北方民族・アイヌの遺跡
(写真をクリックすると拡大します)
ポー川史跡自然公園
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ポー川史跡自然公園の展示品。択捉島留別の遺物。 |
ポー川史跡自然公園の展示。
旧時代の資料が展示されています。
復元家屋
この公園内には、日本人北海道開拓の苦労を偲ぶ住居が、多数、復元・移設されています。先住民族の復元住居も少しだけありました。
ポー川史跡自然公園にあるオホーツク文化の復元家屋(1000年ほど前)。
オホーツク文化とは、オホーツク沿岸の沿海州・樺太・北海道東北部・
千島列島に広がっていた、アイヌ文化成立以前の北方先住民族の文化。
(北海道にあった続縄文文化や擦文文化とは異質の文化です。 )
ポー川史跡自然公園のアイヌ復元家屋
(正確には、1000年ほど前の擦文時代の復元家屋)。
伊茶仁カリカリウス遺跡
縄文時代からの歴史を物語る12群余の集落跡、約1,500の竪穴住居跡群跡があります。
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遺跡を示す表示 | 竪穴住居跡の一つ ここには、およそ200個の竪穴住居跡がかたまってあります。 |
根室市歴史と自然の資料館
写真は、根室市歴史と自然の資料館(北海道根室市花咲港209)の、根室半島アイヌ遺跡の出土貨幣。 上3枚は皇宋通宝、下4枚は洪武通宝で、ともに、中国からの渡来銭。
皇宋通宝は日本の平安末期ごろ、北宋で鋳造され、洪武通宝は日本の室町時代に、明で鋳造された。ただし、これらの中国銭は、日本に大量に輸入され、更に、日本国内でも、私鋳されているので、写真の貨幣がいつの時代に、この地にもたらされたのか、定かではない。
(中国で鋳造されたものか、日本で鋳造されたものなのかは、貨幣の字体を見ればわかる可能性があるが、私には知識がないので分からない。)
どのような経路で、根室のアイヌにこの貨幣がやってきたのか分からないが、アイヌと日本との交易で渡島半島からアイヌ社会に入って、その後のアイヌ同士の交易で、根室までやってきたと考えるとちょうど良いように思う。
『中国の貨幣だから、ここは中国固有の領土だったに違いない』と考える人は、いないだろう。
日本に残存している枚数が多い渡来銭の解説は以下をご覧ください。
渡来線インデックスはここをクリック
第1位「皇宋通宝」から第10位「聖宋通宝」の写真と解説はここをクリック
第11位「洪武通宝」から第20位「元符通宝」の写真と解説はここをクリック
第21位「景祐元宝」から第30位「嘉定通宝」の写真と解説はここをクリック
第31位「乾元重宝」から第40位「淳祐元宝」の写真と解説はここをクリック
根室市歴史と自然の資料館
ここは、貴重な資料を間近に見ることが出来るのだけれど、資料の点数に比して狭い。予算があれば、もっと立派な展示館を作るべきなのだが、、、
チャシ
チャシとはアイヌの遺跡で詳しいことはわかっていないけれど、砦の跡と考えられている。日本人の北方進出を顕彰するような碑がいくつもあるが、先住民の遺跡はぞんざいな扱いだ。
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ポンモイ・チャシ跡 | ヲンネモト・チャシ跡 |
ポンモイ・チャシ跡は納沙布岬にある。草に覆われた中に、ポツンと立っている。道路から近いのでたどり着けたが、訪ねる人など誰もいないといった雰囲気だった。
ヲンネモト・チャシ跡は、道がはっきりしていて行き易い。
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左上の写真は、ノッカマップのチャシ跡(アイヌの遺跡)をものすごく遠くから撮ったもの。右の写真はノッカマップのチャシ跡(アイヌの遺跡)に行く道の指導標。
2008年にここを訪ねたとき、途中の道が笹に覆われて近づくことができなかった。アイヌが先住していたことは、無視ないし軽視されている。消し去ろうというものではなくて、単に、関心が無いので、放置されたままになっているように感じた。
2014年に再び訪ねると、途中の道が除草されており、チャシ跡まで行くことができるようになっていた。アイヌの先住がどうこう言う前に、せっかくの観光資源なのだから、整備したほうが良いですね。
西月ヶ岡遺跡
クナシリメナシの戦い
納沙布岬に立つ、クナシリ・メナシの戦いで死亡した日本人71人の墓標(碑)の隣に説明看板が立てられ、そこには、以下のように、説明されています。
『寛政元(一七八九)年五月、国後島とメナシ(現在の標津町付近)のアイヌの人々が、当時この地域の場所請負人であった飛騨屋久兵衛の丸配人らに脅されて、僅かな報酬で労働を強いられ、やむなく蜂起し和人七十一人を殺害した。
松前藩は、ノッカマップ(根室半島オホーツク海側)にアイヌの人々を集め蜂起の指導者三十七人を処刑した。このできごとは、"寛政クナシリ・メナシアイヌ蜂起"と称されている。(以下省略)』
クナシリ・メナシの戦いで、松前藩は蜂起した31人のアイヌを処刑した。現在、処刑場所となったノッカマップで毎年9月の終わりごろにアイヌの人達による慰霊祭(ノッカマップ・イチャルパ)が行われている。
場所は、ノッカマップ川の河口付近。
もともと、松前藩の運上屋はノッカマップにあったが、アイヌの人達が、クナシリ・メナシの戦いで処刑場になったノッカマップを嫌ったため、運上屋を根室に移したのが、根室の起こりだ。
納沙布岬に立つ、クナシリ・メナシの戦いで死亡した日本人71人の墓標
碑の裏側には文字が刻まれているが、苔が生していて、読める状態では有ない。「クナシリ・メナシの戦い(根室市博物館開設準備室 根室歴史研究会)」によると、現代語訳にすると
、次のようになる。
『寛政元年五月に、この地の非常に悪いアイヌが集まって、突然に侍や漁民を殺した。殺された人数は合計七十一人で、その名前を書いた記録は
役所にある。あわせて供養し、石を建てる。』
碑文をそのまま信じると、アイヌは悪い奴だったような気がするが、実際はそうではなくて、当時、日本人の横暴でアイヌは生存の危機に直面していた。日本人が徹底的に弾圧して、その結果としての蜂起なのだけれど、蜂起の被害に遭うとそれだけを取り上げて、相手が凶悪であるようにいい連ねた。
今、「日本人の誇り」などの言葉で、日本人が被害にあったことだけを強調して、周辺諸民族に対する日本人の優位性を主張する動きがある。昔と変わらない。
ノッカマップ・イチャルパ
クナシリ・メナシの戦いで死亡した人たちの慰霊のために、処刑場所となったノッカマップで毎年9月の終わりごろにアイヌの人達による慰霊祭(ノッカマップ・イチャルパ)が行われている。写真は2014年のもの。
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夷酋列像
クナシリメナシの戦いを鎮圧後、松前藩家老・蠣崎波響は鎮圧に功績のあったアイヌ12人の肖像画を描いた。アイヌの着ている衣装は、アイヌのものではなくて、ロシアのマントや中国の官服などで、実際のアイヌの姿を伝えるものではない。
上の写真は2015年に国立歴史民俗博物館で開催された「夷酋列像 蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界」展のポスターの一部。夷酋列像に描かれたアイヌ像を貼りあわせている。
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