青木タカオ「ちょっくら・おん・まい・でいず」最近の事・過去ログ・'02-7月〜10月
「記憶力と珈琲カップ」10/29
以前、友達の家に遊びに行ったとき、本棚にコップがズラリと並んでいた。
「あれ、何?」
「あれねぇ、んー、あれわねぇ・・、コップ」
聞けば、台所に行くたびに、新しいコップをどうしても持ってきてしまうのだという。
「へーえ」と、そのときは半分驚いたものだった。しかし、、
それが今の僕だ・・。
ただの物忘れと言ってしまえばそれで終わる話だけれど、それには、それなりの理由も考えられる。
お客さん用の珈琲カップが、みんな同じで、いくつもあるのだ。
もし珈琲カップがたったひとつなら、きっと気付くだろう。
いくつも同じ珈琲カップが台所にあるから、永遠に繰り返してしまうのだ。
もし珈琲カップがひとつだったら・・、ホラ、繰り返してるって!!
しかし、そういう問題か? ただ単に、記憶力が悪くなっただけではないのか?
しかし、ここでもうひとつ、仮説を唱えておこう。
珈琲を飲みたいときっていうのは、記憶力がにぶっているときではないのか?
・・記憶力とカップの関係については、いまだちゃんとした定説がない。
「100円ショップ四畳半」10/26
先日、大きな100円ショップに寄ってみた。二階にあるのだけれど、その登り口の看板は実に地味だ。
それは大変に不思議。
昇ってみると、とても大きい。近くにも同じ系列の100円ショップはあるのだけれど、品揃えは比べものにならない。
びっくり価格とかいうレベルではない。日常生活に関係あることなら、基本的になんでも揃うだろう。
また階段を一階に降りながら、ひとつの夢を想像してみた。
(100円ショップのものだけで、部屋のもの揃えてみたいな・・。それも借りたばかりの部屋で・・ )
生活雑貨はすべてOK、そして衣類関係もなんとかなるだろう。問題は「食」だ。
ここまで揃えられるのだから、ぜひ「食」の方もめんどうみて欲しいものだ。
・・こんなのはどうだろう・・
食堂の食券メニューが、基本的に100円。「ごはんセット・100円」「おかずよりどり・100円」
あと、銭湯券があるといいなぁ。
そしてテレビは? 洗濯機は? まだ道は遠いようだ。
100円定期券。100円旅行。100円パソコン。100円マッサージ。100円病院。
100円教習所。100円英会話。100円ベット。100円お見合い。100円ウエディング。100円家賃・・。
「プラズママジック」10/23
電気屋の前でのフリーズ。
最近、プラズマテレビの前に立つと、自分が固まってしまう。
あの大画面の前に立つと、自分が子どもになってしまう。まるでショーウインドーの中のサキソフォンを見つめる、子どものようだ。(なぜ、エピソードはいつもこのシーンなんだ)
ああ、プラズマテレビ。
ああ、大画面で映画がみたい。
みたい。みたい。みたい。
700000円・・。
クソ!!
プラズマプラズマプラズマプラズマ・・。
電気屋の前で、呪文を唱えてみても、プラズマテレビは手に入りそうにない。
その昔、みんなはこんなふうに、テレビに憧れていたのだろう。
中学のとき、僕はマーチン・ギブソンのギターに憧れた。そして実際に買ってみたならば、本当に良かった。考えていたとうりに最高だった。
プラズマテレビにも、そんな匂いがする。
しかし700000円。
いつか、50000円くらいになる日が来るだろうか?
商店街のくじ引きで、当たらないかな。
「ああ、俺んち、プラズマあるよ」
三年後には、そう、言っていたい。
「長い夢と現実」10/20
手のひらに汗をかくなんてことは、ほとんどないのに・・。
徹夜したせいもあり、昨日は、夕方の5時まで眠ってしまった。すごく寝たのだ。そのあと、ちょっと起きてまた、横になり、夜は夜で普通の時間に眠ってしまった。
すると・・。
長編の夢を見た。ながーいながーいストーリーの続きのある夢だ。それももの凄くリアル。夢自身が今の現実から始まっているので、それを夢だと気がつくことは出来なかった。
どんどんと夢は進み、なにげないが、とんでもないことになってしまった。しかしそれは長いストーリーの続きであり、夢の中では確実に現実であり、もうくつがえすことは無理だったのだ。
(あ〜あ、もう戻れないのか、、)
どんなに考えても、元に戻る可能性はゼロだった。起きてしまったことは取り返しがつかない。
町の角の石に座り込み考え続けてみる。
(たったひとつだけ方法がある・・それは・・)そう思った瞬間に、キューンと布団の中に戻ってこれた。それから夢の中で出来上がった現実をひとつずつ、元に戻していった。
(あっ、良かった!!)。気つけば、手のひらに汗をかいていた。こんな事はまずない。よほど現実感をもって夢を見ていたのだろう。
しかし、物語はこれからである。
またさらに現実の現実を戻ってゆくと、ずっと前もそのまたずっと前にも、リアルな同じ内容の夢を見ていることを思い出した。たくさん眠ったときにそれは用意されているようだ。夢の中の出来事はもちろんちがう。でも全体的なストーリー展開は同じ。
♪そういことって、あるだろう。
ーーーまたまた物語は、これからだーーー
僕は布団の中のまどろみの中でひとつの現実に気が付いた。
そのリアルな夢のせいで、僕は普段の生活で、何が大切なのか、ちゃんと気が付いているのだ。つまり現実が夢に支配されているってことだ。
「神秘」10/17
10/15日は、何の日がご存じだろうか?
