奢侈的消費と経済規模


経済の規模を計測するにあたってはいくつか方法がある。いちばん数字にして分かりやすいのが

GNPGDPといった経済指数であり、ほかには貿易収支、特許の数、通貨為替相場、株価などがあげられるだろう。しかしこれらはすべて数字であって、それら指数が示すものは抽象的な比較物にすぎない。さらにいえば、これらの数字はそれぞれ特定の前提に基づいて計算されたものであって、果たしてそれが正しい事実を伝えているか、というとそうでもない。特に産業化に関しては外資誘致や政権維持の観点から恣意的な操作が行われることもしばしばあるからである。仮にそういった恣意的な操作がなかったとしても、生活感に即したものとはかけ離れることが多い。たとえば身近な例でいえば、バブル不況のおりでもい経済企画庁は景気が悪いことを認めようとはしなかった。これはまあ、心理的な問題も含めて、ネガティブな評価をしなかったということもあるのだろうが…。だって、「あなたはガンです」っていわれたら、仮にうすうす気がついてたとしても、気落ちするだろうし、それがさらなる病状悪化につながることもある。

さて、今回ここではそのような経済指数とは別に、経済の規模を知る手がかりをひとつ紹介したいと思う。そもそも各産業にはそれぞれ特徴がある。たとえばコメの生産やトイレットペーパー、医薬品などの生活必需品は景気の変動をあまり受けない。それは、景気の善し悪しに関わらず、それらを消費する量が一定だからである。いくら景気がよくなっても一日に食べるコメの量は増えないし、景気が悪くなったところでトイレットペーパーの消費量を抑えるわけにはいかないからだ。逆に、これと正反対の産業が存在する。水商売、タクシー業、高級レストラン、高級ホテル、観光業などのサービス業である。これらに共通することは、景気によって産業全体の業績が左右されてしまうという点である。好景気のときには投資以外のお金がこれら奢侈的消費に使われることが多い。バブル時代、赤坂、六本木などの高級クラブがおお流行りしたことが記憶にあるだろう。しかし逆に、不景気になったとき、一番に削られる費用であるために、不景気にはとことん弱い産業でもある。なぜならそれらへの消費はなくても構わないからだ。生活必需品や、あるいは必要経費は削ることができないが、これら奢侈的消費は削ってもなんら問題はない。タクシーを使わなくても電車で移動目的は果たせるわけだし、高級クラブに通わなくても、企業経営にはなんら影響はないのである。バブル不況下で、これら奢侈産業が痛手を蒙っている状況がまさにそれである。

そこで、この理論を、経済規模を測るために使ってみたいと思う。それはすなわち、奢侈的産業の規模を見れば、経済全体の健康状態が一面的であれ把握することが可能だということだ。最後に使われるカネ。それが奢侈的消費だろうとおもわれるのだ。

おそらく奢侈的産業の規模は、その地域の歓楽街の規模を見ることであるていど知ることができるのではないだろうか。例えばロンドンでいえば

SOHOであり、東京でいえば歌舞伎町にあたる。もちろんそれ以外の対象地域をもってもいいのだが、ここでは最大級のものをもってくるのが一番だろうということだ。札幌でいえばススキノだろうし、大阪でいえば、キタ新地ということにでもなるのだろうか。これら地域を比べた場合、おそらくロンドンのSOHOはススキノにも及ばないだろう。歌舞伎町にははるかに遠く及ばないのである。それを考えた場合、いくら日本が不景気だからといって、いまだに健在な歌舞伎町をもってすれば、そんなに危機的状況ではないのではないかとも思えてしまう。もちろん昨今の中小企業の破産状況をみればそんなこともいってられないのだが、イギリスと比較する場合ではまだはるかに健康であるといえる。まあ、比較対象次第で上をみたり下を見たりすればきりがないのだが…

個人的には、このバブル不況、勢いが激しすぎる部分には問題があるが、奢侈的消費を戒め、かつ不断の経営努力をしなかった企業への罰としてはいいクスリになったのではないかと思う。新しい技術をもって高付加価値生産を実現化する、技術革新能力の向上を怠け、規模の経済の拡大のみに腐心した場合、結果はこうなるということだ。やはり、不断に“新しい技術・アイデア”を生み出して組みこんでいかないと、いずれ競争力を失ってしまうのだ。



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