小学校で、宗教の授業時間に、日本の宗教についての説明をして欲しいと、先生に頼まれた。

ここイタリアでは、幼稚園、小学校、中学校共に、『レリジオーネ(宗教)』の授業が存在する。当然、ここで習うのは、カトリック教。他の宗教を信仰している子どもは、別の教室で違う授業を受けるのだとか。

日本のことを説明する時に、宗教は避けては通られないので、過去何度も、どのクラスでも簡単に説明はしていたけれど、あらためて『宗教の授業時間』に・・・と言われると緊張してしまう。だって、1時間ある訳でしょう。そんなに長時間、何を話せばいいのさぁ。

私がお邪魔した5年B組は、ちょうど、『世界の宗教』を学んでいる最中。彼等が使っている教科書に、仏教は載っていたが、神道は載っていなかった。簡単に仏教、神道、それぞれについての説明をして(本当に簡単にだけ。私が既に暗記していてそらで言える程度の内容。世間話の域を出ていない・・・)、私が派遣されている団体がくれた、日本の説明がイタリア語で書かれた本の宗教の部分を読んで、子ども達がそれをノートに書き取る、ということになった。

この本、日本にいる時分にもらっていて、非常に役に立っているのだが、正直に打ち明けると、私は、この本の全てを読んでいない。本当は、日本にいる時に、準備としてそれくらいしておかなきゃいけなかったんだろうけれど、この本は、言い回しが難しくて・・・。重要な部分の単語は辞書を引いて、この本の文章を参考にしながら、私が覚えて説明出来るような簡単な文章に書きなおして、授業の説明に使っていた。

という程度の雑さでしか読んでいなかったので、この授業中に初めて気が付いた。私達の『神』、カミは、“i kami”になっている!!

イタリア語の名詞には、必ず冠詞というものがつく(他のラテン語を起源とする言語も同じだと思う)。“i kami”の、“i”の部分、これは、男性形名詞、複数形につく定冠詞。

イタリア語の名詞には、男性形と女性形というものがあり、それぞれ、単数形、複数形で形が異なる。そして、この名詞の状態に応じて、定冠詞も変化する。

例えば、本という名詞は、“libro リーブロ”で、これは男性形の名詞。男性形単数には、“イル”という定冠詞がつき、1冊の本は、“イル・リーブロ”
本が複数になると、“libri リーブリ”と変化し、定冠詞は、“イ”。複数の本は、“イ・リーブリ”

ペンという名詞は、“penna ペンナ”で、これは女性形の名詞。定冠詞をつけると、“ラ・ペンナ”。複数のペンになると、“レ・ペンネ”

基本的に、男性形名詞は、語尾が、“o”で終わり、複数形になると、これが“i”に変化する。
女性形名詞は、語尾が“a”で、複数形は“e”に変化する。

そして、語尾が“e”で終わる単語も多数存在し、これは複数形になると、語尾が“i”に変化するんだけれど、この単語は、男性形名詞の場合と女性形名詞の場合がある。

犬。“cane カーネ”は、男性形名詞であるため、“イル・カーネ”、そして、“イ・カーニ”
船。“nave ナーヴェ”は、女性形名詞であるため、“ラ・ナーヴェ”、そして、“レ・ナーヴィ”

本当はこれ以外にも、更にもっと細かい規則があるのだけれど、ここでは文法を語るのが目的ではないので、以下省略。

定冠詞はイタリア語にとって、すごく重要な、そして基礎中の基礎、であるもの。イタリア語を話す、または書くときは、絶対に定冠詞をつけなくてはいけない。だから、彼等にかかると、『豆腐』だって、“イル・トーフ”、『禅』だって、“ロ・ゼン”になっちゃう。

“イル・トーフ”は許せても、『着物』、“イル・キモーノ”が、2枚になると、“イ・キモーニ”になるのは、気持ち悪くて許し難い私なんだけれど、この“イ・カーミ”には、感動してしまった。

全くの偶然で他意はないと思うんだけれど(あったらどうしよう・・・)、私達の『神』は、『KAMI』、語尾が“i”で終わるので、イタリア語に当てはめて考えると、複数形なわけ。そう!そうよ!その通りなの!!と、私はすごく感動してしまったのであった。だって、私達の国には、八百万の神が存在するんだものね。

