青木タカオ「ちょっくら・おん・まい・でいず」

「今日の夜話」過去ログ'05.5〜7月


「レコーダーの無かった頃」
'05.7/30

 現在では、CDやレコードを個人でテープに録音したりするけれど、

 よく考えてみれば、CDやレコード自身が、その役割であったのではないか。

 1950年代のギター弾きの本を読んでいると、

 「何度も友達のレコードで聞いて憶えた」とか、「友達のギター弾きから教わった」とか普通に書かれてある。

 僕はカセットテープが出始めた頃に育っているので、録音するのが常になっていた。

 テレビだってそうだ。ビデオに録画して残すという感覚だ。

 ビデオの無かった頃を思い出してみよう。

 テレビの映像はちゃんと憶えているし、不自由はなかった。

 録音テープが無かった頃、音楽は自分でコピーして歌って持ち歩くことができた。

 人づての場合は、その人もまたそうやって憶えたのであろう。

 もともと音楽は録音手段がなくても、伝わってゆくものである。

 ひとつの歌があり、それがその人に渡され、その人の歌になる。

 またその歌が、他の人の渡され、その人の歌となる。

 オリジナルの演奏がどうであったかは、誰にもわからなくなってしまう。

 そんな歌の流れがいいな。


「フォークSONG・300」'05.7/28

 ボブ・ディランの自伝を読んでいて、若い頃、夢中になれる

 伝承歌であるフォークソングが、アメリカにはたくさんあることがうらやましかった。

 日本でいうところのフォークではなく、伝承歌としてのフォークソングだ。

 各地方に風習や伝記が伝わっているように、唄える歌があって欲しかった。。

 実はないわけではなくて、民謡としてちゃんと残っている。

 けれど、唄えない。。

 なんて不運。。宝ものなのに、、。

 ギターで唄えるように、そしてなるべくみんなもわかる歌詞であって欲しい。

 僕も若い頃、民謡をなんとか唄えるように、自分なりに努力もしてみたけれど、

 それは途中になってしまった。

 ・・・・

 では'70年代からの日本のフォークで、シンプルで覚えやすい歌をフォークSONGにしてはどうか。

 と、考えてみた。それもいいな。30年ぶん。そろそろ定番ソングになってきた歌もあるだろう。

 あとまた30年もたてば、自然に歌が残ってくるだろうとは思うけれど、さてそれでいいのか。

 「古今和歌集」「新古今和歌集」のように、ある程度まとめてみても良いと思う。

 でもそれは大変な作業だ。

 ・・・・

 人の集まるところ、ギターを渡されて、すんなりと唄えるそんなフォークSONG。

 300曲ほど、まとめてみたい、、。


「ギター道」'05.7/25

 ストロークって、なんだか機関車に似ている。

 僕はそしてどれだけ道を戻ればいいんだろうと思っている。

 どこか遠いデパートのベンチの上に、僕は創作ノートを忘れてきてしまった。

 ここからはるばるそこまで戻り、置いてきたノートを取りにいかないとだめだ。

 ストロークの機関車を走らせ。。

 楽器は三日弾かないと何とかって言うけれど、まさにその通りだと思う。

 いつものようにギターを弾いてみても、感覚は戻ってはきていない。

 それは僕自身が一番よくわかっている。

 そろそろ出かけないとだめだ。

 あの置き忘れてきたノートを取りに行かないと。。

 そしてまた戻ってくるのだ。帰りはたぶんジェット機で。


「想い」'05.7/23

 目の前のパソコンに手を触れてみれば、

 それは未来にもつながっているけれど、初期のパソコンにもつながっている。

 僕は昨日、すっかり忘れていた事を思い出した。

 東京に出てくるとき、ポケットに二枚のカードを入れてきたのだ。

 一枚は僕自身のカード、もう一枚は「かつて」というカード。

 それは僕だけじゃない。あいつもあの人もそうだったはずだ。

 あのミネソタ生まれのギター弾きの青年もそうだったろう。

 必要なのは、一本のギターだけでよかった。

 あれから楽しいことや出会いも多く、忙しく月日はたってしまった。

 二枚のカードはいつのまにか一枚のようになった。

 そして今、僕の船は川沿いで休んでいる。

 狭い部屋には荷物があふれてしまった。

