「今日の夜話」過去ログ'07.3〜'07.6月
「日本の仏像」'07.6/29
2007年の今、講談社より「原寸大・週間・日本の仏像」シリーズが発売されている。
原寸大というのもリアルで良い、見やすいし、わかりやすく、作られた当時の復元想像図も載せられてある。
先日のライブで配ったパンフレットにその事を書いたら、「僕も日本の仏像シリーズを、買っています」と言われた。
「あれ、詳しくていいですよねー」
そうなんだよ。すごくわかりやすいのに、とても詳しいのだ。
作った当時の再現想像図というのも、別の面が見られて好きだ。
「大人でも子供でもよくわかる仏像の見方」というエッセイもなかなか良い。
僕が好きなのは、仏像の中でも「天部」や「八部衆」と呼ばれるもので、古代のインドの神々が日本名になって作られたものだ。
「弁財天」「吉祥天」「毘沙門天」など。
インドの神々が、日本にやってきて日本の神となる。その作者の想像力がすべてだ。
たとえばインドでの半鳥半身の神は「ガルーダ」。日本名は「かるら」。日本にいるさまざまな「かるら」。
「日本の仏像」のタイトル通り、どれも日本的なんだよね。
それぞれの像からカモシ出ている日本的な雰囲気が、僕の鑑賞の楽しみになっている。
「全国みやげ」'07.6/27
帰り道の途中、ある一軒の部屋の灯りが見えている。
その部屋には、全国のみやげ物が所狭しと列んでいて、壁にはポストカードが多く貼られている。
真ん中にはテレビがいつも付いていて、その前で、おじさんが見ている。
その部屋は物置かなと思っていたが、最近やっと、それはみやげ物に囲まれている部屋だと知った。
四畳半かな。その場所を通る人には、よく見える。
いいなぁといつも思いながら、僕はその場所を通って帰る。
部屋としたらとても狭く、過ごしにくいであろう。しかし、そういう問題ではないのはわかる。
全国みやげが、そこにある。部屋が狭くなっているということではない。
なんて広い部屋なのだろう。
ひとつの魔法のような奇跡が、その部屋からは感じられる。
全国みやげは素晴らしいな。
行った場所の数だけどんどん部屋は狭くなる。
「プレゼント」'07.6/25
プロの歌手の人たちは、よくテレビやラジオのインタビュー番組の中で、突然に歌うことになっても、
おどろくほどちゃんと歌えるであろう。
僕らはアルバムを作るとき、いろいろと録音にこだわるけれど、
音響がなくても、民謡や演歌の歌い手たちは、喉を鳴らして充分に歌えるのだろう。
まるでレコードやアルバムみたいに。それを録音して、何度も聞けるレベルになっているだろう。
僕なんか、まだまだその段階にはなっていない。
それが残念だ。
どんな場所、どんな状況であれ、それを録音して発売できるくらいのレベルで歌いたいものだと思う。
けっして、それは力を込めるということではない、普通に実に普通でよいのだ。
聞いていた人が、(あー、録音すれば良かった・・)と、思えるようなね。
まだまだ遠い道ではあるが、僕もそんな歌い手になりたい。
どんな場所でのライブでも、その録音が何度も聞けるアルバムとして残るくらいにね。
「小雨の中」'07.6/23
昨日の一日、仕事で雨の中にいた。
薄いビニールの合羽ひとつで。
雨のことなど、気に出来ないほど忙しかった。
まあ、そんなに本降りでなかったというせいもあるが。。
忙しく歩き回りながら、僕は江戸の人たちのことを想っていた。
江戸の人たちもまた、小雨くらいは気にしないで、歩き回っていたのではないかな。
ビニールなんてなかっただろうし、濡れることは当たり前であったであろう。
そして、江戸の町では、傘もほとんど使わなかったのはないか。
家々のひさしからひさしへ、雨やどりをしながら、自宅までかけて行ったのはないかな。
女の人はやっぱり傘が必要か。。。
一日、雨の中にいて僕は思った。
「今井時計楽器店」'07.6/20
高校時代アルバイトをして、僕はヤマハのギターを買った。
それはもう普通には売っていない古いシリーズのギターであった。
6万・・、サイド・バックはハカランダ材・・。
それは町外れにあった時計屋さんにあった。正式には時計楽器店だが。。
買ったのは1978年。たぶん5年ほど前のフォークブームの頃に、売れると思って店内に揃えたのであろう。
しかし、6万のギターは高かったのかな。それはずっと売れずに新品で残った。
それは、本当に僕好みのギターだったのだ。
町外れの店で、その売れ残りのギターを見つけたときの、嬉しさときたら・・。
奇跡のようであった。
もう古いビニールに入っていて、お店の人もなんだか、ギターをただ売れずに置いてあるという感じであった。
夏休みが終わり、僕はギターを町外れまでギターを買いにいった。
「これ、ください」と、、。
5年は確実に売れてなかったヤマハのギター。
自転車で行って、自転車で帰ってきた。あの道の嬉しかったこと。
「宝物の価値」'07.6/18
今もテレビで、お宝鑑定番組をやっていて、そのプライスに一喜一憂する場面を見ることができる。
時には、自分が思っているよりも価値があり、その人が驚きを受けるときもある。
しかし、大事なことはそれが、本人にとって「宝物」であるかどうかだ。
「お宝ですよ」と言われても、本人がそう思わなければ、普通のものと同じ。
価値って、やっぱり自分にとっての価値なのであろう。
僕は部屋には、数多くのお宝がある。その価値を知っているのは、僕しかいないということ。
それはギターだったり、普通の音楽アルバムだったり、絵だったり、映像だったり。
それらのものが僕にくれる価値は果てしない。
誰がなんと言おうと、300万円くらいはする。僕の年収以上だ。
誰がなんと言おうと。
ちょっと高いお金を出して無理して買ったお宝もある。
「防音BOX」'07.6/16
自宅で歌をちゃんと録音できたら、いいなぁと思う。
しかし都心のアパートでは、やっぱり思い切り歌ったりギターを弾くことができない。
以前、アパート用の防音BOXのチラシを見たことがある。
いいなぁと思ったものの、20万以上するし、部屋が狭くなるので最初からあきらめてしまった。
しかし、やっぱり今、そういうスペースが欲しいなぁと思う。そこで録音して、アルバムを作ってみたい。。
夢のような防音室。。
日中のアルバイト中、ふと、冷静に考えてみた。
自宅に防音スペースはできる。
とにかく四角い防音スペースを作ればよいのだから、それは、布団で出来るのではないか。
物干し台をふたつくらい利用してね。布団をかけて防音室を作るのだ。
中にはライトをつけてね。暑くなってきたら、布団をあげればいい。
これでアパート用の防音室の完成だ。まあ、一階でないとだめかもしれないが。。
「また、青木さん、ばかなこと言って・・」と、思う人も多いだろう。
しかし、僕は本気なんだ。もっと若かったら、実際に作っていただろう。
