技術と技術


TechnologyとTechnique。この二つの単語は日本語では同じく『技術』と約されてしまうが、実はかなり違った内容を示している。今回はこの二つの違いと、その違いが導くさらなる違いをあげてみたいと思う。

「わたしの彼のテクニック、すごいんだから♪」

「あそこの寿司職人のテクニックは築地一だね」

「そこのゲームをクリアするには、このテクがいるんだ」

上記の台詞はすべてテクニック(ちなみに本来の英語ではテクニークと発音する)を示している。ここで、このテクニックをテクノロジーに変えてみよう。

「わたしの彼のテクノロジー、すごいんだから♪」

「あそこの寿司職人のテクノロジーは築地一だね」

「そこのゲームをクリアするには、このテクノロジーがいるんだ」

おまえの彼はサイボーグか?!

その寿司職人はどんなマシン使って寿司握ってんねん?!

ゲームをクリアするのに、どんな改造すんねん?!

かのようなツッコミが可能だろう。

一方で、

「このクルマは最先端のテクノロジーによって作られました」

「最新のテクノロジーをふんだんに使って、このスペースターミナルは管理されています」

という例文があったとしよう。

このなかのテクノロジーをテクニックに置き換えると、

「このクルマは最先端のテクニックによって作られました」

「最新のテクニックをふんだんに使って…」

となる。

どんなクルマ職人のおっちゃんがすごいねん!? 伝統職人か?

テクニックはどうでもいいからテクノロジーで管理せいや

といったツッコミがここでは可能だと思われる。

ではこの二つの違いはなんだろうか。

まず、テクノロジーは人には宿るものではなく、人に宿るのはテクニックだということ。

つぎに、テクニックは機械には宿らず、テクノロジーが機械に宿るのだということ。

テクノロジーが文書に翻訳されて、ネット上であれば一瞬のうちに世界中に知れ渡ってしまうのに対して、テクニックというのは口で説明しても簡単に身につくものではない。このことは端的に上記の峻別をあらわしている。

実はこの二つの違いは、産業化にとってとても重要な意味を持っている。

それは、文書化による普及が可能か、困難か、という問題に密着したものである。

当然産業化を目指す国にとっては、「技術」の吸収は焦眉の課題である。しかしその過程は比較的容易なものであることが望ましい。しかし、テクニックの吸収に関して言えば、吸収が難しいだけでなく、その普及および維持も難しいのだ。職人芸はその「人」の育成にかかっていて、悪くすると継承者の途絶とともにテクニックそのものも途絶してしまう可能性がある。現在日本で伝統文化を中心に無形国宝として伝統職人が保護されているのはそういった背景がある。

一方でテクノロジーは、文書化によって容易かつ安価、そして短期間に吸収することが可能だ。自動車産業、コンピュータ、医薬品といったものの技術は、「人」の育成を欠いても充分に伝播することができる。

その意味では、産業化の過程ではテクノロジーが重要な役割を果たす。

しかし、ある程度テクノロジーが発達したとしてもテクニックの重要性が薄れたわけではない。むしろ、テクノロジーの基盤が成立した時点以降では、テクニックの重要性が相対的に増すといってもいい。現在の日本の企業においては、人材育成の点に主眼がおかれているのはそのことを示している。

これを、裏返して言えば、産業化を果たした国においては、テクノロジーよりもむしろテクニック、つまりその「人」に宿る特別な能力が重要なわけで、他人と違った点を強調しなくてはいけないのだ。

テクノロジーが文書化によって普及できる反面、テクニックはその人本人しか持っていない。したがって、テクノロジーが発達・普及してしまった現代の日本においては、価値がある人間、企業にとって喜ばれる人間というのは、他人と違ったテクニックをもったひとだということである。

特に不況下でリストラが繰り返される現状において、「他人と同じ」であることはまったく強みにはならない。逆にその個人の固有能力、特異な点を強調してこそ活きる場所が見つかるというものだ。



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