 帰りにはいつもコンビニエンスストアーに寄る。

 毎日をぼんやりと考え、なんとなくこのまま過ごすこともできるだろう。

 しかし、もう一枚のカードが昨日、僕を思い出してしまった。

 どうしても伝えたいことがあったはず。

 自分に手をあててみて、その先にあるもの。


「自伝は語る」'05.7/20

 高校時代、僕は授業中こっそり本を読んでいた。

 しかし運悪く先生に見つかってしまった。

 「青木、怒らないから、何の本読んでいるか見せなさい、、」

 僕はアンソニー・スカデュットの書いた伝記『bob dylan』の本を見せた。

 「ふーん、、」。その先生は本当に怒らなかった。

 初期の伝記本の『bob dylan』。集中して読んだなぁ。

 買ったばかりだったので、我慢できなかったのだ。

 伝記の本は知識にもなるし、得るものも多い。

 高校卒業後、上京してからも、僕はディランの伝記本を見つけるたびに買ってきては読んだ。

 ハードカバー本、文庫本サイズの本。なんでも買った。ファン心理というのかな。

 なぜか、毎回新鮮な気持ちで読めたものだった。数年前には本格的な伝記も出版された。

 そして今年、ボブ・ディラン自身による自伝が出版された。

 読み始めて三日ほどたったけれど、僕はとても驚いている。

 自伝とは、こんなにも違うものか。。

 ほんとによく伝わってくるのだ。

 どの文にも無駄がないとしか思えない。

 大事なシーンが、必要なストーリーとして残っているからなのだろう。

 記憶にとどまっている出来事こそ、残る話なのかもしれない。

 どの伝記本にも出てこなかったものであふれている。

 そして文がとてもやわらかい。そこがいい。


「めぐる人」'05.7/17

 僕は二ヶ月に一度、仕事で同じ場所を訪ねている。

 その地区をぐるりと回るのだけれど、もう10年以上も繰り返している。

 さすがに慣れてしまって、無駄のない動きをしているはずだ。

 同じ場所の同じの家の同じ所を、早足でゆく。

 声をかけてゆくので、(また、来たなぁ)と、思われているはずだろう。

 僕はめぐる人になってしまった。

 毎日来るのではない。何ヶ月かたって定期的にやって来る人。

 まるで季節のように。富山の薬売りのように。

 めぐる人は、何か伝説のようだ。

 僕が今、もし小学生だったなら、不思議な気持でそっと覗いているだろう。

 そっとの覗いている小学生が僕ならば、めぐる人も僕のようだ。

 まさか自分がそうなるとは思ってもみなかった。

 今日の日付の同じ時刻に居ながら、どこか昔ばなしのようだ。

 ちょっとだけ不思議な時間が一緒に流れている。

 昔の古銭が、一緒の財布に入っているような気持ち。

 遠いどこかとつながっているようだ。


「ほこりのかかった歌」'05.7/15

 今、あるシンガーの伝記をずっと読んでいる。

 1950年代からいままでの話だ。

 その時代、時代にいた彼の姿がよく描かれていて、とても読みごたえがある。

 ずっと読んできて、とうとうこの10年くらい前まで来た。

 はるばるとやっと来た。

 その長い間、彼の歌とギターはいろんな場面で流れていた。

 そこは60年代、70年代の古い喫茶店。

 彼の歌は、文学を目指す若者たちが集まる所でかかったであろう。

 もともと詩人として有名だった彼。

 そのうねり出すような低音とギターは、よく似合っていたにちがいない。

 レコードは回る。店のいろんな場所にほこりがある。

 彼もまた、そんな喫茶店に居て物想いをしていそうだ。

 物憂い空気の中を生き物のようにめぐる歌。

 たぶん彼と彼の歌が一番似合っていた場所がある。

 今はCDの時代になってしまった。音質もきれいだ。

 ヘッドホンで昔の彼のアルバムを聴いていると、

 古い喫茶店が見えてくる。僕もまたそこに座っている。


「機関車」'05.7/11

 「機関車が出ました!!」

 と、言ってみたい。

 最近はどうも、何を始めるのにも時間がかかってしまう。

 あまりに時間がかかってしまうので、自分は機関車なんじゃないかなと思えた。

 機関車のエンジンのかかりが遅いという証拠もないのだが・・。

 そして僕の心が言う。

 (ぼくはきかんしゃだからしかたないんだ)