それは、僕の飼っている、みどり亀の一匹が砂ももぐり、冬眠に入る日である。
今年は、ずっと暑かった。10月15日の日も、秋としたら、暖かい日になった。みどり亀たちはその数日前まで、えさを食べまくっていたのだ。
(今年は無理だろう・・)
しかし、今年も10月15日に、亀は冬眠した。約束どうりだ。
何かがみどり亀をそうさせたのだ。暖かい、寒いの気温差ではないようだ。
亀の水槽にはカレンダーはない。そしてこの部屋にはカレンダーがはってないので、亀がこっそり横目で見るというのも不可能だ。
テレビの音は聞こえているかもしれない。
それとも、毎日、亀は日数を数えていたのか?
不思議だ。太陽と月の関係か?
そして、冬眠から目が覚めるのは、来年の3月27日頃(いやその日?)なのだ。
「いくつもの帰り道」10/14
久し振りに、ホント久し振りに、池袋に歌いに行った。ずっと、レコーディングで行けなかったのだ。
僕は歌うことよりも、その行き帰りの雰囲気をいつも感じようとしている。
ここ高円寺を出るとき、何か雑誌を一冊買って、ぼんやりと読みながら電車で向かうのだ。
そんなぼんやりとした空気を久し振りに感じて、駅まで歩いてゆくと、何か変だ。まるで時間が、20年前の歌い出した頃に戻っているのだ。
タイムトンネルは、ここにあった。
世界とのつながりをまったく感じない、たった一人の世界。そこには音が聞こえない。そして駅前へ行く。
気が付いてみれば、20年前と歩いている人は変わった。しかし、僕が今、18・19才だったら、同じ空気を感じているだろう。
電車の行き帰りの見えてくる光景は、20年前と変わっていない。気持ちもまた一緒のままだ。
「代々のラジカセ」10/13
「代々木のラジカセ」ではない。
最初は、普通のカセットだった。そしてラジオはラジオで別で買った。
そうそう、そのラジカセのことだ。最近は、MDCDが付いているものが多い。先日、使っているものが壊れて新しいのを手に入れた。古いラジカセは奥の部屋にしまわれた。。
ラジカセの交代だ。思えば、こうやって代々ラジカセの交代が行われてきた。
もう約30年近くもラジカセの旅を続けていることになる。ひとつのラジカセはだいたい3年で引退となる。使用頻度が高いせいもあるのだろう。
ちょっと思い出してみるだけで、何台も目に浮かんで来る。そのどのラジカセも懐かしい。全部、使いすぎて壊れてしまった。そして引退をしていった。
音楽を聴くとき、なぜかラジカセやスピーカーを見つめてしまうことは多い。新しいCDを買ってきたとき、そうやってラジカセを見つめてきた。
代々のラジカセは、それぞれに役目を担ってきた。僕のハートに近い所にあった。そのどれも忘れられない。忘れるわけがない。
忘れはしないけれれど、あまり思い出すことはない。
思い出すことはあまりないけれど、忘れたりはしない。
「忍者とプラズマテレビ」10/10
先日、DVDの映画ソフトを、買った。大作「ロード・オブ・ザ・リング」だ。
この映画は気に入って、二回も劇場に観に出かけた。
DVDは当然のことだったけれど、細長いビスタサイズだ。僕のテレビは12型なので、さすがに小さい。映画館での印象もあるので、下敷きくらいのイメージに見えてしまう。
「ロード・オブ・ザ・リング」は、やっぱり映画館が観るのがいい・・。せめて、せめて大きな画面のプラズマテレビだったらなぁ。
ああ、プラズマが欲しい・・・。
悲しくなったので、12型テレビの画面に顔を近づけて見てみたけれど、どうも調子良くない。
その昔、忍者は、障子に張り付いている虫が、巨大に見えるまで訓練したという。(ホントか?)
僕も頑張れば、12型のテレビでも、大画面プラズマのように見えるかもしれない。
回りから、固めてゆくか? 小さな客席を作るか? 暗くしてみるか?
