ。

 立ち食いそばでの時間は、何かの薬のように、自分を元気にしてくれている。

 そんなふうに思える場所を、人はそれぞれに、ひとつふたつ持っているだろう。

 今の僕の楽しみは、行く先々の立ち食いそば屋さんに、なにげなく寄ってみることだ。

 初めてなのは、知っている。しかし、そこがいい。そして外に出る。すぐ近くには、駅。

 そこがいい。




「歌作り」
10/21

 「ピアノは、一日休むと自分自身に、二日休むと共演者や先生に、三日休むと観客にわかってしまう」

 とは、よく言ったものだけれど、歌作りもしばらく休むと、カンがなかなか戻って来ない。

 ギターとノート出してみるけれど、どうもうまく進んで行かない。ちょっと休みすぎたようだ。

 こんなときは、初め1行2行だけ書いて、後はあえて作らないのがいい。作ってしまうと、パズルがうまく合わなくなってしまうのだ。

 その前に最初の1行2行を書き直す必要も出てくる。

 ここからが長い戦いだ。たらたら、たらたら、テレビを観たり、CDを聞いたり、本を読んだりして、歌作りのためのテンションを弱めておきながら、歌を作るのだ。

 それも、なかなか進めずに・・。

 だんだんと「カン」が戻ってきたら、今度は一気に、最後まで作ってしまう。

 それしかない。

 歌作りは僕の場合、2ヶ月休んだら、ゼロに戻ってしまう。




「冬眠諸説」
10/18

 熊は冬眠をすると言う。

 もちろん亀も冬眠する。

 その日が来ると、亀は温度差とは関係なく、砂にもぐった。

 その日というのは、僕らにもあるのではないか・・。

 10月のある日、僕はバイト先に遅刻して行った。深く深く眠ってしまったのだ。バイト先へ行くと、友人もまた、「いやぁ、眠くてね〜」と言っていた。

 それは、冬眠のなごりではないか・・・?

 また先日、こんなことがあった。その夜、外に出ると、殿様ガエルが何匹も道に出ていた。

 「東京冬眠なごりDAY」が、あるやもしれない。いや、きっとある。

 特別に眠い日、みんな遅刻してしまう。

 「冬眠前線」の北上?

 また春になったら、特別に目のさえる日が、一日ありそうだ。

 誰か、それを証明して欲しい。

 ノーベル賞をもらって欲しい。




「靴のカカト」
10/7

 靴のカカトには、すまないと言うばかりだ。

 だいたい、サンダルがずっと似合っていたのだ。小学校の頃は、ずっと裸足でがんばったことだってある。

 (別にそれが偉いというわけではないのだが・・)

 中一の時、学生靴をはいたとき、カカトに金具を付けてもらった。今でも、その名残はあるのかは知らない。

 それからはるばる数十年。僕は靴という靴のカカトをすり減らしてきた。普通の人の3倍から4倍いや、5倍の早さでへっていった。

 それはしかたがないと、ずっとずっと思ってきたのだ。歩くときに、靴の事を考えて歩くことなんて出来そうもない。

 ところが、今回買った靴から、僕は靴のカカトを気にしながらずっと歩いている。

 自分が信じられない。

 人は突然に変わる。




「僕の夢、わたしの夢」
10/4

 この夏、飼っているみどり亀が、かなり大きくなった。

 そろそろ水槽も狭くなってきた。で、ひとつ僕には夢がある。

 ぜひ、水槽の中に、竜宮城グッズを置いてみたいのだ。

 みどり亀が渡れるような、朱色の橋とか作ってみたい。お城なら当然だろう。

 亀と言えば、浦島太郎。そして竜宮城。縁は深いだろう。「浦島太郎」の昔ばなしは、いつからあったのかな。ちょっと調べてみたら、かなり古そうだ。

 亀の方でも、懐かしい気持ちになるかもしれない。僕だって、懐かしい。

 同じことを考えている人は多いかもしれない。ちょっと、探してみよう。

 東急ハンズに、竜宮城セットってないかな・・・。

 そして、いつか僕も飼っている亀に乗って竜宮城に行く夢を見よう。




「ラッパの頃」
10/1

 それは、とんと昔のことであったとさ。

 巡り巡ったその年の頃、ジーンズのラッパズボンが大ブームになった。ジーンズというジーンズがみんなベルボトムになったのだ。今で思えば信じられないけれど、本当の話だ。

 僕は小学6年。友達が次々と、ベルボトムのジーンズに替えていった。そのラッパさかげんは半端なものではない。着替えのとき、教室の後ろに、ベルボトムのジーンズを並べて、そのラッパさかげんを比べたものだった。