 そう思いたい。

 でも実際のところは自転車みたいだ。

 自転車トーマス。

 ちがうちがう。

 いやだいやだ。

 僕はいつ機関車になれるだろう。

 「機関車が出ました!!」

 その日が来るのを待っている。


「そこに店があった」'05.7/9

 僕のアパートからは、どのコンビニエンスストアまで少し遠い。

 ふたつあるのだけれど、歩いて5分くらいかかる。

 しかし、よく思い出してみれば、すぐそばに食料品店が一軒あった。

 一年くらい前までは店を開いていたが、いまはもうやっていない。

 アイスクリームを売っていた。カップラーメンが少しだけ棚に並んでいた。

 おばあさんがひとりで住んでいた。たぶん息子さんのところにでも引越したのであろう。

 その隣には豆腐やさんが今もある。二軒並んだ店だった。

 毎日、僕はその店のある角を通りアパートに帰ってくる。

 僕は少し時間を戻して、昔のこの道を思い浮かべてみた。

 あの角の食料品店には子供たちも集まり、ちょっとしたものなら何でも置いていたのだろう。

 その隣には豆腐やさん。夕暮れの風景。

 まだ木造の家も見えてたいた路地。その先の銭湯、そして煙突。

 にぎわいというほどでははないかもしれないけれど、その角に走る子供もいたはずだ。

 今は豆腐やさんが、一軒になってしまった。

 夕暮れも半分だ。

 古い道への入口はまだ開いている。目を閉じれば、今も見える。

 実際に僕はいたわけではない。でも見えてくるのだ。



「僕らはみんな忘れてる」
'05.7/7

 7月7日。七夕。

 今日は僕の頭の中にも「7」のことが広がっていたようだ。

 こんなことを考えていた。

 「人が一度に憶えられる数は7つまで」とはよく聞く話だが、それは本当だと思っている。

 聖徳太子が、一度に七人の話を聞いたという逸話もある。

 そんな「7」という数字は、いろんな所で登場する。 

 世界七不思議。世界七大陸。七つ道具。七人の侍。七つ道具。七つの水仙。七人のこびと。セブンスター。七つ森。etc・・。

 七つ、七つというけれど、それを答えた最初の人が、

 ただ8個目が思い浮かばなかったのではないか。

 それとも8つにしてしまうと、どれか忘れてしまうのかもしれない。

 そこで僕は思う。実は七つよりも、もうちょっといつもあるのだと。

 世界七不思議ともうふたつ。七つ道具+α。七人のこびとと、また数人。

 僕らはみんな忘れてる。

 「七つってことは、もう少しあるね。。」

 勘のいい探偵は、さらに探し続ける。


「ICレコーダー歴10年」'05.7/5

 ICレコーダーって、知っているだろうか。

 とても小さなテープレコーダーみたいなもので、今の僕には手放せない。

 初めて買ったのが、'95年だから、もう10年だ。

 ICレコーダーの前はずっと、小さな紙のカードをポケットに持ち歩いていた。

 何かひらめくたびに、チョコチョコとペンを動かした。

 しかし、そうもしてられないときもあった。するとすっかり忘れてしまった。

 そのもったいなかった事。。

 そしてICレコーダーが世に出始めた頃、僕はすぐに買った。

 それからのメモ残しは、画期的に楽になった。スイッチを入れてただ録音すればいいのだ。

 ふと浮かんだメロディーも残しておくこともできる。

 何をしていて、ひらめいた事は、5分もたつとなぜか思い出せなくなってしまう。

 もれは僕の場合本当だ。

 そして、もう二度と思い出せなくなってしまう可能性が高い。

 だから、すぐにICレコーダーに録音しておく。

 ICレコーダーを持っていないときは、手のひらにメモしておく。

 そうしないと、だめなのだ。

 たとえて言えば、お祭りの夜店で回っている射的。

 あんな感じで、頭の中で、考えやイメージが巡って来て、それをチラリと見るのだ。

 チラリと見るので、勘違いや見間違いをする。

 「あれ、もしや、、」と思い、ひらめく。

 そんな感じなので、すぐに忘れてしまう。

 「あれ、何だっけ?」

 ICレコーダーに入れたことも、だいたい忘れてしまい、再生しては驚く。

 手のひらに書いた走り書きの方は、だいたい消えてなくなる。


「オーディオルーム」'05.7/3

 現代のお金持ちのテレビを観ていたら、そこに立派なオーディオルームがあった。

 大きなスピーカー。古いジャズのレコードを目をつぶり、その人は聴いていた。

 今、僕はCDラジカセがパソコンの斜め前に置いてあり、ステレオ効果はほとんどない。

 部屋に音楽が流れているという状態だ。

 実家にいた頃は自分の部屋に大きなステレオセットがあり、

 音量を上げ、よく目をつぶっては聴いたものだった。

 今日、テレビで見た、あのお金持ちのように。。

 お金持ちの聴いていたスピーカーは、かなりの大きさであった。

 子供の身長くらいある。

 目をつぶってジャズのレコードを聴けば、本人達がそこで演奏しているように、思えるだろう。

 僕もいま、ここで目をつぶってみるけれど、CDラジカセから流れてくるヴァン・モリスンの姿は目に浮かばない。

 映画館で映画を観るように、新作のCDアルバムも、集中して聴きたいな。

 最初の一回だけでもいい。とくに友人のCDアルバムはそうやって聴いてみたい。

 そんなオーディオルームが、レンタルで帰り道のどこかにあればなぁ。