「みどり亀の日々」10/6
ふと、見ると飼ってるみどり亀が、水槽から這い出ようとしていた。
まるで、鉄棒で体を上に起き上げるようにして、両手を水槽の端に付け自分の体を乗せようとしている。
ものすごい頑張りだ。
振り子の原理で、自分の体の重さで、またドボンと、水槽に落ちてしまうのだが、水槽から半分体が出ている姿は、僕をおののかせる。
飼い始めた頃のみどり亀は、とにかく動きが早かった。常に起きている間はくるくる回っていた。水槽の中にいるのに、外の世界とのつながりが理解できないようだった。透明なプラスチックのケースの外に行けると信じているようだ。
そんな時期が約3年ほど、さすがに最近はそれがわかったようだ。
そして体が大きくなり、二匹の亀が強力して、外の世界に出ようとしていた。
(下の亀はどうすんの?)
僕はどんなに亀が、水槽の外に憧れていたかを知っている。
「当たり外れ」10/3
先日買った、CDプレーヤーは、使って1時間で壊れてしまった。表示がバカになった。
最近の電化製品には不満だ。
今、CDラジカセが壊れている。先日まで完璧だった。CD-Rのレコーダーの読みとりも変だ。先日まで完璧だった。部屋の電話が変だ。押せないボタンがときどき現れる。先日まで完璧だったのに・・。
DATも調子悪い、テープデッキも変だ。MDウォークマンも原因不明で止まってしまう。CDウォークマンの充電が壊れている。。
困っちゃうんだよね・・。もう壊れるのが当たり前みたいで。
だいたいどうして壊れちゃうのか?
当たった電化製品は、なんだかそれだけで、幸せな気分になってしまう。
毎日使う、ウォークマンは一度も当たったことがない。
(ずいぶん長く使ったなぁ・・)
「本屋さん探し」9/30
本屋さんなんてすぐに見つかると思っていた。
昨日、上野にて本屋さんを探して歩いた。アメ横の方に渡り、大通りをまず歩いて、御徒町まで行き、アメ横の中に入り、また上野に戻って来たけれど、僕の目に入る限り「本屋」さんは見えなかった。
・・・「ABAB」にもなかった・・。
(いや、そんなことはないな)。そんなことはないはずだ。しかし探そうとして見つけられなかったのは事実。靴屋と服屋はあんなにあるのに。
今「本屋」さんは、どうなっているんだろうか? ここ高円寺でも、最近、小さな本屋さんがなくなってしまった。いろんな町の通りを思い出してみる。新宿とかも探しにくいかもしれない。秋葉原は、僕だって一軒しかしらない。
部屋の中を見回してみれば、実に本が多いことがわかる。しかし、町の商店の構成はそれとは比例していない。大きな本屋さんばかりに人が集中しているのだろう。
ひとつの町にこれだけ本屋さんが少なくなったのなら、ぜひ駅前のどこかに案内を付けて欲しい。区役所と同じレベルだ。
「音という生き物」9/27
僕には不思議でしかたがない。
ライブを聞きに出かけて、いつも思うことがある。
動物の動きには無駄がなく、「押し」と「引き」の繰り返しで、出来ているのに、演奏という「動作」には、なぜかその感覚が、あまり生かされていないように思うのだ。
生き物であるならば、クッションとなる「引き」の「間」があって自然なのだ。それが「生き物」としての、動作の「息」となっているはずなのに・・。
ライブに出かけると、ときどき「押し」(OUT)のみと、思われる演奏プレイを、聞くことがある。それは、生き物としての、動作に見えないのだ。
「音」という生き物に聞こえない。。
「どうして音が、生き物なんだ?」
「こんな夢やだな」9/23
夢にもテーマがあってもいいだろう。
友達数人と、郊外の町まで遊びに出かけた。そこまでは良かった。
なぜか僕は、写真を取りに帰ることになった。廊下を歩いていると、僕はパンツ姿ではないか? そんなばかな。それも下にずり落ちている姿だ。(ああ、恥ずかしい・・)
やって来た電車にのる。なぜか超満員だ。ぎゅうぎゅう詰めなんてものじゃない。人の上に人が乗っているのだ。それも「超快速」とか言ってる。壮絶な思いをして、新宿で降りると、なぜか駅から遠い。すぐさま駅員さんがみんなを呼び止めている。
お金が無くなったので、財布検査だと言う。みんなの財布をひっくり返し、ひとつの山へ。これでは、どれが自分のお金かわからない。。
もういいからと、新宿駅へ歩き出すと、一緒に行こうという足の不自由なおじさんに声を掛けられた。
これでは、いつまでたっても、先に進めないじゃないか!!