 ラッパの頃、あのときの気持ち。

 ラッパの頃、ああ、あのときの気持ち。

 駄菓子やに寄っても、本屋に寄っても、自転車に乗っても、そのまま布団に入って眠ってしまっても、ずっとベルボトムだったのだ。

 そのラッパさ加減はたしか、幅30センチに近づこうとしていたはずだ。誰もおかしいといわない30センチのラッパズボン。その街歩き・・。

 ラッパの頃、どこに行っても、ラッパの気持ちがあった。

 ラッパの頃、ラッパの気持ちで、どこへでも行けた。

 その気持ちは、今だって、ラッパズボンをはくしかない。それはもう、とんと昔の話。。




「ギターケースの話」
9/28

 中学のときは、憧れだった。

 先日のこと、引越しをしたと思われる家の前に、ギターケースが置いてあり、「ご自由にお持ち下さい」と書かれていた。

 見れば、1970年代のフォークブームの頃によく見かけた、黒いケースの回りにアルミサッシが巻いてあるタイプのものだった。

 (あれが、おもいんだ・・・)

 実は、それと同じケースを僕は持っていた。丈夫だったけれど、とにかく重い。学校までの3kmを持ち歩くだけで、腕が痛くなってしまった。ギターを弾くのに、それは良いわけがない。良いわけがないよ。

 さすがに、そのときの経験で、ハードケースは懲りてしまった。今はずっとソフトケースを使っている。飛行機の移動以外は、まったく問題がない。

 よほどの事故がない限り、生ギターが壊れることはないだろう。それよりも、ギターを持ち続けて、痛くなった指でギターを弾くということが、僕には信じられない。

 逆にそれで、指の力がつくという事はあるかもしれないが・・。

 中学生のとき、ギターのハードケースを持って、歩いている人は本当にカッコ良かった。早く自分もそうなりたかった。

 それは、いいことだな。。そのうち信じられない位、軽くなると信じよう。




「思い込み」
9/24

 つい5年くらい前まで、夜空のどこかに月は、あるものだと信じていた。

 だって、昼に太陽は、毎日出ているからだ。

 月の見えない夜は、雲のどこかに隠れているものだと信じていた。しかし、あの星のきれいな夜、その夜空のどこにも月がないことを知って、驚いた。

 (月がなくなっちゃったよ・・)

 後日、友達から、「ひと月の半分は夜空に月はないよ」と、教えられた。

 (そうだったのか・・)。それはかなりのショックだった。

 僕の実家は海のそばだったので、毎日、夕日が海に落ちていたと信じている。

 しかし、それは本当か・・?

 本当に本当か・・?

 そう、思い込んでいるだけではないか? まったく自信がない。

 外国の有名な詩人が、毎朝、外に出ると、薄汚れた服を着た、もの乞い人が、傍らに座ってこちらに頭を下げている姿を見た。それは、毎日だったので、ずいぶん、まじめな人だなぁと思って、近寄ってみると、それは、朽ちた物入れだったと言う。

 思い込みといえば、いつもこのストーリーを思い出す。この話は、たしかアンデルセンだと思ったが、どうもそれも、僕の思い込みかもしれない。




「秋・妄想」
9/21

 変身の秋。。

 秋になったら、変わってみたいと、君は思わないか?

 新しいカバン。新しい靴。新しいメガネ。新しい服。新しい帰り道・・。

 春では普通すぎる。まるで、朝に着替えるようだ。夏は、暑くて頭が回らない。冬はその気力が暖まらない。やっぱり変身するのは秋しかない。

 新しいカバンはいいな。すべてが新しくなる気がする。春はカバンのきっと誕生日だ。それはまだ生まれたばかりで、自分でもよくわかってないだろう。夏のカバンは、芋虫からさなぎにかわるようなのだ。こんな時期に、チャックを開け閉めしてはいけない。