 全身でしびれながら、部屋に戻ってきたいものだ。



「読んでいない本」
'05.6.30

 僕はもう一度、ここに戻ってこようと思う。

 あまりにまだ読んでいない本が多すぎるのだ。

 本というのは、見つけたときに買っておかないと、なかなか手に入れることが出来ない。

 そんな気持ちもあって、買い続けてきたものの、増えすぎてしまった。

 読んでいない本。

 銭湯に行って、僕は高校時代までの事を思い出していた。

 小学時代・中学時代・高校と、自分で買った本はよく読んできた。

 どの本も印象深い。レコードだってそうだ。

 まだひとつのスチール本棚に買った本は全部並べられた。

 あれから上京して、むやみやたらと本を買ってきたかもしれない。

 それでも30才くらいまでは、ほとんどの本をひととおり読んで来た気がする。

 そしていつしか、本棚が本であふれてしまった。

 CDアルバムも、恐ろしいくらいに増えてしまった。

 図書館みたいで楽しいのだけれど、この辺でまた時間を戻そうと思う。

 あの高校時代のような、本の時間の続きを始めてみたい。

 「いつか読もう」と約束した、「いつか」を始めてみたい。


「歌の似合う場所」'05.6.28

 僕のこの椅子の後ろには、大きなCDラックがある。

 ジャンル別に分けられていて、お気に入りのアルバムも多い。

 ここから左前にあるCDラジカセに乗せれば、音は部屋全体に鳴ってくれる。

 ときには武道館ライブのアルバムだってかかる。

 イギリスロックバンドだってかかる。

 かけるのはすべて自由だということは知っている。

 しかし、歌やサウンドにもそれぞれに似合う場所というものがきっとある。

 この四畳半でかかるときもあるだろうし、どこかのオシャレなクラブでかかることもあるだろう。

 スポーツショップでかかることもあるだろうし、静かな喫茶店でかかることもあるだろう。

 僕の部屋でもよくかかっているアルバムが、場所が変わると、すごく生き生きと聞こえることがある。

 似合っているというか。。気持ちよく歌っているというか。

 そこで考えてみたのが、この部屋にも似合っているアルバムがあるのではないかということ。

 なぜか、想像がつかない。

 想像がつかないが、そのアルバムは生き生きとこの部屋で歌うにちがいない。


「うたへの長い旅」'05.6.26

 「自由への長い旅」と言ったら、岡林信康の初期フォークロックの代表曲と言われているが、

 そんなふうに、「うた」もまた長い旅であると実感している。

 先日も、ライブで僕は、大好きな歌をコピーで唄った。

 コピーというのは、表現がおかしいな。自分の唄のように唄ってみた。

 録画ビデオで自分で観てみるけれど、やっぱりうまく唄えていないのだ。

 と、思えているのは自分だからかもしれないが、原曲の良さを伝えきれていない。

 もう10年間も、その歌を歌ってはいるのだけれど。。

 それぞれの歌を歌うには、いくつかのアイデアが必要だ。

 どんな気持ちで歌うのかも大切だ。

 それは、いくつかの伏せられているトランプカードみたいなもので、

 うまく謎解きされると、いっぺんにひっくり返るようだ。

 僕自身の曲には、その謎解きが確かにあって、それをわかりながら歌っている気がしている。

 本来、それはあって良いのか、良くないのか? それはわからないが、、。

 よくトリビュート盤が発売されるが、それは大変な作業である。

 10曲なら、10曲の長い旅があるようだ。

 歌を歌うことは面白い。他の人の曲を歌うことは難しくて楽しい。

 そこに長い長い旅を感じる。お金のかからない、こんな旅もある。


「先手必勝とは」'05.6/24

 中学時代、校長先生は、いつも「沈着冷静」と、言い続けてくれた。

 おかげで、それは今もはっきり憶えている。

 実行できているかは別として。。

 そして、高三のときの担任の先生は、毎日のように、ふたつの言葉を僕らに言った。

 『先手必勝』『アイデア勝負』。

 「まあ、何回も言ってますが、先手必勝、アイデア勝負。先手必勝、アイデア勝負!!」

 何回なんてものではない。毎日、毎日、そう言っていた。

 たしかに、先生はアイデアマンであった。

 そして、ものすごい読みやすい文字を書く人だった。

 詩吟が趣味で、僕らに無理矢理歌わせてくれた。ありがとう!!

 毎日のホームルームの時間、そして授業中、かならず一回以上、

 「先手必勝、アイデア勝負」の言葉を聞いた。

 あれから、約25年。

 僕は先生の読みやすい字を真似て、自分の字とした。

 詩吟は歌っていないよ。

 「アイデア勝負」の言葉も、ありがたく心にとめている。

 でも問題は「先手必勝」だ。

 海津先生、「先手必勝」の意味が今もわからない。

 気持ちはわかる。

 気持ちはわかるんだけれど、意味がわからない。

 「先手必勝、アイデア勝負」の語呂は最高にいい。

 語呂は大切だ。それを教えてくれたのか。


「長生きの秘訣」'05.6/21

 いつかの事。その路地を仕事で通りかかったとき、

 家の窓から、ひとりの小柄なおじいさんに声をかけられた。

 「おれ、90。90だけどこんなに元気!! 小さいけれどこんなに元気!!」

 「ああ、そう。へえー。ほんとにー」と、僕は答えた。

 そして今日、またその家の脇道を通りかかった。

 (あの、おじいさんは元気かな・・)

