各国の教科書に見るソ連対日参戦


 第2次大戦末期、ソ連は日本に対して宣戦布告し、おもに中国東北部(満州)に駐留していた関東軍を攻略、中国東北部を解放した。この時の状況を関係各国の子供たちはどのように学習しているのか、中学校・高等学校の教科書を比較する。(太字は特に重要な記述です。) 

  


ソ連の歴史教科書



帝国主義日本の敗北。第二次世界大戦の終結

日本帝国主義−ソ連国民の敵
 ファシズム=ドイツの壊滅と降伏後、ヨーロッパの戦争は終わった。しかし、侵略の第二の震源地である帝国主義日本が存在しているかぎり、ソ連邦の安全が保障されているとみなすことはできなかった。ドイツの最後の同盟国であるこの強力な軍事国家は、アメリカ合衆国・イギリス・中国と戦っていた。戦闘は、ソ連邦の極東の国境の近くで行われていた。
 日本帝国主義者は、中国の大部分と、朝鮮・インドシナ・インドネシア・ビルマ・フィリピン諸島の全域を占領していた。これらの諸国における占領体制は、それ以前のアメリカ合衆国・イギリス・フランス・オランダの帝国主義者の植民地的抑圧とほとんど異なっていなかった。隷属させられた国々の諸国民は、それぞれの共産党の指導のもとに闘争に立ちあがった。
 日本帝国主義は、ソ連邦の最悪の敵であった。何十年もの間、日本はソ連邦に対して敵対的な政策をとり、極東とシベリアを奪おうとして、何度も武力侵入を行った。日本の支配層は、ファシズム=ドイツを積極的に援助し、わが国の経済・政治・軍事の状況についての偵察情報や秘 密情報をドイツに与えた。1941年に日本の参謀本部は、ひそかにソ連邦に対する戦争の計画を作成していた。計画では、軍事行動の開始と終了の正確な日付けまで決められていた。日本軍の将校・兵士は、ソ連の国民に対する敵意と憎しみをもつように教えこまれていた。
 日本の軍国主義者は、ソ連邦の極東の国境での軍事的挑発をやめなかった。1944年だけで、そのような侵犯が約200件あり、そのなかにはソ連領に対する砲撃という場合が数多くあった。また海上では、侵略者の軍艦は、わが国の商船をだ捕したり、場合によっては沈めたりさえした。国境を守るために、ソ連邦は1941〜1945年に、極東に47個師団と50個旅団をとどめておかねばならなかった。太平洋艦隊も極東の国境を守っていた。
 敵対的な行動とソ連領にたえず武力侵入の脅威を与えることによって、日本は、1941年4月に締結されたソ連邦との中立条約を実質的に踏みにじっていた。このことを考慮し、ソ連政府は1945年春に、日本側の責任により中立条約はその効力を失っている、と声明した。しかし、この警告も、軍国主義者に道理をわきまえさせることはできず、彼らは侵略的な方針をとり続けた。
 7月末、アメリカ合衆国・イギリス・中国の政府は、日本に降伏の最後通告を行ったが、日本はそれを拒否した。500万の陸軍と1万の空軍機、そして大海軍をもっていた日本政府は、戦争を継続することに決定したのである。日本政府は、連合間の内紛を期待し、和平を結ぶ際に条件を有利にするために戦争を長びかせようとした。日本軍司令部は、太平洋戦域では防衛にまわって、イギリス・アメリカ軍のこれ以上の前進と日本の領土への上陸を阻もうとした。これと同時に、日本政府は、占領したアジアの大陸部分に、しっかりとした防衛態勢をつくろうとしていた。
 日本本土と中国には大部隊が集中され、強力な防衛線が構築された。アメリカ合衆国とイギリスの政府は1945年に、ソ連邦が対日参戦しなかったら、イギリスとアメリカは日本本土に上陸するだけで700万の軍隊を必要とし、戦争はドイツの敗北後さらに18か月続くだろうということを認めていた。



