青木タカオ「ちょっくら・おん・まい・でいず」

「今日の夜話」過去ログ'10.4月〜'10.7月


「土色の光」'
10.7/31

 土色の光なんて、想像もつかないのだが。。

 ・・・・・・・

 いつも普段弾いているギルドのギターを修理に出した。

 すると必然的に、普段弾きのギターがないわけで、

 かつて弾いていたギブソンB25のギターをケースから出してみた。

 ギルドのギターはボデイも大きく、音のボリュームもあり音色もつややかだ。

 それに対して、ギブソンB25はボデイが小さめで音色は、こもりがちな音。

 こもりがちというより、土臭い音っていうのかな。

 ぴったりと弦を合わせ、ピックでじゃらーんと弾いてみると、

 なんとも豊かなイメージが広がるのが感じられた。

 それは、アメリカの田舎の土地土地の家の軒先で、太陽の光を受けながら、

 じゃらーんと、ギターが弾かれている風景だ。弾いているのは、土地土地の人たち。

 実際、ギブソンはアメリカの古いメーカーなので、その場面には確かに登場するであろう。

 弾きながら僕には、ある鈍い光がギターからすーっと出ているのがイメージとして感じられた。

 その鈍い光はアメリカの広い田舎の土地土地をめぐってゆくようであった。

 その光の線は、きらりと光ってはいない。海のブルーに近い光のようであったか。

 それとも土色の光か。。

 ・・・・・・

 ギルドのギターを弾いていた毎日は、いつもライブハウスのギターの音が聞こえていた。

 暗いステージにスポットライトがあたる。

 そこで鳴るギターの音は、やっぱり白い光のようでなかったか。

 僕はそのことばかりにイメージがとらわれていた。そこで歌う新曲のことなど。

 すっと、ギルドのステージギターがこの部屋からなくなり、ギブソンの小さなギターが残った。

 じゃらーんと弾いてみると、田舎の土地土地が見えてきた。


「見ている世界」'10.7/29 

 今、実家近くの海に来て横になっている。

 デジタルカメラで海を撮ってみたけれど、どうも見ているようには、撮ることができない。

 広さというものが出ないんだな。

 仰向けになって曇り空を見てみると、その広さは目では実感できるが、カメラでは撮れない。

 見ているままで撮れたらいいのにな。かなりの広角になるとは思うが。。

 都心にいるときは、りょうはじに建物があり、たいがいは見ているように写すことはできる。

 でもやっぱりちがうんだな。僕らが見ている世界っていうのは。右にも左にもずっとつながっているんだよ。

 こんなふうにほんとは見ている。世界と呼ばれるものを。


「風景」'10.7/27

 もうすぐ柏崎の実家に数日帰るが、楽しみにしていることがある。

 それは、場面場面、風景風景で、クラシック音楽を楽しんでみたいということ。

 ここ数ヶ月、クラシックの楽曲をいろいろと聞いてきた。

 それはほとんど携帯音楽プレーヤーに入っている。

 長距離の電車に乗るとき、柏崎が近付いてくるとき、

 そして故郷の町の風景を歩くとき、

 同じ楽曲でもちがうように聞こえるだろう。

 そして聞きたくなる楽曲もあるだろう。

 それらのいろいろをとても楽しみにしている。

 もうひとつの旅。


「ギターと景色」'10.7/25

 まず、夢の話から。。

 夢の中でしか訪ねない古道具屋がある。

 それはずっと前に、夢の中で見付けた古道具屋さん。

 つまりそこに行くには、まず夢の中に入らねばならないわけだ。

 まず、夢の景色のどこかからね。

 現実というものもあるけれど、夢の世界というのも確かに存在している。

 ・・・・・・・・・

 そしてギターの話。

 ギターもまた、夢の世界と似ているのではないか。

 現実というものの中で、ギターを弾くということが存在しているともいえるが、

 ギターの中に広がっている世界は、現実とはまた別のところにあるのではないか。

 ギターの中に広がっている世界を行くには、まずギターの世界に入らねばならない。

 そこから、いろんな場所に行けるのではないか。

 夢の中を旅するように。

 橋を渡り、路を行き、バスに乗り、扉を開け、、。


「二十四の瞳」'10.7/23

 この言葉を耳に思い出すとき、

 なんだか泣きそうな気持ちにならないか。

 先生の物語であることは、僕でも知っている。

 内容は、また話すとして、タイトルに現されているイメージは先生の心そのもののような気がする。

 よく考えてみると、先生という職業はたいへんな役を受け持っている。

 勉強を教えるというだけでなく、子供たちの人生に寄り添ってゆくわけだ。

 一人一人のまるで親代わりであるかのように。

 職業として、ちょっと大変すぎないか。

 僕が小さい頃、クラスには40人ほどの生徒がいた。

 中学・高校生ともなれば、いろんな問題も出てくるだろう。

 僕が商業高校三年のときは、みんなに就職活動があった。

 担任の先生は、ひとりひとりに親身になって相談にのってくれていた。

 先生って、大変すぎないか。

 ときには、大きな問題も抱えて、自分がつぶれそうになることはないか。

 先生だって人間だろうに。

 しかし、それでも、先生は笑顔を見せるであろう。

 ひとりひとりのかけがえのない時間に寄り添っているのだ。

 たぶん、教壇に立ってみると、その実感があるだろう。

 自分はひとりひとりの先生であるということを。

 僕らはみんな、そんな心を持たなきゃね。

 先生と呼ばれなくても。


「旅の記憶」'10.7/21

 どこかに旅行しても、ずっとたってしまうと、

 記憶はあいまいになることは多い。

 僕の場合は、その土地がどこだったか、あいまいになってしまう。

 しばらくはよく憶えていても、、。

 今はデジタルカメラも普及していて、そりときどきに撮ってゆけば、

 アルバムとして、あとから記憶にとどまるであろう。

 それもよし。

 そんな旅の記憶のことを想うとき、

 26歳のときに出た約1年の海外旅行の記憶は、今もほんと鮮明だ。

 そのときはわざとカメラを持っていかなかった。

 いつのどんなシーンも、頭の中に残っている。オールカラーで。

 楽しかったことばかりではないのに。

 どうして、こんなにも鮮明に憶えているのか。

 もう25年ほどたっているのに。


「聴いていた景色」'10.7/19

 音楽ってもしかしたら、万能の薬に近いのかなって最近思っている。

 特に病気を治すとか、そういう意味でなくて。

 すかっとするというか、貼り薬に似たような、、。

 今でこそ音楽はアルバムで再生されて、ほぼ自由に好きな音楽を聴くことが出来るけれど、

 大昔の人たちは、音楽をそんなふうには楽しめなかったであろう。

 でも、その「すかっとするというか、貼り薬に似たような」ものは、心が求めていたにちがいない。

 好きな音楽を聴くように、大昔の人は景色を見ていたのではないか。

 好きな景色を眺めながら、音楽のようなものを感じていたのではないか。

 じーっとしてね。耳をすまして。


「ピアノ弾きの再現」'10.7/17

 これはちょっとした想像であるのだが。。

 ベートーヴェンが、もうちょっと長生きをしていれば、

 聴いたこともないような美しい調べのピアノ曲を、譜面で弾くこともあったろう。

 頭の中で聴いていたかもしれないが。。

 たとえば、ショパンやリストの後期・他の作品など。

 今であれば音源をCDとかで聴けるわけだけれど、