 午前の10時すぎ。おじいさんの窓からは大きな音で時代劇のテレビの音が聞こえていた。

 ドギャー。バシュー。ザッ、ザッ、ザッ。。

 それは時代劇でよくある、立ち回りのシーンであろう。

 悪者退治の正義の味方が活躍している時代劇。

 ・・・桃太郎侍かな。遠山の金さんかな。

 その時代劇のテレビを熱中して観ている、あの90才のおじいさんの姿が目に浮かぶ。

 僕は思った。

 時代劇の中に今もある、あの正義感や、すがすがしいほどの解決。

 そのパワーは、体内エネルギーとなり、観ている方も元気になるだろう。

 あのおじいさんの長生きの秘訣は、時代劇パワーではないか。

 だいたい、時代劇そのものも不思議だ。

 なぜあんなに長生きなんだ。そこにはきっと何かある。


「ギター'05.6/19

 たしかに前よりもギターはさわらなくなってしまった。

 気持ち的には24時間、弾いていたいのだが。。

 唄作りのときは、さすがにギターに戻ってゆく。

 しかし日々の精進が足りないせいで、カンが戻ってくるまで時間がかかる。

 唄の種が、なかなか育ってこない感じだ。

 ああ、ギターはまるで畑のようだ。

 そうそう、実家のすぐ裏、一分くらいのところに借りてた畑があった。

 お袋は夕方になると、毎日そこに通っていた。

 ギターは楽器ではあるけれど、創作に関しては、なんだか畑のようではないか。

 唄は収穫だ。

 やっぱり毎日、通わないとね。

 この椅子から、1メートル半の先の畑まで。。


「出陣みそラーメン」'05.6/16

 昨日は一日、雨であった。

 今は、外でのアルバイトをしているので、そんな日は一日、合羽とともに雨の中だ。

 一年中、雨は降る。冬だって降る。

 冬の日の雨は冷たい。どうやってがんばろうかと思う。

 どうにも晴れそうもない冬の日。

 合羽を着て、自転車に乗り、そして仕事を始める前に、僕はよく寄る店がある。

 それは、朝から営業しているとんこつラーメン屋さんだ。

 合羽を脱ぎ、そして店内に入る。すぐにメガネがくもる。

 「いらっしゃい。まいど!!」

 夫婦でやっているラーメン屋さん。常連さんもいる。

 「じゃあ、とんこつみその並」

 外は雨がざんざんと降っている。店内はテレビが付いている。

 「はい、おまち!!」

 その店はとっぴんぐ他、いろいろと自由に入れることができる。

 にんにくを入れ、とうばんじゃんを少々、そしてしょうが。。

 ・・これがうまいんだな。

 雨はどれだけ降ってくれるのだろうか。今日も一日が長そうだ。

 ラーメンで体があったまった所で、僕はまた外に出て現場へと向かう。

 「出陣みそラーメン」。これがなくっちゃね。

 もうこれしか考えられない。

 これしか考えられないけれど、あまりそういう話はきかない。

 でもいずれ「出陣らーめん」は定着するだろう。

 それは「とんこつみそ+にんにく」しか考えられない。

 ぜったい、体にもいいと思うんだよね。 


「唄も友だち」'05.6/13

 今は2005年。

 電車の中、携帯電話でメールを打ったり見たりしている人は多い。

 僕は最近、メモリー式の小さな携帯プレーヤを買った。

 小さな液晶画面の、ちょっとした操作で、

 約25枚ほどのアルバムの中の曲が簡単に選べるようになっている。

 携帯のメール選びではないのだけれど、作業がとても似ているのだ。

 (待てよ・・!!)

 これはもしかしたら、同じなのかもしれない。

 ・・・僕はいままで、ながーいあいだ、アルバム病にかかっていて、

 アーティストが名前で、曲は曲名だった。

 しかし、一曲一曲が個人なのではないか。・・

 僕は思った。

 実は、それぞれの曲は友だちなんだと。。

 こっちからメールを打つことはできないかもしれないけれど、

 唄の形でメールをくれている、そんな友だち。

 そのうち、同じ携帯の中に住むようになるかもしれない。

 それも良しと思う。

 唄も友だちなのだ。


「スプライトのドレス」'05.6/11

 まるで緑の塔のように立っていた。

 君の名はスプライト

 サイダーと言ってしまうには、もう少し進化系。

 先日、久し振りに、ペットボトルの君を手にとって飲んでみたよ。

 透明なペットボトルは、なんだかスポーティーだ。

 「ガッツ!!」の声でも聞こえてきそうだ。。

 スプライトが初めて登場してきたときの事をおぼえている。

 '71年頃だったと思うが君は、ラムネ・サイダー・キリンレモンの世界にやって来た。

 もちろん小学生の僕ではあったけれど、炭酸にはそれなりに想いがあったんだ。

 スプライトよ、君は素敵なドレスと共にやって来た。

 あのすそ広がりの緑の瓶。持ったときの高級感。左右非対称のロゴ。

 僕は瓶をテレビの上に置いて、感動的に眺めたものだった。

 味もまた品があり、あの緑の瓶とともに、ひとつのイメージを僕らにくれた。

 「おまえは、コーラやファンタに負けてないよ。やって来たひとりよ。君の緑に乾杯!!」

 今思えば、あの瓶のセンスはなかなかのものだ。そして宇宙のような深い緑。

 夏の夜の、蚊帳のような色のスプライト。

 おまえの中に眠る僕の夏。

 魔法の緑のドレスで復活して欲しい。

 また会おう。夏に会おう。


「香ばしい中学時代」'05.6/7

 外歩きの仕事をしていると、中学生の諸君にも出会う。

 それはよくある光景であるが、一人が家の前で待っていて、

 本人は家に入り、何か持ってくるという時間。

 僕もそんなふうに友だちを待っていた時間がある。

 それは中学生の頃、僕はひまさえあればギターの事を思っていた。

 今の彼らは、どんな事をいつも思っているのだろう。

 振り返るとき、僕の中学時代には、ひとつの香りがある。

 それは新品ギターの匂いである。

 セルロイドのようなギターの塗装の匂い。

 中一から中三まで、僕の日課は楽器屋さんに寄って、ギターを見上げる事だった。

 新品ギターの匂いがそこにはあった。

 ギターの中でも、鮮やかなサンバーストの色に目に焼きついている。

 僕の青春時代には、サンバーストと色と新品ギターの匂いが一緒に付いている。

 ときおり見えるのは、ギターの糸巻きのシルバーやゴールドのメタリックな色。

 あのなめらか糸巻きの回り具合。

 僕の憧れはすべて新品ギターの中にあった。

 今だって、楽器屋さんに寄れば、中学時代の匂いがする。

 そんな香ばしい僕の中学時代。


「となりの椅子」'05.6/5

 椅子が5つあり、そこに五人が座っているとしても、

 きっとまだ椅子はある。

 それは24時間、すっかり忘れているにしても、

 一週間、すっかり忘れているとしても、

 三ヶ月、すっかりまったく思い出さないとしても、

 椅子は待っていてくれる。

 裸電球の下、畳に座っているとしても、

 高級そうなソファーのある喫茶店にいるとしても、

 酔った帰り道をふらふらで歩いているとしても、

 椅子はそばにある。

 「いつでもおいで」と、その椅子は言う。

 そんな椅子ってあるか?