 そして秋。カバンはやっと、自分の位置を理解する。落ち着いた状態になる。そして肩にかかり、この世の旅に出るのだ。靴もまた同じだ。

 秋になると、カバンが呼ぶ。靴が呼ぶ。

 本当なら、衣替えのように、秋に「変身の日」を作るべきだ。その日のために、みんな一年準備をして、変身を考える。新しい自分になるのだ。9月20日あたりがいいかな。

 社会全体もそれに合わせて、いろいろ催しものや、店のセールが行われる。「変身の秋のご用意はできましたか?」と、いう感じだ。商店街も活気ずくだろう。

 こんな日を利用して、カツラをかぶるのもいい。ツッパリを卒業するのもいい。

 もう、いいことばかりだ。




「秋の思い出」
9/18

 「思い出深き秋」とは言うけれど、目をつぶってみても、秋のことで、あまり思い出せない。

 しかし、秋に、いろいろ想い事をした記憶は多い。「物想いの秋」というところだろうか。

 夏や冬のことは、いくらでも書くことができる。しかし春と秋は・・。

 (おれは何をやっていたんだろう?)

 夏が終わって、秋になる。それは通常の気温になるということである。

 あとは、夜の虫が鳴くということだ。いちぢくを食べたり、あとは運動会?

 今は秋がとても好きだ。とても好きだけれど、それが思い出につながってはゆかない。

 「思い出多い秋」というのは、実の僕の中では、思い違いだったのだ。

 夏が来るのは、とても嬉しかった。秋はその余韻の続きだった。夏+秋で、ひとつだったのかもしれない。

 「秋の思い出」は老人になったときのために、とって置いてあるようだ。




「トンボのいない夏」
9/14

 気がつけば、トンボのいない夏。

 つい最近、シオカラトンボを見た。もう秋なのに。。すっかり夏の暑さばかりに気をとられ、トンボのことは頭になかったのだ。

 セミは頭上から鳴いてくる。傘を差して歩きたいようなセミのシャワー。そして土の熱気は、団扇であおぎたいほどだ。そんな中、ユラユラと飛んでくる、トンボたち。そのバランスがあって、夏の空気が出来ていた気がする。

 すっかり、夏の暑さばかりに気を取られていた。

 トンボは暑さの中、羽の涼しさを持って、浮かび飛んでゆく。その浮かぶ力は、空と土のエネルギーを利用しているようだ。

 ・・・夏の一番真ん中の奥から飛んで来るトンボたち・・・

 トンボのいない夏は、ただ重たいだけだ。




「枕もとのラジカセ」
9/9

 レコーディングのMIXから夜遅く帰ってきて、フラフラで、バタンQ。

 バタンQで、布団を敷いて、そしてMDラジカセを枕もとまで持ってきて、今日のTAKEを聞く。

 明かりを消してみると、なんだかとても懐かしい。そうそう枕もとのラジカセだ。

 眠り間近の耳のそばから聞こえてくる音。その音は、眠りの中まで、つれてゆくようだ。

 中学のときに聞いていた音楽を思い出すわけではない。

 僕の中にある、空っぽになっている感覚が、もう一度よみがえるようだ。

 ずっと昔に聞いたことのある、初めて聞く音。

 いいものを見つけた。




「今日も昨日も暑い夏だ」
9/4

 昼の路地で、フラリフラリと飛んでゆく蝶を見た。僕もまた、フラリフラリである。

 蝶もまた、バテテいるようだ。小さめのアゲハ蝶。

 蝶々の飛び方は、なんとも、せつない。そこに力というもの感じることができない。

 どうも、無駄な力をかなり使って飛んでいるように見える。風なんか吹いたら、それはもう大変だろう。

 フラリフラリと飛んで来るその姿は、蝶の全体の姿ではあるけれど、蝶の顔は小さい。。

 その小さい顔が、せつなそうに飛んで行く。

 さすがに今は、昆虫採集をしてはいないので、蝶々の羽を手で押さえることがなく、あの顔を見ることがない。

 この先もきっと、蝶の羽を手で押さえることはなさそうだ。

 アゲハ蝶は、フラフラだ。太陽と戦っているようにも見える。僕もまたフラフラだ。その小さな顔に応援を送ってあげたい。

 どんなに近くても、遠いここから。




「都会のセミ、俺の予想」
9/1

 いろいろ夏休みのことを思い出してみた。

 日中といえば、セミ。夕方といえばまたセミ。

 ヒーヒーヒーヒーヒ〜イ・・

 そうだ、ヒグラシが鳴いていたのだ。

 なぜヒグラシは、夕方に鳴いていたのか。その答えは簡単だ。きっと日中は、アブラゼミが鳴きすぎていて、自分たちの声が聞こえないからだろう・・。

 いや、ここでちょっと考えを変えてみよう。ヒグラシが鳴くから、アブラゼミは遠慮しているのではないか?