 当時であれば ピアノ譜で渡ってくることがあったろう。

 それを自分の手でピアノで弾いたりするとき、

 どんな気分がするのだろうなと思う。

 その作曲者の創作部分にまで、手が再現するわけだから。

 僕だったら、やっぱり耳で聞いていたい。

 そんなこと言っていたら、ベートーヴェン自身のピアノ譜も、

 他のピアノ弾きが再現するわけだけどね。

 自分なりに弾けばいいのかな。

 初めて弾く、他の偉大な作曲家のピアノ譜を自分の手が再現するなんて、、。

 脳のバランスがおかしくなるんじゃないかなと思う。

 そうでもないのかな。


「似ている人」'10.7/15

 もう亡くなった父にとても似ている人を見た。

 歩き方から、髪型、メガネから、服装まで。。

 顔はもちろん。

 ああ、懐かしいな。

 ほんのふた駅ほど見かけてその人は降りて行った。

 もうあんなに似ている人には会えないかもしれないな。

 不思議な気分。

 もう会えない人と会えてるような。

 そっと時間は通りすぎて、またいつもの帰りの電車となった。

 実感としては、ほんと普通であった。

 亡くなった父にももう会えないし、

 父に似ている人にも、もうきっと会えないので。


「月光・ストーリー」'10.7/13

 ベートーヴェンのピアノソナタに「月光」という曲がある。

 シンプルな三拍子に高音が重なってくる例のやつだ。

 先日は南米のチリのピアニストの月光を聴いた。

 すると月光のストーリー背景が、南米の景色の向こうにあるように感じられた。

 ベートヴェン自身はドイツなので、ヨーロッパの建物が浮かんでくるし、

 同じ楽曲なのに、弾くピアニストによって景色とストーリーがちがって思えてくる。

 これが中国のピアニスト、日本のピアニストならアジアの風景、ストーリーが見えてくる。

 ロシアならば、広々とした景色。。

 同じ楽曲なのにね。

 ほんとに、それで良いと思う。

 第二楽章第三楽章と月光は続いてゆくのだけれど、その展開にもお国柄が出てもいいだろう。

 日本なら明治維新の人々でも出てきそうだ。


「囲炉裏ばなし」'10.7/11

 下町の大きな会社も今は、人員削減のせいか、

 広い事務所に、数人というところもある。

 先日、訪ねたその事務所は老舗の会社で、年配近くになったおやじさんが、のんびりと話していた。

 それはまるで囲炉裏のまわりで話していた口調であった。

 そういえば、冬には大きなストーブがそこにあったような気もする。

 囲炉裏ばなし。そこで話すトーンは、なんだか共通のものがある。

 ぼんやりとして、考え考え、思いつくままに、そしてゆっくり。。

 太古の昔もきっとそうであろったろう。

 あの言葉のリズム。

 それから3000年ほどたっているかもしれないが、基本的なところは変わらないだろう。

 僕らはずっとそうして来たにちがいない。

 喫茶店もあるし、居酒屋もあるし、バーも、電話も電子メールもインターネットもある。

 しかし、それはどれも囲炉裏ばなしとは少しリズムがちがう。

 僕らには囲炉裏ばなしの時間が必要なんじゃないかな。

 一日のうちに、数時間は。

 そうすればきっとバランスがとれてくるだろう。


「友達と本の関係」'10.7/9 

 2000年を過ぎた頃から電子メールが始まり、

 友達との距離もぐんと近くなった。

 まあ、それは電話でも同じことなのだけれど。

 2000年よりも前は、部屋にいて、電話が鳴らなければ、

 友達は遠くに感じられたものだ。

 そんな夜は、好きな詩集を読んだりした。

 友達に会うような気持ちで。

 しかし、最近の友達事情はちょっとちがう。

 ついったぁーとかみくしいとか、、。

 友達の方から、日々の日記が送られてくるのだ。

 もう、そこにはあまり距離というものがなくなった。

 こうなってくると、詩集は、もう詩集のままになってしまう。

 僕が詩集をなかなか読めなくなってしまって、久しい。

 友達という意識が変わってしまったのではないかなぁ。

 あまりにも電子世界が早すぎて。。

 この部屋のとっても近い友達を忘れてしまった。


「水分」'10.7/7

 蒸し暑くなると、かなり水分をとる。

 外仕事をしていると、なおさらに。

 昨日もかなり蒸し暑く、そのぶん水分をこれでもかというくらいにとった。

 ちょっととりすぎかなと自分でわかるくらいに。

 夏に向かうとき、僕の場合それが大事だ。

 「ちょっと水分とりすぎかな」と、そう体が思えば、

 それはなくなる。

 だんだんと落ち着いてくる。

 それでなんとか夏をのりきる。

 これからが勝負です。


「新宿・南口改札」'10.7/5

 荷物を持って、日曜日の新宿の南口改札を出た。

 休日ということもあり、そこは人でいっぱいであった。

 新宿にはよく行くのだが、ほとんどが東口である。

 年に一度、南口に行くかどうかだった。

 中央線の高円寺から荷物を持って新宿へ。

 そして新宿の南口を出たら、僕はまるで地方から出てきた人のようだった。

 こんな気分は初めてだな。

 まるで、そこはまるでちがった世界のようでもあった。

 僕はここから10分の高円寺から来たのな。

 時代はどんどん先に進んでいるのか。

 ずっと都心に住んでいるような気もしていたけれど、

 そうでもないんだな。住んでいるところは、

 ここからけっこう遠い。


「ピアノ曲についての発見」'10.7/3

 気が付けば、ベートーベンのピアノ曲ばかり聞いている。

 とくに三大ピアノの曲は、聞けばきくほどに良くなってくる。

 第一楽章は、どれも長めで、すっとは憶えられない。

 しかし昨夜は眠ろうとしたとき、その第一楽章がまるで、

 プレーヤーで再生したかのように頭に流れ出した。

 最初に聞いたときは、なんて憶えにくい曲なんだろうと思ったのに。

 ああ、やっぱり完成されたイメージがあったのだな。

 それ以上に動かせないほどに。

 ・・・・・・・・・・

 それはそれとして、ピアノ曲について、昨夜は面白いことを発見した。 

 僕は自分の歌を作るとは、いつも「動画再生」を意識している。

 動画にて、しっかり再生できるかを、常に考えている。

 聞いているみんなが、それぞれひとつのミュージックビデオが出来るように。

 なぜ「動画」なったのかは、思い出せないのだが。

 気付いたときから、そう意識していた。

 しかし、最近聞いているピアノ曲を、僕の頭がイメージ化するとき、

 ゆっくりと写真が浮かんでは、また消え、また他の写真が浮かぶという映像なのだ。

 実にそれがぴったりとくる。

 そういう楽曲がある。

 そうか、そんなふうに写真が入れ替わるように、歌を作ったことはないな。

 みんな動画だ。

 ベートーベンのピアノ曲を聴いていたら、次々と写真が浮かんでいる。

 200年前は写真もなかったのにね。

 ベートーベンの頃は、絵画が浮かんでいたのかな。


「炊飯器」'10.7/1

 ついふらふらと、かまど炊き風という炊飯器を手に入れてしまった。

 それで炊いてみたら、ふわふわのご飯が炊けてしまった。

 おまけに保温は「つやつや保温」というものであった。

 ああ、時代は進化した。

 いままで使っていたものは、ただ炊いて、保温するというもので、

 僕の炊き方が悪いのか、うまく炊けたことがあまりなかった。

 保温にすると、数時間で、かたくなってきてしまった。

 もしかして、壊れていたのか??