極東におけるソ連邦の参戦
 三大国のクリミア会議で、ソ連邦は、帝国主義日本に対する参戦の義務を引き受けた。1945年夏、ソ連軍司令部は、多くの部隊を西方から東方に移した。その結果、極東におけるわが軍の総兵力は、ほぼ2倍になった。
 日本の関東軍を粉砕するために、最高総司令部は、つぎの三つの方面軍を展開した。すなわち、モンゴル人民共和国領内にエル=ヤ=マリノフスキー元帥指揮下のザバイカル方面軍、アムール地方にエム=ア=プルカーエフ将軍を司令官とする第2極東方面軍、沿海州にカ=ア=メレツコーフ元帥指揮下の第1極東方面軍、がそれである。戦闘には、イ=エス=ユマーシェフとエヌ=ヴェ=アントーノフの両提督の指揮する太平洋艦隊とアムール艦隊も参加することになっていた。艦隊と地上軍との行動の連絡・調整は、海軍総司令官のエヌ:ゲ=クズネツォーフ提督が行った。
 この三つの方面軍で、兵力は150万人以上、火砲・迫撃砲26、000、戦車・自走砲55、000、空軍機約4、000をもっていた。太平洋艦隊は、多くの艦船・潜水艦・航空機をもっていた。対日戦争におけるすべての部隊を指揮するために、ア:エム:ヴァシレフスキー元帥を司令官とする極東ソ連軍総司令部がつくられた。
 ソ連軍は、強力な敵との戦闘にはいろうとしていた。満州・朝鮮・南サハリン〈南樺太〉・クリール諸島〈千島諸島>には、関東軍やその他の日本軍の大部隊が展開されていた。彼らは、兵力120万人以上、戦車1、200、火砲5、400、空軍機約2、000をもっていた。
 以上のように、ソ連軍は、兵力においても少し優勢なうえ、敵よりもはるかに多くの兵器をもっていた。
 1945年8月5日(注)、ソ連邦は帝国主義日本に対して宣戦布告した。ソ連国民の任務は、第二次世界大戦の終結を早め、わが国の極東に対する日本軍国主義者の攻撃のたえざる脅威を取り除き、かつて日本によって奪い取られた南サハリンとクリール諸島を祖国に取りもどし、連合国と協力して、日本によって占領された国々から日本の侵略者を追い出し、アジアの諸民族が日本帝国主義の圧制から解放されるのを助ける、ということにあった。このためには、関東軍と南サハリン・クリール諸島の日本軍を粉砕しなければならなかった。
 ソ連邦が対日参戦をする直前の8月6日の朝、アメリカ軍の飛行士は、大統領H.トルーマンの命令に従って、広島に原子爆弾を投下した。市は雲のような煙と放射能灰におおわれた。数秒間のうちに広島は破壊された。いたるところに黒こげの死体が横たわっていた。8月9日、アメリカ軍は第2の原子爆弾を港湾都市の長崎に投下した。これらの都市に対する爆弾投下の結果、約50万人の人びとが死亡したり、不具になった。
 日本の都市に対する原子爆弾の投下は、軍事的な必要によってなされたものではなかった。この野蛮な行為によって、アメリカ政府は、何よりもまずソ連邦を驚かせ、ついで、核の脅威によって世界支配を成し遂げようと望んだのである。すでに、1945年4月に、H.トルーマンはこう述べている。「もし、これ(原子爆弾)が爆発してくれれば、われわれは、あのロシアの連中に対する梶棒をもつことになるのだ、と私は思う。
 二つの原子爆弾は、戦争の結末に決定的な影響を与えることはできなかったし、それらは日本の軍国主義者たちに戦闘をやめさせることもできなかった。


帝国主義日本の降伏
 8月9日の明け方、ソ連軍は、バイカル湖東岸地方からウラジヴオストークとクリール諸島に至る5、000kmにわたる戦線で、関東軍を攻撃した。モンゴル人民共和国も参戦した。中国人民解放軍も日本の侵略者に対する戦闘を活発化した。
 帝国主義日本に対するソ連邦の戦争は、大祖国戦争の不可分の一部であり、その継続であり、完了であった。