 (・・あるさ)

 遠い異国のでこぼこ道、

 ひとりぼっちで、もう歩けなかったときも、

 その椅子はあった。

 僕が歌を作ろうと思うとき、そこにあるもの。

 それは僕のとなりの椅子。

 君のとなりの椅子はどんなだろう。


「こんがらがりの答え」'05.6/3

 何本もある紐が、ときにからまってしまうときがある。

 その外し方にはコツがあり、僕はそれを知っているつもりだった。

 先日も、ちょっとした事で、10本の紐がからまってしまった。

 いつもなら、すっと、それを外すことが出来るのだが、あせっているのでなかなかうまく外せない。

 こんがらがってしまった。

 特に何をしたわけではない。特にひどいからまりかただったわけでもない。

 ちょっとしたことで、外れなくなってしまったのだ。

 自分としたら不本意であるが、友だちがほどいてくれた。

 それと同じことが、実は頭の中でも起こるのではないかと、今日、帰り道に思った。

 よく「今、頭が混乱しているから。。」と言う。

 それは、まるで複雑な数学の問題がすっと解けないのと似ている。

 人の思考回路というのはうまく出来ていて、混乱している中でも、何かしら答えのようなものを出そうとする。

 テレビニュースのコメンテーターなんかは、すぐに答えを出す。

 しかし僕は思う。頭の中も混乱している場合と、からまっているときがあるのではないかと。

 混乱の場合は、それなりに答えが出てくると思うが、

 からまっているときは、たぶんどんな天才学者といえど、瞬時にほどく事は出来ない。

 出てくる答えもまた、こんがらがっている答えなのだ。

 そんな時は、余計に多くを考えない方がいい。

 ぎゅーとひっぱらない方がいい。

 それは、商店街の福引で知らない色が出てくるようなものだ。

 電車でなぜか乗り間違えてしまうようなものだ。


「銭湯、映画ミュージック」'05.5/31

 いつも行く近所の銭湯では、よくムードミュージックがかかる。

 昨日も銭湯に行き、ふと耳をとめると映画のミュージックがかかっていた。

 それは優雅なメロディーで、大作映画のワンシーンで使われている感じだ。

 湯船につかって、その優雅さのメロディーを感じてみる。

 ここ数日いろいろと忙しく、とてもではないが、優雅なメロディーからほど遠い。

 ここ数日だけではない。僕の人生そのものが、優雅なメロディーからほど遠い。

 99円ショップの近所OPENを心から待っている日常だ。

 僕の伝記映画を作ったとしても、こんな映画メロディーにはならないだろう。

 石につまづいた一休さんが似合っている。

 それでもいつか、あんなメロディーの中に住んでみたい。

 しかし、とうぶんは無理そうだ。


「電車の缶の忘れ物」'05.5/29

 ずっと書きたかった事がある。そろそろ書こう。

 窓に沿ってシートがあるタイプの電車での話。

 缶ジュースや缶コーヒーを飲んだ後、缶を自分の足元に置いてゆく人がいる。

 たいがいはホロ酔いかげんの人が多い。

 本人のイメージとしたら、終電までその缶はシートの下にそっとあり、

 最後の見回りにて収集されてゆくのだろう。

 そんなことがありえるか!!

 その缶はしばらくは立っているが、次々に乗ってくる人の靴にあたり、車内を転がってしまう。

 それも、少し残った中身を床にこぼしながら、、。

 誰しもその缶が車内を転がっているのを見たことがあるだろう。

 シートの向こうとこちらを缶は行ったり来たりする。

 まるで「私をひろって下さい」と、言わんばかりに。

 なぜか缶は、ねらいをさだめて僕のところへと向かってくる。

 それが嫌なんだ。缶にも意思があるのか。

 缶は僕のところに来て、まるで安心したかのように、もう動かない。

 しょうがないので、そんなときは降りるときに持って出ることになる。

 なぜだ? 

 それもすべて、最初に缶を置いた人が原因だ。

 こんなに怒っているのに、それでもまだ目の前で缶を置く人がいる。

 君にも言い分があり、「うっかり持っていき忘れた」というだろう。

 たのむから忘れないでくれ。


「浮かぶ文字」'05.5/26

 インターネットは画面の中に文字を貼り付けてゆく快感だ。

 その文字は旅するように瞬間移動する。

 でも僕らは画面の中から文字を取り出したりはきっと出来ない。

 今日、僕は自分の歌詞ノートを開き、ギターで次々と歌ってみた。

 するとどうだろう、歌詞ノートの中の手書きの文字が、

 メロディーと共に浮かびあがってくるではないか。

 こりゃ驚いた。

 なんだかそれも、色まで付いて見える。

 僕の目と歌詞ノートの間に文字が、泳ぐ魚のように浮かぶ。

 ギターとは、文字使いの魔法だったのか。

 歌詞ノートを開くと文字がある。インターネットにも文字がある。

 虹色になって帰っておいでよ。


「アンデスの響き」'05.5/24

 ここしばらく、フォルクローレを聞いている。

 きっかけは友達が送ってくれた一本のテープだった。

 「アンデスの響き」と題されたそのテープには、知っている曲も入っていた。

 フォルクローレのアルバムは何枚も持っているが、みな、唄も演奏も似ている。

 いつもながらの気持ちで、バイト先への行き帰りにイヤホンで聞いていた数日後。

 ケーナ、そしてサンポーニャの響きが、そのうちだんだんアンデスの風のように思えてきた。

 (もしかして、ホントに風か。。)