 壊れていたかもれない。

 それが一夜にして、ふわふわご飯だものな。

 それも、つやつや保温。

 おれ あの すいはんき にじゅうねん つかって いたんだよね

 調子が悪くなって10年。

 世の中、進化していたな。 

 ごはん、うまいよ。


「ちがうコーヒーを買ってみた」'10.6/29

 僕にとってコーヒーとは、ネスカフェゴールドブレンドのこと。

 昨日、買いに行った安売り店では、売り切れになっていて、

 替わりにKEY COFFEEのものを買った。

 そのKEY COFFEEのインスタントコーヒーにも、多少の想い出があったからだ。

 と言うか、いろんなインスタントコーヒーの旅を続けて、その後でゴールドブレンドに落ち着いたからだ。

 もう25年くらい前。

 インスタントコーヒーの旅をしていた頃、ひとつのコーヒーを買っては、

 その瓶がなくなるまでは、そのコーヒーを飲んだ。

 だって、捨てるわけにもいかないものね。

 KEY COFFEEのインスタントコーヒーもかなり気に入り、三ヶ月くらい飲んでいたりしたんだよね。

 その頃、僕は小さなアパートにいて、よく勉強もしていた。

 歌は出来なかったけれど、よく勉強していた頃だ。

 インスタントコーヒーもまた勉強していた。

 だから、想い出いっぱいの勉強の味がする。


「もしもジャワカレーがなくなったら」'10.6/27

 昨日もハウスジャワカレーで、カレーを作った。

 特にこだわりがあるというわげてはないのだけれど、

 それが僕のアパート生活のはじまりの象徴であるので、

 想い出が多いというのかな。。

 実家にいた頃は、基本、ハウスバーモンドカレーであった。

 ときどき、ジャワカレーでも作ったことがあって、僕にはその味が忘れられなかった。

 東京に出てきて、ひとり暮らしを始めた頃、カレーを作るとしたら、

 必然的にジャワカレーを手に取った。

 それから30年もたっているというのに、いまだにジャワカレーを手に取っている。

 たぶん魔法にかかっているんだよね。

 そしてもしもジャワカレーがなくなってしまったら。。

 それは考えないようにしている。

 なくならないためにも、応援しないとな。


「マエストロ」'10.6/25

 レナード・バーンスタインの指揮するベートーベンの「第九」のビデオを観た。

 オーケストラのビデオを観るなんて、以前の僕では信じられないことだけれど。。

 指揮をする人、特に巨匠を敬う気持ちを込めて「マエストロ」と呼ぶのは知っていた。

 ほんと、バーンスタインの指揮を観ていたら、「マエストロ」という言葉がとても似合っていた。

 なんというかな、人生の巨匠というか。

 オーケストラの指揮をするなんて、とても大変なことだ。あれだけの楽器をまとめなくてはならない。

 それに楽曲自身のことも、理解していないといけない。

 なおかつ、それらのすべてを「音の楽しみ」に変えねばならない。

 僕がバーンスタインの指揮を観て驚いたことは、ほんと、オーケストラ全員を感じているようだったのだ。

 ひとりひとり。

 意識をおいている演奏者も、いま音を出していない演奏者も、肌で感じているようだった。

 楽曲自身の良さも、見える形として体で現されていた。

 それを実現するには、どれだけの時間とイマジネーションの蓄積がいるのだろうと思う。

 いちど楽曲がはじまったら、指揮者は、オーケストラをまとめてゆかねばならない。

 演奏者の中には、緊張している人もいるだろう。

 それを音で聞き取り、それもわかった上で指揮をふるのだ。

 みんな指揮者についてゆくのだ。絶対的な信用を彼において。

 今回のビデオを観て、「マエストロ」の言葉の響きが、なんとなくわかった。


「'80年代の車内」'10.6/23

 総武線、中央線には、ほぼ毎日乗っている。

 つい先日、ちょっとなつかしいファッションの人を見た。

 '80年代っぽいというのかな。うまく説明できないのだけれど。

 僕が東京に出てきたのは'79年。

 その頃の電車の中のみんなはどんなだったか。

 もちろん携帯電話などない。他、ファッションなど。

 どう今とちがっているのか、あまりはっきりと言葉ではいえない。

 そんなに変わらないような気もするし。

 もうちょっと、スーツ姿の人が多かったような気もする。

 きっと多かった。ぜったい多かった。

 他はどうちがうのかなぁ。

 ちょっと古いテレビドラマの映像のようであるのか。

 実際、行ってみるか?

