北方領土問題



3.千島列島のロシア領有(北方領土問題の歴史・経緯)


3.1 千島列島はなぜロシア領か

 ここでは、千島列島がなぜロシアの施政下にあるのか、説明します。
 第2次世界大戦末期、ヤルタ会談で米国大統領ルーズベルトはソ連に対して対日参戦を求めます。このとき、ドイツ降伏3ヵ月後に、ソ連は対日参戦すること、樺太・千島はソ連領となることが合意されました。(正しくは、カイロ会談に先立つモスクワでの外相会談の席上で、ソ連の対日参戦が求められています。)
 1945年8月9日、ドイツ降伏のちょうど3ヵ月後、ソ連は対日参戦し、当時、日本が実質支配していた中国東北部(満州国)に進攻し、8月11日には当時日本領だった南サハリンに進攻します。さらに18日には千島列島に進攻開始します。
 日本政府はポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏し、9月2日降伏文書に調印しています。ポツダム宣言八条にしたがって、日本の領土は、四つの主要な島(北海道、本州、九州及び四国)及び連合国が定めた諸小島に限定されました。降伏文書調印と同日に出された一般命令第一号により、千島諸島に在る日本軍は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏することが求められています。すなわち、ポツダム宣言第七条、一般命令一項(ロ)により、千島はソ連の占領下になりました。
 実際にソ連が北方4島を占領するのは、8月28日から9月5日です。

 1946年1月29日、GHQは日本の行政区域を定める指令(SCAPIN-677)を出します。この指令で、クリル(千島)列島、歯舞、色丹は日本の行政範囲から正式に省かれます。なお、このとき竹島も日本の行政範囲から省かれています。正式にはこのとき以降、日本の施政権は北方領土や竹島に及ばない事になり、現在にいたっています。
 1951年、サンフランシスコ条約を批准します。条約第2条C項は次のようになっており、日本国は世界に向けて、千島の放棄を約束しました。
『日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。』
 日本が放棄した千島とはどこか、条約には明確な記述はありませんが、同年10月の衆議院で、西村熊雄外務省条約局長は、放棄した千島列島に南千島(国後・択捉島)も含まれるとの答弁を行っており、国内外に向けて、国後・択捉島の放棄が明確に宣言されました。(注意:歯舞群島・色丹島は北海道の一部であり千島に含まれないというのが当時の日本政府の説明です。)(注1、注2)

 サンフランシスコ条約で日本が放棄した樺太の一部は、「ポーツマス条約の結果として主権を獲得した」との条件がついています。これに対して、千島は無条件で放棄する事が定められています。千島を日本が領有する事になったのは、戦争の結果奪い取ったところではないためです。

 サンフランシスコ条約では、日本が放棄した千島とはどこか、若干の解釈の違いがあった事が知られています。 
 ソ連代表グロムイコは「樺太南部、並びに現在ソ連の主権かにある千島列島に対するソ連の領有権は議論の余地のないところ」であるとの発言をしています。
 アメリカ代表は演説の中で、「千島列島という地理的名称がハボマイ諸島を含むかどうかについて若干の質問がありました。ハボマイを含まないというのが合衆国の見解であります」との発言をしています。
 日本代表の吉田茂は「日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島」との表現で、歯舞・色丹が千島列島に含まれないとも受け取れる表現を使っていますが、国後・択捉については「千島南部の二島」の表現をしています。
 これらのことから、サンフランシスコ条約では、国後・択捉は日本が放棄した千島列島に含まれるという事で一致していたわけですが、歯舞・色丹については、意見の一致をみなかったという事がわかります。



(注1)
 西村熊雄外務省条約局長は、放棄した千島列島に南千島も含まれるとの答弁に続いて次の発言をしています。
 
 しかし南千島と北千島は、歴史的に見てまつたくその立場が違うことは、すでに全権がサンフランシスコ会議の演説において明らかにされた通りでございます。あの見解を日本政府としてもまた今後とも堅持して行く方針であるということは、たびたびこの国会において総理から御答弁があつた通りであります。

 当時、南千島と北千島の歴史的経緯の違いにより、南千島を放棄すべきでないとの強い主張が、主に北海道選出議員の中にありました。条約局長発言は、これらの意見に対して、誰にも異存のない明白な、歴史的経緯の違いのみを指摘するに留まっています。これは、放棄した南千島にたいして、返還要求をしないと言う事を、婉曲的に表現したものでした。
 条約局長答弁は、南千島返還要求に対して、完全に拒否回答だったわけです。実際、その後、日ソ国交回復までの5年間、南千島返還要求が政治の日程に登ることはありませんでした。南千島返還要求が政治日程に再び登場するのは、内閣が自由党から民主党に代わり、政治方針に大きな変化が現れた以降の事です。

 条約局長答弁に続いて、吉田国務大臣は『この問題は、日本政府と総司令部の間にしばしば文書往復を重ねて来ておるので、従つて米国政府としても日本政府の主張は明らかであると考えます』と述べています。歴史的経緯を含め、日本の見解を詳細に米国に伝えたけれども、南千島の放棄は米国の既定方針だったため、日本の主張を受け入れる余地は無かったのです。

 西村熊雄外務省条約局長の答弁は南千島を放棄したことを説明するものでしたが、若干の誤解を生じさせるものでした。
 このため、11月6日参議院において、草葉隆圓政府委員が以下の説明をし、南千島が放棄した千島に含まれるとの明確な説明をしています。
 『南千島は従来から安政條約以降において問題とならなかつたところである。即ち国後及び択捉の問題は国民的感情から申しますと、千島と違うという考え方を持つて行くことがむしろ国民的感情かも知れません。併し全体的な立場からすると、これはやつぱり千島としての解釈の下にこの解釈を下すのが妥当であります。』 