「ハードケース」'07.6/14
持ち運びも不便だし、指を使うのでギタープレイにも、良いことはないだろう。
それでも飛行機移動のときは、ハードケースでないと厳しい。
ギブソン・マーチン・ギルド・他、高いギターは、もちろん最初からギターの形にあったハードケースがついていて、通常はそのハードケースを使い続けることは多い。
高いギターだしね。。
プロの弾き語りシンガーたちは、飛行機移動も多いだろうし、基本的にみなハードケースだ。
高いギターであるという証拠でもあるし、似合っているという風情もある。
しかし、どう考えても、ソフトケースの方が移動はしやすい。現代では、ソフトケースも進化してて、ギターが傷付くということもあまりない。
昔は、丈夫でないソフトケースがたしかに多かった。。
高いギターはハードケースで持ち運ぶのは、当然のことだったろう。各地各地のホールでフォークコンサートを。
僕がハードケースを使って歩いたりしていたのは、中学時代だけだ。4万円くらいのギターだったけれど。
それは見栄だったのかもしれない。
ハードケースを持って、コンサート会場や地方のライブハウスに登場することには、フォークシンガー魂を感じる。
長い弾き語り生活の中、僕にはまだそれがない。
「世界生き物図鑑」のフォークシンガーのページには、ハードケースを持った写真が載っているだろう。
「1日气tレーズ」'07.6/12
日々、歌を口ずさんでいる。
ここ最近の傾向として、それはフレーズであることが多い。
それも一日、歌っている。
それでもじゅうぶんに、僕を楽しませてくれている。
自分のレパートリーの歌なら、ある程度、全部歌える。それはそれで楽しいものだ。
友達のライブが頻繁にあったころは、友達の歌をよく歌っていた。
おぼえている範囲で。
でもだんだんと、年をとったせいもあるのだろうか。
もう、歌の種類とか、めちゃくちゃに、気に入ったフレーズを歌うようになってしまった。
それはCMであることが多い。
ぜんぜん気にもしていないのに、つい歌ってしまうのだ。
それでも、なんだか楽しい。これは意外な展開だった。
「舶来物」'07.6/10
先日、ギルドギターの専門書を洋書で買った。
最後のページに値段も書かれてあったのだが、日本での価格よりもずっと安いものだった。
10万円くらい、日本での価格は高いと思われた。
一般的に「舶来物」と呼ばれるギターだったからだ。
輸入物は高くて良いという神話があるが、実際は、現地ではもっと身近なものであるのだろう。
その洋書には、ギルドギターを使っているいろんなアーティストの写真が多く掲載されていて、
ちょっとお金をためれば、同じギターを使えるという感じなのである。
10万円も安ければね。
たしかに海を越えてくるものには、それなりの付加価値がついているけれど、
当たり前だが、それは現地では舶来物ではないということだ。
料亭ではなく居酒屋レベル?
僕らの不幸がそこにある。舶来品ギター、その存在の高さ。
「あじさい」'07.6/8
先日、下町の路地であじさいが咲いているのをみた。
もう梅雨にも入ろうかという季節、咲きはじめていてもおかしくはないのだが。。
とても久し振りに思えたのだ。
昨年、たしか、、、あじさいの季節、とても暑くて、枯れが早かったんじゃないかなぁ。( 記憶不確か)
6月に入ると、あたりじゅうで咲き出すあじさい。 僕はあじさいが好きだ。
こんなにも久し振りに思えるのは、この一年、いろいろあったにちがいない。
それとも僕の記憶力が一年も持たなくなっているのか。。
この半年は、いろいろあって、頭の中がぐるぐるとしていた。数年分の時間の半年だったようだ。
「一年なんてあっという間だね」とは言うけれど、そうでもないときもある。
今年はあじさいが気持ち良く咲いてくれるだろう。
「イベント魂」'07.6/5
最近、もーれつに仕事(アルバイト)が忙しい。
どのくらい忙しいかというと、めいっぱい忙しいのだ。
朝7時半から夜6時すぎまで、現場で、あっちにいったりこっちに行ったり。。
僕の頭の中は、段取り三昧。
そうでもしないと、6時すぎに事務所に帰ってこれないのだ。
誰かがこの代わりをやってくれるだろうと考えてみても、相当に慣れていないと厳しいだろうなと想像がつく。
この四月から、そんな毎日が続いている。仕事中は、精一杯で何も考えられない。
しかしまあ、体調を崩すこともなく、元気にしている。
まるで毎日がイベントで、僕はその実行委員のようだ。
企画者が休むわけにはいかないからね。どんなに疲れていても、大丈夫のようになっているんだと思う。
緊張しているというか。。そのかわり、イベントが終わったと同時に疲れが出るけれど。。
こんなにハードな日々なのに、こうして何とかやっていけているのは、イベント魂があるからだと思っている。
だって、誰もやってくれないし、今日の予定がもう待っているからだ。
人っていうのは不思議だ。自分のイベントだと思うと、パワーが出てくるものなのだ。
「立って歌うということ」'07.6/2
先日のライブでは、本当に久し振りに座って歌った。
するとどうだろう、まるでうまくギターが弾けないのだ。
自分が思っている音が出せない。立って歌うと座って歌うのでは、ギターの表現力がちがうからだ。
(あれれ、)と、思いながら、歌っていた。
しかし、考えてみれば、部屋ではずっと座って歌っているわけだし、そんなにライブでは変わらないと思うのだが。。
そうでもないんだなぁ。
ライブではより、感情的にギターを弾くし、ギターもそれに答えてくれる。
そのためには立って歌う必要がある。
自分でも、ギターの音に驚くために。。
ライブの日は、特別の日。その日は立って歌う。
おもいがけない歌の感情の流れに答えるためにもね。
僕は場合、それでバランスがとれているようだ。
「カセット録音」'07.5/31
ライブのために友達より、録音されたカセットテープが送られてきた。
音響スタッフの人も言っていたのだが、カセットテープ録音には、独特のノイズがあって、そこがいいって言っていた。
録音ボタンを押すときのノイズ、そしてカセット自身が回る音のノイズ、そして録音を終え、ストップボタンを押すときノイズ。
そのどれもが、カセット世代の僕らには、懐かしいものだ。
その懐かしさはもちろんのこと、カセットテープ録音器のもつ、臨場感が逆にリアルでいいのだ。
特に録音が終わってから、ちょっと待ったあとで、ストップボタンを押すときだ。
なるべく音を立てないように、録音器に近付いてストップボタンを押すのに、ボツンと大きなノイズがはいる。
そこがなんとも味があり、ポエジーを感じる。
デジタル録音では、ありえないノイズ。
ガチャガチャなら、「ガチャ」の音がなくカプセルが出てくるとしたら、哀しいように。。
カセット録音には、あるべき音が入っている。かな?
