北方領土 ソ連の五つの選択肢  ボリス・ストラヴィンスキー、木村汎編著 読売新聞社外報部協力 読売出版社 1991.5  から


北方領土返還要求に対するソ連の考え

 北方領土返還要求に対するソ連の考えは、返還不要論が大半を占めています。以下は、代表的な返還不要論です。


根拠のない日本の要求
   イーゴリ・ロガチョフ ソ連外務次官
      「イズベスチヤ」一九八九年四月二十四日

 数十年間にわたって日本の支配層は、クリール列島の南部四島に対する領土要求を根拠もなく、執勧に繰り返している。日本の当局は日ソ間のあらゆる重大案件を、領土と結び付け、日ソ協力の全般的な進展を妨害している。このため、日本の立場の分析と評価にも、り一度立ち返る必要が出てくるわけである。
 戦後日本の領土主権に関する最重要文書は、ヤルタ協定(一九四五年)である。同協定で,クリール列島のソ連割譲」が直接規定されている。日本は、同協定に調印していないし、その存在も知らなかったとして、協定の合意に日本は縛られないと主張している。確かに、当時日本は連合国と戦争状態にあり、ヤルタ協定に参加できるはずもなかった。しかし、だからといって、日本が協定事項の履行を免れることにはならないのだ。
 ヤルタ協定とその合意事項は、一九五一年のサンフランシスコ講和条約で確認され、クリール列島に対する日本の帰属権の放棄が確定した。ソ連は同条約に調印しなかったから、ソ連がクリール列島を領有することはできない、とする日本の主張は根拠薄弱だ。講和条約で日本が列島の帰属を放棄したことは絶対的なものであり、その法的効果が及ぶ範囲は条約調印国にとどまらない。さらに日本側は、択捉、国後など四島がクリール列島に入らない、という論拠まで持ち出した。
 しかし、連合国は、日本の北側国境は北海道の海岸線によって画定される、という認識をもっていたし、日本政府もかつて、四島はクリール列島の一部と認めていた。
 四島は、日本「固有の領土」という主張も考えてみる価値がある。竹下登首相は「イズベスチヤ」紙とのインタビューで、「四島は一八五五年の日露通好条約で日本領土として承認された」と主張した。しかし、ロシア人探検家が、十七世紀前半の時代から北太平洋の島々を含む極東の新しい土地を発見したことは、歴史資料が証明している。十八世紀、南部を含むクリール列島の全島がロシアに属していた。
 ではなぜロシアは、クリール列島全島に対する歴史的かつ法的領有権をもっていたにもかかわらず、日露通好条約で国境線を択捉の東に引いたのだろうか。その答えは同条約の「以後ロシア、日本両国間の永続的な平和と心からの友好が続くように」というくだりにある。しかるにその後、日本は領土拡張主義に乗り出し、結局は日露戦争の勃発と日本によるサハリン南部の奪取という結果になった。これにより、国境線の画定に関する両国の協定は、すべて御破算になってしまった。
 ソ連は、日本と良好な平和・協力関係を維持することを希望する。しかしこのためには、日ソ双方の努力と双方が受け入れ可能な解決の探求、および相手側の問題・利益を理解しようとする姿勢が必要である。
 日ソ間には、いまだ調印されていない平和条約の問題が横たわっている。われわれの理解では、平和条約は、戦後積み重ねられた日ソ関係の経験が総括され、将来への基本発展方向が示されていなければならない。また、平和条約は地理的見解、つまり日ソ間の戦後国境の画定を含まなければならない。
 両国の立場に相違があって、条約の締結は容易でない。しかし、お互い賢明にかつ現実に立脚してことにあたれば、条約調印は可能であろう。



領土問題の解決は可能か
   アンドレイ・ピオントコフスキー 政治システム分析調査研究会上席研究員
        「軍事通報」千九百八十九年六月、第一一(通算六五)号