(注2)
 西村熊雄外務省条約局長は、なぜ、放棄した千島列島に南千島も含まれると答弁したのでしょう。実は、千島列島に南千島が含まれるとの答弁は、このときが最初ではありませんでした。昭和25年03月08日 衆議院外務委員会で、島津政府委員が、ヤルタ協定の千島には、南千島、北千島の両方を含んでいると答弁しています。  島津答弁に引き続き、西村熊雄氏は、その理由を説明しています。すなわちSCAPIN-677第三項の中に「千島列島・歯舞諸島及び色丹島」とあるので、千島列島には南千島、北千島の両方を含んでいるとの説明です。南千島が千島列島に含まれないとの解釈は、当時サンフランシスコ条約締結国には、受け入れららないものだったのです。


3.2 ソ連対日参戦から千島占領の過程



 樺太・千島占領の過程
 (画像をクリックすると拡大します。)


(参考)
 外務省発行『われらの北方領土』1987〜1992年版では、南千島の占領もカムチャツカの部隊が行ったように書かれていたが、1993年版では樺太占領部隊があたったように訂正されている。ウルップ島のところに8/27にUターンしたような矢印がある。水津満の虚偽と思える証言を、そのまま書いているものと思われる。(1986年版および、それ以前の版には、地図は記載されていない。)

外務省発行『われらの北方領土』
1987〜1992年版
(画像をクリックすると拡大します。)
外務省発行『われらの北方領土』
1993年、1994年版
(画像をクリックすると拡大します。)
外務省発行『われらの北方領土』
1998年版(2005年版まで同じ図)
(画像をクリックすると拡大します。)
外務省発行『われらの北方領土』
2006年版
(画像をクリックすると拡大します。)
南千島の占領もカムチャツカの部隊が行ったように書かれている。 北方四島は樺太占領部隊があたったように訂正された。 占領の日付、説明が変更された。
歯舞諸島の占領日を消したため、島の名前が誤って記載されたような図になった。
択捉島占領が8月28日になった。
歯舞諸島の島名記載位置の変更。
『マツワ島』が『マツア島』になった。





3.2.1 ソ連対日参戦


参考:ソ連の対日参戦をアジア各国の教科書ではどのように記載しているか

   中国の歴史教科書   モンゴルの歴史教科書   韓国の歴史教科書
   台湾の歴史教科書   香港の歴史教科書     インドの歴史教科書
   ソ連の歴史教科書   ロシア沿海州の歴史教科書




3.2.2 千島占領(ウルップ以北の北千島)

 8月16日、スターリンはアメリカ大統領トルーマンに宛てた秘密電報で、ソ連邦の所有に移管されるべき千島列島をソ連占領地とすること、および、ソ連軍が日本固有の領土に占領地を持つため北海道の北半分をソ連占領地とすることを求めた。8月18日、トルーマンはスターリンに宛てた秘密電報で、北海道北東部をソ連占領地とすることは拒否したが、千島列島をソ連占領地とすることに同意した。ただし、千島占領作戦はトルーマンの秘密電報を待つことなく、開始されている。
 北千島の占領は、カムチャツカの現有勢力で行われた。乏しい戦力で占守島の戦闘になったため、ソ連軍は大きな損害をこうむった。当初、カムチャツカの現有勢力の占領は新知島までを占領することとされていたが、順調に占領が進んだため、8月27日に、得撫島までを担当することになった。実際に得撫島に到達するのは8月28日、上陸は8月30日、得撫島を占領して帰還したのは8月31日だった。

北千島占領の過程はここをクリック




3.2.3 千島占領(南千島)

 南千島の占領は、樺太占領部隊を宛てることになっていた。当初、北海道の一部を占領し、その港を使って、南樺太を占領する予定だったが、アメリカ大統領トルーマンに北海道北東部をソ連が占領することを拒否されると、樺太大泊港から直接、南千島に出航することとした。
 南千島占領作戦の実施を開始したのは、8月26日12時50分、掃海艇第589号、掃海艇第590号を、択捉島に向けて出航させたことである。さらに、南千島に上陸開始するのは8月28日だった。択捉島は8月29日に占領、国後島・色丹島は9月1日に占領した。歯舞群島は9月3日に作戦を開始し、9月5日夜に捕虜を国後島に移送した。

南千島占領の過程はここをクリック


3.2.4 水津満の嘘? と日本の説明

 注意)水津満は故意に嘘をついたのか、単純な誤解なのか、分からない。和田春樹は水津の主張を「単純な誤解」としているが、捏造である可能性も否定できない。

 水津満とは、ソ連が北千島を占領するに当たって、通訳としてソ連軍に同行した、北千島守備軍作戦参謀の少佐である。
 外務省発行『われらの北方領土』の古い版では、北方領土要求の根拠の一つに、「ソ連もはっきりと千島列島を得撫島以北と考えていたために、はじめは択捉島以南の諸島を占領する意思のなかった」としている。この根拠は、水津の証言だった。水津の証言を詳細に検討すると、内容に事実と異なる点がある。日本政府の主張していた、北方領土要求の根拠の一つは、完全な誤りであることが分かる。日本政府は水津の証言を検証することなく事実であると考えたのだろうか。