「推理ドラマ」'07.5/29
平日の日中、部屋でテレビを付けると、推理ドラマをやっていることが多い。
それも、ひとつの推理ドラマが終わると、続いて別の推理ドラマが。。
困るんだよね。意志が弱くて。
始まりはいつも、何気ない温泉ドラマかなぁと思わせておいて、突然に事件が起こるし。
ちらっと見てしまうと、ついつい犯人が気になってしまう。これでは、テレビの思う壺だ。
せめて、ドラマが始まる前に、
「この番組は推理サスペンスドラマです。最初を見てしまうと、最後まで見てしまうので、ご注意下さい」
そんな画面が出てもいいだろう。
それとも、
「犯人はインターネットで公開しています。時間のない方は、そちらをごらん下さい。バスワードはこちら。」
それでも、いいだろう。全然問題なし。
時代劇はそのへん、わかりやすくていいな。悪役がはっきりしてて。
「卓球王国」'07.5/27
今、世界卓球をやっていて、今年は運良くテレビ放送されていた。
僕は中学時代、卓球をしていただけに、ついつい見てしまう。
女子シングルス。ベスト4はみな中国の選手。
男子シンングルス。ベスト4のうち、三人が中国の選手。
テレビで見ても本当に強い。他の国とスピードのレベルが違う。
さすが、昔から卓球王国と呼ばれるだけあるなぁ。
それはある程度、極められた技が感じられる。
中国選手団は、世界ランキングを目指す上で、大きな大きな壁となっているのであろう。
ちょっとそっとでは、崩れないその強さの壁。
あの中で、日本の卓球の愛ちゃんは、世界ランキングを進もうとしているんだな。
とんでもなく、大変だろう。
僕らは簡単に、いろんな夢を見るけれど、卓球界には大きな壁がある。
しかし卓球は世界的なスポーツだ。それぞれの国で、それぞれの技があっていい。
あの中国の選手に勝ってゆく人たちが現れねばならぬ。
「カステラ時間」'07.5/24
先日、友人が久し振りに訪ねてきた。
一年に一度か二年に一度かな。
いつも夕方に電話が来て、「今夜、東京に来てます。飯でも食べませんか」と言う。
そして待ち合わす、高円寺の改札口。
久し振りに会う彼は、いつも同じ笑顔のように見える。変わってないなぁという印象だ。
夜8時に会って、10時過ぎにはまた、駅で手を振ることになるのだけれど、
この数年のこと、最近のこと、あれやこれやといろいろ話す。
ほんのほんの数時間。。
それでも、なんだかたっぷりと話したような気分になる。
どのひとときも大切で、楽しい、笑っていた。
おみやげをなぜかもらっての帰り道、なんだか、カステラのような時間だなぁと思っていた。
「たたかい」'07.5/22
これは何度も書いていることではあるけれど、もう一度書こう。
ボブ・ディランのファースト・アルバムには、ニューヨークの冬の空気が感じられる。
その風景の中、若いボブ・ディランがギターを弾いているのが見えてくるようだ。
歌がしっかりとその風景の中に流れている。
今、僕の部屋はいろいろと狭くなり、電化製品の多く、
どうもギターの音がじっくりと響くという環境にはない。
東京に出てきて、四畳半を借りてからの数年は、部屋にギターと歌が響いていたなぁ。
この環境の中で、歌を創作してゆくのは、ある意味「たたかい」なんだよね。
なんとか、こころに響かせて、歌ったりギターを弾いたりするしかない。
「美味しんぼ対決」'07.5/20
今日、床屋に行った。
と、言っても1000円のヘアカット。
ソファーがあり、来た人から奥に詰めてゆくのだ。そこにある漫画本。
僕は普段、まるで漫画本は読まなくて、中華屋とか、床屋さんで待つときに読むことは多い。
今日は「美味しんぼ」の漫画本を手にとった。たまごの対決だ。
読んでいる途中で、「次の方どうぞ」と呼ばれてしまった。
あーあ、いい所だったのに。気になってしかたがないよ。
僕は今度いつ、この「美味しんぼ」の対決の先を読むことができるのだろうか。
次の床屋まで待つのかな。。
終わってから、よほど続きを読もうかと思ったが、それはさすがに出来なかった。
また次のときまで我慢しよう。続きを、こんなに待たされるなんて。。
もし今度来たときに、誰かが読んでいたら、また先延ばしだ。
そのうち、本を片付けられたら、永遠に続きが読めないかもしれない。。
・・・困った。
「何かを受信している。」'07.5/18
エッセイを書くとき、いつも横になってぼんやりとしている。
朝に書くときは、布団の中で、ただぼんやりとする。
何かを受信しているのだ。
僕の頭はアンテナ、、?