 '80年代の電車に乗ってみたい。


「ときどき部屋が、渋谷公会堂または」'10.6/21

 歌の歌詞や曲のイメージを浮かべるとき、

 僕がよく部屋でする創作法がある。

 それは、自分が渋谷公会堂(今は名前が変わったが・・)や日本武道館の、

 ステージに立って歌っていると想定して、歌ってゆくのだ。

 すると意外とすっと歌詞が出てくることがめある。

 それは普通のライブハウスではだめだ。

 大きな会場ね。それとも野外イベント。

 そのイメージで、その歌を歌ってゆくとき、

 歌詞のひとつひとつが、大きな力を示してゆく。

 ぼんやりとではなくて。

 ひとつひとつが、言葉の力を持って。

 そうやって歌ってゆくと、悩んでいる歌詞のところで、

 なぜかすっと言葉が口から出てくる。自然とね。

 たぶん、その場面で、そうやって歌ってくるだろう。

 これをするには、自分がその場面に入り込まねばならない。

 イメージ脳がフル回転となる。

 それがいいのかもしれない。


「録音プレーヤー」'10.6/19

 創作をするときは、いつも録音プレーヤーのスイッチを入れている。

 アイデアが出ても、録音していないと忘れちゃうからね。

 でも若い頃は、録音プレーヤーは、基本録音するために使っていた。

 同じ歌を何度も入れたりしてね。ギターのプレイを気にしながら。

 昨日は、録音プレーヤーにヘッドホンを着けて、それを耳にかけながら創作してみた。

 その音の懐かしかったこと。マイクは録音機に付いているものなので、そんなには音は良くない。

 その音を聴いていると、中学・高校の頃の気持ちになってくる。

 一番、歌うのが楽しかった頃。馬鹿みたいに。

 もちろん録音したテイクは、何度も何度も聞いた。それは今も耳に残っている。

 その音だ。

 そのサウンドを聞いていると、中学・高校の頃に戻ったみたいな気持ちになる。

 録音機が拾う小さなコンデンサマイクから広がる部屋の音の空間。

 いいねぇ。じんとくる。そして集中できる。

 ヘッドホンで聴きながら創作するのも、また格別にいい。

 ただ録音するよりも、かなりいい。


「集中」'10.6/17

 思い返してみれば、新曲はいつもライブ当日に出来ることがほとんどだ。

 先日も、ライブ当日に歌を作っていたが、

 朝の段階では最初の二行くらいの歌詞しかできていなかった。

 それから四番まで、歌詞を作らねばならない状況であった。

 その日のライブで歌うために、この曲を作ってきたわけだから、

 僕としたら、どうしても歌える形で仕上げたかった。

 結局、あと1時間で部屋を出る段階で、三番四番を作らねばならなくなった。

 ほんと集中して歌詞をまとめて、ライブ会場に着いてからも歌詞を作り続けた。

 それでなんとか、歌うことが出来た。嬉しかった。

 それでも、まだ歌詞を直したいところがいくつかあったので、

 その日以降も、歌詞を探し続けているが、なかなかまとまらない。

 こんなに時間があるのに。

 まあ、これが普通なんだよね。

 ライブ当日に集中できたおかげで、歌のほとんどが出来た。

 あんな時間はあの日にしかない。


「部屋ICタグ」'10.6/15

 最近の僕は特徴と言えば、

 おかしいくらいに探し物が見つからない。

 ぜったいあるはずのものが。

 今もカメラを探している。

 たぶん、なくさないように、どこかに置いたんだよね。

 それがわからない。

 部屋中を見回してもわからない。

 こんなときは友達に部屋に来てもらって、 

 部屋を見回してもらいたい。

 簡単に見つけてくれるかもしれない。 

 ・・・・・・

 部屋ICタグというものがあればなと思う。

 シールでいいわけだけれど、

 携帯やカメラ、財布などに、ICタグの番号シールを貼っておく。

 そして、機械の番号を押すと鳴るのだ。

 そのものに近付くと、音は大きくなる。

 探査機みたいなものだ。

 この2010年、本気で開発して欲しい。


「僕なりのエコ」'10.6/13

 外仕事をしていると、靴の底がかなりへってしまう。

 靴の回りはすべて、なんでもなんでもないのに、かかとだけがへり、

 穴なんて開いてしまう。

 穴があくと、雨の日にはけない。

 それでもう限界だと言うには、まだ早い。

 なので、晴れの日は、その靴をはく。

 かかとだけが穴があいているだけでは、捨てられないな。

 僕なりのエコで。

 雨が降るかもというときは、別の靴をはいてゆく。

 完全に晴れの日は、穴あき靴。

 そのうち、ほんとに限界が来る。

 やっぱりそこまではかなくっくちゃね。


「探しものがなーいですよ」'10.6/11

 ぜったいにあるはずのCDが、どうしても見つからない。

 最近、こんなことばかりだ。

 つい一昨日も、明け方まで一枚のコピー用紙を探していた。

 教訓。コピーした用紙は、コピーした面を表にして二つ折りにすること。

 きっと、かんちがいしてすてたんだよな。

 つい先日はこんなことがあった。

 郵便ポストをはさんでいる大きめのクリップが、下の植え込みに落ちたとき、

 その下をどんなに探しても見つけられなかった。

 ありえない話なんだけどね。どんなに探してもない。

 不思議なことに、以前も落ちたとき、クリップが行方不明になった。

 たぶん郵便ポストの下に時空のひずみでもあるのであろう。

 すぐあると思うものが、最近、いつも見つからない。

 何か、見つからない法則でもあるんだろうか。

 見つからない法則も見つからない。


「東京スカイツリー」'10.6/9

 今、墨田区で「東京スカイツリー」なるものを建築している。

 仕事の現場が、そのすぐ近くであるので、ほんと最初の最初から建築を見てきた。

 もう半分以上できてしまった。すでに日本一。

 150メートルほど出来た頃、それはとても巨大な建築に思えた。

 圧迫感もかなりあって。

 それ以上高くなってどうするという感じで。

 さてさて、400メートルにもなった今、スカイツリーは僕にどう見えているのか?

 それがね。不思議なことに、逆に高く感じられないのだ。きっと目の錯覚で。 

 その真下近くからタワーを見上げると、一番上の方が縮んで見えてしまうのだ。

 この感覚、伝わるだろうか?

 イメージよりもちっこく見えてくるのだ。

 ずんぐりむっくりのタワーのように。

 すると自分の中に「そんなに高くないのかな?」と言う観念が生まれる。

 それ以来、どこから見上げても、そんなに高く感じられなくなった。

 あららららら。

 150メートルくらいのときは、ほんと高く感じられた。


「時間の記憶」'10.6/7

 先日、図書館に行ったら、こう言われた。

 「最後に貸し出しをしたのは、いつ頃ですか?」「2年くらい前です」

 「データがないので5年以上は貸し出しがないですね」「そうですか、、」

 内心ショックだったなぁ。5年が2年に感じていたなんて。

 この場合は、時間が短く感じた例ではある。

 たしかに二十年前にくらべると、一年やひと月、一週間の長さがとても早い。

 二十代は、今より二倍は長く感じていたように思う。

 前に聴いた話だが、人は生きている年齢によって、時間の感じ方が変わるらしいということ。

 たとえば、一年の感じ方は、年齢分の一年と同じであるという。

 あっ、それ、実際に、そうかも。

 20代前半の頃、ほんと一週間が長かった。たぶん今の二倍くらいに。

 そして10代の頃を思えば、そのまた二倍ほどの長さのようであった。

 うーん、ほんとに、そう、なのかも。

 でも、なぜだろう。また学校に行ってみるかな。


「鳶の足音」'10.6/5

 先日、こんなことがあった。

 鳶職の倉庫近くに、外仕事の用で行ったときのこと、

 用も終わり、さて行こうかなと思ったら、

 少し離れたところに、鳶の留守番の人が立っていた。

 「向こうの車、動かそうかい?」「あっ、大丈夫です」

 まったくそこに人の気配を、僕は感じることが出来なかった。

 意外なほど、まったく。

 さすが、鳶の人だな。気配が消えている。

 それからしばらくして、今度は車の方へ寄ったとき、

 また、さっきの鳶の人が向こうから、

 「車動かそうか?」と言った。そのときもまったく人の気配が感じられなかった。

 「大丈夫、大丈夫」

 仕事を終え、お知らせをポストまで持っていこうとすると、

 「あっ、持ってくよ」と、声がした。

 気が付けば、鳶の人は僕のすぐ横に立っていた。

 すごい、まったくその気配に気が付かなかった。ほんとに。

 鳶の人は足音を消すことが出来るのだな。

 そして気配を消すことが出来るのかもしれない。

 びっくりしたよ。もうー。


「できればずっと昔」'10.6/3

 いつも創作するとき、歌うときに思っていることがある。

 僕らがフォークと歌を呼ぶ前の時間にいたいと。

 聴いているみんなが、「あっ、フォークの前だなぁ」と、ふと思ってくれればと。

 でも、実際の僕の歌は、もろにフォークの影響下にある。

 笑ってしまうくらいに。

 まあ、心意気だけね。

 最近は、ずっとベートーベンを聴いてて、気持ちが200年前に戻っている。

 自分自身は、50年も生きていないわけだけれど。

 200年前をイメージしたいと思うけれど、さてどうすりゃいいのか。

 どうすりゃいいのさ。

 自分自分もわからないのだが、

 もう「フォーク」とか「フォーク前」とか、まるで気にしないでいようと思う。

 ここひと月で、こだわりはみんな消えた。

 結局は自分自身から聞こえてくる歌を形にしたいと願うだけだ。

 そうそれが大事。

 そんな心から歌を作り、そんな心に響いて欲しいなと思っている。

 きっとできる。そう思う気持ち、それが、そうなのだから。


「約200年」'10.6/1

 1820年代のウイーンが舞台の、

 ベートーヴェンが出てくる映画をいくつか観た。

 約200年前のヨーロッパのドイツ、ウイーン。

 僕はもっと古い時代をイメージしてたが、

 意外と現代とそんなに変わらないようであった。

 裁判所もあったし、人も今のようであった。

 特に人を見ていると、まるで今の人のようであった。

 ドイツの人はきっとがんこなので、特にそうなのかもしれない。

 現代に比べたら、いろんなことが不自由かもしれないが、

 当時の人がそんなふうに感じていたかは別だ。

 古い友と会って話すことと言ったら、

 200年前も現代もそんなには変わらないだろう。

 ベートーヴェンの音楽が200年も前のものだとびっくりしてたが、

 それもありうるなと、今は実感している。

 実際、ありえているわけだし。

 約200年前、生活はかなりちがうだろうが、人はあまり変わらないだろう。

 そういう気持ちで、聴いてみようと思う。

 できれば僕が当時の人のようになって。


「甘く見ていた」'10.5/30

 ステージバックに貼る大きな無地の布に、

 絵柄を描く予定を入れていた。まあ5時間くらいで。

 イラストではなくて、何かの模様にしようと決めていたので、

 そこそこどうにかなると思っていた。

 しかし、いざ描こうとすると、模様やデザインのアイデアがまるで出てこない。

 何かのヒントをもらおうと、インターネットで検索してみたり、

 街に出て、いろいろ見たり、部屋の中の模様を探してみたり、

 よくよく見れば、あらゆるものに絵柄や模様が付いているのだなと、あらためて知った。

 ネクタイにだって、なんだって、何かしら絵柄が付いている。

 街を歩けば、タイルにも、服にも、包装紙にも、何かしら絵柄がついている。

 それなのに、僕の頭からはピンと来る模様が出てこない。

 レポート用紙を買って来て、浮かぶ限りのイメージを次々描いてみたが、

 どれも、まるでだめだ。

 世界中にこんなに絵柄や模様があるのにな。

 サッシ戸のガラスにさえも模様が付いていた。それはなかなか良かった。

 (もう、それにするか・・)