<外務省発行『われらの北方領土』1969.11、1991.3から>
 当時の日本軍関係者の記録には、ソ連軍が千島列島を南下するにあたり、最初は、得撫島まで来て引き返し、その後米軍が択捉島より南の諸島を占領していないことを知って再び南に下り、これらの諸島を一方的に占領した旨が記させています。このことは、当時、ソ連もはっきりと千島列島を得撫島以北と考えていたために、はじめは択捉島以南の諸島を占領する意思のなかったことを示すものとして興味深いものです。
 (注)上記記述は1991.3版。1969.11版は、句読点等若干異なるが、内容は同じである。

 まず、ロシア側資料によるソ連軍千島列島南下の状況と、水津の証言を検討する。

ロシア側資料 水津の証言
○付数字は参考文献番号
行動範囲 当初は松輪島から新知島までの千島北部諸島を占領することが目的だった。
27日に得撫島占領の支援が目的に加わる。
部隊の目的は千島の北部諸島を占領であるとグネチコ少将が話しているのを聞いた。C
部隊の目的は千島の北部諸島を武装解除することであるとソ連軍司令官が口をすべらせた。F
グネチコ少将が上司から受けた命令は次のようなものであった。「まず占守島および幌筵島に、次いで温祢古丹島に上陸作戦を行い、八月二十五日までに千島列島北部を占領せよ」H

出航するときは国後島まで行くような話しであった。@
出航のとき千島列島の最南端まで行くと聞かされていた。A
出航のとき列島全部を回って武装解除するということだった。BC
中、南千島の部隊の武装解除まで、指揮権を持たない北千島師団長の命令で行わせようと、強引に同行を迫ってきた。H
出航するときは択捉島・国後島まで行くような話しであった。D
北千島を出るとき千島列島全部の武装解除に行くといって出かけた。F
指揮官名 ウォローノフ大佐 ウオルロフ中佐A
ウォルロフ中佐FH
艦名 ジェルジンスキー 忘れたとのことであるC
艦種 警備艦 駆逐艦@AB  駆逐艦のようだH
巡洋艦と思われるC
出航日時 8月24日21時30分 8月24日@ACDE
松輪島到着 8月25日14時 8月25日。一晩、日本人と一緒に過ごす。C
松輪島武装解除開始 8月26日早朝@ACDE
8月26日早朝から飛行場で行われたH
松輪島で武装解除された日本軍人は3000名BD
松輪島で武装解除された日本軍人は4000名C

注)日本政府は8月26日に松輪島占領と説明
計吐夷島 26日正午、松輪島から計吐夷島に向かったが日本軍はいないので新知島に向かう
新知島到着 27日昼頃
新知島の日本軍 偵察の結果、日本軍部隊はいないと判断 日本軍はだいぶ前に撤退していた。水津も上陸。@ABCDEH
得撫島でソ連艦結集日時 28日13時34分 (ウルップ島到着を8月27日としている。EH)

得撫島に到着したときは濃霧と台風接近のため島に上陸せずに、島を1周し、数時間沖合いに仮泊したと説明。@D
沖合に2〜3時間仮泊、その後戦闘配置につき二,三十分で騒ぎは収まり、なおも2〜3時間仮泊 H
得撫島でソ連艦結集の様子   霧の晴れ間にソ連軽巡、輸送艦数隻が沖合いに詰めかけているのが望見された。@A
そのうちに兵員を乗せた輸送船団がやってきた。B
上陸輸送船も水平線上に姿を見せていた。C
軽巡洋艦らしいものを先頭に輸送船数隻が、得撫島沖合につめかけているのが霧の晴れ間から望見されたH
進駐部隊も巡洋艦を先頭に数隻の輸送船で続々とつめかけていた。D
ジェルジンスキー号の北転の日時と目的 新知島再偵察 27日。@ABC
(時刻は書いていないが、Hには『船窓から漏れてくる太陽の光』と書かれている。)
択捉島以南はアメリカが担当のため南下しないと説明している。@ABC
上陸せずに、北転した理由は記載していない。
(Cには『私の乗ったソ連駆逐艦は、そのまま北千島へ帰島、私も司令部へ帰った。』と記されている。)
得撫島占領 30日〜31日 記載なし@AB
31日CEH

注)日本政府は8月31日と説明
択捉島占領 8月28日〜8月29日 8月29日@ABCEH
(Bには、『あのときわたしの乗った艦隊がいったん引き揚げてから、あらためてとって返して上陸したということになるわけです。』と書かれている。)

注)日本政府は8月28日〜8月29日に、樺太を占領した部隊が、択捉島を占領したと説明

参考文献
 ロシア側資料は、ボリス・スラヴィンスキー/著『千島占領』(共同通信社 1993.7)。

 水津の証言は、以下の論文・書籍を参考にした。
  @根室市総務部企画課領土対策係/編『北方領土』(1970.3.30)
  A北方領土百年記念刊行会/編『帰れ北方領土』(1968.7.29)
  B読売新聞社/編『昭和史の天皇6 ああ北方領土』(1980)
  C水津満/著『北方領土解決の鍵 元北千島師団参謀の実証と提言』(謙光社1987.2)
  D『北方領土を奪還しよう』(日本及日本人 1969年1月号)
  E『ソ連は北方四島を放棄していた』(文藝春秋 1975年5月号)
  F『私は見た ソ連の千島不法占領』(自由民主 1981年9月号)
  G『占守島いまだ停戦せず』(学芸書林発行 証言私の昭和史 1969.10)
  H水津満/著『北方領土奪還への道』 (日本工業新聞社 1979.08)

