開発経済学の焦点


開発経済学。この学問は生まれてからまだ50年とたっていない新しい学問である。したがって、何が基本的な事柄なのか、ということがいまいち確立されていない。事実、大戦後から今日までの主流派の動きはめまぐるしく変わっている。

1960年代半ばまでは先進国と途上国では経済構造が違うから、途上国は輸入代替をもって産業化および開発をすべきであるという構造主義がおおよその合意を得ていた。

しかし、それ以降は輸入代替政策のもつ非効率性が明らかにされ、市場史上主義を唱える新古典派に取って代わられた。新古典派は、現在でも世界銀行、IMFの主流を占めるイデオロギーである。それはつまり途上国であっても市場機能は存在するのであり、それを歪める政府の介入こそが開発の妨害になるという主張である。これがため、現在でもIMFから融資を受けようとする途上国は構造調整義務という名前の「自由化政策」を強制されている。これは簡単にいえば国有企業を民営化し、政府援助を廃止し、政府による市場介入をできるだけ最小のものにしようという計画である。これによって自生的な市場機能を活性化させ歪みのない市場機能を利用しようとするのがIMFの狙いということだ。

しかし、1993年の世界銀行レポート「東アジアの奇跡」および1997年度レポート「開発における国家の役割」ではそれまでの主張を半分以上覆すような変化が見られる。

それまで新古典派は政府介入を最小にすることが途上国開発に対する最高の処方だと主張してきたのだが、まず「東アジアの奇跡」では、「市場に友好的なアプローチ」は“しても構わない”という態度がとられた。これは日本や韓国、台湾など政府の支援が経済発展に対して多大な好影響を与えたという認識の上に半ば妥協的に示された事柄である。

そもそも日本の通産省、海外経済協力基金などでは政府の役割を重く見て、その介入に肯定的であり、世界銀行のアプローチには否定的だったのである。「市場に友好的なアプローチ」とは、「市場機能を歪めない範囲内」の政府介入のことであり、政府が人為的に金利調整や為替調整をしたり特定の産業に対して援助をすることは否定している。

1997年度の「開発における国家の役割」では少しばかりこのアプローチが発展し、「高い制度能力がありレントシーキング」を生まないようなシステムを構築できる国家であれば人為的な介入もやぶさかではない、という見方になった。しかし根本には、政府機能への深い疑念は存在するのである。



これに対し、アムスデン、ウェイドといった「開発指向型国家論」を展開する一派は、政府機能を過小評価している点について鋭い反論を加えている。香港や台湾では産業に対する政府介入は少なかったものの、金融市場や流通市場に対する政府の管理管轄権は強かったのであり、日本や韓国では特定の輸出産業に対して強い支援があったから“こそ”高い経済成長がなし得たのだと考えているのである。

このように、現在は政府の機能をどのように評価するのか、という点が議論の焦点になっている。しかし単純に一般的な政府の機能について議論するのであれば、結局政府の失敗と市場の失敗のどちらがより重いか、という点に終着してしまうのであり、結局はこれまでの議論を繰り返すことになってしまう。

そこで新しいアプローチのしかたが必要になる。ここで僕が新たに示したいのは、企業の技術革新能力と市場の利益可能性についてである。そもそも途上国にしても先進国にしても経済成長の主人公は紛れもない「企業群」である。この企業をもって経済が成長するのであって、主人公は政府でもなければ市場でもない。

では企業はどのように成長するのか。そこが新たなポイントになる。まず、ポーターがいうように国の競争力というのは企業がどれだけ自らを「グレードアップ」、「自己革新」するか、という点にある。簡単にいえばある国の競争力はその国内の企業が組織改革・技術革新をするか、という点にあるということだ。

しかしこれは環境が決定する要素が多い。もしこの企業が保護された産業において新規参入者や海外有力企業の脅威を受けずにいれば経営努力を失って、保護に頼る企業に成り下がる。一方で国内に熾烈な競争があった場合は国際レベルの競争よりも国内競争が激しくなり、国がもつ競争力はまさに国内の熾烈な競争のために向上されるのである。

したがって、まず結論としていえるのは、国内企業の競争力は国内市場競争の激化によってもたらされるということである。このことは、日本国内に有力自動車メーカーが激しい競争を構成し、大手家電メーカーが熾烈な開発競争をしていることからも伺えよう。逆に厚生省に保護された医薬品産業は国際的な競争力を失い、日本最大手の武田薬品ですら国際的には中小企業レベルになってしまっている。

ここで一つの問題が浮上する。では、政府はどうやって国内市場競争を刺激することができるのだろうか。政府がいかにして国際市場競争を刺激させうるか、というのがこれまで議論になった途上国開発問題への一つの解になるように思える。

まず、企業は生産性を上昇させることで他社、他国企業への優位を得る。そしてその生産性の向上は、「技術革新」と「獲得市場シェアの拡大による規模の経済」の二つの方法によって達成される。前者の技術革新とは、「生産量が一定のまま新しい生産手段によって生産コストを下げること」であり、後者は「生産手段は一定のまま生産量を増やすことによって生産コストを下げること」である。(この場合、生産手段は組織運営を含み生産コストには目に見えないコストも含む。)

そこで、企業は生産性を上昇させる可能性に対して強い興味を持つのである。簡単にいえば、新しい技術、開拓された新しい市場というのはまさに「利益可能性」であり、それが確実であるほど、企業はそこに進出する活力を得るのだ。

もし市場が未発達であり、情報インフラも不徹底で、「何が新しいPCの規準になるのか」わからなかったり「市場が何を欲しているのか」わからなかったり、「どれだけの市場があるのか」わからなければ、企業は投資のしようがないのである。

したがって、政府は企業に対して「新規規準技術」や「新規外国市場」を利益可能性として示すことで企業を刺激し、企業はそれによって成長するのである。もちろんここでそういった“超”企業的行為(=新規規準技術の確定や外国市場の開拓)は各種産業団体などでも担えるし、抱える情報量の点からむしろ政府よりもそういった産業別団体のほうが望ましいともいえる。

しかし大半の途上国ではそういった産業別団体が発達している場合は希少であり、市場や産業自体が未発達の場合が多いのである。



このように見てみると、政府の役割は「産業」や「個別企業」を保護することではなく、新たな利益可能性を示すことで「市場内競争」を激化させることにあるのではないだろうか。事実、戦後の日本で取られ、成功したと見られる政策の多くは「輸出実績のある企業に対して」褒美を与える、といった形式の支援策であり、この場合は保護による非効率性よりも産業内競争の激化をもたらしたのである。

世界銀行やIMFなどの新古典派が犯している過ちは、すべてのタイプの保護をひっくるめて非効率性の温床と決め付けているところにあろう。そして途上国の開発の根源にあるものが企業ではなく未発達な市場取引であるとしている点も誤解の素となろう。

もし保護や介入が競争を刺激するタイプのものであれば、企業はむしろそれに乗って国内競争を進化させ、国際競争でも充分に太刀打ちできる技術と能力を身につけるのである。これが国の経済成長に貢献するのは自明だろう。



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