 ここまでで、もう丸一日たっていた。

 ・・・・・・・・・

 サッシ戸のガラス模様を布に描こうと、いざやろうとしたら、

 僕の中で、ひきとめる声があった。

 (だめでもオリジナルにしようよ)と、、。

 そこからがまた旅であった。レポート用紙に向かってみるけれど、ぜんぜんだめだ。

 街を歩いて、いろいろ目をこらしてみると、こんなにも模様があることを知った。

 いままで、ほんとぼんやりと見ていたんだな。

 日頃から、気にとめていれば、布描きも、もう少し楽だったろうに。

 それからまた3時間、4時間。。

 やっとなんとかアイデアが出て大きな布に墨汁で描いていった。

 30分かからない時間で。

 それでも、もうヘトヘトであった。

 描いたイラストを見て、僕のこの二日間のもだえた苦しみは、

 誰も想像がつかないであろう。

 だって、ツバメを三羽描いただけなので。


「昨年のみぞれアイス」'10.5/27

 銭湯に行くたびに、基本的にいつもアイスを買う。

 ここ数日、とても暑かったのでイチゴ味のみぞれを選んだ。

 思い出すのは、昨年の9月のこと。みぞれのアイスが多くあまっていた。

 そのときは人ごとながら在庫を心配したものだった。

 きっとですが、たぶん、これは昨年の残ったみぞれアイスではないかな。

 食べてみると、カチコチでほんとカチコチで、アイスの木のスプーンも折れそうになるくらいであった。

 きっとですが、たぶんこれは昨年のみぞれアイス。

 よく冷凍保存という言葉を耳にするが、この場合もあてはまるのだろうか。

 昨年の夏がすぎ、秋になり、冬になり、、みぞれアイスの時期が遠くなっても、

 なにも心配などいらなかったのだな。

 ひとつの食べ物が一年を越えて復活する。

 心配など、なにもいらなかったのだと。


「もう曲なんだかなんだか」'10.5/25

 ベートーベンのピアノ曲の1曲が気に入って、

 しばらくずっと聴いていたら、

 もうそれがピアノなんだか曲なんだかわからなくなって、

 まるで水のようになってしまった。

 でもそれが水なのかもはっきりしない。

 得体の知れないものになってしまった。

 イヤホンで聴いてみるけど、まるで曲に聞こえなくなってしまった。

 おかしいぞ、これは。

 僕の頭の中で、なにがおこったんだ。

 もう以前のようにその曲が聴けなくなってしまった。

 まるで水のようになってしまった。


「部屋の広さにこだまする音」'10.5/23

 ベートーベンに続いて、最近はシューベルトのピアノ曲を聴いている。

 これはなんとも縁があるというか。

 ベートーベンとシューベルトは同じ時代、同じウイーンに住み、

 お墓も隣にあるという。そして一年ちがいで亡くなっている。

 話を読めば、シューベルトがベートーベンを尊敬した流れであるようだ。

 とにかく、なぜか僕もベートーベンからシューベルトに今、聴き移っている。

 端的に言えば、どちらにも弾き語りフォークと通じる何かがあるということでしょうか。

 さて、本題。

 シューベルトの晩年のピアノソナタを聴いていると、

 部屋の広さとか、その時代とか、シューベルトの寂しさとか、 

 スピーカーから聴こえてくるんだよね。

 まるで、その部屋でシューベルトがピアノを弾いているように。

 どのくらいの部屋の広さだったんだろうか。

 まあ、ピアノが置けるくらいは広いんだろうな。

 僕の部屋なんて物でごたごたになっていて、まったく空間というものがない。

 僕の作品にも、きっとそんな部屋の広さが出ているのだろう。

 それもよし。ただ、部屋にこだまする響きはないだろうな。

 物が多すぎて。


「ナンダカフニオチナイ」'10.5/21

 昨夜はたしかに夜に雨が降るとは聴いていた。

 それでもなんとか帰宅までは空はもつだろうと思って傘は持っていかなかった。

 駅で降りて、買い物のために大きなディスカウントショップに寄った。

 外に出ようとすると、突然の大雨である。

 それもまったく上がる様子もない。

 ふうっ。。

 入口のところにそこそこに安めの傘が置かれていた。

 でも100円じゃないし。

 実は昨日も、突然の雨で傘を買ったし。

 僕はどうしても、傘をここで買いたくはない。しかし、どーすりゃいいの。

 結局、泣く泣く500円の折りたたみの傘をレジに持っていった。

 「すぐに使いますか?」「はい」

 この会話の悲しさ。

 僕はこのショップに寄ったがために、雨に降られたのに。

 また、傘も買わねばならぬとは。

 なんだか腑に落ちない。

 きっと、この出口で雨が止むのを待っている人はみんな、

 寄ったがために、雨で帰れなくなった人ばかりであろう。

 やっぱり雨が止むのを待つべきだったろうか。

 きっと待つべきだった。


「寄り道に幸あり」'10.5/19

 普通のCDケースを買いに、その日100円ショップに寄った。

 その店には、スリムタイプのCDケースしか置いていなくて困ってしまった。

 しかし、曲入りのCDも100円で売っているので、それでもいいかと買ったのだ。

 そこに置いてあった100円のCDはベートーベンのものだった。

 入っていたのは「田園」(第1楽章)と「悲愴」(第二楽章)と「熱情」(第三楽章)の三曲。

 解説には「どれもベートーベンの作品生涯における大傑作である」と書かれてあった。

 へえーっとか、思いながら、ケースだけ取り出して、CDは置き場に困ったので、

 とりあえずCDプレーヤーに入れた。

 クラシック、ベートーベンとほとんど無縁の僕が。。

 「田園」と「悲愴」は、よく耳にしていた曲であった。

 ラストの「熱情」のピアノ曲は、ほんと激しい曲であった。

 ここまで叩くかいうほどな鍵盤を叩いていた。

 これも、大傑作のひとつなのかとか思いながら。

 最初に印象は、鍵盤叩きまくりのピアノ曲の印象だったが、

 しばらくして二回目聴いてみると、そのどのフレーズも実に印象的に残っていて、

 曲のパワーが一気にせまって来た。

 さすがに大傑作と呼ばれてるだけあるんだなと。

 そこからである、僕がベートーベンのピアノ曲にはまったのが。

 この二週間は僕にとってかなり大事な音楽の旅となり、

 今ではクラシック全般も聴けるようになった。

 思い起こせばCDケースを買いに100円ショップに。。

 寄り道に幸あり。


「伝わる曲」'10.5/17

 先日、インストゥルメンタルの演奏を聴く機会があり、

 聞きおぼえのあるメロディーも多く演ってくれた。

 ギターと笛と太鼓のシンプルな構成で。

 今でこそ、CDやラジオがあるけれど、その昔は庶民の演奏の中に根付いていたのであろう。

 定番と呼ばれる曲もあり。

 その演奏形態は、オーケストラや管弦楽にはこだわらず、

