青木タカオ「ちょっくら・おん・まい・でいず」今日の夜話、過去ログ'02-4月〜6月

「よく降った雨」(6/30)

 高校三年のとき、6月、毎日雨が降った。学校の終わる頃になると、黒い雲が出て来た。

 16・7年しか生きていないけれど、こんなに雨が降ったのは初めてだった。二階の教室の窓の所に腰掛けて雲が出てくるのを見ていた。月曜日。火曜日。水曜日・・。また雨だ。。

 二日・三日ならある話だけれど、とうとう一週間、毎日雨は降り続けた。

 「空が壊れたんじゃないの?」

 友達に冗談で、そう言ったのを憶えている。そしてまた雨の中、帰る帰り道。本気で降っている雨に、天地の恐怖を感じた。空で何かあったとしか思えない降り方だったのだ。

 そして次の週になり、さらに雨は激しくなり、とうとう河が氾濫した。駅前どうりが、水びたしになってしまったのだ。これは大変な騒ぎだった。バイクで観に行くと本当だった。

 次の日の全国版の新聞の一面トップにその写真が載っていた。災害救助法も適用されたという。

 あの雨降りの一週間の気持ちは忘れられない。


「ヤマハライトゲージ」(6/27)

 ギターの弦を買いに行かないといけない。

 ギターを弾き始めた中学生の頃、ギターの弦はそれなりに高かった。国産のヤマハが700円。マーチンに至っては1200円もした。小遣いしかなかった僕はギターの弦が切れるたびに、心臓の止まる思いがした。

 ホントは、マーチンの弦が買いたい気持ちが強かったのに、安いヤマハの弦をいつも買っていた。ヤマハの弦は個性が強い。そんなヤマハの弦を精一杯、使いこなそうとした。

 そしてあれから30年近くたって、ヤマハの弦は1000円になった。しかし一方で、マーチンの方は安くなって600円くらいだ。円高差益とかいうこともあるのだろうけれど、もうここ20年くらいヤマハの弦は張っていない。

 ヤマハは弦についてどう考えているのだろう。昔からヤマハの弦の音色は変わっていない。個性が強すぎて、とても張ることが出来ない。

 僕はヤマハのギターを使っている。しかし弦はマーチンだ。今、ギターを弾き初めた人には、マーチンよりヤマハの弦の方が、高級弦のように思えているのだろうか。そうかもしれない。

 あのとき1200円だったマーチンの弦は、もしかしたら1600円くらいになっていたかもしれない。しかし現実は600円だ。

 ヤマハの弦よりも、ずっと安いというのが、どうしてもおかしい。100年おかしい。




「夜と朝の間」
(6/24)

 毎日、ちゃんと寝ている。

 と、自分では思っていた。夜1時半には眠り、朝は、目覚まし時計で目を覚ます。ピッピッピッピッピッ・・。朝だ。。

 もちろん、朝は眠たい。しかし朝なので仕方がない。いつも起きるのは、5時半過ぎだ。

 友達は言う。「えっ、じゃ何時間寝ているの?」「いやっ、えーっと4時間?」

 そんなふうに考えたことがなかった。自分では、ちゃんと眠っていると思っていた。夜から朝の間は、時計の時間で計れない深さがある。その時間、あらゆるものがずっくりと眠っている。夜の精もゆっくりと通り過ぎてゆくだろう。

 最近、もの忘れがひどい。おかげで、夜の長さも計算できないでいた。それはいい話だ。


「困った」

 いつもどうり電車に乗っていて、目に前に座っている青年が気になった。

 その青年は、白いYシャツを来て、黒いスラックスをはいていた。高校生とはとても思えない。とても背は高いようだ。髪の毛は、軽いパーマがかかっていた。そして顔はニヒルな感じで、どこかのスパイ映画にでも出てきそう顔だ。