 日本政府の説明は、外務省発行『われらの北方領土2005年版』。



 水津の証言を見ると、ジェルジンスキー号に同乗したことは明らかであり、松輪島に26日までいたことは、ロシア側資料と一致する。ロシア側資料では、新知島の日時が書かれているが、水津はこの日時を明確にしていない。
 水津は26日に松輪島を出航した後、新知島を偵察し、日本軍がいないことを確認した後、得撫島に至り、濃霧のため上陸せずに島を1周し、その後数時間沖合いに仮泊したと証言している。これでは、27日に北転して帰還することは不可能であり、水津の証言は明らかに事実に反する

 水津の主張によれば、ジェルジンスキー号の北転が27日で、択捉島上陸開始が29日となっている。このような前提で、ジェルジンスキー号の北転後に択捉島に米軍が来ないことを確認して占領した、と主張している。ところが、ジェルジンスキー号の北転は28日以降である。また、択捉島の占領が8月28日〜8月29日に行われたことは、ロシア側資料、日本政府の説明等すべて一致している。
 もし、水津がジェルジンスキー号の北転が28日としていたならば、「ソ連もはっきりと千島列島を得撫島以北と考えていた」との説は生まれない。北方領土は千島に含まれないことを無理やり説明するために、日付を一日ごまかした可能性が高い。(日付をを誤ったために、誤った結論を導き出した可能性も否定できない。)
 

 実際には、択捉島占領のために、掃海艇第589号、掃海艇第590号が樺太・大泊港から出航したのは、8月26日12時過ぎであったので、水津らが、松輪島を出航したのと、ほぼ同時だった。この時点で、択捉島などを占領する計画は実施に移されていた。水津の言う「択捉島以南はアメリカが担当のため南下しない」との証言は、水津が乗った軍艦では、全く成り立たない。

 水津が乗った軍艦に与えられた行動範囲に関する、水津の証言は不可解である。水津は、グネチコ少将の話として、千島北部の占領が部隊の目的であると聞いている(参考文献CF)。しかし、出航のとき列島全部を回って武装解除すると聞かされたようなことを、説明しているが、誰から聞いたのかを明らかにしていない。文献によっては、正確に聞いていないような表現も使われている。水津の乗った軍艦は、いきなり松輪島に行っているので、「列島全部を回る」ことが目的ではありえない。水津は、列島全部を回ることが、当初から目的でないことを知っていたにもかかわらず、話を捏造した可能性がある。

 水津の説明は、ロシア側資料が公開されるに至って、誤りであることが明確になった。事実に反していることが明らかになっても、日本政府は一旦行った説明を基本的に変えることなく現在に至っている。それどころか、1991年版までは、『当時の日本軍関係者の記録』としているのに対して、1992年版以降は、事実であるような表現に書き換えられている。

<外務省発行『われらの北方領土』1992年版から>
 しかしながら、ソ連は、一九四五年八月九日、当時まだ有効であった日ソ中立条約を無視して対日参戦しました。そして、八月十五日に日本がポツダム宣言を受諾し、降伏の意図を明確に表明した後に、八月十八日より千島列島の占領を開始し、二十七日には、北方領土の北端である択捉島の手前まで来て、一旦引き返しました。しかし、北方領土における米軍の不在を知ると、翌二十八日、ソ連軍は再び行動を開始し、九月三日までの間にこれら四島までも占拠してしまったのです。このことは、当時ソ連軍に同行させられていた日本軍の作戦参謀の証言からも明らかであり、当時のソ連も択捉島以南の四島と得撫島以北の島々とは全く異なったものと意識しており、はじめは択捉島以南の四島を占領する意思のなかったことを示すものです。
<外務省発行『われらの北方領土』1993年、1994年版、1995年版から>
 しかしながら、ソ連は、一九四五年八月九日、当時まだ有効であった日ソ中立条約を無視して対日参戦しました。そして、八月十四日に日本がポツダム宣言を受諾し、降伏の意図を明確に表明した後の八月十八日、カムチャッカ半島から第二極東軍が進撃して千島列島の占領を開始し、二十七日までに千島列島の南端であるウルップ島の占領を完了しました。これとは別に、樺太から進撃した第一極東軍は、当初北海道の北半分(釧路・留萌ライン以北)及び北方四島の占領を任務としていましたが、前者につき米国の強い反対にあったためこれを断念するとともに、米軍の不在が確認された北方四島に兵力を集中し、八月二十八日から九月五日までの間に択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島のすべてを占領してしまいました。(ちなみに、これら四島占領の際、日本軍は抵抗せず、占領は完全に無血で行われました。)このことは、当時ソ連軍に同行させられていた日本軍の作戦参謀の証言及び最近公開された旧ソ連海軍の資料からも明らかです。当時、ソ連自らも択捉島以南の四島はウルップ島以北の島々とは全く異なったものであると認識しており、択捉島以南の四島の占領は、計画のみで中止された北海道北部と同様、日本の固有の領土であることを承知の上で行われたとの事実がここに示されています。
<外務省発行『われらの北方領土』1996年版〜2006年版>(ウルップ島の占領日付が27日から31日に訂正されている。)
  しかしながら、ソ連は、一九四五年八月九日、当時まだ有効であった日ソ中立条約を無視して対日参戦しました。そして、八月十四日に日本がポツダム宣言を受諾し、降伏の意図を明確に表明した後の八月十八日、カムチャッカ半島から第二極東軍が進撃して千島列島の占領を開始し、三十一日までに千島列島の南端であるウルップ島の占領を完了しました。これとは別に、樺太から進撃した第一極東軍は、当初北海道の北半分(釧路・留萌ライン以北)及び北方四島の占領を任務としていましたが、前者につき米国の強い反対にあったためこれを断念するとともに、米軍の不在が確認された北方四島に兵力を集中し、八月二十八日から九月五日までの間に択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島のすべてを占領してしまいました。(ちなみに、これら四島占領の際、日本軍は抵抗せず、占領は完全に無血で行われました。)このことは、当時ソ連軍に同行させられていた日本軍の作戦参謀の証言及び[最近]公開された旧ソ連海軍の資料からも明らかです。当時、ソ連自らも択捉島以南の四島はウルップ島以北の島々とは全く異なったものであると認識しており、択捉島以南の四島の占領は、計画のみで中止された北海道北部と同様、日本の固有の領土であることを承知の上で行われたとの事実がここに示されています。
  注意)[ ]内の文字は、2004年版までで、2005年版にはない。

