「危機意識」と「少数意見の尊重」と「狂人」



僕の好きな作家の一人に中島らも、という方がいる。本来は放送作家で劇団座長だったりするのだが、この人の本は笑えるしそれ以上にうなずかされることが多い。本人が嫌っているようなのでこの言い方は失礼だと思うのだが、ある種、知的啓蒙者のような感さえある。

僕はイギリスに数冊、この人の文庫本を持ってきた。そして、「ビジネス・ナンセンス事典」(集英社文庫)のなかの「地動説」というページに、こんなくだりがある。

人間の行動は一種の経験則と帰納法にのっとって働くようになっており、そういった状況の中でコペルニクス的転回をしてみせる、「それでも地球はまわっている」と言い出す存在というのは一種の狂気に近いものである。(中略)
しかし、(企業の停滞の時期に)必要なのは、天動説をより精緻に高める人物ではない。いわば一人の狂人、一人のガリレイなのだ。

これはつまり、天動説が常識であった当事において、地動説を唱えたガリレイは完全な狂人、異端者であった。しかし、じつはその狂気こそが行き詰まった現状を打破する唯一の手段である、ということなのである。シュンペーターの言葉を借りれば、「外部圧力による革新的かつ創造的破壊」ということになろう。

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どうあがいても窮状から脱却できない、という場合は、それの存在基盤自体に限界がある場合がほとんどである。たとえば身近な例でいえばNECPC98シリーズからNXシリーズへの転換。

事後的にみたら当然の選択だったかもしれないが、当時においては独自アーキテクチャを捨てるという考えはかなり画期的だったはずである。

ここで考えてもらいたいのは、1997年当時でPC/AT互換機への転換は現実的だっただろうけども、1992年時点でその考えをもったNEC社員は狂人扱いだったであろう点だ(間違ってたらごめんなさい)。これはいささか誇張かもしれないが少なくとも主流派でなかったことは確かである。

WINマシンの台頭とそれに応じたDOS/V規格の一般化。それに対しておそらく先見の明があった社員も少なからずいたはずだろうけども、彼らの言葉に耳を傾ける上層部が現われるのは、富士通にシェアを食われてから後のことである。

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あるいは年功序列と終身雇用についても同様のことが言える。現在ではこれらが縮小される傾向にあるが、20年前にこれらの持つ弊害について注目した人、あるいはそれに耳を傾けた人が何人いたことだろうか。

これと同じことは企業以外、社会構造のなかにも見られる。バブル期の常識として、「おカネは運用するもの」というのがあった。おカネは貯めこまないでどんどん土地や株に投資すべきだ、という価値観である。

翻って現在はその価値観は影を潜め、むしろ冷眼視されるおもむきすらある。それはむやみな土地投機の弊害を世間が知ったからだ。しかし、当時ですら一定レベル以上の土地投機に警鐘を鳴らす人はいたはずであって、世間が目を向けなかっただけにすぎない。

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このように、窮状が限界にきて初めて人は存在基盤に疑いの目を向けるのである。しかし、もし初めからその限界についての意見に目と耳を向け、ある程度の疑いを持っていたらどうだろうか。

国内のみに限られたPC98規格や、習慣化した雇用システム、あるいは過度の土地投機に対して、必要以上の信頼を与えなければ、もっと早期に対応ができたのではないだろうか。

あらゆる環境に対して最も有効なシステムや規格というのが存在しない限り、アーキテクチャにしても雇用システムにしても、外部環境の変化に応じてそれ自体変化しなくてはいけない。

したがって、「コレが普遍のモノ」であるという信念を持つことは柔軟性を失い、対応を遅くしてしまうだけなのである。

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おそらく、モノゴトがうまくいっているあいだに、それらモノゴトについて危険信号を発する人は「狂人」であり、主流からはずれた異端・傍流であり、少数意見には違いない。

しかし企業がそういった一部の「狂人」を大事に抱えることは、窮状に陥ったとき、陥りそうな時に間違いなく役に立つはずである。

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これと同じことは、一人の人間の中においてもいえることである。これまで自分が依拠してきた常識というものについて、幾分かの疑いをもっていれば、それらに縛られることなく窮状を打破することができるのではないだろうか。

常識にしたがって窮状に陥った場合は、常識をより高めるのではなく、いっそ常識を覆すことのほうが大切なのである。そして、常に常識に対して疑いをもっていればなお迅速に対応できるということでもある。

現在の日本は閉塞した窮状にある。しかし逆にいえば今はそういった旧来常識の破壊、次の成長のスタート時点、組織改革の時期であって、ここを適切にこなせば、次の30年は安定した成長が望めるはずである。

この閉塞状況で、僕は「一人一人の危機意識を尊重すること」が常識になればいいと思っている。そしたらどんな危機状況に陥ろうとも、最終局面ではなく初期場面において対応できるはずだから。



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