 気になる。彼はアイドル的な顔なわけではない。どちらかと云ったら、バランスがわるいほうかもしれない。しかし、まるで俳優のようだ。僕の目が離れない。

 誰に似てるかといえば、そうだ、劇画「あしたのジョー」の力石徹に似ている。いや、そっくりだ。本人も意識しているかもしれない。髪型もそのままだ。

 「あしたのジョー」の中の力石徹は、いつもニヒルに笑っていた。「ふっ、ふっ、ふっ」と笑う。ひとりでサンドバックを叩いている。いつでも恐ろしい。その試合も壮絶だった。力石徹は僕の中で、ひとつのイメージを確実に作っていた。

 目の前の青年は、遠い目をして前を見ている。いつだって、役者になれそうだ。そして僕には、彼がおそろしく怖い。何かとんでもないストーリーが、これから始まるように思ってしまう。・・力石ののろいだ・・

 ジョーもまた、こんな気分だったのかもしれない。ジョーは力石に負けた。僕もまた、力石に勝てない。まいった。現実世界でも、こんなことがあるなんて。。

 彼は、股の間に置いていたスポーツバックをすっと開けた。するとその中には、サッカーの日本チームのユニフォームが入っていた。今日の試合の応援にゆくのだろう。効き目がありそうだ。




「作りたい」
(6/17)
 
もう15年くらい前の話だけれど、僕も少しはお金に余裕があった。アパートの近くにギター屋さんがあり、自分のオリジナルギターを作ろうと決めていた。すっかりその気だったのだけれど、時はたってお金も使ってしまい、ギター屋さんも遠くに越してしまった。

 オリジナルギターの夢は、中学生の頃からあった。何度もノートに書いては、友達に見せたものだった。ヘッド・ピックガード・ボディ・ブリッジ・他、考えれば考えるほど、嬉しくなってくる。実際、何度もノートに書き上げたこともあった。

 東京に出て来て、働き出して、夢のギターは、いつでも作れる状態にあった。お金もあったのだ。そう思って20年。いまだそれは実行されていない。僕のこんなバカな夢につきあってくれる楽器屋さんがいないのだ。もし作るとなれば、かなり細かい打ち合わせが必要になる。

 もし僕に作らせてくれたら、傑作の一本を作ろう。それは約束する。ただ音の方がそれに追いついてゆくかは、別の話だけど。

 世界中で、どこにもないものを作るつもりだ。そのうち、絵に描いてみよう。

 「絵に描いたギター」これも、切ない・・。




「アマチュア無線」

 いがいと、アマチュア無線は、先端を行っていたのかしれない。

 いまメール、メールと言っているが、無線の方はリアルな言葉だ。それも24時間、話せる。なぜ、アマチュア無線は、普及しなかったのか・・。

 今僕らが、こうやって楽しんでいる、インターネット文化を、アマチュア無線の人たちは、もともと楽しんでいたのだろう。知らない人と話す。その面白さ。「はい、コチラJOYZ5215・・」

 しかしアマチュア無線の世界は、とても厳しい。常に知らない電波を受けて、それなりにマナーもある。それは今も守られているだろう。

 ときどき家の前に、アマチュア無線の看板を見る。その世界は尋常ではないほど、盛り上がっている。それは今も昔も変わっていない。

 アマチュア無線は、神聖なままうまく生き残った。




「形のない妄想」(6/11)

 日々疲れているので、たいがいはバタンQと横になってしまうのだが、年に何回かは、眠れない夜がある。

 風邪をひいたりして寝込むと、寝過ぎてしまい、それもまた眠れなくなってしまう。そんなとき、いろんなイメージや妄想におそわれてしまう。

 風景や、出来事の場合は、それなりに気持ちも対処できる。しかしときどき、数学の方程式とか、ことわざとか、形のないものにとらえられると困ってしまう。どこにも行きようがないのだ。

 それは何か、ゲル状の大きなものなのかもしれない。重さの片寄っているふわふわとした、何かなのかもしれない。それにとらえられると、体じゅうに、そのバランスが巡ってしまう。形のないものを表現しようすることに無理があるのだ。

 もだえ苦しむ時間が過ぎてゆく。それはなんとも苦しい。形のない妄想だ。




「えっ、もう10年たったの?」
(6/8)

 高円寺の友達の店に誘われて飲みに行ったとき、もうオープンして10年たったことを知った。そしてどんどんと友達は、15年ほどの前の話を始める。

 「懐かしいねえ・・」と、友達はうなづくけれど、僕にしてみたら、つい最近のことのように感じてしまっている。お店がオープンして、まだ5年くらいだと思っていた。さてその前の5年間はどこに行ったのか?

