改善努力と問題意識とダメ人間


世の中にはダメ人間がいる。社会の発展というものを考えたとき、このダメ人間は非常に強いブレーキとなって、よりよい社会発展を阻害するのである。マクロ的視点からすれば人類全体に対して迷惑であり、ミクロ的視点からすれば、一組織内で役に立たない人となる。

まず、

ダメ人間とは「現状に満足しきって今後の改善を求めない人」のことである。言いかえれば、問題意識に欠落している人といってもいい。これには二つの理由がある。一つは、完全に発展しきった人間はいないということである。たとえ現時点での結果が運良く合格であったとしても、次回は保証されていない。ましてや、環境がダイナミックに変化することを考えれば、改善努力は怠るべきではない。このことは例えば組織改革においても、技術的な革新においてもいえることである。ある企業の営業成績が、現時点で良かったとしても、次期にはどうなるかわからない。あるいは、他企業の戦略一つで競争環境は変化するのであって、その都度柔軟な対応が必要なのである。ここで、そういった問題意識を持たずに、安穏と満足してしまう人々は、イノベーション能力に欠けているといわざるを得ない。

もう一つの理由は、

モノゴトを見る多角的視点を失っている点に求められる。実は一回性の結果主義というのは、この点に弱点がある。現時点での結果が良いイコールすべての過程が肯定される、と考えるのは結果主義の弱点である。その過程のなかで、何が重要なファクターであるのか、何が不必要なファクターであるのか、何を改善すればよりよい結果が得られるのか、といった多角的な分析を怠った場合は、違ったパターンには対応できない。なぜなら彼にはフルパッケージでしか理解し得ておらず、部分的な理解が欠けているからである。当然、モノゴトは変化する。部分的な変化に対応して、当事者行動も変化させていかなくてはいけない。しかし、多角的なモノの見方ができなければ、“部分”変化に対しての大局的かつ柔軟な対応が不可能になってしまう。もし、部分変化の積み重ねとそれに応じた逐次の革新をイノベーションと呼ぶのなら、やはりイノベーション能力に欠けているといえよう。

タイプライターの事例がよく挙げられる。ワープロが普及する前はタイプライターの市場はα社の独占市場だった。しかしα社は独占的マーケットを搾取することで満足し、技術革新や新たな市場開拓、そして環境の変化を看過してしまった。問題意識とイノベーション能力に欠けていたといえる。そしてワープロ時代、PC時代になり、もはやタイプライターそのものが時代遅れのものとなったことは、そのままα社の凋落につながったのである。環境の変化に敏感になって、ワープロの開発、PCの開発に事業を展開していれば、このような凋落はなかっただろう。このように、「現時点での結果」に満足してしまうと、刻々と変化する市場ニーズに対応できなくなってしまうのだ。このような理由から、改善努力と多角的分析視点に欠ける人はダメ人間と考える。

しかし、ここで次のような問題が浮上する。その両者、自助改善努力と多角的分析視点はどのように維持したらよいのか、という問題である。これらをうまくコントロールすることが、そのまま一組織の目的遂行能力や組織改善能力、ひいては組織の競争力に結びつくのであるが、これは一番難しい問題である。逆にいえば、これさえ上手にシステム化してしまえば、その組織の競争力は当分維持されるのだろうが。

この点で、貴重な意見をいただいた。巨乳談義で有名な(笑)YB氏からである。この手のメールは、実務経験がない僕には非常にありがたいものである。以下、引用してみよう。

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我が社でもこの4月より本格的に「成果主義」なる人事が適用されようとしています。現在保有している能力、キャリアではなく、与えられた、また自分で企画した課題に対して結果的にどれだけ成果を上げられるかというものです。「その時点での実力」が問われます。それこそ、その都度臨機応変に対応していかなければ成果は上がらないことでしょう。従来の「均一」ではなく「斬新で画期的なアイデア」や「それを実行する行動力」「多様な人間の協力を得る対人均衡能力」などが必要不可欠であると思います。いわゆる今までのタブーとされてきた「個性」を発揮しなければいけないわけですが、現実はそんなにはあまくはないように思います。没個性の時代で仕事をしてきた人間が今、「個性尊重」の年代に育ちつつある若手を管理しているのですからジェネレーションギャップを感じて押さえつけるのは目に見えています。昨今、この「実力主義」を導入している企業は多いですが実態は表向きだけではないでしょうか?(私の友達は殆ど、表向き実力主義で内情は年功だと言ってます。)

よく「今のわかいもんは・…」と言うセリフを聞きますが「そういってるあなた方も若い時に年配の方々に言われたのではないですかな?」と問いたいです。また、私たちがいわゆるベテラン年代になったらはたして、その頃の若者を理解できるかどうか?と言われたらこれも正直わかりかねます。ただ、これからの日本に必要になってくる「異なるものを受け入れる器」を鍛えておけば多少なりとも緩和できるとは思いますが。「過去の常識は今の非常識。今の非常識は未来の常識」誰もが聞けば、ああそうかと言いますが実際問題として実践できていないことは悲しいことです。

