イタリア人。とひとことで言っても、当たり前のことだけれど、人それぞれ。私には、イタリア人はこんなの!と言う気もないし、そう言えるほど彼等のことを知らないんだけれど、時々、彼等自身が、「イタリア人は・・・」と、私に教えてくれる。それが面白いので、集めてみました。


春、私がこの町に滞在して間もない頃、ファブリッツィオの従兄弟夫婦が遊びにやって来た。

いろいろと日本に関する話や、私に関する話をして、あ、そうだ!と思いつき、和紙で作った着物の女の子のカードをプレゼントした。「まぁ、可愛い!ありがとう!」と、奥さん。ご主人は、素朴に、どうやって作ってあるんだろう・・・という疑問からだとは思うんだけれど、糊で貼ってある部分を剥がそうとしていた。これには、私も、一瞬、コイツ何するねん!?と思ってしまったんだけれども、それを見たファブリッツィオが、「お前、何をしている!!。イタリアの男は、みんなこうなんだ!!」と、叫んだ。

そうそう。だって、彼の行為は、どうみても、女の子のスカートの中を覗こうとしているようにしか、思えなかったんだもの・・・。

でも、このファブリッツィオの言葉、何が可笑しかったかって、彼達、自覚があるんだねぇ・・・。


春、フランチェスカが私にこんな話をしてくれた。

「ウチは、私はおしゃべりだけど、主人は喋らないのよ。彼は何も喋らないの。だから、今日(仕事から)何時に帰ってくるか、私は知らないの。家で夕食を食べるのかどうかも知らないのよーん。あはははは!」

私は、最初、どうして彼女はファブリッツィオと結婚したんだろう・・・と不思議に感じていた。だって、あまりにもタイプが違いすぎるのだもの。しかし、しばらく一緒に暮らすうちに分かってきた。彼は、とてもいい人。すごく魅力的。最高の主人であり、最高の父親であると、私は思う。

ま、それはさておき、フランチェスカはそのあと、こう続けた。

「イタリアでは大抵そうなのよ。どこの家でも奥さんはよく喋るけど、主人は無口なの。ほら、私の弟は、よく喋るから、まだ独身でしょ」

これは事実なのか、冗談だったのかはよく分からないのだけれど、それ以来どうしても、こういう視点で、知り合ったイタリア人男性を観察してしまう・・・。そして、こういう風に観察すると、すごく面白い。


夏休み、日本から友人がやって来て、一緒にイタリア旅行をすることになっていた。夏休みが近づいたある日、私のもとにエアメイルが届いた。シチリア島のホテルを予約するため、手紙を出したところ、返事が来たのは良いが、何と書いてあるか読むことが出来ない。「イタリア人に見せて、読解してもらっておくれー」とのこと。

確かに。彼女が送った手紙の上に、ペンで何やら、文字らしきものが書かれているのだけど、私に判読出来るのは、日付とホテルの名前のみ。どうして、『○』か『×』と書いた返事をくれないんだ?

フランチェスカに見せて事情を話してみた。

「これは、Cの文字に思える」とか、「私にはDに見えるけど、もしかしたらAかも。だってDだと、文章として成り立たない」なんて、ロレンツォも巻きこんであれやこれやと。

結局、書いてある文字を無理やりにでも読むことが出来て、予約の返事に相応しい言葉として、『Confirma』という意見に落ちついた。しかし、そうだとしてもスペルが違う。『確実』という意味は『Conferma』というスペル。『Confirma』という単語は存在しない。もう1度手紙を書くか、ここから電話をしなさい、とフランチェスカ。私も、それが正しい対処だと思う。

「だいたい、英語で書いてきた手紙にイタリア語で返事を書いているし、南の人だから、頭がちょっとオカシイのよ」とのこと。

南イタリアと言えば、フランチェスコがこんなことを・・・。

「僕は、自分と君が同じだと思っているけれど、南はそうじゃない。女性は、働かずに家にいるべきだ、とまだ思っている」とかなんとか・・・。まぁ、田舎は保守的であるというのは、どこの国でも似たり寄ったりだと思うんだけれども。

そして、「南イタリアは、経済がゼロだ。何もない。あいつらは働かない。税金だって払わない。僕達が働いてあいつらの分も払っている。イタリアが半分だったら、今ごろは日本みたいに金持ちになってる」