 シンプルな楽器でも演奏されたであろう。

 ときには小学生の生徒たちにも。

 どのような形になったとしても、曲の骨組みは一緒であり、

 聴いているみんな演奏しているみんなも、それなりに楽しむことはできる。

 曲の力がそこにあるんだな。メロディーと構成とリズムで。

 最新ヒットポップスの曲がラジオやテレビ街中で流れ続けたとしても、

 何十年たって、同じように聞けるとはなかなか思えない。

 残る曲っていうのは、こんな小さな演奏会が伝えて来たのではないかな。

 しっかりとした曲の力があって。そこで耳に残り。


「心にあるものを外に出さねばならない」'10.5/15

 そう言ったのは、かの有名な作曲家のベートーベンである。

 「心にあるものを表現せねばならない」とはよく言うが、

 実に、思うところの多い言葉だ。

 どんな形のものが、ベートーベンの心の中にあったのであろう。

 そうとうな癇癪持ちだったというベートーベン。

 ここ最近、ずっと彼のピアノ曲を聴いているが、

 一曲の中に、不安や怒りというものが自然に現されていて、

 なんともいえない心の旅に誘われてしまう。

 もしこんな感情が、心の中に渦巻いていたとしたら、

 それは大変であろう。外に出さないと、いられないというのもわかる。

 普通であったら、作品としてダイナミックな構成を練ってゆくものだろうが、

 ベートーベンの場合は、すでにそんな高ぶるものが心にあるのであろう。

 そのピアノ曲を聞いていると、心の旅に連れて行かれると同時に、

 最後の一音に、しっかりとした終わりを感じることが出来る。

 そして何かひとつ楽になったような、不思議な感覚になる。

 むずかしいことはない、ただ聴くだけで良い。


「もしもピアノが弾けたなら」'10.5/13

 そういう歌があったね。

 今、かなりピアノの演奏のアルバムを聴いているが、

 僕自身がピアノが弾けないものだから、

 それがどのくらい素晴らしいテクニックがなのか、いまひとつわからない。

 聞きながらもったいないなと思ってしまう。

 もしもピアノが弾けたなら、、

 僕もピアノが弾いてみたい。

 そんな夢をみながら、音源を聞いている。

 イメージのピアニスト。


「演奏者個性」'10.5/11

 最近、クラシックのピアノをよく聴いている。

 気に入っている曲を、いろんな演奏者が演っているのを聞くのが、

 なかなかに味があって良い。

 ほんとみんな個性があって、同じ演奏などひとつもない。

 その曲の解釈もそれぞれだ。

 5分の曲であっても、いろんな場面の連続なので、長い長い。

 それぞれの演奏者はみな個性があるので、その場面場面で素晴らしい音を出す。

 何人も聞いていると、僕の中で、気に入っている演奏場面が、

 それぞれに出来てきてしまった。

 おかしいなぁ。

 歌のときはこんなことはなかったのに。

 こまったなぁ。

 見知らぬ変なところに来てしまった。

 また帰らなくてはね。


「カレー念力」'10.5/9

 友達は今、オリジナルカレーを極めている。

 何回も何回も作っては食べて、また作り。

 その度に鍋いっぱい。お腹いっぱい。

 そこまで毎日、カレーを食べられるのかと思うほど、、。

 ぐつぐつと煮込み。

 先日のこと、友達と一緒に大きな100円ショップに行ったとき、

 カレー皿を友達はみっつ買った。

 自分の分と、僕と、もうひとりの友達用に。

 買わなきゃ買わなきゃと言い。

 昨日のこと、友達はやっとオリジナルカレーが完成としたという。

 「最高に美味しいカレーが出来ました」

 そのカレーの出来た日に、もうひとりの友達から連絡があり、会いたいという。

 そして、先日買ったカレー皿はテーブルに並べられた。

 願いどおりに。

 これは何かの念力だろうか。きっとカレーが友達を呼んだのであろう。

 ひとつのことを極めると、念力が通じるのか。そんなカレー念力。

 想いはぐつぐつと煮込まれ、

 そして完成とともに通じた。


「ニラレバ定食」'10.5/7

 昨日、食べた中華屋さんのニラレバ定食にはがっかりした。

 その中華屋さんは、最近出来たお店。

 いろんな定食があるのだけれど、どうもどれもなんかちがう。

 日替わり定食が昨日はニラレバだったのだけれど、

 やけにもやしが多かった。ニラレバっていうのだから、もうちっとニラを入れて欲しい。

 もうちっとレバも入れて欲しい。

 ほんとがっかりしたんだよ。もやしばっかりで。

 あのニラレバ定食だったら、ほぼみんながっかりするな。

 僕は同じ地区で、ほんとにうまいニラレバ定食を出す店をふたつ知っているが、

 ぜひそこのニラレバ定食を食べて欲しいとなと願った。

 ニラとレバともやしのバランスは大事だ。


「名唱」'10.5/5

 先日、友達の家で'70年代フォークのテレビをやっているのを観た。

 その中で、泉谷しげるさんが山本潤子さんと一緒に「イムジン河」を歌っていた

 NHKホールで。BSテレビでやったのだけれど観た人はいるかな。

 その泉谷しげるさんが歌った「イムジン河」は、実に名唱であった。

 ほんとにびっくりするほど。ギターを持たず、腰に手を当てて歌った。

 このときは「赤い鳥」のボーカルでもあった山本潤子さんと一緒のデュオで、

 たぶんキーを合わせるために、泉谷さんは高めで、山本さんは低めのキーで合わせたのだろう。

 泉谷さんは、高い音を出すのが必死であった。

 それでも、奇蹟のように素晴らしいボーカルであった。

 胸にぐっと来た。泣きたいほどに良かった。

 山本さんはもちろん良かった。

 歌い終わって、ふたりは肩を並べ、

 泉谷さんは、あちゃーっ、声が出なかったよ〜という表情をした。

 頭に手を当てて、失敗したよと。

 いや、そんなことはないよ。

 言葉のひとつひとつが、命を持って響いていた。

 まるで、ほんとにイムジン河のほとりで歌っているかのように。

 強く優しく朗々と。

 たぶんではあるけれど、、

 泉谷さんの中で、この歌は名曲中の名曲と思ってきたのではないかな。

 その想いが、ボーカルに出たのでないのかな。いろんな想いと一緒に。

 本人は、失敗したと思っているかもしれない。もっとうまく歌えたと。

 泉谷さん、やるなぁ。素晴らしい先輩。感動しました。


「行く先のない音」'10.5/3

 クラシックの名曲をピアノで弾いているいくつかの音源を聞いた。

 名演奏者と呼ばれる人のふたりの音源も聞いた。

 そのふたりの著名な演奏者は、まったくちがう感じの演奏をしていた。

 同じ曲なのに。それにはほんと驚いた。

 まず一人目の「G」という演奏者であったが、

 その人の演奏は、実に冷静に気負うことなく、その名曲を奏でていた。

