欧州環境庁(EEA)の予防原則報告書について

―早期警告からの遅い教訓―

Late Lessons from Early Warnings The Precautionary Principle 1896-2000

 

1.はじめに

2.EEA報告書の目的と研究方法

3.事例研究から得られた12の教訓

4.EEA報告書における「不確実性」の定義

5.おわりに

 

東 賢一

 

1.はじめに 

欧州における「予防原則」への取り組みについて、これまで大竹千代子氏が、過去に予防原則が記述された法律や文書などの関連情報1)20002月に公表された欧州委員会(EC)のコミュニケーションペーパー2)、フタル酸エステル類や内分泌かく乱化学物質の規制に対する予防原則適用の取り組み状況3)20015月にドイツで開催された「欧州連合(EU)における予防原則適用」に関するワークショップの報告書4)5)を本誌で紹介された。欧州における予防原則に対する取り組みは、予防原則の適用が、技術革新と環境及び健康影響削減の双方に対してバランスよく成し遂げられるよう努力されている。また、科学的解析と予防原則を分離することは望ましくなく、たとえ高い不確実性や曖昧さをもつ多くの状況があったとしても、リスクの範囲や大きさについて利用可能な信頼できる情報を見出すために、科学的リスクアセスメントの手順を無視すべきではないこと、そしてその手順を行ったうえで、予防原則を適用するよう提唱している5)

このような中、2002110日、欧州環境庁(EEA)が、政策決定における「予防:precaution」の概念の利用、あるいは無視に関して、1896年から2000年までの14の歴史上の出来事を解析し、そこから得た12の教訓をまとめた欧州環境庁環境問題報告書No.22「早期警告からの遅い教訓:予防原則1896-2000 (Late lessons from early warnings: the precautionary principle 1896-2000 )6)7)(以下、EEA報告書)を公表した。

EEA1990年にEUによって設立され、200211日現在、15EU加盟各国を含む29の欧州諸国が加盟している。数ヶ月後には、ポーランドとトルコの加盟によって計31カ国となる予定であり、欧州地域の環境保全と持続可能な開発を支援することを目的としている7)

そこで本報では、EUよる人と生物の健康及び環境政策への予防原則適用に関する最新の動きとして、EEAによる予防原則報告書の概要を以下に紹介する。

 

2.EEA報告書の目的と研究方法

生態系や私たちの健康に対する危害の増大が、環境汚染化学物質などとリンクしている可能性が確認された際の政策決定では、その決定に対する「予防」の概念の適用が、科学的不確実性、曖昧さの発生、原因の複雑さなどの理由で見送られ、被害をいっそう拡大させる例があった。この報告書では、そのような事例において、政策立案者がどのように予防の概念を認識し、それを適用したか、あるいはしなかったかについて研究している。

そして、EUEEA加盟各国が今後の環境保全と持続可能な開発を行うにあたり、信頼できる有効な政策を立案するために必要な情報を教訓としてまとめ、実際に予防原則を適用するにあたって本質的な捉え方が欧米諸国で一致していなかった予防原則のキー用語である「不確実性」の定義を提案することを目的としている。

事例研究として解析に用いられた14の歴史上の出来事は、労働者・一般市民・環境に対して生じた有名なハザードであって、現在ではそれらの出来事に対する規制当局や市民社会のアプローチと結論がわかっている事例が選ばれた。以下にその事例を示す。

 

14の歴史上の出来事

1)      漁業の崩壊:乱獲

2)      放射線:早期警告と影響の遅れ

3)      ベンゼン:欧米の労働基準設定における歴史的認識

4)      アスベスト:神秘的な力から邪悪な鉱物へ

5)      ポリ塩化ビフェニル(PCBs)と予防原則

6)      ハロゲン含有炭素化合物:オゾン層と予防原則

7)      ジエチルスチルベストロール(DES)物語:胎内曝露の長期影響(妊婦に対するDES使用の認可)

8)      成長促進抗生物質:常識への抵抗

9)      二酸化硫黄:人の肺の保護から遠く離れた湖の回復まで

10)  ガソリンの添加剤として使用される鉛代替品メチル-t-ブチルエーテル(MTBE)

11)  五大湖の化学物質汚染における予防原則と早期警告

12)  トリブチルスズ(TBT)防汚剤:船、巻貝類、インポセックスの物語

13)  成長促進ホルモン:予防原則あるいは政治的リスクアセスメント

14)  「牛海綿状脳症(BSE)1980年代〜2000年:繰り返しの「安全保証(安心)」がどのようにして「予防」をだめにした

 