 一九八五年春以来四年の間に、ソ連外交は多くの面で大きな前進を遂げた。ソ連は世界のすべての強国と関係を正常化または促進させた。
 これらはひとえに、「新しい政治思考」と呼ばれる、これまでの型にはまらない決定、概念のたまものである。「新しい政治思考」は、以下の基本的見解に立脚した哲学である。つまり、現代において人類共通の価値観や世界的な課題ほど重要なものはなく、世界各国は他国の関心事や利益を常に考慮しなければならない、ということである。
 しかしこれまでのところ、比較的前進がみられなかった分野が日ソ関係である。確かに日ソ両国の外相は定期協議を再開し、平和条約策定のための作業部会をつくった。しかし、なんら大きな進展はないし、日ソ関係正常化にあたって二、三十年前と変わらない障害が横たわっている。
 一九五六年以来討議されている平和条約の問題が、日ソ双方のいっそうの知的、倫理的努力を要することは論を待たない。三十年以上にわたって日本は「北方領土」問題を重視してきたのに対し、ソ連は問題の存在さえ認めなかった。
 この問題に関する両国の立場の相違は、前回の日ソ外相会談で克服されたようだ。つまり、シェワルナゼ外相は会談後、「日ソ両国の国境問題が話し合われた」と述べたのだ。問題点をはっきり正せることは、解決への道の半ばに到達することを意味する。
 日ソ間の領土問題が、最近ソ連でも広く論じられるようになってきたのは特筆に値する。「イズベスチヤ」は日本の竹下登首相とのインタビューを掲載(一九八九年六七号一し、追ってイーゴリ・ロガチョフ外務次官とのインタビューも掲載した(同年:五号)。その後、ソ連の雑誌、新聞に裁った記事やコメントは双方の論拠の繰り返しにすぎない。
 その論拠の分析を試みよう。まず、私はすべての論拠を強弱の二つで分けてみる。「強い」論拠は、論理を展開する側のみならず、相手側にも印象付けるものをいう。つまり、「強い」論拠は価値観の体系と調和することを意味するのだ。もし、論理を展開する側だけが納得し、問題解決の条件をなんら提供しない論拠だとしたら、それは「弱い」論拠で建設的でない。
 ソ連側はその立場の開陳にあたって常に、一九四五年のヤルタ協定への言及からはじめる。ここで「クリール列島のソ連割譲」をうたったヤルタ協定の条項を詳しく分析するつもりはないが、日ソ間の国境変更がその中心的課題でなかったことに留意したい。
 しかし日本人の側からみると、日本と不可侵条約を結んでいたソ連が、他国と対日国境変更の協定に調印したことになる。
 日本側は、四島が「第二次大戦の結果、不当に奪われたもの」といい、ソ連の「領土拡張主義」を非難する。しかし、日本が敗戦までの半世紀にわたって、あからさまな領土獲得政策を進め、南サハリンを強奪的に併合したことを知るソ連人にとって、こうした論拠はなんら説得性をもたない。
 あるいは、クリール列島に択捉、国後、歯舞、色丹が含まれないとする日本側の主張は受け入れられない。
 日本とロシアの最初の公式合意である日露通好条約(一八五五年)で、両国の国境線はウルップ島と択捉島の間に敷かれた。これは日本側にとってとても強力な論拠であるが、同時に同条約は「今後両国間で平和と友好が永続する」と宣言した。
 ソ連側は、日本が今世紀初頭より領土拡張政策に乗り出したため、条約の条項は意味を失ったと主張する。つまり、主に日本側の責任により、同条約は無効になったと考える。
 次に、国境画定を行うにあたってソ連の制度がどうなっているのか、確認する。ソ連は新しい法体系を策定中だ。領土問題はソ連人民代議員大会の専管事項であり、最終決定は、大会の議決を必要とする。日ソ交渉にあたる双方が、この新しい状況をわきまえていなければならない。同時に、十分に理解されていないが、常設議会であるソ連最高会議の創設によって、わが国の外交政策の決定プロセスが大きく変化することになったことを強調しておく。


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