いや、そんなことはないだろう。
なんというか、頭の中にあるものが、頭の外にどこまでも広がっていって、
この世界と、ミックスされて、アイデアがやってくるようだ。
広がってゆく頭は、今日の町から昨日の町へ、そしてずっと前と呼ばれる年へ。
東京から新潟へ富山へ、長崎へ。インドからパリまで、、。
ひと回りしてゆく。また帰ってくる。横にやなっている僕のところへ。
ただぼんやり、ぼんやりとしているだけでいいのだけれど、
スーパー・ジェッターのよりも早く、時と世界を巡ってゆく。
パゥン!!
「はっきり言ったわけではないけれど」'07.5/16
これはカップラーメンの話。
最近、安売り店にゆくと、昔のカップラーメンが店頭に並んでいる。
それは、どれも懐かしく、ついつい手が伸びてしまう。
まるで僕が大好きだったカップラーメンを知っているかのように。
まず、カップスターの「みそ味」
そして、エースコックの「わかめラーメン」
それから、ニュータッチの「ねぎラーメン
そのどれもが、夜食によく食べて、「こっそりとファン」だったものばかりだ。
それなのに、なぜ、わかったのだろう。アンケート調査でもしたのだろうか。
僕は不思議でしかたがない。あっぱれだ。
あと、AKAGIの「中華そば」があれば完璧なんだけどなぁ。
「ある日、出来る店」'07.5/14
住んでいる近所に、最近フリースペースの店舗が出来た。
一週間交代くらいで、いろんな店がそこでオープンしてゆくのだ。
仕事で通っている下町にもやっぱり同じようなフリースペースがあり、週交代くらい店がオープンしていた。
下町では、とてもその店が馴染んでいて、それなりににぎわっている。
中央線のこの街にもできたフリースペース店舗。どんな店ができるのかなぁと思っていたら、下町のときと、ほとんど変わらない内容であった。
ある日突然に出来る店。たぶんその店の方も慣れているのであろう。素晴らしい早さでオープンするのだ。
なんだか昔話のように。
よくそういう話がある。突然に店ができる。そこには誰かいる。風に吹かれている店先の服。
安いんだよねー。でもなんだか移動店舗の慣れを感じてしまう。
やっぱり対象が下町に似合っているのかな。
そこにもペーソスがある。できればにぎわって欲しいというのが僕の気持ち。
「お父さんが帰って来たかと思った」'07.5/12
春まっさかり。
僕は日中、家々の庭先をよく仕事で訪ねるのだが、時々は家族とまちがえられる。
「よしちゃーん?」「ちがいますよー」。
先日は、こんな言葉を聞いた。家の前の植木を少し移動していたとき、勝手口が急に開いた。
「どうもー、失礼してまーす」と、僕。
「お父さんが帰ってきたかと思った」と、その家のお母さん。
僕はお父さんでは、もちろんないけれど、お父さんなら良かったな。
たぶん、お父さんは帰って来たいんだ。
「帰りに音楽がないと」'07.5/10
携帯用CDプレーヤーが壊れてしまったので、新しく買うことになった。
最近は薄型になったりして、充電池タイプがほとんどであるけれど、僕個人的には、やっぱり電池型の方がいい。
充電池タイプのものは、仕事に出かける行きは大丈夫でも、帰りに充電池がなくなることが多い。
電池式であるならば、途中で買って聞くことができるが、充電式だと、そうはいかない。
聞きたかったアルバム我慢するししかないのだ。
僕には、それが我慢できないのだ。ずっと前から。
カセットテープを持ち歩いていたときも、電池式を使っていた。
携帯カセットレコーダー自身が壊れてしまったときは、とりあえず激安店で買ったりもした。
それほど、仕事帰りに聞きたいと思っていた音楽がないと哀しいのだ。
たかが一日の帰りとか、言わないで欲しい。
僕にしてみると、仕事での一日と、帰りに聞く音楽の一時間は、てんびんばかりのように釣り合っているからだ。
その楽しみのために、一日働いている言ってもいい。
充電池がなくなるなんて、そんな哀しい気持ちにはなりたくない。やっぱり電池式だ。
「IIKOTE IIKOTE」'07.5/7
新潟の言葉で、「いいこて、いいこて」という言葉がある。
東京の言葉で言えば、「いいから、いいから」と、なるのかな。
「いいじゃん、いいじゃん」かな。
いやぁ、それがちょっとニュアンスが違うんだな。
「いいこて」の響き中には、「気に病むなよ」という意味合いが強い。
そして「たまには、自由に」という意味合いも強い。
「いいこて」の「こて」の響きの中には、「もう許すでいいだろう」と、いう確認の響きもある。
僕はもう28年も東京に住んでいるけれど、この「いいこて」と同じ言葉を探せないでいる。
たぶんこの「いいこて」の言葉の歴史は相当に古いと思われる。
日本中、いや世界中の各地域によって、この「いいこて」と 似た響きの言葉はきっとあるはずなのだ。
東京にもきっとあるはずなのだけれど、僕には、まだそれが見つけられない。
「IIKOTE IIKOTE」と、口に出して言ってみると、それが良くわかる。
「街の名物」'07.5/5
つい先日、住んでいる高円寺の商店街に一個10円の「蒸したてこまんじゅう」という店がオープンした。
人も列び「高円寺」という名前も出ているので、すっかりこれは高円寺から生まれたお店かなぁと思って、嬉しくなって20個買った。
帰って来てインターネットで調べてみたら、、あらら、チェーン店だったのですね。
しかし、買ってからの帰り道、「高円寺みやげ」が出来たと思ってウキウキした。いままで、そんなことを考えたこともなかったのだ。
「高円寺みやげ」があれば、友達の家に遊びに行くときに、買ってゆくだろう。そして、友達が来たときも買ってゆくだろう。
「阿波踊りサブレー」とか、もうあるのだが、、そういうタイプのものではなくて。