 日本政府は、「米軍の不在が確認された北方四島に兵力を集中」と書いているが、このような事実はなく、偵察以前に占領命令が出されている。当初、南樺太占領後、北海道北東部を占領し、そこを拠点に、南千島を占領する予定だった。スターリン・トルーマン秘密電報で、北海道占領が拒否されると、ワシレフスキー元帥は、南樺太から直接南千島へ兵団輸送が可能かを検討させている(暗号電報第677号)。このことからも、南千島の占領は当初からの予定であったことが分かる。また、北千島の占領はカムチャツカ部隊が当たったが、当初は新知島までが行動対象地域だった。(千島列島を距離だけで南北二つに分けると、新知島が中間地点になる。)占領が順調に推移したので、8月27日に得撫島までを占領地域に加えたものである。(これは、択捉島占領作戦が実施に移された翌日のことだった。)
 日本政府は「択捉島以南の四島の占領は、計画のみで中止された北海道北部と同様、日本の固有の領土であることを承知の上で行われた」と書いているが、全く根拠のない説明である。南千島の占領は、南樺太占領部隊によって行われることが当初からの予定であり、実際に、そのように行われた。常識的に考えても、カムチャツカから南千島は遠距離であるため、補給には相当の困難をきたす。南樺太の大泊港を出撃拠点にすることは、当然だろう。(カムチャツカから択捉島まではおよそ1000km、南樺太から択捉島まではおよそ400kmである。)


注意)
 1945年8月16日スターリンはトルーマン宛秘密電報で、北海道の北半分をソ連占領地とすることを要求した。その理由に挙げたのは、もしも、ソ連軍が日本固有の領土に少しも占領地を持たなければ、ソ連の世論はひどく腹を立てると説明している。これに対して、トルーマンはスターリンの北海道北半分占領要求を拒否した。このため、ソ連は南樺太から直接、南千島を占領している。
 このことから、スターリン・トルーマンの間では、南千島は千島であり、ソ連占領地であること、さらに、北海道は日本の固有の領土であるが、樺太・千島はそうでないことが分かる。

(参考)外務省発行『われらの北方領土』1993年版、1994年版、1995年版の不思議


(参考)海部・ゴルバチョフ会談と、外務省発行『われらの北方領土』記述の変遷 


3.2.5 貝殻島のソ連領有


 貝殻島とは、ノサップ岬の先、水晶島の沖にある岩島で、満潮時には水没する。貝殻島をソ連は具体的に占領したわけではないが、GHQの指令によって、貝殻島は事実上ソ連の領土となった。
 ソ連の領土であることが事実上確定したのは、マッカーサーラインである。昭和20年11月3日のGHQ指令により、貝殻島は、日本漁船漁区の外に置かれた。ところが、マッカーサーラインの指令に不明確な点があったため、貝殻島周辺海域では日本漁船の操業が可能だった。そこで、GHQは3年後の昭和23年12月に軍艦で調査した結果、マッカーサーラインを引きなおし、貝殻島とノサップ岬の間に、日露の境界線を引いた。マッカーサーラインは講和発効直前に廃止されたが、中間ラインとの名称で、事実上の日ロの国境となっている。

<参考論文:『日ロ関係と安全操業(本田良一 2006.7)』(スラブ・ユーラシア学の構築 研究報告書No.15)>
 GHQは45年9月27日付で、「日本漁船が一定区域内で操業するかぎり、航海に対し許可を要しない」との覚書を出した。いわゆるマッカーサー・ラインだ。このマッカーサー・ラインが北方領土水域に設定されたのは、11月3日だった。安全操業の第78栄幸丸が拿捕される、ちょうど60年前である。そのラインは、納沙布岬と歯舞諸島・水晶島を隔てる7.2キロの中間だった。つまり、同岬から3.7キロの貝殻島は日本側の水域になっていた。ところが、GHQは48年12月、米駆逐艦「コワゾール号」が再調査した結果として、マッカーサー・ラインを納沙布岬と貝殻島との中間に引き直した。この結果、貝殻島はソ連側の水域になった。マッカーサー・ラインは講和条約が発効する3日前の52年4月25日、廃止されたが、「中間ライン」という事実上の国境として残された。


(参考)マッカーサーラインについて


3.3 ソ連の対日参戦は不法??