 都会のセミは、アブラゼミばかりだ。日中に鳴くだけ鳴いている。しかし夕方には、ヒグラシがいない。熱さましのような、あのヒグラシの鳴き声、、。

 セミの歴史は長いだろう。アブラゼミとヒグラシは、日中と夕方を仲良く分け合ってきたはず。

 そしてヒグラシのいない都会のアブラゼミは、夕方になって、おそるおそるまた鳴き出すのだ。

 ジ〜〜ジ〜イィ〜

 一週間しかセミでいられないという、アブラゼミ。しかし都会のセミは、ヒグラシがいないために、夕方の夜も鳴いてしまう、それは充電池の消耗だ。

 きっと、都会のセミは6日目あたりで、弱ってしまうにちがいない・・。




「自由研究」
8/29

 夏休みは、もう遠いけれど、夏休みはまだある。

 そして8月の終わりと言えば、自由研究だ。小・中学生のとき、それは僕を困らせた。

 「いったい何を研究すればいいんだ?」

 今考えると、なんともおかしな悩みだ。研究するのは、何だって良かったのだ。

 その研究を、9月に先生が何て言おうと、友達にアッハッハされようが、気にすることはなかったのだ。

 だって、自由研究なのだから。それは点数のためにすることではなかったのだ。

 こんな簡単なことが、わからなかった。

 今の僕なら、外国の一曲の歌詞の分析とか、やってみたいな。

 ズバリ「なぜ、この歌はこんなにいいのか?」とかね。

 9月に学校に持ってゆく。先生は「これは何だ?」というだろう。しかしそんなときは堂々と答えればいい。

 「がんばりました!!」

 おっと・・、自由研究って、理科とか科学の宿題だったっけ?




「バヤリース・オレンジ」
8/26

 この夏は、飽きるほど、自販機の前に立った。

 こう暑いと、お茶か炭酸になる場合がほとんどだ。

 ずっと忘れて、もっと忘れて、やっと「バヤリース・オレンジ」の缶が目に入って来た。「バヤリース・オレンジ」には、特別な想いがちょっとだけある。

 いつだったかの宴会で、まだビールとか飲めなかった僕は、瓶のバヤリース・オレンジを目の前に置かれた。

 そのオレンジ色は、なんとも見事なオレンジ色で、僕は飲むまえから、その鮮やかさに感動してしまった。

 その後も、宴会場といえば、バヤリース・オレンジの瓶が登場した。何度見ても、何度見ても、目を奪われるそのオレンジ色。味の方は、もう良くわからない。美味しいのか、そうでないのか・・。

 宴会というものから遠くなって、バヤリース・オレンジの事もすっかり忘れてしまった。すっかり忘れてしまったので、自販機の中にあっても、目の中に入って来なかったのだ。

 ガチャ!! 

 自販機に落ちてくる、バヤリース・オレンジ。飲んでみると、そう特別な味がするわけではなかった。しかし炭酸にもお茶にもない、さわやかさがあった。世界が、バヤリース・オレンジ色になったみたいに・・。




「いちばん懐かしい本」
8/21

 この広い、「世界」と呼ばれる世界の中で、いちばん懐かしい本はどれだろう。

 先日、友人宅のテーブルの上に、一冊のとても思い出多い本が置いてあった。

 それは、小学館の図鑑シリーズの「魚貝の図鑑」だった。それはまったく同じもので、30年以上前のものだろう。図鑑シリーズはそう変わらないのかもしれない。

 僕は買ったのはたしか、270円だったと思う。その図鑑は350円の値段になっていた。その値段の差はあるものの、表紙の写真も含めて、遠く遠い日々が、よみがえるようだ。

 たぶん、僕の人生の中で、最初にちゃんと買ってもらったという意識のある本だ。「昆虫の図鑑」の方が先だったとは思う。でも何度も何度も開いた本にはちがいない。

 友達はなにげなく古本屋で買って来た本だったかもしれないが、その中には、僕の小さかった記憶が、凝縮されていた。

 「これどうしたの?」「えっ?」

 僕の実家に置いてある、古く古くボロボロになっているはずの同じ図鑑が、きれいなままでテーブルに置いてある。

 ・・・こんなことがあっていいのか?