 他のどの演奏者も、その名曲に対して、いかにもという優美さを加えているのに。

 まるで高級レストランで出される絶品メニューのように、弾かれることが多いのに。

 その人は、その楽曲をひとつの作品として、感情や思い入れをし過ぎないないように弾いていた。

 楽曲全体の流れを考えながら、有名なフレーズもそのひとつとして、とどめながら。

 その演奏はさすがであった。他の誰ともちがっていたように思う。

 もうひとり「H」という名演奏者の音源も聞いた。

 この人の演奏は実に色彩豊かであった。

 名演奏者「G」のテイクとはかなりちがっていた。どちらかと言えば、ふつうどおりということか。

 しばらく何度か聞いているうちに、はっと、気が付いた。

 「H」さんのテイクは、先の読めない音になっているように思えたのだ。

 行く先のない音であるかのようだ。

 その音は、その音やフレーズの中に、しっかりと表現されていた。

 ほんの5分ほどの楽曲であめるのに、感情の旅をしているように思えた。

 悲しみに満ちた気持ちは、いろんなところを巡り、5分後には、落ち着いてゆっくりと眠りに着く。

 感情とは、そこにあって、行く先のわからないものであるという考え方が実に自然であろう。

 全体の構成なんていう範ちゅうのなかには、たぶん入らないのだ。

 「H」さんのテイクは、始まりの感情を、自然にそのまま指に置き換えて、進めてゆくようであった。

 いくつかの別れ道があるが、進めるのは、ひとつの道というふうに。

 さすがであった。これもまさに名演奏であると思えた。


「100円のCD」'10.5/1

 二週間ほど前、100円ショップでクラシックのCDを買った。

 それからはまってしまい、いろいろクラシックのCDを買ったり借りたりもした。

 同じ曲でも演奏する人や指揮者によってイメージが変わってくるともわかった。

 有名なアルバムも買ってみた。どれも素晴らしいアルバムであった。

 同じ曲も、5枚ほどのアルバムに入っていて、そのうちの2枚は、名演奏といわれるものである。

 しかし不思議だ。僕には100円のCDの方のテイクの方が自分にぴったりとくる。

 録音もそんなによくはないのだが、かなりよいテイクだと僕には思えた。

 たぶん僕のようなクラシック素人の耳にはわかりやすいテイクなのかな。

 名演奏者のアルバムのテイクは素晴らしいのだけれど、聴く方がかまえてしまうところがある。

 聴く前から名演奏だと知っているというせいもあるが。

 100円ショップのCDのテイクを聴いていると、心に素直にしみじみと伝わっている。

 なぜだ。たぶんいいテイクなのであろう。

 それとも最初に聴いたCDなので、耳に印象的に残っているのかな。

 気になって、インターネットでクレジットの演奏者のことを調べてみた。

 とっくの昔の人ではあるが、やっぱり名演奏者と呼ばれている人のものであった。

 まだ誰にも聴いてもらってはいないが、このテイクはかなりいいと確信している。

 100円のCDではあるけれど。


「ひさしの掃除の好きな上の人」'10.4/29

 僕はアパートの一階に住んでいる。

 外の小さな庭につながる窓の上には、ひさしが付いている。

 そのひさしを上の階の人は、ここ数ヶ月、よく掃除をしているのだ。

 ほうきのようなもので、サーサーサーと掃いて。

 二階の窓の所から、そのほうきは届くのであろう。

 それは朝でも夜でも、かまわずにサーサーサーと掃いている。

 なかなかにほうきが届きにくいのであろう。その音は、一定ではない。

 実にたくみにサーサーサーと掃いている。

 つい先日のこと、二階の人が引越をした。

 もう誰もいなくなったかなと思っていたら、それでもひさしを掃く音が聞こえた。

 最後の部屋の掃除に来ているのかな。それにしても、ひさしの掃除が好きだな。

 朝といわず夜も。

 しかし、いくらなんでも引越した後なのでおかしい。もしやカラスの仕業?

 そんなことを思いながら、耳を澄ましてよーく音を聴いてみた。

 実にたくみに掃除をするのがわかる。これは人間以外には考えられない音だ。

 それにしても二階の人は、引越した後もこっそり住んでいるかな。

 生活音は聞こえないのだが・・。

 ・・・・・・・・

 アパートの外に出たとき、二階の窓が開いているかなと僕は見上げてみた。

 窓はしまっている。しかし僕の部屋の窓のひさしをほうきで掃く音がしている。

 そこに僕は見た。

 伸びたシュロの葉っぱの先が、ちょうどひさしに当たって、風でカサカサと音をさせているのを。

 ・・なんだそうだったのか。

 それが実にたくみで、人の仕業のようであった。

 ちょうど葉の先が、ひさし触れたりまた離れたり。。

 カサカサ、、サーサー、、カサカサ、、

 僕は納得した。。まあ、今も聞こえていますけど。。


「ここ最近」'10.4/27

 ベートーベン、他、いろいろクラシックのアルバムを聴いている。

 いままでずっと、曲を知っていたが、題名がわからなかった作品が多すぎた。

 今、だんだんとつながりつつある。

 僕がクラシックを聴くなんて、ちょっと自分でもも信じられないが、、

 とりあえず、ベートーベンはいいな。感情がピアノを弾いているようだ。

 聞き入ってゆくと、感情にびんびん来る。

 すげーとか思いながら。。

 音だけで自分が圧倒されてくる。唄があるないという次元ではなく。

 そうして、今まであまり聴かなかったジャンルの音楽を聴くことは、

 大変に創作に良い。

 だんだんと固まりつつある、創作脳が、なんだか溶けて気がする。

 ちょっとずつ柔らかくね。化学反応が起きている。

 これは良いことだ。

 何か化学反応が起きている。


「逆転の発想」'10.4/25

 先日、友達とお茶を飲みに行った。

 なるべく安いところを探して。

 「マックでいい?」

 友達はマックに連日通っていたので、他に行きたいという。

 ちょっと歩いて、一軒の珈琲チェーン店のところに来た。 

 「ここ意外と高いよ」「いや、珈琲290円ですよ」

 「じゃあ、ここにするかー」

 友達とふたり入っていって、注文のメニューを見た。

 しかし、290円の珈琲が見つからない。

 「あのう、290円の珈琲欲しいんですけど・・」

 「あっ、それならSSサイズとなりますが、よろしいでしょうか?」

 (ショック・・)

 友達は「アイス珈琲のM」にするという。

 すると店員さんが、「アイス珈琲なら、こちらの方がおすすめですよ」という。

 それはなんか、豆が良いらしい。

 「じゃあ、そのMを下さい」「おれも同じものを」

 (あれ、、おかしいな、、なんだか結局高くなったじゃん)

 どうしてこんなことになったんだろう。僕らは首をかしげた。

 (でも、そのアイス珈琲はとても美味しかったです)