事例研究の研究者らは、それぞれの事例に関連した専門家が選ばれ、例えばハロゲン含有炭素化合物によるオゾン層破壊に関しては、オゾンホールを発見した一人Joe Farman氏が担当した8)。そして各事例研究の担当研究者には、次の研究課題が課せられた。 

4つの研究課題

1)      潜在的な有害性に関する信頼できる科学的「早期警告」の最初の時期はいつであったか

2)      規制当局などによる主なリスク削減活動や不活動の時期と内容はどのようであったか

3)      規制当局などによる活動や不活動の結果生じた費用/便益は、関連した集団の間の費用/便益の分布と時期を含めて、どのくらいであったか

4)      これらの事例研究から導かれ将来の政策決定に役立つであろうと思われる教訓とは、どのようなものであったか

 

3.事例研究から得られた12の教訓

EEA報告書によると、人の健康や環境へのハザードに対して予防的アプローチが使用された最も古い事例は、1854年にロンドン中心部で発生したコレラの集団感染であった。5年前の1849年に公共用水への汚水混入とコレラ感染との関連性がロンドンの内科医John Snow博士によってすでに発表されていたが、まだ疑いの域を超えていなかった。そのため1854年の集団感染発生当時、英国内科医師会は、大気からの感染経路と信じていた。しかしながら、John Snow博士の強い勧告に市の規制当局が反応し、汚水混入が生じていると思われる送水ポンプを閉めることによって急速に感染者を減らすことができた。

しかしながら、実際に予防的アプローチが環境政策において取り入れられるようになり始めたのは、1974 年の西ドイツ(現、ドイツ)の大気汚染防止法において、予防的に環境保全を行うことを目的として取り入れられた「Vorsorgeprinzipvorsorge (予防)princip (原則)」からであった。そしてその後、国際社会において、そのアプローチが徐々に受け入れられるようになり、1992年の国連環境開発会議(UNCED)で発表されたリオ宣言原則15において、予防原則が明文化された。

先にも述べたように、EEA報告書の事例研究に課せられた最初の2つの課題は、信頼できる科学的な「早期警告」の最初の時期と、規制当局などによる主なリスク削減活動や不活動の時期と内容であった。そのため予防原則が国際社会の環境政策で受け入れられ始めた1970年代以降との関連性は、1つの重要なポイントとであった。

EEA報告書の14の事例研究では、放射線、ベンゼン、アスベスト、PCBsDES成長促進抗生物質、二酸化硫黄、MTBE、五大湖の化学物質汚染など、潜在的な有害性に関する早期警告が1970年代以前にあったとされる事例と、ハロゲン含有炭素化合物、TBT成長促進ホルモンBSEなど、それ以降にあったとされる事例があった。そのため1970年代以前に早期警告がなされた多くの事例において、このような早期警告の時期と、規制当局などによる有効なアクションがとられた時期との隔たりの長さが、数十年、あるいは1世紀にわたることがあった。そして特に、アスベスト、PCBs、二酸化硫黄、五大湖の化学物質汚染の事例では、潜在的な有害性に関する有用な情報が十分であったにも関わらず、また短期的な経済と政治への影響による理由から、それらの早期警告が政策決定者に適切に認められず無視された、とEEA報告書は述べている。

そしてまた、予防原則が国際社会の環境政策で受け入れられ始めた1970年代以降であっても、明確な予防アクションが十分に行われておらず、特に最近では、予防原則の定義に関する議論がEUと米国間の戦いとして位置付けられることがあるEEA報告書では述べている。

次にEEA報告書の事例研究に課せられた課題は、規制当局などによる活動や不活動の結果生じた費用/便益の内容であった。これらの事例においてとりおこなわれた公共政策は、危害発生後に提起された早期警告が無視され、人の健康と環境に対して費用のかかる予期せぬ結果をもたらし、アスベストの事例では数百人から数千人もの被害者が発生し、北米の漁業の崩壊では乱獲により地域社会に壊滅的な打撃を被った。しかしながら、費用/便益分析に関しては、事例研究者の多くが個々の専門分野における技術者であり、経済的費用/便益分析や規制当局などによる活動の損得を評価できる専門家でなかったため、彼らにとって最も困難な課題となった。しかしながら、この分析に取り組むことは、第4の課題で課せられた教訓を導くために避けることができなかった。そのためEEA報告書作成プロジェクトは、この分析の最初の構想と、予防に関連した問題に取り組むにあたっての包括的な構造を提供した欧州科学技術監視室(ESTO)の「技術的リスクと不確実性に関するマネイジメント(Technological Risk and the Management of Uncertainty)プロジェクト(ESTOの支援のもとECがこのプロジェクトを立ち上げた) 9)の研究を利用した。そして、これら14の事例研究から明らかとなった重要な課題の大半が、次の12の教訓として導かれた。