 赤軍が攻撃に移ったことは、日本の支配層と軍部を絶望のどん底に突き落とした。8月9日の大本営会議で日本の首相はこう述べている。「今朝のソ連の参戦によって、わが状況は最終的に打開不可能のものとなり、これ以上戦争を続けることも不可能となった」と。
 このように、極東の侵略者に対する勝利をおさめるにあたって、決定的な役割を果たしたのは、まさにソ連邦の国民であった。
 中国・朝鮮・その他の国の国民は、ソ連邦の対日参戦を熱烈に歓迎した。東南アジアでは、民族解放運動がさらに広範に展開していった。
 ザバイカル方面軍の主力部隊は、モンゴル人民共和国の領土から打撃を加えた。そこに進んだ部隊は、中国東北地区の中央部に出るまでに、砂漠を横断し、大興安嶺山脈を越えねばならなかった。
 沿海州方面からは、第1極東方面軍が進攻し、ザバイカル方面軍の主力と合流することになっていた。この方面では、わが軍は、数百キロメートルにわたる鉄筋コンクリート要塞の密集線を突破しなければならなかった。
 アムール地方からは、第2極東方面軍が進攻し、ザバイカル方面軍・第1極東方面軍による関東軍主力の包囲という任務を援助することになっていた。進攻は困難な条件のなかで行われた。とりわけ困難な障害となったのは、大興安嶺山脈と増水したアムール川とウスリー川であった。満州では、8月8日から豪雨が続いていた。河川は氾濫していた。道路は、氾濫によって流失していた。いくつかの方面では、まったく道路がなかった。激戦のなかを、ソ連軍は、満州国境の敵軍の堅固な防衛線を突破し、山脈を越え、河川を渡って、500〜1000km進んだ。ザバイカル方面軍の部隊は、重要都市の奉天と長春を奪取し、第1極東方面軍の部隊はハルビンを奪取した。空軍と海軍の陸戦隊の援護のもとに、ソ連軍は、ダーリニィ(大連)とボルト=アルトゥール〈旅順>のある遼東半島を占領した。
 8月19日から日本人は、降伏・投降し始めた。月末までに、赤軍は、敵の武装解除を完了し、4000万人の人口をもつ中国東北地区・北朝鮮を解放し、かつて日本によって奪い取られた古来からのロシアの領土である南サハリンとクリール諸島を祖国に取りもどした
 23日間にわたる激戦によって、ソ連軍は、約15年間にわたってソ連邦に対する攻撃を準備していた関東軍に壊滅的敗北を与えた。8万人以上の日本軍の兵士・将校が死傷し、約60万人が捕虜となった。ソ連軍は、大量の兵器を捕獲した。日本軍国主義者は、第二次世界大戦の全期間を通じて、最大の敗北を喫した。
 極東の侵略者を粉砕することによって、赤軍は、もし太平洋と極東で戦争が継続されていたら必ず戦死したであろう何十万人ものアメリカ合衆国・イギリス・中国その他の国の兵士たちの命を救ったのである。
 祖国ソ連邦は、その息子たちの戦功を高く評価した。ソ連邦最高会議幹部会は、「対日戦争勝利」メダルを制定した。すべての戦闘参加者がこのメダルを授与された。数十の部隊が、興安嶺'アムール・奉天・サハリン・クリールなどの名誉部隊名を与えられた。30万人以上のソ連軍の戦士たちが、戦功勲章や戦功メダルを与えられ、最も抜きん出た人たちはソ連邦英雄の称号を与えられた。
 陸上で敗北し、満州と朝鮮の最も重要な経済基地を失った日本軍国主義者は、敗北を認め、抵抗をやめた。1945年9月2日、日本は無条件降伏文書に署名した。
 ソ連邦は、アジアにおける解放の使命を立派に果たすことによって、アジア大陸の諸民族が植民地主義の圧制から最終的に解放され、民族独立へと進むのを助けたのである。赤軍が極東でかちえた勝利は、アジアの諸国における民族解放運動が大いに高揚するのを可能とし、中国・北朝鮮・ヴェトナムにおける人民革命の勝利の前提をつくりだした。そして、このことは、帝国主義と反動に対する強力な打撃となったのである。
 帝国主義日本に対するソ連邦の勝利をもって、大祖国戦争と第二次世界大戦は終わった。長く待ち望まれていた平和が、諸国民に訪れたのである。


問題と課題
 1.ソ連邦が帝国主義日本に対して参戦した理由は何ですか(資料を利用して答えなさい)。
 2.1945年夏の極東における戦闘の経過を地図でたどりなさい。
 3.なぜ、ソ連軍は短期間のうちに関東軍に対して勝利をおさめることができたのですか。
 4.日本の侵略者からアジアの諸民族が解放されるのに際して、ソ連邦が果たした役割を述べなさい。


注)引用した帝国書院の翻訳本には、宣戦布告の日付を8月5日と書いてあるが、正しくは8月8日である。翻訳本にはコメントがないので、おそらく翻訳本のミスプリントだろう。実際に参戦した日付は、8月9日と記載されている。


引用文献

全訳 世界の歴史教科書シリーズ22 ソヴィエト連邦W(1981)帝国書院


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