そんな中、目が覚めてしまった。こんな夢やだな。何か昨日、夢になるような事があったか思い出してみた。
・・そうだ、映画「害虫」のビデオを観たのだった。
「どさんこラーメン」9/20
北海道味噌ラーメンは独特の位置にある。
と言っても、ラーメンを語るだけの実力もないような自分ではあるが・・・。さあ、もう一回。
北海道味噌ラーメンは独特の位置にあり、昨今のラーメンブームの中でも、その存在感をアピールし続けている。僕も時々、ふらっと入りたいと思う。東京に来て初めて入ったラーメン屋さんも、北海道味噌ラーメンの店だった。
先日、たまたまゆく町で、夜、ふらふらと「どさんこチェーン」の店に入った。寒かったので、味噌ラーメンが食べたいと思ったのだ。
入ってみると、なんとも癖のある、おやじさんがやっている店で、見ようにもよくわからないメニューの紙が壁中に貼られている。その区分がたいへんに細かい。「みそコーン」「みそバタコーン」etc・・
おやじさんは、それなりに忙しそうだ。たぶん20年以上は、ここでお店をやっているのだろう。この店の雰囲気からもわかるように、とてもラーメン独立精神に満ちた野心家というふうではなさそうだ。
「北海道味噌ラーメン」のチェーン店のおやじさんたちは、同じような人生観があるような気がする。
それは、まちがっているかもしれない。しかし、なんだか、同じような店内の感じになっているようだ。
僕もまた、それを望んで店に入ってゆく。妙にこぎれいになってなくて、そこがいいのだ。そして、普通とも思えるラーメン業のおやじさん。
「はいよ、お待ち!!」
その言葉には、同じ立場からの優しさが感じられる。
このラーメン業界激戦の時代でさえも、軽く乗り越えそうな、不思議な「北海道味噌ラーメン」の世界だ。
「途中の服」9/17
僕の場合、一年中、基本的に長袖のシャツだ。
残暑も終わった頃、着る服が微妙になる。なんともちょうどいい服がない。なぜならば、いいジャケットがないからだ。
秋本番ともなれば、コーディロイのシャツでいい。もう少し待てば、ハーフコートのジャケットも着れる。しかし夏の終わり、秋のはじめの肌寒さの日は、ハーフコートはまだ早い。
「じゃー、ジャケット着ればいいじゃん」
あることはある。しかしどうも中途半端で、着ることが出来ない。着ることが出来ないと思うので、厚手のコーデュロイの服を着てきた。しかし、それもちょっと早いかなと思える、気温22・3度の頃。
気温が20度になれば、みんな「もう、すっかり秋だ・・」と思ってくれる。少しくらいの厚手の服も「秋だしねぇ」ということになる。そうなるのが理想だ。
ここには、ジャケットが、数えれば10枚は出てくるだろう。しかし、ここ10年くらいは、ほとんど袖を通していない。
かわいそうな、ジャケット。そのチャンスとなる、22・3度のときだけが勝負だなんて。(ふーっ)と、ため息をつき、また一年待つことになるなるなんて。ひどい、ひどいよ。
「幻聴電車」9/12
誰でもがそうなのか・・?
帰りの電車で、疲れと寝不足からウトウトとすると、みんなの話声がそのままの声で、別の話になってしまうのだ。
これは、幻聴か妄聴か?
半分夢うつつの状態の中、斜め前の女子校生の話声が、僕の悪口になっている。サラリーマンのみなさんの話声もみんな何か僕の事を言っている。
(そんなはずはない。あるわけがない)
目が開くと、女子高生もサラリーマンも普通の話に戻っている。(幻聴だ・・) そして、またウトウトっとすると、悪魔の話に早変わりする。
・・悪魔の話声・・。
「飼ってる亀の小さな話」9/8
飼ってる二匹のみどり亀の大きさに差が出てしまった。
と言ってもまだ、5センチ弱くらいなものだが。。まあ、最初から少しの大きさの違いはあった。しかしこの夏、一気に差が出た。
コレは、シッパイだった・・。
同じようにエサをあげていたのに、なぜ差が出てしまったのか? 考えられることが、ひとつある。
一匹がバカなのである。
前にも書いたことがあると思うが、エサをくわえたままで、またエサをもらおうとするのだ。その結果は、亀自身「?」になってしまうのだ。
(あれれ、エサ欲しいのに、このくわえているエサはどうしたらいいの?)
・・言語能力さえ、ないかもしれない。
そして、口を開くと必然的に前のエサが、口から墜ちてしまう。バカだ。みごとなバカだ。
水槽の中に浮かぶエサ。もう一匹が、それをパクリ。
で、必然的に、大きさに差が・・・。
・・・・・・・・・・・・・
それは小さな小さな話。
みどり亀の一匹が、エサをもらおうとやってくるとき、大きなみどり亀が、もう一匹を、手で押しのけたのだ。ひっくり返る、ちょっと小さめな亀。ひっくり返る、ちょっと小さめな亀。
「大きな古時計・3」9/3
もっと堂々と、みんな「大きな古時計」を歌おうよ。
(そうか、照れてるんだな・・)それならば・・、
・・それならば、考えがある。
世界的に「おじいさんの古時計DAY」というのを、作るというのはどうだろうか?