そうなんだ。
これもちょっと前のこと、高円寺の純情商店街に最近出来たイタリアンレストランの店頭で「高円寺純情ショコラ」というものを売り出した。
ネーミングも良いので、そのうち有名になるかもしれない。
友達に買ってゆける「高円寺名物」があるといいな。
それは高円寺だけじゃなくてね。それぞれの駅、それぞれの街に、「みやげ」や「名物」があるべきなんだ。
「ギブソンギターの歌ごころ」'07.5/3
最近、部屋のギブソンギターを弾くたびに、エルヴィスのことを想っている。
エルヴィスとは、アメリカの歌手・エルヴィス・プレスリーのこと。
キング・オブ・ロックンロールとも呼ばれ、ひとりのシンガーとしても確固たる地位を築き、
僕の尊敬する海外ミュージシャンも、エルヴィスのシンガーとしての実力には最大の賛美をしている。
それはよくわかるなぁ。エルヴィスが歌うと、同じ曲であっても、すごく良く聞こえる。
どこで習って、どこで見つけてきたのかはわからないが、エルヴィスのパフォーマンスは最初から完成されていたように思う。
デビュー当時は別にして、使っていたギターは、ギブソン社が多かった。
アメリカの象徴としての、エルヴィスとギブソン。必然的に使うことになったのかもしれないし、一番似合っているギターでもある。
ジャガジャガと弾くストローク奏法も含めて、ギブソンギターが持っているデザインの派手さやサウンドも一番生きている。
僕もまたギブソン社のギターを持っていて、ずいぶんと長い間、それはエルヴィスとは無関係に弾き続けていた。
しかし最近は、エルヴィスも弾いていたギターとして僕は受け止めている。
そのこころは。。簡単。
ギブソン社のギターをエルヴィスも弾いていたんだなぁと、感じながら弾くことが出きるのが嬉しいのだ。
自分がエルヴィスになれるわけではないのだけど、そこには、ギブソンギターの歌ごころを感じられるのだ。
手を伸ばすと、そこにギブソンギターがあった。エルヴィスのそばにも、僕のそばにも。
「ひと月おくれの四月」'07.5/1
一年の計画を三月に立てて、そのとおりに実行しようとしたが、うまくはできなかった。
四月からは仕事で大きな変化があり、たいへんに疲れてしまった。
毎日、帰りにはラーメンを食べた。ジュースも飲んだ。アイスも買った。
僕の中での贅沢をし続けた。
そんな四月。いろんなことがありずぎた四月。
そして五月、奇跡的に前の会社の事務所が復活し、僕はこれから出かけてゆく。
25年通ったドアを開けに。
僕には、今日からが新年度の始まりとなる。
三月に立てた計画通りに、日々過ごすだろう。
ひと月おくれの四月のようだ。
仕事もがんばるけれど、創作もがんばる予定だ。
それでバランスがとれる。
「空気に溶けている歌」'07.4/29
今でこそ、歌は簡単に録音できる環境にはあるけれど、
レコーディングが一般的に始まったのは、1900年代からなのかな。
それでも1940年代頃までは、自分の歌を録音して残すということは、
歌い手の意識の中には、「いずれは、そんなラッキーなこともあるかな」というくらいなものであったろう。
唄うということは常にライブであり、歌は空気の中に住んでいるものという気持ちが強かったことだろう。
たしかに、歌は生き物であり、レコードの中に閉じこめられるという存在よりも、もっと広々とした場所に住んでいるはずなのだ。
先日、老舗のライブハウスにて、古いブルースのレコードが流れていた。
そのレコーディングされた音を聞いていると、録音機の方が、空気に生きている歌をとらえているようであったのだ。
現代では、録音機の中に、歌を入れようとしているようではないか。
それは1930〜40年代の録音であった。
「歌の詰め合わせセット」'07.4/27
「また、明日食べよう」と、とって置く詰め合わせのお菓子がある。
それをいっきに食べてしまう人は、少数派であろう。
それなのに、歌のアルバムの場合は、いつもその日に聞いてしまう。
まるでお菓子の詰め合わせセットのように楽しめればいいのにな。
一曲一曲を包装紙でちゃんと包んでね。
ゆっくりとあけて、プレーヤーにかける。
そのくらいの気持ちと、始めて聞くときの受け止め方があってもいいな。
歌の詰め合わせセット。
「街の中」'07.4/25
四月からまた、もと事務所に通うことになった。
いろいろあって。
なくなるはずだった事務所の、奇跡のような復活劇。
その事務所に僕は、ほぼ20年も通っていたのだ。
今日、荷物を少しだけ置きに、前の事務所に寄った。
その事務所までの街の道は、何もかもいつも通りで、
街の中に自分がいることがよくわかった。
つい先日寄ったときは、あんなによそよそしかったのに。。
どこの入口から、僕が入ったのかはわからないが、たしかに街の中にいた。
見渡す限りの風景の息づかいが聞こえてくるようだ。
ここから見ていた夕焼けや、ラーメン屋の灯り。
風景に入れる入口がある。
「ラーメン帰り」'07.4/23
この四月はいろんなことがあった。
仕事関係では、ごたごたや雨が続いて、とても疲れた。
そんな疲れた日の帰りには、僕はいつもラーメンを食べるようにしている。
今月はよくラーメンを食べたなぁ。
ホントは節約月間の予定だったのに。
毎日のようにラーメンを帰りに食べていたら、もう今月のこれでいいかなという気持ちになって、
さらにラーメンを食べるようになった。
疲れた帰りに食べるラーメンは美味しい。
四月最初の予定とは、まるでちがう。
「言葉メモ」'07.4/21
レナード・コーエンは新曲のために長い期間と時間をかけるという。
友達は新曲を作るとき、アイデアと言葉メモのノートを作っている。
僕はメロディーと同時進行で歌詞を作ってゆくので、言葉メモのノートがない。