 二十歳くらいの頃、小学校のときのことは昨日のことのように憶えていた。しかし今ではさすがに遠い感じがする。こんなふうに時間が過ぎてゆくなんて、小さい頃、まったく想像もしていなかった。

 体内時計というものがあるのなら、僕の中の時間はとても早い。いや、逆に遅いのか。

 ひとつのベルトコンベアーが頭の中にあって、数年かけて、出来事を若くしているように思える。きっとそうにちがいない。




「五円玉と一円玉と10円玉の話」
(6/5)

 五円玉と、一円玉。そして10円玉は、変わっていない。

 五円玉ひとつと、一円玉五つで10円だ。10円玉五つと、50円玉ひとつで100円だ。五円玉ひとつと一円玉ふたつで七円。もう一枚で八円・・。

 「三百五十七円になります!!」・・。その七円を作るのは、五円玉と一円玉だ。かなり、早い指の動きが必要になる。ちょっと気を許してしまうと、どんどん財布の中に小銭たまってしまう。ああ、五円玉と一円玉。

 五十円玉は、小さい。しかし以前は、大きくてやぼったい五十円玉だった。100円玉も前は、五円玉同様の、こまごまっとしたデザインだった。おシャレになった、50円玉と100円玉。

 これは、お釣りの計算の話ではない。五円玉と一円玉と10円玉の話だ。毎日会っていて、そして活躍中なので、ピンとこないかもしれないが、なんとつきあいの長い存在なのだろう。

 しかし、なんとも思い出は今日も忙しい。おまけにどんどん財布をふくらましていってしまう。なにかのウイルスのようだ。そんなバカな・・。よくじっくりと五円玉を眺めてみよう。そこには懐かしい思い出が・・、

 思い出があるように思えるのだけれど、なぜか思い出せることが少ない。一円玉の印象も、その軽い重さと比例しているようだ。なぜだ。自分でもわからない。

 五円玉ひとつと一円玉五つで十円。思い出も、繰り上がってゆくようだ。




「マホガニーの音色」

 先日、ライブで、生ギターの音をたっぷりと聞いた。

 ちょっとだけ専門的な話になるけれど、ボディの材質が「ローズウッド」で出来ているギターだ。ローズウッドの木は堅い。そのせいもあり、音も堅くて、そのかわり伸びがある音が出る。

 僕のギターは「マホガニー」という材質のボディのギターを使っている。マボガニーの音はなんとも柔らかい。柔らかいぶん、音の粒だちはぼやけている。へにゃへにゃっと喋る人のようだ。

 ローズウッドのギターは、'70年代のはじめに売れに売れた。一般的に言って、サウンドのバランスは、ローズウッドの方が、パンチがあっていいのだ。ボリュームもあり、どんな楽曲も、くっきりとギターの場所を教えてくれる。そのかわり、ごまかしということが、あまりできない。

 マホガニーのギターは、音がぼんやりしている。ふわっふわっとして、全体的にギターの音が聞こえてくる。だから意外といい加減に押さえて弾いていても、味になってしまう。ギターを弾き始めた頃、ずっとローズウッドボディーのサウンドが好きだった。しかしいつのまにかマホガニーの音に、甘えてしまった自分がいた。

 久し振りローズウッドのギターの音を聞いた。たっぷりと'70年代の音がした。「ああ、いい音だねぇ」と憧れていたサウンドだ。今聞いても、素晴らしい。でもなぜか、あの頃のように、素直になれない。それは恥ずかしいことだ。