 意外なところで、遠い夏を見つけてしまった。




「デジタル文化」
(8/18)

 MD・CDラジカセが調子悪い。

 みんなも知っているだろうけど、CDを読みとれなくなる、CDプレーヤーは、せつない。

 知っている人は知っているだろうけれど、録音に失敗してしまうMDは、せつない。

 CD故障、MD不調のダブルになってしまうと、もうほとんど信用がなくなってしまう。デジタルなので、自分では直しようがない。

 アナログだったら、レコードとカセットテープレコーダーだ。レコードプレーヤーの故障なんてほとんどありえない。ただレコード針が折れたり、減ったりするくらいだ。カセットだって、音が出なくなるということはほとんどないだろう。

 デジタル機器が壊れたときのガッカリ感は、なかなかのものだ。

 何度もやり直される、自販機のお札の投入口のようだ。

 意味も分からず、警告音に鳴る、自動改札のようだ。

 故障の原因は、さっぱり見当もつかない。まるで異次元のようだ。もしかしたらデジタル文化は、異次元?

 デジタルで動いている大男が、突然に固まって、止まってしまう。

 「おい、どうしたんだよ?」

 デジタル大男は、口を開けたままで、動かない。

 やっぱり異次元に行っているのだろう。
 




「蝉の話・2」
(8/14)

 蝉は七年間土の中にいて、七日間、鳴いて終わってしまうという。

 それほどに貴重な一週間なのだから、きっと蝉のほうでも、考えて土の中から出て来るにちがいない。

 かなり無理のある仮説だが、ズバリ、夏を七つに分けて、時間差を作っているのだ。

 それでも多少は、時期のズレが生まれるので、だいたい夏の間はまんべんなく、蝉が鳴いていることになる。

 雰囲気的には、7月の始めくらいから、8月いっぱいかな。でも、その前や後でも、鳴いている蝉たちは多いが、長い年月の間には、誤差も出てくるだろう。

 だって、同じ週に、同時に蝉が生まれたら大変なことになるし、その週に台風が二回来るかもしれない。

 やっぱり、蝉たちは、週をずらして土からやってくるはずだ。それが一週間の大切な使い方だろう。

 でも、かって誰も「そうじゃないか」と言ってくれた人はいない。

 貴重な一週間。僕が蝉だったら、そうするな。

 絶対、そうする。




「セブンDAYS」
8/11

 七という数字を数えさせたら、蝉は天下一だろう。

 七年を土の中で過ごし、七日間しか地上の蝉として生きれない蝉。七という数字には切っても切れない関係にあるようだ。

 実は、数えていたりするのかもしれない。。

 しかし、なぜ蝉は、こうなってしまったのだろう。夏の一週間だけ、外に出て来ては命絶えてしまう。ちょっと調べてみたけれど、どこにも書いてなかった。

 どこにも書いてなかった・・。蝉自身もわからないだろう。

 太古のその夏、地球規模で、夏は焼けるように暑かった・・。その暑さのために、ほとんどの昆虫たちは、バタバタと倒れていった。

 (こんなに暑くちゃたまらないな !!)

 我慢が苦手な蝉は地底の王になることに決めた。

 (こんなに暑いのは、たまらないな。早くに土にかえろ!! キューン・・)

 一年もたてば、蝉はいつでも外に出てきても大丈夫だった。しかし、七回、年を数えることにした。

 (いいか、忘れちゃなんねえぞ。七だ。七だからな。いいか、数える指が無くなったら、外に出てくるんだ)

 蝉は数える指がなくなるまで、土にいるようになった。

 外に出てみても、その癖は治らなかった。

 (やけに早えなぁ。キューーン)




「そんな夏休み」
(8/7)