 

12の教訓

1)      技術評価と公共政策立案において、不確実性及びリスクと同様に、「無知:ignorance」を認識し、それに対応すること

2)      長期にわたる環境と健康の適切なモニタリングと、早期警告についての研究を提供すること

3)      科学的知見における盲点とギャップ(gap)を確認し、それを減らす作業を行うこと

4)      学習に対する学際的障壁を確認し、それを減らすこと

5)      規制評価において、現実の社会状況が十分考慮されていることを保証すること

6)      潜在的なリスクとともに、要求される正当化と便益を体系的に精査すること

7)      評価中の選択肢とともに、ニーズを満たすための一連の代替可能な選択肢を評価すること、そして予期せぬ費用を最小限に抑え、革新による便益が最大限となるよう、さまざまな順応性のある技術をより強力に促進すること

8)      評価においては、関連する専門家の知識と同様に、専門家以外の人たちや地域住民の知識の活用を保証すること

9)      さまざまな社会集団の仮説と価値観を十分に考慮すること

10)  収集中の情報や意見に対して包括的なアプローチを実行し続けている間、当事者からある一定の独立性を保つこと

11)  学習と行動に対する制度上の障害を確認し、それを減らすこと

12)  懸念に対する正当な理由がある時は、潜在的な有害性を減らす行動によって「分析による停滞」を避けること 

EEA報告書の事例研究から得られた中心となる教訓は、我々の知識に限界があること、つまり「無知」に対する認識の重要性であった。そのため予期せぬ驚きや影響が生じることを避けることはできず、このような知識の限界を認識することは、その後の判断において、より一層注意と審議を要求し、現在の利用可能な科学的知見に対してより謙虚になれる。そしてその結果、より科学的な研究領域、情報や知識、支持者をさらに含んだ規制評価の広がりをもたらすことになる。つまり規制評価過程は、最も簡単で直接的な影響だけに注目するのではなく、合理的に予想可能な広範囲の状態や影響に対しても注意を広げるべきであって、たとえそれでも驚きや影響を予見できない可能性があることを認識しなければならず、それが「予防」を意味する、とEEA報告書は述べている。そして得られた教訓の多くは、このような無知の認識と規制評価過程の広がりに関係しており、これらに対応することは一見不可能な要求に思えるが、事例研究で得られた12の教訓によって、これまで以上にそれが可能であろうとEEA報告書は述べている。

 

4.EEA報告書における「不確実性」の定義

主に予防原則は、科学的「不確実性」に対応する手段とみなされているが、先に述べた「無知」に対する認識の重要性を含め、事例研究から得られた12の教訓に基づいて不確実性の本質的な捉え方を改めて提案する必要があることから、その中でときおり混同されている「リスク」、「不確実性」、「無知」の3つの個別の概念と、それぞれに対応した行動概念を、不確実性と予防の用語の分類としてEEA報告書では提案している。以下にその内容を示す。

1)      リスク(未然防止対策:Prevention

  • 既知の影響と既知の可能性(アスベストによる呼吸器疾患、肺がん、中皮腫:1965年の時点)
  • 既知のリスクを削減するための行動(アスベストダストへの曝露の排除)

2)      不確実性(予防的な未然防止対策:Precautionary prevention

  • 既知の影響と未知の可能性(動物の飼料中の抗生物質とそれに対する人の抵抗力:1969年の時点)
  • 潜在的な有害性を削減するための行動(動物の飼料中の抗生物質への人の曝露の削減・排除)

3)      無知(予防:Precaution

  • 未知の影響と未知の可能性(1974年以前は無知であったCFCsによるオゾン層破壊の驚き、1959年以前は無知であったアスベストによる中皮腫:肺がんは1930年代に報告されていた)
  • 予期せぬ驚きとなる影響を予想して特定し、それを削減するための行動(潜在的な有害性に対する先行指標として残留性・生体蓄積性などの化学的性質の利用、長期にわたるモニタリングを含む最も広範囲に可能性のある情報源の利用、CFCsやアスベストなどの独占的な特定技術を利用せずともニーズを満たした強力かつ多様で順応性のある技術と社会的分配の促進 