その日が来たら「おじいさんの古時計」を世界中の人が歌うのだ。街じゅうで、流れている「大きな古時計」。まるで、クリスマスの日のように。。
そうすれば、誰もが照れずに「大きな古時計」を、歌うことが出来るだろう。録音だって、名目が立つ。
世界中のシンガーの「大きな古時計」が聞きたいな。ヴァン・モリソンとか、ポール・マッカトニーとか、ジョー・コッカーとか・・。
僕だって、録音したい。みんなも録音しよう。そしてその日に、次々流すのだ。そして、その日は「おじいさん、おばあさん、そして古時計」を大切にする日にしたい。
日付はずばり、6月12日だ。10月10日でも、いいな。
「大きな古時計・2」8/31
先日のエッセイで「大きな古時計」を、日本のソウルシンガーが歌っていると書いた。
たまたま歌っているんだと思ったけれど、実は新曲なのだと知った。新曲?
そうか・・。それならそれで、ここで少し盛り上げないと、美味しいところを全部、持って行かれてしまいそうだ。
現在のところ、そのソウルシンガーのバージョンが、いちばん新鮮な位置にあるだろう。ここは思い切って、数社から出して、(こっちもいいな・・)って、思うようにしないと、やばい。みんな急げ、急ぐんだ。
でもなぁ・・。誰がいるかなぁ。。まず、対抗できるシンガーを見つけないと。美空ひばりとか、数多い録音の中で、「大きな古時計」を歌っていないだろうか。 江利チエミなら歌っていそうだ。
「北島三郎、愛唱歌を歌う」のCDとかないかな。全国時計協会合唱隊とかね・・。
「大きな古時計ファン倶楽部」とか・・。
実力のあるシンガーに依頼しても、「ちょっと照れますね〜」と、言われてしまう可能性大だ。ならば、人ではなくて、柱時計のボンボン鐘の音を、ドレミでならべて、古時計の歌にしてしまう。とか・・。
ここはもう思いきって、「大きな古時計」だけの、オムニバスCDを作るしかない。最初に発売された、日本のレコードとか、フランクシナトラとか(歌っているか不明)・・。
「大きな古時計」8/28
とある日本のソウルシンガーが、「大きな古時計」を歌っているプロモーションビデオを見た。
演奏のアレンジは、まったく普通なのだけれど、なんだか、とてもハートが伝わって来た。これは何なんだろう。歌い方が、ソウルチックだからだろうか?
「大きな古時計」を現代の歌手が、歌っているのは何度も聞いた。いつも(それなりにいいな)とは、思ったけれど、もうひとつしっくり聞こえてこなかったのだ。しかし今回は、はまっていた。なぜだ?・・
その理由は、予測もできないが、いろんなシンガーに「大きな古時計」を歌って欲しい。そして聞いてみたい。だって、ちゃんと「歌」にできるシンガーは、そんなに多くないと思うからだ。むずかしい歌なのだ。
松鶴家千とせは、かなりトップにゆくだろう。
浜崎あゆみも歌いこなしそうだ。
サンコンさんも、いい線ゆくだろう。
ゴスペラーズは、歌い過ぎてしまうだろう。
桑田佳祐は、おしいだろう。
森繁久弥は、一番を二回歌うだろう。
「フランダースの犬」8/25
昭和44年発売の「フランダースの犬」の本がここにある。
そこに描かれてあるイラストのフランダースの犬は、茶色でさえない犬だ。そしてネッロ(本ではそう呼ばれている) は、とても貧乏そうな少年。一般的な印象では、パトラッシュは白、ネロは愛らしい少年のイラストだった。
(そうだよな、ストーリー的には、貧乏少年だし、しょっちゅう道に座り込んでるし・・)
TVの影響とは、強いものだ。実際の物語ではないとしても、やっぱりある程度は、服や犬が汚れていないと、この話は、終わりに向かっていかない。
最近、漫画で連載されている「宮本武蔵」もまた、「武蔵」とても美形な青年として描いている。残されている絵を見ても、かなり無骨な男だったように見えるのだが・・。これが現代というものなのか・・?
服をかけるホックが、柱に付いて並んでいる。やって来たみんなは、あたりまえのように服を掛けてゆく。
さて、主人公の服のホックは、ひとつ残っているのか、それとも全部うまっているのか、あるのに壊れているのか。
「クソ!! 考察 」(8/16)
「クソ!!」はメジャーな言葉である。
頭に来たときに、たいがいは発せられる言葉だ。
「クソ!!」=「糞!!」=もちろん「体から出る有名な異物」である。
漫画の吹き出しにも、よく登場する「クソ!!」
ほとんどの日本人が、使っている、この「クソ!!」という言葉。もちろん「糞」のことだ。
さて「クソ!!」とは、いかなる言葉の使いようなのか?