 何年たっても、明日のジョー。

 その夏休み、僕は劇画「あしたのジョー」の単行本を、毎日、集めて行った。

 全24巻。だったかな? もちろんストーリーは知っていた。知っていたけれど、もう一度集めたかったのだ。

 「 ジョ〜よ〜う、おめえ・・」「わかってるよ、おっちゃん」

 夏の太陽は昇る。テーブルにはスイカがある。その横で、寝ころんでいるヤツ。そしてその横には、技術家庭の授業で作った、ニス塗りの本棚。本棚の中には、並べられた「あしたのジョー」の単行本。

 一巻・二巻・三巻・四巻・五巻・・。それは、夏休みに毎日もらうお菓子代で、買っていったものだ。

 日々の日課は、「あしたのジョー」を読むことだ。

 日々の楽しみは、明日の「あしたのジョー」を買うことだ。

 すべての集中力は、そこに集中する。

 ※午前は、本屋行きに使われ、午後は、本読みに使われる。夜は復習。

 ※くりかえし

 7月の終わり、ジョーは泪橋にやって来て、8月の終わりには、世界タイトル戦を迎えていた。

 「燃えつきたよ・・」

 明日から学校だ。




「冷たい布団」
8/3

 この季節、布団の冷たい所が気持ちいい。

 ひとつの布団でも、理論的には、冷たい所に体を付けることは可能だろう。しかしそんなふうにはいかない。

・・・その昔、アインシュタインは、冷たいシーツが欲しくて、いつもベットをふたつ並べて眠っていたという・・・(本当か? 本当らしい)

 しかしそれも面倒くさい。どっと疲れているときは、そのまま眠ってしまいそうだ。

 (いい方法はないだろうか・・) 横になって考えてみる。

 (冷たくなるシーツなんてどうだろうか?)

 (それは理論的に無理だな・・)

 (・・いい方法はないだろうか・・)

 (二倍に大きい布団ってどうだろう?)

 (でもそれだったら、明日にでも実行できるじゃないか?)

 (よし、では、真横にながーい、ながーい布団をつくって転がり続けてみる)

 (これは気持ち良さそうだ。これだ。無理そうだけど、これがいい、これがいい・・)

 (他に方法があるだろうか・・・)

 (ほ・か・に・・・)

 つい眠ってしまった。目が覚めると一時間たっていた。




「扇風機」(7/28)

 扇風機というのは、いつくらいから、家庭に登場してきたのだろう。

 僕のイメージでは、昭和30年代の始め頃に、冷蔵庫とかと一緒に各家庭に入ってきたのではないかと思う。きっとそれまでは、団扇とかだったのだろう。

 と、いうことは初代扇風機というものがあるはずだ。僕は昭和36年生まれなので、気がついたときには、一応扇風機があった。それが初代だ。

 首が伸びないタイプの扇風機で、真ん中が、銀色で、ロケットの先のようになっていた。よく指を入れて遊んだものだった。やがて、回りの細長い囲いのいくつかが、とれたりして引退となった。そしてやって来た二代目の扇風機は、首が伸びて「さわ風」という、柔らかい風のスイッチがあった。

 初代目はといえば、二階の部屋へと、場所移動となり、第二の扇風機人生を送ることになる。

 二代目の扇風機は長生きした・・。

 まるでワンちゃんみたい・・。

 懐かしさが、そっくりだ・・。




「夏のところ天」(7/23)

 実家の家から、自転車で10分行ったところで、坂道を上り、丘の上に行く。

 そこは神社になっていて、海が一望できる。松が生えてて、夏でも少しひんやりとしている。そこにある一軒の小さな小さな茶屋。夏になると、そこには「ところ天」の旗が立つ。

 小学5年の頃だったか、僕はそこで初めて、ところ天を食べた。150円だったと思う。普段は、コーラとかジュース、スナック菓子ばかり食べていた僕にとって、ところ天は衝撃だった。

 ガラスのお皿に、冷えたところ天。そしてカラシが付いていて、それを付けて食べるのだという。「えーっ」そしてカラシを付けてみると、鼻がツーンとする。(これが食べ物か・・)と、はじめは思った。

 しかし、その美味しさは、かなり強烈に僕に中に残った。茶店のおばさんもなかなかやるなぁ。小学生の僕にとって、150円は大きなぜいたくで、そうしょっちゅうは、食べることはできなかった。

 高校になり、その丘に登ってみた。その茶店はまだあったのだけれど、扉は閉められていた。

 たぶん二回しかそこで、ところ天を食べなかったと思う。でもそれはしかたがない。ところ天のことを想い出すとき、僕のイメージは、ここからギューンと飛んで、あの丘まで行ってしまうのだ。




