豊臣秀吉の朱印状 文禄二年(一五九三)正月

於松前、従諸方来船頭商人等、対夷人、同地下人、非分義不可申懸。並船役之事、自前々、如有来、可取之。自然此旨於相背族在之者、急度可言上、速可被加御誅罰者也。
  文禄二年正月五日 朱印
          蠣崎志摩守とのへ


出典:(新札幌市史 第1巻 通史1)


口語訳
 松前に来航する船頭や商人たちや、アイヌや地元の人に非道な行為をしてはいけない。入港税はこれまで通り取ってよい。これに反したものは、速やかに罰せられる。


 諸方から来る船頭、商人のアイヌに対する非法な行為を禁ずると共に、従来よりの船役徴収権を秀吉から公認されたもので、この朱印状は他の大名の石高、本領安堵状とは異なるが、本質的には変わるものでなく、これにより慶広は安東氏の配下を脱して蝦夷島における支配者の地位を確立した。
 ついで、その夏東西のアイヌを呼び集め、御朱印を見せ、アイヌ語で読みきかせ、「志摩守の下知に違背し、諸国より往来の者某(シャモ)に対し夷狄猛悪の儀あるに於ては、速かに其旨趣を言上せしむ可し、関白殿数十万の人勢を差遣はし悉く夷狄を追伐せらる可きなり」(新羅之記録)と申し聞かせ、下知にそむくアイヌは国家権力への反抗であることを示した。(新札幌市史 第1巻 通史1)


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