1.(おまえなんて、最低だよ。役にもたたない。まるで糞だ!!)
2.(俺は今、何やってんだ? まるで糞の気分だ!!)
3.(終わった・・。ジ・エンドだ。糞だ!!)
4.(糞!! こんな言葉でも、言わないともう、気分がやりきれないよ)
5.(結果が、これか? まるで、糞じゃないか? )
と、まあ、こんな感じかな。実際の発音は、、
「クッ〜ソ〜ウ!!」だ。
男女ともに、これだ。「糞」だ。メジャーな言葉だ。
さて、この「糞」はもしかしたら「クサイ」からの変化か?
・・あっ、もうひとつ「クソ!!」の意味が見つかった。
6.(道に落ちている、動物の「糞」を誤って、踏んでしまったとき。)
「糞踏んじゃったよ〜っ、クソ!!」
「カレーの日」(8/13 )
先日、カレーを鍋いっぱいに作った。
だから続けてカレーである。今は夏なので、早めに食べないと、と思ってしまったのだ。
いくらカレー好きでも、毎食2杯ずつは厳しい。でも、まだ半分残っている。
(また次も食べないと・・)
次の日、アルバイト中、何が食べようと思い、なぜかカレー屋に入ってしまった。注文したあとで、失敗したと気が付いた。
(なぜだろう?・・)
その日のカレーは、クレスチョンのカレーとなった。
その夕方のことだ。友達が夕食に誘ってくれた。友達は、どうしてもカレーを食べたいという。店に入ってから、昼もカレーだったことを思い出した。
(そういう日なのか?・・)
いや、頭の中から、カレーの記憶が消えているのだ・・。
「チュウチュウアイスの先っぽ」(8/10)
ここ数日、チュウチュウアイスを食べている。バイト先の冷蔵庫にあるのだ。
細長い先の部分を、歯でちぎる。それは道での話。ちぎったビニールの先の部分が、道のどこかに飛んでしまった。
道に物を捨てるのはあまり好きではないので、とりあえず探してみる。目をこらしてみる歩道。
・・この光景は、よくテレビでみたことがある。そう、コンタクトレンズを探しているシーンだ・・
「どうしたんですか?」「ええ、ちょっとコンタクトレンズを・・」「それは大変ですね、一緒に探しましょう」そして集まってくる人。
「どうしたんですか?」「ええ、ちょっとチュウチュウアイスの先っぽが・・」「それは大変ですね、一緒に探しましょう」とは、絶対にならないだろう。
同じシーン、似てる物。でも、違いすぎだ。
今日、チュウチュウアイスの先っぽを探した人は、全国でどのくらいいただろう。
「蝉の先生」8/6
8月だというのに、杉並区高円寺北のこの場所では、まったく蝉が鳴かない。
近くの公園を通りかかると、時々鳴いていたりするくらいだ。
(蝉の声のない朝ここにあり)
想い出してみれば、夏の朝には、蝉がいつも鳴いていた。
蝉の方が早起きである。。
蝉は働き者である。。
蝉は時間を急いでいる。。
蝉には、陽が昇ったら、もう一日の始まりである。。
蝉は頑張り屋だ。。
とか、小さな頃、ふと、思っていた。蝉こそ、人生の先生と呼ぶにふさわしい。。
「たこの舞」8/2
先日、朝の電車が遅れた。それはいつものことである。
お茶の水の乗り換えでは、ホームに人がいっぱい。秋葉原ではどうなってしまうのだろう。
地獄の秋葉原。これでもか言うほど人が乗ってくる。
(おい、もう人が乗れないよ!!)
それでも乗ろうとする人たちおかげで、ギュウギュウじゃないか。
そして両国。ここは意外と朝は人が降りる。電車のみんなはいっせいの外に出る。そうでないともちろん、奥の人は降りれないのだ。
僕の隣に、メガネの小太りのサラリーマン風のおじさんがいた。そのおじさんは、先の駅で降りるつもりだったのだろう。吊革につかっまったままで、降りようとしないのだ。
(おーい、無理だよ!!)
おじさんは、吊革につかまっていたけれど、口を半分あけ、クルクルと回りながら、電車の外に追い出されていた。それはまるで、たこの舞だった。
「コタツの夢」(7/30)
おとといから、富山の友達が泊まっている。
で、その間は奥の部屋のコタツ兼テーブルの方にいつも眠ることになるのだ。
暑くて寝苦しい夜の明け方、僕は夢を見た・・。
そこは、どこかの都心の4・5階建てのビルの並ぶところである。例によって僕は誰かに追われていた。追われ追われて、ビルの屋上まで来てしまった。
(もう、これでおしまいかぁ・・)
追いつめられたとはいえ、よく見ると、幸運にも隣のビルの屋上になんとか飛び移れそうなのである。(これはラッキーだ!!)。そう思いながら僕は、隣のビルに飛び移ろうとした・・。
隣のビルに飛び移ろうとした時、どこからか、誰かの声が僕を引き留めた。
(そう、簡単にはいかないよ!!) 「それは、いったい?」
全然言われた意味がわからなかったが、僕は意を決して、隣のビルの屋上へと、飛び移った。
その時だ・・。
なんだか異次元の中に巻き込まれてしまった。
(うわっっっっ!!)