「口内炎」(7/19)

 口内炎ができた。

 唇の内側にできる白い小さな点。この痛さは、みんな知っているだろう・・。

 ・・・僕がはじめて口内炎になったのは、小学校の5年のときだ。歯医者に通った数日後に出来た。痛い痛い。こんなに痛いのはいったい何だろう。まったく見当がつかない。

 学校から帰ってきて、カガミで見てみると、白い点ができている。やけどしたようにヒリヒリする。何だろう。いったい、この白いできもの何なんだ。日に日に痛くなってゆく。気にしないようにするなんて出来ない。

 それもできた原因もわからない。一人悩む日々。

 同級生の遊び友達に、こっそりときいてみた。

 「おい、やっこ(あだ名)、口の中に変なものできたっやぁ!!」「みしてみろや」「イーッ」

 「アオキィ、それコウナイインだっやぁ」「えっ、コウナイイン?」「それ痛んだよなぁ」

 どうやらみんなできるらしい。ああ、僕だけの病気でなくてよかった。それはコウナイイン・・。

 「コウナイイン」。そうゆう呼び名らしい。家に帰ってまたカガミを見る。まだヒリヒリする。コウナイインとはやっかいな出来物だ。

 「コウナイイン」が「口内炎」だと知るのは、それから5年ほどたってからだ。




「台風の日」(7/16)

 ここ東京に台風が来ている。

 台風の日といえば、僕にとっては「海」が重要な位置をしめている。実家にいた頃、海のすぐそばだったので、台風といえば、どんなときでも海まで出かけていった。

 大きな波になって荒れている海は見ておかなければ、海っ子としては、海に失礼になってしまうような気がするのだ。

 学校の帰り道、台風の日は海岸沿いを歩いて行く。すごい風の日でも、チラッとだけ会いにゆく。

 大きな波というのは、ときにびっくりさせられるときがある。

 あるときは、海岸から30メートル以上は離れている道路にところまで、高い波が来たときがあった。今思っても信じられない話だ。道を歩いていた僕は頭から波をかぶった。

 そのひと波だけで、あとは無かった。たぶん、ここ50年でも、一番大きな波だったのではないか。。

 気象庁の人も、海岸沿いの人も、きっと誰も憶えていないだろう。「そんなバカな・・」で終わってしまうだろう。でも事実なのだ。僕が証明する。あとにも先にも一回きりだったけれど。




「ビニールサンダル」(7/13)

 僕は浜っ子なので、夏の生活に、ビーチサンダルはかかせなかった。

 ビーチサンダルの底は青い。表はクリーム色だ。そしてつっかける所は青い。一番安くて80円くらいだった。浜辺に行くための必需品。

 毎日のように、浜辺をビーチサンダルで、走り回っているうちに、紐がスッポ抜けてしまう。ビーチサンダルは、丸い栓のような部分で、ただ止めてあるだけなのだ。紐のスッポ抜けたビーチサンダルほど、惨めなものはない。どうにもこうにも歩けないのだ。 

 そしてもうひとつ、ビーチサンダルの底は薄い。ホントに暑い日の浜の砂は熱くなって、ビーチサンダルは役に立たない。サンダルからはみ出した素足が砂に触れて、熱い。ホントに。

 毎日にように浜に行ってるので、家から自転車で、ビーチサンダルのままででかけて行く。そのうち、ついついビーチサンダルのままで、商店街に寄ったりするようになったしまう。

 これが雨の日はすべるんだ・・。とてもじゃないけれど、歩けなくなってしまう。。。

 夏の終わり頃、青い紐のスッポ抜けた青いビーチサンダルが、浜に落ちている。サンダルのなくなった人は、さぞかし困っただろう。「チクショウ!!」と言って、放り投げたにちがいない。

 やがては朽ちて、海草とからまっている壊れたビーチサンダル。

 僕の思い出の中で、ビーチサンダルは、そんなふうに浜辺に打ち上げられている。




「びっくりしたこと」
(7/10)