20代のときは、新曲アイデアノートを作っていたが、それもやめてしまった。
なるべくメロディーと一緒に言葉を引き出したい気持ちがあるからだ。
でも、僕の知る多くのシンガーたちは、まず言葉から書いてゆく事が多い。
そうやってまずやってくる言葉たちがあったとしたら、それはいずれまとまってくるだろうなぁと思う。
ノートの中でね。
僕は新曲は一気に作るタイプだけれど、言葉たちがまとまってくるのを待つのもいいな。
僕もそうやって新曲を作ってみたい。
「音源は変わらない」'07.4/19
一度録音されたアルバムは、実際に変わることははない。
先日、若い頃に毎日のように聞いていたアルバムを、別の場所で聞いた。
まるで僕の部屋に溶け込むように聞いていたそれぞれの曲。
あれから20年以上たった今も、その音源はまるで、何ひとつ変わっていないことを知った。
あたりまえのことだが。。
20年たって、アルバムの声が歳をとったり、演奏がうまくなったり、サービスアドリブが入ったりしていない。
それがなんとも嬉しかったのだ。
公平でね。
もしも聞く人や部屋によって、音源がサービスして、よりよく歌ったり良い演奏になったりしたら、、。
どんな場所でも、すべての音源が変わらないのは、ひとつのやさしさだな。
「車窓から」'07.4/17
ちょっと前まで、総武線の両国まで約20年通っていた。
そしてこの四月から、両国のひと駅先の錦糸町まで通っている。
帰りもまた同じ総武線で帰ってくると、窓の外によく見慣れた町の景色が見えてきた。
妙によく知っているその町並みは、「両国」だった。
ずっと20年も両国で降りていたので、こんなふうに車窓から見ることがなかったのだ。
夜6時すぎ、駅前の商店街の並びの灯り、見慣れた看板。
下を歩いてゆく人のひとりが僕であったのだ。
そんなふうに、車窓から両国の駅前を眺めたことがなかった。
そこにあった町の景色はどこにでもある駅前の姿であり、注意しなければ、ぼんやりと通りすぎるだろう。
あの店、この店、よーく知っているけれど、もう歩くことはなく、こうして車窓から眺めるだけなのだ。
なんてさびしい。。
「隠密同心」'07.4/15
大江戸捜査網というテレビ番組があった。
その中に出てくる隠密同心という存在。
詳しいことは今もわからないが、その心が、僕には必要だとわかる。
何かこっそりと誰にも知られず、行動するのだ。
ひとりの隠密同心として。
国立図書館に現れたり、日本のどこかに現れたり、夜中まで起きていたり、
超スピードでパソコンを打ったり。。
そんな心を持ちたいな。
普段は同じような生活をしているけれど、実は隠密同心。
仲間もいてね。
「古い魂」'07.4/13
夜ちょっと前、隣の車両と歩いていった総武線。
日本風なジーンズ姿の三人が、席は空いているばすなのに立ち話をしていた。
歳は40才代かな。男性と二人の女性。アクションまじりで話す声はよく響き聞こえていた。
内容を聞いていると、それは芝居の話で、本人たちもどうやら役者をやっているらしい。
いかにも三人とも長いこと役者をやっているのが、ありありとよくわかった。
なんだか、ひとりひとりの存在が大きく思われた。
時代劇が三人とも、よく似合いそうだった。
僕は電車の座席に座って、仕事疲れを一休みさせているけれど、
彼らは、そういう次元を越えているようだった。
なんというか、古くから生きている魂のようだった。
何度も何度も時代時代を生まれ変わった、そんな魂を感じた。
そんな古い魂は、電車の座席にちょこんと座るのは似合っていないのかもしれない。
ずーーーと昔も三人で、こんなふうにどこかで話していたようだ。
「亀の冬眠行動」'07.4/11
春先のこの季節のこと、
ちょっと朝が寒いと、飼っているミドリ亀は砂をかさかさと堀り始める。
冬眠行動だ。。
僕らは、どんなに朝寒くても今日の予定のために起きあがり、ストーブをつけ準備をする。
寒いともう、すべてをやめて、砂を掘るということも出来ない。
ミドリ亀はいいなぁ。
冬眠の日、もう何もしなくていいなんて、なんて素晴らしい。
冬眠からさめても、寒ければまだ砂を掘る。
本能で、それが最善だと判断して。
僕らにも冬眠行動があったなら、寒い日はただまるまるだろう。
「たずね道」'07.4/9
先日、バス停に向かう道を、受付のひとに教えてもらった。
「この前の道をですね。左にずっとゆくと、そこに木の階段があるから、それを登って、また左にずっとゆくと、、、」
「はい、はい、はい、、」
その人はちゃんとわかるように教えてくれて、僕もちゃんと理解したはずなのに、
さて、道に出てみると、それがさっぱり思い出せない。
途中途中の単語は出てくるのだけれど、全体の流れがほからない。
記憶力が悪くなったかな。こんなことはあまりなかったのに。
せっかく道を教えてもらったのに、これでは申し訳ない。
イメージを自分の中で図面化して、もう一度繰り返して確認するしかないな。
歩き出したら、それをすぐに紙に書くとかしないとだめだな。
実際、また迷ってしまった。
たとえば、砂漠でやっと会えた人に道を教えてもらったときなんか、
忘れたら、申し訳ない。
「道の向こう」'07.4/6
四月より仕事の事務所の場所が変わった。
乗り換えも増えたのだけれど、楽しみもあった。
その事務所の近く、大通りの向こうに大好きな「立ち食いそば」屋があるのだ。
その近くに行くたびに、そのそば屋に寄ったものだった。
四月からは、毎日のようにその店に行けるのかなぁと思っていたが、
まるでそのようには行かない。
大通りを渡らねばならないとせいもある。
その車の流れの向こうに、そば屋さんの存在は感じる。
しかし行くことが出来ない。すぐそばなのに。
不思議なことだ。しかし、こんなことはよくある。