 
 ソ連の対日参戦を「日ソ中立条約違反の不法行為」であるかのように主張する人たちが、日本には存在する。右翼・ヤクザ・戦争犯罪者のシンパたちを中心とした勢力に多い主張である。実際には、1956年の日ソ共同宣言により、お互いの請求権は消滅しているので、参戦のいきさつがどうであっても、今後、政治の俎上に登ることの無い話題であるため、いまさら、研究しても、新たに得ることのない問題であるが、歴史上のいきさつを明らかにするために、簡単に記載する。


3.3.1 アメリカが要請し、国際法上の合法根拠を与えたソ連対日参戦

 1943年11月のテヘラン会談で、アメリカ大統領ルーズベルトはスターリンに対日参戦を求め、ドイツ降伏3ヶ月後に、ソ連が参戦することが同意された。1945年2月のヤルタ会談でも、ルーズベルトはスターリンに同様の要請を行い、ドイツ降伏3ヶ月後のソ連対日参戦が合意される等、アメリカは再三にわたりソ連に対日参戦を要請していた。
 1945年7月27日、ソ連外相モロトフは、米大統領トルーマン・国務大臣バーンズを訪ね、日ソ中立条約の残存期間であることを理由に、対日参戦するに当たって、アメリカ・イギリスと他の連合国がソ連政府に戦争に参加してほしいとの要請文書を出すことを求めた。この要請に対して、アメリカ国務長官バーンズは国務省の法律専門家であったベンジャミン・コーヘンの助言により、このような要請文書がなくとも、中立条約を破棄してて参戦することは国際法上合法であるとの結論を得た。そこで、7月31日、トルーマンはスターリンに対して、以下の内容の書簡を送った。

 「1943年10月31日のモスコー宣言では、法と秩序が回復し一般的安全保障制度が創設せられるまで、平和と安全を維持するために、(米英ソ3国は)相互に協議をとげ、国際社会のために共同行動をとることになっている。また、いまだ批准されていないが国際連合検証草案の第106条でも、憲章の効力を生ずるまでは四大国がモスコー宣言に基づいて行動することになっているし、また第103条では国際連合憲章による義務と他の国際協定の義務が矛盾する場合は、憲章に基づく義務が優先する。ソ連は平和と安全を維持する目的で、国際社会に代わって共同行動をとる為に、日本と戦争中の他の大国と協力せんとするものであるというべきである。」(萩原徹/著「大戦の解剖」1950年、読売新聞社 P261-P267)
 未批准の国連憲章を根拠に、参戦を合法化するとの考えは、素人には分かりにくいが、これより前の6月26日には51ヶ国が署名していたので、すでに、国際慣習法として成立しているとの考えだろう。ともかく、この書簡により、ソ連の対日参戦は、国際義務に違反しないことになった。
 ソ連が、日本に宣戦布告すると、アメリカ国務長官バーンズはプレスに声明をリリースし、大統領はポツダム会談で、ソ連の参戦はモスコー宣言第5項と国連憲章第103条、第106条によって正当化されると述べたと説明した。

<参考文献>
 外務省/編「終戦史録4」昭和52年、北洋社 P75-P96
 長谷川毅/著「暗闘」2006年、中央公論新社 P37-P46,P244-P282,P336-P339
 マイアニ/著、安藤仁介/訳「東京裁判」1985年、福村出版 P118-P120 


3.3.2 裁判所の判断


 条約は、いいかげんな解釈をするなら、どうとでも解釈できるので、解釈によっては不法行為と主張できる余地はいくらでも有る。このため、いろいろな意見を言う人があるが、ソ連の対日参戦を否定する判例・国際宣言等は、一切存在しない。逆に、東京裁判の確定した判決では、「中立条約が誠意なく結ばれたものであり、またソビエト連邦に対する日本の侵略的な企図を進める手段として結ばれたものであることは、今や確実に立証されるに至った」と指摘し、ソ連の対日参戦を正当なものと評価している。
 東京裁判はこの問題に関する唯一の国際裁判であり、さらにサンフランシスコ条約第十一条で日本も受諾したものであるため、ソ連の対日参戦が正当なものであることは、世界中なんら疑問の無い確定したことだ。周辺各国の歴史教科書を見ると、すべての国で「日本は侵略の犯罪者」として描かれており、多くの国で「ソ連は解放者」として描かれている


 このように、日本の右翼・ヤクザ・戦争犯罪者のシンパたちの、ソ連の対日参戦を「中立条約違反の不法行為」であるかのような主張は、国際的には孤立した特異で異常なものであることが分るだろう。
 「大東亜戦争は侵略戦争ではなく東亜理想郷建国のためだった」「朝鮮 人は植民地化のおかげで、文化的な暮らしができるようになった」「日本のおかげでアジア諸国は独立を果たした」。このような主張をする人と「中立条約違反の不法行為」を主張する人はかなりダブっているので、国際的に孤立した特異で異常なものであって当然だ。



 左の封筒は、ソ連の対日参戦を記念して、当時アメリカ合衆国で作られた記念品。ソ連対日参戦とスターリンの判断を肯定的に評価している図案になっている。

 『8月8日、日本の最悪の恐怖が現実のものとなった』ソ連対日参戦に対する米国の一般的な評価です。


 (画像をクリックすると拡大します)


 左の封筒は、日本の降伏を記念して、当時アメリカ合衆国で作られた記念品。 ソ連を含む連合国の協力を表現している図案である。

 なお、日本が降伏した日は、降伏文書に調印した、9月2日です。


 (画像をクリックすると拡大します)