 僕は人間がマホガニーになってしまったと知った。
 




「ゲゲゲの鬼太郎とネズミ男」
(5/30)

 目の前にある、ゲゲゲの鬼太郎とネズミ男の、小さなフィギュア。最近、コンビニで買ったものだ。

 二人とも、あぐらをかき、ひとつの将棋盤を見つめている。その将棋盤には、目玉の親父の付いている。

 ちゃんと彩色もされ、とてもリアルだ。さて、将棋の次の一手は、いつ打つことができるのだろう。僕はこういう場面が好きだ。

 当の本人にとっては、その場面にとどめられることは、大変な迷惑かもしれない。(なぜ、こんなシーンなんだ!!)と、文句を言っているだろう。

 しかし、僕はこんな場面が好きだ。なぜならば、そのうち我慢ができなくなって、どちらかが一手打ってしまうからだ。それは夜かもしれない。それは昼かもしれない。10年後かもしれない。昨日だったかもしれない・・。

 そしてもうひとり僕が、ずっと眺めている。




「ぜひとも」
5/27

 最近、アフリカの砂漠のグループ音楽を聞いている。

 それがまるで日本の民謡にそっくりなのだ。ドドンパとかに似ているノリがある。

 使われている楽器は、エレクトリック楽器と、太鼓ひとつだ。しかしなんとも民謡的であり、いままで聞いてきた、どの音よりも、民謡に近い雰囲気がある。一番感心したのは、ベースだ。メロディーにそってワイルドに弾かれてゆくのだ。

 かって、日本のいろんな人たちが、民謡をエレキ化してきたけれど、僕の知っている範囲では、現代風に変えることに成功した感じの印象だ。

 ひとつのやり遂げたいイメージがある。日本の民謡をぜひ、もう一度、作り直してみたい。しかし、僕がそれをやるためには、まず日本中の民謡をききつぷして、唄やこぶしのコツを知っておかなければならない。民謡のことを、芯から愛さなければならない・・。

 そして、メンバーとも充分に民謡を愛さなければならない。原曲のノリを作り直して、もう一度作るあげるには、インスピレーションも必要だ。そのためには、世界中の音を引き出しに入れておかなくてはならないだろう。

 いつかやろう。ぜひともやりたい。しかしその時間があるかどうか? これから将棋の世界に入ってゆくのと似ている。もう僕の中では、音は完成しているのだけれど。




「ジャンボソフト」
5/24

 ジャンボソフト。訳さないで、ジャンボなソフトクリームアイス。

 いつも通っていた、パン屋さんのアイスクリームボックスの中に、ジャンボソフトは突然にやって来た。

 (ナンダコレ?)

 いままで、コーンアイスと言ったら、グリコの『ジャイアントコーン』しか、知らなかった僕にとって、妙に大きなソフトクリームの部分は、衝撃的だった。80円だったはずだ。それはまるで、50円プラス30円のソフトクリーム部分のように思えた。

 みんなも同じだったかもしれない。あのクリームの部分をぎゅうぎゅうに盛り上げた、掟破りの・・。そう、ジャンボソフトは、きっと掟破りなのだ。

 そうは言っても、ジャンボソフトには、満足させてくれるものがある。おとなしく、なめてても、きりがないので、途中からはガブッとかじったりする。もうクリーム三昧だ。

 そして、一回ジャンボソフトを食べたら、しばらくはいい。そして、遊園地のアイスボックスの中に見つけると、ついつい買ってしまう。そのくらいでちょうどいい。

 ジャンボソフトは、生き残った。(食べるときは、噛む事を忘れずに・・)




「無料公衆電話」
(5/21)

 今、無料公衆電話が、設置されていると言う。CMを見ながら話すのだ。インターネット回線での電話で、全国無料、普通の電話なら9分。携帯電話には一分が無料。三年後には、10万台設置予定だと言う。