「道しるべ」'07.4/4
今日のこと、ひとつの不思議があった。
朝、いつもと違う地区まで自転車で行き、またもとの場所まで帰って来ようとしたら、すっかり道に迷ってしまった。
そこにあったのは、道沿いにあった、ひとつの地図。その地図によって僕は助けられた。
それから昼になって夜になった頃、僕はまた迷いながらいつと違う地区まで行った。
すっかりと夜になってからのこと、帰りに僕は自転車でまたすっかりと迷ってしまった。
ホントに迷ってしまったんだよ。
ここまで読んでくれてありがとう。話はこれから始まる。
自転車で走りに走って、もうここはどこなんだかと思ったとき、
ふと、道沿いに地図看板があるのが見えた。
そばに来てみると、それは、朝に僕が見た地図の看板だったのだ。
一日に二度も助けられてしまった。
そんな事ってあるよね。きっと大昔から。
ただ何気なく、そこにいてくれたものに、二度助けられる話。
今日は2007年ではあるけれど、
「しみている歌」'07.4/1
友達の家で、昔よく聞いていたアルバムを聞いた。
そのアルバムを聞いていたのは、僕がまだ四畳半に住んでいた頃で、
部屋じゅうにいろんな荷物があった。
目をつぶってみると、そのアルバムの音に、あの部屋じゅうの荷物たちの存在を感じることができた。
あの部屋の荷物たちの存在が音にしみているのだ。
表現は適当ではないが、ひとつの鍋の中の具のように。
音が荷物たちにしみている可能性は高いが、音の方にもしみているような気がするのだ。
友達の部屋で、同じアルバムを聴きながら、目をつぶっていると、
あの四畳半の部屋がみごとによみがえっているのだ。
「ダウンジャケット風のあたたかさ」'07.3/30
僕はずっとコーデュロイのハーフコートで、東京の毎年の冬をずっと過ごしてきた。
今年、たまたまダウンジャケット風のふかふかのジャケットを安く買った。
あったかいねー。
こんなふうなあたたかさは、いままで知らなかった。
実家の新潟にいた頃は、アノラックしかなかった。
アノラックは、ふかふかではなく、まあ、雪や風を通さないというくらいなもので、
あたたまるというものではなかった。雪の帰り道なんかは、かなり冷えた。
上京してからは、ずっとゴーデュロイのハーフコートばかりだった。
これもあたたまると感じてはなく、厚着していると程度のものだった。
この冬、ダウンジャケット風のあたたかさの中にいて、なんだか魔法では使われているようだ。
あのペターとした、防寒着の冷たさがそこにはない。
ちょっとだけ、それはさびしいな。
実家にいた頃からのアノラックの僕が、こう言うようだ。
「あったかそうだねー」
「うん、あったかいよ」
「おれもそっちに行きたいな」
「いつでも」
「ほんの少しの会話」'07.3/27
今日、ほんと久し振りに歯医者さんに行った。
以前に通っていた歯医者さんが移転してしまったので、どこにしようか悩むところだった。
結局、近所の夜9時までやっているところに決めた。
やさしい先生だといいなー。初診。
年は40才くらいかな。ほんの少し会話しただけで、信頼できるとわかった。
仕事慣れというものを感じさせなかった。集中して僕の歯を診てくれた。
ほんの少しの会話。
それは経験からくるものなのだろうなぁ。
僕のもそんな声を持ちたい。
以前、通っていた歯医者さんも素晴らしかった。
最初から、部活の先輩のようだった。
「どーしたの?」
「旅先」'07.3/25
世界中に行きたい場所はある。
そして探してみたい物事も多い。
たどり着くためには、いろんな旅が待っている。
そこには、行きたいという場所がある。
そんな旅にいつも憧れてはいるけれど、なかなか出られないのが現状だ。
そこで、ちょっと考え方を変えてみようと思う。
今、一曲歌を作ろうと思っているけれど、それを旅先と思うことにした。
やっとやってきた旅先。創作ではなくてね、行きたい場所。
そんな場所があることは素晴らしい。
「南千住」'07.3/22
南千住の商店街を夜に歩いてみた。
遠い遠い記憶の街を思い出した。
僕が東京に出てきた頃の商店街の感じだった。
君は歩いたことがあるだろうか。
住んでいる高円寺の街ではどんどん、古い店がなくなってゆく。
その寂しさったらないんだ。
二十年前の南千住の街も歩いたことはあるけれど、もう忘れてしまった。
もっと懐かしかったのかな。
あれからまた二十年たった今でも、僕にはとても懐かしかった。
あの寂しく歩いた、商店街の景色が残っていた。
「ライブ時間」'07.3/19
ライブでよく僕はビデオを撮ることが多い。
テープの残り時間をいつも気にかけているせいもあり、
ライブのときの時間感覚はほぼ一定している。
しかし、先日のライブのビデオ撮りのときは、みごとに外れてしまった。
もう30分たったかなと思ったら、まだ20分。
もう45分たったかなと思ったら、まだ30分。
一時間たったかなと思ったら、実際は45分。
完全に外れた。みごとに。。こんなことは珍しい。
僕もそんなふうにライブが出来たらいいなと思う。
たぶん、いつもとちょっとちがう感覚の時間が進んでいるんだな。
帰ってからビデオを再生してみると、なぜそうだったのか、よーくわかった。
なるほどなぁと、思うことが多かった。
それをどれだけ自然にできるかが、むずかしい。
「バンドの質量」'07.3/17
僕ができる楽器は、まあギターとハーモニカくらい。
他の人とセッションしたりバンドに参加することは、少ない方だ。
そして世の中には、日々、セッションを続けているミュージシャンもいて、
その人たちは百戦錬磨だ。
変幻自在に、音をあやつっていて、すばらしい。
ひとつの楽曲に対して最高テクニックの演奏をすることもできるだろう。