3.4 北方領土に残った日本人


 現在、北方領土に日本人は住んでいないそうである。
 1945年、日本の敗戦時には、北方領土には1万6千人ほどの日本人が住んでいた。日本の敗戦当初は、本土への帰還が認められなかったため、歯舞・色丹・国後島からは小船で逃げ出すものが続出し、11月には1万人を下回るまでになった。
 1946年12月、GHQとソ連との間で日本人全員の引き上げが合意されると、1949年7月までにほぼ全員の日本人が帰国した。しかし、日本国籍を離脱し朝鮮国籍となった人はその後も帰還することができなかった。日本人でも、帰国できない人と結婚した人や、ロシア人と結婚した人など、残留を希望する、わずかの人は、北方領土に残留した。これらの人たちも、その後すべて、サハリン・沿海州などに移住して、朝鮮・日本国籍の人は北方領土からいなくなった。ただし、犯罪者で、色丹島を逃げ回っていた日本人が一人いたとの噂がある。
 その後、サハリンなどに移住した日本人の2世、3世の中には、北方領土に移住する人も現れる。現在、北方領土には、このような人が住んでいるそうだが、彼らの国籍はすべてロシア人である。
 なお、1960年代に、ロシアの新聞社に就職した日本人が特派員として、一時期、北方領土に住んでいたとのことである。

 北方領土に居住していた日本人の中で、日本に帰国しなかった人はどれだけいるのか、統計データがないので良く分からない。厚生省援護局の調査によると、サハリンに残留した日本人は、居住者の数パーセント、千数百人とのことである。北方領土も同程度の割合と考えると、日本へ帰国しなかった人は数十人であると推定される。


ロシア人と結婚した日本人

 1945年8月以降ソ連兵が進攻すると、当時、北方領土に居住していた日本人はソ連兵を恐れた。実際ソ連兵による犯罪行為も発生し、ソ連兵は何をするのかわからないと言う噂が噂を呼び、島の若い女性たちは、髪を切って、男装するものまで現われた。
 日が経つにつれ、KGB将校が現われ、ソ連民間人も島に移住するようになると、住民の生活も落ち着いてくる。同じ校舎を使ってのソ連人学校・日本人学校も始まり、日本・ソ連の少年少女達がハイキングを楽しんだとの記録も残されている。ロシア人男性と日本人女性のロマンスもあった。ロシア人男性は若いKGB将校、民間人青年などである。しかし恋愛関係になった場合も、大多数の日本人女性は男性と別れて、日本に帰国している。
 こうした中、択捉島留別村内保の高橋慶子さんは、恋人について島に留まったという。その後、高橋さんはサハリン島ホルムスク(旧・真岡)に在住していたとのことである。

参考)
 留別村の内保では、ソ連兵と結婚して島に残った人がいました。進駐時のソ連兵の中には、日本の民家に押し入って略奪や暴 行をはたらく者もいましたが、日がたつにつれ、そうした行為もなくなり友好的になっていました。
 昭和22(1947)年の引き揚げの時のことです。ソ連兵と恋仲になった娘さんがいて、ひそかに結婚の約束までしていたことから、親の方は「娘を渡さない」ソ連兵は「渡せ」と、ひと悶着が起き、喧嘩にまでなってしまいました。
 引き上げ船の出航時間が迫るばかり、最後に、肉親と涙ながらに別れ、娘さんは島に残ったのです。
 その後、彼女は、樺太に住み、それなりに幸せな暮らしをしているそうです。(択捉島)
  『北方領土 高校生が聞いた202話』 北海道根室高等学校地理研究部/著 日本教育新聞社(1991.4.12)

参考)サハリンに残った日本人


3.5 千島領有の根拠

◎1945年8月9日〜9月2日
 戦争中のことであり、正当な戦時占領だった。


◎1945年9月2日〜1946年1月29日
 ポツダム宣言第七条、一般命令第一号(陸、海軍)により、千島諸島はソ連の占領下になった。

注1)一般命令第一号では、千島の日本軍は、ソ連に投降することを義務付けている。一般命令第一号を履行するために、ソ連軍は千島に進駐する必要があった。一般命令第一号が発令された9月2日時点では、ソ連軍は歯舞諸島に進駐していなかったが、9月3日から5日にかけて急遽進駐し、歯舞駐留日本軍を武装解除した。

注2)一般命令第一号では、日本軍がソ連へ投降すべき地域は千島諸島となっているだけであり、個々の島名が明示されているわけではない。歯舞は千島に含まれないとの解釈により、歯舞のソ連占領を不当であるとする意見もある。しかし、不当であると主張する権限は日本には無く、その権限は米国にあった。米国は不当と主張していないので、歯舞のソ連占領を不当とする考えは誤り。

◎1946年1月29日〜1952年4月27日
 1946年1月29日、GHQ指令(SCAPlN-677) により、千島列島、歯舞群島、色丹島は日本の行政範囲から省かれた。このとき以降、日本の行政権は及ばないので、ソ連の支配を不当とする根拠は無い。


◎1946年2月2日以降
 ソ連邦最高会議一九四六年二月二日付命令により、サハリン島南部及びクリル諸島の領域は、一九四五年九月二十日にさかのぼって、ソ連の国有になった。
 1946年1月29日SCAPIN-677により日本国は行政権を失ったので、ソ連は正式に国有を宣言した。ソ連・ロシア側から見たら、この時以降、一貫してソ連・ロシアの国内なので、国内法の適用となっており、法的には国際間の問題とはならない。