それから「企業改革」についてもこれも私自身いろいろ試行錯誤して企画を上長に挙げてはいますが、なかなか徹底できていないのが現状です。(中略)

それからもっと導入が進んだほうがいいのでは?というのに「ワークフロー」というものがあります。これは一連の手続き業務を電子ネット上でやり取りしてしまおうという代物です。(中略)ただ便利なのはいいのですが、これを実現しようとすると大きな壁が立ちはだかります。それはいわゆる

「はんこ文化」がもたらす弊害です。書類はすべていくつも上長を経由してしかもすべて「はんこ」が押されていなければなりません。年配の方にいわせると「電子的なもの」には重みがないそうです。一昔の「パソコンできなければリストラさせる」現象でパソコンやシステムを使うこうとが「目的」となって現状でもいまだそれを引きずっている感じがします。今はもう「手段」として使う段階であって定常業務をその「手段」を用いて簡素化できるならそれはそれでいいと思いますが、なぜ昔のやり方にこだわるのか不思議です。

その点ではソニーはすばらしいと思います。上層部もある意味プロに徹してる感じがします。敢えて

「出る杭」を伸ばすことが会社全体を伸ばすことと知っています。東芝も最近がんばってますね。

話がそれましたが、今後は「常に歩みを止めず、絶えず古いものを壊していく」ことを心がけたいものです。こと「情報・通信・コンピュータ業界」はその進歩は恐ろしく早いです。常に技術革新という終わりのない戦いを続けていく必要があります。「知識で裏打ちされ、実戦で鍛え上げられた修羅の剣」のみが自分を守るものと信じて。

(太字・赤字はHP作者による、引用ここまで)

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やはり最前線で働く人の言葉というのは重みがあるし、含蓄もある。まず、ここで上記に見える「成果主義」というものを説明しておきたい。これはおそらくヤードスティックコンペティションの一種だろうと思われる。すなわち、他人との競争ではなく、自分の中での競争といってもよい。そしてその成果については第三者が評価をするというものである。主に、競争分野が個別化されている場合に使われる競争の種類である。新古典派では、競争メカニズムによって技術革新は生まれると考えられている。もちろん言うまでもないが、この技術革新には組織改革や、意思決定過程に対する革新も含んでいる。

そして重要なことは、この成果に対する評価は繰り返し行われるということである。つまり、上記で説明した一時的な結果主義ではなく、継続的な問題意識を要求されるのである。これによって、一時的な現状満足によるイノベーション能力の低下を防ぐことができると思われる。

ただ、総じて壁となっているのが、

旧態依然とした「習慣性」である。上記に見えるように、年配上司による「はんこ文化」や「出る杭を打つ」組織風土は、いまだに健在で、これらが払拭されない限り、創造的破壊が効率よく行われる可能性は低いだろう。あるいは、その依然性に問題意識を持たない限り、そうした従来の文化が破壊されていくこともない。これらに闇雲に依存する人たちは、問題意識に欠けているという点ではダメ人間といってもかまわないだろう。

もちろん、旧いものがすべて悪いとはいわない。習慣化されているモノゴトにはすべて理由があり、存在している以上は、必要とされた背景があったはずである。しかし、それらの背景や環境が依然として残っているか、あるいはその習慣にいまだに効力が残っているか、という点については常に監視しなくてはいけない。多角的分析能力に欠けると、それら習慣をすべて良いもの、残すべきものとして扱ってしまう危険がある。なぜそれらが必要なのか、あるいは不必要なのか、常に変化する環境を前提にして、意識していくことが必要である。


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外国にいけば、日本では考えられないような常識もあるでしょう。それを「おかしい」ととらえるか「ここではこれが常識」と一切の味付けもせずありのまま受け止めるか。

いろいろな知識(材料)をかき集めて知恵(料理)をふるってください。そうすれば、すべての旨みを凝縮した成果物(スープ)が生まれるのではないでしょうか。

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加えて、留学に関してこのような実に的を射た言葉もいただいた。まさにそのとおりだと思う。

多角的分析視点にはいくつか条件がつく。それはまず、情報ソースについては特に限定をかけずに、貪欲にかき集めるということである。情報ソースの出所についてとやかくいう必要はないのである。一見して「おかしい」「非常識だ」と思われるような情報のなかにも、有用なモノは絶対に埋まっているはずであり、咀嚼して吟味する必要があるのだ。もしその有用なモノを見抜けなかったとしても、「何か得られるモノはないか」という姿勢を保つことは、そうでないのに比べ、まったく価値が違う。初めっから否定してかかってしまえば、あるはずのモノも見えなくなってしまうのは当然だ。

ここから一つの結論が得られる。価値ある創造的破壊は多角的分析視点に基づくが、その多角的分析視点も、己のなかの創造的破壊から始まるのである。つまり、自分のなかにある既存の価値観を疑ってかかるところからすべてが始まるのであり、これなしには、組織改革も自己改革も技術革新もありえないのである。




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