 電話が全国無料になったら、いい面は多いだろう。しかしそれが、電話と呼べるのか疑問だ。当たり前になってしまえば、当たり前になってしまうけれど・・。僕は不安だ。

 「遠く離れた友」もまた、近くなる。しかしそれでいいのか。ついつい長話になってしまい、喋りすぎてしまうかもしれない。

 ちょぅどいい時間というものがあるはずなのに、もう、ちょうどいい時間というものがない。「電話じゃあ」という気持ちから、「電話で充分だよね」になってしまう。

 しかし何かが、ガラッと変わってしまう可能性も高い。それは想像がつかない。もしかしたら最大の発明になるかもしれない。




「納豆定のたいへん」
(5/18) 

 吉野家の牛丼を食べるのは、シンプルだ。箸を持って、がっつけば終わり・・。

 しかし納豆朝定を食べるのは、外人さんには、かなり大変だろう。自分で食べててホントにそう思った。

 まず、納豆のカップのビニールをはぐ→箸を使って、中に一緒に入っている、からしとタレの袋を外に出す。→ネギをカップに入れる。→箸でよくかき混ぜる。→タレを袋を指でうまくあける。→からしの袋をうまく開けて、またかき混ぜる。→ご飯の半分の上に乗せる。しゅるしゅるしゅると箸についた糸を切る。→箸で、からしの袋、タレの袋をまた、最初のカップに戻し、その上にビニールをうまくかぶせる。→生卵に移り、醤油ほさし、またよくかき混ぜる。→そしてご飯の半分へ、乗せる。→海苔の袋を縦にうまく切る。→そして一枚一枚、うまく海苔を広げて、ご飯の上に乗せる。→みそ汁の中にチョロっと、七味を入れる。→海苔をうまく巻くようにして、食べてゆく・・。

 なんでこんなに大変なんだろう。しかし、納豆定の良さは、そこにあるような気もする。なんだかギネスブックに載せたい気分だ。




「その古本屋」
(5/15)

 その古本屋には、なかなか入れなかった。約8畳ほどのスペースには、整然と本が並べられていた。その入り口には、中原中也似の男が、座っている。

 毎日、その前を通るのだけれど、なかなか入れない。理由はない。なんとなくなのだ。なぜ自分でも入らないのか。見れば、いつもけっこう人が入っている。出来たばかりの古本屋にしては、成功している方なのだろう。

 その入り口に座っている男は、髪が肩まであり、もくもくと本を磨いている。ほとんど話していることがない。独特の雰囲気があり、静かだ。それは大正時代の静かさだ。

 僕は昨日、思い立ってやっと、その古本屋に足を踏み入れた。期待を裏切られるのが今までは怖かったのだろう。そして、びっくりした。なんと、その小さなスペースには、選りすぐられた、本ばかりだったのだ。特に文庫本はよくそろっていた。まあ、僕の趣味と一致してのかもしれないが。

 普通の本のほうの一冊一冊、ビニールのケースに入れられて、面白そうな本がそろっていた。100円コーナーもあった。古本屋の最初はこんな感じなのか。それにしても本の揃えが感動的だ。クラシックの音楽が小さく流れている。

 ぜひ、一度寄ってみてほしい。その本屋さんの名前は「十五時の犬」。
 




「屋台ラーメン」
(5/13)

 日本中の屋台ラーメンを知っているわけではないけれど、そのラーメン屋台のオヤジさんは、きっと有名にちがいない。いや、有名というより、知る人ぞ知ると言った方がいい。と、僕が勝手に思っているだけだが・・。

 池袋の平日の夜、東口の駅前に出ているおやじさんの屋台は、どうも他の、屋台ラーメンと違う。もう10年くらい前からやっているははずだけれど、特別にうまく感じるのだ。

 とにかく、そのオヤジさんは手際がいい。まったくの無駄のない動きなのだ。見ているとほれぼれする。屋台もきれいにされていて、オヤジさん自身の服装のさわやかだ。その動作に見ほれているあいだに、ラーメンが出来てしまう。