「中村先生、どびゅっしぃー聴いています。」'10.4/23

 ここ数日、クラシックのアルバムを借りて聴いている。

 その中にドビュッシーも数曲入っていた。

 ドビュッシーと言えば、僕が高校1年のときに担任だった、

 中村先生が好きだった作曲家だ。

 中村先生は、その年で定年になる最後の教師生活のときで、

 ほぼおじいさんという感じの先生であった。

 愛称は「中村のじいさん」。。

 中村先生は、ドビュッシーの発音がうまく出来ないようすで、

 口をとがらせて「どびゅっしぃ〜」といつも言っていた。

 今でもよくおぼえています。

 情熱的に語った、あの中村先生の表情を。。

 あれから45年。

 中村先生、やっと今、どびゅっしぃ〜を聴いています。

 ・・・・・・・・・・

 僕はあまりクラシックを聴くタイプの人ではない。

 今だって、僕の心にしんみりとさせるには、何かが足りない。

 原因は自分にあるのもわかっている。

 でもね。中村先生が、このドビュッシーを聴いている姿を思い浮かべると、

 じゅうぶんに、うたを感じることができる。

 中村先生はロマンチストだったんだな。

 誰かが楽曲を聴いていることを思い浮かべながら、楽曲を聴くなんて、、

 はじめてに近い感覚だ。

 ドビュッシーだけではない、他の有名なクラシックの作品を聴いていても、

 その楽曲を愛した人々の気持ちを感じられる。

 なんだかね。その方が僕にはうたよりうたを感じてしまうようだ。

 ふしぎふしぎのふしぎですが。


「1時間短いだけで」'10.4/21

 先日、いろいろ作業をしていて、睡眠が3時間になってしまった。

 いつも4時間半くらい、4時間ということもよくある。

 それより1時間短いだけなのに、一日がぼろぼろであった。

 完全なパワーダウン。なんとか仕事も終えて帰ってきた。

 今日は6時間眠った。

 4時間と3時間がこんなにちがうものとは思わなかった。

 なんだか、1時間が3時間くらいに感じられる。

 目覚ましを早めにかけたのが失敗だったのもしれない。

 体の方は、いつも起きる時間に合わせて、作業をしていたのであろう。

 起きる時間は一緒にした方がいいな。


「図鑑見つかる」'10.4/19

 小さい頃に見ていた魚貝の図鑑を、友達が見つけてくれた。

 そこには近くにあった水族館のことが載っていた。

 その水族館は気付いたときにはなくなっていて、そこにあった証がもうなかった。

 そのこともあり、その図鑑を探していたのだ。

 僕はその図鑑をもうとっくに失ってしまっていた。

 水族館のことだけで、その図鑑を欲しかったのだが、

 友達が見つけてくれて、図鑑を眺めてみると、びっくりすることだらけであった。

 そこに描かれていたイラストや記事や写真のほとんど憶えていたからだ。

 小さい頃に見たものはほんとよく憶えている。

 こんなふうに懐かしくなるなんて想像もせずに、僕は古くなったからと捨ててしまっていた。

 もうちょっと新しい図鑑を買ってしまったので。

 それももう古い話ではあるけれど。

 図鑑は懐かしい。僕がそこから見て広げたイメージ。そして驚き。

 遠い遠い友達。手をつなぎ歩き、土手で座った。

 図鑑見つかる。


「この感じを忘れるな」'10.4/17

 昨今はインターネットも一般化して、

 どこにいてもつながるという時代になりつつある。

 しかし日常までわかるというのはいかがなものか。。

 僕のイメージの中で、こんな話がひとつ思い浮かぶ。

 全国の山奥にカラス天狗がひそんでいるとして、

 それぞれに技を極めている。

 「カラス天狗」の名に恥じないようにね。

 しかし全国にいる「カラス天狗」のお互いについてはあまり詳しくは知らない。

 そんな「カラス天狗」同士が出会うことがあるであろう。

 ・・おまえがカラス天狗ならおれもカラス天狗、、。

 戦うことはないであろう。負けない技をお互いに持っているからだ。

 それは知っている。お互いにカラス天狗としての誇りを持って。

 この感じを忘れるな。

 しっかりひっそりと技をみがけ。


「ホームに登ると電車が来て」'10.4/15

 ホームに登ってゆくと、ちょうど電車が来て、

 ドアが開いてくれて、そのまますっと乗れることがある。

 あせって走ることもなく、ちょうど僕が乗るのにあわせるように。

 5分おきほどで、電車は来ているので、その可能性は大きいのだが、

 なかなかぴったりとは合わない。

 ついつい急いで階段を登ったり、ホームを早走りになったり。

 先日はほんと、タイミングぴったりであった。

 まるで電車が僕を待っていたように。

 何かの映画で、迎えに来た大きな鳥のように。

 電車がすっとやって来てドアを開ける。

 なんだか、それは意志を持った巨大な動物のようだ。

 電車に名前を付けたいほどだ。


「おれたちはちゃんときいていない」'10.4/13

 昨日一日降り続いた雨がやっと上がった。

 朝にスズメがちゅんちゅん鳴いているが、なんとなく気持ちはわかる。

 僕ももう長いこと生きているのだから、

 小さい頃からスズメのちゅんちゅんをに耳を澄ましていたら、

 それなりにわかるようになっているのではないかな。

 もしかしたら音楽とかに近いかもしれない。

 ちゃんと聞いてきたら、ちゃんとわかるだろうに。

 猫の鳴き声なら、なんとなくわかるのに、

 なぜ、スズメの声がわからぬ。


「MDをなくすなー」'10.4/11

 MDとは「ミニ・ディスク」のこと。

 音源を手軽に録音、編集できるすぐれもの。

 昨日の事、ポータブルMDプレーヤーを踏んでしまい壊れてしまったので、買いに出かけた。

 すると、もうソニーでは1種類しか発売されていないという。

 渋谷の巨大な電化店でさえも、店頭には置いていなく、在庫を倉庫に取りに行った。

 1種類しかないので、値段が高かかったがこれしか選べなかった。

 2010年の春、MD事情はこんなことになっていた。

 ・・・・・・・・・・

 1992年にMDは発売された。

 これはライブを録音している僕らには、画期的に便利な機械となった。

 デジタルで、なおかつ、編集できるということが最大の魅力。

 あれから20年ほどたち、僕のところには山ほどのMDがある。

 CDMDラジカセというのも、かなり浸透した。

 世の中には、山ほどMDがあるんだ。

 電気屋に行っても、MDは今だって、どこだって売られている。

 それなのに、開発したソニーがMDの未来を細々と考えているとわかった。

 持ち歩ける、MDプレーヤーがないことには、MDの良さも半分になってしまう。

 そんなのわかっているじゃないか。

 MDは保存にすぐれている。なにしろ後から編集できるからね。

 ・・・・・・・・・・

 MDには素晴らしいところが山ほどある。MDをなくすなー。


「あんかを買いに行った」'10.4/9

 4月、それも半ば。まだまだ寒い。

 暖房のない部屋には限界を感じて、

 あんかを買いに行った。

 近所の大きなディスカウントデパートへ。

 電化製品コーナーに行ってみると、そこにはもうあんかの「あ」の字もなかった。

 当然だよな。この時期にあんかを買う人んなんていないよな。

 あはははは。こんなものだぜ、世の中は。

 もう春だもん。

 買う予定がすっかり変わってしまった。

 そのままあきらめ半分で、老舗の有名電化店に寄ってみた。

 いっしゃいませの声の中をずかずかと奥まで。

 あんかを探して。

 そして、あった。一個だけ残っていた。

 やっぱりね。買う人がいるから、あんかもひとつ残っているのだ。

 ナイロン袋にあんかをひとつ。

 あんかを買った、そんな4月の半ばの帰り道。


「半チャンラーメンの発見」'10.4/7

 下町の中華屋さんに昼時に入ったときのこと。

 もう午後の1時は回っていて、すこし遅いお昼ご飯であった。

 それでもポツリポツリとお客さんは入ってくる。

 ひとりの作業員風のおじさんがゆっくりとやって来た。

 「おっ、ひさしぶり、いらっしゃい」

 「チャーハンとラーメン」

 「はい、半チャンラーメンね」

 (んっ、、?)

 肉とキャベツのみそ炒めを僕は食べながら、今の会話に疑問がわいた。

 この会話はおかしくないか?

 チャーハン、ラーメンと、半チャンラーメンはちがうんじゃないの?

 (だって、、、んっ、、、そんなに変わらないかもな。。)

 チャーハンラーメンと半チャンラーメンは、ほぼ同じ意味だったかもしれない。

 「ハン」の位置が移動しただけで。

 発音的にはほぼ一緒だった。これは意外な大発見ではなかったか。

 アルバイト先の友達に、このことを話すと、

 「はぁ???」と言われてしまった。

 大発見とはなかなか理解されないものである。


「時間です」'10.4/5

 僕の部屋の電話器は目覚ましにもなっていて、

 朝になると「じかんです。じかんです。じかんです。」と10回ほど繰り返す。

 気持ちはわかるのだけれど、どうもこの「時間です」がしっくり来ない。

 よく「時間がくる」って言うけれど、これは「時が来る」って意味だろう。

 何か言葉の使い方が変ではないか。

 それとも、時と言うものは存在せず「時と時の間」こそが意識されるということだろうか。

 なんだか哲学的になってしまった。

 ・・・・・・・・

 今、トイレに行ったら、ひらめいた。

 もしかして「時間」って、「ひとつの時と時の間」ということだろうか。

 「眠る時」と「起きる時」のその間ってことだろうか。

 だんだんとそんな気がしてきた。

 みんなはもともとそう思っていたりして。

 そう思えば目覚ましの「じかんです。」の声は、納得できる。

 目覚ましは、意外と哲学的だったんだな。


「千里の道もひと弾きから」'10.4/3

 探しに行くのは簡単だ。

 ただギターに向かうだけで良い。

 チケットも予約もいらない。

 旅行積み立て金もいらない。

 それはひと弾きから始まる。

 細道もある。バス停もある。列車もある。ヒッチハイクもある。

 高速バスもある。自家用ジェットもある。タイムマシンもある。

 そのすべてがこの部屋の中で起こる。

 でもまあ、迷路みたいなものですけど。

 道の向こうは、どこからもきっとやって来ない。

 そんなのわかっているじゃないか。

 小さい頃からね。

 千里の道もひと弾きから。

 細道もある。バス停もある。列車もある。ヒッチハイクもある。

 高速バスもある。自家用ジェットもある。タイムマシンもある。


「毛布がたまる話」'10.4/1

 小さい頃は冬ずっと「あんか」を抱いていた。

 高校に入ったとき、ナショナルの電気毛布を買ってもらった。

 そりゃもう、あったかくてあったかくて。最高でした。

 それから約20年、その電気毛布は活躍した。

 まるでワンちゃんのように。(意味不明)

 とにかく20年ほどたって、壊れてしまった。

 それからですよ。旅が始まったのは、、。

 とりあえず最高に安い電気毛布を買ってみた。また20年くらい使うつもりで。

 しかし、ふた冬ほどでそれは壊れた。たまたまかなと思って、

 また同じメーカーのものを買ったみたが、次もふた冬ほどで壊れた。

 さすがに、また壊れては困ると思い、よほどナショナルの電気毛布を買おうと思ったが、、

 やっぱり値段が高いので、ちがうメーカーの安めも電気毛布を買った。

 また20年つかうつもりで。。

 しかし、、それもふた冬ほどで壊れた。昨日のこと。。

 もう四月なので、買わないが。どんどん毛布が増えてゆくんだよね。

 今夜は、その電気毛布を全部かけて眠ってみようかな。

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