注3)SCAPIN-677は占領下の暫定命令であるので、この時点でソ連が国有化を宣言するのは「荒っぽい」との考えもある。


◎1952年4月28日以降
 サンフランシスコ条約が発効し日本は独立を回復した。
 サンフランシスコ条約二条C項で、日本は千島列島の領有を放棄したので、千島列島をソ連が引き続き支配することに何ら問題はない。放棄した以上、日本に千島の領有権を主張する根拠は無い。
 日本政府は、衆参両議院において、日本が放棄した千島列島に国後・択捉が含まれると言明。このため、国後・択捉のソ連支配は当然だった。(もし、ソ連が支配しなければ、国後・択捉はどの国の権力も及ばない地域になってしまう。)
 日本政府は、歯舞・色丹は放棄した千島列島に含まれないと言っているので、歯舞・色丹のソ連領有の法的根拠を疑問視する考えもある。

注4)サンフランシスコ条約をソ連は批准していないので、日本とソ連との戦争状態が法的に終了するのは、日ソ共同宣言発効の1956年12月12日である。このため、1956年12月11日以前は、合法的な戦時下の占領との考えもある。

注5)1956年2月11日、衆議院外務委員会において、森下政府委員は「(サンフランシスコ)条約にいう千島列島の中に(国後・択捉)両島は含まれていないというのが政府の見解」と、声明。このときから、日本政府は一貫して国後・択捉の領有権を主張している。このため、このときの政府解釈によれば、四島はソ連の不法占領との主張も成り立つ。

◎1956年12月12日以降
 「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」が発効し、日本とソ連との戦争状態は法的に終了した。
 共同宣言9条には、平和条約締結後に「歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡す」となっている。このため、平和条約締結以前に歯舞群島及び色丹島をソ連が支配することは日本とソ連の間の了解事項だった。

注6)平和条約締結以前に、歯舞群島及び色丹島をソ連が支配することは日本とソ連の間の了解事項ではあったけれど、日本の立場から見ると、ソ連の領土になったわけではないので、領有が日本の法律で合法化されたわけではない。(日本はソ連が支配することを認めたけれど、特段の法的処置を取っていない。)合法化されていないので、不法占拠との主張が有る。
 しかし「政府間の共同宣言で支配を認めたけれど、日本国内で法的処置を取っていないので不法占拠だ」との主張は国際的には全く通用しない。「不法占拠」との批難は単に日本国内向けの政治宣伝に過ぎないことが分る。
 なお、歯舞・色丹がサンフランシスコ条約で放棄した千島列島に含まれるならば、不法占拠との主張は成り立たない。

注7)国後・択捉について
 日本政府の立場では、国後・択捉は継続して協議するわけなので、両島をソ連が支配していることを、黙認していることになる。このため、不法占拠と強く主張はしないけれど、不法占拠であるとの意見がある。しかし、平和条約締結以前の歯舞・色丹の支配を認めておきながら、国後・択捉は不法占拠であるとの主張には、国内向け政治宣伝以外、説得力は無いでしょう。
 当時、日本政府が説明していた通りに、サンフランシスコ条約で放棄した千島列島に国後・択捉が含まれるのならば、両島をソ連が支配することに対して、日本が不法占拠と主張する根拠はない。

◎1961年になるとフルシチョフは「領土問題は解決済み」との立場を表明し、日ソ共同宣言の二島引渡条項を否定する発言を行った。これ以降、ソ連指導部から、たびたび、同様な発言が行われた。
 このため、日ソ共同宣言はすでに効力を失っているので、歯舞・色丹をソ連が支配する根拠は失われたとの考えがある。しかし、ゴルバチョフ政権誕生以降、再び、日ソ共同宣言を尊重するとの発言がソ連・ロシア首脳からなされている。そして、日本政府もこれら発言を原則として歓迎している。このような状況をみれば、日ソ共同宣言は今なお有効であると考えられる。



 昭和31年11月29日 、参議院外務委員会において、下田武三政府委員(条約局長)は梶原茂嘉議院の質問に対して、以下のように、ソ連が北方4島を占領し続ける事は、不法とはいえないと、答えています。


○政府委員(下田武三君) 従来は、これらの島々に対するソ連の占領は戦時占領でございましたことは仰せの通りでございまするが、しかし共同宣言が発効いたしますと、第一項の規定によりまして戦争状態は終了するわけでございますから、その後におきましては、もはや戦時占領でなくなるわけでございます。しからば戦争状態終了後、歯舞、色丹をソ連が引き続き占拠しておることが不法であるかと申しますと、これはこの第九項で、平和条約終了後に引き渡すと、現実の引き渡しが行われるということを日本が認めておるのでありまするから、一定の期限後に日本に返還されることを条件として、それまで事実上ソ連がそこを支配することを日本はまあ認めたわけでございまするから、ソ連の引き続き占拠することが不法なりとは、これまた言えない筋合いであると思います。
 それから国後、捉択等につきましては、これも日本はすぐ取り返すといろ主張をやめまして、継続審議で解決するという建前をとっております。従いまして、これにつきましても事実上ソ連が解決がつくまで押えてあるということを、日本は不問に付するという意味合いを持っておるのでありまするから、これもあながち不法占拠だということは言えません。要するに日本はあくまでも日本の領土だという建前を堅持しておりまして、実際上しばらくソ連による占拠を黙認するというのが現在の状態かと思います。




詳しい北方領土問題の話の先頭ページへ       北方領土問題の先頭ページへ