うまい。たしかに、うまい!! そう僕は感じてしまう。誰に確かめたわけではないけれど・・。

 そのおやじさんの、お釣りの渡す早さもまた、信じられないくらいに早くてきれいだ。




「ジャンゴの音」
5/10

 ジャンゴ・ラインハルトは、1920年から40年代に活躍した、ジプシーの血をひいた、ジャズギターのミュージシャンだ。最近、映画でも取り上げられて、またひそかなブームが来ているようだ。

 ジャンゴのレコードは、前から一枚持っていた。レコードジャケットに、ギターが写っていたからだ。ジャンルとしては、ジャズに入るのだろうけれど、そのギターテクニックは、超絶でワイルド、そして繊細で実験的という、文句のつけようのないギターだった。

 (うぁー、すげぇ!!) 普段まったくジャズのレコードは聴かない僕だったが、ジャンゴのレコードだけは、何度も繰り返し聞くことができた。うまく表現はできないけれど、ジャンゴのギターは、誰でも楽しめる音にまちがいなかった。ジプシー出身というせいもあるのだろう。ジャズファンのためというより、エンジョイ・ミュージック(音楽)とゆう感じなのだ。

 この2002年、またジャンゴが聴かれているということには、意味があると思う。ジャンゴの後、ジャズは「ジャズ」というジャンルの中で、旅を続けていった。普段、僕がジャズのCDを聞けないのは、感覚がそこまで追いついていけないからだ。

 「ジャンゴ・ラインハルトの音って、どんな音?」と、思っている人は多いだろう。でも聴いてみれば、「ああ、この音ね。知ってる、知ってる」とすぐわかるはずだ。その辺もジャンゴらしい。

PS・・ジャンゴについては、ウッディ・アレン監督の映画「ギター弾きの恋」で、よくわかります。




「せわしないその男」
(5/7)

 黄金週間に新幹線に乗った。込んでいるかと思ったら、意外とすいていた。

 (これはラッキーだ)と、思っていると、通路向こうのおやじが、なんだか高崎を越えたくらいから、そわそわしだしだ。三人席を一人で使い、窓際の席にいたのはいいのだけれど、大声で携帯電話をかけていた。

 (声が大きいよ!!)と、思っていると、通路側にやってきた。売り子さんがやってくると、つかまえて、いろいろ質問をする。ビールとおつまみを買っただけなのに、次々といろんな質問をする。トイレのこともきく、お釣りひとつでも、なんだかんだと話している。

 (長すぎるよ!!)と、思っていると、そのおやじ、缶ビールを一口飲むたびに、棚に音を立てて置くのだ。その音の意味のないこと。そしてずっと、ななめ前の席のお姉さんの方見ていた。ビールを飲み終えると、今度は、三人席に横になって寝はじめた。

 うまく眠れないので、今度は通路側を頭にして、横になる。なおさら眠れない。それでもだめで、真ん中の席の深く座り、足を高く前の席に高く伸ばした。まるでアクロバットだ。

 つづいて、おやじは全身の力を抜いて、タコのように体をフニャとさせて、顔をゆがめている。いったい何をやっているのだろう。それでも、まだ暇そうなので、今度は一番前の席に行って、横になった。

 そして、とうとう、向こうの車両からやってくる人に勝手に笑いかけていた。




「健康器械リフレイン」
(5/3)

 語り尽くされた話題かもしれないが、最近また、新たな健康器械がブームになっている。

 お腹に腹巻きにように当てて、振動する器械だ。流行っているらしい。僕のところにも、「安く、まとめて買いませんか?」と、宣伝のファックスが届いたりしてる。

 そう、語り尽くされていることかもしれないけれど、健康器械は、どうやらブームを作られているようだ。ちょっと前までは、部屋の中で、走れるという、空中散歩のような器械を大宣伝していた。それを買った人も多かっただろう。

 そしてまた今度は「震える腹筋腹巻きマシン」の登場だ。しかし今回のマシンは少し違っているのかもしれない。なにしろ本人は何もしなくてもいいのだ。究極の健康マシンのようだ。

