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Occasional Thoughts Around Books

by MORI Hiroshi
Aug. 1999


飛ぶことで見えるもの


 大空を自由に飛び回りたい、という欲求は、おそらく自由にものごとを考えたい、という欲求に近い。

 人間の歴史は、常にこの「自由」を模索してきた。動力をつけて滞空し、姿勢や方向を自由にコントロールできる飛行機が発明されて、まだ100年足らずの歴史しかない。飛ぶことによって、人間は何を手に入れたのだろう?

 遠くの人と話をしたり、過去の出来事を克明に記録したり、膨大な計算をして瞬時に未来を予測したり。あらゆる「超能力」をゲットした現代人も、空を自由に飛び回ることはできない。技術的に可能になったというだけの段階で、相変わらず極めて一部の人間しか飛べない。一般人は、ろくに外も見えない窮屈なシートに座らされ、ベルトを締めろとおどされて、知らない人(そう、顔も見えないのだ)に所定の場所まで運んでもらうのだ。ペットがよく入っている篭と同じ。あれでは「飛行」とはいえない。新幹線の窓際に座った方が、よほどフライト感が楽しめる。

 しかし、ただ独り雲の上まで舞い上がることのできた人たち(それも飛行技術の萌芽期に)というのは、ある意味で「人間」を超えた存在に近づいたことだろう。

 当然ながら、同様の現象はあらゆる分野で体験できたはずだ。たとえば、棋士の思考、数学者の発想が、こういった体感を伴うものと想像する。思考による浮遊こそ、最も人間的な「自由」であるとも信じている。しかし、実際に空を飛ぶ行為ほど、「浮遊」「孤独」「生死」といった実現象とシンクロするものは珍しい。もう少しデフォルメすれば、文字どおり雲の上の「神の領域」に足を踏み入れる、と表現しても良いだろう。そこに象徴があり、そして実は何もない。

 難しくなってきたな・・。

 さて、今回紹介するのは、ロアルド・ダールの「飛行士たちの話」。この淡々としたリアリティこそ、凄まじい人間性の描写である。比較して、最近のドラマ、映画、そして小説がいかに媚びた「見世物」に成り下がったかが知れよう。同様に、数十年まえの世界的ベストセラー、リチャード・バックの「かもめのジョナサン」の切れ味も秀逸だった。この創作がベストセラーになったとこと自体、現代人もまだまだ捨てたものではない証拠といえるだろう。このセンスがわかる「人間」でありたい。あり続けたいものだ。それこそが人間の「飛行能力」であろう。さらに、最近CDにもなったサン・ティグジュペリの「星の王子さま」。有名過ぎるこの絵本。しかし、最後の1行をあなたは知っているか? 最後のページをあなたは思い出せるか? この種の本を子供に見せても無意味だ。人生の後半に読む名作である。

 さて、お気づきのことと思われるが、これら3人の作家たちは、いずれも飛行機乗りだった。彼らが乗ったのはプロペラを回して飛ぶ道具だ。あのでっかいジャンボなんとかという機械ではない。計器やコンピュータではなく、人間の勘がそれを飛ばしていた時代だった。彼らはいったい雲の上で何を見たのか。それが、これらの3冊の本に現れる「人間の孤独」だろうか。

 一方では、その翼を作った人々がいることも忘れてはならない。発動機を改良した人、プロペラの効率に挑んだ人、もちろん機体の設計をした人も、飛んだも同然である。飛行機の美しさとは、「形がすなわち性能である」点だという。乗物の中でも、飛行機の条件の厳しさは最上級であろう。ぎりぎりのデザインが強いられる。何故それが美しいのかよくはわからない。しかし、そう感じられる人間の感覚こそ素敵ではないか。

 惜しくも亡くなられた佐貫亦男博士の著に「飛行機のスタイリング」という一冊がある。博士は、洗練度が足りない飛行機をしばしば酷評された。優れたスタイルの飛行機はそれに乗る人間を鼓舞する、と幾度も書かれている。デザインの目的は本来そこにあるだろう。

 否、すべての創作、すべての美の動機が、そこから発しているに違いない。  



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