求められる人材


独自の学校教育目標というのは得てして「理想的な卒業生の人物像」に集約される。つまり、学校がどんな人間を作り出したいのか、その点を見れば学校の教育目標が把握できる。多くの場合、それは「個性の尊重」、「豊かな人間性の構築」といったキレイ事の裏に「社会に役立つ人間」というのが存在する。卒業生が社会に出て高い評価を得れば、それがその学校の評価の向上につながるからだ。多くの学校の場合、特に地方の公立学校に見られるのは、キレイ事を差し置いて本音を貫いてしまうケースがあるのは憤慨すべきことだ。坊主刈・おかっぱの強要、「おまえんとこの学校おかしいんちゃうか?」と思わんばかりの馬鹿げた校則。これらはすべて社会に出てから杓子定規かつはみださないように生きていけよ、という学校の教育なのである。

ちなみに僕の高校の創始者菊池龍造先生は、「頭脳の資源化」という名言を残していかれた。実はこの言葉の含む内容は当時としてはかなり先見の明がある。それはこれから説明しよう。残念なことに、現在の多くの私立学校はこの言葉を「学力の集積」と穿き違えているようだが。

さて、この「社会に役立つ人間」というのは社会の構成次第で変化してしまうものだ。求められる資質は、求める側の状況によって変化する。これは至極当然のことだろう。その社会構成の変化というのは主に会社組織、経済環境によって規定される。この上記の「社会に役立つ人間」というのは、一般的に「会社に役立つ人間」と言い換えてもほぼ同義だからだ。会社に就職しない、もしくは経済的活動を行う集団組織に組しない社会人というものについては、実は学校は「いないこと」「ありえないこと」にしているのがほとんどだ。たとえば、画家、漫画家、作家、音楽家、歌手、役者、旅人、料理人といった職業が一部の人間を除いてほとんど大成しにくいのが原因であろう。本来「個性を尊重」するならばこういった技能職を差別するべきではないのだが。

この経済環境を戦後の日本を歴史的区分によって説明する。日本の場合概ね三つに分けるのが適当だと思われる。この区分にあたっては、高度経済成長期と低成長好景気、低成長不景気といった軸によって分けてみた。

【戦後〜石油ショック】

この時期はいわゆる高度経済成長期にあたり、商品市場が拡大されていった時期である。ひらたく言えば、「作れば売れる」という時代だった。大量生産を行えばカネが入ってきたので、従業員に求められた資質は「文句を言わずにがむしゃらに体を動かす」ことであった。生産高をあげることが当座の目標だったので、余計な知識や「個性」なんてものは必要なく、ただ五体満足なカラダだけが必要だった。これは工場の従業員だけでなく、一般のサービス産業においても同様である。数をこなして販路を拡大することが最重要課題であって、その内容や商品についてはどうでもよかったのだ。この時期のその傾向が「無個性」で「我の弱い」人間を社会に送りこむという悪癖を学校に残したと考えられる。

【石油ショック〜バブル景気】

この時期、大量生産が経済成長を促す、ということが不可能になった。市場が飽和し、作ったところで売れなくなってしまったのだ。そうなると、いかにして商品に付加価値をつけ、よそのシェアを奪うかが競争のポイントになる。これが例えば、流通システムの効率化だったり生産システムの改良だったり、新しいオプションの提案だったりする。いわば生産過程を改良することが当座の企業目標になったのである。この時期に必要な人材は「どうやってモノを作るか」ということを考えられる人間だった。しかし、飽くまで「他所のシェアを奪う」ことが目的なので、対象にするのは既存のマーケットである。その意味では、依然として既存技術に依存するところが大きかったのである。いうなれば「工夫」する能力が求められたのであった。

【バブル不況〜現代・近未来】

現在、リストラの対象となっているのが何の個性も主張もない「我の弱い」人間たちばかりであることは有名な話だ。これは高度成長期にはありがたがられた「無個性」のなれの果てである。唯一にして必要充分条件であった「人並み」であることが、逆に足かせになってしまったのだ。これはなぜだろう。まず、現代のマーケット構造は地球規模の大競争時代に突入したことも相俟って非常にダイナミックなものとなっている。昨日の勝者が今日の敗者、明日には再び勝者、という構図も珍しくはない。加えて、「工夫」して対処してきた既存のマーケットももはや静態的ではない。企業の戦略一つ、産業構造の変化一つで大胆に市場構造を変化させてしまう。昨今の世界規模での医薬品会社の合併や、金融ビッグバンを見てもその一端が見えるだろう。このような環境下では各企業に求められるのは「新しい意見」であり、「他者(他社)にはない思考」であり「大胆かつ斬新なアイデア、企画能力」である。それに対応して人材面においても「個性」を重要視した採用にならざるを得ない。すなわち、学校側に社会が求めるのはもはや「無個性」でも「人並み」であることでもなく、旧態依然とした環境を創造的に破壊できる発案能力であり、モノゴトを多面的に評価できる能力であり、それらを実行に移すことができる行動力である。もちろん学力的なバックボーンがあるほうが望ましいが、それは二次的なものにすぎない。

 

再び菊地龍造先生の言葉に戻る。「頭脳の資源化」。話は少しわき道にそれるが、一般的に産業に必要なものは資本(カネ)と場所(生産現場&マーケット)と労働力(ヒト)である。この三つのうち、カネとマーケットは意外とたやすく外国に移すことができる。東南アジアに日本企業が進出していったり(資本の移動)、アメリカでクルマを作って売ってみたり(生産と販売の移動)する例を見ればわかるだろう。しかし、ヒトの移動というのは実際に飛行機に乗って他所の国に行きそこで生活をしなくてはいけないわけだから、多数労働者の移動は簡単ではない。あるいはイギリスのように強く海外労働者を排除する国も存在する。日本の国民がそろって外国に行くなど考えるのは不可能だろう。したがって、一地域の経済発展を考えてみたときに、一番安定的かつ重要なことはヒトを育成することである。しかもそのヒトは地域経済が必要とする資質を備えていなくてはいけない。もしキレイ事の裏に「社会に役立つ人間」の育成を学校が意識しているのならば、それこそほんとに有用な人材を育成するべきだろう。旧態依然とした意識に縛られて政策の転換ができないのは、まさに「意思決定の失敗」としかいいようがない。



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