 きっと今頃、健康マシン業界では、次の器械を考えているところだろう。そして今、一番興味のあることは、実際に買った人がどんな反応だったかということだ。

 そのうち「健康器械リフレイン」という本が、ベストセラーになるだろう。それを買う人がいる。そして次は「だまされるな、健康器械」かな。。




「ギターの弦」
4/30

 部屋用に置いてあるギブソンのギターは、もう二年以上も弦を変えていない。

 でも、僕には張ってある弦が、さびて死んでいるようには、思えないのだ。よく弦を取り替える話を聞くけれど、僕には、何年でも同じように思えてしまう。

 ところが、先日、僕のギターで、何人かで唄ったら、数日後には、弦がさびてしまっていた。音もこもっている。(そうか、指の汗とかで、さびてしまうのか・・)

 自慢ではないけれど、僕は手のひらに汗をかくことがまったくない。逆にいつもカラカラだ。ギターの弦がさびるという経験がない。考えればすぐにわかったことだけれど・・。

 ギターの弦を、よく張り替える人は、よほど(新しい弦が好きなんだなぁ)と、思ってきた。30年もギターを弾いてて、そういう偏見を持っていた。

 逆に言えば、僕もよく、「えーっ、弦変えないのって、信じられない」と言われ続けて来たのだった。




「トンボの話」4/27

 パソコン机の上に、揺れながら飛んでいるトンボたち・・。

 「プーリー」と言ったら、今どのくらいの人が、「あぁ、プーリーね」と答えてくれるのだろう。そう、重さと糸でバランスをとりながら、揺れているトンボ5匹。。

 もう買ってから、18年くらいたった。部屋は変わったけれど、天井から下がっている、このプーリーは変わらなかった。赤、緑、黄色、だいだい色、青色。買ったときは、色鮮やかな5匹のトンボだったのに、今では、色褪せてみんな同じ木の色になってしまった。

 いろんな話があっただろう。僕の出かけている間、トンボたちは、揺れながらいろんな話をしていただろう。5匹のトンボたちは、それぞれの色を自慢しながら、揺れていたにちがいない。

 時間は経ち、5匹のトンボは同じ色になった。そのことさえも気がつかなかった自分がいた。まさかトンボたちは、全員が同じ色になるなんて思わなかったろう。揺れながら、また揺れながら18年が経ってしまった。

 でもトンボたちよ。今でも僕には、色が付いているように見える。




「ラジオとか、テープとか・・」
(4/24)

 古い工場(こんなものはないが・・)に行くと、ときどき、古いラジオがそのまま、現役で使われていたりする。たぶん、スイッチを入れられてから、そのまま、ダイヤルも変えられず使われていたのかもしれない。ラジオは古くても、かかっている音は新しい。そのギャップ・・。

 ダイヤルも変えず、持ち歩きもせず、そこに置かれたままならば、別に「ラジオ」という形でなくてもいいだろう。音が鳴ればいいのだから、ビンの形だったり、壺の形だったり何でもいいはずだ。カセットテープレコーダーだって、CDプレイヤーだって、どんな形でも、問題がないはずだ。僕だったら、「ナット・キング・コール(歌手)」の置物のラジオとかいいなぁ・・。

 テーブルが鳴るっていうのは、どう?




「古い新品ギター」(4/21)

 バイト先の近くのCD屋に、一本のギターが下がっている。それは今から25年ほど前に発売されていた、ヤマハのギターだ。ボディは、サンバーストの赤い色が付いていて、ヤマハにしては珍しいフォークギターだ。そこはCD屋さんなので、楽器は、まあ飾り程度に置いてあったのだろう。定価は7万円。もちろん新品だ。きっともう25年以上、売れないでいるはずだ。

 売れ残ってしまった、一本のギター。あのギターを新品で探す事はまず不可能だ。できれば僕が欲しい。欲しいのだけれど、ちよっと7万は高い。いったいいつあのギターは売れるのだろう。値段が下がるわけではない。いい音がするのはわかっている・・。

