三つの失敗


市場の失敗に注目したのは、ケインズ主義およびその血統を引き継いだ構造主義だった。彼らは「現実において市場機能はうまく働かない」と指摘した。その根拠としてたとえば賃金の下方硬直性や市場独占などを挙げた。彼らは、これら「市場機能の前提条件の欠落」を指摘して、それらを是正することに政府の役割を求めたのであった。


しかし、それら政府の役割を強調しすぎたがゆえに、恣意的な政府の介入が望ましくない結果をもたらすという「政府の失敗」に注目した学派があった。それが新古典派である。彼らは、まずいかに不完全であれ市場機能は、完全ならざる政府計画よりはマシである、という認識をもっていた。つまり、完全情報を入手できない以上それにしたがって政府計画は必然的に失敗するという考えである。そこで、新古典派は徹底的に政府の失敗構造を取り上げ、公営企業や大規模な政府介入を批判した。


上記のこれら考えは一見するとまったく違った認識であるかのように見えるが、その背景にはある一つの共通した認識がある。それはすなわち、「市場が正常に機能する限りにおいて、それがもたらす結果は望ましいものであるはず」という市場至上主義とでも呼ぶべき考えだ。ケインズ主義者は市場が機能する前提条件の欠落を指摘したが、それは逆にいえば、それら前提条件がそろうことで、市場は健全に機能し、その結果は必然的に望ましくなるという暗黙の認識がある。後者の新古典派に至っては、市場に委任することが最も経済的に望ましい結果を引き起こす唯一の手段であると認識しているわけである。「望ましい」という言葉が持つ内容を吟味する必要があるが、ケインズ主義にしても新古典派にしても正常に市場が機能する結果にはワルラス的資源配分と競争を通じた理想的厚生分配が構築されると考えられている。これらはアダムスミス・リカードに遡る古典派からの影響である。したがって、これらの「理想的結果」というのは需給の一致に基づく静的均衡にあるといえよう。つまり、これら両者は事前的な条件に対する認識は異なっているが、事後的に正常な市場機能が引き起こす結果については同様のヴィジョンを持っていたということができる。


しかし、現実に、それら事前的条件にとどまらず、「市場が健全に機能した」としても事後的な結果が国家目標に沿って望ましいという保証はどこにもない。そもそも国家や政府、そして民間団体にしても理想とするのは経済的競争力の強化である。これは当然低位から高位への移動をともなうことであって、静的な均衡とは相容れない関係にある。このように、新古典派やケインズ主義など古典派にルーツを持つ学派はいずれも、根本的には静的な均衡状態を終着点とするにも関わらず、一方で産業構造の複雑化や技術能力の高度化、あるいは競争状態の過密化を求めるという二律背反の状況に陥っている感もある。


そこで、もし最終的な目標を、「静的な均衡状態」ではなく「産業の高度化・複雑化」や「経済的競争力の強化」におくとすれば、「健全な市場機能がそれら目的に合目的的であるかどうか」をチェックする必要がある。簡単にいえば、例え前提条件がそろって市場機能が正常に機能したとしても、その結果が産業構造の高度化・複雑化、競争力強化につながるか、という点に注意しなくてはいけないということである。


この質問に対しては「正常な市場機能でさえも、それら目的に対しては常に合目的的であるとは限らない」というのが正解である。つまり、例え市場が正常に機能したとしても、例えば複数均衡問題や囚人のジレンマといったコーディネーションの失敗によって、それら目的に対しては効果的ではない結果をもたらすこともあるからだ。そこで、これら「目的に対してネガティブに作用する諸要因」をすべてコーディネーションの失敗を呼ぶことにする。


これらコーディネーションの失敗は、市場の失敗、政府の失敗と異なり、市場機能への疑いにその基盤がある。例え市場が機能したとしても、それの結果が必ずしも望ましいものであるとは限らないというスタンスである。そしてもう一つ違うのは、コーディネーションの失敗には常に「何に対して」という質問が伴う。コーディネーションの失敗は、何らかの目的に“対して”非・合目的的であるということなので、その目的如何によっては一つの同じ事象が違った捕らえ方をされることもありうる。例えば、加熱した経済活動を沈静化させるために必要な処方箋は、産業活動を鼓舞する目的にはまったく合致しない。逆に産業を活性化させる目的をもった処方箋は、加熱した経済活動をさらに加熱させることになる。このように、必要とされる結果に対してポジティブかネガティブか、それを見極める必要がある。そしてそれがネガティブだった場合、それはコーディネーションの失敗と呼ぶことができる。



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