それは、直感がわかったことだが、隣のビルに移るということは、隣のビルの空間にコピーされるということだったのだ。なぜコピーなのか、よくわからない。
6階は6階、4階4階、3階は3階・・。そのコピーされている異次元の瞬間、僕自身の行き場が無くなってしまった。
ビルからビルへのコピー。僕はその時、とても平たい、薄っぺらの場所を体を平たくして通り抜けることになった。そして無理矢理の自分の空間移動。。その恐怖・・。
(うわっっっっ!!) そして、目が覚めた。(すげぇ、怖かった・・)
10分くらいして、やっと気がついた。平たいコタツでの夢だった。
「せつない亀」(7/26)
小さなみどり亀を二匹飼っている。
小さな棒状の餌を、直接指から食べさせているのだけれど、一匹が最近変だ。
今までは、すぐに食べてから、もうひとつとというふうに食べていたのだけれど、最近、一匹がずっと餌をくわえたまま、また欲しがるのだ。
自分が餌をくわえているので、新しい餌を新しくくわえることが出来ない。ついには、くわえていた餌をはなしてしまう。せつないじゃないか・・。
なぜ気付いてくれないんだ。なんとなく、その理由はわかる。・・もう一匹に餌をあげている時間が我慢できないで、顔を出してしまうのだ。
餌を前にして、口があけられなくて、どうしていいのかわからない、亀くん。想い出してごらん。ずっと、君がやってきたことを、忘れてしまったのかい?
今少し待ってみるけれど、このままでは、餌のあげかたを変えなくてはいけない。
「安くて大きなスイカ」(7/21)
昨日、スイカを買った。商店街の真ん中あたりの安い八百屋さんで。。
四分の一で、380円というのだからかなり安い。そして買って帰り、食べてみたのだけれど、正直言って美味しくスイカとはいえなかった。まあ、値段から言ってもしかたがないのだけれど、あんまりだった。
「スイカなんて、そんなにかわらないよ〜」そう、おっしゃる方々もいるだろう。。
僕はスイカにはちょっと詳しい。その八百屋さんにスイカの産地の箱を見せてもらえば、どのくらいのレベルなのかすぐわかる。
しかしなかなか、産地まで載せているスイカは売っていない。(1個売りならシールも張ってあるし、わかるのだが・・)「あま〜いスイカ」と書いてあるケースはある。昨日のスイカには書いてなかった。
たしかに・・、安くて大きなスイカは、売れるかもしれない。高いスイカの方は売れないかもしれない。しかしスイカは見た目はかわらないけれど、おいしさがかなり差がでる。値段も差が出る。
もう少し、薄くてもいいから美味しいスイカが食べたかった。これは、僕が八百屋に素人だから選べなかったのだろうか? 実は大きなスーパーに、いい銘柄のスイカが入っているのをよく見かける。町の八百屋の方が、いいスイカであって欲しいのだけれど。。
僕は日本中のスイカを、市場で働いていた頃に、食べに食べた。食べるごとに、そのスイカの味を比べて覚えていったのだ。8月に入ると、甘いスイカの種類も出てくる。まあ、そのスイカなら、それなりに美味しいだろう。
最近は、なんでも価格破壊になって、安くてもおかしくないような錯覚に襲われてしまうけれど、スイカだけは別だ。安いスイカに、美味しさは求められないだろう。
美味しいスイカは実は高い。なんと言っても山形のスイカは最高だ。「尾花沢」のスイカは日本一と言われている。誰でも一度は、「尾花沢」のスイカを食べてみるべきだ。色からして美味しそうだけどね・・。
まあ、細かいことを言ってもしたかがないので、「あま〜いスイカ」と書かれているのを信じてみようか。
「時間」(7/18)
どうしよう・・。
確か、昨夜は1時半に眠った。そして5時半前には、起きてしまうのだけれど、ついさっきまで、起きていたようだ。布団に上には、ギターと譜面。そのまま横になってしまったのだ。
僕が今朝、悲しいのは、昨日と今日がつながっているように思えたことだ。
これは困る・・。
よほど疲れていたのだろう。しかし、4時間は寝てるしなぁ。これは、だんだんと自分の体内時間感覚が、短くなっているのではないか。
昨日と今日がつながるなんて、まるで48時間、起きているようじょないか。いや、ちょっと計算がおかしい。
「大きな声」7/15
はじめてのことだったが、京浜東北線に乗って、終点の「大船」まで行った。
大森を過ぎて、若者が乗ってきたのだけれど、なんだかみんな、話声が大きかった。気のせいだろうか。それとも、その日の僕の気分が、敏感だったのだろうか?