 毎日、そのCD屋の前を通る。ギターが少しだけ僕を呼ぶ。バイトをやめるとき、お金が出たら、買おうかなと思っている。




「高円寺放送の不思議」(4/16)

 高円寺の商店街では、毎日の昼間「街頭放送」として、宣伝が流れている。

 朝は特に「高円寺放送」自身の宣伝が流れていて、その文句も憶えてしまった。「一日、数百万人の耳に伝える、高円寺放送・・」と、いつも言っているが、この「数百万の耳」というのが、もつひとつよくわからない。どうゆう計算をしたら数百万人になるのだろう? 一日、12回放送だとして、12×高円寺人口なのだろうか。それとも高円寺の人口×その宣伝の話をする人達の数なのだろうか? それとも「数百万の耳」というのは、抽象的な言葉なのだろうか? それは、ずっと謎のままだ。




「その立ち食いそば屋さんの不思議」(4/10)

 その立ち食いそば屋さんは、なんだか気持ちがいい。

 広い入口と広い店内。お客さんは、朝で5・6人程度。やっているのは、お兄さんと、世間話の好きなおばさんたちだ。

 流行っている店というには、お客さんの少ないのかもしれないけれど、その店の印象は大変にさわやかだ。遠くの方から聞こえているAMラジオ。それがいい具合に鳴っている。

 つゆの味は方は、濃い方だろう。「かき揚げ」が人気メニューで、来る人来る人、「かき揚げ」を注文する。実際に美味しい。そして、七味とうがらしではなく、真っ赤な一味とうがらしだ。いなり寿司もある。これもうまい。一緒についてくるしょうがが、とにかく赤い。普通以上に赤く見える。

 いろんな、立ち食いそば屋さんを知っているけれど、人気のある店、人気のない店のちがいは、雰囲気にもよるところが多いだろう。そのいつも寄ってしまう立ち食いそば屋さんは、どこがどう、僕を惹き付けるのか、よくわからない。よくわからないが、絶妙なバランスで、僕を惹き付けてしまう。朝の光で満ちた店なのだ。

 先日、駅前にあった、立ち食いそば屋さんが、なくなってしまった。最近、まったく人が入ってなかったのだ。しかし、どうして人気がなかったのか、それがよくわからない。それが、立ち食いそば屋さんの不思議だ。




「俺たちの旅は終わらない」(4/8) 

 先日まで、テレビで「俺たちの旅」の再放送をやっていたはずだけれど、その10年後、20年後と、主役の三人をテーマにした、ドラマが作られている

 レンタルビデオショップに行くと、その後の二作もまた、同じ帯のビデオパッケージで、一緒のロゴで並んでいた。普通は、ちょっと位、違えてもいいだろうに・・。しかし「俺たちの旅」という、ダイナミックな「タイトル」を付けてしまった時点で、このことは決まっていたようだ。

 他にも「俺たちの朝」もあったのに・・。こちらの方の続編は、果たして作られたのか?

 いずれまた「俺たちの旅」の三人のところには、忘れた頃、連絡が来るだろう。

 「また、やりますかァァ。」そこには、ふたつ目のドラマが続いているようだ。




「曜日の由来」
(4/5)

 月曜日は、moon・day。それはわかる。

 火曜日は「火」の日。水曜日は「水」の日。日曜は sun・day、それもわかる。一週間というのは、たぶん旧約聖書から来ているのだろうけれど、さて、世界は広いので、日付がどう区切られているかは、それぞれの国の文化にもよるだろう。アフリカのどこかでは、「誰々さん家の日」「誰々さん家の日」と進んでゆくかもしれない。その前に、一週間という観念もないかもしれない。

 それにしても、「なぜ今日は、月の日なの?」と、日本に住む人の誰ひとり疑問に思わない月曜日もあるだろう。しかし、その日「月曜日」と一億回は、呼ばれているのだ・・・。

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