しかし、バンドに参加し、ひとつの楽曲を表現してゆくとき、
それはセッションでもあるし、音を楽しむという時間でもあるわけだ。
バンドのメンバーと、初めて合わせるという場合もあるし、
曲を演奏しながら、音の流れを作ってゆく場合もあるだろう。
お客さんがいる、なしにかかわらず、セッションとは、
そこに参加しているミュージシャンと、楽しみながら、
全体の音を選び合わせて、形にしてゆく時間に思えるのだ。
それぞれの担当楽器で、全体の音を感じながらね。仲間われはいけない。
たとえ、いつもの最高演奏ではないとしても、バンドの質量は同じと思う。
「ゆきおろしがんなり」'07.3/14
僕の生まれは新潟で、冬はもちろん屋根に雪が積もった。
あれは、三月だったかな。。
夜に雷が鳴った。
そして、かあちゃんがいつも言った。
「これは、ゆきおろしがんなりだてぇ」と。
ゆきおろしがんなりが鳴ると、雨が降り、屋根の雪がなくなってゆくのだ。
春よりも、もうちょっとだけ早い。
それはいつも決まって、静かな冬の終わりの夜のこと。
かみなりが、ごごごごごーと鳴る。
「ジャズ喫茶の時間」'07.3/12
下北沢にある、とある有名なジャズ喫茶に入った。
三年ぶりかなぁ。けっこう広い店。
まあ、普通の雑談もできるのだけれど、やっぱりジャズ喫茶だけあって音楽が主人公になっている。
その古ぼけた椅子に座っていると、やっぱり同じように古いジャズ喫茶に座っていたときを想い出した。
そこに同じ空気があるのだ。
ゆっくりとタバコを喫う人。かばんの文庫本を広げて、読み出す人、さまざまだ。
ジャズ喫茶の時間には、問いかけと答えのようなものがなく、ただひたすらに音を吐き出すようである。
何か社会のルールではない、24時間とか1日とか、60分とか、そんなルールもない、
どっしりとかまえた、時間のない時間がそこにあるようだ。
ここでは音が主役だ。僕らのようなスケジュールの会話はきっと似合わない。
「技」'07.3/10
最近また、立ちぐいそば屋に寄っている。
昨日は二軒も寄った。一軒は広い店。もう一軒は狭い店。
狭い店の方は人気店で、常に混んでいた。
しかしだ、二人の店員さんは、うまく流れを作り、無駄のない時間になっていた。
僕が驚いたのは、ひとりひとりに対する、言葉の余裕だ。
初めて入ったと、思われる人に対しても、常連さんに対しても、
それなりに言葉をちがえて、そばを出していた。狭いながら余裕のある言葉の空間。
あれがもし、あわてた感じの言葉だったら、せわしない感じになっているだろう。
これはもう長年の成せる「技」だね。
僕の知っている立ちぐいそば屋さんで、究極に早く出す人も知っている。
そこは財布を開けている時間に作り、出してしまうのだ。
なおかつ、うまい。
「ブリキのおもちゃ」'07.3/8
もう三月になってしまった。
今年は変化の年で、年明けからバタバタしていてまだ落ち着いていない。
友達の歌で「ブリキのおもちゃ」という歌があり、僕らをおもちゃにたとえ、
ぜんまいを巻けば、どこまでも行けるのだと歌う。
もし自分がブリキのおもちゃただとしたら、この三ヶ月は本棚の上に置かれたまま、
なんだか、ほこりがかぶっている状態だ。
ぜんまいが止まったとき、動きのまま。そのまま。
そのブリキのおもちゃが今の自分だとしたら、僕は動きが止まったままの姿でいてくれて嬉しい。
その夢をあたためながら。。
また動くときは、その姿から始まって欲しい。
「最近の事」'07.3/5
今日の夜話、最近の事。
僕ももう、そろそろ良い年になったが、いままでになかった事も起きてくるようになった。
それはいつもの夜の帰り道での事、ふと見ると、道の看板の文字がぼやけて読めないのだ。
(あれ・・?)
ここ数ヶ月のことかな。
部屋にいて、夜、2メートル位はなれてテレビを見ていると、まったくピントが合わない。
テレビがぼやけたままなのだ。おかしい。こんなことは今までなかった。
夜遅くて自分が眠くなってきているわけではないのだ。まだ夜7時くらいの話。
夜になると、目のピントが合わない。。これヤバイんじゃないの。
年齢のせいなのか。疲れのせいなのか。
いや、僕が思うに、「見る気」がないんだよなぁ。きっと。
目がリラックス状態になってしまうというか。。
(それとも、、、パソコン病かもしれないが。)
「そんなことがあってもいいかな」'07.3/3
僕はいま、ひとつの下町を約20年、仕事で訪ねている。
二ヶ月に一度、ひとつの家を訪ね、声をかけたりするのだけれど、もうそうやって15年以上たった。
この四月から、その場所をはなれ新しい町に行く予定になっていたが、どうも、いろんな事情で、またこの町に残る可能性が強くなった。
新しい町で待っている新しい出会いは、ほんとにすばらしい。僕は今もそれを選ぶこともできる。
その方が自分にとっても、良いことはよくわかっている。
しかし、あと10年、いや15年でも、同じ町の同じ家を訪ねるということもできるのだ。
どの家ももうすでに懐かしい人になっているし、想い出も多い。
新しい町にも魅力はあるけれど、何か違うまだ誰も会ったことのないことが、できるような気がしてくるのだ。
そんなことがあってもいいかな。
30年。あと10年で30年。
僕は今、アルバイトではあるけれど、それを越えた事もできるかもしれない。
「もどってこいもどってこい」'07.3/1
今日、見た短編映画の中で、夜行列車が走っていた。
列車の音を聞くのも久し振りの気がしたが、それは本当か。
久し振りに聞いたと思われた、列車の音はこう聞こえた。
「もどってこいもどってこいもどってこいもどってこい・・」
あれ、きっと「もどってこい」って、言っているんだよ。
今の僕にははっきりとそう聞こえた。