フランチェスコは器用だし頭も良いし、イタリア人になったつもりで見ると、しっかり仕事をしている人だと思う(ま、仕事中にした冗談の話を、しょっちゅう聞かされたりもしているんだけれども)。彼が仕事をしているところを見た訳じゃないけれど、よく働いているんだろうな、というのは想像出来る。しかし、あくまでも、“私がイタリア人になったつもり”で考えると、であって、彼の働きぶりじゃ、どれだけ経っても、イタリアが半分であろうが、4分の1であろうが、日本のように金持ちには決してなれない・・・(私は『金持ち』になる必要なんてないと思うんだけれど。日本を『金持ち』にした人達よりもフランチェスコのほうが、数百倍、幸せに見えるもの)。

この時、彼が冗談を言ったのか、本気だったのかは微妙なところなんだけれど、この人は、冗談よりも本気の話のほうが面白いので、この時も恐らく・・・。


幼稚園で、『鶴の恩返し』のイタリア語訳を読んだときのこと。

鶴が女性に姿を変え機を折るシーン。機を織る音しか聞こえて来ず、男は非常に不安になったが、決して部屋の中を覗いてはいけない、という女との約束を思い出し、部屋の中には入らなかった。

という部分を読むと、先生が私の隣で、「イタリア人はカッティーヴォ(悪い)だから、絶対に約束なんか守らないで、部屋の中に入ってるわ。あはははは。こんなところにも、日本人とイタリア人の違いがよく現われてるわぁ!」とのこと。

うん。私もそう思う・・・。しかし、1度目で部屋の中に入っていたら、この物語は成立しない。


どうして、この人は私が考えていることがこんなに分かるんだろう。突然、大声で「ハナコ!ノルマーレ!」とフランチェスコ。

「これはノルマーレ(普通のこと)。だから心配しなくていい。いつもこうだから」って。12月26日、サン・ステーファノのお祭りの日。親戚が集まって、ひいおばあちゃんの家で昼食を食べていた。食事もほとんど終わり、みんなで話をしているんだけれど、特にここのおばさんが・・・、これは私が彼女に会うたびに感じることなんだけれども・・・。どうしてみんなで叫びあっているのさ。そんなに大声を出さなくても聞こえるでしょうに。この国では大きな声を出したものが正しい、という言葉をつくづく実感。

だけど、私は決して心配していたわけではなく、ホントに関西人にそっくり・・・と少し呆れ、そして笑いがこみ上げてくるのを堪えていたんだけれど。私、そんなに変な顔してたんだろうか?

だいたい、会話の声がデカイ、だとか、いつも喧嘩ごしに聞こえる、なんていう事は、関西人の私が思ってはいけないことである。


フランチェスコと夕食にピッツァを食べに行った。席についてしばらくして、「みんなが君のことを見ただろう?」って。

そう。ここイタリアでは、道を歩いていても、お店に入っても、老若男女問わず、上から下までじっくりと眺められる。もう、そんなことは慣れっこなので、この日もフランチェスコにこう言われるまで、思い出さなかったくらい。真ん中辺りに座っていた2人組みの女性の1人が、何か用なんかいぃ?と聞きたくなるほど、私を見つめていたけれど、別にそれほど気には留めていなかったや。

いい機会なので、フランチェスコに理由を尋ねてみた。答えは、いたってシンプル。

「僕達、イタリア人は、外国人が入ってくると、絶対に見る。どうしてかって、それがイタリア人だから。入ってきたのがドイツ人の金髪だったら、完璧に、絶対に、みんなが見る。僕も、じっくりと見る」

うん。よく分かった。

なので、皆さんもイタリア旅行中、イタリア人にじーっと見られても気にしてはいけません。じろじろ眺められたら、じろじろ眺め返してやりましょう。だって、どう考えたって、私にとっては、アジア人の私自身より、それを見つめているイタリア人の方が、オカシナ存在なんだもの。

美術館へ行くと、親に連れてこられて退屈な子どもが、絵を見ないで、私のことを口をぽかんと開けて見つめていたりする。これは、微笑ましくていいんだけれども。

しかし、東洋人もドイツ人も金髪も、珍しくないやろ・・・と思うんだけれどな。でも、それがイタリア人だというのなら、仕方がない。