学歴は必要か?不必要か?


先日、こういう

高卒差別・学歴偏重のHPを見つけた。作者はこのなかで自己紹介(自慢?)としてマサチューセッツ工科大学出身でニューヨーク在住と言っているが、おそらくウソだろう。見る人をからかっておこらせて楽しんでいるだけに違いない。これを読んでいておもったのだが、学歴というのは使い途があるのだろうか。

正体がバレるのは避けたいし、あえていうこともないので、控えめな表現をするが、僕の大学はこの

URLに見える大学である。僕はこの大学は大好きである。首都にある某T大よりも締め付けは緩いし、何を勉強しても、あるいはしなくても許されるところがある。だが、その『好き』というのは僕の個人的な感想であって、世間に強要するものではない。一般に、『学力的』には偏差値の高い大学とされているが、僕にはそんなのどうだっていいのである。僕が好きなのはこの自由な校風、大胆で自学自習を重んじる習慣があるからなのだ。だからたとえ学力的に偏差値が低くなろうと、問題ではない。

しかし、世間は学力が高いイコール人間的にも素晴らしい、と勘違いする人が多い。それが間違いであることは先日ウチのバカ学生が毒物を販売していたことでも明らかである。この勘違いのおかげで僕もいい目にあってることは確かなのだが。え? どんなときかって? 重要な局面ではそんなに得したことはないのだが、例えば、女のコの家に電話して親が出たときに、気分よく電話に応対してもらえるということくらいだろうか。あるいは、学歴でナンパしている某私立

KOW大の連中に小バカにされて、言葉のうえで復讐するときくらいだろうか。ピアスを二つ開けているからかどうか知らないが、案外賢く見てもらえないので、「おまえ、どこの学校いってるの?」と言われることもたまにあるのだ。別に賢く見られたくもないし、自分の行ってる学校をひけらかすのもかっこわるいので、必要なとき以外は学校名は口にしないのだが、こういう学歴偏重者に出会うと逆に攻撃したくなってしまう。基本的たいがいの大学には友達がいるので、学校差別はしないのだけどね。

一概に言って、学歴というのはかなり狭い一面を語るだけのような気がする。有名私立大学を出たとしても、エスカレーターで小学校から登っているのなら、学歴的に大学受験をくぐった人よりも劣るだろうし、よしんば有名大学に合格したからといっても在学中マージャンに呆けていたなら、それなりに学力も低下する。もちろん学力だけがすべてではないのは当然で、東大からも京大からも慶応からも数多の犯罪者を輩出している。つまり、学歴というのは、学力的側面のうちでもさらに狭い一面しか語らないのである。

トータルで一人の人間を測ることはおそらく不可能だろう。人間はいくつもの顔を持つし、見る人によってそれぞれの側面に対する評価も違うだろうからである。だからそれを数値で比較できる学力に置き換えてしまいたくなるのはわかる。比較できない要素を捨ててしまった後に残るのは恐らく学力だけだろうからだ。ただ、問題は、その過程を忘れて、学力イコール人間性としてしまう点だ。もちろん、この捨てられてしまった要素のうちには『創造力』『発想力』『行動力』『主導力』『向上心』など重要な要素が含まれていることは言うまでもない。特に、『やさしさ』というのは数値にはできないが、社会で人と接して生活する以上大切なものであろう。これらを忘れての学力偏重というのは、まさに本末転倒であると言わざるを得ない。

結論をいってしまえば、学歴はまさに学力を測るメジャーのひとつにすぎないものであって、それが役に立つのは学者の世界だけであろう。企業に必要な要素のうちの一つでもあるかもしれないが、他にも必要とされる“力”はあるわけで、これがすべてではない。

学歴を偏重したがるあなたに言いたい。

『学歴ではパンも買えない』

これは、「学歴なんて何の役にもたたないから、さっさと働いてカネを稼ぐんだよ」といううちの姉の言葉である。正論かもしれない。



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