確率論で定義される「リスク」の状態は、全ての結果の可能性が既知であり、従来のリスクアセスメントの適用が可能である。そのため政策決定に必要な強い根拠を提供でき、環境への被害を未然に防止できる。しかし「不確実性」の状態下では、結果の可能性に関する十分な根拠が存在しないため、従来のリスクアセスメントで使用される、安全係数、シナリオ解析、感度解析などの手法を用いても適用範囲が狭くなる。また、「無知」の状態下には、さらに未知の影響の可能性が存在する。そのため規制評価過程において、強力で、透明で、納得のできるアプローチが必要となり、政策決定過程は、ハザードを減らすための証明レベルに関して、より明示的で系統的である必要があるとEEA報告書は述べている。

 

5.おわりに

この報告書の発表にあたり、EEADomingo長官は、「我々の主要な結論は、この報告書において研究されたハザードの歴史から導き出された12の教訓に注意を払うならば、人や環境に対するハザードを最小限化するとともに、技術革新を最大限化するための非常に難しいタスクが、将来よりうまく保証できるということである。」7)と述べている。また、報告書作成チームヘッドのデンマーク工科大学Poul Harremoës教授は、「予防原則の利用は、技術の多様性や柔軟性と科学の発展の双方に対してさらなる革新となりうる刺激を与え、環境影響と健康影響の削減以上に便益をもたらすことができる。予防原則を軽視することが、いかに有害で費用がかかるかについて、これらの事例研究は示している。しかし過剰な予防もまた、費用がかかり、革新の機会を失い、科学への問いかけの道筋を失う。さまざまな豊富な情報から、さらなる説明が、科学的、政策的、経済的に得られ、社会は将来において、技術革新とハザードの間のより優れたバランスをかなりうまく成し遂げられるかもしれない。これらの事例研究から導き出された12の教訓は、このバランスの達成に役立つことができる。」7)と述べている。

予防原則に対する先進的ともいえる欧州の動きは、遺伝子組み換え作物(GMO)だけでなく、内分泌かく乱化学物質などの化学物質問題に対する取り組みにおいても注目されている。被害の拡大を防ぐための環境政策における我々の行動基準をどのようにすべきか、我々の将来を担う重要な課題である。今後の動きに注力するとともに、国内の動きにも反映されるよう、EEA報告書を参考にしていただきたい。なお、この報告書は、参考文献6) に示すURLアドレスからダウンロードにより入手できる(200241日時点で確認済み)。

今後、予防原則に関しては、大竹千代子氏と協力し、米国の予防原則の流れ、欧米のアプローチなどを随時本誌で紹介させていただく予定である。

 

<参考文献>

1)      大竹千代子: Precautionary Principle ―予防原則―の理解のために, 水情報, Vol. 20, No. 5, pp12-17, 2000

2)      大竹千代子: EU委員会採択の予防原則に関する文書, 水情報, Vol. 20, No. 6, pp19-21, 2000

3)      大竹千代子: 化学物質の健康影響「予防原則」のその後, 水情報, Vol. 21, No. 2, pp14-17, 2001

4)      大竹千代子: 欧州における予防原則ワークショップ(1), 水情報, Vol. 21, No. 12, pp12-16, 2001

5)      大竹千代子: 欧州における予防原則ワークショップ(2), 水情報, Vol. 22, No. 1, pp12-15, 2002

6)      European Environment Agency: Late lessons from early warnings: the precautionary principle 1896-2000, Environmental issue report No 22, 2001

7)      European Environment Agency: EEA draws key lessons from history on using precaution in policy-making, NEWS RELEASE, Copenhagen, 10 January 2002

8)      David Gee: The Precautionary Principle – 14 cautionary tales, european bulletin on environment and health, WHO Regional Office for Europe, Copenhagen, and the Chartered Institute of Environmental Health, Vol. 8, No. 3, Autumn 2001

9)      COMMISSION OF THE EUROPEAN COMMUNITIES: COMMUNICATION FROM THE COMMISSION on the precautionary principle, COM (2000) 1 final, Brussels, 2 February 2000

 

<本報文の出典について>

本報文の出典は以下の通りであり、本サイトへの掲載をご快諾いただいた水情報編集部の高橋先生には心より深謝いたします。

東 賢一: 欧州環境庁(EEA)の予防原則報告書について, 水情報, 22 (4), pp7-10, 2002


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