 そう思ってみると、演奏がひとつのアンデスの街のように思えてきた。

 (もしかして、ホントに街か。。) 

 たぶん想像だが、アンデス地方を旅しているとしても、訪れる街がそう変わるわけではないだろう。

 街の姿が変わらなくても、僕らはきっと楽しんで旅が出来るだろう。

 フォルクローレの旅はアンデスの旅そのもののようだ。

 アンデスを旅するとしたら、それはフォルクローレのようではないか。

 言葉が巡ってしまった。

 そして有名な曲は、有名な街のよう。

 そんなふうに思ってみたら、突然にフォルクローレがこだわりなく聞けるようになってしまった。

 僕は聞きながらアンデスを旅しているのだ。


「11時30分の話」'05.5/22

 とある、とんこつラーメンチェーン店に寄って思い出した事がある。

 数年前、外仕事の途中のお昼に、よく寄るとんこつラーメン店があった。

 そこのオヤジさんは仕事中、いつも口でシュウシュウ、息を鳴らしていた。

 その集中力たるや、すごいものがあった。奥さんの方がいつもお店の注文を受けていた。

 そこはチェーン店でありながら、どこの店よりも美味しく感じた。

 ある日の昼前のこと。店に入ると、そのオヤジさんが珍しく何かとても怒っていた。

 お店を開けたばかりでお客は僕ひとり。

 「あいつがまた来るから、しょうが隠しておけ!! いくら只だからって、ほどってものがある!!」

 しょうがとはもちろん、テーブルに置いてある、あの赤いしょうがの事である。状況はすぐに飲み込めた。

 「へたすりゃ半分もとりやがって!!」

 どの店でもしょうがは基本的に無料であり、僕もときには多めに入れることはある。

 しかし、確かにお金がかかっていることは事実だ。

 店主が怒るほど入れるとは、かなりの量なのだろう。

 「そんな事できないわよ」と、奥さんは答えている。

 座る席がだいたい決まっているらしくて、そのしょうがだけ隠しておけとも言っている。

 それもおかしな話だ。そして、もうすぐお昼になる。

 満員のお客さんまえでは、店主も怒ることが出来ない性分なのだろう。

 ラーメンの汁が煮えたぎるように、オヤジさんの心も怒りで煮えたぎる。

 ・・・ごめんなさい。その後の事は実は僕は知らない。

 だがお客さんのまだ来ない時間に寄れたので、この話が聞けたのだ。

 しょうが大戦争はどうなったのだろう。そして数年後、その店はなくなった。移転したのだろう。

 同じチェーン店を先日久し振り見つけて、昼前にとんこつラーメンを注文した。

 目の前にあるしょうがのケースを見たら、あのオヤジさんと、しょうが事件がよみがえった。

 時間はあの時と同じ11時30分。11時30分の話がある。


「Oh!! 牧場はみどり」'05.5/20

 それは僕の人生の中で、小さな小さな大失敗であった。

 昨日、テレビから懐かしい歌が流れていた。子供らの声で。。

 チェコ民謡「おお牧場はみどり」だ。

 誰しも子供の頃、よく歌ったであろう、この曲。

 なかなか訳詞のセンスが良かった。

 〜♪♪おお牧場はみどり、よく茂ったものだ、ホイ!!〜

 〜♪♪雪が解けて 川となって 山を下り 谷を走る 野をよこぎり 畑をうるおし よびかけるよ わたしに〜

 〜♪♪おお聞け歌の声 わこうどらが歌ううた おお聞け歌の声 晴れた空のもと ホイ!!〜

 小学生の僕はこの「ホイ!!」のかけ声の素晴らしさに、こころを奪われてしまった。

 (良かったなぁ、、ホイって何だ?)

 しかしそれは、小さな大きな失敗を、僕にもたらしてしまった。

 「おお牧場はみどり」の「おお」は感嘆符の「おお!!」だったはずなのだ。

 それなのに僕は「おお」を大きいの「おお」として歌っていたようだ。

 今の僕がライブでこの歌をもし歌うとしたら、ぜったい「Oh !!」と、言葉を切って歌うはずだ。

 それがこの歌の訴えるところではなかったか。みどりの牧場に感動した歌だったはずだ。

 それなのに僕は、それに気付かないまま、歌い続けてしまった。。

 ついつい「ホイ!!」にだまされてしまった。

 ああ、もう一度、この歌を歌いたい。ちゃんと「おお!!」と感嘆符として歌いたい。

 先生も最初に言ってくれればいいのに。


「原点に帰る(スペシャルサンド賛歌)'05.5/14

 大切なものは、いつも忘れがちだ。

 バイト先から駅へと帰る途中に、ヤマザキデイリーストアーがある。

 お腹が少しすいたので、パンでもひとつ買ってゆこうと入る。

 そこで見つける、ヤマザキの「スペシャルサンド」

 見た目はただのコッペパンなのに、なぜかスペシャル。そして80円。

 この大胆なネーミングを持つパンは、相当なロングセラー商品でもある。

 1980年より前に発売されていたかもしれない。そのへんは微妙だ。

 ただ、僕の中ではそのパンが「スペシャルサンド」というネーミングをもっているところに、

 大きな意味を見つける。

 その普通にも見えるコッペパンの中身は、クリームサンド、その下にアンズジャム、

 真ん中にはチェリー風のゼリーが入っている。

 最初に食べたときは、(何がスペシャルなのだろう?)と、思ったものだ。

 ・・(この真ん中のチェリー風ゼリーかな。。)

 それが果たして「スペシャル」というネーミングにふさわしいかどうかは、クエスチョンであった。

 僕はもうその中身を知っているが、世の中には初めて「スペシャルサンド」を買う人も日々いるだろう。

 「いったいこの80円のパンの何がスペシャルなんだ?」

 そして真ん中のチェリー風ゼリーが出てくるときの驚き。

 いろいろな批判もあっただろう。しかしそのネーミングを変えることなく、がんばっている80円のスペシャルサンド。

 もしかしたら僕らはそこから生まれてきたのではないか?