しかし、どうして、すぐ近くにいる人に大きな声で話さなくてはいけないのだろう? だぶん学校文化の延長線上にあるからだろうとは思う。
よく言われることだけれど、ファミリーレストランに行くと、若者たちが集まっては、教室のように騒いでいる。全然、他のお客さんのことは気になっていないようだ。
この姿は、全国共通変わらないだろう。人間とはそういう人種であるかのようだ。いや、世界共通かもしれない。気持ちわかる・・しかし、なぜ大声で話すのだろう。それはみんなひとつの解けない魔法にかかっているようだ。
いや、それは本当か? 年取った僕らの方が、何か魔法にかかっているのかもしれない。
「暑がりの人」(7/12)
暑い・・。毎年、同じことを言っているが・・。昨年は、6月の末が暑かった。
友達に暑がりの男がいる。僕はどちらかというと、暑がりではない。汗もそんなにはかかない方だ。
その友達が、僕の部屋に来ると、扇風機の前にドカッと座り、ボタンを「強」にする。そして一言。
「よく青木さん、我慢できるね。信じられないよ!!」
よほど彼には暑いのだろう。・・・これは夏の話。
冬になると、僕は厚着になる。そして彼は、いつも言う。
「なんでそんなに着るんだよ。信じられないよ!!」
ただ単に体温の差だろうか? 僕が新潟生まれだからだろうか?
「麦茶の気分」(7/9)
もう、知ってるかな? 最近、サントリーから、『涼屋』というペットボトルの麦茶が出た。
どう味がちがうのかは、よくわからないのだが、これがうまい。
いままでにない、いくつかのアイデアがあり、はじめはびっくりした。江戸時代の柄の手ぬぐいが、巻いてあるように見えるのだ。つや消しで印刷されたプラスチックがそう思わせてしまう。それから紙をひねって作った紐が飲み口に付いていて、それも本物の細縄のように見える。
手ぬぐいの柄というのは、今まであまり気にしなかったけれど、なかなかに大胆でいい。夏の日に飲む、麦茶と手ぬぐいの柄との関係。うまく説明できないが、そこには関連性があるに思う。
麦茶→ジュースより安い→(この一杯は安いけれど、夏だし、これでいいんじゃないの?)
手ぬぐいの柄→ちゃんとしたデザインより雑に見える→(まあ、手ぬぐいだしこれでいいんじゃないの?)
そんな共通感があるように思える。考えすぎか・・。
「ある日30年」(7/6)
いつも通っているのに、ある日突然に気がつくことがある。もちろん知っているのだけれど、あらためてそれに気がつくというものだ。それはよくある話。しかし20年とか30年たったあととなると、それは、それなりに意味があるように思える。
最近、30年前の録音のCDを聞いている。ながい間、廃盤になっていたが、最近CD化されたのだ。サウンドは、みごとに30年前の音。本人は意識しているということではないだろう。
当時もそこそこにヒットしたと思われるが、「誰々に似てるね」と言われて、そのまま過ぎていったにちがいない。しかし楽曲の良さからか『幻の名盤』と言われてきたのだ。
と、考えてきてみると、今こうして、僕の耳に届くためには、あらかじめ30年の時間が用意されていたようにも思える。
以前住んでいたアパートの部屋のガラス戸の模様を、10年間毎日、目にしていたのに、その模様に気が付いたのは、そのアパートを出る少し前だった。
いろいろとタイマーセットされているものがある。10年、20年、30年・・。彼らはそーっと静かにそこにいてくれる。
「静かな朝」(7/3)
ときどき柱時計が止まっていて、とても静かな朝になるときがある。
(♪しずかだねぇ・・う〜うう・・)と、つい口ずさんでしまう。
静かな朝と言えば、小さな頃、田舎の家に遊びに行ったときの朝だ。あのなんとも言えないヒンヤリとした感じ。にわとりの鳴き声。古い家屋の匂い。庭にある池の揺れてる水面から続く、田舎道とそこに見えているうすく煙っている山。
ふと目覚めただけでも、そこから広がる空気を感じた。そしてすっと起きあがり、虫探しに出かける楽しみ。
ここ東京にいて、365日、朝、目が覚めても、あの感覚は味わえないだろう。
東京で目が覚める。そのとき、寝床から駅まで道を想像したり、ホームの空気を感じたりすることはない。と、言うか、駅の空気がこの部屋まで忍び込んでくることがないのだ。
なぜなんだろう。窓を閉め切っているせいかな・・。
ずっと、田舎に住んでる人は、東京では、別の目覚め方をするのかもしれない。それも面白い話だけれど。