ちなみに、イタリア語で『神』のことは、“Dio ディーオ”という。これは、男性形名詞の単数形。だって、この国で『神』と言えば、キリスト教の神。キリスト教は一神教。唯一神を信じる人達。だから、彼等にとって、複数の神は存在しない。しかし、複数形の言葉は存在していて、“イ・デーイ”となる。辞書を引くと、複数形は、『異教徒の神々』となっている。

私は、キリスト教の文化、美術、物語として読む聖書、には非常に興味を持っていて、大好きなんだけれど、どうもこの唯一神というのだけが、気に入らなくて・・・。カミサンのいっぱいいる国で生まれて育ったもので、どうも馴染めない。

ここでは、個人的な宗教観についての話をしたいわけじゃなくて・・・。とにかく、私達の神は、複数形だった、ということが、すごく面白くて素敵だなぁ、と感じてしまったわけ。

これは、秋に知った、『柿 カコ→カキ』に次ぐ、私の気に入ったイタリア語、・・・じゃないや、日本語。(カキについては、『秋の味覚』参照)

そして、逆に、私が最も嫌いな言葉。それがこれ、『カミカゼ』

2001年の春、私がイタリア滞在を始めた頃、テレビのニュースは、連日、パレスチナ問題がトップニュースだった。日本を発つ前は、そういうニュースを見かけた記憶があまりなかったので、何事が起こったのか!と、最初はすごく驚いてしまった。特に大きな事件があった訳ではなく、でも、衝突が慢性化していて、毎日トップニュース扱いだった。

イタリア語がよく聞き取れない私でも、ニュースの画面を見ていれば何が起こっているのかは理解できる。そして、こんな私の耳にもはっきりと聞き取ることが出来るひとつの単語。それが、『カミカゼ』。あまりに頻繁に耳にするので、私は最初、『カミカゼ』という名前のテロリストのグループが存在するのだと思っていた。でも、どうやら、自爆テロリストを、『カミカゼ』と呼んでいるようす。

これは、世界的な呼称なんだろうか?。日本でもアメリカでも、こうやって呼ばれているんだろうか・・・?

中学校の先生にもらったイタリア語の文法の本。今年、子ども達が用いているのとは別の本だけれど、中学校で使われる教科書であることには違いがない。その中に、『外国語を由来とする単語』という記事がある。ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、ロシア語、インド語・・・等々。例えば、アラブ語の欄には、harem。これは、日本でも使われている。イタリア語で書かれたこの言葉の説明を読むまでもなく、ハーレムだ。注目の日本語の欄に揚げられている言葉は、geisha、ikebana、judo、karakiri(ハラキリのことだろう)、karate。そして、kamikaze。この単語の説明は、『pilota suicida』、自殺するパイロット。

『カミカゼ』という日本語は、とても有名な言葉である。ある日、ファブリッツィオに意味を尋ねられたので、「カミはディーオ。カゼはヴェント」と教えてあげると、すごく喜んでいた。親戚が集まった時に、「カミカゼの意味を知ってるか?」と、得意気に説明していたもの。

別の日、またもやファブリッツィオが、「ハナコ、君はカミカゼの語源を知っているか?」と。「意味じゃなく、語源だ」とニコニコしているので、私その言葉嫌いなんだけど・・・と思いつつも、「だから、第二次世界大戦で・・・」と、口を開くと、「違う!君も知らないんだな!よし、僕が教えてあげよう!」と、雑誌を手に戻ってきた。「12××年に・・・」と、雑誌に書かれた説明を読み上げてくれるファブリッツィオ。はぁ?1200年!?何のこっちゃぁ!!と、イタリア語にパニックになりかけた私だったが、分かった!思い出した。これは、蒙古襲来だ。

カミカゼ。神の風。ヴェント・ディ・ディーオ。

この言葉自体は、すごく良い意味を持った、素敵な言葉だと私は思う。でも、使い方が問題。この言葉が世界的に有名になった(んであろう)、あの時代は、『神』が違う。『神』を間違えてた。そして、今現在もそう。この呼び方は彼等自身が名乗っているのか、回りが与えたのか。それは私は知らないけれど。だいたい、『神』というものが存在するのか、それも私には分からないけれど、こういう使われ方をするこの言葉は、私は大嫌い。

一日も早く、テレビのニュースから、この言葉が聞こえなくなる日が来ますように(本当にこの言葉がニュースから流れない日はない。昨日もそう。だから、きっと今日のお昼のニュースでも・・・)。