 僕は忘れかけているものを取り戻すように、スペシャルサンドを手に取る。

 日本中・世界中、おまえのネーミングを欲しがっているものは多いだろう。

 だが、放してはならぬ。まさにスペシャルなのだよ。


「リバーブの世界」'05.5/12

 ここ数日、トム・ウエイツの「ザ・アーリー・イヤーズ.vol2」を聞いている。

 トム・ウエイツのデビュー当時のプライベート録音盤である。

 全編、ほぼ弾き語りであり、落ち着いた良いアルバムだ。

 特にリバーブが気に入っている。

 そのリバーブを聞いていると、そのスタジオの中、そして外の音まで聞こえてくるようなのだ。

 ストーリーまで感じさせてくれる、その反響音。

 ボブ・ディランのファーストアルバムのリバーブにも、それは感じられる。

 アルバムを聴いていると、当時の時代までリアルに戻っていけるようだ。

 少し広い部屋で録音したような、そんなリバーブがある。

 僕はそのリバーブの世界を聞いているのかもしれない。

 僕自身、録音をする機会はあるが、

 リバーブに関してはサウンド優先で考えているのが普通だ。

 エンジニアの人も、曲に合わせてリバーブを選ぶであろう。

 それは当然である。

 しかし実際、歌を包んでいるものは、機械のリバーブではなく、

 そのときの世界であろう。


「マーチンを弾く」'05.5/9

 先日、友達の個展にてマーチンギターを弾く機会があった。

 型番は「000-18」。マホガニー材ボディーの小さめギター。

 18才からの10年間は、僕もマーチンを使っていた。

 しかし、ここ10年はずっとギブソンを部屋で使っているので、

 マーチンとは少し縁遠くなってしまっていたのだ。

 「えっ、このマーチン弾いていい?」「どうぞ!!」

 000-18を弾くのは二回目かな。

 ケースを開けて手に取ってみると、さすがに造りが良い。

 丁寧さが良く伝わってくるし、ギターが綺麗だ。

 ポロンと弾いてみると、さすがに音がまとまっている。

 やわらかさの向こうから、澄んだ音が浮き上がってくるようだ。

 マホガニーボデイの特徴でもあるが、音が明るく軽い。

 ギターから音が出てくるというより、ボディーの回りを包んでいるように聞こえる。

 さすがマーチンだ。音が生きてる。

 部屋でポロポロと弾くには、000-18は最適かもしれない。

 ギブソン社のギターが、あきないブラック珈琲だとだとしたら、

 マーチン社のギターは、香りのよい紅茶のようだ。

 僕も000-18が欲しくなった。


「四畳半ギター」'05.5/5

 部屋の隅にはいつもギターが置いてある。

 ギブソン社の小さめのアコースティックギターである。

 疲れて横になっていても、手を伸ばせばそこにあるギター。

 アパート暮らしを始めて、もう20年以上たった。

 ギターのサウンドホールから広がる音は、どこか四畳半の響きがある。

 そういえば「四畳半フォーク」という言葉もあった。

 アコースティックギターの木のサウンドは、畳や、古い本棚や、よく馴染んでいる。

 古いアパートとも、よく馴染んでいる。

 馴染みすぎだ。

 四畳半ワールドとギターがリンクしているようだ。

 が、本来、ギターとはそういうものであったろうか。

 ・・仲良くなりすぎたかな。

 アメリカ生まれのギブソンのギター。

 広い荒野を夢みているかもしれないい。


「エポック社」'05.5/2

 先日、浅草に寄ったとき、偶然にも「エポック社」の前を通った。

 「エポック社」のことを、みんなは知っているだろうか。

 ぜったい知っているはず。

 「野球盤」「魚雷戦ゲーム」「スロットマシーン」「ボウリングゲーム」etc。。

 思い出せばきりがないほどだ。子供用ゲームメーカーの王様と言えば、まちがいなく「エポック社」であった。

 「エポック社」は、ゲームの箱の隅に載っていたロゴマークが実にカッコよかった。

 (エポック社のエポックって何だろうなぁ・・)と、いつも思っていた。

 それにもまして「epotuku-sha」という響きが良かった。最後の「社」という漢字が良い。

 僕が小学生の頃、「エポック社」は、常に憧れの存在であった。そして輝やいていた。

 中学生になり僕は「エポック社」の「エポック」とは画期的と意味だと知った。

 あれから30数年。。エポック社はどのような道を辿っていったのだろうか。

 その後の事は詳しくは知らない・・

 「野球盤」 「魚雷戦ゲーム」は作っている様子だ。

 今も「ボーリングゲーム」を作っているのだろうか。

 おもちゃ箱のすみにあるそのロゴ。どこまでも突き進みそうだったそのロゴ。

 まだまだ期待している。

 ああ、エポック社。。日本一のネーミング。

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