 僕の実家から、歩いてすぐに海があり、7月といえば、よく泳ぎにいった。

 浮き袋に、7メートルくらいの紐をつけ、それを自分の体に結びつけて、ちょっと沖の方までゆくのだ。

 これは楽だ。疲れたらしばらく休むことができる。そしてもぐっていて苦しくなったら、紐をたぐって海面に出ればいいのだ。

 よくたったひとりで、海に出かけては潜った。柏崎の海は砂浜で、魚がそんなにいるわけではないけれど、それなりに潜るのは楽しい。

 あるときのことだ。潜っていて、その底にところをひらひらと移動する生き物を発見した。(これは、なんだ!!) 僕はびっくりした。つかまえようとすれば、逃げてゆく。

 知識のある今なら、すぐにわかるだろう。しかし実際、どんな生き物がいるか知らないので、それがなんなのかわかるまで、何日もかかった。友達はいう。

 「それは、ひらめだよ」

 「えっ、ひらめ?」

 そうか、ひらめかぁ。やっとわかった。ひらめは、底の砂の色に完全に色が混ざってしまう。そしてひらひらと移動する。

 なにがびっくりしたって、こんな海岸からすぐ近くに、ひらめがいたってことがびっくりした。




「正式な食べ方」
(7/7)

 袋入りのチキンラーメンを買ってみた・・。

 どんぶりにお湯を注いで3分待って・・。しかし、普通の人なら、鍋で煮ちゃうよね。

 ・・・はじめて祭りの露店で、ベビーラーメンを買ったとき、僕はもちろん、鍋で煮て食べてしまった。だって、誰も教えてくれないんだもの・・・。結果は。。

 ものごとには、正式な食べ方というものもある。ちょっとだけ紹介しよう。( チュウチュウ編)

 正式な食べ方(1) 「チュウチュウジュース」(だいだいこの正式名さえ知らない) 。やい歯を使って、先端に小さな穴をあけ、口から離して、糸のようにして飲む。(これには、異論がないだろう)

 正式な食べ方(2) 「チュウチュウアイス」。5本入りのお徳用を買って来て、冷蔵庫にて冷やす。冷やす。冷やす。。しかし、待ちきれないので、完全に凍る前に、取りだして来てしまう。少し固まっているところをチュウチュウとかじり食べる。そのあとはジュースと氷状態だ。ジュースを飲んだあとに残った氷を食べるために、ビニールをかじってちぎりとり、半かたまりの氷をのどに押し込み、「うぁっ!!」と言ってみる。

 正式な食べ方(3) 「チュウチュウボンボン」だいたいボンボンアイスは、アイスボックスの下の方に沈んでいて、固まっているんだよね。「これ下さい」そう言って素手で持ってゆく、その冷たさといったら・・。そしてまず、柔らかくしないと、どうにも食べることができない。これを溶かすのは、どこか拷問に近い。手のひらの体温で溶かしてゆくのだ。何度も吸えるか試しながらやっているうちに、歯が、当たってしまい。包んでいたゴムがプチンと割れてしまう。割れてしまった丸いクリームは、青いペンキのベンチにころころと転がってしまう。「やっちゃったぁ!!」そのまま、水道の所に持っていって、クリームを洗って、そのまま、口に押し込んで、「つめてーっ」といいながら、友達に笑われながら食べるのが、正式な食べ方だ。




「時間」
(7/4)

 いま、20分が早い。。

 デジタルで見ると、5:40分は、6時まで20分しかない。(あと、20分しかないのかぁ・・) しかし針の時計で、5 :40分を見ると、(意外と20分って、あるなぁ)と、見えてしまう。

 20分って、あっというまで困る。時間でたとえると、約10分くらいに思えてしまう。(こんなたとえって、アリか?) 

 まず、何かやりはじめるまで、5分かかる。そして10分くらい何かすると、あと5分しかなくなってしまう・・。やっぱり、20分は10分くらいしかない・・。

 時間のことを想うとき、僕は授業のことをすぐ考える。小・中・高と、授業の時間の長かったこと・・。45分の授業の長かったこと長かったこと・・。

 今だったら、45分なんてすぐにたってしまう。最初の10分は、何も考えず、次の10分くらいを、ちょっと授業をきくふりをして、次の10分は、ノートとりをして、あとは、(疲れたぁ・・)って、ひと息ついて、10分そうしたら、もうあと5分で終わりだ。

 そのうち「45分って早いなぁ」とか、自分が言い出しそうだ。

「今日の夜話・過去ログ'02年4月〜6月」

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